王座戦が終わって

なんせ、ここのところの佐藤天彦の充実ぶりも将棋の内容の良さも勢いも凄すぎた。だから、いくら私が強度の羽生ファンでもさすがに今回はちょっと大変なのではないかと思っていた。それなのに追い込まれたところからのこの防衛。今まで何度も言われてきたことだが、羽生善治とは一体何者なのだろうか?
佐藤天彦の最近の大きな武器になっていたのは後手番での横歩取りである。横歩取りは定跡研究がきわめて重要な戦型で佐藤も大変深いところまで研究しているようだ。
しかし、こと研究ということなら、他にもよく調べている若手棋士はいくらでもいるだろう。いや、むしろ佐藤以上によく知っている若手棋士もゴロゴロしていそうだ。
しかし、佐藤の場合はそうした定跡研究よりも、中終盤以降の力が抜群に強い。トップレベルでも群を抜く深い読みがあると同時に、多少悪くなった局面でも決して崩れず粘り強く指し回して何とかしてしまう。
最近、ソフトが人間の定跡研究を力で打ち負かしてしまうのを想起させるような力強さがあるのだ。だから、ここのところ後手の佐藤の横歩取りを先手で回避する棋士も多いくらいだった。
しかし、羽生は(当然ながら)佐藤の後手横歩を全く避けなかった。羽生も横歩取りでの先手勝率が異常なくらい高いのだ。今回は先手横歩の最強者と後手横歩の最強者の対決でもあった。
とはいえ、ここのところの勢いを加味すると、羽生ファンの私でも若干の不安は正直あった。
結果は三局横歩になって羽生の二勝一敗。
第一局と最終局で羽生が勝ったわけだが、どちらも途中からは羽生がちょっとした隙をついて一気に大きな優勢を築いていた。その深い読み、というよりは局面の急所を直覚的に把握する力はさすがとしかいいようがない。
ここのところ、佐藤の後手横歩相手にこんな勝ち方ができる棋士はほとんどいなかったのだ。
引退間際の中原誠先生は、最後まで強い若手をバッサリ斬っていた。全盛期の羽生までもが、中原先生相手に一方的に負かされていたものである。やはり、もともとの深い読みと
、それよりも局面の急所を把握する直感と努力だけでは決して身につけられない独特な大局観のなせるわざであった。
中原先生と今の羽生を簡単には比較できないが、今回の羽生の勝ち方をみていてちょっとそれを感じた。羽生の場合は横歩の定跡型をまっこうから受けての戦いで、基本はその中での読みの深さの比重が高いが、それ以外に経験による大局観や、中原や羽生という本物の天才にしかない何かを感じずにはいられなかった。
これで、羽生は棋聖戦での豊島、王位戦での広瀬、この王座戦での佐藤天と、それぞれ全くタイプが異なる若手の代表格を次々に退けた事になる。本来三人とも恐ろしく強いのだ。世代のことを考えると普通ではありえない。
(再度)羽生善治とは一体何者なのか?
どうも、羽生は「もう1人のフジイ」が檜舞台にあがってくまで、しっかり待ち受けて頑張り続けるつもりのようである。
とはいえ、客観的に見ると羽生が今まで通りの強さを発揮できているかというと勿論そうは言えない。特に今年度は早指し棋戦でのつままずきが目につく。年齢により一番対応が難しくなるのが早指しなので仕方ないところもあるだろう。むしろ、四十を超えての羽生の早指しでの強さが異常すぎたのだ。とはいえ、羽生の場合はこの後、また早指しでも巻き返してくる可能性もあるような気もするのだが。
また、得意の王座戦での防衛もこれで三年連続のフルセットである。若手の猛追も急なのである。他の棋戦でも、大事なところで有望な若手にしとめられるケースも多くなってきた。それぞれとても強い若手だけれども、従来の羽生はこの辺には全くと言っていいくらい星を落とさなかった。これは、羽生よりも若手のレベルが全般的にあがっている証拠というべきだろう。
羽生も人間なので(おいっ)当然衰えるし、それ以上に現在は若手の全般的なレベルが昔と比べると格段にあがっている。だから、これからは当然羽生にとって厳しい戦いも多くなってくるはずである。
しかし、今回の羽生の勝ち方を見ていると、そういう状況でも、決して若手には真似のできない大局観で、相手を気がつかないうちにバッサリ斬ってしまって、相手の力が出せないまま終わるというケースはむしろ増えるような気もしている。

佐藤天彦は、独特のキャラクターで自他ともに「貴族」とか言われている。正直、私のような心の狭いオジサンは、それってどうなのナンジャラホイなどと思っていたものである。
しかし、今回の王座戦中での発言などを見ていると、勝負だけに執着せずにタイトル戦を盛り上げることも考えていたようである。また、最終局の直後にもツイッターで、冷静に将棋の内容を分析するとともに、素直にタイトル戦にでられたことの感謝を述べていた。
佐藤天彦という人はかなり大らかで人間の器が大きいのだろう。「貴族」を自称しているのも、恐らくその大らかさのなせるわざである。いい意味での鈍感さと図太さがありそうだ。
豊島や広瀬は羽生と戦った後にボロボロになっているが、どうも佐藤は平然と立ち直ってその経験をプラスに生かしてしまいそうな気がしている。
佐藤天彦は渡辺明とも仲が良い。この二人はここのところ大事なところで戦って佐藤が連勝した。渡辺としては心穏やかでないところもあるはずなのだが、今まで通り佐藤と仲が良いようである。王座戦では、佐藤にタイトルをとらせてあげたい旨の発言もあったようだし、第一局ではプライベートで対局場にかけつけて、佐藤を応援しながら検討していたようである。これも、もしかすると先述したような佐藤の人柄のよさや大きさのおかげなのかもしれない。
とはいえ、今後この二人はますます大事なところで戦う事が増えてくるだろう。
名人戦のA級での全勝対決後での名人戦棋譜速報の対局後の写真が興味深かった。逆転負けをくらった渡辺が、ソッポをみてかたまっている。数分全く両者声が出なかったそうである。
渡辺にとってはひどい逆転負けだったので、その悔しさが主で、感想戦が一度始まったら二人できさくに会話していたようである。
とはいえ、これからはますます二人のシビアな真剣勝負が増えてくるはず。当面、棋王戦でタイトル戦の直接対決する可能性がある。(羽生さんも負けちゃったからね。うぅぅ….)
この二人の場合はタイトル戦で相まみえる事があっても恐らく仲がよいままだろう。佐藤も大らかだし、渡辺もあのようにサバサバしたわりきった人柄の良さがあるので。
とはいえ、やはり本当のギリギリの勝負では二人が深いところで正面衝突せざるをえない。やはり、深い信頼関係で結ばれて(今もそれには全く変わりがない)羽生と森内も、度重なる勝負でただの仲良しではいられなくなった(はずである)。
悪趣味だという謗りを受けそうだが、無責任なファンはそういうガチな真剣勝負を見たいのだ。そういうところから本当の名局も生まれてくるのだから。

さて、最近里見香奈さんが奨励会の三段リーグで戦いだした。彼女の体調については、皆さん同様に私も小さな胸?をひそかに痛めていたわけである。
里見さんはあのように一見とても大らかでホワワンとしているので多少の事は大丈夫だろうと考えてしまっていたのである。
しかし、女流とのかけもちの過酷さ、注目度の高さを考えると、若い彼女には想像を絶するプレッシャーがかかっていたはずである。今もそうだけれども。
だから、脳天気に騒いでいた私も海より深く反省もしたし、寅さんのように「日々反省の日々をすごしています」というハガキを旅先の遠方から出したりもしていたわけである。
とにもかくにも、今は彼女が奨励会や女流で対局してくれているだけで幸せである。彼女に注目が集まるのは仕方ないのだけれども、特に奨励会については今のところは一人の三段なのだから、いちいち対局結果を報じたりするのはできればやめて欲しいと思ったりもする。
とりあえず、里見さんと先に述べた「もう一人のフジイ」が戦う可能性があるのを考えてコッソリ胸踊らせていたいと思う。

「せんちゃん」のニコ生

ちょっとバタバタして最近将棋をゆっくり見られず、ブログもますますもってさぼってしまっていました。
その間に、わたしの羽生様(気持ち悪いですね)には、まぁいい事もあり悪いこともあったわけです。

泣きたいです…..
ヒロシです…..

というわけで、相変わらずのわたくしですが今日は王座戦第一局のニコ生をタイムシフトにて温泉気分でゆったりとながめているのですが、せんちゃん、こと先崎学先生と本田小百合さんの掛け合いがなかなか楽しい。

昔の話で、先崎さんがお世話になっている先輩棋士と対局した際の話。
とても面白い先輩だそうで、駒を並べる際に、

「センザキクン、飛車と角はどっちをどっちにおくんだっけ?」

これには先崎先生苦笑して、

「先生、お好きな方でどうぞ。」
「あっ、思い出した、飛車はこっちだったね。」

古き良き、ゆるい時代の話ではある。
さらに、ある時その先輩棋士が初手にビシッと▲7五歩。▲7六歩の間違いではないのである。
勿論反則で、本田さんが、

「でも駒から手を離したわけじゃないですよね。それなら一応反則ではないかもしれませんし。」
「いや、それが堂々と手を離しちゃったんだよ。」

先崎が絶句して反応に困っていると、その先輩、

「あっ、これボク反則負けだね。もう帰ってもいいかな。」

確信犯なのである。これには先崎も困って、

「先生カンベンしてください。お願いだから歩を7六に戻してください。」

と頭をさげて頼んだそうである。なんでこんなことをされて謝らなければならないのかと。
そして、ただの「冗談」という事で無事対局は始まったとのこと。
昔はそういう感じでゆるい楽しい時代だったという話である。
それが、今では全てがきっちりして、10時の対局開始の際に、記録係が皆電波時計か何かで秒まで揃っていて一斉に、

「それでは、対局を開始します。何々先生の先手でお願いいたします。」

と言うものだから、うるさくて仕方ないし聞きとりにくくて困ると。
先崎さんは昔が懐かしそうだったが、私もその感覚は何となく分かる。真面目なところは真面目にやるべきだけれども、テキトーなところはテキトーでも別にいいと思うし。
ちなみに、先崎はその先輩棋士の名前を言わなかったが、私の頭の中には九州出身のデップリとした(なんて言ったら怒られる)某先生のお顔が浮かんだのだけれども違うかな?

そもそも駒を並べる話のキッカケになったのは、これは最近の話で先崎が仲間と研究会を行った際の話。
駒を並べる際に、先崎は玉を置き金を置いたまではよかったが、次に金の横にまた金を並べてしまったそうである。当然逆に置く金が足りなくなる。

「あれっ、金がないんだけど。」
「先生、そこに金が二枚並んでいます。」

これには先崎も自分自身でまいったそうである。

「別にそんなに疲れていたわけでもないのに、これってどうだろう。どう思います?本田さん。」
「いや、それは私の口からはちょっと….」

これには爆笑してしまった。先崎も笑ってしまっていたけれど。本田さんもなかなか面白い人である。

そりゃそうですよね。
天下のせんちゃんに向かって、

「先崎先生、それって明らかに老化現象の始まりですよ。」

とは、絶対言えないよねぇ、ねぇ本田さん

「人間的、あまりに人間的な」行方尚史の名人戦 その2

第四局の終盤でも分かるように、行方は羽生とも十分互角に戦う力がある。今シリーズの第二局も行方の会心譜で、羽生もふっとばしてしまうきれ味だってある。王位戦でも結果は出なかったが、唯一だけど勝った将棋は終盤の鋭さを発揮した将棋だった。
行方は若い頃から終盤力には定評があったが、
今年度あの熾烈なA級を勝ち抜いたことでも分かるように、序盤の研究も怠りなく全局を通じて手厚く戦い抜く底力も身につけてきた。もともと、粘り強い指し回しの将棋だったが、しっかりした研究に裏打ちされた円熟の境地に達しつつあるのだ。
だから、一般の前評判とは違って、今回の名人戦ではもっと勝っても全然不思議ではなかった...はずなのである。筆者は行方がとても好きなのだけれども、正直それ以上に羽生ファンなのであって、今回かなり行方を恐れていた。
できればもつれたシリーズの末に行方の顔も立てた上で羽生さんに防衛して欲しい。でも、本当に第七局までいったらはたして心臓がもつだろうか――ファンはファンで余計なことを考える事で結構多忙なのである。

そして迎えた椿山荘での開幕局。行方が深い研究で▲6八飛を試した。正直、昔の行方では考えられないくらい(失礼だ)研究が隅々まで行き届いている。行方もある程度自信をもって、充実した気持ちで指したはずである。
ところが、羽生の柔軟な対応力がそれを上回る。形にとらわれない△4三金左から△5三金寄。地味だけれどもこの手順が今の羽生の円熟を象徴する素晴らしい着想だった。シリーズ随一と言っても良い。行方をして「しびれました」と言わしめた。
後手の羽生がよくなったが、それでもまだまだ将棋は分からない。ところが、61手目で行方は投げてしまう。
盤外でも先手がどう粘るのか難しいとはいわれていた。しかしながら、ニコ生解説の「卒直居士」森下卓が述べたように、本来行方は終盤型でこの程度の差の将棋をひっくり返すことで生き延びてきた棋士なのである。
名人戦史上最短手数記録を更新。
行方が感想で述べているように、深く研究した上で指した▲6八飛が羽生の柔軟な構想でうちくだかれたショックも大きかったのだろう。十二分に準備して勢い込んで指したところ出鼻をくじかれて嫌気がさしてしまつたのかもしれない。
しかしながら、本来そうだとしてもまだ敗勢というほどではなかったようなので、普通に考えればシリーズの今後のことを考えればベストの抵抗をして羽生に楽をさせないようにすべきだろう。多分現代の若手棋士なら必ずそうする。
しかし、多分行方は大変デリケートで人間的なのだ。名人戦舞台初登場の緊張感や、構想がいとも簡単に打ち破れたショックで戦意を喪失してしまったのかもしれない。それが行方らしいと言えば行方らしいのだけれども、羽生相手にこんな「美しい」戦い方をしていては勝つのは望み薄である。正直に告白すると、私はもうこのシリーズは終わったとまで考えてしまった。
行方にはファン(や棋士仲間)に愛されてやまない人間味がある。それが必ずしも勝負にプラスするとは限らないのだ。残念ながら。
しかし、行方はそのままズルズルしはいかなかった。なぜだかよく分からないが第二局に現れた際には第一局の事など忘れたように元気一杯意気軒昂だった。それが人間的な円熟によるものか、行方が近年もった家庭のおかげなのか――あるいは全てを忘れさせてくれるアルコールの力なのか――はよく分からないが。
行方は今シリーズの前夜祭のあいさつで、「羽生さんと違って私行方をご存知ではないかもしれませんが」とか盛んに言っていて、中継ブログで文字おこしだけ読んでいた私は、前夜祭にくるファンくらいなら行方さんくらい知っているでしょ、何を言っているのよ、なめちゃんは、と思っていた。
ところがニコ生中継で現地にいた室田伊緒によると、行方はそういう自虐的な挨拶をすることで会場の心をつかんで味方にひきこむ雰囲気をつくっていたとのこと。ナルホドである。前夜祭でも行方流で元気いっぱいだったらしい。
そして将棋の方も快勝した第二局以降は、むしろずっと行方の方が強気で押し気味だった。あの羽生もちょっとタジタジだった。
しかし、第三局は終盤の一瞬のミスで転落、第四局は前記事で書いたとおり羽生の底力に根負け、第五局も理想的に攻めていたが羽生の△2七銀打を見落としていたそうで、攻めがつながらなくなり入玉を許し、以下徹底抗戦するも羽生の冷静かつ正確無比な指しまわしの前に敗れ去った。
どれも終盤でやられたわけで基本的には技術的な問題だし、また二日制の長時間対局に対応しきれなかったとも言える。
最終局の連盟大盤解説を担当した藤井猛は、行方の敗因は41歳という年齢のせいだと述べたそうである。では羽生はと聞かれて、羽生さんは超人ですから年齢は関係ないと答えたそうな。
そうした要因もあるのだろうが、例えば最終局を観ていて私などはこう思った。行方は羽生の△2七銀打をウッカリしてすでにそこではむつかしくなっていたのかもしれない。しかし、その後▲2五桂とあまり時間をかけずに指している。この桂馬を使わないとお話にならないという自然な手に見えるが、これには羽生の△3九飛が攻防の絶妙手でさらに大きく形勢を損ねたようにも見えた。
つまり、行方は感情の起伏が大きくて充実して思いとおりに指している時は滅法強いが、一度ミスしたり予想外のことが起きると素直に動揺して悪手を重ねてしまうようなところがあるような気がする。これ以外にも終盤で似たようなことを感じることも多かった。行方の「人間的な」ところが勝負には邪魔になるのだ。
一方の羽生は先述の△3九飛をすぐにでも指したくなりそうなところ、ジックリ読みを入れて夕休をはさんで指していた。落ち着いたものである。
さらに、入玉をした後も方針考え方具体的指し手が普通の将棋と違って大変難しそうなところを、常に冷静沈着に的確な指し手を積み重ねて終局図まで見事にたどりついてみせていた。
藤井が言うように羽生は「超人」である。単に指し手が正確だということではなく、恐ろしく心の揺れをコントロールするのに長けているという点でも。
第一局では、アッサリ投げてしまった行方だが、最終局は入玉されてからも気合い十分で鋭く迫り続けていた。しかし、それをことごとく羽生に正確にかわされていたのは何とも皮肉だったが。
しかし、少なくとも羽生を最後まで苦しませ続けた。もし、あの入玉後のようにシリーズを通じて指したら本当に少なくとももっと勝てたような気もする。
それが本来もっともやらなければいけない第一局ではなく、最終局の負けが濃厚な局面で出たのが行方らしいと言えなくもない。
今回は、とてつもなく強い「人間的な、あまりに人間的な」棋士と「超人」棋士の戦いだった。将棋は基本的には技術が全てだがそれ以外の要素もやはり重要なのかもしれない。

少し前にNHK杯でハッシーの二歩が話題になった。相手は行方である。
橋本が二歩を指して直後は二人とも気づかなかったが、まず行方の方が「ああああああ」と声をあげると、顔をおおってまるで自分が二歩を指したかのように落ち込んでいた。
「ああああああ」と声をあげるおかしみと、相手を思いやる今時珍しいような心のやさしさが、あれぞ行方である。
やはり、「人間的な、あまりに人間的な」「棋士」――ではなく「人間」である。その点では羽生もかなわない。


(その1の記事はこちらです。)

「人間的、あまりに人間的な」行方尚史の名人戦 その1

今回は第四局が何といっても名局だった。序盤は行方が△8二飛など細心な配慮でうまく羽生の攻撃を完全に封じ込んでしまった…ように見えた。
純粋な二歩損で右辺も先手の羽生からとても手がだせない形のように見える。完封寸前。こういう場合、将棋界では「島朗先生なら投了してもおかしくない局面ですね。」と言うのが通例になっている?
しかし、羽生も▲2三歩と放り込み、決然と後戻りできない桂馬も跳ねてギリギリの攻めをつなごうとする。
後手は△6九角や△3六角と受けて完全にきらしにいく指し方もあったようだが、行方は強気に△3六歩。ものすごい手つきだった。
こわいところもあるがハッキリ勝ちにいった手で、行方の精神的充実を感じた。こういう踏み込みを敢えてしないと羽生には勝てないと経験で知っているのかもしれない。
とはいえ、完封寸前に見えたようだが局面がほぐれて一応先手も攻めの形になった。後手もこわい。
特に局面が進んで▲2四飛と取られそうなところを逃げたところは、ニコ生解説の渡辺明も「ここで後手にいい手がないと、アレアレこれはおかしいですよー(誰かの口調みたいだ)、ということになります。」と述べていた。
しかし、行方は△3五銀打という好手をきちんと準備していた。入玉しようとする玉の進路を塞ぐので指しにくいが飛車をいじめて取るか封じ込めば良いという好判断である。
ギリギリの終盤でこういう冴えた手が指せれば通常はもう勝ちである。但し、普通の相手ならば。これで改めて後手良しがハッキリしたように見えたが、羽生はその後も実にしぶとい。
渡辺によると、行方が△3五玉と逃げ出したのがやや危険で、すかさず▲1七銀と飛車取りに当てながら入玉を阻む手を指されてまた局面がちょっと分からなくなる。
それでも△9五歩の端攻めが確実な迫り方で、難しいながらもまだ後手か残していそうだという評判だった。次の△9六歩の取り込みが詰めろ。
それに対して▲9八歩と受けたが、渡辺は当初錯覚して97に駒を放り込んで詰みだと思ったが最初に先手が桂馬で取れば後手が△9六桂を打てず詰まない。
つまり、▲9八歩に対して、さらに後手は先手玉に詰めろを何らかの形で続けなければならない。そんなに簡単ではない。
羽生は▲9八歩を着手する際に、ほんの少しだけ震えた。これは、勝ちになったというよりは、それまでずっと負けだと思っていたのだが、もしかすると何とかなるかもしれないという意味だったのかもしれない。
その辺りを渡辺は「▲9八歩に対してどう詰めろをかけてくるんですか、と羽生さんは主張しているのかもしれないですね。」というような言い方をしていた。
渡辺の解説は手の指摘も的確な上に両対局者の考え気持ちの分析も明晰で素晴らしかった。まるで、ピエール・ブーレーズの「春の祭典」のスコアの解析のようで曖昧なところが一つもなく全てがレントゲンの光線のもとにさらされる感じだった。本局の素晴らしい終盤戦の醍醐味を渡辺のおかげでよく理解できたのである。
しかし、その時点では行方も全く不安な様子は見せず力強い手つきでの着手が続く。行方も羽生も自分が勝ちだと主張しているように見える。何とスリリングな終盤。
行方が準備していたのは端を清算して玉を7九に落としてからの△4六桂の詰めろだった。これまた気づきにくい手順の詰めろだが先手も受け方が難しい。
行方はここでは勝ちだと思っていたらしい。羽生が指した次の一手の▲6八銀打以外は。
これも銀を投入すると攻め味がうすくなるので打ちにくい銀である。また、節約して金を引いたりする事も考えられ。渡辺がその順で後手玉を頓死させる順を解説してやりたくなりそうだが、行方はそれらを全部読んでいて勝ちと見切っていたそうである。何という深い読み。
しかし、羽生の銀受けがそれをも上回っていた。羽生は「あそこはあの一手」と述べたらしいが、これは羽生にしか言えないセリフだろう。
既に一分将棋だった行方はこれに対応できなかった。△5八角に先手が5九に香車を受けて攻めがつながらなくなってしまう。ここでは後手が龍を入っていればまだ激戦が続いたようだが、それよりも羽生の▲6八銀打に凄みがありすぎたと言うべきだろう。
その後も、素人には全然簡単ではないのだが(笑)、▲9九歩とか▲7七金打ちとか当然とはいえ後手にとってはきつい手が続いて確実に先手が勝ちに歩を進める。いつものことだが、羽生の仕上げはからい。いや、そうではなく確実正確なのである。
最後の▲8八玉で、羽生の手は大きく震えた。今度こそ正真正銘の勝利宣言である。
羽生の脅威の粘りに瞠目させられたわけだが、行方のもともと定評ある終盤力にも感嘆するしかなかった。超一流プロの技術にウットリしてしまう終盤。
行方はしぼりだすように投了をつげた。その後もうつむいて顔をさかんにおしぼりで拭いている。観ていて痛々しいのだが、このように感情をストレートに表現するところが行方の魅力でもあるのだ。
渡辺によると「羽生さんは、終局後にわりとすぐ相手に声をかけるタイプなのですが、行方さんの様子を見て何も言えないのでしょうね。」このあたりも指し手だけでなく的確な解説だった。
行方のあの落胆ぶりは、あの良かった将棋を勝ちきれなかったか、落としたかという気持ちの表れである。またプロ棋士も観戦者ももともと相当後手がよくて、久々に羽生の鬼のような大逆転勝ちだという見方だった。当初は。
しかし、渡辺がブログに書いていた通り、冷静に考えると後手がよかったにしても、ハッキリ勝ちにする手順は難しくて、実はそれほどの大逆転ではなかったのかもしれない。
真の羽生マジックとは、このように一件大差に見えても実は意外に難しい順をほとんど本能的に選択できる事なのかもしれない。羽生自身も意識的には相当苦しいと考えていたのかもしれないが、結果的には意外にむつかしい順を無意識に選択できているとでもいうか。
かつて、渡辺が羽生のどういうところが天才かと問われ、「分からないところで結果的に勝ちになるような順を羽生さんは選んでいることが多くてあれは他の棋士ではありえない」という意味のことを述べていたのを思い出した。

さて、記事タイトルの内容にまだたどりついていないが、第四局を語るだけでもう力尽きた。続きはまた回を改めて。

森下卓の電王戦リベンジマッチ

発端はやねうら王開発者の磯崎氏の発言である。
――もう、将棋ソフトはプロより強くなってしまっている。だからいい勝負にする方法を考えるべき。香落ちで戦うとか。
磯崎氏は去年の電王戦でもソフトの改変問題でも物議をかもした。私も最初は、けっ、けしからーんと単純な反応をしてしまったクチだが、具体的事情や磯崎氏のキャラクターが分かってくるにつれてちょっと考えを変えた。特に参考になったのはこのブログ記事。

土屋つかさのテクノロジーは今か無しか 第三回電王戦第2戦「やねうら王VS佐藤紳哉六段」について、あるいはやねうらおさんについて思うこと

ソフトの変更問題の具体的事情についてはさしあたり置いておくとして、磯崎氏はかなりユニークな天才肌職人肌の人物なのであって、とにかくベストの状態のソフトを出したかっただけだということである。
だから、今回のこの発言も、冷静に客観的にプロ棋士とソフトの対戦結果のデータをふまえて、よりよい状態での対戦を純粋に追求しただけの発言である…のかもしれない。
しかし磯崎氏のような天才がいとも簡単に見落としてしまうのは、フツーの生身の人間の感情、プライドっといった類のものである。
去年の佐藤紳哉もそれで激怒してしまった。我々凡俗の徒はなぜ佐藤が怒ったのかが簡単に分かるわけだが、磯崎氏はいまだに本当にはよく分かってないのではないだろうか。
でないと今回のような発言をプロ棋士が居並ぶ前でしてしまうわけはない。(ちなみに私はそんな磯崎氏が好きなのだけれども。)
というわけで、その場に居合わせた我らが森下卓は黙っていられなかったのである。誇り高いプロ棋士の代表選手のような存在なので。
森下は別にソフトが人間より既に強くなってしまったわけではないと主張する。
人間にはヒューマンエラーがあるので、持ち時間の制限、まして秒読みではどうしても間違えてしまう。だから、15分とか10分の秒読みならぬ分読みにして、なおかつ盤駒の使用を可能にすれば、そういうヒューマンエラーは防げるし、何戦戦っても全て勝つ自信があると言い放ったのだ。
序盤の細やかな感覚では、まだ人間がソフトより優位なので、そこで優位を築いてその後の中終盤でミスしなければ勝てるという考え方である。
という経緯で今回の、持ち時間がきれても一手10分考慮可能、常時盤駒を使った検討が許されるという破格の条件での対局が実現した。
しかし、正直に言うとどれだけやれるかについてはかなり懐疑的だった。なんせ、現在のソフトは強くなりすぎている。
まず、10分使って森下がミスを防げたとしても、今のソフトは特に終盤ではそれ以上のレベルの指し手を継続して多少の劣勢も逆転してしまうのではないかと思った。
さらに、森下は序盤での人間の優位を主張するが、現実にはソフトがプロ将棋における画期的な新手を次々に提示しているし、人間が優位どころか先入観のないソフトが新たな序盤戦術を開拓しつつあるので。
だから、森下の男気は買うけれども、ちょっと現実が見えていないのではないかと、やや冷やかな見方をしてしまっていた。
事前のPVでも数人のプロ棋士が、このルールは序盤でかなり大きいリードを奪えないと
役に立たないなのではないかと冷静に指摘していた。もっともな話である。
さらに対局直前にニコ生に登場した森下がこんなことを言った。
「私は序盤で大きくリードできると思っていたが、事前の練習の結果、今のソフトは序盤も洗練されてきていてなかなかリードを奪えないのが分かってきました。」
これには、私はオイオイと思わずにはいられなかった。そんなのシロウトの私だって知っている。こんな調子で本当に大丈夫かいなと。

しかし、昨日いや今朝まで続いた対局(まだ終わってないが)の内容結果を見て本当に驚いた。
ここは思いきり手のひら返しをしてしまおうではないか。森下先生ごめんなさい、私が完全に間違っていました。
まず、盤駒使用の効果を私は過小視していたようだ。森下は序中盤ではニコ生視聴者への解説も兼ねた様に喋りながら一手一手慎重に手を決めていたが、確かにその思考内容の言語化を参考にしても、人間(森下)の方がやはり細やかで自然な感覚だと納得させられた。
特に今回のツツカナは全般に少し変で、▲4九飛などは人間にとってはプロでなくても意味がないとは言わないにしてもよくない手であって、あんな手を森下の前で指してしまったら、
「えーーーっ、明らかにこれはありがたいと思うけどなぁ。」と何度も大声で言われてしまう羽目になる。
それでも別に均衡が破れたわけではないが、人間の感覚だとやはり作戦勝ち、ポイントをあげつつあるという展開になったと思う。森下が当初言っていたような大きな優位ではないにしても、感覚的なきめ細かさや自然さでは人間に軍配があがりそうだ。
その後もツツカナは千日手狙いにしてもやはり人間には考えにくい▲6九飛など指したのだが、結果的には森下の方から打開して、少なくても後手としては十分、少し良いしプロならばたいてい後手を持ちたいのではないかという展開に持ち込む。
とは言え、まだまだ僅差であってコンピューターソフトはこの程度は簡単にひっくり返してしまうのが通例だ。しかし、ここでも森下は盤駒使用をうまく生かして悪い手を指さない。中終盤で力負けしたり、人間が根気で負けて先にミスする展開にならなかった。これは、森下が盤駒使用の効果を力説していたのを素直に認めるべきだと思う。私などが予想していたよりはるかにミス防止に役だっていた。
そして、逆にツツカナの方が▲9四歩というこれまた人間的には謎の手を指し、そのあたりから徐々に森下側に形勢が傾いていく。それはツツカナ自身の評価値が認めていた。
その後はソフトらしく容易に崩れず、文字通り夜を徹しての戦いになったが、ここでも森下は10分を生かして脅威の精神力で慎重に指し続けて間違えない。ちょっとイヤな感じになったところもあったが、結果的にはリードを保ち続け、指し掛けの局面ではほぼ森下勝勢である。
最後の方は、森下も意識が朦朧としてきたそうで、寄せに行くと間違えそうなので、駒取りの安全策に徹したそうである。
だから将棋が終わらなかったが、森下らしい勝ちに行き方だったとも言える。序中盤は森下らしくなく歩切れに苦しんでいたが、結果的には駒台には駒があふれんばかりになり、歩も5枚=一森下をしっかり達成していた。
そして、最後は「これ、よく見たら私が指していたら先手はもう投了しかないですね。」と何度も言って森下節でしめくくったというわけである。
ツツカナがかなり不出来だったような気もする。しかし、以前からソフトはとてつもなく高いレベルの棋譜を残すかと思えば、標準以下の将棋も多く指すと指摘されていた。
展開にもよるが序盤のきめ細かな感覚、人間が正しく指し続けた場合のソフトの本当の中終盤力はどの程度なのか、やや劣勢になった場合に無意味な指し手を指してしまいがちな事など、現在のソフトの問題点が浮き彫りになったと思う。
とにかく森下アッパレである。とはいえ、まだ将棋が終わっていないのだが。

また、森下の人間的魅力も存分に味わえた。序盤中盤では自戦解説をしながらの対局となったが、棋士の思考を可視化してくれると同時に、「いやぁ、これはどうみてもありがたいです。」とか、「えーーっ、意味が分からない」などあまりにも率直すぎる森下節が炸裂していた。
昼間はちょっと私も観て笑ってしまっていた。が、夜に入ってさすがに自戦解説はやめていたが、いつまでも盤駒検討して「うん、これしかない。」と自分を納得させるようにして、残り2分の声がかかると対局盤に戻り1分の所で指し、また盤駒に戻ってのつぶやきながらの検討の無限ループを繰り返す姿には感動せずにはいられなかった。
深夜に、森下が広いガラーンとした対局場で、盤駒を使って黙々と、ではなくつぶやきながらだけど、検討する後ろ姿には思わず涙しそうになったのである。
囲碁のほうは普段の対局でもぼやくことが多くて、趙治勲や依田紀基が有名だか、こうして四六時中将棋でぼやき状態が映し出されるというのもすごかった。
例えば加藤一二三や石田和雄でこのような企画をしたらどんな事になるのか、考えただけでも恐ろしい。
夜、というか一晩中の解説は金井恒太と中村太地が担当していたが、二人ともなかなか洗練されたユーモアのセンスの持ち主で聞いていてとても楽しかった。
特に聞き手的役割をつとめた金井の名司会ぶりには驚いた。明るくきちんとしゃべりイヤミがなく、なおかつでしゃばらず細やかな神経で喋りすぎず黙りすぎず、真面目すぎずふざけすぎず、適度なしゃべりで番組をしっかり支えていた。私などは、永井英明以来のNHK杯の男性司会をやらせてもいいのではないかと思ったくらいである。
あれを見ていた奥様方で是非金井さんをうちの娘の婿にと思った方も多かったはずである?
そして、昼間にも解説をしていた佐藤康光が何と深夜に戻ってきていた。家で年越しそばを食べたりしてのんびりしていたが、二人の解説者に悪いと思い、また森下の勝ちを見届けたくてわざわざ車をとばしてやってきたらしい。漢、佐藤康光である。
但し、かつて羽生や森内をのせて佐藤が首都高を運転した際に、羽生や森内の顔色をなからしめたエピソードを知る身としては、徹夜明けの元旦に佐藤が車で無事家にたどりついたかだけが今回唯一気がかりだったことは言うまでもない。

糸谷哲郎と森内俊之の竜王戦

スカパーのStar digioには山ほどチャンネルがあって好きなジャンルの音楽を聴こうと思えば一日中聴いていられる。
私の好きなJazzのチャンネルはなぜか既にクリスマスモードになっている。コーヒーを啜りながら音量を絞って流していると、部屋がちょっとしたこ洒落た喫茶店と化す。
実際のところは、コーヒーはBlendyのインスタントスティックで部屋もボロっちい狭い書斎でも。
今はDave BrubeckのしっとりとしたピアノソロでO Tannenbaumがかかっている。
というわけで、今朝は何だか気分がいいので竜王戦についてでも書くか。何となく書き方が難しいので後回しにしていた。
最初に一応お断りしておくが、私は糸谷哲郎も森内俊之も大好きである。

第五局の序盤でちょっとした事件があった。糸谷が着手する際に、森内の2三歩にふれてしまい、その歩が斜め向きになってしまった。
しかし、糸谷は気づかないのか直さない。森内の方も意地になったのか全然直そうとしない。
歩がななめになったまま、相当長いまま対局は進行して、ニコ生でもそのちょっと異常な盤面が延々と映しだし続けられた。
ようやく、森内が諦めたように?歩を直す。
糸谷は自分がしたのに気付いていたのか気づいていなかったのかはよく分からない。また、長い時間たって改めて相手の駒を直しにくいというのもあつたのかもしれない。どちらにしても、あんまり細かいことは気にせずあくまでマイペースを貫く挑戦者だった。糸谷らしい。
一方の森内。ああいう賢明な人だから、そういう糸谷のキャラクターは十分承知していて、
頭ではそれを許してしたしたぶん第三者としてみれば糸谷の振る舞いも笑ってみていたのではないだろうか。森内はそういう寛大な人である。
しかし、いざ目の前にして座って、何度も何度も離席されたり、自分が負けになったところで相手が悠々とおやつのお菓子を食べ始めたりされると、どうしても平常心ではいられなくなったのかもしれない。
それは生身の人間だから仕方ない。まして森内はそういう面で大変デリケートなのだ。なおかつ、森内はそういうのに文句を言ったりせずにひたすら我慢してしまうタイプなのである。
そういうのが積み重なって、2三歩に対してイラっときて、自分では直さなかったのである。そして、森内はデリケートであると同時に強情でもある。一度決めたらもう直さない。
しかしながら、そのように意地をはっている自分に対する批判も良心的に心の中ではどこかで行っている。「大人げない」と。だから、結局は自分の方で駒を直すことになる。
たぶん、糸谷にはそういう心理的ドラマは無縁である。そんなことはそもそも気にしない。
極論すれば、この二人の違いが今回の竜王戦の勝敗を分けたのである。
たまたま竜王戦の最中にNHKの将棋講座で過去の珍場面の特集があった。
その一つが羽生VS森内の最初の名人戦。封じ手の時刻の本当に寸前に森内が着手してしまう。
当時のNHKBSで米長邦雄が「おぉ、指した」と叫んでいるのも紹介された。さらに、この後、米長は聞き手の吉川精一アナに「いやぁ、いいものが見られた」とか言って握手を求めて吉川アナが苦笑していた。お茶目な先生だった。
森内はもちろん嫌がらせでやったわけではない。囲碁で坂田が藤沢に意図的にしたのとは全く異なる。ただ、自分で封じ手をしたくなかっただけ。その一念で指してしまって周りがみえなかった。そういう純粋さは実は糸谷と似ているところもあるのだ。そして、今回は逆に自分がその種の行為を受ける側になった。因果は巡る。
ついでに言うと、羽生は勿論少しは動揺しただろうが、わりとすぐに封じた。なかなか封じ手をせずに森内に怒りを伝えたりはしない。
羽生はそういう面では勝負師向きにできていて、受け流すところはサラリと受け流すのである。
というか、ほとんどの棋士はそうかもしれない。例えば同じ羽生世代の先崎学なら、こういう事をされても平然としているだろう。
もう一つ、森内VS郷田の名人戦も流れた。郷田が森内の考慮中に扇子をバチバチやり続けたために、森内がブチきれてしまったのである。協議のために対局は中断される。そして映像では、森内が興奮しすぎて鼻血をだして鼻にティッシュをつめている姿も紹介されていた。
これも、森内はおそらく我慢に我慢を重ねた末に、浅野内匠頭のように刃傷に及んだ・・・わけではないのだが。
これも森内がまじめすぎて人柄がよすぎるために起きた。普通ならすぐちょっと注意するか、あるいは露骨に相手にすぐ文句を言って済む。それを良心的に我慢に我慢を重ねるためにエネルギーがたまって爆発してしまうのだ。

最後の二局では糸谷の時間責めも話題になった。(「時間攻め」が正しいのかもしれないが、「時間責め」の方が何となくしっくりくる。)
両局とも初日から糸谷が劣勢になるが、そこから糸谷がビシバシと指し続ける。そして、意識的にそういう指し方をした事を、糸谷は糸谷らしく正直に認めている。
森内もまさか二日制の将棋で時間責めにあうとは思わなかっただろう。森内は羽生や渡辺相手で証明したように特に二日制の将棋で抜群に強い。それは、ひとつには時間をかけて終盤にじっくり考えられるというのも大いに関係している。
そして、二日制なら森内らしく周到に時間配分もできるのだが、糸谷はそういうところでも常識を超えていた。
そして、糸谷はおそろしく早見えなのでそれでもある程度以上の指し手を続けることができる。NHKBSで解説していた木村一基が言っていたが、普通は時間責めしている方が間違えて自滅してしまいがちなのだ。
そして、結果的には両局とも森内の大きなミスをさそって大逆転勝ち。
結果的には将棋の純粋な将棋の内容としては
クエッションマークも残った。しかし、勝負事なのだからこれくらいは当たり前とも言える。
最近のタイトル戦は羽生世代が中心であまりこういうのはなかった。崇高な神々たちの戦い。しかし、今は糸谷自身がハワイの前夜祭の挨拶でひきあいに出していたように、「神は死んだ」(ニーチェ)のである。
大変人間的な戦いをする糸谷はそういう意味ではとても面白かった。しかしながら、これで「神々の黄昏」というオペラが書かれるわけではない。というのは、相変わらず羽生世代の神々が健在すぎるくらい健在だからである。

さて、糸谷新竜王。この人くらい純粋な人も珍しいだろう。私は加藤一二三の後を継ぐのは糸谷しかいないと思っている。完全にマイペースでなおかつそれが全然憎めないところもよく似ている。
今回のたびたびの離席なども、言うまでもないが悪意とか他意などみじんもないのだ。加藤一二三が、「ひふみんアイ」で相手の後ろに立つのと同じ。
その加藤が初日のニコ生解説だったが、米長とのエピソードで米長著「将棋の天才たち」の話がメールでちょっと出ていた。
その本にも糸谷哲郎は登場する。糸谷のかつての「将棋は斜陽産業です。」発言は有名だが、何とあれは何かの会で米長当時会長を前にして言ってしまったらしい。米長は憤然として席を立ったそうである。というわけで、糸谷は計算とか何もなくてそういう事を言ってしまう人なのだ。糸谷も島朗の言うところの「純粋なるもの」の系譜の伝統に属している。ちょっと今までとは種類が違うだけで。
糸谷は現在大阪大学の哲学科の院生である。そして一応将棋部にも在籍している。「プロ」という愛称で、気さくに部室に顔をだして指導もおこなっているらしい。また、西遊記のファンサービス活動でも中心的な役割を果たしている。全然偉そうにしていないで、まわりから独特のキャラクターに対してツッコミが入っても怒りもせずに笑っている。
こんなこともあった。ニコ生中継で糸谷が「ティロホンショッキング」で電話出演する。ブールミッシュが棋聖戦のお菓子の提供をしていた。
そして、聞き手をしていたかわいい小悪魔のような?山口恵梨子が無茶ぶりしてお菓子の食レポを依頼する。
糸谷は最初は「ええっ、だって食べながら喋れないじゃないですか。」とか嫌がっていたが、結局マドレードを食べて「このレモン風味が甘みをひきたてています。」と名食レポをやってのけたのである。どうすればあんなに人柄がいいのだろうかと思ってしまうくらい人柄がよい。
いやはや、木村義雄の時代じゃ考えられない。
本当にきどりのないきさくで庶民派の新竜王である。おめでとう。

さて、こういう究極の善人同士の二人の糸谷と森内が戦うとちょっとした波乱が起きてしまったわけである。別にどうということもない。二人とも純粋でいい人すぎるためである。
ただし、こういうのと、お互いに意図的に反目した藤沢秀行と坂田栄男のようなケースのどちらがいいかと言われると、私などはそのようにチャンチャンバラバラやってほしいと思ってしまう方なのだが。

今泉健司さんの「顔晴る」

石井健太郎四段が盤におおいかぶさるように必死に考えている。しかし、もう勝ち目はない。秒を読まれる中、「負けました」と言って駒台に手をやる。
今泉健司さんも軽く礼をして駒台にソッと手をふれる。やや呆然としたようにしばらく無言で余韻に浸っている。
石井四段が何やら恐らく将棋の内容について今泉さんに話しかけると、今泉さんは崩れるように体を前に倒すと、「いやぁ」といった感じで後頭部に手を当て、一気に感情がはじけたように石井四段に笑顔で何かを答える。
バックには丁度五時を告げるチャイムが静かに祝福するかのように流れ続けていた。
ドヤドヤと報道陣やカメラマンがなだれこんでくる。毎日新聞社の山村記者によるインタビューが始まる。今泉さんは、いつものように笑顔できちんと答え続けている。
しかし、プロ試験に合格を果たした感想を聞かれて、言葉がでてこなくなる。
誰に喜びを伝えたいかと聞かれて、「お世話になった人すべてです。」とキッパリ。
最後に山村記者に、「これでよい正月を迎えられますね」(もし本局に負けていたら第五局は年越しになっていた。)とあたたかい言葉をかけられて、また素晴らしい笑顔に戻った。

今泉健司さんは、若い頃は才能も強さも認められてプロ養成期間の奨励会で三段までのぼりつめる。しかし、地獄の三段リーグの壁にぶちあたり、年齢制限によってプロ入りを断念せざるをえなくなった。
ここまでは、将棋界ではよくある話である。今までどれだけ才能のある人間がプロになれずに涙をのんだことか。
しかし、そこからの今泉さんは違った。様々な職業で働きながらアマチュアとして将棋を指し続けてアマの大会で輝かしい実績を残す。
一度は新制度により、三段リーグへの編入も果たすが、残念ながらまたしても抜けることはかなわなかった。
しかし、それでも今泉さんはまだ諦めない。アマとしてプロとの戦いで素晴らしい戦績を残して、プロ編入試験を受ける資格を獲得したのである。
今泉さんは、自虐的に「まるでゾンビ今泉です」と言って笑うのだが。

今泉さんは現在介護施設で働かれている。NHK広島がつくったミニ特集でもその模様が流れていた。その様子が大変明るい。
私も介護のことはある程度知っていて、ああいう介護士の方々の大変さはある程度分かっているつもりだ。職務の大変さや労働時間や報酬面では必ずしも恵まれているわけではない。きれいごとだけではすまない面も勿論あるだろう。
しかしながら、介護される人、あるいはその家族からは本当に感謝されるのだ。それは、私のような家族にとっても大変印象的なことなのである。
いや、私などがアレコレいうより今泉さんご本人の言葉を聞いてみよう。

みなさん優しい方ばかり。
時に叱咤、時に激励をしていただくなかで、
私自身、大きく気持ちが変化しました。
やはり、目上の方々はすごいです。
日々笑顔で、感謝して仕事に取り組めています。
こういう日々を送れたことで、将棋にもいい影響がでたのだと思っております。
今泉健司さんを応援する会公式ブログ 今泉の日常 _雜遒将棋を強くする? より

「いまの職場で働くようになってから、変にとがっていた部分が丸くなりました。プライドとかね。その代わりに増えたのが感謝の気持ちです。今まで感謝が足らんかったから、神様が環境を整えてくれたとも思います」
今泉健司さんを応援する会公式ブログ 今泉流振り飛車人生ファイル 進撃篇 より

今泉さんは若い頃、大変将棋の才能がある一方で、大変な自信家、あるいはご本人の言葉をかりると自惚れもつよかったようである。自由奔放な振る舞いもされたらしい。いまでも、その強烈な個性の余韻は残っていて感じとることができる。
しかし、それが今は苦労人特有の豊かな人間味になって花開いたかのようだ。編入試験のインタビューなんどを聞いていても、明るく元気いっぱいだが謙虚そのもの。人をひきつけずにはいられない魅力がある。ああいう今泉さんの様子を見て、誰もが今泉さんのプロ入りを願い応援するようになったのだ。

今泉さんと同年生まれの棋士は三浦弘行、行方尚史、木村一基、野月浩貴等。将棋界で実績十分でもはやベテランの域に足を踏み入れつつある人たちだ。いかに今泉さんが遅咲きだったかが分かるというものである。
しかしながら、もし今泉さんがこのように人生経験を積まなかったら、はたして今のように魅力的な人間になっていただろうか。また、将棋だって今みたいに腰のすわりきったものになりえていただろうか。
人生は何が幸いするか分からない。いや、今泉さんの言うように、神様は各人に必要な経験をちゃんと与えてくれているのかもしれない。ジタバタ生きている我々がなかなか気づかないだけで。

題名の「顔晴れ」は「がんばる」と読む。今泉さんご本人の説明を聞こう。
「頑張る、ってなんか重いです。顔晴るって書くのは、笑顔で楽しんだほうがいい結果が出やすいからなんですよ。ま、人の受け売りなんですけどね(笑)。」
今泉健司さんを応援する会公式ブログ 今泉流振り飛車人生ファイル 〕符彿 より

今泉さんにピッタリの言葉と表記だと思う。今泉さん、これからも「顔晴って」ください。


(付記 関連リンク)

今泉健司さんを応援する会公式ブログ
(今泉さんご本人が今回の編入試験、これまでの人生について語り尽くされています。必読です。)

今泉健司 最強アマ直伝! 勝てる将棋、勝てる戦法 (マイナビ将棋BOOKS)
(今泉さんが最近書かれた本。中飛車左穴熊など注目の最新型について書かれています。kindle本もあります。)

NHK広島newsweb アマ将棋強豪今泉さんプロに
(対局直後の動画が長めに見られます。多分視聴期限あり)
コメントを承認制にさせていただいています。反映まで時間がかかりますが、お気軽にどうぞ。
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