2012年02月29日

岩手県に原発が造られなかったか理由(1)

以下の文章は月刊『むすぶ』2012年2月号に、「東日本大震災(10)―なぜ岩手に原発が造られなかったか
」のタイトルで掲載した文章である。3回に分けて本ブログに掲載する。

東日本の太平洋岸には青森県から茨城県まで一五基の原子力発電がある。全国五四基の原発中四分の一が集中している。だが岩手県だけは原発がない。なぜだろうか。
じつは岩手県にも一九七〇年代に原発が建設されようとした歴史がある。私の郷里は岩手県田老町摂待だ。現在は市町村合併で宮古市摂待地区である。私が大学時代、摂待に「田老原発」の建設計画が浮上した。岩盤が固く原発立地に好都合だという理由からだった。
地元の人は大反対だった。原発は絶対に阻止すると意気軒昂だった。だが、原発建設の話はいつの間にか立ち消えてしまった。その陰に地元の実力者で元首相の鈴木善幸の存在があったとされる。
一月二一日の朝日新聞で本田修一記者が「原発国家 三陸の港から」「空白岩手 陰に和の政治」として取り上げている(以下、同新聞記事より要旨引用)。
「摂待地区に原発の立地計画が持ち上がったのは一九七五年だった。青森県から茨城県まで太平洋沿岸で岩手県だけ原発が出来なかった。三陸の網本の家に生まれた元首相、鈴木善幸を抜きにその歴史は語れない。
岩手県への原発誘致は進むかに見えた。通産省が七〇年前後に地質調査し、最有望とされたのが摂待地区だった。八〇年には善幸の子飼いだった中村直知事が議会で、「県民生活の安定や産業振興に原子力を含む大規模発電が必要だ」と表明。八二年には県が摂待地区を含む四か所を適地として東北電力に売りこんだ。
地元経済界には賛成論が強く、誘致に伴う公共事業への期待も膨らんだ。岩手選出の衆議院議員、玉沢徳一郎や小沢一郎も賛成を表明していた。だが、漁民たちはワカメやホタテの養殖漁業がダメになると反対した。三陸のアワビは一回の漁で数万円になった。漁業で十分に食べていけた。
善幸は中央政界では原発推進だった。八〇年、首相に就任した時の記者会見で「石油代替エネルギーはなんといっても原発だ」と明言。首相として初めて岩手県庁で記者会見した時も、「原発で県内エネルギーの自給度を高めることは国全体にも寄与する」と言い切った。
一方、地盤の三陸では別の顔を見せた。田野畑村村長を八期三二年務めた早野仙平が「原発交付金は村の予算の四倍、三〇億円以上もらえるが、使う知恵がない」と伝えると、善幸は「そうだな」と満足げだったという。長男で前衆議院議員の俊一には「三陸に原発は造らせない」と断言していた。
八二年に首相を退いた後も原発誘致の決着を先延ばしにしつづけ、三陸の漁港を訪ねては改良していった。そのうちに日本は石油危機を乗り切って原油価格は下落し、岩手県の原発計画は立ち消えになった。
団結を重んじ、対立を持ち込まない。三陸の漁村は共同体の亀裂を忌み嫌う。その危険を冒してまで原発利権に手を伸ばすよりも、水産族のドンとして着実に漁港を整備していくほうが善幸には自然な選択だった。」
ネット上を検索すると岩手県に原発が造られなかった理由がいくつか散見される。そのなかでも有力なのが岩手県には強力な政治家がいたからだとする説だ。
一九六〇年代の岩手県の保守政治家は、鈴木善幸・椎名悦三郎・小沢佐重喜・志賀健次郎などである。彼らは東北電力の政治力・資金力で簡単に動くような政治家ではなかった。岩手県はこれらの強力な保守政治家をかかえ、農林水産物への政府援助や道路・鉄道・港湾などの公共事業、農地の構造改革事業などで生活が成り立っていた。政治家も県民も危険な原発よりも公共事業や農林水産業で利益をえる方向を選んだ。すなわち、東北電力は岩手県選出の政治家に負けたとする説である。
だが、この見解には首をかしげざるをえない。原発建設計画が持ち上がったのは一九七〇年代後半である。政治家の世代交代も進み、新聞記事にもあるように小沢一郎や玉沢徳一郎らは原発建設に賛成していた。やはり岩手県に原発が造られなかった大きな要因は、三陸沿岸を選挙基盤にした鈴木善幸の存在ぬきには語れないだろう。

  

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2012年02月23日

畠山重篤ー「復興は森林から」「天国と地獄が共存する豊かな海」「宿命背負い生きる」

昨年7月末、私は岩手県北部の野田村から宮城県三陸町まで車で縦断し、被災地の現状を駆け足で見てきた。
大津波の襲来がウソのように、三陸の海はどこも目をみはるように美しかった。そして海はおだやかだった。
2月22日の朝日新聞に、「海はよみがえる」のタイトルで畠山重篤さんへのインタビューが掲載されている。
畠山さんは「森は海の恋人」運動で、国連森林フォーラムの「国際森林ヒーロー」に選ばれている(以下、同新聞より)。

東日本大震災で気仙沼の仕事関連のすべてのもを失った。震災直後は絶望的であった。
何より恐ろしかったのは、海辺から生き物の姿が消えてしまったことだ。魚やカニはもちろん、ウニやヒトデ、フナムシもすっかりいなくなってし。
海が死んだと思った。漁師にとってそれがどれほど恐ろしいことか。海が死んだら、漁師は生きていけない。
それが震災1か月後は、海辺の生物が急に増え始めた。プランクトンがいっぱいいて、海中には大小の魚が無数にいることが分かった。
震災から1年。海底のがれきの問題は残っているが、海は震災前と変わらない状況に戻ってきた。海の復活力には驚くものがある。
そして人間の暮らしである。津波で流されたほとんどの人が、海が見える高台に住みたいと言っている。
これだけ海に痛めつけられても、海を恨んでいる人は1人もいない。それは海が豊かだからだ。
震災前、フランスから来たカキ業者が気仙沼湾をみて「天国のような海だ」と称賛していた。
だが、ここは天国と地獄が共存している海なのだ。ここに住もうとする限り、津波という地獄を受け入れなければならない。
それでも三陸の海に生きていこうとするのは、この海が好きだからだ。
国も行政も岸壁を治すとか、防潮堤を高くするとかという話ばかりしている。だが、もっと海の背後にある森に目を向けるべきだ。
地元の木を使い、自然の景観を損ねないように家を建てる。杉を伐採すれば森を豊かになり、森の養分が川に流れこんで海を豊かにする。
どれだけ高い防潮堤を築いても、絶対に巨大津波は防ぎきれない。
津波にどう立ち向かうかということよりも、海や山とどううまくつきあっていくか。そののことの方が、ずっと重要な問題だ。
 
三陸の海がどれほど豊かか!
三陸の魚介類がどれほど美味か!
住んだ人しかわからないだろう。
その科学的根拠を知りたい人は、河井智康の一連の著作を読んでいただきたい。
  
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2012年02月22日

あきれた原子力機構の税金のムダ遣い

中日新聞が原子力機構OBの再就職先の税金の無駄遣いを特集している。

高速増殖炉「もんじゅ」を運営する原子力機構。
その運営費は国の交付金が大半で、年間1740億円もある。
交付金の出所はわれわれのおさめた電気料金。
一世帯平均月110円である。
その原子力機構が外部発注した業務は、2011年4月―11月の8か月間で3400件・金額で880億円。
そのうち、714件・金額で277億円が機構OBの再就職した29企業・団体が受注していた。
しかもこれらの「ファミリー企業」は、全国で展開する原子力PR館の管理業務も独占していた。
原子力機構のPR館は全国で9か所ある。
2010年は9施設の総収入は1600万円。
それに対し、人件費・光熱費などの経費が5億1597万円。
赤字垂れ流しのずさんな運営である。
原子力機構をめぐっては2009年、勤務実態のない機構OBに給与を払っているとして問題にされた。
国会でも契約の不透明さが批判されてきた。
しかし、その後もまったく体質改善されずにきた。
福島原発事故の後でさえも、何の反省もなくこんなカネのムダ遣いをしているのだ。
ほんとにあきれる。
国民よ、もっと怒れ。
野田内閣は即刻事業仕訳してすべて廃止せよ。
そしたら家庭の電気料金ずっとも安くなるだろう。
  
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2012年02月14日

続・日本は世界1長寿企業が多い

『週刊朝日』(2月24日号)が「超長寿企業に学ぶ日本型ビジネスの神髄」の第2回目。
世界に例を見ない長寿企業大国日本。
前回も紹介したように、日本には創業100年を超える長寿企業が2万5000社ある(一説には10万社ともいわれる)。
地域的には京都や江戸時代の北前戦の寄港地だった山形・新潟・島根などに多いが、業種別に見ると特徴がある。
以下、業種別長寿企業数を15位まで上げておこう。
1清酒製造(765)
2酒小売(578)
2旅館・ホテル(578)
4呉服・服地小売(573)
5貸事務所業(555)
6婦人・子供服小売(475)
7酒類卸(395)
8ガソリンスタンド(339)
9木造建築工事業(335)
10一般土木建築工事業(329)
11木材・竹材卸(320)
12菓子製造小売(283)
13印刷業(280)
14生菓子製造(265)
15金物卸(257)
以上みたように、最多は酒造業である。
酒造りは1300年前から日本にあったとされ、いまでも日本各地に酒蔵がある。
そこから派生した酒小売や酒類卸がベストテンに入っている。
さらに火山列島を代表する温泉旅館やホテルも多い。
ふだんの生活に欠かせない呉服・服地小売なども上位に入っている。
長寿企業は、地震や津波・台風などの自然災害、さらには恐慌や戦争といった人災をも乗り越えて生き残ってきた。
もともと核になる技術や強みを持っていて、それを生かしながら時代の変化に合わせて困難を乗り越えてきた会社が多い。
さらに、後継者たちは新しいものを創り出す進取の気性に富んでいた。
  
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2012年02月10日

なぜ日本は世界1長寿企業が多いのか

『週刊朝日』(2月17日号)が「超長寿企業に学ぶ日本型ビジネスの神髄」を連載し始めた。
(以下、野村進『千年、働いてきました』も合わせて参照)
日本に創業100年を超える会社は約2万5000社ある(一説には10万社ともいわれる)。
ヨーロッパにも創業200年を超える会社があるが、日本には創業200年だと1200社もある。
創業1000年を超える会社は6つもある。
こんなに長寿企業がある国は世界中で日本だけである。
日本で1番古い会社は大阪にある金剛組。創業は578年。今からなんと1400年以上前の飛鳥時代だ。
金剛組は聖徳太子が四天王寺を建設するため、百済からよびよせた工匠の1人、金剛重光が創業者だ。
重光は四天王寺完成後、帰化してこの地にとどまり寺をまもることを決意した。
四天王寺は戦乱や火災で何度も焼失したが、その都度、宮大工の集団である金剛組が中心となって再建してきた。
明治以降、時に存亡の危機に立たされたこともあったが、社寺専門の建設会社として今でも120人の専属宮大工を抱えて健闘している。
ちなみに、ヨーロッパで最も古い会社は1369年にイタリアで創業しているから、日本のほうが800年近くも古い。
金剛組以下、古い順に6位まであげておこう。
(2)西山温泉慶雲舘(旅館経営 山梨県)ー705年
(3)古まん(旅館経営 兵庫県)ー717年
(4)善吾楼(旅館経営 石川県)ー718年
(5)田中伊雅(仏具製造 京都府)ー885年
(6)中村社寺(建築工事 愛知県)ー970年
長寿企業のなかで、1912年(明治末年)までに創業した企業が占める割合の47都道府県順位6位までを書いておこう。
(1)京都府
(2)山形県
(3)島根県
(4)新潟県
(5)滋賀県
(6)長野県
なぜ日本に超長寿企業が多いのか。
日本特有の地理的・歴史的・思想的要因が超長寿企業の存続を可能にしてきたといわれる。
島国で気候の変化にとんだ地形。
庶民レベルまで根こそぎ変わることのなかった統治体制。
できるだけ良いものを作りたいという姿勢。
働くことに喜びを感じるメンタリティー。
技術を大切にする日本の思想。
武士が農民出身なので身体を動かして働くことを当然視されてきた歴史。
などなどだ。
長寿企業には財務面で顕著な3つの特徴があるといわれる。
(1)固定資産が多い。
(2)営業利益より経常利益が多い。
(3)在庫が多い。
長い年月かけて商いを続けてきた結果、長寿企業の多くが土地や固定資産を多く保有している。
経常利益の多さは企業としての財務体質の強さを物語る。
在庫の多さは非常時だも事業が継続できることを重視した判断である。
そうしたとこが歴史の荒波を乗り越えてき生き残ってきた秘訣ともいえるのだという。

  
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2012年02月07日

EU崩壊と「多様な欧州」への回帰―我々は危機の底まで下りていくしかないだろう=エマニュエル・ドットの予言

2月4日読売新聞にエマニュエル・ドットへのインタビュー「欧州再建ドイツ流の不安」「世界は危機の底までいく」が掲載されている。
ドットは次のように語っている。

「欧州統合は「仏独対等」という建前で進めてきた。
EU加盟国の関係は「国力の大小に関わらず対等である」ことが原則だ。
しかし、欧州危機で経済大国ドイツを頂点とする優劣の序列ができあがった。
欧州首脳はユーロ危機を克服するため、「ドイツ流」をEU全体で徹底させるとしたが誓約したが常軌を逸している。
財政均衡を実現するために一斉に歳出削減を実施すれば欧州全体の景気は後退する。
愚かな誓約だとの見方が強まっている。欧州は自己破壊に向かっている。
ドイツ流の通貨・財務管理は自由・民主主義を破壊しかねない。
デフォルト寸前のギリシャはすでに自由ではない。国民は自らの政府を選択できず、欧州委員会・欧州中央銀行の役人が財務管理にあたっている。
イタリアもドイツの圧力を受けて首相を実務家に代えた。
フランスは潜在的にドイツを恐れている。ドイツは19世紀以降フランスに3回進攻し2回成功させた。
1990年のドイツ再統一に対し、フランス政権はパニックに襲われた。
ユーロ創設はドイツに通貨マルクを捨てさせ、欧州のタガをはめるためだった。
だが、ユーロはドイツが欧州大陸の超大国になる道具となった。
ユーロは崩壊を免れないだろう。
21世紀は世界の至るところで人口の1%の再富裕層が国を左右するようになってきた。
民主主義はいま少数支配という真の脅威に直面している。
これに抗議して米国で1%運動が起きたが、「1%問題」は重要なテーマになるだろう。
欧州統合は失敗したといえる。
欧州の活力は多様性にある。統合崩壊で「多様な欧州」への回帰が進むだろう。
いま、世界のどこの国もうまくいっていない。危機は世界的な広がりをもつ。
世界で指導層がなにをすべきか途方に暮れている。本当の危険はいまの危機を政治解決できない指導層が戦争という手段を選ぶことにある。
ただ、時代の精神は「平和」とともにあり戦争は起きまい。
われわれは危機の底までおりていくしかないだろう。」

ドットはフランス政府から「認定書付き預言者」の称号をもらっているという。
ドットはかつて「ソ連崩壊」「米国衰退」さらに「アラブの民主化」を予言し「的中」させてきた。
ドットの予言する「ユーロ消滅」「欧州統合崩壊」「多様な欧州への回帰」はおそらく「的中」するだろう。
ドットのいう世界的危機の根源的問題は「近代の終焉」であり「資本主義の死」である。
近代資本主義は21世紀の今日、資本主義は食料・資源・環境といった自然の有限性に直面する時代を迎え、さらに地球規模でのフロンティアも消滅している。
こんごは資源と市場をめぐる帝国主義間の熾烈なたたかいが展開されるだろう。
その行き着く先は世界戦争だろうか?

  
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2012年02月03日

原発推進の陰に核兵器所有という支配層の野望

月刊『むすぶ』2012年1月号に、「原発は核兵器開発の隠れ蓑だった」という拙文を掲載し、本ブログでも3回に分けて紹介した。
ところで、高橋哲哉の近著『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書)を読んだ。
戦後の日本は米軍基地を沖縄に押し付け、原発を地方の過疎地に押し付けて繁栄してきた。
憲法に優越する「国体」としての日米安保の犠牲のシステムとしての沖縄米軍基地。
戦後日本の国策であった原発推進政策の犠牲のシステムとしての福島原発事故。
高橋はある者たちの利益が他者たちの犠牲によって生み出されるシステムを「犠牲のシステム」とよぶ。
『犠牲のシステム 福島・沖縄』は、沖縄と福島がともに戦後日本の「犠牲のシステム」であったことを論じた好著である。
高橋は前記拙文と同様のことも論じているので、高橋の著書からその点について補足しておこう。
政府の原発推進政策は核武装の能力を確保しておこうという野望があった。
もっと端的にいえば、「核兵器を持ちたい」という保守勢力の身を焦がすような欲望でがあったといえよう。
政府は従来、自衛のための必要最小限度の核兵器の保有は憲法上禁じられていないという見解を表明してきた。
福田赳夫首相は、「第9条によって、わが国は専守防衛的意味における核兵器はこれを持てる」と国会で答弁している(1978年)。
最近では安倍晋三内閣・麻生党太郎内閣等が核兵器の保有は自衛のための必要最小限度にとどまるならば、「必ずしも憲法の禁止するところではない」と表明している。
1970年、中曽根康弘防衛庁長官は核武装に関する日本の能力を「試算」し、5年以内に核武装できるが、実験場を確保できないために現実には不可能という結論に至ったという(『自省録』)。
宮澤喜一首相は就任直前、日本にとって核武装は「技術的にも可能だし、財政的にもそんなに難しい話ではない」と述べている(『中央公論』1991年9月号)
小沢一郎・自由党党首は講演で、中国共産党情報部との会談で次のように主張したことを紹介した。
「(日本が)核兵器を作るのは簡単だ。その気になったら原発のプルトニウムで何千発分の核弾頭ができる」(朝日新聞2002年4月7日)
日本政府は日本が核武装していないのは比較三原則やNPT参加等の政策的選択であって、現憲法下でも核武装は可能だという立場を保持していた。
日本政府によると2010年末時点で日本が国内外に保有するプルトニウムの量は30トンにのぼる。これは核兵器4000発に相当する量である。
石破茂・自民党政調会長はフクシマ原発事故の後の脱原発の動きをけん制して次のようには発言している。
「原発を維持するということは、核兵器を作ろうと思えば一定期間のうちに作れるという「核の潜在的抑止力」になっていると思っています。逆に言えば、原発をなくすということは、その潜在的抑止力をも放棄することになる」(『SAPIO』2011年10月号)。
このようにみてくると、政府の原発推進政策は核兵器を持って大国になりたいという欲望と、核武装の潜在的能力確保が国際的発言力を高めるという野望から来ていることは明らかだ。
  
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2012年02月02日

河谷史夫、山田洋次監督の「東京物語」リメークに激怒


月刊雑誌『選択』(2012年2月号)の河谷史夫「本に遇う」のタイトルは「東京物語への冒涜」である。
河谷は山田洋次監督が小津安二郎「東京物語」をリメークすると聞いて怒り心頭である。
冒頭からこうだ。

「わたしは寅さんを好かない。あの現実にはあり得ない紙芝居に付き合う義理はないし、そもそも「寅さん」は渥美清という希代の役者をダメにした元凶だと思っている。渥美の目を見よ。渥美は平然と残忍な人殺しをする役も演じられたはずである。それを「寅さん」のイメージを壊したくないばかりに自らを封じ込め、俳優としての可能性を閉ざしてしまった。実に惜しいことであった」
そして「東京物語」のリメークについて次のように批判している。
「天をも恐れぬ所業だ」
「ほんとうに尊敬していたら、その作品を未熟な身でいじくるなんてことはできるはずがない。…利用できるものは利用するとの魂胆だろう」
「山田の「黄色いハンカチ」もあったが、…わたしはあの最後に黄色いハンカチが風にはためく光景に耐えられない。いかにもあざとい。小津なら絶対にあんなシーンと撮らない」
「(小津の映画で)もっとも人びとに愛され、称賛される作品は、疑いようもなく東京物語である」
「東京物語とはそういう映画なのである。それを気安くリメークする映画監督がいるとは気が知れない。冒涜である」

わたしは小津の「東京物語」は見ていない。だが、河谷の「寅さん」批判には納得する。
河谷著『本に遇う1』は依然本ログで書評を書いたので再掲載しておく。

「『選択』という雑誌に2000−2005年に書いた書評の集成本である。さすが朝日新聞の書評委員を務めていただけあって守備範囲が広い。
たとえば東大教授だった中野好夫は「大学教授では食えん」といって東大を辞めてもの書きになった。
その中野が岩波の『図書』に准陰生の名で連載した「一月一話」というコラムがある。中野は話題に困ると「愛唱歌」を書いた。そこにはこんな歌がある。
<朝寝坊昼寝もすれば宵寝する、ときどき起きて居眠りもする。>
<楽しみはうしろに柱、前に酒、両手に女、ふところに金>
<まろ(麿)もまださしたる老いの身ならねば、握りさえすりゃじきに立つなり>
中野好夫といえば博学で名文家、なおかつ鋭い時評は定評があった。その中野が匿名でこんな文章を書いていたのかと楽しくなった。
河谷は作家の車谷長吉に触れながらこんなことも書いている。
「書かねばならぬこともないくせに、書き散らす輩ばかりの世間だ。本当に業を抱いて書いている人が幾人いるのか。「書かずにはいられない、呪いにも似た悲しみ」を刻んでいる物書きが何人いるか」
ほんとそうなのだ。昨今、読むに耐える文章なぞ、文学だけでなく、本にしろ評論にしろごくわずかである。
河谷の歴史認識には賛成できないが(米内光政・山本五十六・井上茂美などの評価は甘いといわざるを得ない)、定年後の酒と読書の人生はいいものだ(副題には「酒と本があれば、人生何とかやっていける」とある)。
新聞社を退職して大学教授などになる輩よりはるかに好感がもてる。」
 
  
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2012年02月01日

原発は核兵器開発の隠れ蓑だった!(3)―東日本第震災(9)

以下の文章は月刊『むすぶ』2012年1月号に、「東日本大震災(9)―原発は核兵器開発の隠れ蓑だった」のタイトルで掲載した文章である。3回に分けて本ブログに掲載する。

外務省の外交政策企画委員会がまとめた「わが国の外交政策大綱」一九六九年版には次のように書かれている。
「核兵器については…当面核兵器は保有しない政策はとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャル(能力)は常に保持するとともに、これに対する掣肘を受けないよう配慮する。又、核兵器の一般についての政策は国際政治・経済的な利害得失の計算に基づくものであるとの趣旨を国民に啓発する」。
 その後の日本政府の政策は外務省内部文書に規定された三つの路線を忠実に遂行するものであった。非核三原則(当面核兵器は保有しない)、動力炉核燃料開発事業団と宇宙開発事業団の設立(核兵器製造能力の保持)、軍事的野心を隠蔽して電力生産を強調した核燃料サイクル計画(これに対する掣肘を受けない)などである。
吉田・鳩山・中曽根・岸信介と引き継がれてきた日本の核政策は、佐藤栄作によって道筋が定められ現在に至っている。核の軍事利用と商業利用とは別のものだとする世論が形成されていた日本社会では、原子力政策を軍事的な視点から評価することができなかった。佐藤が構築した核燃料サイクル計画と称する国策を今こそ根底から見直す必要がある。これが藤田論文の結論である。
クックの著書と藤田論文をふまえて論点を整理しておこう。第一に原子力の軍事利用と平和利用は不可分である。戦後の日本社会は原子力の平和利用と軍事利用について明確にこれを区別してきたが、為政者たちはこれを一体のものとして戦後の原子力政策を立案してきた。為政者は「原子力の平和利用」を核兵器開発のカモフラージュとしてたくみに利用してきた。彼らにとって国際政治の場で優位に立つために核を手にすることは必要条件であった。そのために原子力政策は国策として多額の予算が計上されて推進されてきた。科学者・専門家は原子力のバラ色の未来を描いて国策に加担してきた。一方民衆は核兵器と原子力発電は別であり、原発は電力を生産しエネルギー問題を解決するものだとマインドコントロールされてきた。それゆえ原発論議はつねにエネルギー問題として議論され、その必要性と安全性が論議の対象とされて、為政者の隠された意図を見抜けないできた。
第二に原子力は民主主義とは共存できない。戦後原子力問題が論議された時、日本学術会議は「自主・民主・公開」の三原則をうちだした。だが原子力政策は機密主義の壁で過剰に防衛され、原子力ムラはその秘密主義によって利権を保守している。戦争が「非常時」の名で民主主義を踏みにじるように、自然と人間社会を破壊しかねない原子力は危険回避の名目で社会のあるべき自由を剥奪し、民主主義と相いれない。
第三に人類と原子力の共生はあり得ない。生態圏に深刻なリスクをもたらす原子力エネルギーは人間の手に負えるものではない。山本義隆が指摘しているように、核の暴走は人間の手でコントロールすることはほとんど絶望的だ。また廃棄物を数万年も管理することは人間に許された限界をはるかに超えている。自然界に存在しないプルトニウムのような猛毒物質を作りだすことも許されるべきではない。そうすると人類と原子力エネルギーとの共生・共存はあり得ないという結論になるだろう。
第四に核廃絶とは核兵器と原発がワンセットでなければならない。ノーモア・ヒロシマはノーモア・フクシマと一体化した世界民衆の反戦平和の運動によって達成されるだろう。今や世界のいたる所で脱原発運動が高揚している。フクシマの唯一の教訓は人命を危険にさらし環境を汚染しなくても電気は作れることを世界に示したことだ。東日本の真の復興は核廃絶と原発離脱の道を世界に先駆けて日本が示すことによって切り拓かれるだろう。

  
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