2007年04月

名人戦第二局 郷田九段について

名人戦第二局。BS解説の谷川先生が言われていたように、森内名人の終盤がやや精彩に欠けたようで、終局はややあっけなかった。森内名人の5四歩に、谷川先生が驚かれていたが、あそこで一直線の斬りあいにいかないで辛抱したのが、郷田将棋の懐の深さとか、現在の充実ぶりなのかもしれないとも感じた。どちらにせよ、第三局以降では、息をのむような終盤のねじりあいを見てみたい。
森信雄先生が日記に、今回の名人戦は二人を両方応援したいと書かれていた。私も、全く同じ気持ちで見ている。二人ともとても魅力的な棋士だが、今日書くのは郷田九段について。
郷田九段については、親交の深い先崎八段が色々書いている。「せんす事件」のときに記事を書いて紹介したエピソードのように、見掛けに似合わず、熱血漢だったり頑固だったりするらしい。電話嫌い、FAXぎらい、パソコンも持ってないとのこと。週刊将棋によると、ネット棋戦の時も、友人宅のパソコンで練習し、「放送枠は何分ですか?囲碁将棋チャンネルですか?」と中継スタッフに聞いて、ネットで生中継されることすら理解していなかったらしいというのは驚きである。
将棋については、「終盤がメチャクチャ強そう」というのがなんとなく分かるくらいで、弱いアマの私には必ずしも特徴がよく分かるわけではない。先崎氏の名分析をいくつか引用しておく。
「流行の最先端を追うことはない。勿論データなんてハナから無視である。だからといって力まかせではない。常に独自の工夫があり理論がある。」
「郷田将棋を一言で言えば、おおらか、である。流行の最新形のことばかり考えているとき、彼の将棋を見ると、気持ちが晴れ晴れする。伸び伸びした指し手に出会えるからである。」
「非常にオーソドックスな将棋である。筋が良く、局勢が良くなれば分かり易く収縮する方向に持っていき、悪くなれば拡散する方向を目指すという将棋の大原則を忠実に守っている。」
「一貫しているのは、研究合戦になっている今の将棋に対するアンチテーゼだった。」
あの外見と雰囲気そのままの、自然体のおおらかな将棋ということなのだろう。しかも、強靭さや、しっかりした自分のものの見方にも欠けていないというような・・。
あの地獄のようなA級順位戦で、ああいう成績を残すのは、決してツキや勢いだけでは不可能なはずだ。本人が「数年前までは、勝っても負けても充実感のようなものをもてなかったが、最近になって手ごたえを感じはじめた。」と言っている。彼の棋風からして、その変化をはっきり言葉にするのが難しそうだが、そこ切り込んで説明する将棋記事を期待してしまう。
A級順位戦最終局の丸山戦で、後手番で角換わりを真っ向から受けて敗れ去っていた。勝又氏のデータ分析を見ていたら、後手番角換わりで相当負けが込んでいるのに逃げない頑固さ。かと思うと、週刊将棋の事前インタビューでは、「後手番で(相手の作戦を)受けてたつとか、そういったこだわりは特にない。」といってみせたりする。意地になって相手の作戦を受けてたつのでなく、自然に付き合うという感じなのかも知れず、なかなか単純な分析は不可能で、茫洋としてつかみどころがない。(そういえば、作戦家の森内名人は、先手番では絶対角換わりだと思っていたのだが、なぜ採用しなかったのだろう。)
BS中継で伊藤アナが、郷田九段が「将棋指しになっていなかったら、スポーツアナになっていたかもしれない。」と言ったという話を紹介していた。失礼ながら、どう見てもスポーツアナには向いていない気もするのだが。とにかくよく分からない人である。不思議な人である。とても魅力的な人である。
最後に、先崎氏の名分析に再登場してもらおう。最上の郷田評だと思う。
「彼は雲のような男である。郷田真隆には大志がある。だがそれは一本槍の志ではなく、雲のようにふわふわして、広くて正体が見えにくい志である。」

山崎ハコの「飛びます・・17歳」を聴きながら。この人については、テレビ朝日が毎年末にやっている「朝まで生鶴瓶」のゲストに出ていたのを見て興味を持った。一言で表現すると、歌いだすといっぺんにその場の空気が変わってしまう歌い手である。このアルバムは、若き日にギター一本で歌ったミニアルバム。日本的な情緒性と、それとは相反する透明感、女のさがと、それと相反する少女性が同居している。大変な「声」の持ち主である。完全に彼女のもの以外ではありえない世界に、どっぷりと引き込まれてしまい、それがたまらなく心地よい。

女流棋士独立問題雑感15-日本将棋連盟の発表についての雑感

「女流棋士独立問題に関して」 「日本将棋連盟」

連盟側の立場、問題の経緯についてのコメント、残留する女流棋士の氏名などが、まとまった形で記されています。少なくとも、きちんと「広報」しようとする姿勢は感じられます。(「勝手には将棋トピックス」の記事がきいたのでしょうか。)こういう行為は、組織の自己防衛上も必要でしょうし、一般ファンとしても歓迎です。但し、内容をそのまま全部是認できるかというと、全く別問題なので、素朴に疑問に思ったことについてメモ書きしておきます。

まず冒頭に「理事会は新法人を立ち上げる女流棋士の皆さんに「独立」を勧めています」とあります。独立を認めているという好意的な読み方も一応出来ます、
しかし「勧める」というのは、何の目的でそうしているのでしょうか。本来、連盟にとって、女流が分裂するのは、なんらプラスでないはずです。「独立もやむなしで友好関係を維持する」というのならともかく、残留者がいる一方で独立を「勧める」という理事会の意図が不明です。これは揚げ足取りではありません。女流棋士の意思を尊重するにしても、それに対して連盟がどういうスタンスで対応し、どういう形を将来的に望んでいるのかという根本的な答えが、この問題が続いている間中、ずっとはっきりしないのです。将来的に、再統一させたいという気持ちなどサラサラないのでしょうか。


「寄付金」の問題について。まず「反対できることはありませんが」とありますが、なぜ反対するのかの具体的理由を知りたいと思います。それをきちんと説明しないと「愛媛新聞」のように、「金にまつわる連盟の迷走ぶりはいわばお家芸。」と書かれてしまいます。
また、「円満な独立を目指すのであれば、寄付の募集先、募集の方法などについて事前に説明があって然るべきであったと考えます」とありますが、独立準備委員会が公式文書で以下のように主張しているのは完全に無視ということなのでしょうか。

上記正式協議にて,準備委員から準備委員会による寄附金の募集について,ご説明を差し上げましたが,さらに,その場で,木村先生からも寄附金募集については法的に何らの問題がないとご説明を頂いております。その上で,弁護士錦織及び同宮坂より,法的には全く問題はなくても,将棋連盟の知らないところで準備委員会名義の寄附金公募の書類が多数出回るのは適当でないので,その場で将棋連盟理事会側に対し,下記書面を配布致しました。将棋連盟理事会側の出席者は,下記書面をお読みになり,特段の異議を述べられず,ご了解下さったところであります。また,実際の募集開始時にも,その旨準備委員から中島渉外部長にご連絡を差し上げました。
読売新聞2007年2月14日朝刊掲載記事についての見解」(2月19日)

せっかく広報するのなら、相手方の主張を受けて反論するならすべきで、自分のいいたいことだけ言うのでは「広報」とはいえないと思うのですが。(但し、独立委員会側もこの文書自体を削除してしまっています。理由は不明です。「勝手に将棋トピックス」に一部記録が残っています。)

「残留を巡る女流棋士間のトラブル」を読むと、女流の間に種々のトラブルがあったという事実を確認できます。実際残留を希望する女流棋士が、一部にいたのも事実なのでしょう。
「理事会は平成19年3月7日付で、55名の女流棋士全員に残留か独立かの意思確認を求めました。理事会は本来静観すべき立場ですが、事ここに至ってはこのような意思確認をせざるを得なかったのです」
とありますが、それをやる前に独立派と話し合ったり、行き過ぎた勧誘がないように要請したり、ほかにうつべき手段はなかったのでしょうか。独立派側の主張によると、再三の要請にもかかわらず、連盟は話し合いに応じようとしなかったとあります。ただ「残留か独立か意思確認する」だけでは、連盟としての管理責任を完全に放棄しているといわれても仕方ないと思うのですが。

意思確認の仕方について、「愛媛新聞」の「残留工作」という表現に対して、連盟は反論しています。無論、どちらが正しいのかは私のような部外者には判断不能です。他にも、週刊新潮の記事(「勝手に将棋トピックス参照」)や「松本博文ブログ」「APRIL COME SHE WILL」などがあるのですが、これについては、各人がどちらが正しいのかを、推測して判断するしかありません。推測するだけなら自由ですので。

「今後について」の中に「連盟所属の意思表示をしておきながら、自らが連盟内に居る間に女流仲間の移籍勧誘等をする行為は信義にもとるのみか混乱をもたらす行為であり、このような行動は取るべきではないということが平成19年4月20日、残留を決めた女流棋士の会合で確認されました。」とあります。
これって、逆にそういうことをしそうな女流が多数いるということを、外部に対して明らかにしていると思うのですが。もし、女流の意思を尊重するというのであれば、このような形の不自然な拘束をしても、なんら問題解決につながらないのではないでしょうか。。世間一般では「言論統制」といわれても仕方ないと思うのですが。こういう述べ方をしている箇所があると、ほかの部分についても邪推が生ずる恐れが多分にあると思うのですが、連盟はそういうことは一切気にしないのでしょう。

「平成19年4月20日付の女流棋士新法人設立準備委員会の文書を拝見しますと、合計しても17名に過ぎない立場にありながら、2倍以上の残留者に対し、新法人に入り一つになるように説得し続ける旨のスタンスが明示されております。このようなスタンスは混乱を引き延ばすことに繋がるばかりです。」
とあります。「17名に過ぎない」とありますが、連盟というのは少数派は主張を行うことも許されないという考え方の持ち主なのでしょうか。あまり民主主義の根本的な考え方にそぐわないと思うのですが、これも別に構わないのでしょう。こういうことを述べるから数を頼んで「多数派工作」をしたと疑われるのだとおもうのですが。
「混乱を引き伸ばす」といいますが、最後に自分で「女流の意思を尊重する」と明言している以上は、今後も残留組も(もちろん独立組も)もし考え方が変わったら、自由に行動する権利を認めるというのが論理的なはずです。

もう疲れました。あまりにつっ込みどころが満載なので、こんなに長文になったことをお許しください。やっと和解ムードなのに水を差すなよ、という声が飛んできそうですが、正直こういうのを読まされると、まだまだ前途多難だと感じずにはいられなかったものですから。
最後に言っておきますが、私は連盟の言うことなすことに反対という類の立場ではありません。少し前にも書きましたが、名人戦主催問題については、完全に連盟の基本方針は正しかったと思っています。
最初にも書きましたが、きちんと大局的見地に立った女流の将来像を、再度連盟には提示して欲しいと思います。けっして、それが出来ないなどとはみじんも思ってないので。

ネット将棋最強戦 羽生vs谷川他

いやー、おとといの羽生vs谷川戦、面白かったですねー。私も、生でかじりついて見ていました。
谷川さんが、2六飛を指すタイミングの早かったこと。いかにも「狙ってましたよ」といわんばかりで。やはり谷川先生も「勝負師」です。一方、それに対する羽生さんの3六桂が、ネット上なのにあわてて指したように感じられたのが不思議でした。むしろ、対局者の映像がない分、こちらが勝手に想像を膨らます楽しみがありますね。
また、解説の先崎さんが9七銀の筋を生で指摘したときも、「ウヒョー」(加藤一二三先生調で)となりました。感想戦も最後まで見届けたのですが、羽生、谷川両氏とも9七銀が見えていたのはさすがです。もっとも、それに対しては8七玉とかわす手があって、その後が難しいという結論でした。
感想戦を見てた人は分かると思いますが、羽生さんって、結構とんでもないユーモアのセンスの持ち主なのかもしれませんね。先崎氏が、完全シカトを決め込んでいたのも妙におかしかった。
見てない方のために、MONOGUSA collectionの方に羽生氏の書き込み内容を記録しておきました。

5/7追記 コメント欄でご指摘があり、羽生氏の近くに会長がその場にいられて、羽生氏の書き込みとして発言内容を出されたようです。誤解を招く記述、申し訳ありませんでした。そりゃそうだ。いくら羽生さんでも、そんな度胸満点のユーモア発言をするわけがないです。

今日から名人戦第二局が始まりました、って実はまた録画忘れを・・。私、録画ミス、忘れの常習犯なんです。第三局以降は、もうカレンダーに書き込んでおこう。
ところで、週刊将棋に第一局の「せんす事件」の状況について具体的に書いてありました。まず、森内名人がクレームをつけたのに対し、郷田九段は黙っていたが、立会人と話しをしたいといい、立会人等が協議した結果、郷田氏に配慮するよう要請し了解したとのこと。何も、三十分間、口泡を飛ばして言い合ったわけじゃないようです。そう早トチリして記事を書いた、私の江戸っ子ぶりも猛省しないといけませんが、週刊将棋は、女流問題といい、正確な情報を提供してくれますね。毎週ちゃんと買いまっせ!

船戸陽子blogの「バブル」関係の記事について書きました。あれ、素直に読むと「残留届けを出した」と取れますが、よく考えてみれば、残留届けを出してなくて、痛烈に皮肉を言ったという読みも可能かもしれません。まあ、独立派のメンバーが分かるのを待ちます。個人的には「やっちゃったか」という結末になるのを希望して・・、いや、その場合はまたしても私は猛省しなければなるまい。


昨日は某所で(勘のよい方はすぐピンと来るかもしれないが)、マリア・カラスMaria Callasが、得意中の得意の「ノルマ」から一曲歌うのを目撃してしまった。文字通り、目も耳に釘付けになってしまったのである。彼女の声の衰えが出た直後の映像なのだが、まだ十分にハリがあり、なによりあの圧倒的な存在感。自室のさえない空気もすっかり変わりはて、完全に別の世界に連れ去られ、強烈な「イメージ」の原型のみが残り・・。
カラスの映像では、他にコヴェントガーデンで、カルメンなどを歌ったソロコンサートや、恐らく最後のオペラ出演になった「トスカ」から高名な第二幕完全版もかつて見たことがある。「トスカ」については、デ・サバタ盤という伝説的なのがあって、永遠のオペラビギナーである私にもあのすごさは分かる。映像では、全盛期の声ではないのだが、はまり役のスカルピア役のゴッビとの丁々発止はまさしく圧倒的である。歌手として以外に、あの類まれなカリスマには、誰しもまいってしまうだろう。
晩年の、ステファノとのコンサートも見たことがある。声はそれこそ、昔日の面影がないのだが、それだけに完璧に歌おうとする強烈な意志(彼女は本当に練習熱心なプロフェッショナルだったらしい。)と、あの気品、気高さ、役になりきる演技力。カラーの映像を見つめていると、やはり涙が出る。
パゾリーニの映画「王女メディア」も見たっけ。同名のオペラがあるが、カラスは歌わず、ほとんどセリフさえない。一種の前衛映画なのだが、映画的文法、イマジネーションにあふれた秀作である。なかなか理解されにくい類の映画なのだが、カラスはその芸術的価値をよくわかっていたらしい。これも、やはりカラスの圧倒的な存在感だけでもっているような映画だった。
ヴィスコンティも、晩年のカラスを映画に引っ張り出そうとしていたらしい。ミラノスカラ座での伝説的な「椿姫」を演出たのが彼。はじめは良好な恋仲めいた関係だったが、周知の通りヴィスコンティは同性愛者だし、また結構ガラの悪い人物だったらしいので、カラスが嫌気が指したのだという元良人のメネギーニの証言などがあるが、その辺のゴシップ関係については今となっては藪の中である。カラスがもし映画出演していたら、文字通り他を圧倒していたはずで無念である。
その伝説のスカラ座公演「椿姫」を指揮した、カルロ・マリア・ジュリーニ(彼も本当に素晴らしい指揮者である。)が、カラスについて次のような意味のことを述べていたと記憶する。
「カラスは、オペラ中のどんな役柄にも完全になりきり、まさしく光り輝いていた。しかし、普段の彼女はどうかというと、自分がどういう存在であるかについて自分でももてあましている風があった」記憶で書いているのでかなりテキトーで申し訳ないが、ジュリーニの人間観察眼もたいしたものである。
一方カラスも自身について次のようなことを述べていた。(こっちの記憶は、さらに曖昧であるが。)
「何か特別な舞台を歩くよう決められた自分がいる一方で、それを常に上空から冷静に眺めている自分がいるような感覚を常に持っていた。」
カラスの人生というのは、一場の夢である。オナシスとの有名なロマンスも破局も何もかも。その役柄を完全に演じきったカラスだが、常にそういう自分との違和を感じる、「もっともカラス的ではないカラス」が常に自分を見つめていたのではないか。そのような妄想が膨らむ・・。

NHK BS11「運命の一手 渡辺竜王VS人工知能・ボナンザ」を見て

いやー、こういうテーマって、やっぱり面白い。番組の出来も良かったし、プログラムの思考内容にも、ある程度踏み込んでくれていたので、とても面白かった。以下、断片的な雑感を。

「全幅探索」と「選択探索」について。しらみつぶしに全てを読むのが「全幅探索」で、手を絞り込んで読むのが「選択探索」である。そういえば、カスパロフとディープブルーの特番を見たとき、確かに「全幅探索」方式だったのを思い出した。ボナンザ考案者の保木さんは、そのチェス方式を将棋にも導入したのだという。その結果、いきなりソフト選手権で優勝するという快挙を成し遂げる。 
逆に、従来のソフトは「選択探索」中心型だったらしい。理由として推測されるのは、1将棋は持ち駒制のためいつまでも選択手の候補が多いために、「選択探索」じゃないと対応できない。2将棋ソフト考案者が、当然ある程度将棋の心得があるために、「選択探索」を用いて自分のスタイルで効率的なプログラムにしたがる、といったところか。
しかし当然「選択」すれば、読みから抜け落ちる部分も大きくなる。それが従来型ソフトの弱点だったところを、ほとんど将棋が分からない保木さんだからこそ自分の判断を信用したりしないで「全幅探索」を導入したのが死角をついて成功したのだろう。
この事実は興味深い。つまり、ソフト制作者がどんなにアマ強豪だとしても、プロでも、まして渡辺竜王のようなトッププロでもない。だから失礼な言い方すれば「結局はプロの将棋を分かってない人間が考えた」ソフトということになる。その点、保木さんは自分の将棋能力に全く頼ってないために、完全にコンピューターに任せたために成功したといえるだろう。これは、今後将棋ソフトを強くするための「コロンブスの卵」的なターニングポイントになるのかもしれない。

但し今回のバージョンアップに当たって、「全幅探索」に加えて「選択探索」を付加させるのに成功したらしい。そのため従来の「角銀交換を喜んでする」という弱点の修正に成功したとのこと。但し、保木さんの場合は、無論自分で「選択」の方法を考えるのでなく、「選択」の方法自体のコンピューターに任せきっているのだろう。現在のコンピューターはまさしく「人工知能」なわけだが、やはり少し怖い話ではある。だって、「どの手を読むか」まで考えるというのはかなり「人間らしい」行為であって、単純な「全幅探索」とは全然は質が異なるのだから。まさに。人間の知能に近い性質を有する「人工知能」と人間の知能が対決する時代に突入したということだろう。

ただ、コンピューターがどういう形で「形勢判断」を行っているのかは、この番組では分からなかった。「将棋プラス」の羽生三冠と松原教授の対話によると、ボナンザの場合その「形勢判断」もコンピューターに考えさせているらしい。 これもやはり結構ショッキングな話である。一度既に書いたが、人間が形勢判断を考えてコンピューターに指令して計算させるというのなら「人間優位」は保たれるが、それもコンピューターがするとなると、まさしく「人間の出番はなくなる」わけだから。

竜王の3九龍を、ボナンザが軽視していたことについて。番組でボナンザの数値化した形勢判断を、全て公開してくれていた。3九龍の直前でも、指された直後でも、そのあとしばらくも、ボナンザは自分が完全に有利だと判断し続けていた。これは一般的に「コンピューターは終盤に強い」というイメージからすれば意外でもあり、渡辺竜王もその点が今回の収穫だったと感想を述べていた。
なぜそうなるのかの理由として推測されるのは
1時間制限内に読もうとすると、コンピューターは「短時間の読みでの精度低下」を恐れて、読みを早めに打ち切り読みぬけが生じる。これは番組中で、瀧澤氏が指摘していたし、松原教授も同様のことを羽生氏との対談で述べていた。
2将棋の場合、持ち駒制のため終盤になってもチェスとは違って、選択可能手の数が減らない(どころか増えるのかな?)ために、「全幅探索」の難易度は序盤と変わらない。その上終盤の場合は一手の誤りが致命的なために、コンピューターの読み落としが目立つことになるというもの。
1は、今後技術的に改善可能な気がするが、2の方は本質的である。羽生三冠が「将棋の場合は、ゴルフで言うグリーン周りがえらく難しいという印象がある」と対談で述べていた。羽生三冠の意見は、無論感覚的なものでなく、たぶん数学的に確率を計算しても正しいのではないかという気がする。つまり、多数の選択肢の中から、全くミスのないひとつを「選択」する難しさは、人間にもコンピューターにも変わりはないということだ。
「詰み」の読みについてはコンピューターはオールマイティだが、「必死」とか「二手すき、三手すき」といった概念をコンピューターに伝えるのは結構難しいのかもしれない。また、保木さんが今回導入した「選択探索」が、この終盤では裏目に出たという可能性も考えられる。
また、終盤においては「形勢判断」でなく「勝ちか負けか」を判断しなければいけない。人間の場合、いくら弱いアマでもそれは可能だが、コンピューターに両者の区別をつけさせるのがむつかしいのだともいえる。単なる数値化した形勢判断以上の「勝ちか負けか」をコンピューターが実行できるようにできるかが、今後の課題なのかもしれない。

コンピューター側のことばかり書いたが、渡辺竜王もやはり見事だった。ソフトの特性を徹底的に事前研究し、「7一角」を打たせようとする戦略。この種の戦略は、カスパロフもディープブルーに対して行っていたと記憶する。また、「6四歩」の「スジ悪の無筋の手」を、軽視しないでしっかり読んで、その手の意味を即座に見抜く対応力、柔軟性。終盤で、コンピューターの強さの幻影におびえず、正確な着手を続ける精神的なタフネス。やはり、大したものだし、今回は並みの棋士がやっていたら、本当に負けていたかもしれないと思う。それにしても「2七香ならボナンザ勝ちだった」という渡辺竜王の感想には、やはり素直に驚かされてしまった。

一方の保木さんも、なかなか魅力的な人物である。最後に述べていた言葉がとてもよかった。
「ボナンザは一秒間に四百万局面を読むが、それを軽く渡辺竜王の脳が凌駕していて、訓練された人間の脳のすばらしさを認識し、やはり人間の知性は素晴らしいと思いました。」
ソフト開発者が言うからこそ、重みもあるし感動的である。
これも以前書いたが、究極的に「計算可能」な将棋というゲームでは、ソフトが人間の名人より強くなる日もいつかは来るだろう。しかし、そのこと自体はゲームの性質上、人間にとっては決して恥ではないのだ。
むしろ、コンピューターの冷徹かつほとんど無限な計算力に、一瞬の直感等の能力をフル稼働して対抗する人間の脳の神秘、人間の能力のすごさを思う存分楽しみ、誇りに思えばよいのだと思う。

女流棋士独立問題雑感14―せっかくこっちは少し落ち着いてきたっていうのに

 おととい書いた、丸山真男「日本の思想」について、大事な引用部分を忘れていました。おとといの記事にも加筆してあります。

「その組織ならその組織の中で通用している言葉なり、外部の状況についてのイメージなりが、組織の外でどれだけ通用するのかということについての反省が欠けがちになる」

丸山氏は、単なる「思想家」というより一種の「預言者」だったのだなあと思います。もっとも、いくら丸山氏が的確な分析をしても、当事者の態度に全く変化がないので困ってしまいますが。それが、丸山氏の言うところの、日本人の無時間性、様々な意匠が変化しても基本的なものの考え方、性質が全く変化しない日本人的特性ということなのでしょう。丸山氏の論考中の「マルキシズム」などについてなど時代を感じさせる部分を別にすれば、ほとんど現在でもその分析が当てはまってしまっているのは、彼がすごいというより分析される側の変化のなさが問題なのだと痛感します。

週刊将棋の女流関係の記事を読みました。もっとつっこんだものをファンとしては期待してしまいますが、週間将棋のおかれた状況を考えれば、これだけ詳しく具体的に伝えているだけでも、良しとしなければいけないでしょう。
理事のお二人が、独立派の棋戦参加を明言されているのはとにかく結構なことです。
もっとも、あくまでそれは連盟ではなくスポンサーが決めることです。最後に毎日コミュニケーションズ社長室の談話が載っていますが、「ファンの皆さん、心配されなくても、ちゃんと独立派を棋戦参加させまっせ」と言っているように独立派を応援する立場からは勝手読みしてしまいます。他の新聞各社も恐らく同様で、仮に(あくまでも仮にですよ)連盟がどんなことを言おうとも、独立派を棋戦からはずすような暴挙は、自分たちの信頼失墜につながるのでするはずがありません。その点は完全に安心していいのだと思います。
それどころが、独立派のみを対象とした棋戦について、新たなスポンサーがどれだけつくのかを注目しています。

愛媛新聞の3/16コラム 女流棋士会分裂

踏み込んだ記事を書いています。かなり断定的な言い方をしている部分があって、大丈夫なんだろうかとも思ったりしますが、とにかく将棋にかかわるマスコミならば、中央の新聞も何かきちんとした形での記事を書いて欲しいなあと思います。もっとも、別に将棋の問題に限らずメジャーなメディアほど機能を果たしていないのは、現在では「常識」に過ぎませんが。

せんすぶろぐ  矢内女流名人の表彰式にて

せっかくやっと最近私は落ち着いてきたのに、またしても頭に血が・・。せんすさんがこんな記事を書かれるというのも、その場にいてよほど感じられることがおありだったのでしょう。
矢内さんも、あんな言い方をされては、かえって自分の行動を後悔したりして逆効果じゃないかと思うのですが。心理学の初歩です。
藤森さんも、あんな言い方をされたら「古い仕事」が終わったら「新しい仕事」の方を、それこそ百万馬力で行われるに違いなく、かえって逆効果だと思うのですが。これも、心理学の初歩です。
おととい書いた丸山真男の主張に関連させていうと、ある人物に安易な「イメージ」を付加させるのは現代人の悪癖です。しかし、この人物については、自ら進んでモンスター・イメージをつけさせたがっているんじゃないかと疑うことがあります。それでも私は良心的なので?モンスターイメージをつけようとは思いませんが、世間やマスコミはもっと短気で残酷なはずですが、そういうことは一切気にならないのでしょうか。

「タコツボ型社会」の問題点―将棋界の「仲間意識」をめぐって

先日ちょっとふれた丸山真男の「日本の思想」を読み返してみた。いくつかの論文や講演をまとめた本で、今日取り上げるのは「掘〇彖曚里△衒について」。
丸山は、まず「イメージ」の問題から語り始める。人間は、現実に直接ふれずに「イメージ」で物事を判断せざるを得ない。そういう「イメージ」というのは人間が外部の環境世界に対応するための潤滑油のようなものである。しかし、社会が複雑化するにつれ、直接に現実に触れることが不可能になるにつれ「イメージ」に頼る部分がどんどん大きくなる。それにつれて「イメージと現実がどこまで食い違っているか、どこまであっているかということを、我々が自分で感覚的に確かめることが出来ない」事態が発生する。

「イメージというものは段々層が厚くなるにしたがって、元の現実とはなれて独自の存在に化するわけでして、つまり現物から別の、無数のイメージ、あるいは本物と区別していえば化けものでありますが、そういう無数の化けものが一人歩きしている、そういう世界の中に我々は生きているといっても言い過ぎではないと思います。」

うーん。丸山論文をネタに、散々将棋界の悪口でも書いてやろうと思ったのだが、この指摘は私が女流独立問題について書いていることを考えると、とても耳の痛い話だ。特にこの問題の場合、外部にもれてくる情報がきわめて限定されている上に、はっきり言ってマスコミがまったく機能を果たしていないので、それこそ「勝手に将棋にトピックス」や一部の当事者のブログを頼りに私はなんとか手探りで書いている。当然「化けものイメージ」が混入してきてしまう。
例えば「独立派女流対残留派女流の対立」というステレオタイプなイメージ。昨日書いたように「船戸陽子blog」の写真が、その安易なイメージをぶち壊してくれたので゛私などは本当に助かる。自分のことを棚にあげていえば、イメージを作り上げるもっと多くの情報が欲しいところである。
もっとも、本当に賢い人間は私みたいに無謀なことは最初からしない。どこで読んだか忘れたが、この問題について「得ることの出来る情報がすくなすぎるので、私はこの問題について書きません」という記述があった。これが本来のまっとうな態度である。
いうまでもなく最悪にダメなイメージは「連盟のトップ=モンスター、独立の女流=革命の義士」というもの。さすがに私はそういうイメージでは書いてないつもりだが・・。

さて、おざなりな「自己批判」の儀式を済ませたので、次は「タコツボ型社会」について。丸山は「ササラ型」と「タコツボ型」の対比概念を提出する。「ササラ型」というのは、竹の先がいくつにも割れた形であって、元の部分の幹はしっかり共通している。ヨーロッパの文化は、かつては「総合的」な幹のしっかりした学問であり、そこから先端が枝に分かれている「ササラ型」であった。しかし、ヨーロッパでも学問の専門分化が進行するにつれ、各部門間の交流がなくなり専門分野ごとに孤立していく。まして、日本のヨーロッパの思想の受容の仕方は、本来の「総合的」側面を全く無視して、専門分野ごとの結論のみを、それぞれが隔絶した形で行ってしまった。そのため、共通の基盤のないため、分野間での不毛な論争が繰り広げられることになる。いうまでもなく、専門化して自分の殻に閉じこもっているのが、丸山の言う「タコツボ型」である。そして、それは学問の文化の話にとどまらない。

「政治や経済の組織だけでなく芸術の分野でも、文壇とか楽壇とか画壇とかいう「壇」、またはその中の何々サークルとか何々会というものが不断にタコツボ化の傾向を持ちますから、そこに属している仲間だけで通用する言葉なりイメージなりがおのずから発生するということになる」
「いわば組織の中と外というものが、いわゆるインズ(内輪)とアウツ(よそ)というものが峻別されることになります」
「その組織ならその組織の中で通用している言葉なり、外部の状況についてのイメージなりが、組織の外でどれだけ通用するのかということについての反省が欠けがちになる」

さてと、これでやっと将棋界の悪口が言える(笑)。というか、現在の将棋界について、これ以上分かりやすい批判は考えられないという内容である。「勝手に将棋トピックス」の「仲間だけなら全てはうまくいくのか」が、取り上げているのも、この問題に他ならない。
女流の問題について関連させると、ある棋士のブログに「この問題についての説明会があったが、とても和気あいあいとした雰囲気で、きわめて建設的な話し合いが出来た。第三者が間に入って険悪になるケースがある」という意味合いの記事があった。無論、楽しく話し合うに越したことはない。しかし、問題が実際にはきわめて深刻な状況で、なおかつこういう「建設的な話し合い」の結果、現在の深刻でやりきれない事態に陥っているのがまぎれもない事実である。批判めいたことを言いたくはないが、内部者意識と危機感の欠如に対して、アウトサイドの人間としては、やはり苛立たずにはいられないのである。
丸山はさらに言う。

「おのおののグループというものが、それぞれのおのおののグループがそれぞれ一種の少数者意識、やや誇張して言えば強迫観念――自分たちは、何か自分たちに敵対的な圧倒的勢力に取り囲まれているっていうような、被害者意識を、各グループごと特に集団のリーダーがそれぞれ持っているということになるわけであります。」

念のため言っておくが、丸山は現在の将棋連盟や女流独立問題について述べているのではない。そう錯覚するぐらいピタリと当てはまる分析である。「被害者意識」というのは、特に今回の連盟側の対応を見ていると、最重要キーワードにあげることが出来るだろう。さっき述べたが、連盟のトップがモンスターだというようなことは、まともな人間なら考えていない。そんなことは思わないが、自分たちは「被害者」だという意識で、実は他者に対してとんでもない重大な被害を与えてしまうのが、「被害者意識」の一番厄介なところである。
ところで、「集団のリーダー」のことは別にして、私が気になるのは、連盟のメンバーが、今回の問題についてどういう感じ方をしているかである。色々なことがアウトサイドの人間から言われているのに対して「現実がよく分かっていない」とか「外部者に口出しされる問題じゃない」と思っているのか、そうでないのか。
一般男性棋士の不気味な沈黙が続いているわけだが、もし外部者の見方に冒頭述べたような「イメージの・バイアス(偏向)」があるのならば、それを正すようなことを述べて欲しいと思う。別に「政治的」にどういう立場をとるかを述べる必要など全くないのだ。また、実際に誰もしていないわけではない。昨日紹介した「船戸陽子blog」の記事は、それこそ外部者の「イメージのバイアス」を正す作業を、とてもスマートな形で遂行している一例である。全く、男性棋士の諸君には彼女のツメの垢でもせんじて・・、ということまで言うと、これこそ部外者の偏見になってしまうのでやめておくことにする。
もっとも、最近一部の若手のブログで、この問題について意識的に発言しようとする人たちがポツポツ現れてきている。無論、実名で書くには私のような匿名ブログとは違って相当の覚悟も必要だろうが、述べ方の工夫次第では、いくらでも言えることがあるはずなので、大いに期待したいところである。また、ブログを持っていない大多数の棋士も、特に若手についてはそれぞれが、実際はしっかりした問題意識を持っているのに違いないと私は信じる。また、そう思わなきゃ、やりきれないしね。



昨日私のブログ名のことにふれたが、色々考えてみて「Shogi underground」というのはどうかしら、ってどう見てもネーミングセンスがゼロだね。だいたい意味不明だし。新法人の名称公募に対して、私は断固自粛しなけれはならないだろう・・。

高橋悠治pfの「バッハ・ゴールドベルグ変奏曲」を聴きながら。安っぽいコピーをつけるなら、「日本のグレン・グールドによるバッハの脱構築」といったところか。とにかく才気煥発な人である。本当に昔のことだが、旧新宿ピットインに、高橋悠治と富樫雅彦のデュオライブを聴きに行ったことがあるのだが、なにぶん寝不足がたたって気持ちよく眠り込んでしまった苦い思い出が・・。まあ私はその程度の聴き手である。

女流棋士独立問題雑感13‐別にはっきり線が引かれたわけじゃない

独立派の新法人準備も、着々と進んでいるようです。昔フランク・キャプラの「我が家の楽園」というとてもいい映画があったけれども、独立派の皆さんも「小さいながらも楽しい我が家」って感じで最初はあまり気張らずにやっていただきたいものです。
前にも書きましたが、むしろボールは我々に投げ返されていて、将棋界や社会が、今回の彼女たちの行動をどれだけちゃんと受け止めてあげられるのかが問われているのですから。彼女たちは我々の度量を測る試金石ともいえるのですが、それに呼応する動きが少しずつですが起きているようなのはうれしいことです。

さて、現在の小康状態になる前の、本当にゴタゴタしている頃にこんな記事が投稿されていました。

「船戸陽子blog」の「3/30」

彼女が「バブル」といっているのは、「残留表明した女流棋士には、仕事の依頼が殺到して、残留バブルがおこっており・・」という一部報道があったのを受けています。全体の書きっぷりといい、最後の締め方といい、本当にお見事。私は「独立派支持」ですが、こういうことをちゃんと述べてくれる人には、もうとやかく言う気はせず、それどころかいたく好感を持ってしまいました。こそこそ隠さずに、自分の立場をこういう形で述べているのも潔いし。
彼女はそういう立場なのですが、(彼女に「残留派」の呼称を使うのも失礼な気がするので使いません。もっとも、今後彼女がどういう道を選ぶのかは分からず、むしろ独立派にふさわしい人物のようでもあり、・・って、一人でも人数増えて欲しいからって、こんなネットで勧誘するなよ。)えっと、そういう立場の彼女が、このブログ上で、女流のとてもいい表情の写真を多数紹介してくれています。
それが、なぜか「独立派」のメンバーが多かったりするんだよねえ。偶然なのか意図的なのかは知りませんが、とにかく「ナントカ派なんていうのは私たちには関係ありませんよ」というメッセージは強烈に伝わってきます。写真の持つ力というのはやはり偉大で、文章で長々ブツブツ述べるよりも(まあ、私みたいにね)、報道されているように「女流が真っ二つに分裂した」のではないというのが如実に分かります。
そりゃそうです。経過をよく考えれば分かるように、今回の分裂劇は、彼女たち自身の意思によるとはほとんどいえない形で進んだのですから。当たり前のことですが、一番不幸なのは、我々ファンなどではなく、こういう形での分裂を強いられた彼女たちなわけです。
人間がある程度の人数集まれば、そりゃあ「みんな仲良く」というわけにはいかず、気が合うあわない、肌合いの違いというのは当然生まれるでしょう。しかし、今回の分裂については、そういう形での線の引かれ方は全くされていないのでしょう。むしろ仲のとてもよい者同士が別の派になったり、ぜんぜん感じ方の違う者同士が同じ派内にいたりして、アメーバ状にゴチャゴチャ入り混じっているのが実情ではないかと推測します。
だから、今後だってこのまま分裂したままの形が永続的に続くとはとても考えづらい。今、なんとか型にはめる力が働いているうちは、仕切りで区切られていても、その仕切りがひとたび壊されたら、一気に合流する力が働くはずです。
彼女のブログにのっている、とてもいい笑顔の女流棋士の皆さんの写真を眺めながら、そんなことを感じました。すぐに合流というのはもう無理なのでしょうが、将来的には(それも恐らくかなり早い時期に)、私はものすごく楽観しています。


このブログのタイトル、あんまり深く考えずに決めたんだけど、今頃になって結構ダサいんじゃないかって気づきました。例えば「遠山雄亮のファニースペース」とか、めっちゃかっこいいよね。とはいっても、さすがに安易に変えるわけにもいかず・・。

「MONOGUSA collection」更新を続行中です。今、私はこれをやっているときが一番楽しかったりします。

羽生三冠の「将棋を科学する2」

「BIGLOBEストリーム 将棋ニュースプラス」で、最近続いている羽生三冠のインタビュー、どれもこれも見逃せません。なぜ、あんなに羽生さんの話って面白いのだろう。なんというか、どんな質問に対しても、羽生さんの頭脳の中で、一瞬のうちにものすごい情報量が頭の中にイメージとして浮かんだ中から、最適なものを明晰に答える能力とでもいうのかしら。羽生さんの猛烈な頭脳の運動の余韻に感化されるのか、自分のにぶーい脳も、少しは動き出すようで、様々なアイディアや想像が浮かんできて本当に触発されます。
また、あの独特な比喩を駆使する能力。今回では、将棋指しの思考の個性について「職人が、同じ材料から違うできのものを作り出すのと似ている」といった秀逸で分かりやすいのが、なにげなくサッと出てくる。この「比喩思考能力」というのは、羽生さんの将棋指しとしての特別な個性と何か関係しているのに違いないのだが、残念ながらそれを説明する能力が私にはないんだよなあ・・
今回は(4/13)、前回に引き続き、松原仁教授との対談で『将棋を科学する』の二回目。
羽生三冠が、プロでも「十手先の局面は見えない」ということで意見が一致していると指摘。この話は、羽生、森内、佐藤などが共著した本でも聞いた気がするが、ちょっと驚く話です。プロは直線的に読もうと思えば、それこそ一瞬のうちに「詰みまで読める」のだろうが、各着手の分岐の広さが重なると、十手先でも見えないという事である。これって、とった駒を持ち駒に出来る将棋の特徴なのかな?とにかく、それがもし事実だとすると、コンピューターだって、そう先の手まで読ましてもあまり意味がないということになる。すると、長くても十手先の局面で、「形勢判断」をする必要があるわけで、やはり現在のコンピューターソフトでは、「形勢判断能力」が結構大切なのかもしれません。
それと興味深かったのが、松原仁教授が指摘した「コーチング」の話。例えば、野球で言うと、「バッティング理論」というのがある(古い例しか思いつかないが、中西太理論とか山内一弘理論とか。)その理論に沿って学べば、確実に打撃が上達するという打撃論。チェスの世界にはそういう「コーチング」が確立しているが、将棋には、まだそういうものがないそうです。
今後は将棋にも、そういう「コーチング理論」が次第に出来上がってくるだろうというのが、羽生三冠の考えです。定跡研究に関しては、例えば藤井猛九段の評判高いシリーズなど、かなり質の高いものが出ているようですが、それとは別の「コーチング」の本は確かにまだないのかもしれません。あまりに高度な定跡書を読むのは正直しんどいが、どういう考え方で将棋を指すかの理論書というのは、是非読んでみたいという意欲がわきます。っていうか、羽生三冠こそそういう本を書く最適任者だと思うのですが・・。
それと、日本では「理論化」が進みにくいという話について、これは丸山真男の指摘が、いまだに現在の将棋界でも生きているのかもしれません。名著「日本の思想」の中で提出した、「実感信仰」と「理論信仰」という対立概念。羽生三冠の表現によれば「理論なんかへたにあてずせず、力でこいという風潮」ということになる。無論現実社会においては「理論信仰」が単純によいということにはならないが、将棋を指すプロが何時までも「実感信仰」に頼っていてはいけないのだけは間違いありません。
そういえば、同じ「日本の思想」の中の「タコツボ型社会」という概念は、今の将棋界を表現するのにピッタリかもしれません。もう一度「日本の思想」を読み直してみるか。

なんとなく今日は気分がすぐれないのですが、またしょーもない冴えないブラックジョークを思いついたので、気分転換ということでブログのサブタイトルをいじってみました。Notoriousは、むろん悪い方の意味なのでヨロシク。

私は、前日書いたものをいじる悪い癖があって、昨日の名人戦問題についても一部加筆訂正しました。まあ、本当にどうでもいいことについてなんですが・・。こういうのって、ブログを書くうえでのマナーに反するのかしら。

tumblrの「MONOGUSA collection」も更新を続行しています。ハッキリいって、「メモ」というより私の「よいおもちゃ」「お笑いのネタ帳」になりそうな予感がします。

周回遅れもいいところの名人戦主催問題雑感

「勝手に将棋トピックス」の「仲間だけなら全てうまくいくのか」は、将棋界の悪い意味での「仲間意識」「ムラ意識」、広報意識の欠如などについて、例によって鋭くて明晰な議論を展開しています。但し、私が今日書くのはそのこととはまったく関係のないことです。
私は、名人戦主催問題が起こっている頃は、個人的な事情でそれどころではなかったので、具体的な経過その他は全然分かっていません。「勝手に将棋トピックス」など勿論読んでいません。それでも、新聞やテレビで報じられるので、ある程度の事情は耳に入ってきていました。そして、棋士総会の投票の日に放映されたTBSの特番だけは見ています。
先ほど紹介した記事の中で、田中虎彦理事が二宮清純氏のインタビューに答えた記事がリンクされているのですが、田中理事の発言というのは、実は私が事情が分からずになんとなく想像したり感じていたこととほとんど同じだったので驚いてしまったのです。(もずさんは、田中氏の部内者意識、広報意識の欠如という文脈でリンクされていて、それはその通りだと思いますが、今回はその点は度外視して書きます。)
岡目八目といいますが、あの名人戦主催問題では、細かい具体的なことばかり問題になって(連盟の手続きや手法の問題法などがクローズアップされ)、本質的な問題が見えにくくなっていたのではないかという気がします。結論だけ最初に書くと、あの問題に限定すれば、連盟の基本方針は全く間違ってなかったし、むしろ当然過ぎるものだったと思うのです。もっとも、当時の「勝手に将棋トピックス」をじっくり読めば意見が変わるかもしれませんが。(さぞ、たっぷり時間をかけて楽しめるでしょうねえ(笑)。)とにかく、あまり具体的な経過や交わされた議論をほとんど知ってない部外者が、どう感じていたのかという証言(誰も知りたいとは思わないかもしれませんが)という視点で雑感を書き散らしておきます。

最初に言っておきますが、私は別に毎日側でも朝日側でもない完全中立な立場の人間です。えっと、断り書きが長くなりすぎました・・。

まず、露骨にいうと名人戦をどの新聞社が、どういう金額で契約するかというのは、完全にビジネスの問題です。それを、かつて主催経験のある朝日が手をあげて、毎日と競うという分かりやすい事実があるだけです。それを、将棋連盟側が、契約金や発行部数や棋戦の主催バランスを考慮して決めるだけのこと。その点については、田中氏が記事の中で具体的に述べているのでいちいち説明しませんが、自然と「朝日」の選択になるのは当たり前のこと。連盟の手続きや、それこそ「広報意識のなさ」「部内者の勝手な論理」(西條記者が紹介しているエピソードは笑い話にもなりませんね。)の問題はあっても、その本質はあまりにも明確です。「諮問委員会」のいっていることも、「子供でも分かること」で当然過ぎる内容です。

そこがあれだけもつれたというのが、当時私には不思議で仕方ありませんでした。さっき述べたTBSの番組を見て、「ははあ、もしかすると毎日の政治力っていうのは、結構すごいのかなあ。」と感じたのです。田中氏の発を読んで、完全にそれが裏付けられました。「お金だけで決めていいのか」「信義を重んじなくていいのか」というのは、一応正論ではありますが、あの場合は明らかに問題の本質とずれたり、問題をすり変えられてしまっています。その点についても田中氏の主張はもっともだといわざるをえません。

とにかく、完全にビジネスの問題だというのが本質であり、当然そこには両新聞社の派閥間のあまりキレイとはいえないせめぎあいが付加されるだけのことです。ところが、TBSの番組を見たら、棋士総会の採決の結果を受けて毎日側が「羽生、森内両氏が支持してくれたことに感謝する。」という意味のコメントを発表しているのを聞いて、ちょっと驚いてしまいました。(田中氏の証言によると渡辺竜王も。)私は、彼らはとても良心的で素晴らしい人たちだと心底思っているし、彼らの真意は多分「毎日への信義を重んじる」という程度のことなのかもしれませんが、「もしかしたら、あの人たち、政治的には結構ナイーブなのかなあ」と感じたものです。つまり、現役のトッブ棋士としては、ああいう「派閥争い、よくてビジネス問題」については、採決で投票行動するだけで必要十分なのに、派閥争いに巻き込まれて、結果的に政治的に利用されてしまっているという・・。
チェスのフィッシャーが日本に拘留された際に、羽生氏が嘆願のメールを外務省かどこかに出したと聞いた時も、少し似た感想を持ちました。フィッシャーは、思想的に相当偏った(どころではない)男です。羽生氏の真意は「人道的見地」の一点であることに疑いないのですが、結果的には「日本には、『あの』フィッシャーを応援する、ジャパニーズ・チェス・プレイヤーがいるらしい」ということになる恐れもあるわけです。羽生氏くらいの立場になったら、当然そういった類のことも意識して行動すべきですし、それは他の若手の棋士についても同じです。私は、彼らの善意を信じてやまないので、そういう点はもう少しいい意味で「大人」になって欲しいと、えらそうに思ったりするわけです。無論、今回の女流独立問題については、全く問題は別で、大人になって欲しいどころか・・えっと、もうこの話はさすがに書き飽きてきたのでやめておきましょう。

それにしても、朝日の弱気な態度にも本当に驚きます。TBSの特番で、朝日の担当者が発言しているのが放映されていましたが、「自分たちは将棋界をかき乱す意図は全然ない、「共催」も真摯に検討する。」とか、まるで自分たちが悪者であるのを認めるかのようなことを言っているのに、心底驚きました。きっと、将棋界の「雰囲気」がそういうものにすっかりなりきっていたのでしょう。しかし、あの場合は「僅差であれ、我々を支持してくださったことを感謝する。これからは名人戦を、日本最高の棋戦として盛り上げるよう最大限に努力する。(単独でしっかり担当させていただく)」で十分だったはずです。
田中氏の発言を読むと、「共催」についても、朝日側よりも、むしろ毎日側がどう出るかを気にしています。随分朝日もなめられたものだといわざるをえません。

何か当たり前のことをえらく力んで書いてしまった気がします・・。

さて、時間を見つけて当時の「勝手に将棋トピックス」をじっくり読んで、自分の「岡目八目」がどれだけアテにならないかを深く反省してみることにしましょうか。

CDジャケットの著作権とtumblr.の本来よく使われる機能

 昨日、自分のtumblr.サイトに、CDジャケットをスキャンして載せたのですが、すでに削除してそれに対応するこのブログの記事もあわせて一部削除済です。
CDジャケットについて、よくHP上にのってるのを見かけるし、後述する理由で多分大丈夫だろうと思ったのですが、念のため調べてみたら全然駄目でした。
まず、CDのジャケットは、立派な「著作物」である。ここまでは分かる。だから本来無断でネットには載せてはいけない。
ただ、「著作権法第三十二条」というのがあって、引用について「本文の記述が主、引用が従なら可能」というのがあります。つまり、CDの内容についてある程度の量と内容の文章を記述した上で、ジャケット写真を載せるのは許されるのではないかと思ったのですが、勝手な解釈だったようです。興味がある方は、次のリンクをお読みください。

ホームページを作ろうというあなたに

弁護士の先生が駄目とハッキリ言っているので、どうしようもありません。他もいくつか見てみたのですが、掲載を可能と述べているところはありませんでした。考えてみれば、文章と映像では、全然別種なので、「主従関係」を判断するのが不可能かもしれません。残念だけれど仕方ない。
勿論、現在多くの個人ページで、CDジャケット掲載は行われていますが、それは「黙認」ということであり、権利を持つ会社が訴えることなどほとんど考えられないためです。まあ、だからやっても大丈夫なんでしょうが、こうやって調べちゃったもので・・。自分の妙に生真面目な性格が恨めしいです。

ということで、このままやめてはもったいないので、tumblrの、現在よく使われるという機能を試してみました。要は、ネットサーフィンして気に入ったり気になったところのメモとして手軽に利用することです。確かに便利だね、これ。この種の機能がついているブログもあるそうなのですが、リンク先まですぐ見られるのはtumbirだけ。試しにやってみたのをご覧ください。

MONOGUSA collection

この、tumblrは、いわば「ブログのシンプルバージョン」「ミニブログ」といったものですが、映像、リンクなどを実に簡単に投稿できて便利です。勿論普通の文章の投稿も可能。その代わり、足りない機能もあるので、現在これだけでは不満です。
今後、現在のブログの余計な部分を整理整頓して、tumblrのようなシンプルで使い勝手のよい機能がついたものが主流になっていくのではないかという気もします。某グルメレポーター風に言えば、
「ブログ界の革命児やー」
といったところでしょうか。

tumblr.Start!

tumblr.はじめました。カキフライはじめました、じゃありません、「ってハイ、つまらないですね。」(なぜか藤井猛先生の口調で。)
 こう見えても、結構流行りものに弱かったりするもんで。
 最近、何を聴いてるかを最後に書いたりしてましたが、tumblr.はピッタリで、なおかつかっこいい。
photo、link、videoなどなんでも手軽にpostできちゃいます。
興味ある方は下記へ。メールアドレス登録のみ必要で、勿論無料です。

tumblr.

例の、戸部vs佐藤の、口八丁手八丁、解説つき、即興漫才つき対局を眺めながら。二人ともサービス精神旺盛でとってもよい。

女流棋士独立問題雑感12-独立派の会見他

 独立派の新法人設立の会見がありました。詳しい記事へのリンクは「勝手に将棋トピックス」クンにその任務を任せるとして、(ってコラコラ、この恩知らずが)、とりあえず一番大事なのをヒトツだけ。

「女流棋士新法人設立準備委員会ブログ」の「女流棋士新法人概容」

 読んでいてとても気持ちがいいですね。まさしく「理想に燃えている」という感じでとてもさわやかで清々しく感じます。無論これから現実の厳しい壁にぶつかっていくわけですが、最初に正しい方向性を設定することは何より大切なわけですから。ネットでのレッスンその他、アイディアも豊富です。
また、既に支援を差し伸べるスポンサーもいるようで、「この世の中、捨てたもんじゃないぜ」って、涙が・・(ウソ。)でも考えてみりゃそうです、今この法人をスポンサーすれば、その団体もかなりイメージアップにつながること間違い無しですし。なお、新法人の名称を公募するそうなので、センスに自信のある方は是非。

北海道日刊スポーツの本郷昌幸記者が、「頑張って欲しい中井広恵さん」とブログ記事を書かれています。今後、マスコミ関係にもこういう動きが広まるといいですね。「全く、この世の中、捨てたもんじゃないぜ」って、またしても涙が・・。(しつこい。)

「daichanの小部屋」の「講座」に女流独立問題について書かれています。多分今の「雰囲気」を考えれば、これだけ書くのでも大変なことなのだと思います。その勇気に敬意を払います。今回ばかりは「嫁に内緒で?」なくてもいいはずです。夫婦の絆の深さを思うと「この世の中、捨てたもんじゃないぜ」って、涙が・・。(失礼だよ。)

「ごきげんDEブログ」の記事が削除された件について、いくつかのレベルでの感想を。
1建前レベル それでいい。自分を相手と同じレベルに落とす必要はないんだから。
2本音レベル よくあんな記事載せたなあ。本当に大変だったろうと思うけど、世論喚起には間違いなく成功したし。自分を捨石にするような行動は、なかなか.出来るもんじゃないと思う。
3心配レベル 削除の理由が建設的なものだといいなあ。例の「松本博文ブログ」で紹介された文書の「付録」なんか、まさか関係ないんだろうね。

「船戸陽子blog」には、女流棋士のとてもよい表情の写真が多数掲載されています。私など、どうしても「独立派対残留派」ということを書きがちですが、ああいう写真を見ていると女流棋士の皆さんに笑われてしまうという気がしてきました。まったく「この世の中、捨てたもんじゃないぜ」って、涙が・・。(もういいよ。)

名人戦第一局 「せんす事件」をめぐって

 森内vs郷田戦の「せんす事件」みたいなことが起こったら、ファンとしちゃあ、単純によろこんで大騒ぎしちゃうのが、ファン道の仁義ってもんじゃありやせんかい。ヘンにしかめっ面して「心配」するのは当事者の人たちに任せておけばいい。なので、ハシャいで記事を書いちゃうことにする。 
 そもそも、昔の棋士の盤上、盤外での衝突ぶりは今などとは全然比較にならないほど凄かったらしい。坂口安吾の文章による、木村vs升田のぶつかり合いはすさまじくて、酒席で、遠く離れた場所に座って、人々の頭越しに大声で怒鳴ってやりあったりしていたとのこと。それをまた安吾があおりにあおって、・・。古きよき時代の出来事である。
 打倒大山に敵対的なまでの執念を燃やす山田道美が、読みに没頭して盤上に覆いかぶさったのに対し、大山がいつにない険しい口調で「暗くしなさんな」と一括したのは有名すぎる話。当時しょっちゅう対局で顔を合わせていた加藤一二三に対して、米長が「顔はよく会うが気はあわない」といって、さすがの加藤もムッとした・・。当時若き帝王だった谷川に「谷川は強くない」とかみついた田中虎彦。そういえば、最近では銀河戦で、加藤一二三の、時間ギリギリのきわどい「芸術的」な手の動きに、「正義漢」阿部が堂々と文句をつけたのは、映像できっちり一部始終を見届けられた貴重な例だった。(もっとも連盟のXXな裁定のせいで、すっかり後味が悪くなってしまったけれど。)
こういうのは全部文句なしに「オモロイ」けれど、今回みたいに、タイトル戦で、対局を中断して三十分近く激しく言い合ったというのは、本当に前例のないことだろう。しかも、「いかにもあの人ならやりそう」というのでなく、森内、郷田だというのがすごい。

 森内名人というのは、いかにも誠実で常に「何かに耐えている」という風情のある人である。将棋の強さ、チェスの例を参考に戦術を体系的にきわめようとする姿勢、最近羽生とともにある会合に顔を出した政治意識の高さ、温厚篤実な人柄、何をとっても将棋界の至宝である。
 しかし、この人、結構デリケートなところもあるとともに、普段いろいろなことを耐えている反動なのかなんなのか分からないが、時々突拍子もない行動に出る。以前の名人戦で、六時ギリギリに着手して封じ手を回避して、対局相手の羽生が唖然としていたたこともあったっけ。今回の「せんすの音」もきっと、我慢に我慢を重ねて耐え抜いていたが、どうしようもなくなって立会人に言ったが、タイミング悪く郷田に伝わらなかったために、ついに堪忍袋の緒が切れたっていうことじゃないかしら。それにしても「鼻時が出るほど興奮した」っていうのは斬新な表現だなあ。
 一方の郷田。茫洋とした感じを受けて、あまり熱くなったり怒ったりという印象は受けない。しかし、先崎学著「フフフの歩」の「懺悔」の中に、今回のことを髣髴とさせるエピソードがのっている。ある時、滝先生とともに若手多数で酒を飲みに行き、かなり皆出来上がって話題がボーリングになり、滝氏が、ボーリングではまだまだ君たち若い者には負けないといったら、郷田がかみついたそうだ。最初は穏やかな物言いだったのが、郷田が全然ゆずらないために、どんどん激論に発展していき、最後には「だいたい年が二十も上の人間に運動で負けるわけがない。滝先生のことは好きで尊敬してますけど、今だけは言います、こんなオッサンには負けません。」とまで言い放ったという。この勝負師根性、見上げたものである。
 だから、恐らく三十分も言いあう事態になったのかも。本来郷田に非があるのだが、郷田には郷田の譲れない論理があり、一歩もひかないのに対し、なぜ被害者の自分がそんなことを言われないといけないのかと森内がどんどん激する局面図を想定してみるのだが、どうかしら。
 しかし、昔の本当に敵対していた棋士と違って、二人は全然仲が悪いわけじゃないらしい。衛星放送の深夜のダイジェストの冒頭の絵では、むしろなごやかな雰囲気で感想に没頭して、郷田が「そうかー。そっかー」と何の邪気のかけらもなく言っている声が画面からもれ聞こえてきた。
 今回の口論は、名人戦にかける二人の尋常ならぬ情熱、熱意の表現。熱き血潮のたぎる青春の一ページである。といっても、二人とも、もうオッサン世代だけれど。(失礼)もともと仲の悪くない二人に、無理に対立しろといっても詮無きこと。第二局以降は、この情熱のエネルギーを盤上のみにぶつけてくれるに違いない。

 ただ、NHKの二日目の放送をビデオにとって見たのだが、(初日はとり忘れたんだよね・・。)気を使ってほとんどふれてなかったのには本当に不満。このやり取りの場面、勿論カメラが捕らえているはずである。もし本人たちが「恥ずかしいよ」というなら無論仕方ないけれども、了承を得ることが出来たら、放送可能な部分だけでも流してもいいというのが私の大局観なのだが、誰も同意してくれないだろうなあ。将棋は、頭脳を酷使する芸術であるとともに、プロレス同様の「みせて楽しませてナンボ」の格闘技でもあるのだから。
(文中敬称略)

女流棋士独立問題雑感11ー和解へ?


週刊将棋の記事を読みました。とりあえず、最悪な連盟との決裂という結果にはなりそうにもないので一安心です。以下断片的な雑感です。

 「私情は入らない」とか「礼を重んじ、先人を尊び」といった表現を見ると、やはり一部残留派と独立派の間には、結構根深い感情のしこりや不信感が多分あるのだろうなと感じてしまいます。無論勝手にそう感じるだけですが。なかなか、今すぐ「仲直り」というわけにはもう行かないのでしょう。
 「連盟にどうしても残りたいと希望する者が徐々に増え、理事の先生方を独立希望者との板ばさみにしてしまい」とありますが、週刊新潮その他の報道で伝えられている事態と、いったいどちらが正しいのかと素朴な疑問を抱いてしまいます。無論部外者には判断不能なのですが「『増えたのか』『増やされたのか』それが問題だ」と、ハムレットの口調を真似てみるしかありません。

 「松本博文ブログ」に掲載されてすぐ削除された文書について、ほとんど「ナントカ組」のようなスタイルと、余計な「付録」には神経を逆なでされるし、あれを見ると「残留打診書状1.2」がどういうスタイルのものだったか邪推せずに入られませんが、今回は(恐らくタイミングを考えて)「散々しかりつけた準備委員」の形勢判断が的確のような気がします。

 連盟側にすれば「独立派の独立行動を認めて、(恐らく)対局権利も認める」というのが、もう精一杯の譲歩だという感覚なのかもしれません。しかし、「ファンの声」というのなら、「全女流棋士に自由にどちらの派にいくかを気持ちよく意思決定させる」というもう一点を、加えて欲しいものだと思います。
 もっとも、その点についての問題でこれだけこじれてしまったわけだから、もう無理なのでしょう。万が一、それだけ実行してくれたら、週刊誌やネットその他の雑音がピタリととまることを100%保証するのですが。私も、もう女流の記事を書く理由が全くなくなって助かりますし。

 以下は、一般的な「男」と「女」の話です。女性の側に、根本的な誤解があると思うのですが、本当に「大人」の男なんてこの世にはひとりも存在しないんです。見かけは、貫禄があったり、たくましそうだったりしても、一皮向けば、純真で感じやすくて傷つきやすいナイーブな子供のような生き物です。いくら歳を重ねても、その本質には、なんら変化はありません。本当に「大人」な生き物は女だけです。もし、女がそこのところを勘違いして、男を自分たちと同じ「大人」として扱うと、傷つきやすいために、過剰反応してトラブルのもとです。「力」だけは男のほうが強いので、問題はどんどん厄介になります。だから、女は男を、子供としていつくしむように扱うしかないのです。全く、バカバカしくてやってられないと、女にすれば思うでしょうが。特に日本人の場合、その傾向が大きいのですが、「大人」の女性には、その点よくよく考慮していただきたいものです。

  「マリア・カラス」の名唱集、十枚組二千円というのを衝動買いしてしまったので、とりあえずバックに流して聴いています。ただ、彼女の歌は、さすがにバックグラウンドミュージックとしては全く不向きなので、一度集中して聴くしかないと覚悟を決めています。

匿名ブログについてのひとり言

 「ゴキゲンDEブログ」を見ると、独立問題に新たな動きがあったようです。ただ、今手元に週刊将棋がないんだよなあ。駅まで買いにいくのメンどくさいし、お酒飲みだしちゃったしなあ、明日の朝買うことにしよっと。そういえば、将棋から離れている間に週刊将棋も買うのやめてしまっていた。また、購入を再開しよう。
 でも、何が起きたのか気になるなあ。「勝手に将棋トピックス」さん、今日あたり更新してくれると助かるんだけど、
 などと言っていたら、mozuさんが、
「マッタクどいつもこいつも俺のことばかりあてにしやがって、何なんだ『お酒飲みだしたから』って、自分で調べろ、自分で!」
とあの温厚きわまりない方がついにキレたりして、
というのはタチの悪い冗談で・・。すみません。

 最近あるところを見てたら、女流独立問題について「ネット上で色々不満がくすぶっているけど、そういう意見を直接連盟とかにぶつけたらどうか」とか「そういうのって無意味」とかいう話を耳にした。(これは私の乱暴で歪曲した要約で、実際はもっときちんとした議論。)とにかくそれ聞いて、現在女流独立問題について、ほとんどいいたい放題状態で、匿名をいいことに書き散らしている自分としては、すっごく痛いところをつかれた気がして逆上しそうになった。これをきっかけにして「匿名ネット(掲示板。ブログ、HP、日記などすべて含む)」について少し考えてみることにする。

 女流独立問題のような広い意味で「社会問題」について匿名ネットで語るということは、当然実名で語るのとはまったく別の行為である。
 そうした匿名行為に対して、厳しい意見がすぐ飛んでくるだろう「自分で何の責任を負う覚悟もないくせに、えらそうに評論家気取りで放言するとは何事か。そういうのは卑怯で非常識な人間のやることだ。自分で何かするつもりがないなら黙ってろ。」
 皮肉でもなんでもなくこういう主張は正論なので、反論のしようがない。
 ただ、だからといって、匿名で書いていたことを反省して、実際に連盟に直訴したり、示威行為をしたり、場合によっては国会議員に立候補して・・、ということには勿論なりはしない。匿名で書いている人間にだって、自分の生活があるし、守ったり迷惑をかけたくない家族がいたりするので。
「だから、それなら黙っていればいいんだよ」
 そう、その通り。匿名で書く人間には常に頭の片隅に入れていなければいけないことがある。自分が責任を負わない立場で、気楽にものを言っていることを。
しかし、実名で責任を負ってはいえないことを、ある程度自由に言えるというのが、匿名ネットの基本価値、存在意義である。もし誰もが責任に縛られて、もの言えない社会になったら、どれだけ息苦しいことか。忌憚のない意見を、匿名である程度の自由で述べることが出来るというのは、一応「自由」な社会の最低基本条件といえる。
 結局「責任」と「自由」のサジ加減、バランスの問題になる。「匿名」といっても、人権を侵害するのは論外だし、だからといって遠慮しすぎて結局何も言わないのでは無意味。両者のバランス感覚がすべて。
 自分自身、女流独立問題を書いていて、そのことですごく悩む。こういう内容まで部外者が述べていいのか、でもある程度言わないと書いても意味がないんじゃないかとか。また、結果的にどうしても「エラそう」な言い方になってしまう。部外者がこの種の問題にコメントすると、どこまで書いていいのか、書いちゃいけないのかのバランス問題を避けられない。結局、そのことはあまり気にしないで思うところをある程度注意しながら言うしかないというのが単純すぎる自分なりの結論である。
 ただ、「えらそう」な内容を、全く読者に気づかせずに気持ちよく読ませるテクニックも本当はあるはずで、一ブロガーとしてはそういう技術を磨けることが出来たらとは思う。
 それと、結局責任を負っていないという事実には変わりがない。それはどうしようもないのだが、その変わりにこういう匿名ブログは何の実際の影響力も、直接現実にもたらせないという限界を最初からおっている。匿名ネットの主張を、現実の組織なりなんなりに届けるというのは基本的に無意味だと思う。ネットの社会と現実社会は、所詮別の世界なのである。現実になんら実効性をもち得ないかわりに自由な発言が保障されるというのが大原則である。無論両者に全く接点がないという意味ではない。
 自分としては、女流問題についてすごい乱暴な書き方はしているけれども、信じてもらえないかもしれないが、かなり書き方には気をつけているつもりである。ただ、さっき述べた「バランス感覚」は人によって全然異なる。私が書いている内容や書き方を「無難なことばかりに終始していて全然物足りない」と感じる人もいれば「あまりに、無責任、非常識で耐えられない」と感じる人もいるだろう。それはどうしようもないことなので、読む側に託すしかないのだ。

 匿名ブログ(に一応限定して考える)を書く意義って、いったいなんなのか。
1 とにかく思うところを文章にまとめる行為自体が有する意義、悪く言えば自己満足、良く言えば無償の楽しみ、自己充足
2それを他者に読んでもらえるという意義、何らかの楽しみや、読んでよかったという気持ちを与えることが出来るかもしれないという希望(最近の自分の記事は、これが欠如しすぎだ)
一応ここまでが基本だろう。これ以上を匿名ブログに期待するのは間違っている。ただ、女流独立のような社会問題について書くときは、一応次のようなレベルも考えられる。
3関係者の目に留まって、何らかの印象を与えて、考え方や行動に直接的ではないにしろなんらかの影響を与える
4当事者が匿名記事を読んで、自らの行動を反省し、問題解決に貢献して社会の役に立つ、って言うのは勿論冗談であって、こういうのはほとんど誇大妄想の入院寸前の世界であって、匿名ブログに本来期待することではない。
 せいぜいいいところ、3について、ほんのちらりと一瞬だけ考えるが、まったく期待しないというのが、現実的かつ健全な態度だと思う。

 今、この駄文を書きながら、きわめて重大かつ当たり前のことに思い至った。一般の将棋ブログというのは、基本的には「匿名ブログ」である。しかし、最近急増した棋士のブログはれっきとした「実名ブログ」である。当たり前に両者が共存しているが、両者は全く責任のレベルの異なるクラスに位置する。だから、「匿名ブログ」が「実名ブログ」と関係するには、細心の注意が必要である。自分の行動に照らして思い当たることもあるので書きにくいが、例えば次のような注意点が考えられるだろう
1 棋士ブログにコメントしたり、トラバする際は、匿名ブログ側も、責任レベルを「実名レベル」まで上げて行う(コメントの氏名は匿名だとしても内容は)
2 棋士ブログの記事を「匿名ブログ」がリンクしたり扱ったりする場合、普段と違って「実名のレベル」の発言を踏まえて丁重に扱う。
まず、1については、私自身このブログを再開する前は、初めてのブログだったこともあって、トラバしたりするのが楽しくて仕方なくて棋士ブログにもトラバしていた「前科」がある。内容自体は全く無難で問題のないものだったが、今いったことにはかなり無自覚だった。再開後は、なんとなく棋士ブログへのトラバもコメントも避けていたのだが。いや、ウソ、最近一度だけ某棋士のブログのコメント欄が少し荒れていたのを見て、場を和ませようとしてコメントした。ところが、後で見たら私自身の投稿が「失礼コメント」になってしまっていた、ああいうコメントひとつつけるのでも結構むつかしい。
 2については、最近も、私は棋士のブログからのリンクや引用を安易にしすぎていると今気づいた。リンクの仕方については、模範的とはいえないにしても、一応問題はない気がするが、最近の棋士のブログの紹介で、失礼な「匿名的」書き方をしていることに思い至ったので、直しておくことにする。
 もっとも「匿名ブログ」同士については、自由にやり取りしてもいいのではないかと思う。本来の匿名ブログの性質上。ただ、現実の将棋ブログについていうと、とうていそういう雰囲気じゃないのが少し残念ではある。まあ、将棋ファンの気質や、ファン数の絶対数の少なさが関係しているのかもしれない。
 
 ケイコ・リーの「ライブ1999」を聞きながら。品のない言い方で恐縮だが、彼女の声は「オヤジ殺し」で、私などもうメロメロだ。
「どうにも、こまったあー。こまった。」(男はつらいよの御前様の口調で)

女流棋士独立問題雑感10ー 将棋関係マスコミにのぞむこと

 都知事選は現職候補の圧勝でした。一応「想定内」(という表現も、もはや古くなりつつある)の結果ではあります。
 まあ、「都民の選択」ってやつですから、とやかく言うべきことはありません。でも、投票した人って、現職候補の政治思想や政策や現在マスコミで報じられている問題について、全部了解した上でしてるんですかね。特に「政治思想」について、私ぐらい以上のオジンならよく知っているけれども、・・。
 対抗候補については、早々に民主党の支持を受け入れたのが「大悪手」で「ほぼ敗着に近かった」んだと思います。後は「ただ指し続けただけ」という感じで。
都知事選が不可解なのは今に始まったことじゃありません。某タレント候補が「一切選挙運動にお金を使わず、ただ自宅で本を読んだりしている」だけで受かったこともありました。私も一応都民の一人で回りに住んでいる人たちもごくごく普通の人たちなんですけど、「都民」という抽象集合体が何を考えているのかまったく理解できず、不気味に感じます。
 さらに不可解だったのが「郵政選挙」。「郵政民営化」の問題というのは「善か悪か」の二元対立的問題でなく、プラスもあればマイナスもあって、その両者を冷静に比較検討すべきという問題です、さらに、実際に実行してみないと不透明な部分も当然ある。私は別に反対派ではありません。とにかく、それを選挙の一点集中争点に掲げて「改革か守旧か」という大義問題にすりかえたり、「刺客」をくり出す愚劣な選挙戦術には、本当にあきれ返っていました。「さすがに今回は自民党が惨敗して、小泉さんはやめるんだろうなあ」と思っていたのですが、あの通りの結果・・。呆然とするしかありませんでした。
 「都民」だけでなく、「国民」という名の抽象集合体のことも、もう私にはサッパリ分かりません。西部邁なら、はっきり「衆愚政治」というのかもしれませんが、私はその言葉が嫌いなので使いたくありません。
 まあ、「床屋政談」(これも、もう死語か)はこれくらいにしておきます。さっき、支持していた候補が負けた腹イセで「現職候補のことを皆ちゃんと『知って』いるのだろうか」と書きましたが、「知っていることの大切さ」は、女流棋士独立問題についてもいえることです。(うーん、我ながらなんて強引な話の展開の仕方。)

  現在の女流棋士独立問題について、何が起こっているのかをある程度正確に「知って」いる人ってどれくらいいるんでしょう。少なくとも、「勝手に将棋トピックス」の関連記事を全部読む労苦さえいとわなければ、ある程度のことは「理解する」ことができます。(外部に出てくる情報が限られていて、一般の人間には細かい正確なことは把握しきれないという問題は一応脇においておきます。)しかし、、将棋関係のマスコミの記事は、表面的な事実を一応伝えてはいますが、具体的な内実への踏み込みが、どれも不十分すぎるという印象があります。一般週刊誌がある程度書いているようですが、一面的だったり興味本位だったりして、 全体像を把握できるには程遠いでしょう。
 ということは、多数将棋ファンがいても、ある程度正確に状況を把握できているのは 崗ー蠅望棋トピックス」の存在を知っていて⊇流問題になぜかすごく興味がある変わり者で記事を熱心に読んでいる、ごく一部の人間に過ぎないということになってしまいます。(2ちゃんのことはあるが、私はあそこが個人的に性に合わないので話題からは除外。)
 まず「現状を正しく把握してよく知る」事が何より大切なのに、そのことについてかなり悲観的に考えざるを得ない状況です。先日、「囲碁将棋ジャーナル」で、独立問題が扱われなかったことを書きました。ささいなことではあるのですが私はすごくイヤな感じがしました。つまり、今のままだと「女流が分裂した」という既定事実のみが残って、なぜそうなったかなどについての問題が、多くの人の目にほとんどふれなかったり、意図的に隠蔽されたまま風化していくのではないかという恐れを抱くのです。
 将棋関係のマスコミというのは、難しい立場にあります。「将棋連盟」と良好な関係を保っていないと、おマンマの食い上げになる恐れがあるという意味で。
 しかし、もし連盟の意向に沿うままに報道しているだけでは、当然「マスコミ」としての機能を果たしているとはいえません。マスコミ人としてのプライドにかけて、(別に独立派を支持する党派的な記事を書けという意味ではなく)、具体的にありのままの正確な内容の記事を書くよう切望せずにはいられません。

 昨日、天気がいいので、近所にある桜並木の街道をドライブしてきたのですが、満開で既に散りかけている桜に圧倒されました。桜という木は、単に美しいだけでなく、日本人の心をものぐるほしくする魔力、妖気をたたえています。

棋士のブログについてなど

 「勝手に将棋トピックス」の「女隆棋士独立問題 週刊新潮の記事 ほか」を読んで、またしても頭に血が上ってしまった。(特に週刊新潮の記事。)マッタク、こうなったら「週刊現代」さんに、相撲問題の次には連盟問題を大々的に取り上げていただいて・・。
 などど、気分が悪くなったり荒んだ時におすすめのサイトが、

森信雄の日々あれこれ

です。コンテンツ中の「日々あれこれ日記」は森先生が、日々訪ねられたところを魅力的な多数の写真とともに、淡々とつづっているだけの日記です。そして、日々のあれこれについて、かみしめればかみしめるほど味わい深い含蓄のある言葉の数々。いくら頭が良くても絶対若い人間にはああいう書き方は出来ないという・・。写真を見ながら読みすすんでいくと、いつの間にか心の静まっている自分がいるのを発見します。それから、「入門詰め将棋」を三問解いてから、すっかり気分爽快になって帰っていくのが、このごろの日課になってます。弟子に、村山、山崎、片上、糸谷といった魅力あふれる人間を輩出しいてるこの人、とても気になる存在です。
 そう、「daichanの小部屋」もいいですね。本当に素直な性格の先生なのだろう感じて、とても好感をもって読めます。「daichans`opinion」の「コンピューター将棋について」は、ボナンザについてのプロ棋士の貴重な本音の資料です。本題とは関係ありませんが、正直にも24のレートについて口を滑らせてくれていて、「彼みたいなバリバリの新鋭がそうなら、3000付近の人は・・」などと、勝手な想像がふくらんでしまいます。
 女流では、「船戸陽子biog」の、時折見せるちょっとひねったものの言いようが面白くて気にいってます。
 さてと、これからネット対局の渡辺vs鈴木という、屈指の好カードをゆっくり見ることにします。

  なぜか、デュプレ=バルビローリの「エルガー・チェロ協奏曲」を聴きながら。 

渡辺竜王vsボナンザ戦雑感3

今日の囲碁将棋ジャーナル、藤森奈津子女流三段がいつもの笑顔で出演されていました。独立問題を番組では全く取り上げず。NHKニュースでも扱ったのに、少し不自然な感じもします。番組の性格を考慮してなのかもしれませんが。とにかく、NHKの将棋番組制作者は、将棋連盟の意向とも独立派女流の意向とも関係なく、完全に自らの判断で問題への対処の仕方を考え、公正中立に報道して欲しいと思います。

 今週(4/6)の「BIGLOBEストリーム 将棋ニュースプラス」で、羽生三冠と人工知能を研究されている松原教授が、コンピューター将棋について対談されています。当然話題はボナンザにも及んでいるのですが、結構私にはショッキングなものでした
 私は文系人間なために無知で、コンピューターソフトについて、計算はコンピューターが担当するが、将棋の形勢判断などについては、ソフト開発者が考えているのだと思い込んでいました。例えば、「飛車は十点、金は七点、歩は一点」とか、まあこんな原始的なことは多分今時やっていないことは別にして。
 ところが、ボナンザというソフトは特殊で、そういう判断基準すらもコンピューターに作らせているとのこと。多数の千以上の棋譜をコンピューターに学習させ、判断基準を作らせているらしいのです。考えてみれば、現在のコンピューターにはそれくらいのことは、確かに朝飯前なのかもしれません。そのため、角よりも銀を重視するということが起こったり、人間ではとても考えられないような指し手を繰り出すコンピューターソフトの「力戦派の雄」だそうです。
 つまり、「計算はコンピューターが担当し、人間が判断基準等は全部管理する」ということなら、人間優位は保たれているのですが、「計算は勿論、どのように指すかの基準も、どういう考え方をするかも全てコンピューターがやる」ということになると、全く話は違ってきます。
 昨日「人間がコンピューターに負けても全然悔しくない」と書きました、しかし、あれはソフトを作る人間の優位を前提にしたものの言い方であって、完全に独力で全てをこなすコンピューターが人間より強くなるということなら、私でも相当悔しいと感じます。人間のプライドがぺしゃんこになってしまいます。今のところ「ボナンザは、角より銀が大事で、すぐ交換したがる」といって、笑っていられますが、よくよく研究したら、駒の価値についての人間の常識が完全に間違いだったという結論に達する事だって、全く考えられないことではないのです。
 それと、今思いついたのですが、例えばコンピューターに、羽生さんなら羽生さん、渡辺さんなら渡辺さんの棋譜だけをもっぱら学習させてソフトを作るという事だって不可能ではないはず。「羽生ダミーソフト」「渡辺ダミーソフト」が完成し、なおかつそれが本人たちを打ち負かすようになったら・・・。ほとんど悪夢の世界です。

 オットー・クレンペラー指揮の「リヒャルト・シュトラウス作品集」を聴きながら。R・シュトラウスはやりようによっては俗な音楽になりますが、クレンペラーの手にかかると、本当に「聖なる音楽」として響きわたります。

渡辺竜王vs-ボナンザ戦雑感2

 プロ将棋の技術を高める方法には、色々あるのでしょうが「外国人に将棋を指してもらう」という手もあるでしょう。いかに現代の日本人棋士が合理性を重視して、きちんと研究を積み重ねていても、どうしても前提になる「日本人的感性」「思考のクセ」といった因習的要因か混入してくるはず。外国人が将棋を本格的に研究すれば、そういう「日本的なるもの」の特徴が逆照射されるのでは、という狙いです。
  もっとも、現実的には将棋を外国人が多人数で本格的にやるというのは考えにくい。囲碁は別で、韓国のより合理的で実利を重視するスタイルに、感覚やかたちを重視する日本のやり方が苦戦していると聞いたことがあります。(但し私は囲碁についてはルールしか知らないので、この辺の話はかなりテキトー。)
そこで登場するのが「究極の外国人」コンピューターです。何せ「先入観ゼロ」なので、垢にまみれた人間の思考を洗い流してくれるかもしれないという、ポジティブな見方も一応可能です。
  渡辺vsボナンザ戦で、ボナンザの「6四歩」が、「人間の感覚ではとても考えにくい手だが、実はなかなかいい手だった」という渡辺竜王の指摘がありました。(詳しい説明は「渡辺明ブログ」の「大和証券杯特別対局ボナンザ戦。その2(当日編)」を参照してください。)
  コンピューターのレベルが今以上になれば、プロが自分たちの感覚では見つけない手筋を発見するためにコンピューターを利用するという時代が来るのかもしれません。それは、決して悪いことでも人間にとって恥なこととも思えません。
 
  現在のコンプューターの思考回路がどうなっているのか、門外漢で文系人間の私にはサッパリ分かりません。多分、現局面での形勢についての複合判断基準を設定して、なおかつ優先順位をつけた判断と、読む手の分岐によって何手先まで読むかの判断を組み合わせるような形が基本なんでしょう。
  どちらにしても、コンピューターでも「全部読む」わけではないので、人間同様「見落とし」が出てくるのはある意味当たり前です。特に、「しらみつぶしに読む」部分を多く省いて設定しているプログラムほどその可能性が高いでしょう。また、恐らく今のレベルでは「単純なしらみつぶしプログラム」よりも、より省力化したプログラムのほうが、実は強いのではないかと勝手に想像しているのですが。結局は「ソフトを組む人間の頭脳」が一番のポイントになるわけで、一応「人間優位」は保たれているわけです。ヤレヤレ。
  
 ところで、将来コンプューターが人間の名人より強くなったらどうするのか。私は別にそれで構わないじゃない、という考え方です。将棋というゲームが。ルールーが設定されている究極的には「計算可能」なゲームなので、人間がコンピューターに負けても、恥でもなんでもないのですから。むしろ、そうした「冷徹な計算力」に、無限の手の可能性から「直感」で最善手を見抜いてくる人間のプロ棋士の曲芸的能力が、どれだけ通用するかを楽しみたいと考えるでしょう。
 そして、多分いくらコンピューターが強くなっても、人間サイドがかなり食い下がり続けるんじゃないかというのも私の予想です。名人になった人間が、毎年最後にコンピューター王者に挑戦するというイベントだって、十分盛り上がるし、楽しめると思います。 
 
 小林秀雄の「考えるヒント」の「常識」の中に、将棋の話が出てきます。小林秀雄と中谷宇吉郎博士が「将棋の神様が二人で対局したらどうなるか」というテーマで会話するのですが、これが傑作なので興味がある人は読んでみてください。
 さて、会話の結論ですが「要は、先手必勝か、後手必勝か、千日手かの結論が出るが、その場合は、どちらが先手になるかの振り駒が全てのポイントになるが、振り駒の結果も神様ならお見通しなわけで、要は神様を二人仮定したのが誤りだった」という落語のオチのようなものです。
 それでは、少しひねってこういう問題はどうでしょう。「人間の直観力を無限に神の領域に近づけた存在」と「コンピュータの計算能力を無限に神の領域に近づけた存在」が対局したらどうなるのか。 
  将棋の場合、手が無限にあるといっても究極的には「計算可能」なのでコンピューターが勝つという考え方もあるでしょう。しかし、私は、「直観力」でも実は、計算力に十分対抗可能だと思っています。これは人間の能力に対する誇りとか信頼という話ではありません。人間やこの世界の成り立ちに対するほとんど信仰めいた信条めいたものであって、・・。えっと、もうかなり酔いがまわってきたようなので、やめにしておきましょう。
 ちなみに正解は、神は「直感」と「計算」の区別がない全能の存在だから、質問の立て方自体が無意味だという無意味な正解です・・。

女流棋士独立問題雑感9-自己反省、猛省

 「渡辺明ブログ」の「明日は講座収録」で、女流のことについて少し書かれています。「言えることはない」という内容なんですが、それはそれで別にいいんです。コメント欄を読むと、「意見を書かない」ということについて、偉そうに説教したり、教えをたれたりしている輩がたくさんいる。ああいうのって腹立つなあ、と思いながら読みつつ、自分が書いていたことも同類だと思い当たってしまいました。独立派を思えばこそといいつつ、男性棋士についてえらそうに指図するようなことを書いている記事。・・恥ずかしい。
 やっぱり、こういう話題について書くのは難しいんですね。誰にでも、mozuさんの真似が出来るというわけじゃないんだ。今女流についての記事を読み返してみたのですが、ほとんどを削除してしまいたい衝動に駆られます。ここ何日かの自分の興奮と努力はいったいなんだったんだろう。寅さん流に言うなら「恥ずかしきことの数々、日々反省をして過ごして」いかないといけないのかもしれません。もっとも、何かまた新しい動きがあったら、カーッとなって、・・。せめて書き方にはもう少し気をつけるようにしよっと。
  夜更けに、大好きな矢野顕子の「ピアノ・ナイトリィ」を静かに聴きながら。あまりに好きなんで、国内盤と輸入盤の両方持っています。(曲目が微妙に異なる。)特に友部正人の「愛について」は、聴くたびに年甲斐もなく涙が・・ 

女流棋士独立問題雑感8-投げ返されたボール

 独立派がひとたび独立宣言した以上、ファンとしては応援することくらいしか出来ないわけです。しかし、ココロある人ならば、イロイロ心配することでしょう。
「怒って飛び出すのはいいけど具体的計画はあるのだろうか、連盟とはどういう関係になるのだろう、他の女流の理解は得られるのだろうか、経営能力や先立つものはどうなのか、等々」心配しだしたら、それこそキリがありません。しかし、彼女たちを見ていると、我々の心配をよそにやるべきことを淡々と着々と進めていくような気もします。
 むしろ、このような彼女たちの行動を、我々がどう受け止めるのかこそが問題になってくるのではないでしょうか。「我々」というのは、残留届を「一応」提出した女流棋士、男性棋士、将棋関係者、将棋マスコミ関係者、一般将棋ファンの全てを含みます。彼女たちがこのような行動をとるように追い込まれた経緯を考えるにつけ、なおかつ細かいところを別にすれば彼女たちに大きな過ちは見当たらない以上、それをうけとめる「我々」の見識や度量が問われるのではないでしょうか。
 ボールは投げ返され、「我々」が逆にテストされているのです。しかも、相当に難しくて厳しくて厄介なテストを。安易に取り組んだら、赤点をくらうこと間違いなしです。せめて、追試での及第点くらいは取れるよう、「我々」がしっかり彼女たちの行動を受け止めてあげたいものです。
 
 独立宣言後にブログの更新がありました。

「ごきげん・DE・ブログ」の「先行独立決定!」

  そう、「先行独立」という表現が正確ですね。それにしても、彼女のコメントは常に前向きです。あんなことになったので、さすがに大変なんじゃないかなあと、まったく無関係の部外者でも少しは心配になったりもしたのですが、完全に杞憂のようです。
  そうそう、NHKの講座の初回を見ましたが、本当に元気そうな姿でした。渡辺竜王と完全に「対等」(笑)なのもいい。(エラソーという意味ではなく、自然に対等な感じでよいという意味です。)きっと、どんな苦難の時にも、希望を見出すように幼い頃から自然に鍛えられていて、それが体にしみついている人なのでしょう。

女流棋士独立問題雑感7祝 女流棋士独立へ他

 どうも展開が速すぎて、フォローしてこんなメモ書き程度のものを書くのも結構大変です(笑)。

「女流棋士新法人設立準備委員会ブログ」の「新法人設立にむけて」

 思い切った決断をしたものですが、とにかく頑張って欲しいと思います。何かモヤモヤしていたものが、一気に晴れた気分です。これからが大変でしょうが、ほとんどの将棋ファンは独立派を支持したり理解を示したりしているはず。どういうことをしてくれるのか、とても楽しみです。今日は、ゴチャゴチャ言わずに、皆さんの船出(へ向けての一歩)を素直にお祝いしておきましょう。とにかくガンバレ。久しぶりにポジティブな気分で記事を書けました。
 それにしても、女流の皆さんも棋士、やはり「戦う」のが好きなんですね。
 (窪田ブログの記事、冗談じゃなかったんだ・・。)

 今週の(3/30)の、「将棋ニュースプラス」の、「羽生善治インタビュー~王者の素顔」の中で、女流棋士について語っています。「当たり前」のことを言っているのですが、当たり前のことを当たり前のこととしてきちんと言ってくれる棋士が意外に少ないような気が・・。やはり彼は将棋界の宝です。 将棋指しとしてだけで゛なく、人間的にもね。念のため断っておきますが、このインタビューは、一連の騒動が急転直下する前に取られたらしきもので、彼の現在の考えそのままではありません。発言要旨は、

1女流棋界は、年数も経過し、人数も増え、組織もしっかりしてきて、世間的にも認められ、「なくてはならない存在」「これからももっと発展する存在」である。
2独立問題については、個人的にはいい方向で、例えば独立するなら独立するということで、まとまって進んでもらえればよい。その点、楽観的に考えている。
3男性、女性に関係なく修行するようになって欲しい。同じレベル、土俵、視線で。まだ絶対数が少ないが、女性棋士が普及する中で、新しい人材が出てくるはず。

なんて「普通」の考え方なんでしょう。素晴らしい。2については「勝手に将棋トピックス」の3/29の「女流棋士独立問題、羽生三冠の補足など」の記事にあるとおり、事態の進行に伴って、意見を修正(というと正確じゃないけれど)しています。要は「どんな結論になろうとも、女流の意思を尊重する」ということです。(もっとも女流自身の「意思」が本当に働いているケースといえるかが根本的な大問題ですが。)とにかく、現在の彼の考えがそうであることは、きちんと述べておかないといけないでしょう。
 恐らく将来将棋連盟の会長になるであろう人物の考え方はこの通りなのですが、「:現役」の方はどうかというと、日記に最近女流独立問題について書いていて、・・・(以下一ページ、ノートを破り捨てた形跡あり。修復不能)
  次の連盟の理事選っていつなんでしょうね。私はとにかく、今タイトルを持っている人たちが理事になるまで気長に待って、今は「将棋界」のことには極力見ないようにして「将棋」だけをもっぱら楽しみたいという立場だったんです。この問題がおきるまでは。たぶん「世代交代」を、十歩も、百歩も速く進めないといけないないのでしょう。そうしないと、・・。
 もっとも、本当は男性棋士は今すぐにでも行動を起こさないといけないはずなんですけれどね。名人戦主催問題に比べれば、棋士の「財布」はこれっぽったちも痛まない問題ですが、何より基本的な人間としての資質が問われているので。 とはといえども、今の男性棋士に何か行動を起こせというのは、今年の楽天イーグルスに日本一になれというのと同じことでしょう。所詮、夢、絵空事です。というと、楽天が「そんなに確率が低いわけないじゃないか」といって怒りだすに違いありませんけれど・・。

女流棋士独立問題雑感6-多数残留の内実

 昨日呑気なことを書いてしまいましたが、内実は・・。まあ、自分が知ったかぶりでピントはずれな事を書いたことなんてどうでもいいや。リンクをはっておきます。

松本博文ブログ April Come She Will

男性棋士諸君、これで構わないの?
誰か何とかしてくれーー。

大和証券杯初戦を眺めながら

 私の知らない間に、棋士のブログが男女とも随分増えました。ファンとしてはありがたいかぎりです。今も見て回ってきたところなのですが「義七郎武藏國日記」の最初の部分を読んで、「なんだこれ」と思ったのですが、「daichanの小部屋」をみて「ナーンダ」ということに。マッタク、こっちはただでさえ「独立」という言葉に過敏になっているというのに。ハイ、私と同じく笑うどころか意味すら分からなかったというアワレな人、手ーあげて。
  エイプリルフールというと、すぐ思い出すのは、クリントンが松葉杖をついて現れておいて、ハイ嘘でしたとすぐネタバラシしたやつ。画面では、アメ公の皆様方が実に楽しそうにお笑いになっていましたが、あれを見た全ての日本人がいっせいに
「どこが面白いっちゅーねん」
と、総ツッコミしていたに違いありません。ユーモアのセンスについて、彼我の差を痛感させられた一件でした。「アメリカン・ジョーク」っていうやつです。日本人には、ああいうのは裏の笑いでしか通用しません。
 今、大和証券杯のはじまるのを待ちながら、昼間録画しといた工藤のピッチングを眺めながら、春になるとなぜか無性に聴きたくなるスティングの「ブランニューデイ」に耳を傾けながら、宮城の地酒「浦霞」を冷やでチビチビやりながら、これを書いています。どれだけ「ながら族」(古っ)やねん。
 あっ、今入場者リストを見たら、対局者以外に、渡辺先生と北浜先生のお名前が・・。解説してくれるのかしら。
 うわっ、八時じゃないのに対局始まっている・・と思ったら、テストしてたみたい。うーんいかにも初回らしい。
 はじまった。ああ、北浜さんは立会い兼解説なんだ。先手郷田さん、後手島さんに。
 ああ、工藤がメッタ打ちに・・・。
持ち時間三十分は長いね。相がかりの出だしだが、プロなんで序盤からちゃんと考えるんで、こりゃ、お酒のペースが進みそうだ・・。郷田さん、棒銀に。
 おっ、渡辺さん登場。北浜さんと会話してくれている。真面目に手の内容の解説。二人とも頑張ってくれているが、秒読みになるまでは、結構間を持たすのが大変そうだ。解説と聞き手が必要なのかもしれない。定跡形ではない手将棋に。
 巨人圧勝。やはり打線は迫力あるので、投手次第か。 
 郷田さん勝ち。終盤は一方的でした。
 やはり盤面だけだと単調だし、24と違って一局が長いので、何か一工夫欲しいという印象でした。

コメントを承認制にさせていただいています。反映まで時間がかかりますが、お気軽にどうぞ。
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