以下の文章は月刊『むすぶ』2012年2月号に、「東日本大震災(10)―なぜ岩手に原発が造られなかったか
」のタイトルで掲載した文章である。3回に分けて本ブログに掲載する。
東日本の太平洋岸には青森県から茨城県まで一五基の原子力発電がある。全国五四基の原発中四分の一が集中している。だが岩手県だけは原発がない。なぜだろうか。
じつは岩手県にも一九七〇年代に原発が建設されようとした歴史がある。私の郷里は岩手県田老町摂待だ。現在は市町村合併で宮古市摂待地区である。私が大学時代、摂待に「田老原発」の建設計画が浮上した。岩盤が固く原発立地に好都合だという理由からだった。
地元の人は大反対だった。原発は絶対に阻止すると意気軒昂だった。だが、原発建設の話はいつの間にか立ち消えてしまった。その陰に地元の実力者で元首相の鈴木善幸の存在があったとされる。
一月二一日の朝日新聞で本田修一記者が「原発国家 三陸の港から」「空白岩手 陰に和の政治」として取り上げている(以下、同新聞記事より要旨引用)。
「摂待地区に原発の立地計画が持ち上がったのは一九七五年だった。青森県から茨城県まで太平洋沿岸で岩手県だけ原発が出来なかった。三陸の網本の家に生まれた元首相、鈴木善幸を抜きにその歴史は語れない。
岩手県への原発誘致は進むかに見えた。通産省が七〇年前後に地質調査し、最有望とされたのが摂待地区だった。八〇年には善幸の子飼いだった中村直知事が議会で、「県民生活の安定や産業振興に原子力を含む大規模発電が必要だ」と表明。八二年には県が摂待地区を含む四か所を適地として東北電力に売りこんだ。
地元経済界には賛成論が強く、誘致に伴う公共事業への期待も膨らんだ。岩手選出の衆議院議員、玉沢徳一郎や小沢一郎も賛成を表明していた。だが、漁民たちはワカメやホタテの養殖漁業がダメになると反対した。三陸のアワビは一回の漁で数万円になった。漁業で十分に食べていけた。
善幸は中央政界では原発推進だった。八〇年、首相に就任した時の記者会見で「石油代替エネルギーはなんといっても原発だ」と明言。首相として初めて岩手県庁で記者会見した時も、「原発で県内エネルギーの自給度を高めることは国全体にも寄与する」と言い切った。
一方、地盤の三陸では別の顔を見せた。田野畑村村長を八期三二年務めた早野仙平が「原発交付金は村の予算の四倍、三〇億円以上もらえるが、使う知恵がない」と伝えると、善幸は「そうだな」と満足げだったという。長男で前衆議院議員の俊一には「三陸に原発は造らせない」と断言していた。
八二年に首相を退いた後も原発誘致の決着を先延ばしにしつづけ、三陸の漁港を訪ねては改良していった。そのうちに日本は石油危機を乗り切って原油価格は下落し、岩手県の原発計画は立ち消えになった。
団結を重んじ、対立を持ち込まない。三陸の漁村は共同体の亀裂を忌み嫌う。その危険を冒してまで原発利権に手を伸ばすよりも、水産族のドンとして着実に漁港を整備していくほうが善幸には自然な選択だった。」
ネット上を検索すると岩手県に原発が造られなかった理由がいくつか散見される。そのなかでも有力なのが岩手県には強力な政治家がいたからだとする説だ。
一九六〇年代の岩手県の保守政治家は、鈴木善幸・椎名悦三郎・小沢佐重喜・志賀健次郎などである。彼らは東北電力の政治力・資金力で簡単に動くような政治家ではなかった。岩手県はこれらの強力な保守政治家をかかえ、農林水産物への政府援助や道路・鉄道・港湾などの公共事業、農地の構造改革事業などで生活が成り立っていた。政治家も県民も危険な原発よりも公共事業や農林水産業で利益をえる方向を選んだ。すなわち、東北電力は岩手県選出の政治家に負けたとする説である。
だが、この見解には首をかしげざるをえない。原発建設計画が持ち上がったのは一九七〇年代後半である。政治家の世代交代も進み、新聞記事にもあるように小沢一郎や玉沢徳一郎らは原発建設に賛成していた。やはり岩手県に原発が造られなかった大きな要因は、三陸沿岸を選挙基盤にした鈴木善幸の存在ぬきには語れないだろう。