2019年08月27日

池田浩士『ボランティアとファシズム』を読む

ボランティアの本来の意味は「義勇兵」だ。
第1次世界大戦以降、ファシズムとボランティアは切っても切れない関係性を作ってきた。
本書はドイツと日本のファシズムとボランティアの関係性の史実を解明した本である。
1923年の関東大震災のとき、学生たちが「学生救護団」を組織して震災救援活動を行った。
この活動こそ日本の近現代史の「ボランティア元年」を告げるものだった。
学生救護団のボランティア活動はその後、「東大セツルメント」にひきつがれ、託児所・労働学校・消費組合運動など、「底辺から社会を変える、地域から社会を変える運動」へと発展していった。
だが、1920年代後半からの社会的弾圧の嵐でセツルメント活動も終焉する。
そして、1930年代の国家の海外侵略と共鳴・共振したのがボランティア活動であった。
1929年の世界恐慌で日本経済も大きな打撃をうけた。1931年の満州事変、翌年の「満州国建国」から満州移民政策が国策として推進された。
1932年から1944年まで、合計32万人が農業移民のボランティアとして参加した。
満蒙開拓団の農業移民たちは、日本の農山村の危機を救い、日本の食糧増産を実現し、日本の発展を支えるため、自発的に満州移民に応募した。
しかし、移民団は実質的には満州防衛の「武装移民」であった。
「僕も行くから君も行こう。狭い日本にゃ住み飽いた。
海の彼方にゃ支那がある。四億の民が待つ」
さらに、1938年から16〜19歳の青少年を満州に送出する「満州開拓義勇隊」が開始され、10万人以上が満州に移民した。
戦時中のボランティアは、国家が設定する舞台で、国家が重要とする任務を果たすものとなった。
1938年、近衛内閣は学生の勤労奉仕活動を制度化した。
夏休み中「5日間程度」の勤労奉仕で、「支那事変下の労力不足と、学生に勤労奉仕の観念を植えつけるため」とされた。
1941年「国民勤労報告協力令」=1年30以内の勤労奉仕が制度化された。
自然災害時のボランティア精神と、戦争中のボランティア精神とに、はたしてどんな違いがあるのか。
国家はその精神を讃え、美化しながら、国民の自発性を戦争のために総動員したのだった。
「勤労奉仕」と呼ばれたボランティア活動は、1937年以降、少年団・青年団、婦人団体などにより、銃後を支える活動として全国各地で行われるようになる。
日本全国が大きなボランティア活動のうねりで覆われたのが1930年代後半であった。
まさに1億総活躍社会と呼ぶにふさわしく、ボランティアは自発性から制度化への道をたどることになる。
ところでなぜ「労働奉仕」ではなく「勤労奉仕」なのか。
「勤労」とは「皇民」の天皇に対する「勤め」である。
つまり勤労とは労働による勤めで、天皇へ仕え奉ることである。
「奉仕」とは天皇に「仕え奉る」意味である。
そのため「労働」といわず天皇に仕え奉る「勤労」とよばれた。
戦時下の労働は青少年に貴重な多くのものをもたらした。
勤労奉仕が義務化されたということは、自発性や意欲的な総意工夫が無意味になったということではない。
制度化されてだれもが参加するからこそ、そのなかでの自発性と積極性と総意は、共同体にとって大きな力を発揮する。
勤労奉仕の企画者たちはそれを知っていたのだ。 
特に市川房江らの女性たちは、勤労奉仕を女性の社会参加と社会的自立のきっかけとして生かそうした。
現実に立ち向かい、主体性と自発性を発揮する道を求めた。
戦時の総動員社会そのものが、そうした自発性を女性たちに求めていたのだ。(続く)


Posted by sho923utg at 18:51│Comments(0)