2019年02月28日

2月に読んだ本

^羹侈澄悒澄璽ツーリズム』(幻冬新書)
ダークツーリズムとは戦争や災害など人類の悲しみの記憶をめぐる旅のこと。
悲しみの場に赴く経験を重ねることで、人間の命の再生の機会になると著者はいう。
日本各地からアジアまで、ダークツーリズムを紹介している。
黒川創『鶴見俊輔伝』(新潮社)
500ページの大部な鶴見俊輔伝。
黒川創は鶴見と交友のあった評論家・北沢恒彦の息子。
鶴見については大方知っていることが多かったので、むしろ、父親の祐輔の記述に新鮮味を感じた。
J礎行人『世界史の実験』(岩波新書)
国際連盟とパリ不戦条約は、カントの『永遠平和のために』の歴史実験であり、ロシア革命はマルクスの社会主義革命の歴史実験で、ともに世界同時社会革命だったとする。
その世界史の実験を、柳田国男にみる書。
だ田龍一『近現代日本史の歴史学』(中公新書)
近現代史研究の歴史学は、戦後の第1期は社会経済史、1960年代以降の第2期は民衆史、1980年代以降の第3期は社会史として記述されてきた。
その研究の歴史を幕末から現代までたどる労作である。
キ成田龍一『近現代日本史との対話』(集英社新書)
「幕末・維新ー戦前編」と「戦中・戦後編ー現在編」の2冊で、新書ながら1100ページ。
幕末からの現代までを、「国民国家の形成」「帝国主義の展開」「総力戦体制」「冷戦体制」「新自由主義の始まり」として再構成する。
Ь笠原博毅・山本敦久『やっぱりいらない東京御リンピック』 (岩波ブックレット)
2月16日の本ブログの書評を参照されたい。
┷箘羚О譟愍亀廚陵陝(中公新書)
後鳥羽と実朝の幕府は協調関係にあり、実朝も将軍として十分な仕事をしていた。
だが実朝暗殺で幕府をコントロールできなくなった後鳥羽は、義時の排除を決意し承久の乱を起こす。
結果、幕府と朝廷の力関係は逆転する。
承久の乱こそ真の武者の世の始まりで画期的事件とする。
亀田俊和『観応の擾乱』(中公新書)
観応の擾乱とは尊氏+高師直と、尊氏の弟直義が対立し、室町幕府が分列して戦った全国規模の内乱。
観応の擾乱という試練を経て、室町幕府は政権担当能力を身につけ、尊氏も名実ともに征夷大将軍となったと著者は評価する。
高橋源一郎・辻信一『雑の思想』(大月書店)
雑とは多様性のこと。
経済的な効率性が優先されて、自然の多様性や文化の多様性が切り捨てられて行く現代、雑の可能性について2人の論者が対論する。
更科功『進化論はいかに進化したか』 (新潮選書)
進化とは進歩ではなく変化すること。
ダーウィンの時代、生物進化説は受け入れられたが、自然選択説(安定選択+方向選択)は受け入れられなかった。
現在の進化論を解説。人類の2大特徴、直立2足歩行で食糧運搬して自分の子孫を残し、犬歯の縮小は1夫1婦制を作ったからとする。
ビートたけし『浅草キッド』(新潮文庫)
大学を中退したたけしは、浅草のフランス座に飛び込み芸人修行をした。
そこで出会った深見千三郎という師匠への熱いオマージュ。
「深見千三郎はやはり、オイラが超えられないほどのたいした芸人だった」と書いている。
佐藤優『人を作る読書術』(青春出版新書)
戦時中、政治家や知識人は軽井沢に疎開した。
軽井沢は中立国のスイスやスウェーデンの外交関係者が住んでいて、絶対米軍から爆撃されない場所だからだ。
佐藤の読書法は最初にじっくり読み、2回目は印をつけた箇所を読んで頭の中でその部分を再生できるか確認するという。
桐野夏生『奴隷小説』(文春文庫)
小説はほとんど読まないが、解説の白井聡の「桐野の作品群こそ現代のプロレタリア小説だ」との言に困惑する。
橘玲『もっと言ってはいけない』(新潮新書)
2月26日付の本ブログの書評を参照されたい。
  

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2019年02月25日

橘玲『もっと言ってはいけない』を読む

PIAAC(ピアック)はOECD主催の16〜65歳対象の国際成人学力調査だ。
その調査によると、先進国の半分はかんたんな文章が読めない。
日本人の約3分の1が日本語を読めない。
この不都合な真実が世界の事実だ。
そして、知識社会に対応できない国民が多いほどポピュリズムが台頭し、社会が混乱する。
知能とは知能テストが測ったものと定義されてきた。
IQが高い子どもは成績がよいだけではなく、社会的・経済的にも成功しやすいことも各種研究で確認されてきている。
これは知能テストが社会的・経済的に成功できる能力を計測していると考えれば何の不思議もない。
知識社会とは知能の高い者が有利な社会であり、知能テストはこのような知識社会への適応度を計測している。
男女では知能に差はないがばらつきが異なる。
女性は平均的知能をもつ人が多いが、男性は極端に知能が高かったり低かったりして標準偏差が大きい。
また、アフリカ系よりユーラシア系が知能は高い。
それはきびしい自然環境が知能を向上させたと考えられている。
さらに、北ヨーロッパ系の知能が高い国とプロテスタントの国とは重なる。
プロテスタントの勤勉・勤労・禁欲の倫理が、知能の向上と関係していると考えられる。
ヨーロッパ系ユダヤ人の知能の高さは、虐殺や追放により知能の高い子孫が生き残った結果だと考えられている。
東アジアの知能の高さは、中国の科挙などで知識社会が大衆化し、知能が高ければ社会的に成功できるという価値観が広まったためである。
さらに、稲作社会による人口稠密なムラ社会で、複雑な人間関係が強い淘汰圧となり、それに対処できる高い知能(コミュ力)が選好された結果である。
明治維新以降、西欧以外で日本だけがなぜ近代化できたか謎とされてきた。
そこから「日本人は特別だ」という自尊感情が生まれたがこれが誤りである。
なぜなら、中国・韓国・台湾などが爆発的な経済成長を実現しているからだ。
日本の一足早い近代化は、歴史的・文化的な偶然と幸運によるもので、条件さえ整えば他の東アジア諸国でも同じことが可能なことが証明されたからだ。
ただ、知能は知識社会への適応度を計っているにすぎず、別の環境なら伝統社会の人たちのほうがかしこいことは自明だ。
また差別的環境により知能の発達が疎外されることは事実だから、環境さえ改善されれば知能は向上する。
したがって、人種・民族・国などで知能の高低を論ずることは無意味なのだ。
現代の進化論はヒトのヒトによる家畜化=自己家畜化を論じている。
人類は他の霊長類などと比べて、暴力を抑制するように進化してきたと考えられている。
旧石器時代の人類は、石槍などの打製石器=大量破壊兵器を手に入れた。
これはいつでも好きな時に気にいらない相手を殺すことができる社会だ。
そうなると、リーダーは仲間を平等に扱わなければ殺されてしまう。
社会が平等主義的に変わっていくと、自己中心的な人間や暴力的な人間は排斥されて、その遺伝子は徐々に消えていく。
さらに、他人の不道徳な行為には怒りを感じ、罰するような正義の感覚が埋め込まれていく。
これが第1の「自己家畜化」である。
第2の自己家畜化は農耕である。
農耕により人類は土地にしばりつけられた人口密度の高い集団生活に移行した。
農耕社会では和が大事にされ、暴力的な人間は排除される。
その結果、狩猟社会や牧畜社会に比べて、農耕社会はより「家畜化」が進行した。
これは視点を変えれば、アフリカ系より東アジアやヨーロッパ系が「家畜化」してきたということだ。
さらに、人口稠密なムラ社会で生きてきた東アジア系は、畑作のヨーロッパ系に比べてもより「家畜化」が進行している。 
これは睾丸の大きさからもいえる。
アフリカ系の睾丸の大きさは左右で50グラム、欧米系は40グラム、アジア系は20グラムである。
進化論では睾丸の大きさは性淘汰で説明される。
また、東アジア系がネオテニー=幼形成熟でることも進化論の性淘汰で説明される。
つまり、東アジアではムラ秩序を乱す暴力的な人間が忌避された。
遺伝と文化の共進化により東アジアで最も家畜化が進んだ。
そして、日本人は世界で最も「自己家畜化」が進んだ民族である。
日本人は遺伝的にストレスに弱いとされる。
不安感の強い日本人は、環境の変化を極度に恐れ、ムラ的組織に閉じこもり安住しようとする。
世間の評価を気にし、他人から嫌われることを恐れる。
私たちが暮らしているのはこうしたたこつぼ型の「道徳警察社会」だ。
「嫌われる勇気」をもち「置かれた場所で咲く」ほかないと橘はいう。
  
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2019年02月24日

小笠原博毅・山本敦久『やっぱりいらない東京オリンピック』を読む

東京オリンピックに向けて、環境破壊・棄民・弾圧・排除が進行している。
国立競技場建設のためのマレーシア熱帯雨林伐採、都営アパート強制退去、熟練労働者不足による福島原発事故処理への外国人労働者投入、競技のための街路樹や公園の木の伐採、野宿者の排除・弾圧…。
巨大な人的・物的試験を動員して、ほんの2週間の「オリンピック=サーカス」を開催するため、各地で社会的災害が引き起こされている。
カネで買った東京オリンピックは、世界的に「スポーツ史上最悪の汚職まみれ」と批判されている(英ガーディアン紙)。
竹田JOC会長には、オリンピック招致のため、2億数千万円の裏金工作疑惑が指摘されている。
「祝賀資本主義」という言葉でオリンピックを批判してきた米国政治学者ボイコフは、
「オリンピック開催地に経済的利益がもたらされることはない」
と断言している。
たった2週間で総額3兆円を超すといわれる開催費。
さらに各会場では開催後、総額で年1000億円以上の赤字が出ると試算されている。
IOCは巨大なNGOだ。
オリンピックはNGO主催の競技だ。
他方オリンピック施設を作るのに国民の税金が使われる。
NGOの競技のために、巨額の国家予算が使われてメガ・イベントが開催され、グローバル資本主義の巨大なショーが行われるのだ。
こんなことが許されるのか。
そして「みんなでオリンピックを成功させよう」という合言葉が全国を駆けめぐる。
みんなとは国民全員だ。
すなわち国家総動員である。
反対する者は非国民とされかねない。
夢・希望・レガシィといった「感動」を売り物にした「感動の先物取引」(阿部潔)である。
しかも「強制動員」ではなく、「参加型動員」だ。
「みんなが大会を作りあげる」と呼びかける。
その呼びかけに応じて、20万人以上がボランティアに志願した。
オリンピックのボランティアには「やりがい搾取」「ブラック労働」といった批判が吹き荒れたにもかかわらずだ。しかも文科省は全国の大学に、学生がボランティア参加するように要請した。
それに対して、まるで「学徒動員」だとの声まで上がった。
東京都では小・中・高すべての公立学校でオリンピック・パラリンピック教育が実施されている。
副読本を利用して国旗・国歌の意義や、日本人としての自覚と誇り、豊かな国際感覚を育成することがポイントである。
そして、オリ・パラを肯定的に評価し、自発的・積極的に大会に参加するネライとしている。
ロンドンオリンピックでは、住宅密集地に地対空ミサイルが配備され、軍用ヘリや戦闘機がスタンバイし、テムズ川には巨大軍艦が停泊した。
第2次大戦以来最大規模の軍事網の中で大会は開催された。
東京オリンピックでも、会場警備のために自衛隊の出動が予定されている。
日本ではスポーツの目的は、根性を養う手段とされてきた。
こうした戦前の軍隊内にあった根性主義を戦後へと引き継ぐ役割を果たしたのが、1964年の東京オリンピックだった。
昨今のスポーツ界の暴力は、東京オリンピック以来の根性主義によって美化されてきた。
スポーツは暴力の規律化である。
エリアスが名著『スポーツと文明化 興奮の探求』で論じたように、近代スポーツは身体を制御する非暴力のモデルとして誕生した。
スポーツと暴力は截然と分けられない。
同時にスポーツの暴力をどう位置づけるか、何が暴力で、何がそうでないか、その意味づけをオリンピックが独占している。
そしていまや、スポーツの勝利は根性ではなく、テクノロジーのデジタル環境が作りだす時代だ。
暴力的指導は新しいスポーツ環境の推進にとってじゃまなものとなった。
1964年の大会が生み出した根性主義を清算し、2020年大会をテクノロジーによる新たなスポーツへとシフトチェンジする仕組みが進んでいる。
そのため、最近のスポーツによる暴力指導非難、コンプライアンスの徹底が叫ばれている。
オリンピックはスポーツを支配・管理・制御する力の総体だ。
スポーツをめぐる方法・価値・意味・組織…などは多種多様であるはずなのに、オリンピックが掲げる原理・価値観・ルールこそが正当だとされる。
さらに、スポーツ界の政治の仕組み、カネの動き、組織のあり方、何が暴力なのかという社会的定義までが、オリンピックに独占されている。
オリンピックありきの全体主義のなかで、オリンピックへの同調性を増幅するメディアが日本の息苦しさに一役買っている。
果たしてオリンピックはスポーツなのか。
オリンピックはメガ・イヴェント化しすぎた。
オリンピックそのものが巨大な権力となっていると同時に、国家権力やグローバル資本と結託して、国内統治に政治利用されている。
オリンピックは瀕死のグローバル資本主義の最後の砦である。
市場における投機の対象は、物理的商品ではなく、身体パフォーマンスとそれを楽しむ人々の感情である。
「なぜオリンピックが、年々矛盾に満ちたものに成長していくのか…
オリンピックそのものが無地涌の培養器であり、狄鮃皚瓩瞥念は批判回避のプロテクター無にすぎない」(影山健他著『反オリンピック宣言』)。
巨額の税金が投資されるオリンピックなんていらない。

  
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2019年02月16日

平成の終わりに元号を考える〈元号による時代認識の終焉〉

次の文章は、月刊誌『むすぶ』ロシナンテ社2018年10月号に、
時代を駆ける 第311回 平成の終わりに元号を考える 〈元号による時代認識の終焉〉
として掲載下文章である。


かつては「明治史」「明治の文学」「明治の文化」「明治の精神」といった元号による時代区分や表現がおこなわれてきた。
しかし、こうした元号による時代区分や表現はこれからも有効だろうか。
国民は元号で時代のイメージをもつことができるだろうか。
二人の論者の論考に即して考えてみよう。柄谷行人は元号について次のように書いている(『定本柄谷行人集5歴史と反復』)。
〔声・大正・昭和といった元号による区分は、一つの自立的な言説空間を組織し、外部との関係を忘却させてしまう。
であれば、こうした元号による区分を一切すてて
西暦で考えればよいかというと、そういうわけにはいかない。
◆嵬声の文学」というものを、たんに一九世紀や二〇世紀といった概念で語ってしまうことはできないのだ。
そこには、明治という固有名をとると消え失せてしまうような何かがある。…
われわれが「明治的」とか「大正的」と呼ぶものは、ある歴史的な構造を象徴するかぎりでたしかに存在する。…
どの地域にもそれぞれに固有の言説空間があり、また時代区分があることはまちがいないのだ。
それは西暦で考えるとき失われてしまう。
むろん西暦は不可欠である。
ただし、それはいわばメートル法のようなものであり…各地の時代区分がそれぞれの「世界」の言説空間にもとづくにすぎないことを示すかぎりにおいて不可欠である。
一方、普遍的な世界は、こうした多数の「世界」が相互に関係しあう、その諸関係の総体としてしてかありえない。
せ笋隆愎瓦呂△觧代区分によって見たものと別の時代区分によって見たものとの間に見出される「視差」であり…西暦で考えられることと日本の元号で考えられることとの「視差」から、歴史のある反復的な構造を見出すのである。
柄谷の関心は元号と西暦の「視差」による歴史構造の把握なのだ。
それでは柄谷の論をふまえて元号について論じてみよう。
❶たしかに「明治の文学」とか「明治的」「大正的」といった時代区分で語るべき言説はあるだろう。
しかし、同じように「平成の文学」とか「平成的」という時代区分で語るべき言説があるのか。
それは明治や昭和にくらべて平成が三〇年しかないといった時間の問題ではない。
❷つまり、元号が「自立的言説空間を組織」しえたのは昭和の時代、それも昭和三〇年代までではないのか。「平成」以降はそのような元号による言説空間は無効ではないのか。
だから、「平成の文学」も「平成的」という概念も機能しないのではないか。
❸昭和三〇年代以降は、一九七〇年代、八〇年代、といった西暦による時代区分が一般的である。
一九七〇年代以降、元号による時代区分から西暦による世界標準の時代区分へとシフトしてきている。
❹柄谷がいう「多数の世界が相互に関係しあう、その諸関係の総体」を表すのは、元号ではなく西暦こそがふさわしい。
世界的にみれば今でも西暦と独自の紀年法を併用している国はある。
だが、世界で使用されている紀年法は建国や独立記念、宗教的通年制のもので日本の元号とは根本的に違う。
❺柄谷の関心である西暦と元号の「視差」による歴史の反復構造の解明は学問的には有効なのかもしれない。
しかしそれは学問研究の領域の話で庶民には無関係だ。
柄谷自身も本書で元号支持を明確に表明しているわけではない。
あくまでも研究対象として元号に言及していると推察する。
❻一世一元制は「天皇=時間」であり、明治以降、国民は天皇と共に生きる時間を元号で記憶してきた。
だがポスト近代の現在、元号による時代認識はリアリティを失い、庶民は元号を慣習と惰性で使用している。明日から元号がなくなっても何も困らない。
西暦で時代をカウントしていくだけだ。
大澤真幸は『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』で次のように書いている。
‐赦造砲弔い董一番よく使われる年代は「昭和三〇年代」である。
昭和は六四年まであるが、昭和五〇年代とか、六〇年代という言い方はほとんどされない。
昭和五〇年代の話をしたい場合は、年号でなく、「一九八〇年代」と言われる。
△匹Δ靴討修Δ覆襪里。
われわれには「昭和」という言葉でイメージできる社会があるが、「昭和五〇年代はどんな社会か」と言われても、全然そのイメージが湧かない。
しかし、ほぼ同じ時期なのに「一九八〇年代はどんな社会か」と聞かれると、「ああ、バブルの時だったね」とイメージが湧く。
ということはつまり、昭和三〇年代までは「昭和」が世界の前提だったのだ。
この日本でしか通じない「昭和」でイメージされていた時代までは、日本という国民国家がおおむね、生きる世界のすべてだった。
自分が生きる世界というものを直感的にイメージする時、国民国家が参照されていた。
い靴しグローバルな世界を意識し始めた時には、もう日本というローカルな年号では、自分たちの時代を表現できなくなってくる。
「一九八〇年代」という言い方をするしかなくなってくる。
一九八〇年代あたりから、その傾向が現れて、現在のグローバル化の動きの中で、よりいっそう強くなる。
大澤の言説を敷衍しておこう。
❶大澤がいうように、元号は閉じた国民国家の時代に通用した地域限定の紀年法である。
島国という閉ざされた稀有な社会のみで通用した時代認識である。
それ故有効性があったのは「昭和三〇年代」までなのだ。
❷学者・研究者が元号により社会を分析・研究できたのは昭和で終わり、平成以降は西暦で社会を分析・研究するのが一般化した。
平成は一九八九年から二〇一九年までだが、「平成一〇年代」「平成二〇年代」とはいわず、九〇年代・ゼロ年代が一般的だ。
もう学者・研究者も「元号的思考」は止めた方がいい。
元号の失脚は「下からの革命」で静かに進行しているのだ。
❸グローバル化により国民国家がゆらいでいるとき、元号による時代認識や時代区分は成り立たない。
「元号は日本人の歴史意識を根底から規定してきた」(片山杜秀)時代は終わったのだ。
もはや元号は「歴史意識における時代区分のインデックス」(鈴木洋仁)たりえなくなっている。
元号よりも西暦の方が時代区分や歴史認識としてリアリティをもつ時代になっているのだ。
❹元号賛成派がいう「日本の民族・文化の歴史尺度としての元号」は、すでに失効して過去のものとなりつつある。
将来的には、「元号」は能や歌舞伎などの伝統芸能のように、マニアによってのみ使われる時代がくるだろう。   
  
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2019年02月14日

戦時中、中学生が名古屋の市電を運転していた

以下は、田辺優さん(90歳)からのオーラルヒ・ストリーです。

Q:生まれはどちらですか。
田辺:1928年に満州でうまれました。
父は満鉄の社員でした。
大連の小学校に入学しましたが、父の転勤でその後、長春へ、さらに鶴崗へと転校しました(〇仮)。
Q:お父さんのお仕事は何でしたか。
田辺:鉱山技師です。
鶴崗では炭鉱長を務めていました。
車で送り迎えの生活で、家にはボーイや女中もいて、日本の生活よりはるかに豊かで幸せでした()。
Q:日本へはいつ戻られたのですか。
田辺:1939年のノモンハン戦争の3か月前です。
父がソ連と戦争になりそうだからといい、母の実家のある名古屋へ、母と兄弟4人で帰国しました。
Q:名古屋のどちらですか。
田辺:東区の筒井小学校です。
すでに新学期が始まっていて、授業についていけなくて苦労しました。
祖父(母の父)が塾を開いていたので、個人指導を受けてやっと皆に追いつきました。
中学校は1940年に明倫中学校(現明和高校)へ入学しました。
Q:1941年12月8日の太平洋戦争開戦時の記憶はありますか。
田辺:通学時にラジオ放送が聞こえてきましたが、学校に着いて朝礼で先生からきき、戦争が始まったことを知りました。
当初は連日「勝った、勝った」の報道でした。
でも遠い所の戦争でしたから、最初のころは戦争という実感はありませんでした。
Q:授業の方はいかがでしたか。
田辺:1年生から2年生にかけては平常授業でした。
英語もありましたし、スポーツでも英語を使っていました。
ですが1943年、3年生になると英語の授業は禁止され、スポーツでも英語の呼び名は敵性語として禁止され日本語へと変えられました。  
Q:学校生活で変わったことは。
田辺:2年生から軍事教練が始まりました。
学校には配属将校1人と、下士官2人が常駐していました。
守山の練兵場まで軍歌を歌いながら行進し、38銃で射撃訓練などしました。
Q:軍事教練はきびしかったですか。
田辺:授業がなかったからかえって面白かった。
車の運転も教えてもらいました。
2トン車の運転席に座って、若い兵隊から運転のテクニックを学びました。
最初は左右に蛇行したりエンストをおこして叱られたりしましたが、1時間もするとまっすぐ走ることもできました。
Q:生活はどう変わりましたか。
田辺:同じく2年生から配給制度が始まりました。
生活は次第にきびしくなりました。
徴兵が18歳に引き下げられて学徒動員が始まりました。
中学生は勤労動員で工場で働くようになりました。
Q:どちらの工場で働いたのですか。
田辺:ところが私の学年だけ勤労動員が免除されたのです。
同学年に皇族の賀陽宮の次男がいたからです。
賀陽宮は名古屋師団の師団長でした。
息子は学校まで車で送迎してもらい、校長が校門まで出迎えました。
授業中は教室で憲兵が見張っていました。
ですが、賀陽宮が東京に転勤すると同時に、私どもの学年250名全員、勤労動員が始まりました。
Q:どちらで働いたのですか。
田辺:名古屋市の市電の運転手です。
当時、徴兵で市電の運転手がいなくなり、中学生が名古屋市内の市電の運転を任されたのです。
明倫中の男子は運転手、市立第1女子の女生徒(現菊里高)は車掌でした。
わずか3日間の講習を受けてから、市電の運転を始めました。
私が配属されたのは中区の老松車庫でした。市内の全市電を中学生が運転していました。
Q:市電の運転はそんなに簡単なものなのですか。
田辺:市電の運転はむずかしくはないです。
むしろ面白かったですね。
満員の電車を運転して市内を走りまくった。
よく市電同士で競争などしました。
ですが、1944年12月から空襲が始まり、翌1945年1月から本格化しました。
電車の運転中、空襲に出会うこともしばしばでした()。
Q:空襲の中でも市電の運転をしたのですか。
田辺:突撃運転といって、行ける所まで行けということでした。
焼け野原の中を運転しました。クラスでも3人死んでいます。
私も何度も死地をくぐりぬけました。
だから、子どもたちには「おれは不死身」だと言っています(ァ銑)。
Q:広島の原子爆弾の投下について記憶はありますか。
田辺:大本営発表で、広島に特殊爆弾が投下され、被害甚大と報道されました。
しかし、生徒の勤労動員先を巡回してきた物理の先生から、広島に投下されたのはマッチ箱の大きさで巨大なエネルギーを持つ爆弾だと教えられました。
明倫中学校は賀陽宮の息子が在籍したので、先生も優秀な大学教授などが特別に配属されていたのです。
Q:8月15日はどうでしたか。
田辺:市電を運転していました。
いい天気で暑い日でした。
玉音放送はよく分からず、戦争が終わったとは思わなかった。
老松車庫では生徒同士で「勝った、負けた」と論争しました。
夕方、先生から戦争は終わったときかされ、「どうして負けたんだ!」とガックリきました。
夕刻、海軍の飛行機が、「われら未だ降伏せず、本土決戦まで戦う」というビラを上空からまき、詔勅の内容を知りました。
それで、本当に戦争は終わったのだと思いました。
Q:戦争が終わった後はどうでしたか。
田辺:戦地から運転手がもどるまで運転を続けろというので、1945年12月まで市電の運転をしていました()。(戦後の生活については紙面のつごうで割愛します)。
Q:本日は実に興味深い話を聞かせていただきました。ありがとうございました。

〈以下は、田辺優さんがまとめた自伝からの引用〉

〇笋錬隠坑横固、中国東北区、当時の満州の撫順(フーシュン)で生まれた。
撫順は満州屈指の炭鉱で、何万人もの中国人が働いていた。
誕生日に炭鉱長から送られた「七転び・八起き」の掛け軸は、今も床の間に飾られている。
その後、父が大連の新屯鉱に転勤し、大連小学校に入学した。
さらにその後、父が長春の満州炭鉱本社に転勤になり長春の学校に転校した。
そして父がソ連との国境にある鶴崗炭鉱の炭鉱長とし抜擢されたので、生徒7名、先生2人の鶴崗小学校に転向した。
鶴崗の在学は1年少しだったが、小学校時代の印象が大きい。
夜間に匪賊の襲撃、応戦する号令と銃声、弾の飛び交う中を弟妹の手をとって避難。
夜が明けて近くに散乱する薬莢が積み木遊びの材料だった。
鉱山事務所の屋上の大きな白幕に映されたエノケンの映画。
冬はスケート場に変身したテニスコートで日の暮れるまで滑っていた。
近隣の開拓団の夫人たちが、収穫した野菜を持って母に会いに来て、終日、紅茶を飲み、クッキーを食べながら談笑していた声が今も耳に残る。
1945年6月9日、私は同僚の運転する電車と接触事故を起こし、船方の修理工場へ運ぶ日になっていた。だがたまたま勤務編成により、翌10日に変更された。
船方は陸海軍の戦闘機の工場が集中している所である。
その6月9日、船方地区の航空機工場がB29により爆撃され、3000人が爆死した。
その中に同級生3人が含まれていた。
私たちは彼らの遺体の捜索を命じられて遺体収容所を訪ねた。
現場は死体の山で、頭も手足もほとんどない。
死体の山から3名の遺体を捜すのは容易ではなかった。
しかし、遺体の服の名札や、ベルトの特徴から2名を見つけ、リヤカーで学校の講堂まで運んだ。
ぬ掌轍斡襲は全部で38回におよび、名古屋市内は焦土と化した。
1945年3月19日は、真冬のような寒い日であったが、名古屋市の中心地区の大半が消滅する大空襲があった。
火の手は風にあおられてわが地区にも迫ってきた。
私は町内の警防団の1人として防火活動に当たった。
至近距離に落ちた焼夷弾で老人が全身火達磨になって逃げこんできたのを水と砂で消し止めた。
そのころになって奇跡的に風向きが変わって、わが家は消失を免れた。
この時の空襲で街の中心部は廃墟と化し、1000名の市民の命が奪われた。
5月16日、名古屋のシンボルである名古屋城が焼け落ちた。
紅蓮の炎が一瞬、銅の燃える緑色に変わると同時に、天守閣が見守る人々の悲鳴の中で崩れ落ちた。
ハ日連夜の空襲で、日時の記憶はないがある日の夕刻、空襲で四方が火の海に囲まれた。
逃げることができず、たまたまそこにあった防火貯水池に飛び込んでひと晩明かした。
翌朝火の気が収まって這い出したら、一面は焼け野原。
車庫に帰る道すがら、チョコレート色に焼けただれた死体を跨いで、いまだ熱風漂う街を走った記憶がある。
焼け跡から漂うスルメを焼くようなニオイは、逃げ遅れて焼けた死体のニオイである。
私はいまでもスルメを焼いて食べることができない。
Δ△觧、敵機の襲来で電車の運行がストップし、近くの防空壕に避難しようとしたがすでに満員であった。
防空壕の前でウロウロしていた時、入り口にいた青年が手招きして私を入れてくれた
その直後に青年は、私の前で焼夷弾の破片が頭を直撃して即死した。
またある時、別の防空壕で被曝し、天井の梁で下半身が挟まれて身動きできなくなった。
ちょうど隙間から近くの火の手が見えたので、たまたま近くにいた子どもの体を押し出して脱出させ、近くにいた大人たちによって救出されたことがある。
翌日、忘れ物を取りにその防空壕へ行ったが、焼死体の壕と化していた。
Г△觧、廃墟の中から缶詰状で英語のラベルの貼られた機械部品を発見した。
先端に金属製の部品がついていて、回すとカラカラと音がした。
たまたま、同僚がくれというので食券2枚と交換した。
同僚が歯車を回しながら100mほど歩いた時、突然缶詰が爆発し、彼の手首が吹っ飛んだ。
時限爆破装置の一部だったろう。
死を覚悟したことも何度かあったが、不思議と傷ひとつ追わなかった。
爾来、「自分は不死身」と勝手に信じている。
╂鏝紂屬海寮鐐茲浪燭世辰燭里」と自問した。
そして、最初から無理な戦争相手であったと結論した。
米国はあらゆる面で日本が戦える相手ではなかった。
にもかかわらず、軍と政府は国民を洗脳して戦争に突き進んだ結果が敗戦であった。
  
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2019年02月10日

小泉純一郎の「原発ゼロ」は本気か

小泉純一郎が『原発ゼロ、やればできる』を出版した。
週刊読書人(2月8日号)で、佐藤嘉幸・筑波大准教授が小泉にインタビューしているので、以下紹介しておこう。
首相在任中は原発推進は正しいと思い込んでいた。
しかし今は推進派にだまされたとおもい、強い怒りを感じている。
東日本大震災のあと、原発関連の本を数えきれないほど読んだ。
勉強すればするほど、日本でこんなものをやっちゃいけないと確信をもった。
東日本大震災は天災ではなく人災だった。
その原因は監督する経産省と電力会社が癒着していることにあった。
福島の過酷な事故がおきたにもかかわらず、安倍政権は原発を推進しようとしている。
原発の事故が起きると、ふるさとがなくなり、国がなくなってしまう。
絶対やめるべきだ。
私が脱原発運動を始めた理由はつぎの4つだ。
第1に原発ゼロでも日本はやっていける。
原発事故が起きるまで原発は54基あった。
それで30%の電力を供給していた。
ところが事故の後、2年間は原発ゼロだった。
にもかかわらず停電は起きなかった。
原発なしでやっていけることが証明された。
ドイツは日本の事故を見て原発ゼロ方針を打ち出した。
今やドイツの自然エネルギーは30%を超えている。
日本でも事故前には2%だった自然エネルギーが、現在は15%程度だ。
政府が本気になれは10年で原発ゼロを実現できる。
しかも日本はドイツに比べて自然エネルギーに恵まれている国だ。
第2に安全保障の問題だ。
原発が潜在的核抑止力になるという議論があるが、日本が核武装できるわけはない。
核実験などできないし、国民が核武装を許すわけがない。
核兵器を持っても何のプラスにもならない。
逆に潜在的な核保有の能力があることで、周辺諸国に軍事的脅威を与え、緊張緩和や核軍縮の流れを邪魔している。
原発へのテロ攻撃の可能性も否定できない。
原発をゼロにすることが、安全保障面でもプラスに働く。
それ以上に、日本は地震・火山・津波など自然災害が多い。
自然災害は止められないから、これに対する危険性を持った産業をなくした方が安全保障にもなる。
さらに、核兵器など持たなくてもやっていける国造りを目指す方が世界の見本になれる。
第3に廃棄物の処分場がない。
フィンランドの使用済み核燃料埋蔵施設オンカロを見学した。
地下400mに2㎢のごみ捨て場を作った。
フィンランドは4基しか原発がない。
オンカロはそのうち、2基分のごみしか貯蔵できない。
他の2基分の廃棄物処分場は決まっていない。
日本は54基の原発があった。
原発を続けていけば、将来的に処分場が足りなくなることは分かり切っている。
しかも、核のゴミは何千年、何万年も管理していかなければならない。
そのような場所を日本では作れない。
第4に原発は環境に対してもダメージを与える。
原発を稼働するとすごい熱がでる。
原子炉を冷やすのに大量の海水を利用する。
原子炉を冷やした後の温水は海に放出される。
その結果、海水の温度が上がり、生態系に重大な影響を与える。
原発は環境破壊産業である。
小泉は総理が原発ゼロにしようといえば、国民から大歓迎される。
そうすれば原発ゼロは一気にできるという。
そういうチャンスがきているのに、それを見逃しているのは本当にもったいないと。
ちなみに小泉らは昨年1月「原発ゼロ・自然エネルギー基本法案」を発表した。
この基本法案を微調整して野党が「原発ゼロ基本法案」を国会に提出したが、いまだに審議されていない。
小泉の脱原発論に新しいものは何もない。
だが、小泉の「原発ゼロ」運動はどうも本気のようだ。
佐藤も「元首相が脱原発の市民活動を推進しているという例は、世界的にも極めて珍しい」としている。
その点は評価していいだろう。


  
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2019年02月03日

NHKスペシャル=朝鮮戦争秘録「権力者たちの攻防」より

2月3日放映の未来のスペシャル「朝鮮戦争秘録=権力者たちの攻防」をみた。
1950年2月に開戦した朝鮮戦争には2000人の日本人が参戦し、少なくとも57人が戦死している。
朝鮮戦争の経過を見ていこう。
1948年8月に大韓民国、同年9月に朝鮮民主主義新民共和国が建国された。
北の金日成、中国の毛沢東、ソ連のスターリン。
3人の熾烈なかけひきから朝鮮戦争は勃発した。
金日成は1949年に、
「いま攻撃をしかけなければ祖国統一のチャンスを逃す」
として、スターリンに韓国攻撃へのソ連の援助を要請した。
金は2週間から2カ月で全土を統一できると豪語した。
だがスターリンはアメリカとの核戦争を恐れて金に自粛を促した。
ところがスターリンは一転して1950年、北への軍事支援を約束。
大量の兵器供給ができるとして戦争に前のめりになる。
ソ連は1949年8月、核実験に成功して核兵器を保有して自身を深めたからだ。
毛沢東はソ連訪問時、原爆実験の映像を見られて、
「原爆の威力はすさまじい。われわれも原爆を開発すべきだ」
と確信した。
1950年2月、北が38度線を突破して、戦車200台で南に侵攻してきた。
韓国軍は総崩れで、2カ月でプサン付近まで追い詰められた。
山口県の田中知事に外務省から連絡があり、6万人の韓国防衛政府を山口に作ると連絡が入る。
トルーマン米大統領は16カ国の国連軍を結成。
マッカーサーを司令官に巻き返しを図った。
マッカーサーは奇襲作戦を敢行。
ソウルの北のインチョンに国連軍を上陸させ、南北から北を挟み撃ちにした。
北朝鮮軍は総崩れとなり、中国・北朝鮮の国境まで追い詰められた。
国連軍のインチョン上陸作戦時、LST(戦車揚陸艦)に乗船していたのが日本人2000人である。
LST乗組員の60%が日本人だったとされる。
そして、朝鮮戦争での日本人戦死者は少なくとも57人。
真相はいまだ闇のなかである。
追い詰められた金日成は、ソ連と中国に支援を要請。
だが、スターリンも毛沢東も支援の約束をしない。
この時スターリンは毛沢東に、このままでは日本軍国主義が復活して中国を攻撃するぞと恫喝したという。
そこで、毛沢東は26万人の義勇軍を北の支援に投入し、国連軍を圧倒した。
中国の人海戦術で戦争は泥沼化した。
マッカーサーは
「これまで経験したことのない戦争をしている」
ワシントンに緊急電報を打電。
無差別爆撃を敢行した。
その無差別爆撃を敢行したのが、日本本土の無差別爆撃を指揮したカーチス・ルメイである。
半島は焼土と化し、人口の2割が犠牲になった。
さらにマッカーサーは原爆使用を計画。
北京・ウラジオストクなど26カ所を投下目標として、20発の原爆を配備した。
しかし、第3次世界大戦の勃発を恐れたトルーマンにより解任された。
一方、金日成は休戦を望んで、スターリンと毛沢に休戦を要望した。
だが、スターリンも毛沢東も休戦は敗戦につながるとして拒否。
スターリンが1953年3月に死亡したので、毛沢東もやっと休戦を承認。
1953年7月、休戦協定が結ばれた。
朝鮮戦争で投下された爆弾量は66・9万トンで、日本への空爆の4倍。
戦死者はアメリカ3・3万人、中国11・6万人、韓国・北朝鮮66万人。
半島の民間人の死者200万人。
合計300万人以上が犠牲になった。
ソ連・中国といった大国に翻弄された金日成は、核開発に執念を燃やし、それが息子→孫へと引き継がれてきている。
なお、朝鮮戦争の詳細については、本ブログ2018年5月28日〜30日
五味洋治『朝鮮戦争はなぜ終わらないのか』を読む 銑
を参照されたい。
  
Posted by sho923utg at 23:31Comments(0)