2017年11月30日

11月に読んだ本

何冊かは書評で紹介しているが、11月に読んだを本を羅列しておこう。
’濺沈妓福愼本ナショナリズムの歴史』機銑検
⊃綱椶△鵑蝓惱ゞ宜餡肇▲瓮螢のふしぎな論理』
N詭斃凌痢悄峺宜罅廚叛鏝綟本』
ず監Mァ澣楮螻悄悄嵋汁する」世界の正体』
ゲE長粍譟愀法と天皇』
β嫉獲害臓慍嵜譴辧
д尚中他『明治維新150年を考える』
╂古浩爾『定年バカ』
NHKスペシャル取材班『健康格差』
隈元信一『永六輔』
鈴木武樹編『元号を考える』
村松剛他『元号ーいま問われているもの』
佐藤正幸『世界史における時間』
堀内哲編『天皇退位ー天皇制廃止ー共和制日本へ』
合計17冊、約4700ページ(雑誌類はのぞく)。
1年間この調子で読んでも5万ページである。
かつて佐高信が1年間10万ページ読んだと何かに書いていたと記憶する。
佐高の足元にもおよばない読書量だ。
だが、最近やっとほんの読み方が分かってきたように思う。
だから読書のたのしみがふえた。
読んでも読んでも知らないことばかり。
学んでも学んでもおいつかない。
若いころサボっていたことを猛省しながら、日々の読書をたのしんでいる毎日だ。
この年まで生きてきて、いろんなことに手をだしてみて、やっとわかったことがある。
おれのいちばん好きなことは読書だということ。
歴史だということ。
書くことだということ。
だからのこりの人生、読み、書き、研究し、学問をふかめる。
この道よりなし、この道を行く。
それこそがおれの「道楽」だ。
人生の「きわみ」である。
倒れるときは前に倒れる。
  

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2017年11月28日

元号を考えるァ偲傾弔半綛弔脳歡Г瞭鷭点

昭和から平成へと改元されるときは、天皇制が大きな問題として論議された。
ところが今回は元号廃止はもちろん、天皇制論議も皆無だ。
これは異常である。
読売新聞「退位へ5」(11月27日)。
「世襲によって125代続いてきた天皇という存在は、世界でも類を見ない。
陛下の退位を一つの区切りとしても将来にわたって皇室の歴史を連綿と刻んでいける環境を整えることは、政府の責務といえる」
毎日新聞・山田孝男「風知草」(11月27日)。
「新元号の下でグローバル化はさらに加速しよう。
改元の時期以上に大切なものは、我々が象徴天皇制の継続を選ぶという事実、自衛は放棄しないが世界平和を求め続ける日本であるという自覚だろう」
読売新聞・御厨貴「退位と改元」(11月27日)。
「(平成は)震災と自然災害の30年であった。…
情報通信の革命的変化の30年。…
政治体制でいえば、改革の30年である。…
かくして明治150年と明治・昭和・平成の30年のダイナミズムこそが、我々の歴史認識を新たにしてくれることが分かるだろう」
どの論説も元号と象徴天皇制の存続を是としている。
特に御厨の論説は何が言いたいか不明の駄文である。
ところで、読売新聞「退位へ3」(11月25日)が興味ぶかい記事を掲載している。
天皇明仁は退位後も活発に活動を続けるつもりではないか。
宮内庁は退位後の上皇の内廷費として、「30年間天皇を務められた方にふさわしい予算と体制」を要求している。
そのため、上皇の活動を支える職員数は現状維持となる。
天皇・皇后を支える現在の79人の職員はほぼそのまま上皇職に移動する。
宮内庁は天皇の象徴的行為はすべて新天皇に引き継がれるとしている。
ただし、被災地慰問や慰霊の旅などの活動は天皇の意思に基づいて行われてきたもので、こんごの活動は「陛下のお考え次第」だとする。
官邸が昨年3月作成した内部文書にはこう書いてある。
「象徴たる天皇のほかに、かつての象徴たる上皇が存在する制度が、国民の抱く皇室像に合致するか」。
天皇と上皇による「象徴の二重化」が生じれば、象徴天皇制の土台を揺るがしかねないという危惧である。
「公的行為」が天皇と上皇により「二重化」されることによる象徴天皇制の問題については改めて言及する。

  
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2017年11月26日

元号を考えるぁ柴蒜笋板日の記事から

11月26日付読売新聞「退位へ4」は、「混乱なき元号移行 探る」として次のように書いている。
国内で通算248番目となる元号は、2019年5月1日の改元に先立ち、2018年前半にも公表される予定だ。元号の事前公表は大化から平成までの1300年で元号史上初となる。
新元号についてはすでに学者が複数の元号候補を政府に提出済みだ。
政府は「絶対漏れないように」と情報漏洩に神経をとがらせ、関係学者なども箝口令をしかれている。
特例法案の作成段階で、新元号の意見公募については、「公募すれば混乱するだけ」との反対意見で見送られた。
また、元号は天皇死後の追号でもあるため、新元号を発表しても正式決定は出来ないとされる。
しかし、政府が新元号を事前公表するのは、元号を利用する官民のコンピューターシステム改修などの時間を確保するのが狙いであると読売は報道している。
一方、11月25日付朝日新聞社説「改元の時期 国民不在で進む議論」は次のように書いている。。
改元の日程など話し合う皇室会議が12月1日に開催される。
政府内では「2019年4月30日退位、5月1日即位改元」が有力視されている。
朝日新聞の今夏の調査では、改元を1月1日とするのに賛成70%、4月1日が16%だった(元号制度を今後も続けていく方がよいは75%)。
改元するのであれば年が改まるタイミングがよい。
優先すべきは市民の生活で、あえて世論に反する措置を取る必要はない。
だが、宮内庁は2019年1月7日は昭和天皇が亡くなって30年の式典があると難色。
また、政府は3月から4月は統一地方選があるとして反対。
そこで5月案が浮上した。
国民のことよりも皇室の私的行事や政治の都合が優先された。
だが見方をかえれば、西暦が国民の間に定着して元号離れが進み、改元時期にそれほど神経質にならなくてもいいという現実でもある。
このさい、公的機関の文書に元号と西暦の併記を義務付けるよう改めて提案する。
先の世論調査では、運転免許証などの西暦使用を支持する人が23%、元号と西暦の併用が55%であった。
改元は人々の日常生活におよぼす混乱を最小限に抑えるのが政府の務めであると、社説は述べている。
読売も朝日も改元を前提とした報道だ。
そこには元号に対する一片の懐疑もない。
特に朝日の社説はまったくバカバカしい。
どうせ提案するなら、「公的機関の文書は西暦でも元号でもどちらでも好きな方にすればよい」、となぜしないのか。
わたしは西暦1本が合理的だと思う。
元号は反対なので改元時期はどうでもよいのだが。

  
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2017年11月23日

元号を考えるー元号派の主張

1977年に出版された村松剛他『元号ーいま問われているもの』を読んでみた。
‖湿捷筺疇本の民族文化の歴史尺度として元号がある。
元号は民族の歴史感覚の根本にあるものだ。
そして、日本の文化伝統の中核にあるのが天皇だ。
その天皇と国民を結びつける巨大なきずなが元号である。
自分の民族の文化伝統に対する愛情なしに文化は成立しないし、その未来もない。
自分の国の文化・伝統を無視して国際社会はあり得ない。
元号は国民に支持されているのだから、西暦との併用で何も問題ない。
∧‥長餌検畍宜翡兒澆藁鮖法ε租の断絶と文化の荒廃をもたらすゆえ、西暦と元号の両建てで行くべきである。
0営田蘇А畍宜翳歛枯声圓聾宜罎叛称颪瞭麒四兌腟舛任△襦
世界には50以上の暦がある。
暦法はそれぞれの文化伝統にもとづく。
それぞれの国の独自な暦法と西暦の併用で何の問題もない。
西暦のみをおしつける元号廃止論は無謀である。
日本人は「時」を意識するとき、天皇在位の年号で考える。
これは国民統合の上で大きな精神的心理的意味をもつ。
元号は天皇が「国民統合」の象徴となるべく支柱の1本である。
国民の統合は政治には至難である。
1国の精神文化・国民道徳の力をまたねばならない。
日本は歴史上、国民統合の核を天皇のなかに見出して来たし、今もそれは変わらない。
す喟邉徭菽法畊掌融代の死儒学者が一世一元論を論じている。
藤田幽谷『建元論』、中井竹山『草茅危言』、広瀬淡窓『懐旧楼筆記』などである。
それが幕末の後期水戸学の会沢正志斎らに引き継がれていく。
明治の一世一元の改元案は岩倉具視である。
1868年9月8日、明治改元と一世一元の詔書が布告された。
一世一元の年号は国民と天皇を結ぶ「生命の輪、黄金の結び目」であり、「民族的運命共同体の生命の結節点」である。
元号派の主張はつぎの点に要約できる。
仝宜罎脇本の伝統的な歴史尺度である。
∪称颪噺宜罎諒四僂呂覆鵑量簑蠅發覆ぁ
N鮖謀に天皇は国民統合の中核である。
じ宜罎賄傾弔国民統合の象徴となる支柱だ。
  
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2017年11月21日

元号を考える◆柴盪垣瓩痢崗赦造亮叉咫廚砲弔い


11月19日付中日新聞に哲学者の内山節が「革命的にすたれる昭和」という文章を書いている。
次のような内容だ。
昭和的な雰囲気をもっているものが、これから次々に「失脚」していく時代が始まっている。
ここでいう昭和的とは、戦後の昭和といってもよいし、高度成長期とともに形成された昭和的雰囲気でもよい。
居酒屋で若い社員に企業人の心得を説教する管理職。
オレにまかせろタイプの寝技政治家。
昭和的革新勢力。昭和的雰囲気を醸し出すものへの嫌悪が広がっている。
社会はすでに昭和ではなくなっている。
終身雇用も年功型賃金も消費的豊かさも昭和的物語は過去のものである。
わたしたちの生きる世界のなかで、昭和に構築したものが生命力を失いつつある。
そういう変化とともに、昭和的な価値観や雰囲気を感じさせるものに嫌悪感を抱く人たちがふえてきた。
今日の社会では昭和的な雰囲気・価値観をもっているものが「失脚」していくとう、静かな「下からの革命」が広がっている。
以上が内山の文章の論旨である。
内山のいう「昭和の失脚」とは「元号の失脚」である。
第1に、学者・研究者が元号により社会を分析・研究していたのは昭和とともにおわり、平成以降は西暦の10年代区切りで社会を分析する視点が一般化しているのだ。
第2に、平成は1990年から2020年の30年である。
だが、「平成10年」「平成20年」とはだれも言わない。
90年代、ゼロ年代の西暦区切りが一般的だ。
第3に、庶民は慣習と惰性で「平成」を使用しているが、平成の30年を平成的な時代的感覚・雰囲気として受け止めている人はほとんどいないだろう。
もう、学者・研究者も「元号的思考」は止めたほうがよい。
「元号」はすでに「失脚」しつつあるという「下からの革命」がしずかに進行しているのだ。

  
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2017年11月20日

元号を考える 縞礎行人の元号論への批判

柄谷行人は元号について次のように書いている(『定本柄谷行人集5歴史と反復』)。
〔声・大正・昭和といった元号による区分は、ひとつの自立的な言説空間を組織し、外部との関係を忘却させてしまう。
であれば、こうした元号による区分を一切すてて西暦で考えればよいかというと、そういうわけにはいかない。
◆嵬声の文学」というものを、たんに19世紀や20世紀といった概念で語ってしまうことはできないのだ。
そこには、明治という固有名詞をとると消え失せてしまう何かがある。…
われわれが「明治的」とか「大正的」と呼ぶものは、ある歴史的な構造を象徴するかぎりでたしかに存在する。…
どの地域にもそれぞれ固有の言説空間があり、また時代区分があることはまちがいないのだ。
それは西暦で考えると失われてしまう。…
むろん西暦は不可欠である。
ただし、それはいわばメートル法のようなものであり、キリスト教的な意味を捨象したものでなければならない。それは、各地の時代区分がそれぞれの「世界」の言説空間にもとづくにすぎないことを示すかぎりにおいて不可欠である。
一方、普遍的な世界は、こうした多数の「世界」が相互に関係しあう、その諸関係の総体としてしてかありえない。
の鮖乏悗呂曚箸鵑俵萓擇蠅鬚瓩阿辰徳茲辰討い襦
区切りが事柄の意味を変えるからだ。
だが私の関心は西暦で考えられることと日本の元号で考えられることとの「視差」から、歴史の反復的な構造を見出すことである。
ァ崗赦臓伺代」という言い方が可能なのは「昭和30年代」までである。
それ以後は70年代、80年代という言い方が普通だ。
それでは柄谷の右の論を踏まえて元号について論じてみよう。
,燭靴に「明治の文学」とか「昭和の文学」、あるいは「明治的」とか「昭和的」といった時代区分で語るべき言説はあるだろう。
しかし、同じように「平成の文学」とか「平成的」という時代区分で語るべき言説があるのか。
それは明治や昭和にくらべ平成が30年しかないといった時間の問題ではない。
△弔泙蝓元号が「自立的言説空間を組織」しえたのは昭和の時代、それも昭和30年代までではないのか。「平成」以降はそのような元号による言説空間は存在しえないのではないか。
だから、「平成の文学」も「平成的」という言葉も存在しないのではないか。
昭和30年代以降は、60年代、70年代、80年代、といった西暦の時代区分が一般的である。
これは21世紀になってからも継続されている。
1970年代以降、元号による時代区分から西暦による時代区分へとシフトしてきている。
いわば西暦はメートル法同様世界標準化しつつある。
な礎がいう「多数の世界が相互に関係しあう、その諸関係の総体」をあらわすのは、元号ではなく西暦こそがふさわしい。
なるほど世界的に見ればいまでも西暦と紀年号を併用している地域・国はある。
世界で使用されている紀年号は建国・独立記念や宗教的な通年制のもで、日本の元号とは根本的に違う。
ナ礎の関心である西暦と元号の「視差」による歴史の反復構造の解明は学問的には有効なのかもしれない。
しかしそれは学問研究の領域の話であり、一般庶民には無関係だ。
柄谷自身も本書で元号支持を明確に表明しているわけではない。
あくまでも研究対象として元号に言及していると推察する。
庶民は元号を慣習と惰性で使用しているだけだ。
明日から元号がなくなっても何も困ることはない。
西暦で時代を区分していくだけである。
 
  
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2017年11月19日

北朝鮮の外貨稼ぎ=北朝鮮は国際的に孤立していない

核実験や弾道ミサイルで世界の脅威となっている北朝鮮だが、サイバー攻撃の能力は世界屈指だということを本ブログで書いた(「北朝鮮のもうひとつの脅威=サイバー攻撃」9月6日)。
北朝鮮はサイバー攻撃で世界の金融機関から多額の資金を奪い、その資金が核兵器やミサイルの開発にあてられている。
だが、北朝鮮の外貨稼ぎはサイバー攻撃だけではない。
9月19日付毎日新聞は北朝鮮のアフリカでの外貨稼ぎを特集している。
以下、同新聞より。
北朝鮮は欧州からの植民地解放闘争への支援などを通じて、アフリカ諸国との間に友好関係を確立してきた。
.淵潺咼◆畭臈領官邸、独立記念博物館、武器工場、国防省新本部などを建設。
ナミビアの独立運動に対して、北朝鮮は1960年代以降軍事訓練を実施してきた。
ナミビアは北朝鮮が独立(1990年)前からの「盟友」であることを強調。
国際的批判にさらされても「長年の友好関係はこんごも維持する」と表明している。
▲Εンダ=空軍パイロットや警察官に訓練を実施。
拳銃など小火器を輸出。ウガンダのムセベニ大統領は国連総会で、「過去に戦車部隊の設立を支援してくれた」と北朝鮮への感謝を表明する演説を行った。
アンゴラ=記念塔や平和公園などを建設。
大統領警護隊に訓練実施。
ぅ織鵐競縫◆畸和亢ミサイルや防空システムの修理や整備。
ゥ皀競鵐咫璽=携帯型防空システムや地対空ミサイルなどを輸出。
Ε灰鵐粥畭臈領廟や首相像建設、拳銃輸出、軍事訓練。
北朝鮮はその他、エチオピア・ジンバブエ・セネガルなどアフリカの15の国と貿易関係を維持している。
銅像ビジネスだけで年間数千万ドルの外貨を獲得しているとされる。
シンクタンク「安全保障研究会」(南アフリカ)が昨年発表した報告によれば、北朝鮮とアフリカ諸国の貿易額は1998〜2006年は年平均約100億円だった。
それが2007〜2015年は年平均約250億円にふくれあがった。
北朝鮮は国連が制裁にのりだす中で国際的孤立を回避し、対中国依存を減らすためアフリカとの経済協力を強化してきたとみられている。
多くのアフリカ諸国は
「すべての核保有国が核兵器を廃棄すべきであり、北朝鮮だけを責めるのは不公平だ」
という見方が一般的だという。
こうした調査や報告書から浮かび上がってくるのは、「北朝鮮が国際的に孤立している」とのイメージが現実と乖離していると毎日の記事は記している。
  
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2017年11月18日

国会の質問時間=浜教授「卑怯者の追及逃れ」と与党を指弾

国会での質問時間を「与党5野党5」にしたいと自民党が提案した。
結果的には「与党1野党2」で決着したが、これを先例にするわけではないと与野党で合意した。
与党2野党8は民主党政権時代、野党である自民党の要求で配分された。
議会は議員が政府に質問して行政監視をするところだ。
野党の質問時間が多いのは当然であり、自民党の要求は言語道断であり天に唾するものだ。
立憲の辻本議員は質問時間について「本当に嘆かわしい」と語る。
与党の要求自体、「議院内閣制における立法府の役割を理解していない」と話す。
「立法府は野党がチェックする場で、与党議員の意見を聞く場にしたら、戦前の大政翼賛会になってしまう」(11月14日付朝日新聞)。
辻本議員のいうとおりである。
この問題を舌鋒スルドク批判しているのが同志社大・浜矩子教授である。
11月18日付毎日新聞「危機の真相」は「質問時間めぐる与党画策に絶句」である。
以下、要旨を引用する。
国会での質問時間を「与党5野党5」にしたいと自民党が提案した。
菅官房長官は議席数に時間配分も応じるのは国民からすればもっともだとのべた。
国会とは何をするところだと心得ているのか。
議院内閣制の下では政府と与党は限りなく一体だ。
与党議員が政府に向かって質問するのは、形式主義的自問自答にすぎない。
しかも自民党には「事前審査」の慣習がある。
与党の議員はあらかじめ政府から政策や法案について説明を受ける機会がある。
国会の場で何をどうやり取りするのか。
そこから何が得られるのか。
「議席数に応じて」という考え方は実に不心得だ。
数の力を絶対視している。
勘違いもはなはだしい。
作為的なら極めて悪質だ。
多数を占める者たちは何をしてもいい。
どんな大きな顔をしていていい。
こんな子どもじみた論理で議会制民主主義を運営できると思っているのか。
絶句も極まる。
議院内閣制における政府・与党というものは、人間の知性に従ってより多くの質問時間を野党に使ってもらおうとするはずだ。
そのような知恵と見識が働かない者たちに、議員となる資格はない。
たとえ、野党議員がたったひとりしかいなくても、その人に10のうち8の質問時間を付与する。
それくらいの構えがなければ、議会はその機能を真っ当にはたしているとはいえない。
内輪で質疑のまねごとをして何が生まれてくるというのか。
国会の場において政府は審査対象者だ。
与党はその身内である。
審査委員を務めるのが野党の役割だ。
質問をするのは基本的に野党の任務だ。
これは国会論議の基本認識である。
「議席数に応じて」は一強のおごりにほかならない。
それでは政府・与党はなぜ野党の質問を削減したいのか。
ここまでして質問から逃げようとするのはおごりからなのか。
どんなことをきかれてもいくらでもお答えします。
そのように受けて立てないのはなぜか。
じつはそこに怯み(ひるみ)と怯え(おびえ)があるからではないのか。
これは「一強のおごり」ではない。
卑怯者がおじ気づいて、追及から逃げようとしている。
それが「議席数に応じて」の不都合な真実ではないのか。
以上か浜教授の「機器の真相」の要旨である。
浜教授は沈滞するメディア界でひとり気を吐いている。
毎日・中日新聞等の教授のアベ政権批判の快刀乱麻の記事にはいつも胸のすく思いだ。
浜教授があと5人いたら、日本も少しはかわるだろう。
ところで浜教授は来年2月、春日井市で講演する予定だ。
わたしは楽しみにしている。
  
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2017年11月13日

森本あんり『宗教国家アメリカのふしぎな論理』を読む

「富と成功」の福音と「反知性主義」がトランプ現象の背景にある。
大統領選挙ではキリスト教徒の大多数がトランプを指示した。
「富と成功」の福音の論理から、トランプは成功しているからきっと神が祝福しているに違いないという理屈になる。
トランプは反ワシントン・反ウォールストリートによるエスタブリッシュメントへの攻撃、知性と権力の結びつきに反発する反知性主義で民衆の支持を集めた。
アメリカ大統領にはしばしば「愚か者」が選ばれる。
2000年の大統領選挙ではゴアとブッシュが争った。
ゴアはハーバード大卒の秀才だが、国民が選んだのはブッシュだった。
その前は2流の俳優で政治家としては無能だと思われていたレーガンが大統領に選出された。
1952年の大統領選挙では、スティーブンソンとアイゼンハワーが争った。
スティーブンソンは祖父が副大統領を務めた名門出身で、プリンストン大卒業。
対するアイゼンハワーは名将だが、知的に凡庸で、演説も下手、政治経験ゼロ。
選挙で投票したこともない。
だが大衆は「アイ・ライク・アイク」と連呼し、彼の圧勝となった。
反知性主義はこの時の大統領選挙を背景に生まれた。
19世紀前半のジャクソン第7代大統領。
無学で地元の人々は「あの悪党が大統領になれるならだれでもなれる」といわれた。
対立候補からは「ロバ」といわれた。
ロバは「まぬけ」「とんま」の意味だ。
そのロバが今や民主党のキャラクターとなっている。
対立候補のアダムズは再選を狙う現職の大統領。
父は第2大大統領ジョン・アダムズ。
彼はハーバードの教授も務めたインテリである。
この時の大統領選挙から一般人が投票に参加出来るようになり、リバイバル集会並みの大衆動員の大掛かりな大統領選挙が行われた。
結果はジャクソンの大勝利であった。
その後ジャクソンは八面六臂の活躍で、彼の時代はのちに「ジャクソニアン・デモクラシー」と呼ばれた。
アメリカを偉大にしてきたのは人権や民主主義を普及するといった大義名分があったからだ。
大義名分があったからこそアメリカのパワーとヘゲモニーは国際的に認証されてきた。
アメリカを偉大にしてきたのは経済力や軍事力だけではない。
目的の正統性である。
ところが、トランプ大統領は正義や人権・平等といった理念を棚上げして、国内経済さえ潤えばいいという「アメリカ・ファースト」である。
そもそもなぜ彼は大統領を目ざしたのか。
大統領として何かすることよりも、選挙に勝ち自分が世界に認められることだったのではないか。
アメリカを特徴づけるのは「自由意思崇拝」すなわち「なんでもできる精神」である。
自由意思崇拝は自己責任論と直結している。
「やろうと思えば何でもできる」の裏返しは、「できないのはやる気がないからだ」となる。 
なぜアメリカはそこまで意志力を崇拝するのか。
それはアメリカが意志の発動で作られた国だからだ。
つまり国家そのものが意志の産物なのだ。
どこの国でも長い歴史を背負って国家を形成する。
だが、アメリカは歴史に足を取られることなく国家形成することができた。
アメリカでは「神の前の平等」という宗教的信念により平等主義の倫理が確立した。
その平等主義がエンジンとなって、反エリート・反権威の精神が形成されてきた。
ポピュリズムとは代議制民主主義の「影」であり、ある種の宗教である。
ポピュリズムは特定の問題について賛否を問う。
二者択一は「悪に対する善の闘争」という宗教的二元論に陥りやすい。
市政の人々もこれを歓迎する。
日常の不満をそこにぶつけることができるからだ。
かくして人々は主体的政治参加を実感することができる。
だが政治は単一主義ではなく多元主義である。
だが、部分が全体を僭称するとき、暴走して全体主義へと一歩を進める。
今日、正統性の浸食が世界的に拡散している。
人々はインターネットでいつでも政治にアクセスできる。
人々は正統である必要を感じず、「みんな違ってみんないい」のだ。
だから現代はあらゆる局面で「権威」の失墜「正統」の弱体化を招いている。
進歩・自由・人権はそれぞれ民主主義の大事な構成要素だ。
それらが単独で暴走した結果、新自由主義・ポピュリズムに変質して民主主義を蝕んでいる。
その先にあるのは理念や目的を欠いた場当たり的ポピュリズムの支配である。
会社でいえば利益だけ追求する経営である。
正統とは社会全体を支える基礎的信頼関係のことである。
人は金儲けだけで生きているのではない。
自分が社会の役に立っている意識を持つことが大事だ。
そこに「正統」の根拠がある。
正統を担う人たちが社会を変えると著者は結論している(完)。
  
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2017年11月12日

森本あんり『宗教国家アメリカのふしぎな論理』を読む

アメリカはふしぎな国だ。
国民の半分が進化論を否定している。
4割が2050年までにハルマゲドン(最終戦争)が起きて地球はなくなると思っている。
健康保険制度や銃規制にも反対だ。
デモでは「ビッグ・ガバメント ビッグ・ミステイク」のプラカードが林立する。
キリスト教がいまでもさかんだ。
トランプ大統領もキリスト教徒だ。
酒を飲まない、タバコも吸わない。
刺激物はコーヒーすら飲まない。ギャンブルもやらない。
きわめて禁欲的である(もっともヒトラーもムッソリーニも酒・煙草とは無縁だった)。
彼は敬虔なキリスト教徒で、福音の伝道者である。
福音とは「富と成功」である。
福音とは「富と成功」である。つぎの3段論法だ。
/世論気靴ぜ圓暴吠,鰺燭─悪い者には罰を与える。
∪気靴ぜ圓覆蘓世僚吠,鮗ける(成功し大金持ちになる)。
神の祝福を受けているならば正しい者だ(神は自分を認めてくれているから、自分は正しい)。
つまり、「この世の成功」と「神の祝福」はイコールで結ばれる。
成功に必要なのは機会の平等だけである。
機会の平等さえ保障されていればあとは自分の努力次第。
これが「アメリカン・ドリーム」である。
「富と成功」は「勝ち組」の論理である。
自分の「勝ち」は説明できても、「負け」を説明することはむずかしい。
若い国家アメリカには、不条理を説明する「苦難の神義論」が欠如していて、原理主義的な「幸福の神義論」しかない。
だから「勝ち組」の論理で無限に勝ち続けるしかない。
「富と成功」の福音にも落とし穴がある。
富を手に入れて、それを何のために使うのか。
経済行為は手段である。
だが、成功することが目的化したら、その次は何をするのか。
目的が見失われてしまう。
トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』で、アメリカ的宗教の特色として「宗教と現生的利益の結びつき」を指摘していた。
これはキリスト教がアメリカに土着した結果、「亜種」として生み出された教義である。
アメリカでは宗教的平等意識と富の福音は奇妙な形で結びついている。
両者を結びつけているのが「反知性主義」とい伝統である。
反知性主義とは知性を蔑視することではない。
知性と権力が結びつくことへの反発である。
アメリカの宗教的伝統としてリバイバル=信仰復興がある。
奴隷制廃止や女性の権利拡張運動、公民権運動や消費者運動に大きな影響を与えてきた。
なぜリバイバルがこうした運動の原動力となるのか。
それはリバイバルが「平等」というアメリカ的理念と結びついているからだ。
このラディカルな平等主義こそ「反知性主義」の主成分なのだ。
信仰復興とはある時期・ある地域に起こる宗教的な「集団ヒステリー」である。
信仰復興運動の担い手は各地を回って伝道する「巡回説教師」たちだ。
学歴も資格ももたず、ある日どこからか街にやってきて怪しげな説教をして、人々を興奮と熱狂に包んで街を大混乱に陥らせる。 
この信仰復興運動こそアメリカ反知性主義の原点である。
「神の前では万人は平等だ」。地上の学問や制度の権威は、神の前では平等によって吹き飛ばされる。
1776年、アメリカは史上初の世俗国家として独立した。
世俗国家とは政教分離が定められているということだ。
政教分離を定めたアメリカの目的は、宗教が宗教として栄えることだった。
つまり、各人が自由に自分の信ずる宗教を実践するための制度が政教分離である。
アメリカの政教分離は思わぬ副産物をもたらした。
お金の問題だ。
教会は自分の集めた献金で運営しなければならない。
そのため大衆迎合路線を取らざるを得なくなる。
過去の新興復興運動は大衆動員の方法やビジネス化を洗練させてきた。
集会のショービジネス化である。
アメリカは旧世界を批判して新しい国家を創立した。
「反逆者の国」「謀反の歴史」「祖国への不服従」だ。
だから、政府や権力への根深い不信「反知性主義」がある。
大方のアメリカ人は政府の必要性はしぶしぶ認めるが、最小限でなければならないと考える。
反進化論も宗教と科学の問題ではない。
反発は進化論にではなく、そのような科学を政府が家庭に押し付けてくることにある。
家庭の教育に政府が土足で踏み込んでくることへの異議の表明なのだ。
科学への反発ではなく、反知性主義による科学と権力の結びつきへの批判である。
なぜ反知性主義がアメリカで生まれたのか。
それはアメリカが民主的で平等な社会を求めたからである。
知性は一部の専門家だけのものではなく、社会全体で共有されるべきものだ。
ここに民主主義社会における反知性主義の正当な存在意義がある。(続く)

  
Posted by sho923utg at 18:31Comments(0)