2019年08月30日

天皇制批判 甞田哲哉「革命運動の精神2」より

福沢諭吉は『帝室論』で、天皇をバカな国民をたぶらかすダマシの政治的装置と表現した。
8月30日付「週刊読書人」掲載の鎌田哲哉「革命運動の精神2」は、近年の天皇制論を痛打する論文である。以下の内容だ。
「平成」から「令和」への改元で、「元号中心のものの見方」「天皇中心のものの見方」が、われわれの日常生活に浸透している。
前天皇=現上皇は近代日本において最も愛される天皇、親しみやすい天皇であり、かつリベラルな存在にも見えた。
それゆえ護憲派の人々の間で、彼の言動を根拠に政権批判を試みる人がふえた。
山本太郎の「直訴」もそのひとつの現象であった。
安保関連法案反対時の「国民なめんな」運動は、「憲法を守れ」という時に、「国民」の外部で「非国民」とされる民衆の人権侵害への懐疑がなかった。
憲法の第1章天皇条項と人権規定の矛盾や、憲法草案成立過程で「人民」が「国民」に歪曲された事実への理論的・歴史的批判が皆無だった。
天皇が「国民統合の象徴」だということは、国民ではない人々=非国民を排除する政治的装置として機能する。
「国民なめんな」運動は、前天皇の「国民に寄り添う」と共鳴した「象徴天皇制ナショナリズム」の完成と呼ぶべき性質のものだった。
この時最終的にマヒしたのは、普遍的人権の感覚であり、リベラル派の多くは「法の下の平等」を放棄した。
前天皇の慰霊の旅をことさら評価するリベラルな人々がいる。
しかし、天皇は糸満で献花はできても辺野古はいけない。
サイパンで祈りをささげても朝鮮半島では頭を下げられない。
さらに、花岡鉱山や六ヶ所などには行けない。
仮にこれらの行けない場所に行こうとすれば、天皇をやめるほかなくなる。
天皇がいくら「国民に寄り添う」といっても、天皇であるかぎり真の民衆との連帯はない。
それゆえ天皇制を廃止し、天皇を人間的に解放することが必要なのだ。
それでは天皇制廃止する運動の根本原則とは何か。
改憲勢力の標的は、憲法の特定条項だけにあるのではない。
真の問題は、手持ちの憲法に自己満足し、その文言の現状にしがみつく、われわれの柔弱さにつけこんでいる事実にある。
右からの改憲勢力とは、「憲法守れ」と現状維持しかいわない相手の頼りなさにつけこんで繁茂するヘドロであり、ゾンビの群れである。
この反動的情況を真に突破し克服するにば、われわれ自身がこれまで逃げてきたラディカルな創造を始めるしかない。
運動の革命的側面を自覚的に推進していく以外ない。
憲法問題についていえば、その基本的精神の徹底である。
第1章の天皇条項の削除と、さらに「国民」ではなく「人民」のための普遍性ある憲法草案を新たに作りだすこと、それを通じて左からの憲法改正運動を多様に強力に展開することが当面の課題になるはずだ。
対立の機軸を「改正」対「現状維持」でなく、「反動的改正」対「憲法精神に基づく革命的な改正」に改変することがわれわれの運動に不可欠である。
あらゆる人間を身分や家柄、貧富の差から解放し、法の下での平等な存在に変えていくこと。
だれも不当に差別されることのない、平等で対等な水平的で横断的に民衆のインターナショナルな連帯を創造していくことだ。 
天皇制を廃止し、共和制を創設する左からの改憲運動を通じて、日本人が真に「法の下の平等」を実現できるか否か。
その運動をどれだけ大衆的に展開できるか否かにかかっていると鎌田は論じている。
天皇制廃止と共和政実現、そのための改憲運動が日本の左翼を甦生させる起爆剤となるだろう。


Posted by sho923utg at 20:48│Comments(0)