2017年05月15日

藤生明『ドキュメント 日本会議』を読む

安倍政権の黒幕とされる日本会議。
会員約4万人。国会議員290人。
地方議員1800人。地方支部250。
日本会議の誕生は1960年代、長崎大に安藤巌と椛島有三の2人の「成長の家」信者が入学してきたことから始まる。
2人は1960年代の左翼全盛時代、学園正常化運動に取り組む。
彼らは長崎大の自治会選挙に勝利し、「国立大初」とされる民族派の自治会が誕生した。
そして、民族派学生の全国的統一組織の結成へとのりだす。
その先駆けとして1968年、九州学生自治体連絡協議会を結成。
さらに1969年には、右派学生の連合体である全国学生自治体連絡協議会(全国学協)を結成。
その初代委員長に就任したのが鈴木邦男である。
結成大会では福田恒存・会田雄次の大物論客が講演している。
しかし、全国学協をさらに発展させた民族派全学連の結成計画は、「成長の家」ツルのひと声で霧散霧消したとされる。
1970年、椛島らの呼びかけで民族派社会人組織「日本青年協議会」(日青協)が結成された。
この団体がのちに日本会議事務局へと発展する。
結成大会では小田村寅次郎・亜細亜大教授が講演している。
小田村は日本会議の委員を務める保守の重鎮。谷口雅春(「成長の家」創始者)、葦津珍彦(『神社新報』主筆)、三島由紀夫らと並び「4先生」として尊敬を集めている。
日青協などの民族派の運動の転機となったのは、1970年の三島由紀夫の自決であった。
この事件で70年安保闘争終結後「停滞期」にあった民族派が息を吹き返した。
三島の自決以降、民族運動の方針から「学園正常化」「反全学連」が消え、「ヤルタ・ポツダム(YP)体制打破」「日本の真の独立」が目ざすべき目標となった。
「成長の家」創始者谷口雅春は、占領憲法破棄・明治憲法復元・天皇中心の国家を説いた。
憲法改正は現行憲法を有効と認めるものでとして退けられた。
だが、「成長の家」の方針に対する疑問が1970年代の運動方針の大転換となった。
現憲法は無効だ、破棄せよと運動するのではなく、現憲法の解釈・運用に重点をおき、有利な状況を勝ち取っていく。
占領憲法打倒ではなく「反憲的解釈改憲路線」への転換である。
そうした新たな路線転換の出発点となったのが、「元号法制化」の取り組みである。
「地方から中央へ」を合言葉に、都道府県議会・市町村議会の決議を積み上げて、政府・国会に要求を突き付ける。
元号法制化は運動から2年足あまりで実現した。
保守陣営にとって戦後初の成功体験とされる「建国記念の日制運動」が10年ほどかかったことを考えると、おどろくほどの短期間であった。
元号法制化運動を担った椛島らの日青協は、左翼の運動から学んだとされる。
署名を集め、地方組織をつくり、地方議会の決議を積み上げていくという手法である。
さらに、神社・仏教・新宗教・文化人ら結集して「日本を守る会」(1974年結成)を立ち上げたことが大きいだろう。
「日本を守る会」は1981年には「日本を守る国民会議」へと発展し、さらに「日本会議」が結成される。


Posted by sho923utg at 21:23│Comments(0)TrackBack(0)

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