2011年03月28日

広がる世界の原発見直しー今日の新聞批評(3月28日)

昨日の日経新聞に続き、今日は朝日新聞が「逆風 世界の原発」、毎日新聞は「広がる原発見直し」を特集している。
昨日の日経新聞とできるだけ重複しないよう、両新聞の内容を紹介しておく。

2010年1月現在で世界で稼働中の原子炉は437基。最も多いのが米国の104基。2番目がフランスの57基。3番目が日本の54基。
09年は世界の総電力の約14%を原発がしめた。
<ドイツ>
ベルリンなど4都市で「原発とめろ」のデモ行進が行われ、25万人が参加。反原発の歴史の長いドイツでも最大規模のものになった。
14日の世論調査では即座、または5年以内に全ての原発を止めるべきだ」との意見が63%を占めた。
<オーストリア>
もともと反原発政策が国是。政府は22日、欧州全体の脱原発化目指す「反原子力行動計画」を発表した。
欧州の全原発に対して耐震性などのストレステストの実施を要請。原発事故発生時には操業者側に国外の損害にも責任を負わせる考えだ。
<フランス>
欧州最大の原発大国フランスの脱原発機運はそれほど高まっていない。原子力への支持は与野党問わず浸透している。国際原子力産業が生み出す利益と雇用を無視できない事情もある。
しかし、政府は福島原発事故を受け、安全性強化に力を入れる姿勢を示した。サルコジ大統領は耐震性などのストレステスト実施で合意したと発表し、「不合格になった原子力は廃炉にする」と踏み込んだ。
<スイス>
新規原発の審査を一時中止したスイス。直近の世論調査では反対派が87%を占めた。2年前は賛成派が73%で、賛否が逆転した。
<ロシア>
原子力の輸出に力を入れるロシアは、脱原発の流れが強まることを懸念。福島原発事故後も、隣国ベラルーシと原発の共同建設を打ち出し、反原発の勢いに歯止めをかけようとしている。
メドベージェフ大統領は、原発の安全性に関する国際的な統一基準をつくるように提案し、大地震や津波の起こる可能性のある地域では原発建設を制限すべきだと述べている。
<イスラエル>
ネタニヤフ首相は同国初の商業用原発計画の中止を表明。同国沖で天然ガスが発見されたのも一因だ。
<米国>
スリーマイル島事故後、30年間原発の新規着工を凍結してき米国。だが、10年1月に着工容認に転じ、現在24基の建設計画が進行中だ。オバマ大統領は就任以来、原子力発電の拡大は不可欠だと主張し、福島原発事故後も推進政策を堅持する方針を示した。
一方、原子力規制委員会(NRC)が、全原発の安全性評価に入った。テキサス州の原発2基を増設する計画は、NRCの安全性評価の結果次第では、延期や中止になる可能性も出ている。
<中国>
現在13基の原発に加え、今後新たに25基を建設する計画だ。国民の不安が高まっていることを受け、政府は安全性を強調する発言を続けている。
<インド>
当面、原発20基以上を増設する計画のインド。増設計画自体を見直す動きはない。政府は国民の4割が電気のない生活を送っているので、原発建設を加速させなければならないと強調。
<べトナム>
原発4基のうち、2基を日本が受注する予定のベトナム。政府は建設計画に変更のないことを強調。
<ブラジル>
2基の原発があり、1基を建設中。今後さらに4基の建設計画があるが、凍結や変更の予定はないとしている。
<ベネズエラ>
チャベス大統領は23日、原発計画の断念を表明した。


  

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2011年03月27日

世界を揺らす福島ショックー今日の新聞批評(3月27日)

日経新聞「世界を揺らす福島ショック」「原発ルネサンスの逆風に」より。

福島原発事故は各国の原発政策を揺さぶっている。
<ドイツ>
メルケル首相は地震から3日後に既存原発の稼動期間を延長する計画を凍結し、3ヶ月かけて検討する方針を明らかにした。さらに1980年代以前に稼動を始めた古い原発7基の一時停止を発表した。
シュレーダー前政権は02年、全ての原発の稼動を20年までに止める脱原発の政策を決めた。それに対してメルケル首相は09年の再選後、脱原発政策の見直しをしていた。「福島ショック」は再転換を迫った形だ。
<イタリア>
チェルノブイリ原発事故を受けた1987年の国民投票で脱原発を選択し、国内4ヵ所にあった原発を90年までに全廃したイタリア。
08年に3度目の登板を果たしたベルルスコーニ政権は原発の復活を宣言し、その是非を問う国民投票を今年6月に実施する予定だった。だが、23日の閣議で復活計画の凍結を決めた。
<ギリシャ>
自国ではなく隣国トルコの原発計画に懸念を深めている。パパンドレウ首相はトルコのエルドアン首相に電話をし、トルコ初の原発計画の中止を求めた。地中海に面した建設予定地の近くには活断層があり、トルコ国内でも反対の声が急速に高まっている。
トルコでは黒海沿岸でも原発建設構想があり、日本も受注を目指していた。日本との交渉は今月末がメドとされていたが、福島の事故で不透明感が強まっている。
<中国>
中国では現在13基の原発が稼働中で発電能力は1100万キロワットだ。さらに今後5年間で発電能力4000万キロワットの原発建設に着手する計画であった。これは日本の原発発電量の80%に相当する。
この野心的な計画に「福島ショック」がブレーキをかけた。中国政府は国内の全ての原発に対して緊急の安全検査を実施し、新規の原発建設計画の承認を当面中止することに決めた。
さらに、日本が原発を売り込もうとしているインドやベトナムでも、原発への不安が急速に広がっている。
スリーマイル島とチェルノブイリの原発事故で、原発推進の機運は世界的に後退した。しかし近年、温暖化対策と新興国のエネルギー需要の急増、さらには原油価格の高騰で、「原発ルネサンス」といわれるほどに世界的に原発の見直しが進められてきた。
福島事故がルネサンスに大きな打撃となることはまちがいないだろう。

日経新聞だから原発廃止まではいわないが、政府は事故の原因や事故対応の経緯、放射能汚染と被曝の詳細を明らかにする責務があるとし、そのためにも徹底した情報公開が必要だと主張している点はうなずける。
なお、日本の原発輸出については本ブログ「原発輸出―明石昇二郎論文に学ぶ(1―3)12月21日−23日掲載」を参照されたい。

  
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2011年03月26日

ホントはこわい福島原発事故の話(3月26日)

週刊金曜日840号の原発震災特集の広瀬隆「原発震災 破局は避けられるか」と、槌田敦「想定外という言い訳は通用しない」が、原発事故の本質的問題を指摘している。
以下、2人の文章をもとに福島原発事故の5つの問題点を指摘しておこう。

第1に東日本大震災のマグニチュードの問題だ。
最初は日本式に8.4、その後8.8に変わり、最後は9.0。これは「気象庁マグニチュード」から、専門家が使う「モーメント・マグニチュード」に突然説明なしに変更されたからだ。
原発事故が進んだために、「史上最大の地震」にしなければつごうの悪い人たちが数値を意図的に引き上げたのだろう。槌田は東電が情報操作のために気象庁に工作をしたのだろうとのべている。
第2に今回なぜ福島第1原発の1―4号機が大事故なったかという問題だ。
原発事故の対処原則は、第1に原子炉を止めること、第2に非常用炉心冷却装置(ECCS)で原子炉を冷やすことだ。ところが1―4号機ともECCSを稼動させるディーゼル発電13機が全て同じ高さにおいてあったため、波にさらわれてしまった。5―6号機がとりあえず大惨事を免れたのは高い場所においてあったからだ。
2007年の中越沖地震でも東電は柏崎刈羽原発でECCSが故障し、原子力安全委員会はECCS問題を検討することになっていた。ところが東電は福島原発のECCS電源の点検をサボタージュしたのだ。その結果、今回の大惨事となった。
第3に東電のあくどい情報操作の問題である。
東電は原発事故当初に「炉心溶融」という発表をした。炉心が溶けるには2800度になる必要があるが、この温度を測定する方法はない。だが、東電はウソを承知で「炉心溶融」と発表したのだ。
なぜか。最初に最も怖いことを言って脅かせば、後でそれ以下のことが起きても許されるか、重要視されない。じつにあくどい情報操作のやり方である。
第4に計画停電の問題だ。
これは都心部などを対象にしない作為的で差別的な停電だ。広瀬がデータをもとに説明しているように、日本の最大電力は現在まで火力+水力を超えたことはない。原子力がなくても日本の電力は余っているのだ。
国民は停電となればそちらに目がいく。東電は停電で批判されるかもしれないがそれでもかまわない。「原発がなければ停電するぞ」と国民に思わせたいのだ。
第5に今回の大地震と津波を「想定外」とする政府・東電・御用学者などの発言だ。
地震多発列島日本で最初から大地震や大津波を「想定」していたら、原発は費用が高くついて建設できない。そこで「適当な想定」で「安全」だとしてきたのだ。
そして政府・御用学者・マスコミあげて、原発は必要だ、クリーンエネルギーだ、温暖化対策になる、原発ルネサンスだと、原発推進に血道をあげてきた。
東電は「想定外」だと言い訳する前に、謝罪するのが先決だろう。「原発は二酸化炭素が少ない」なんてCMを流しておきながら、お詫びのCMすらない。
もっとも、東電に想定外と言われて、「ああ、そうですか」と納得する国民も情けにないが。放射性物質が広がったら困るのは自分たちなのだ。

地震多発列島日本で54基もの原発が稼動している。
原発が国民の命を考慮しない異常なシステムであることを今回の事故は示した。
日本は今度こそ脱原発の道を本気で選択しなければならない。


  
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2011年03月24日

「戦後」を暴力的に終焉させた大震災―今日の新聞批評(3月24日)

地震・津波・原発と未曾有の国難に見舞われている日本の現状をめぐる言説がメディアを駆け巡っている。そのなかで、期せずして「3.11」を「戦後の終わり」ととらえる言説が何人かの識者から提出されている。

毎日新聞・中西寛の「論壇をよむ 3月」はつぎのように書く。
「3月11日は、戦後日本が終わった日として記憶されるであろう。将来、日本人の努力によって復興がなされた時も、その姿は3月11日以前と大きく異なったものとなるであろう、との予感がある」  

読売新聞・御厨貴の「災後政治の時代」はより直截的に次のように書いている。
「3.11は、日本をそして世界を変える。あたかも9.11がアメリカをそして世界を変えたより以上に。大地震による大津波と、それによる原発事故という、未曾有の天災と人災の複合型災害は、この国をとことん打ちのめした。
3.11はこれまでの日本近代を捉える文脈に激しい変動を及ぼした。まずはこれで、長い余りにも長い「戦後」に、ようやくピリオドが打たれる。第二次世界大戦で負の刻印を押され、その後は戦争体験がないため、内外ともに日本近代を区切る節目となった「戦後」。今や、その「戦後」からの暴力的解放が生じた。…
大震災と原発災害という強烈な共通体験に刻印された日本は、「災後」の時代を歩み始めている。「戦後」から「災後」へ。それは、日本が「戦後」ずっと追求し実現してきた犢眦抃从兩長とその後瓩亮匆顱辞狃わるべき瓩伐薪戮箸覆叫びながら、そこから遂に脱出できなかった、高度成長型の政治・経済・文化の突然の終焉に他ならない。…
国土流失の事態はこの国全体に、「災後」としてのレベルの異なる難題をつきつけている。財政・金融・産業・エネルギー・外交・安全保障・環境…
そこで一番問われているのは、今や「災後」を背負った日本の統治であり政治なのだ。「戦後政治」の常識は最早通用しない。「災後政治」の非常識の始まりなのだ。与党民主党対野党自民党という「戦後」的対立は全く意味わなさない。「災後政治」を目指して大胆な発想の転換と、既成の法的しばりからの解放を行わなければならない。そして犢馘攸和き瓩箸いα安緻な垢硫歛蠅卜ち向かうことこそ、「災後政治」の最優先のテーマなのだ。…
こうした課題を担えるのは、狎掬と異端瓩諒弧からいえば、後藤新平のようなまごうことなき牋枌辞瓩凌擁に他ならない。救国の異端的人材が現れるか否かで、「災後政治」の命運は決まる」

御厨の論文は前半の分析はなかなかいいのだが、後半の「後藤新平」や「救国の異端的人材」の発想がダメである。竜頭蛇尾の典型的な文章だ。
「災後政治」はよしとしよう。だが、その課題を担うのは「異端の政治家」や「救国的人材」ではない。幕末・維新の国難も、明治・昭和の大津波も、さらに冷害や飢饉さえも、近代東北の復興と発展は名もなき民衆の営々とした努力であったことは、歴史の証明するところである。
御厨のような歴史学者がそのことを忘れてもらっては困る。
  
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2011年03月23日

東日本大震災と辺境としての東北―今日の新聞批評(3月19日)

読売新聞に民俗学者で東北学の提唱者である赤坂憲雄が東日本大震災について「東北の民俗知 今こそ復権」を書いている。以下、要点引用。

「…自然がときに与える試練のような地震や津波に、いかに立ち向かうか。東北にはどこよりも、そのための知恵や技が豊に蓄積されてきた。見上げるような堤防が築かれたが、この大津波はそれすら越えて、村や町を呑み込んだ。
…やっとのことで生き延びた人々のあくまで静謐な語りに触れる。けっしてパニックなど起こらない。東北の人々は黙って、何もかも引き受ける。どれほど寸断されても、コミュニティが生きている。東北の村々は地震や津波、冷害やケガチ(飢饉)によって繰り返し壊滅しながら、あらたに村を起こし、さまざまな縁によって結ばれたコミュニティを再興してきたのである。東北はやさしく、寡黙で、禁欲的だ。その東北が、日本が厳しく試されている。
…やがて、いくつもの問いがあふれ出す。なぜ、またしても東北なのか。なぜ原発なのか。なぜ、東京の「負」を東北が背負わされるのか。それが現在の事実か、それが構造か。東北が依然として強いられている辺境としての役割と、それはまったく無縁といえるのか。…」

この後、赤坂は東北ルネサンスについて熱く語る。「やがて東北学の第2楽章が幕を開ける」と。その覚悟やよし。
多くの識者が東日本大震災に関して論じている中で、日本の辺境としての東北の歴史的差別と収奪にまで言及したのは赤坂だけである。
さすがは東北学の提唱者である。
以下、かつてブログに掲載した河西英通『続・東北ー異境と原境のあいだ』(中公新書)の書評を再掲載しておく。

「前著『東北ーつくられた異境』の続編である。東北人(三陸人と名のっているが)の私には見逃せない本だ。 
1910年代から1945年の敗戦まで東北がどのように論じられたか、膨大な資料を渉猟して論じた力作である。
「白河以北一山百文」と維新以来差別され続けた東北は、この時代政治的敗者の地位から浮上して、日本の帝国主義的膨張政策とともにじつに多角的多元的に論じられた。 
食糧供給基地、東北革新論、東北満蒙論、東北=スコットランド論、日本海中心論、東北モンロー主義、雪国解放論などなど、多彩で多元的な東北論が政財界や各種メディア・地域雑誌で展開された。
その点について著者はつぎのようにのべる。この時代の東北は、後進性・未開性・異境性のイメージから脱却して、帝国としての海外膨張を続ける「日本」の原境として、中心として、深層として、すなわち「日本」そのものとして機能していた。
「先進地」に追従する「後進地」ではない。「表日本」に従属する「裏日本」でもない。「日本」を最深部から規定・照射・構成する「深日本」とよばれるべき根底的・根源的・中核的な空間世界である。それ故東北史にとってこの時代は「深日本」の時代であった。
しかし敗戦によってそのイメージが解体することで、「深日本」としての東北の位置エネルギーは霧消し、戦後は再び後進性と未開性のレッテルを貼られる時代となった。戦後歴史学もまたこうした東北のダイナミクスをとらえることなく、後進地としてモデル化することで日本・日本人・日本文化を描いてきたと。
私がこの本で特に教えられたことは2つある。ひとつは「娘身売り」の問題である。昭和初期東北地方で「娘身売り」がおこなわれていたことは、人口に広く膾炙している歴史的事実だ。
だが戸坂潤が当時指摘していたように、「娘身売り」は東北にかぎられたことではなく日本社会全体の問題であった。当時の統計からも「娘身売り」は九州地方、特に福岡・熊本・長崎などが東北各県よりはるかに多かった。 
にもかかわらず東北地方の「娘身売り」が取り上げられたのは、昭和初期の凶作にともなうマスコミのキャンペーンによるものであった。
もうひとつは1930年代の飢饉である。大根をかじる子どもたちの写真はいまでも歴史教科書に登場する。だが1934年の飢饉の真因は凶作ではなく、市場に出回る米の激減と米価の高値基調による政策的無策から生じた「人災」であった。そのことを著者は資料をもとに説得的に論じている。
東北の「貧しさ」(というより差別され収奪された大地。私には豊饒であった)は帝国日本の構造的矛盾の集中点であり、近代東北史は近代日本史そのものであると著者はのべる。    
  
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2011年03月19日

原発事故の真相を語る広瀬隆のテレビ発言―今日の新聞批評(3月19日)

3月17日の朝日ニュースター「ニュースの深層」に出演した広瀬隆の映像をネットでみた。
新聞・テレビのデタラメな福島原発事故報道に腹をたてていたので、広瀬隆の話はストンと胸におちた。広瀬の話は概要以下の通りだ。
第1に放射線量の問題である。メディアは原発から出ている放射線量は微量で人体に影響はないと報道している。だが問題は、放射線量ではなく放射性物質なのだ。
放射線は距離の二乗に比例するから、遠く離れていれば影響は確かに少ないないだろう。しかし、原発から放出されている放射性物質は風にのって遠くまでとんでくる。この放射性物質が体内に取り込まれると、時限爆弾として長いこと体内被曝にさらされる。
つまり識者といわれる連中は、体外被曝と体内被曝の問題をわざと混同させ、問題点をゴマカシているのだ。その点をメディアはまったく報道しないし、CTスキャンや自然の放射線量をもちだして、微量だから安全だとエセ学者連中がさかんにのべている。言語道断である。
第2に原発に自衛隊などが空から水をまいているが、焼石に水であることはシロートにも分かる。
最初にすべきだったことは電源復旧だった。なぜなら、水を循環させなければ原子炉の暴走をストップさせることはできないからだ。なぜそれをいち早くしなかったのか。
仮に4基の原発のうち、1基だけでも暴走すれば残り3基にも波及するのは必至である。最悪の事態を想定して、チェルノブイリの時のように空からコンクリートで遮蔽することをしたほうがいい。
ともかく、保安委や内閣などがいくら対策会議を開いても何の解決にもならない。政府は直ちに原子力の専門の技術者を動員して対策を採るべきだった。
第3に東海・東南海地震への影響の問題である。御用学者はしたり顔で東日本大震災と東海・東南海地震はプレートが違うから直ちに影響はないとしている。
だが、地震学者の石橋克彦は1995年以降を「大地動乱の時代」と表現している。1960−1995年ぐらいまで地球は比較的平穏であった。しかし、1995年の阪神大震災から地球は「大地動乱の時代」に突入した。太平洋プレートの活動が活発化して、日本列島周辺のどこでも巨大地震が起きると予測していた。
石橋は東日本大震災で太平洋プレートのバランスが崩れ、それが東海・東南海地震に影響を与えるだろうとしている。さらに首都圏での直下型地震が起きることも懸念している。
東海地震は浜岡原発の直下でおきる。そうすると、津波ではなく地震によって原発が破壊されることはまちがいないだろう。そうなれば、近畿から関東まで甚大な影響を受けるだろう。
第4にメディアの問題である。テレビや新聞にまっとうなことを発言する人間が登場できなくなってきた。少なくとも15年前まではそんなことはなかった。オウム・サリン事件以来、日本のメディア全体が大きく右傾化してきたのだ。
新聞やテレビに登場するのは、エセ学者や御用評論家ばかりである。これでは国民は真実を知ることはできない。  
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2011年03月16日

自伝風小説 少年ショウ   ー津波編―   

ショウの生れたところは、岩手県の三陸海岸。北上高地の山なみが海にのびてストンと切れて断崖となり、太平洋の荒波が打ち寄せるリアス式海岸である。南北に連なるリアス式海岸の入り江のひとつひとつに人家が点在しているが、ショウの住む田老(タロー)町もそんな入り江がいくつか集まってできた人口5000人足らずの小さな町である。
第3セクター方式で有名になった三陸鉄道=北リアス線・南リアス線=が沿岸を走り、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にちなんだカンパネルラ田野畑とかカルボナード島之越といった地元のひとでも覚え切れない地名がついていて、一時期観光客がおし寄せたがいまではすっかり客足も遠のいてしまった。
かつて、鈴木善幸というあまりパッとしない総理大臣がいたが、ショウの住む町から南へ少し行った山田町というところの出身である。ちなみに、村山内閣の防衛庁長官を務めた玉沢徳一郎は、田老町出身の最初にして最後(?)の大臣といわれた。
三陸海岸は、日本一いや世界一の津波常襲海岸で何度も大きな被害を受けてきたが、そのなかでも田老町のそれは他に例をみない悲惨なものであった。いまでこそ高さ15メートルもあるりっぱな防潮堤が各入り江に築かれて津波の心配も少なくなったが、「それもこれも善幸さんのおかげ」と地元のひとたちは話す。引退して息子に議席をゆずったが、いまでも地元の発展につくした善幸さんの人気は絶大である。
津波といえば、ショウが小学生のころよく津波警報が鳴った。夜中に「ウーウーウーウー」とサイレンが鳴り緊急放送が入る。
「ただいま地震が発生しました。津波のおそれがありますので急いで避難してください」
ショウはサイレンの音をきくと、ふとんからはね起きて家族といっしょに風呂敷をかついで裏山へ逃げた。ショウは毎回真剣そのものだったが、避難してきた近所のひとたちはみななごやかに談笑していた。あれはただの避難訓練だったのだろうか。
サイレンの音をきくたびに、ショウはふしぎな胸の高鳴りをおぼえた。
「地震・カミナリ・火事・オヤジつうべ。だども三陸では、津波・地震に火事・オヤジなんだ」
そう言っておとなから何度も津波のこわさをきかされた。ショウは津波はこわかったが、こわいもの見たさで一度津波を見てみたいと思った。でもそんなことを父親や母親に言ったら、きっとしかられると思って口にしなかった。
「津波が来るどきは、ドーンドーンと大砲打づような音がすんだ。して海がパアーとあがりで照らされだように光るのさ。そうすっど海の水が沖の方までザアーと引いでいっで、それがらノンノンノンノンとこの世のものども思えねえような音をたでで津波が来る。して家もひとも物も全部ひっさらっでいっでしまう。あどにはちゃわんこひとづものごんねえ。火事でも地震でも板ごが何ががのごっべえが。だども津波は全部ひっさらっていっで、なんにものごさねえんだ」
ショウは母親のそんな話をきいて、山のような大波が白波あげて木々をなぎ倒し、家も人も牛も呑みこんで沖へ流していくようすを想像した。台風のときに、数メートルはあろうかという大波が砂浜を50メートルも洗い流す。寄せては返す大波はのたうちまわる怪獣にも似ておそろしかったが、津波はあの何倍も大きいのだ。
ショウはよく津波にさらわれる夢を見た。夢の津波はちっともこわくなかった。大きなブランコに乗ったように大波のてっペんからてっペんまでゆったりと揺られていた。周りをみると自分の家や、飼っていた牛やニワトリが浮かんでいた。あたたかい陽差しの中でショウはまるでお風呂でも入っているような気分になっていて、目を覚ますとふとんが温かくぬれていた。
  
☆  ☆   ☆   ☆   ☆
 
昭和8年(1993年)3月3日の三陸大津波で、ショウの家は津波にのみこまれて流された。
「朝方3時ごろだっだべえがなあ、ガタガタガタとおっぎな地震がきて、それがら30分ぐれえしてがら津波が来たんだ。そんどきは正助(ショウの父親)はまだ寝でいで、おふぐろが飛び起ぎて外さでて、正助津波だぞ!起ぎろ、起ぎろって叫んだんだ。したらやっど正助は起ぎてフンドシひとつで家飛び出したどこさ、津波が来て家をひっさらっていったんだ。正助は津波とかげっごして助がっだのさ」
母親は祖母からきいたそんな話をショウにきかせた。
もっとも父親の話は少しちがう。「起ぎろ!」とおふくろによばれたとき、ゴロゴロ転がる夢をみていたのだという。何度かよばれてやっと目を覚ますと、はるか上の方からワリワリと大木が引き裂かれるようなおそろしい音がしている。急いで服をはおって外へ飛び出すと間一髪津波が押し寄せて家をさらっていってしまった。川が波で真っ白になり、川のそばに建っていた小さな家は真っぷたつに割れて半分は川のむこう岸に、もう半分は浜辺に打ち上げられていたという。
この昭和8年の三陸の大津波は、三陸沖の海底地震によるものでマグニチュード8.3震度5の強震だった。6000戸の家屋が流出倒壊し、3000人の命が奪われた。波高は最高30メートル、田老村では10.1メートルを記録している。田老の全戸数559戸のうち流出倒壊家屋は500戸で被害率は89.4%。村民2773人中死者901人で被害率32.5%。三陸海岸の中でもっとも大きな被害を受けている。
「大砲がとどろくがごとき大音響を聞き、海上に閃光きらめき、毒竜の荒狂うがごとき大うねりによって集落は席捲され、阿鼻叫喚の巷と化す」「砂の中からもがく手と足、崩れた家屋の中や船の中から救いを求める声がし、さながらこの世の地獄を現出」と『田老町津浪誌』は記す。
この津波のさいに天皇は侍従大金益次郎を特使として派遣し、大金侍従は見舞金を持って各町村を慰問した。軍からも被災出征兵士の家族へ特別見舞金が送られた。そしてこれらは軍隊の救援活動と合せて、皇室崇拝・陸海軍への感謝・民衆の戦意高揚を組繊する一大キャンペーンとして利用された。
民間の義損金や救援物資も、全国各地から寄せられた。津波の報道は諸外国にも伝えられ、アメリカ・イギリス・イタリアなどのほか、当時日本軍と抗戦状態にあった中国からも義捐金が寄せられている。
共産党や無産労働者も、「餓死せんとする三陸救援闘争に参加せよ」と呼びかけて、各地での募金活動や医療救援班を派遣し救援活動をおこなっている。被災者の電灯料金免除・漁船を失った漁民の救済・復興材料の無料配給などを要求する大衆闘争も組織された。だが、官憲は、これらの救援活動に大弾圧をくわえ、“アカ”として300人以上を検挙・投獄した。
田老にかけつけた看護婦ら3人も、診療をはじめて3時間後に逮捕されている。当時の天皇制国家は、人命や被災者の救済よりも、共産主義や無産労働者の弾圧を優先させたのだった。
時あたかも軍靴の音が高なり、日本が暗黒の時代に突入していったころである。
 
☆   ☆   ☆   ☆   ☆
 
三陸では、昭和の大津波より37年前の明治29年(1896年)にも大津披の被害を受けている。この時の被害の方がはるかに大きかった。ショウの一家もこの明治の大津波でほぼ全滅したという。
「明治の津波は昭和の津波の3倍もおっぎがっだそうだ。家が流されておやじと子ども4人が死んだ。そんどき、ウメばあというひとだけが1人助がっだんだ。ウメばあは波ささらわれで、助げられだとぎは腹が裂けて腹わだがとびだしておっだ。医者がなんがが回ってきて、腹わだを入れでぬっだんで助がっだそうだ。
だどもそのあどもよぐ腹わだが出できては押しこんでいだども、とうどう死ぬどきになって腹が裂けて腹わだが全部とびだしてきて、ウメばあは自分の腹わだをひっつかんで“ホラーッ”と投げてよごしだという。気のつえーばあさだっだそうだ」
母親はそんなことをショウに話してきかせた。
「でもどうやってウチはつづいたのかなあ」
ショウは子ども心に不思議に思った。自分がこの世に存在することが、何だかとても奇妙に思えた。生き残ったウメばあは、自分の娘を嫁がせた家から養女をむかえた。そしてその養女に婿とりをさせたのだ。ショウの祖父と祖母である。そうして絶家をまぬがれたのだという。そんな話をきいてショウはホッとした。
ショウは大学生のときに、兄と2人で先祖を調べたことがあった。ショウの家の墓は海の近くにあるが、小さなみすぼらしいいくつかの墓石には明治29年と刻んであった。檀家のお寺た過去帳も見にいった。寺の和尚は気持ちよく古びた過去帳を出してきて見せてくれたが、明治29年に多くの名前が記されていた。2人はそのなかから墓石に刻まれた5人の先祖の名前を見つけた。
明治29年5月5日の三陸津波も三陸沖の海底地震を発生源とした。マグニチュード7.6、震度はわずかに2〜3であったが波高は20〜30メートルもあり、「山のような波だった」という。被害は甚大で岩手・青森・宮城の3件で死者22000人、流出倒壊家屋は8200戸にもたっした。
田老村では、波高10メートルながら345戸中流出倒壊家屋345戸で被害率100%。村民2248人中死者1867人で被害率は実に83.1%。全村壊滅である。生存者はわずかに183人。内60人は漁で沖合に出て難をまぬがれ、30人は牛馬を引くために山上にあって命びろいした。これまた三陸海岸中最大の被害であった。
「にわかに雨が大いに降り、1〜2度地震があった。東北の方向であたかも空砲を発するような音が前後3回つづき、人々これを怪しみかつ恐れて戸外に出て佇んだ。その瞬間、万雷が一時に墜落するかのような凄じい音とともに、15丈余の狂瀾が天をも捲き込むような勢いで襲来した」と『田老村津浪誌』に記す。
当時の田老村は沿岸屈指の豊かな村であったという。だが、沖から漁船がかえってきたときは村は原始の砂原と化し、すべてが失われてしまっていた。明治と昭和の2度の津波で、田老は「津波太郎(田老)」の異名をとりその名が全国津々浦々に知れわたることになる。
  
  ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

「ショウ、海さ行くべ」
学校から帰るとケンとヨシがさそいにきた。
「うんいくべ。ちょっどまっでろ」
カバンをほうり投げるとショウは家を飛び出した。学校が終わると3人は毎日海へ行く。
海はショウたちの遊び場であり、仕事場なのだ。ショウの住む部落では、どこでも牛を飼っていて春から秋にかけて浜辺の草原に放し飼いにしていた。子どもたちの仕事は、学校が終わった後の「牛まぶり」である。放し飼いにしてある牛は、川を泳いでむこう岸に渡ったり、山のてっべんに上ったり、ケンカしたりする。その牛をまぶり(守り)夕方無事家へ連れて帰る仕事である。
だけどショウたちは牛などそっちのけで、遊びに夢中になった。海と川と山のある浜辺は遊びの宝庫だった。あまり夢中になって自分の家の牛がいなくなってベソをかくこともあったが。
5月のあたたかな日だった。3人は家から15分足らずで浜辺へ着いた。漁の端境期で海にはおとなの姿はみえなかった。
「ショイパさ行くべ。ショッコひいてるぞ」
とケンが言った。沖を見ると引き潮で海草が付いた黒い岩がみえだしている。
「クロイショさ行ぐべ」
ショウもワクワクしてこたえた。
「でっけぇ魚っこつかまえれるぞ!」
ヨシが目をキラキラさせながらさけんだ。
ショイパは砂浜の両岸の岩がゴロゴロした浜辺で、塩が引くと貝や魚がよく採れた。北の岬の先端のクロイショは、黒い半円形の大岩で波をけたてて進むひょっこりひょうたん島そっくりで、ショウたちの格好の遊び場でもあった。
3人は波打ちぎわを全速力で駆け出した。裸足の足の裏がぬれた砂つぶでくすぐったかった。5月末とはいえ暖流が押し寄せるにはまだ早く、水は足がしびれるほど冷たい。砂浜にのこされた小さな足跡を打ち寄せる波がつぎつぎと消していく。
3人は砂浜を駆けぬけると、ショイパのゴツゴツした岩の上をカモシカのようにピョンピョン跳びはねながらクロイショ目がけて先を争った。足をすべらせたら大ケガをするが、どの岩のどこに足を乗せるかみな頭に入っているのだ。
一番に到着したショウがさけんだ。
「ショッコひいてアワビがいるぞ!」
潮が引いて海面下にあった岩が黒々とした顔をのぞかせていた。その岩のそこここに、手のひらよりも大きな青黒いアワビがへばりついているのが見えた。そのひとつをショウはすばやい手つきで採り、身を貝からはがして海水で洗ってかぶりついた。
「うめー」
思わず声を出した。やわらかい身とヘリのコリコリしてにがみのあるところが塩水にまじりあって腹わたにしみるほどうまかった。アワビはこうして食べるのが一番うまい。
遅れてきた2人もつぎつぎにアワビを採り、貝をはがしてかぶりついた。
「あっ、アブラコ(アブラメ)だ!」
あわびを食べていたケンが指さした。見ると岩と岩でさえぎられて池のようになったところに、黄赤黒いアブラコが2匹ゆうぜんと泳いでいた。
「でっけえなあ!」
3人は声をそろえて言った。30センチはあろうかという大物だった。アブラコは、サシミにしても焼いても煮てもうまい魚だ。家にもって帰ったらきっと喜ばれるだろう。
3人はアブラコとりに夢中になった。ズボンを濡らし手足を真っ赤にしながら、アブラコを追いつめた。手づかみで2匹をつかまえたころは、潮はさらに引いていままで見たこともない岩が黒い岩肌を海面につきだしていた。ショウは、なんだか見知らぬ浜辺にいるような気がした。
「津波でねえべが」
ヨシが心配そうに沖をみていった。
「まさが。津波なら沖の方までショッコ引ぐってかがあがいってたぞ」
とケンが言った。
「それに地震がねえべ。津波は地震のあどさくるもんだぞ」
ショウがそう言うとヨシはホッとした顔をした。
3人はまた魚採りに熱中した。海水が引いた海底にはカゼ(ウニ)が黒いトゲをワシワシと音をさせてうごめいている。ヘビに似た真っ黒な魚がスルスルと岩陰にかくれた。ナマコが茶褐色の体をちぢめて身動きしないでじっとしている。大小の巻き貝や枚貝がそこここに見える。見たこともない魚が岩陰に見え隠れしていた。
3人は手づかみでつかまえれるだけの魚や貝をつかまえて、自分たちのつくった小さな生筆にほうりこんだ。獲物はたちまち生簀にいっぱいになった。
あっちの岩陰こっちの海底と忙しく走り回っているうちに、ふと気がつくと水かさが増してきた。さっきまで見えていた岩がたちまち海面に没していった。満ち潮よりはるかに速く海水はもりもりふくれながら押し寄せてきている。
「おっかねえ。逃げろ!」
ケンのことばに魚採りに熱中していた2人もハッとわれにかえって沖を見た。3人は本能的に危険をさっちしてショイパから山の方へとかけ上った。水はさらにふくらんで獲物を入れていた生簀を呑み込み、3人がかけ上がった足下までとヒタヒタと押し寄せてきた。
「あぶながっだなあ」
「あらしのどぎのほが、こんなどごまで水が来だごどねえべ」
「はじめてだべ、こんなの」
3人は興奮して口々に言った。水かさはそれ以上増えそうになかった。けれども3人はだれもいない海岸で心ぼそくなってきた。
「かえっペ」
ヨシが言うと、ケンもショウも
「かえっペ」
「かえっペ」
と言った。3人は来たたときよりもっと速く跳ぶようにショイバを駆けぬけて砂浜へとたどり着いた。浜辺に押し寄せていた海水は引きはじめていた。
「おっぎなアブラコだったのに、ペぐった(そんした)なあ」
「大漁だったのになあ」
3人はかわるがわるそんなことを言いながら牛の群れを探しはじめた。
夕食の時にショウは母や兄の話をきいていた。
「津波があったそうだ」
「大船渡の方でたいした家がさらわれたんだって」
「田老町は水っこが少しふえだだけでたいしたことながっだとさ」
ショウは、自分たちが今日体験したことを話そうかと思った。きっと話すと、「津波がきだどぎなにやってだんだ、ばがだれ」と叱られると思って口をつぐんだ。
ショウはその夜、夢をみた。ショウは津波にさらわれてクロイショまで流され、岩のてっペんに立っていた。浜辺でつかまえたアブラコが、魚体を光らせながらゆうぜんと泳いでいくのが見えた。目を覚ますとふとんが温かくぬれていた。
 
  ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

昭和35年(1960年)5月24日南米チリ南部沿岸沖合でマグニチュウド8.3(8.5とも9.5ともいわれている)の巨大海底地震で発生した津波は、時速700キロメートルの猛スピードで太平洋18000キロメートルの距離を渡って22時間後に日本の太平洋岸を襲った。
この津波は三陸沿岸中心に死者129人、流出全半壊家屋4000戸の被害を与えた。気象庁は、チリ地震による津波が太平洋岸に来襲するとは考えず警報を発令しなかった。この時は、宿命的津波海岸といわれた田老町ではほとんど被害はなかったが、三陸南部の大船渡では900戸が流失全壊し、53人もの死者を出した。
24日、ところによっては30分から1時間間隔で、午前3時から夕方まで8波の津波が来襲した。従来の津波とちがい海面がじわじわと上がる特徴があったという。(1996年作)







     
  
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2011年03月15日

わが郷里が壊滅状態=東日本大地震―今日の新聞批評(3月15日)

私の郷里・岩手県宮古市田老町が壊滅状態である。
テレビで見ると町全体がなくなっている。悲惨な事態に胸が痛む。
実家と連絡が取れずに気が気でなかったが、さいわい実家は津波に流されずにすんだという。そしてみな無事だと聞いてホッとした。
だが、田老では多くの家が失われ、どれぐらいの人が亡くなったのかさえわからない。
一刻も早く駆けつけたい気持だがなんともならない。郵便局にはきのうから被災地に義捐金を送る人が何人もみえている。今のところ義捐金を送ることぐらいしかできない。
被災地に早く救助隊が駆けつけて命ある人々を救ってほしい。支援物資も早急に届いて衣食を保障してほしい。 今回の地震・津波を「国難」と読んだひとがいた。日本全国の人々の支援でこの「国難」を切り抜けたいと切に願う。
そのために政府はしっかりとリーダーシップを発揮してほしい。
ところで、今日の新聞を読むと石原都知事が震災を「天罰」といったと報道されている。
石原は政治がポピュリズムで行なわれているとし、「それを一気に押し流す、津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。積年たまった日本人の心のあかを。これはやはり天罰だと思う」と発言したというのだ。
これほど被災者を冒涜する発言はない。無礼千万・厚顔無恥である。即座に撤回し陳謝してほしい。
どだい、ポピュリズム政治を行なってきたのは石原自身じゃないのか。政治を機能不全にしてきたのは石原ら政治家ではないのか。天に唾する発言である。
関東大震災のとき、「震災天罰論」が当時の政財界の指導者たちによって公然と語られた。財界の大御所渋沢栄一らはしきりに「天譴論」を説いていた。ある財界人は、「享楽主義にかたむき危険思想がはびころうとしている今日、関東大震災こそは天が我が国民に向かって譴責し、かつ一大警鐘を鳴らしたもの」だとのべた。
当時の政財界の指導者は、みずからの失政を震災にかこつけて「天譴論」として闇に葬ろうとしたのだ。
石原の頭にはこの関東大震災時の政財界人の「震災天罰論」があったのだろう。彼の頭の構造は当時の政財界人と同じだ。みずからの失政を「津波を上手く利用して」失政を「洗い落と」し、都知事選に四選しようという「我欲」の魂胆である。
しかし今日現在、関東大震災時同様の「天罰論」を発言するなど狂気の沙汰としかいえない。東京都民はそれでも石原を都知事に選ぶのだろうか。

 
  
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2011年03月09日

朝日新聞の凋落―今日の新聞批評(3月9日)

朝日新聞外岡秀俊編集委員のザ・コラム最終回は「非戦・人権 精神を受け継ぐ」。以下、要旨引用。

96歳で今も現役ジャーナリストのむのたけじさん。
敗戦時にジャーナリストの責任を取って朝日新聞をやめ、フリーの立場で言論活動を続けてきた。
むのさんは「最近、ようやく物事の本質が見えてくるようになった」と話す。人に揮毫を頼まれると、「死ぬるとき、そこが人生のてっぺん」と書く。1日多く生きればそれだけ成長する。そう信じてきた。
1940年2月、むのさんは衆院本会議の記者席で、民政党の斎藤隆夫の反軍演説をきいた。だが、衆議院は斎藤を懲罰委員会にかけ議会から除名した。
間もなく院内党派は次々に解党し、大政翼賛会に雪崩をうつ。「警鐘」だった反軍演説は政党政治への「弔鐘」となった。翌年、日本はアジア・太平洋戦争へと突入する。
戦時中、軍部におもねる記者は1割にも満たず、残り9割が自己規制で筆を曲げたとむのさんは語る。
敗戦前日の部会でむのさんはこう主張した。
「明日から日の丸を星条旗に替えて報道することはできない。戦争をあおった責任にけじめをつけるべきだ。建物も輪転機も社会に捧げ、我々は全員去って、新たな時代にふさわしい人々が新聞を作るべきだ」
むのさんはその日で朝日新聞と決別し、戦後は郷里の秋田県横手市で週刊新聞「たいまつ」を発行しながら、平和や民主化への発信を続けてきた。
ところが筋を通したその人が、「今考えると、まったく愚かな辞め方だった」と話す。きっかけは琉球新報が14回にわたって連載した「沖縄戦新聞」を読んだことだ。もし戦時に検閲がなかったらどんな報道をしていたか、戦後に分かった史実や証言に基き正確に再現した。
むのさんは一読し、全身が真っ赤になるほど衝撃を受けた。
「これだと思った。戦時中、記者は事実を曲げた。敗戦後、我々は数十年でもかけ、戦争の実態を検証すべきだった」
むのさんは琉球新報の記者に伝えた。
「私は辞めることが良心の証だと思った。しかし、新聞記者は常にペンとの闘いを貫かなければならない。その気持を今の記者たちは貫いてほしい」
 現憲法は国家権力に対する数知れない人々の抵抗と弾圧に倒れた屍のうえに成り立っている。
戦争を煽った過去を忘れない。むのさんから抵抗精神を受け継ぎ、憲法に結実した「非戦」や「人権」を命がけで守る。その「ペンとの闘い」が、今も私たちジャーナリストの課題だ。

外岡秀俊という朝日の記者を私はほとんどしらない。だが、最終回のコラムはなかなかよかった。
朝日の名物コラムといえば、かつては石川真澄、その後は早野透である。しかし、最近の朝日はいただけない。読みたいと思う記事がないのだ。いい記者がいなくなったのか、記者が書けなくなったのか、わからないが。
私は朝日・毎日・読売・中日・日経に目を通している。一番新健闘しているのが毎日である。次が中日=東京だ。朝日の凋落は目を覆うばかりだ。朝日の健闘を祈る。
  
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2011年03月08日

「ポスタル・ヒストリー」−今日の新聞批評(3月8日)

切手収集に「ポスタル・ヒストリー」というジャンルがあるという。特定の地域や郵便制度に関わる郵便物を集め、それを実証的に分析・研究するものだ。
日経新聞に速達郵便収集家の池田健三郎・大樹総研所長が「速達、現代に史実配達」「制度100年、昔の郵便物収集し当時の社会思う」を書いている。以下、要旨引用。

私は速達郵便を30年近く集めている。今年は速達郵便制度100年。
速達は1910年の日韓併合に伴い、ソウルに置いた郵便局が試験的に始め、翌年2月に正式にスタートした。最初は東京市内と東京―横浜間限定で、封書3銭、葉書1銭5厘に速達料金6銭(東京−横浜間は12銭)を追加すると、通常郵便とは別に最優先で配達された。
受取人が返事を出したいといえば、配達人はその場で返信が書きあがるのを待ったそうで、値段の割にはかなり良心的なサービスだった。
その後、輸送手段の発達で質は向上し、1937年にはほぼ全国で速達が可能になる。
ところがアジア・太平洋戦争に突入し、敗色濃厚になるにしたがいサービスは一気に低下する。封筒や切手は粗末になり、到着の日付印すら押されなくなる。
敗戦直後はインフレで速達料金が急速に跳ね上がるが、GHQの検閲により速達は有名無実化する。東京都内の京橋から中野まで6日かかっている例もあるという。
私はかなり珍しい速達を収集している。
出版社が近衛文麿に当てた現存する最古の速達小包。帝国議会が議員に送った議会広報の帯封速達。差出地不明の野戦局からの軍事速達。植民地だった満州や樺太・台湾からの速達など。
収集品が映画作りに役立ったこともある。三谷幸喜監督の「笑いの大学」で召集令状が郵便で届く場面がある。そもそも召集令状は手渡しが普通で、郵送は受取人が遠隔地にいる場合のみの例外扱いである。そのため実例は大変希少だ。
私はその速達書留を1通だけ所持していた。切手は通常の封書料金5銭に書留・速達料金各12銭を合わせて計29銭。裏表の上方に朱色でM字が印刷されていた。
実物をもとに作られた召集令状は作品中で大写しされ、スタッフも私も面目躍如。
収集品を下に研究発表するコンペが国内外に多数存在する。5年前に米国ワシントンで開かれた世界コンペでは、「日本の急速郵便」をテーマにした私の発表が出品者1000人の中で上位に入選した。
次のコンペに向けて最近かなりの逸品を手に入れた。1872年の郵便創業当時の「別段急便」という特殊な郵便物だ。速達の前身に「別配達」「別仕立」という制度があったが、これはそれよりさらに古い。日本最初の切手である「竜紋切手」4種のうち3種が貼ってある。

池田は「妻にはとてもいえない金額を収集に費やしてきたが、こんな汚い郵便物が価値を持つのも、広くこの趣味が親しまれていればこそ」だと書いている。
そして、100周年を機にライバル同士手を組んで、「速達コレクション集」の出版も計画しているという。
私もひょんなことで郵便の仕事に携わることになったが、じつに奥の深い面白い仕事だと思うと同時に、郵便の趣味人が多いことに驚いている。
  
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