2008年08月

羽生善治「上達するヒント」(浅川書房)

(将棋本のストックを読破しようシリーズ?第三弾です。)

もともと、羽生が英語の将棋本として「Habu’s Words」として出版したもの(翻訳を女流棋士の高橋和さんが担当されたそうだ)を、新たに日本語原稿を元にオリジナル版として出版したもの。
海外で指されたアマチュアの棋譜を題材に、羽生が分析を加えている。将棋本では良くある、定跡本でもなく、手筋集で見なく、終盤本でもなく、「将棋を指す上での基本的な考え方」を戦術論としてまとめたものである。チェスではこの種の本はある程度存在するそうだが、将棋本としてはとても珍しい。
また、羽生は、従来の将棋本は美しい技が決まる場面のことばかり書いていることが多い、そういう本ではどれだけ実戦で役立つものかと考えていたそうである。羽生独特の比喩表現を用いた説明を聞いてみよう。
ゴルフにたとえるなら、ドライバーショットについては書かれているが、バンカーショットは無視されている感じです。将棋は、ゴルフ以上にバンカーの多いゲームです。そこからどのように抜け出すかがとても重要で、棋力の多くの部分をこれが占めている気がしています。
基本の考え方・方向性を知っていれば、バンカーから抜け出すリカバリーショットは打ちやすくなるはずです。本書は定跡書のように暗記するのでなく、感覚的なものについて書いたものですから、気楽に読んでください。そして実戦を指したとき、自然にバンカーショットが打てるようになっていれば、著者としてこれ以上の喜びはありません。
ハイ、これでこの本の紹介オシマイ。としてもいいくらい、相変わらずポイントを分かりやすく表現する能力にたけている。
アマチュアの棋譜に対して、羽生がいわゆる添削を加えていくわけだが、その手並みの鮮やかなこと。玉石混交の指し手の集積のアマの棋譜から、本来あるべきはずだった美しい一筋の線を見事に浮かび上がらせている。プロの棋譜について語るよりも、むしろ問題点が分かりやすいので、本来将棋をどう考えて指すべきかが自然に分かる仕組みである。
例えば、「第6章 主戦場について」では、刻々と主戦場が場面によって移り変わっていくのを、具体的な棋譜を追いながら説明している。また主戦場が複数あり、そのバランスが随時変わっていくこともある。それを、常に意識して主戦場にきちんと対応していくことの重要性、またアマがなかなかそれを切り替えられないかを、丁寧に語っていく。そして、終盤では、主戦場が、お互いの玉周辺になるわけである。
プロの場合でも、必ずしもそういったことを明確に意識して指しているわけではあるまい。基本的には、具体的局面の具体的差し手のことを考えているわけである。しかし、当然ながら手を読むプロセスの中で、同時に(無意識に)主戦場がどこかといったことも考えているはずである。羽生のこの本は、プロが指し手を読むプロセスで無意識に行っている思考プロセスを、言語化しようとする試みともいえる。
また、ほとんど力量に差の無いプロの世界では、手を読む能力も当然重要ながら、それをどう戦術的に取捨選択するかも同程度に重要なはずだ。そのセンスの差が、プロの中での紙一重の差になるのだろう。そして、羽生というのは、そういう「センス」にかけては、やはりプロの中でも傑出した存在なのだろう。羽生が「大局観」と絡めて説明している言葉を聞いてみよう。
両者が備えている戦力は同じなので、ある主戦場で優位に立てば、他の主戦場では不利になる、と考えるのが自然です。よって一箇所を攻め破ることに固執しすぎず、全体の状況で優位に立つことを考えるようにしましょう。こうした判断をする力を「大局観」といいますが、この大局観を身につけることは、もっとも難しいことなのかも知りません。しかしながら、この大局観によって指せるようになったら、将棋の魅力や奥深さに改めて気づくはずです。
「第10章 スピードについて」では、横歩取りの激しい将棋を取り上げている。アマチュアの棋譜を元に、実はどれだけ難解な変化が隠されていたのかを、逐一分析している。いかにアマの将棋が色々な手を見逃しているか、正確に指すと、いかに将棋は変化が広くて、なおかつ難しくてバランスが取れているのかがよく分かる。よくも、アマの将棋から、これだけの変化の宝の山を掘り出すものだと思う。
また、「第8章 厚みについて」では、序盤のちょっとした普通の玉上がりを疑問手として指摘している。具体的には、その一手をついて相手が位をはって厚みを築きあげるのを防げなくなるのだという。実際には、相手のアマチュア(5段)は、チャンスを見逃して玉の囲いあいにつきあってしまった。
局面を書かないとなかなか伝わりにくいかもしれないが、序盤のちょっとした玉上がりに敏感に反応するプロの感覚、羽生のセンスには感嘆してしまった。「巨人の星」の星飛馬なら「オレは今、モーレツに感動している」と言ったはずだ。
と、下手なジョークを言えたところで、紹介は終わりにする。
読んでいて楽しい本です。

片上五段の村山聖分析と勝又六段の羽生善治分析

オリンピックを見ていて思うのだが、野球なら素人でも見ていれば大体のことは分かる。あー、今日のダルビッシュは本来のストレートじゃないな、とか
岩瀬はスライダーがこんなに切れないのならそりゃ打たれるわ、とか。彼らの球をバッターボックスに立ったら、全くかすることもできなくても、とにかく見ればある程度は分かる。
しかし、将棋については、本当は見ただけじゃよく分からない。解説一切なしで、羽生の棋譜を見せられて、ああきょうの羽生さんは切れ味ありますねえ、とかちゃんと理解できるアマチュアはどれだけいるだろうか。理解の程度に差はあるにしても、素人ならば、どうしても棋譜に対する解説が必要である。
したがって、プロの将棋では、それに対するプロや記者の説明の占める重要性というのは、とてつもなく大きい。いかに正確にうまくプロの将棋を伝えてくれるかどうかで、プロの将棋は、生きもするし死にもする。
個々の対局に限らず、各プロ棋士の将棋についても同様である。羽生四冠にせよ、渡辺竜王にせよ、佐藤棋王にせよ、深浦王位にせよ、なんとなくのイメージは持っていても、実際に具体的に各人の将棋の特徴を、素人が的確に把握するのはなかなか大変なものである。
その意味で、週刊将棋の片上五段の村山聖分析と将棋世界の勝又六段の羽生善治分析は、興味深くもあり貴重でもあった。
まず、片上五段の村山聖分析。とにかく、村山の棋譜を多数並べてみて、将棋の特徴を具体的に現代の目で検証してみようという労作である。簡単に要約してみると、
・村山将棋の特徴は「剛」といわれ、確かに受け駒を強引にはがしていく寄せは迫力満点手でそういう要素もある。
・しかし、振り飛車を指す場合には、あくまで軽くさばく基本に忠実な指し方で、「剛」の一面だけではない。
・横歩取りでも、桂よりも銀をよく動かしており、独特の感覚がある。
・中段玉を寄せる感覚が抜群で、中段に相手玉を誘って寄せる独特の感覚だった。「中段玉は村山に聞け」
・相手の土俵で、真っ向から受けて絶つ将棋。角換わりでも、丸山相手だと攻め、谷川相手だと受ける。
・ベテラン相手でも、相手の土俵で戦って、同世代には互角なのに、かえってベテラン相手に苦戦することもあった。
といったところである。まさしく、素人には絶対に出来ない分析作業である。とくに「中段玉は村山に聞け」は貴重な発見だろう。終盤に関しては、ブログ記事でも、これについての補足を書かれている。
企画の打ち合わせ中担当の内田さんから「宮田さんと、村山さんの終盤の違いってどういうところですか?」というようなことを聞かれました。僕はとっさに、「村山先生を裸玉とすると、宮田君は大道詰将棋でしょうか」と答えました。
なかなか、素人には、宮田五段の終盤の特徴までは分からない。例えば、谷川の終盤は直線的、羽生の終盤は曲線的とていう程度なら何とか分かるが、それも漠然としたイメージに過ぎない。だから、プロの人には、こういう分析をどんどんしてもらいたいものである。他の棋士に対する批判でなく、長所をほめることならやりやすいのではないだろうか。
我々素人も、「でたでた、宮田の大道詰将棋」とか言って楽しむことが出来るのである。たとえ、本当はなんのことやらよく分かってないにしても(笑)。

さて、勝又六段の羽生善治分析。「最新戦法講義なのに、いきなり個人分析じゃーん」というお決まりのツッコミはなしにしておこう。とにかく、誰しも現在の羽生将棋のことを知りたくて知りたくてたまらないわけなのだから「OK!!」(ソフトボール解説の宇津木さんが、選手のプレイに対してよくおっしゃっていました。ああいう監督気分の解説もなかなか楽しい。)
勝又さんらしく、工夫して7つのキーワードで分析。
スペース、シンプル、スマート、センス、スピードコントロール、スローイン、シルバー。
具体的には、現在発売中の将棋世界をご覧いただくとして(別に私は将棋世界の回し者じゃない)、例えば「スローイン」。
勝又得意のコントラクト・ブリッジの用語で、自分が勝てる状態にして相手に手を渡す技法のことである。将棋用語で言うと「手渡し」。これも「じゃあ、手渡しって言えばいいじゃーん」というツッコミはなしで。だって、「でた、羽生の手渡し」じゃしまらないけど、「でた、羽生のスローイン」といえば、なんかかっこいいじゃないですか。結構、こういうちょっとした言葉の使い方って重要だと思いますよ。
例えば、先日の竜王戦の丸山戦。終盤で、丸山玉にアヤをつけるだけつけておいての、突然開き直ったような△3六龍。あれだけいやらしく攻めるだけ攻められたら、それだけで相当疲れそうなところを、急に「決めてみろ」と開き直られると、心理的にはイヤなものでしょう。あの場面も、実際は丸山勝ちだったのだが、最後のつめを丸山が誤り逆転。素人が見ていても、羽生さんの将棋というのは、盤面で前に座って実際にさしてみないと分からないテクニックがあるような気がする。プロや観戦記者の方には、そういうところまできっちり伝えていただきたい。
ということで、この勝又講義を読めば、あなたも立派な羽生マニア。
さっそく、「でた、羽生のスピコン(スピードコントロール)、そろそろ羽生のスローイン出るんじゃないかい」と、言ってみようじゃありませんか。あんまりよく分かってなくてもいいじゃないですか(勿論、含む私)、せっかくの将棋だから、なるべく楽しんでみちゃえばいいのですよ。

竜王戦決勝トーナメント 羽生名人vs丸山九段

竜王戦中継サイト
生で佳境の終盤部分を見ることが出来たのですが、いや堪能しました。将棋のネット中継というのは、一度はまるとプロ野球やサッカーなどのテレビ観戦などよりも、よっぽど興奮しますよね。オリンピックも同時に見ていますが、あくまで二次鑑賞に過ぎません。
という、模範的な?将棋ファンなのですよ。私は(笑)。
さて、以下は明くまで私がどう楽しんだかの観戦記に過ぎず、あまり客観性は無いかもしれないことを最初にお断りしておきます。基本的に私はメチャクチャ大げさに騒ぐタイプだとご承知おきください。多分、強い人たちほど、もっと冷静な見方をしているはずです。

戦形は、「通常」の角換わりに。一手損角換わりよりも、より定跡研究が深く隅々までされていて、安易には指せない形です。かつては、この形のスペシャリストでは、丸山さんや谷川先生などは、先手でこの形、特に本局の相腰掛け銀になれば、ほとんど必勝というイメージがありました。また、先手が一方的に攻めることが多く、後手が守勢一方になりがちという印象も強かったです。かつての矢倉と似たところがあります。
しかし、最近は、そう簡単に先手が勝てるという感じではなく、後手の対策が進んで来ているようです。それも矢倉と似ています。
丸山vs羽生でも、去年の順位戦で、羽生さんが後手を持って勝っています。やはり、羽生さんは、相手を見てどの戦形を選ぶか考えているのでしょう。何でも指せる羽生さんだからできることなのですが。但し、基本的には研究将棋なので、研究の深さに定評がある丸山さんにぶつけるのは、特にこういう大きい将棋では勇気がいると思うのですが、そういうところで踏み込んでくるのも羽生さんらしいところです。
先手が▲2九飛と引くのは、割と古い形で、実戦も多く研究され尽くしているはずなのに、まだ分からないというのが将棋の深いところ。ゴキゲンの▲5八金右急戦でもそうですが、基本的には将棋は簡単には研究しきれないものなのでしょう。少なくとも、現状では。
どうも先手の攻めが細いように言われていましたが、さすがに丸山さんもなんだかんだと手をつないで、この局面に。
羽生丸山aaaaa101手
この後は、先手は▲3二金から▲3三馬の狙いが分かりやすい。何より後手玉は逃げ場がありません。いわば、自玉には確実に爆発する時限爆弾が仕掛けられている状態です。したがって、その攻めが来る前に、羽生さんは丸山玉を攻めなければいけないのですが、上部開拓も見えていて、素人目には羽生さんが大変そうだなあと思ってしまうところです。
ところが、個々からの羽生さんの手のつけ方粘り方がすごかった。まず、先手玉に尻金で王手をかけておいての△3一歩。
羽生丸山bbbbb114手
羽生さん自身の感想によれば、この歩は受けなかったほうがいいそうです。ただ、私が注目したいのは、こうして攻めておいて一転受けて手を渡すということを羽生さんが繰り返すことです。
さらに、△6九飛成だと▲4五桂で決まるので、苦心して一度△3八龍と引いて歩を受けさせてからの、△3六龍の二段モーション。さらに、わざわざ近づけて打つ△6四角。銀で受けると、後手から強襲する順が生じるそうです。丸山さんもさすがに看破して桂を受けると、玉頭にアヤをつけて迫ってきます。この辺のやり取りは、迫力満点で息を呑みました。
但し、結局羽生さんが龍を逃げなくてはならなくなりました。
羽生丸山ccccc130手
これも、感想では羽生さんが玉頭に手をつけたのは、上部に逃がしてやり過ぎだったそうです。但し、丸山さんにしてみれば、あの羽生さんにこのように、あの手この手で怪しくせまられたら、相当精神的にも疲労したのではないでしょうか。で、最後にひょいと龍が逃げます。羽生さんからすれば、やむにやまれず逃げただけなのでしょうが、結果的には攻めたり引いたり、丸山さんを疲れさせる指し方になっているように感じました。
とはいえ、ここでは丸山さんが、あとはどう決めるかだけという感じの局面。持ち時間も、しっかり残してあったようです。▲5一の馬は、受けにきかしておきたいところですが、普通に攻めて行くのでは受けが生じるので、いきなり馬切りから行くのは、こわいけれども正解だったようです。
進んで、丸山さんが飛車を打って詰めろをかけたのに対して、羽生さんが△7三角と詰めろ逃れの詰めろをかけたところ。
羽生丸山ccccc138手
ここら辺では、実は私などは興奮してしまいました。「おお、こんなところで、詰めろ逃れの詰めろが、出たかマジック、羽生逆転か」と。でも、これは弱い素人の悲しいところ。冷静に考えれば、これくらいの詰めろ逃れの詰めろなら、羽生さんでなくてもどんなプロでも一目でしょう。また、羽生さん自身は、その後の展開まで読んでいて、この手ではどうしようもないとして、ガッカリしたように指したそうです。冷静に見ていた控え室も、ちゃんとその後の展開まで見えていました。
ところが、この後ドラマは起こりました。丸山さんが、▲9七玉と逃げたところ。
羽生丸山ddddd139手
これだけはやってはいけないという手を丸山さんが指してしまいました。先手玉に詰めろがかかっている以上、とにかく何か受けるしかありません。▲8三金でも、香車を王手でとって▲7五香でも受かっていたそうです。どちらも、特に妙手というわけではありません、とにかく必然的に詰めろを受けただけの手。特に、がっちり金を打って、場合によっては入玉してしまうのは、普段の丸山さんなら、得意中の得意のはずです。それが、一番あぶない逃げ方をしてしまった。
魔がさしたとしか言いようがないでしょう。前局の深浦さんも、最後に逃げてはいけないあぶない玉の逃げ方をして、勝負をフイにしてしまったばかりです。それが、こんな大事な将棋で二局も続いてしまった。棋譜解説によれば、どなたかが「何かが(羽生さんに)憑いているようだ」といわれたそうですが、誰しもそう感じたことでしょう。
少し強引に心理面と結び付けて考えると、羽生さんの相手を疲れさせる指し方によって、対戦相手は最後にはすっかり消耗してしまうというのは、もしかしたらあるかもしれませんが。
また、丸山さんの投了が、素人には少し早かったのも興奮を高めました。「えっ、丸山さん、投げたの」と。解説によれば。もう指す手が無いそうですが、羽生さんも驚かれたそうなので、やはり少し早いのではないかと思います。丸山さんは、時々こういう潔い投了があって、銀河戦でも、渡辺竜王相手に投了が敗着というのがありました。朝日杯の決勝でも、行方さん相手に急に投げていました。
丸山さんは、よく激辛流といって、厳しい勝ち方をするといわれますが、結局あれは、プロ意識を持って確実に勝てる順を選んでいるだけということなのでしょう。プロ意識が徹底しているので、指しても仕方ない場面では、いきなり投げるということなのではないかと推測します。丸山さんは、本当に独自のプロ意識を持った棋士だと思います。
とはいえ、丸山さんにとっては、まさしく痛恨の一局。
気の早いファンは、羽生の竜王挑戦で決まりだと思っているでしょうが、木村さんもそういう世論を感じて、最高に闘志を燃やしていることでしょう。何よりあれだけ高い勝率を上げ続けているというのは、とにかく力がある分かりやすい証拠。どうなるか、まだまだ分かりません。
ちなみに今週の週刊将棋を見たら、一二年の新人を除いて、現在通産勝率が七割を超えているのは、もう羽生さんしかいません。最高に強い相手だけとずっと戦い続けてこの数字。
やっぱりバケモンです。

竜王戦決勝トーナメント 羽生名人vs深浦王位

竜王戦中継サイト

とにかく見た目のインパクトが強烈な将棋でした。対局者の感想戦コメントを読むと当然ながら慎重だし、見た目よりは恐らく難しい将棋なのでしょうが、基本的には、なかなかお目にかかれない大逆転といっても構わないでしょう。
しかし、最近のこの二人の対戦では、どうも深浦さんが主導権を握ることが多いようです。本局も、▲9六歩から動いていったのが機敏で、完全にペースを握りました。なかなか素人には深浦将棋の本質がよく分かりませんが、よく言われる粘り強いじっくりした将棋というより、相手がちょっとした隙を見せると敏感にかぎつけてたちまち襲い掛かる、大草原の肉食動物のようなところを感じます。というと、訳わかりませんが。
とにかく、最近は将棋のペースを深浦さんのいいように握られているという印象があります。一時期の森内vs羽生戦のような感じで。羽生さんと深浦さんも、当分多くの場所で戦い叩き合うのかもしれません。
しかしながら、こういう相当苦しい将棋でも勝ってしまうのが羽生さんなのです。
この局面を見たら、一瞬もう投了図と思ってしまうのではないでしょうか。どうすれば、後手の羽生さんが勝てるのか、すぐにはイメージできません。
a

数手後の△4二歩も、一見いかにも守勢一方で、「これでは苦しいでしょう」と感じる手です。
b

しかし、こういう見た目が悪い手が、実は後から考えると最善を尽くしているというのが羽生将棋。ここで、▲2三歩と攻め合うと深浦良しだったそうですが、本譜のように▲3四馬とひいて、△2六角をいじめて完封、と考えるのも無理ないところなのではないでしょうか。深浦さんも、さすがにあのあたりでは「この将棋はいただいた」と思っていたはずなので、なるべくリスクは犯したくないという意識が働くのも自然でしょう。それを見越したかのような△4二歩。羽生さんとしては、最善の粘りをしているだけなのでしょうが、結果的にはマジックのように見えてしまいます。
実際には、▲3四馬と引いた時点で、既に将棋が一気に難しくなっていたというのだから驚きです。以下、羽生さんの飛車が一気にさばけ、さらに深浦玉への強襲に成功し、後手玉への脅威になっていた馬も抜くことが出来、一気に逆転したように見えました。
しかし、実はまだ深浦さんが残っていたそうです。
図で、▲3九にいた玉を▲2八玉と逃げたのを見たら、プロでなくても、ある程度腕に覚えのあるアマなら「えーーっ」と絶叫してしまうでしょう。なぜなら、あまりにも先手玉が危なすぎる形だからです。ここでは、冷静に▲4九銀としておけば、残していたようです。
c

なぜ深浦さんが、こう逃げたのかが不思議なわけですが、以下は単なる推測をしてみると、当然▲4九銀から考えたが、そのうち何かイヤな筋が見えて、玉逃げで残せる筋が浮かんで時間に追われて「エイッ」とやってしまったのかもしれません。また、ずっと勝勢だった将棋が急におかしくなって、平常心を失ってしまっていた可能性もあります。
以下、さらに深浦さんが自ら頓死を喰らってしまいました。
あの名人戦第三局の△8六桂ほどのインパクトはありませんが、深浦さんクラスの一流棋士としては、▲2八玉は恐らくそれに近いレベルのポカなのではないでしょうか。
それにしても、なぜ羽生さんばかりが、このようなとんでもない逆転勝ちをするのでしょうか。森内さんも深浦さんも、我々素人から見れば、神の中の神レベルの人たちです。そういう人たちが、羽生さんにはこんなひどい目にあってしまう。
本当に、羽生さんは恐ろしい人です。

戸辺・遠山・長岡・高崎共著「新鋭振り飛車実戦集」(毎日コミュニケーションズ)

放置状態にしておいた将棋本を、相変わらず少しずつ読んでいる。この本は最近の新刊ですぐ買ったのだが、もう半年たってしまったのか。実はその間に、プロの振り飛車はめまぐるしいスピードで変化した。
著者の一人の長岡裕也四段は、既に振り飛車党ではない。それどころか、今週の週刊将棋で、藤井猛九段が矢倉党に転向したという衝撃事実が発覚。ただし、先手の作戦の柱として矢倉を考えて、相手次第では相振りもということらしい。また、現代の力戦振り飛車は本来の振り飛車等が指すべき戦法ではない、矢倉は玉をしっかり囲いあう将棋で、振り飛車党にも入りやすく格調が高いのに惹かれると。単なる流行を追うというのとは違う、藤井流の「本物の鰻屋」のこだわりが言葉の節々から伝わってくる。後手では、何を指すつもりなのか不明だが、先手でシステムを指さない以上、さらに現状では苦しい後手のシステムを用いることはまずありえないものと思われる。
例えば、一手損角換わりの振り飛車でも、四手目△3三角戦法にしても、相手の出方によっては居飛車にも振り飛車にもする必要がある。振り飛車だけしか指さないととても不利な時代になっているのだ。だから、今後「純粋振り飛車党」は、減っていくものと思われる。
藤井の発言を聞くと、そういう最先端の動きをそのまま受けてというよりは、藤井なりのこだわりがあるようだ。ただ、現在、藤井システムが苦しくなっているのを認めたという事実だけはどうしようもない。個人的には、角道を止め振り飛車が、劣った「消えた戦法」になるとは思えないので、長い目で復活を期待しよう。
いや、現在だって元気一杯の振り飛車党だって、ちゃんといる。同じ週刊将棋で、櫛田陽一六段はこう言っているのだ。
居飛車穴熊なんか全然怖くない。振り飛車党が(四手目)△5四歩に流れているのは彼らの研究不足。私はほとんど居飛車穴熊に作戦負けしたことがないから、△5四歩を指す必要が無い。
かっこいいー。クッシー。是非、櫛田さんには、「世紀末四間飛車」ならぬ「新世紀四間飛車」を書いてもらいたいものである。

さて、前置きが長くなりすぎた。この「新鋭振り飛車実戦集」については、既にこういう書評がある。もともと書評サイトなので、手馴れた感じで本のポイントをもれなくしっかり紹介しているので、本書に興味のある方は参照されたい。以下、多少、蛇足の補足を。
最初にもふれたが、この半年で、プロの若手の振り飛車から。「普通」の振り飛車はほぼ消滅してしまった。もし現在本を出すとしたら、選ぶ棋譜も全然違っていたことだろう。出版側も、めまぐるしい変化に対応する必要があるので大変である。
最初に登場する戸辺誠四段は、まさに現代力戦振り飛車の申し子。ほとんど、ゴキゲンか石田流しか指さないという棋士である。いま出版しても、彼の場合は何もいじる必要はないだろう。力戦の名の通り、いきなり力でねじりあう、むつかしいが楽しい将棋である。やはり、従来のまず受けて「相手の力を使って投げる」(藤井猛)振り飛車とは感覚が全く違う。
注目は、加藤一二三1000敗の将棋が取り上げられていることである。加藤先生は、この最先端の将棋を指す若手の読んでない手を指したりしていて健在である。そういう部分は読んでいてうれしい。但し、将棋自体は戸辺四段の快勝譜である。
二番目の遠山雄亮四段は説明不要だろう。彼がお目当てで本書を買われた方も多いのではないだろうか。銀河戦の、決勝トーナメントでの森内戦が取り上げている。ほとんど森内さんを土俵際まで追い詰めたのだが、詰めを誤って大魚を逃した実に惜しい将棋である。私は、番組も見て確かブログにも書いたので、この将棋はよく覚えている。遠山四段自身も、勿論、ブログに自戦記をアップしている。
ただ、この本では、さらに詳しく説明されていて、特に終盤の広い変化には、やはり将棋の奥深さを感じずにはいられない。ひとつ大きなミスがあっても、まだ難しくなる変化がいくつもあったようだ。将棋は、やはり最後まで諦めてはいけないのだ。また、悪手を指した後に引きずらないメンタル面での安定も、やはり大切なのだろう。
次の長岡裕也四段は、研究熱心なことで知られる振り飛車党である。いや、最初に述べたとおりに「だった」。藤井システムの使い手だったが、本書ではちょっとひねって、△3二銀形の急戦を取り上げている。懐かしい山田定跡も出て来る。通常、定跡本では、四間飛車が分かりやすく良くなる変化の代表例である。しかし、この実戦を見てみると、実は色々難しい変化が隠れている。居飛車側が、穴熊等の持久戦を選択するため、すっかり珍しくなった急戦だが、当然ながら、いまだって指せばどれも難しい将棋のはずなのだ。その意味でも、いまだに急戦一本で戦っている加藤一二三先生は偉いのだ。
最後に登場するのは、高崎一生四段。彼自身、既にこの本の中で、普通の四間飛車を指すことが減ったといっている。しかし、この本では藤井システム系中心の将棋を紹介している。読んでみると、今更ながら、繊細な緻密さが求められる作戦だと思う。
今後のことについては、彼のこの言葉に、振り飛車党としては期待したい。

苦しいときつらいときを一緒に乗り越えてきた戦法なので、なんとかまた復活させられないかと思案しているところだ。昔のように四間飛車だけでやっていくのは苦しいだろうが、可能性はまだ秘められていると思うので頑張って探してみたい。

藤井猛九段も、気持ちでは同じなのだと信じたい。

現代将棋とモダンアートについての雑談

少し前にこのことについて書いたら、わたしの記事に、というより、紹介した羽生さんの言葉に反応して、こんな記事を書かれていた方がいた。モダンアートを「理解する」ことの意味をめぐる引用集なのだが、これが実に面白い。
将棋と関連させて考えたいと思ったのだが、さすがに難しすぎる。ということで、気になった引用について、思いつくままに雑談してみようかと。
われわれにとって「和音」といえば、たとえば「ドミソ」のことであるが、中世においては「ドミソ」は不協和音だった。つまり「ミ(三度)」が入っていてはいけなかったのである。・・・中世の人々にとっては、この(近代の和声法では「空虚五度」と呼ばれて禁則とされる)「ドソ」の響きの方が「正しかった」のである。(「西洋音楽史」 岡田暁生著)
あまりに根本的な問題である。人間の各時代における感覚は、当然その時代の制約を受けた相対的なものである。音楽史において、自明とされている前提は実は全然自明ではない。いや、そもそも「西欧」の音楽の理論体系自体が、全然普遍的ではないかもしれない。自由な音楽を抑圧する帝国主義的体系なのかもしれない、というのはあまりにありがちな言い方過ぎますが。
「わたしたちがレト・ボラーの作品を「わからない」と嘆くのは、「芸術」という西洋近代が生み出した抑圧的観念のベールによってわたしたちの眼差しそのものが「制度化」されているからではないのか?」(「20世紀絵画」 宮下誠著)
我々が「分かりやすい」とか「あたり前」と思い込んでいるのは、実は制度によって刷りこまれた先入観に過ぎないのではないか。そういう制度の根元の部分の幻想のベールを剥ぎ取る作業が必要なのではないか。その作業の結果、従来の芸術の見方に、根本的な価値転倒が起こるのではないか。
さて、それでは将棋においてはどうか。さすがにそこまで根本的な価値転倒は起こらないだろう。将棋の世界は、根本的にはルールが明快な世界だし、勝ち負けという明快な終着点のある世界である。例えば、ある人間が、最初に飛車先を突いたり角道を明けたりするのに生理的違和感を覚えるといって、最初に玉を動かしていたら、たちまち負けてしまうだろう。
芸術の世界では、人間の感覚対象把握能力の相対性が問題になるが、将棋の世界においては、少なくとも程度の問題としては、人間が勝手な見方や理論づけをする自由は大きくない。対象やルールに即して考えることを最初から要請されるからだ。
しかし、それはあくまで程度の問題だし、将棋にも芸術同様の問題は当然発生する。

「何が描かれているか」という基準で見る限り「モナリザ」は「わかる」し、「黒に黒」(アド・ラインハートの作品。四角いキャンバスが真っ黒に塗りつぶされている。)は「わからない」。しかし「モナリザ」とは誰か、レオナルドがこの絵によって何を言おうとしたのかは今もって謎である。主題が分からないのだ。その点で「黒に黒」と寸分も違わない。「黒に黒」が私たちにとって「モナリザ」と違うのはだからその外観(見た目)にすぎない。ラインハートの世界解釈システムが「見た目」とは違うところで機能しているからだ。」
現代将棋は、形が古典的ではないし、見た目の理解が難しく分かりにくい。では、なぜそれを人は「分かりにくい」と思うのか。それは、将棋を「見た目」の基準で判断しようとするからである。古典的な将棋は「見た目」では、現代将棋よりは分かりやすいとしても、必ずしもその将棋の深い意味内容を一般の人間が理解しているわけではない。モナリザの主題が分からないのと同様に。
それでは、現代将棋の「世界解釈システム」とはどのようなものか。この引用でも、ラインハートのそれが何なのかは言われていない。表現するのが難しいのだろう。現代将棋もそうだ。弱い素人に、それが説明できれば世話は無いのだが、到底無理である。敢えて言って見れば、形の古典性でなく、各駒の働きや構図の力学を動的に把握しようとしているとでも言うべきか。内的動的力学関連さえ均衡していれば、外的な見た目の変さにはこだわらなくなっているというか。
いきなり角交換したり、馬を作りあったり、玉をちゃんと囲わなかったりするのは、「形はきれいでない。」しかし、見た目とは関係ないところでは、きちんとバランスがとれている。だからプロも指すのだろう。形のきれいさに対する図形的把握よりも、その局面の内的力学関係まで、現代将棋は読み取ろうとしているのかもしれない。と、一応仮説を立ててみたが、全然自信は無いです。

「ある無邪気な知り合いから「どうしてかつては・・・ロマンティックで美しい調性音楽を書いていたのに、なぜ不協和音だらけの曲しか書かなくなったのか?」と尋ねられたシェーンベルクは、憤然として「自分だって出来るなら調性で音楽が書きたい。しかし三和音を書くことを、歴史が私に禁じているのだ」と答えたというのである。」(「西洋音楽史」 岡田暁生著)
シェーンベルクは、彼の生徒に対して「私は、あなたたちが音楽を書けなくなること出来なくするようにするために音楽を教える。」という意味のことをいったそうである。
将棋においても、従来の指し方の理論体系を徹底的に疑っていったら、どんなことになるのだろうか。いつの日か、将棋のシェーンベルクが出現して、彼の弟子たちにこのように言うのだろうか。
「私は、あなたたちが将棋を指すことが出来なくなるようにするために、将棋を教えるのです。」と。

「歴史を一本の糸のように見て、過去から現在、未来にかけて直線的につながり、先に行くほど進歩するとか光明に富んだ時代になるとか言う考え方を批判して〈おのおのの時代は神に対し垂直な関係に立つ〉と言ったのは、確か19世紀の歴史学者ランケだったと覚えているけれども、音楽家、演奏家達も、また、前の人達の方が霊感に満ちていたとか、あとの時代になるほど技術が進むとか言うことはないので、それぞれの在り方とそれぞれの時代との様式において、作品に対し垂直な関係にあるのである。つまり、どの人の演奏も、一方では歴史の中で捉えなければならないと同時に、どの人の演奏も、それ自体の価値と考え方の体系として、その内部で評価されるに値するのだ。」(「一枚のレコード」 吉田秀和著)
音楽の世界においては、ある程度正論として素直に受け取ることが出来るだろう。しかし、将棋の世界では、話がかなり違う。基本的には、将棋の世界においては、技術の進歩が進んできている。分かりやすく言うと、昔の棋士より現代の棋士のほうが強い。従って、各人の個々の評価よりも、時代における将棋の全体レベルを評価すれば、それば十分であると。
しかし、それも実は程度問題である。明らかに、音楽と比べれば、将棋は個々人が自由な創造性を発揮する余地は小さい。しかし、全く無いわけではない。羽生と佐藤の将棋は全然違う。厳しい技術革新に対しては、羽生も佐藤もそのほかの全てのプロも、謙虚に学ばなければいけない。その努力を怠るものは、たちまち敗れ去るだろう。しかし、そういうことをやりつくした上でも必ず残る個々の人間の個性の部分がある。吉田秀和の言っていることは、ギリギリの部分では、ちゃんと将棋にも当てはまるのではないだろうか。
例えば、最近のインタビューで、羽生は大山のことを「史上最強」と呼んだ。私は、あれを偉大な先人に対する単なる社交辞令だとは思わない。現代将棋と大山の将棋との技術的差異を、冷徹に明晰に把握した上で、それでも残る「大山将棋の個別的特性」を、羽生は本当に見抜いているのだと私は考える。最近、羽生が急に勝ちだしたのは、決して偶然ではないだろう。羽生は、浅い合理主義者が馬鹿にして見逃す部分を、きちんと見ているのではないかと思う。
将棋世界の最新号に、各界有名人が祝いのメッセージを寄せているが、内館牧子さんが紹介して羽生の言葉は、きわめて興味深い。
将棋には「技術」と「人間性」がでる中、最近は技術の方が見直される傾向にあるとし、次のように語っている。「技術が進めば、今度は人間性が見直されます。二十年、三十年たてば、その人が持っている資質とか性格とかそういう部分が重要になってくると思うんですよ。」
今から十四年前の羽生の言葉である。羽生は預言者である。

「人はみな絵画を理解しようとする。ではなぜ人は小鳥の歌を理解しようとはしないのだろうか。美しい夜、一輪の花、そして人間を取り巻くあらゆるものを、人はなぜ理解しようとはせず、ただひたすらそれらを愛するのだろうか・・・。」(ピカソ)
「ピカソの不満は、人が絵画を「理解しよう」とすることにあるのではなく、人が絵画を「愛そうとしない」ことにある・・・」(「20世紀美術」 高階秀爾著)
ピカソは、モダン・アートを、頭でっかちに作り出したわけではない。本当に、自分の深いところの欲求に素直に従って描いたら、あのようになっただけだ。鳥を愛するように、自分の描いたものを愛した。野性的で強靭な理性と尽きせぬ泉のような創造性の稀有な結合。
羽生善治の批評力と佐藤康光の創造性を兼ね備えた将棋のピカソが、いつの日か出現するのだろうか。
コメントを承認制にさせていただいています。反映まで時間がかかりますが、お気軽にどうぞ。
Recent Comments
  • ライブドアブログ