2021年12月14日

謎解き蒙古襲来=播田安弘『日本史サイエンス』

それでは文永の役を再現してみよう。
旧暦10月5日、蒙古軍は対馬に襲来し、その後1週間にわたって対馬を蹂躙し、暴虐の限りをつくした。
続いて14日は壱岐に侵入し樋詰城を攻撃した。
対馬・壱岐では蒙古軍は武士のみならず島民も、赤子に至るまで虐殺した。
そして、10月17日早朝博多湾に上陸し、本格的な侵略を開始した。
大宰府では九州の御家人に博多に参集するよう命じた。
御家人たちは国土防衛の悲壮な決意で参集した。
彼らが経験しようとしているのは、日本にとって初めての他国からの大規模な侵略だった。
蒙古軍を迎え撃った日本の戦力はどれほどのものだったのか。
信頼できる軍事研究によれば、鎌倉武士団は騎馬兵が5300騎、郎党・歩兵が約5000名であったといわれている。
他に物資・食料補給などにあたる兵站郎党を約5000人と仮定する。
戦う鎌倉武士は合計1万人で、蒙古軍2・6万人に対抗したと想定する。
蒙古軍は騎馬軍団ではなく、多くは寄せ集めの歩兵集団だったのに対し、日本側は騎馬5000騎いたので襲来した蒙古軍は日本にとって圧倒的に強大な敵ではなかった。
蒙古軍は対馬海峡と玄界灘を超えて博多湾に入ることになるが、対馬海流の速い流れと、玄界灘の荒海を超えての大軍の移動は大変に困難だったと推測される。
旧暦10月の対馬海峡は船酔いが発生しやすい時期であった。
1時間も乗船していれば、船に強い人でなければ確実に船酔いになった。
蒙古軍は船員以外の兵士の多くは大陸系の人々だったことから乗船経験がなく、船酔いで兵士たちは体力を奪われ、博多上陸時には少なくても総兵員の3分の1は満足に戦うことができなかった可能性がある。
文永の役ではどこから上陸したかということが問題だ。
それはなぜ撤退したかという謎を解くためのキーポインドともなる。
多くの史料は蒙古軍は博多湾「息の浜」上陸説下とする。これは竹崎季長『蒙古襲来絵詞』の冒頭にある「息の浜に軍兵その数を知らず打ち立つ」と書かれてあることか解釈されたものだ。
だが、竹崎季長の行動や鎌倉武士団の移動からみると、蒙古軍は「息の浜」には上陸していなかった。

それではどこに上陸したか。
それは博多湾の水深を考えればおのずと明らかになる。
敵地の海での座礁は「死」を意味する。
停泊する際には慎重に水深を測り投錨しなければならない。
では当時の蒙古軍はどこに投錨すべきか。
明治の1894年に測量された海図をもとに、泥の堆積等を考慮して元寇当時の博多湾の水深を考察してみた。
これをみると、博多湾の東側の息の浜の水深は3〜5mと浅く、西側は12〜14mと深い。
従って、西側から侵入して、陸から1厠イ譴寝合に投錨したと考えられる。
実際に文永の役より前に6回訪れた元の使節も、博多湾の西側の今津浜に投錨していた。
蒙古軍の上陸が東側の息の浜でなかったとすると、文永の役の全容もまったく異なった様相を呈する。
蒙古軍の上陸艇は最大19名乗りである。
300隻の上陸艇に、兵士を乗せ、軍馬・武器・食料・水など載せて上陸するのに、どれぐらい時間がかかるのか。
上陸艇の往復には1時間はかかる。
兵士全員を上陸させるのに10往復かかる。
2・6万の蒙古軍が上陸するのに10時間、軍馬1000頭も10時間かかる計算になる。
上陸開始が午前6時だとすると、すべて終わるのが午後4時となる。
この季節だともう暗くなり始めている。
結論として、蒙古軍はこの日のうちに全軍上陸できなかった。
従来の通説のように、蒙古軍は早朝侵入するや、鎌倉武士と戦って集団戦により殲滅したというストーリーは非現実的である。
それでは、上陸した蒙古軍と鎌倉武士団との戦いは実際どうだったか。
蒙古軍は上陸に時間がかかり、全軍が一度に進軍できず、小刻みに兵員を増やすという逐次投入作戦となった。
そこに鎌倉武士の猛攻を受けて、浜で退却する兵と、上陸する兵が錯綜して大混乱の中、副将劉復亨が射倒され、矢が尽きた。
鎌倉武士団が補給のためいったん兵を引いた午後3時ごろ、蒙古軍は死者や軍馬を放棄して全員が船に引き揚げを開始した。
蒙古軍の戦死者5000人とすると、総兵数2・6万の約19%となり、これだけの死者を出すと戦線維持は困難で、軍事セオリーからは撤退しかない。
船に引き揚げた蒙古軍は本国への撤退を決意した。
蒙古軍が恐れたのは、日本軍の襲来と北西風が吹きはじめることだった。
北西風とは季節風で、旧暦11月になると吹きはじめ、これが吹くと玄界灘は風速15〜22mの強風が吹いて大荒れとなり、当時の船では渡ることができなくなる。
したがって、蒙古軍が大宰府を攻略するには、新暦11月末までに作戦を終了して、博多を出港しなければならなかった。
すなわち、高麗国王の死により出撃が3か月延期されたことが、決定的な敗因となった。これが蒙古軍が「謎の撤退」をした直接の理由である。
旧暦10月21日早朝、蒙古軍は博多湾を出港し壱岐へと向かった。
ところが、壱岐に停泊した10月末から風速15mクラスの北西風が吹き始め、船は座礁し、あるいは崖に叩きつけられて、大勢が溺死したとみられる。
のちに壱岐で発見された遭難船が130隻であることから、軍船200隻と上陸艇200隻の計400隻が流され、このうち軍船は100隻、上陸艇は30隻が座礁したと考えれば辻褄があう。
大型軍船は180人乗りで、100隻で1・8万人。
その半数が溺死したと仮定すれば9000人。
博多での戦いでの戦死者は5000人と見積もったので、蒙古軍の死者は1・4万人。
『元史』では未帰還者1万3500人とあるから、以上の想定は間違っていないと思われる。
蒙古軍が帰還したのは旧暦11月末。
往路は17日間だったが復路は1か月以上かかった。やはり対馬海峡の冬は厳しかった。
後に「神風」と呼ばれた蒙古軍撤退の顛末は以上のようなものだったと播田は推測している。
造船学の知識をフルに活用した見事な歴史謎解きである。


Posted by sho923utg at 15:06│Comments(0)