2009年05月

コンピューター将棋選手権の解説by勝又教授@囲碁将棋ジャーナル

今日の囲碁将棋ジャーナルは世界コンピューター将棋選手権の特集だった。勝又六段が特選譜を二局解説したのだが、改めて私程度のファンでは、もはや解説してもらわないと理解できないレベルにコンヒューター将棋が到達していることを痛感せずにはいられなかった。一応、コンピューター選手権のページで最終日決勝の棋譜だけは全部並べてみたことがあったのだが、きちんと解説してもらわないと理解できないレベルの手をコンピューターは既に指している。勝又六段によると、既にコンピューターソフトの実力は奨励会三段からプロレベル近くに達しているとのことである。
一局目は優勝したGPSと前年度王者の激指の対戦。最近のソフトは、従来の駒得重視ではなく駒の働きなども人間に近い形で判断できるようになっているそうだ。形勢判断するための「評価関数」に、駒の働きの要素などを大幅に取り入れ、それをボナンザ方式の自動学習によってプロの膨大な棋譜を精密に学習させることで、長足の進歩をしたのだという。
優勝したGPSもボナンザとは違う方式の自動学習を取り入れており、一方激指の方は従来のハンドメイドソフトの代表格なので、本局は二つの大きな潮流の対決を象徴するような一局ともいえる。
図は、GPSが▲5八桂と打った場面。
csa79手

先手の6七の銀を取らせてしまって、「終盤は駒得より速度」を考えた手である。と言っても、この局面だけでは分からないだろう。GPSはこの先の展開についても「読みが入って」いて、なんとこの打った桂馬がこの後天使の跳躍をして、後手の急所の弱点の3四の地点まで跳ぶのである。そこまで、ソフトは想定しているのだ。
csa95手

単に膨大な手数を読んでいるだけの泥臭い終盤ではなく、まるで人間のように美しい終盤をコンピューターが指せる様になっている事を象徴するような一局である。
二局目は、GPS対ボナンザ。ボナンザがうまく指したものの、持ち味の強気の攻めをしすぎてGPSにつけこまれてしまう。図のようにボナンザは9五玉のまま攻め続けていたのだが、ここでのGPSの△9七金が必殺の一撃。
csa80手

▲同桂と取ると△9四歩以下先手玉は詰んでしまう。逃げ口封鎖の手筋のお手本のような鮮やかな手を現在のソフトは指す力があるのだ。以下も見事な順で寄せきってしまった。前述のように「評価関数」が人間の棋譜を学習している効果で、センスのある終盤の手順が可能になり、なおかつ膨大な読みぬけのない読みも兼ね備えている。これは、人間にとって脅威と言えるだろう。
なお、勝又六段が「評価関数」について解説していたことを要約しておくと、ボナンザの自動学習というのは、例えば囲いにおいて金の位置によって数値を変えて評価するように人間の棋譜を学習させる方法。具体的には駒の三点間を関係性を全て計算させる方式をボナンザは採用しているらしい。また、今回優勝したGPSは、駒の効きをより重視した方式を採用しているとのこと。どちらにしても、従来のように駒得ばかり重視しないで形勢判断できるように工夫が凝らされているのである。そして、従来のハンドメイドのソフトでは、そういう細かい調整が難しかったのを、全てコンピューターに自動計算させることで、人間にな近いような「評価関数」が可能になったのだと。
そのことで、今回は自動学習を採用しているソフトがハンドメイドのソフトを圧倒する結果になった。それには、当然ボナンザの保木さんがソースコードを公開したことで、他のソフトがそれを参考にして取り入れることが可能になったことも大きいということである。
ということで、従来のソフトの欠点であり限界にもなっていた「評価関数」が、駒得至上主義への呪縛から解き放たれた。従って、今後も工夫の仕方次第では、さらに「評価関数」の精度が高まる可能も十分にあると言えそうである。
コンピューターが人間を追い抜くXデイも、もしかしたら意外に早く来てしまうのだろうか。

どうぶつしょうぎ@はなまるマーケット

今日放送があったみたいなのですが、残念ながら録画しそこねました。でも、見られた方がブログにまとめられています。

ギズモのつれづれ将棋ブログ  はなまるマーケット どうぶつしょうぎ

岡江さんも十分楽しまれたようで、これは本当に有望かもしれません。

また、女性の方の反応。

C子のネタもれ帳 Vol.2 どうぶつしょうぎ、めちゃかわい〜 日本女子プロ将棋協会おそるべし♪

そうですかー。やっぱり女性の場合、「かわいい」は重要な要素なのですね。私のようなオッサンなどは、すぐに完全解明征服欲をそそられたりするわけですが。
ちなみにYahooブログ検索をかけてみると、本当に多くの女性の方が反応していることに驚きます。

さらに、将棋界で名人位と並んで最高峰の竜王位を保持する渡辺竜王(この辺、検索で来る将棋ファン以外の方々をかなり意識しております 笑)も、はまっているのです。

妻の小言。 どうぶつしょうぎ

現在一ヶ月待ちということですが、開発した日本女子プロ将棋協会(LPSA)のページはこちら

LPSA どうぶつしょうぎについてのお知らせ('09.5.29 アメリカ産ひのき予約開始

さらに、ルールを知りたいという方は、こちらを参照ください。

LPSA どうぶつしょうぎ・ルール概要

さらに色々知りたい方は、こちらのどうぶつしょうぎ関連リンク集が便利です。

詰将棋メモ どうぶつしょうぎ

将棋ファンとしては、女性ファンの開拓、さらにそれが将棋ファンの増加につながってくれたらと思いますです

名人戦第四局ー羽生名人vs郷田九段

名人戦の場合は、棋譜中継に控え室プロの意見が反映されているので、ある程度は流れを理解しながら観戦出来る。無論、対局者の精緻な本気の読みとはかなり誤差があるのが通例だけれども、今回は特にその差が大きかった。最後のところが大差になったのは分かったが、△3三銀くらいまでは、まだまだどちらに棋勢が傾くのか分からない将棋なのかと思っていた。しかし、両対局者とも、大分早い時点で後手の郷田良しと言うことで見解が一致していたらしい。△4五桂も、随分思い切った手で、羽生名人に何か切り返しがあってもおかしくなさそうだが、あそこでは既に名人は困っていたとのこと。
ただ、あの△4五桂あたりは、感想戦では先手が良くなる順が発見されなかったようだが、感覚的には何かあってもおかしくない局面のような気もする。事後の研究で何か検討にない順が発見されたりするのではないかとちょっと期待してしまう。
最後は、△4七香から△3三銀が決め手で、さすがの羽生名人も粘りようがなかったようである。実際棋譜解説でも分かりやすい寄せの手順が解説されていて、「これなら私でも後手で一手勝ちできそうだ」などと、生意気なことを考えて見ていたら、最後▲5ニ銀に△同玉だと頓死ですか。「大逆転将棋」なら絶対喰らっている。本当に将棋は最後の最後まで落とし穴があるので、あの番組で腕自慢のアマ強豪がプロに手もなくひねられているのも無理ないと思う。
感想では、羽生名人は構想段階iについて色々反省していた。あの将棋が、構想に問題があって、その後ずっと苦しめの将棋だったなんて、全然見ていて想像も出来なかった。それも、ちょっとした歩をつく順番、指し手の微妙な一貫性に問題があって、苦しめの局面にしてしまったとのこと。現代将棋では、序中盤でも本当に精緻な構想、組み合わせが求められるものなのだと感心した。
本シリーズは、終盤まで均衡を保ちながら、実は二転三転するという将棋が目立つが、本局は終盤は両者にミスはなく結果的に後手がきちんと勝ちきったようである。最後は差が開いたが、内容自体としては充実した一局だったのかもしれない。
郷田九段は、名人戦以外では絶不調だが、名人戦での内容については素晴らしいとしか言いようがない。むしろ、羽生名人の方が、相変わらず高いレベルのパフォーマンスを維持しながらも、微妙な手の狂いがあり、(あくまで羽生としては)絶好調とはいえない状態なのだろうか。羽生名人に対してものすごく高望みをするファンの見方だが。
将棋の内容については、本シリーズは、最近のタイトル戦の中では一番満足できるものになっている。なかなか均衡が崩れないせめぎあい、本局でも出た郷田の長考に象徴される徹底的に考えて盤上の真理を格調高く追求しようとする姿勢。なんとなく、今後はこういうタイプのタイトル戦は、段々少なくなっていくような気がしないでもない。
改めて三番勝負になったが、最後までこういう見ごたえのある将棋が続いて欲しいと思う。

瀬川晶司四段がフリークラスから順位戦C級2組への昇級を決める

おめでとうございます。こういうのは時間がたつほど難しいはずなのに、よく粘り強くチャレンジし続けられたものだと思います。また、プロ入りの時もそうでしたが、今回もみんなが素直に瀬川さんを応援する雰囲気になっていました。人徳でしょうか。

産経ニュース 瀬川四段が昇級 プロ4年目で悲願達成

瀬川さんの話「プロに入ってからも試験期間が続いている感じでした。2、3年で脱出できると思ったけど甘くなかった。これから順位戦でトップめざしてがんばります」

「トッブ目指して」というのが素晴らしいですね。苦労を重ねて「トップを目指す権利をやっと得た」瀬川さんが発言すると重みがあります。

具体的経緯については、「瀬川晶司はなぜプロ棋士になれたのか」の著者の古田 靖さんのブログ記事に詳しいです。

適宜更新 瀬川四段、昇級おめでとうございます!

26歳であきらめたはずの将棋の名人への道が
39歳のいま、開かれた、ともいえます。
これは、まさに奇跡的なことじゃないでしょうか。

名言ですね。

ご本人も早速律儀に結果報告をファンにされています。このあと詳しい記事が見られるのでしょう。

瀬川晶司のシャララ日記  勝ちました!


世界コンピューター将棋選手権雑感

既報の通り、今回の選手権では下克上の嵐が吹き荒れ、従来の有力ソフトが下位に低迷して、GPSが優勝した。もっとも、GPSも前々からあったソフトということなのだが、今回の最大の特徴は「自動学習」ソフトが完全に席巻したことだった。GPSも「自動学習」を大幅に取り入れたことで、強くなったらしい。それには、先般ボナンザのソースコードが公開されたことが当然大きく関係している。ボナンザ複数台によるボナンザチルドレンというよりは、ボナンザ複合増殖体の文殊が、本家をさしおいて三位入賞したのも面白かった。去年まではトップの力を保っていた完全に人間の手だけによる激指とYSSは一気に決勝全体で下位に転落するという憂き目に会った。
もっとも「自動学習」といっても、評価関数の大元の部分は人間が決めて、それをどう具体的に局面に適応させるかをプロ棋士の棋譜などをコンピューターが「自動学習」するというやり方である。基本のコンセプトは人間が決めて、その実務をコンピューターが担当する図式。はたしてこの方式というのは、人間の指す将棋とどういう関係性を持つのだろうか。素人には分かりにくい問題である。
当然プロ棋士の棋譜を使って学ぶのだから、人間が指すようにうまく「真似る」というのが基本だ。しかし、その大元のコンセプトはプロ棋士が設定したものではなく、必ずしも将棋をブロのように理解しているわけではないプログラマーが決めている。
今週の将棋まるごと90分に勝又六段が出演して、コンピューター将棋について解説していた。例えば、玉の近くにいる金は評価が高い、逆にそっぽにいる金は評価が低いということを、徹底して考えさせるようである。比喩として言っていたのは、例えば、一枚の絵画の配置で、どこに花瓶があり、果物があり、背景がありといった絵の構図を全て数値化して計算するようなものだと説明していた。先ほどの金の位置のような分析を全ての駒の配置や関係を考慮して徹底的に「自動学習」させているらしい。
そのことで、従来どうしても純粋駒得至上主義で、本当に終盤の大切なところでも駒を損しないように考えすぎるところがあったのが、駒損を気にせずに人間のように終盤切り込むことが可能になったのだという。ボナンザが渡辺竜王戦で、切りこんなでいれば勝ちという手があったのだが、今ならその手をコンピューターが指すことも可能かもしれないとも。
要するに、コンピューター将棋の致命的欠陥だった評価関数部分が、自動学習を用いることで格段に進化して、人間の感覚にも近づいてきているということのようだ。その際、先ほど説明した駒の配置効率関係を分析するには、人間の力だけでやるのは大変で、コンピューターに自動学習させたほうが、結果が出ているということである。
さて、そういうやり方が人間の指す将棋と、果たしてどういう関係を持つのかという問題に戻る。
コンピューター将棋は、二つの原理で成り立っている。まず、現局面の形勢が良いか悪いかを数値化して判断する「評価関数」。それと、とにかく手をしらみつぶしに(あるいはある多程度選択して)、「手の組み合わせを出来うるかぎり全て調べる能力」。
後者の能力で、コンピューターは人間を凌駕しているわけだ。勿論、その場合、あくまで単純に数多く瞬時に調べる能力という意味であって、人間は不必要な組み合わせを読むのを省略する能力で対抗するわけだが。
「評価関数」については、(今のところまだ)人間が絶対優位である(と思う)。人間の場合は、いちいち厳密に数値化しなくても、ここが急所とか、それは筋が悪くて駄目だとか、「ある程度は」判断できる。特にプロのトップはそういう能力に長けた人たちだ。
それに対して、現在コンピューター将棋は、プロの棋譜を学んで人間に近いような判断が出来るように学習している。但し、その原理は人間的な曖昧模糊とした直覚的判断ではなく、あくまで理路整然とした幾何的な駒の働きや価値の評価である。
両者を比較すると、人間のほうがはるかに局面に対して柔軟に即座に反応できる、各局面ごとに考え方を変化させることも可能だ。融通が利くのである。一方、コンピューターの方は、常に首尾一貫した原理主義者である。あくまで駒の全体の価値や働きを整然と分析して、それを局面の判断基準とする。融通がきかない代わりに揺らぎがない。先ほど、人間は直感的に優れた筋を抽出できると言ったが、それは逆に言うと自らの経験にとらわれて、普通ではありえないが実は最善の手順を見逃す危険性もあるということだ。
両者には一長一短があると思う。通常考えているように、その種の判断では人間が絶対的優位にあるのではなく、「先入観」の一切ないコンピューターにも長所はあるはずなのだ。
ただ、繰り返しになるが、、そのコンピューターが学ぶよすがとしているのは、現時点ではあくまで人間の将棋である。だから、今言ったコンピューターの「先入観」のなさが、人間の棋譜を学ぶことで汚されている可能性だってないとは言えないだろう。
現時点では実現不能なようだが、本物の「コンピューター将棋」の純粋理想形は、将棋のルールだけを教えて、あとは「評価関数」の大元もコンピューターが自力で考えるということだろう。それと比べると、現在の状況は、出来るだけ数多く読むというコンピューターの基本的特性と、うまく形勢判断出来るように人間の棋譜を自動学習させて評価関数をなるべく人間らしくするという折衷型といえるかもしれない。徹底的に読むだけは読むけれども、判断能力については人間から学ぶと言うやり方。
だから、さらにコンピューター将棋がブレイクスルーして、人間と本当の意味で対抗する、あるいは超えるために必要なのは、いまだ残存している「人間味」を消去する知恵なのかもしれない。
無論、現在のやり方のままでも、各部分の進歩によって人間を超えてしまうことは可能なのかもしれないが、さらに未知なるコンピュータ将棋をみてみたいきもする。怖いもの見たさでもあるのだが。
先ほどちょっと書いたが、要するにコンピューターが評価関数を自分で考え出すことができるようになるかどうかといううのがポイントなのだと思う。仮にそのやり方が実現可能ならば、プロの棋譜を「自動学習」するにしても、なるべくそれを真似して人間に近づくという態度でなく、コンピューターが人間の将棋を「批評」し始めるかもしれないのだ。そうなったらほとんど悪夢だ。でも、幸いなことに今のところそんなことになる恐れはないらしい。
だから、我々はせいぜい「2001年宇宙の旅」を観ながら、人工知能のハルが人間のように感情を持ち出すのを見て慄然とするくらいですむというわけである。

名人戦第三局 羽生名人vs郷田九段

△8五飛戦法は不思議な将棋である。「詰みまで調べる」研究将棋でありながら、必ず前例と分かれて、なおかつその後は突然訳の分からない手探りの世界に突入する。
本局は後手の羽生名人が△5五飛の松尾流という少し古い作戦を採用。プロで出なくなるのにはやはり理由があって、初日のBS解説の森内九段は、先手を持ちたい、羽生さんどうするつもりなんだろうといううニュアンスの解説だった。
羽生が用意していたのは△5六同馬とする新手。この一手だけで展開や様相がが全く変わってしまうのが面白い。研究将棋で高速道路を快適に走り続けていたのに、急にけものみちに降り立つようなところがある。もっとも、大盤解説会を担当していた村山五段によると、研究会でそれに対して▲5六同飛の順をさらに研究済みだったというから恐ろしいが。郷田は▲同歩。
その後の△5ニ玉とか、△7六歩とかいう手は、いかにも羽生一流の手渡し。手渡しはプロの有効なテクニックだが、やはり羽生がそういう手を指すことにかけても、第一人者だという印象がある。但し、感想戦では、△7六香とする直接手が勝ったとのことだが、感想戦だけでは解明出来ない将棋の生きた流れが恐らくあって、△7六歩きは羽生らしい一手だったと思う。
やや羽生ペースだったようだが、この二人の場合は大きくは均衡が崩れない。▲6七玉上がりの最強の受けに対して、羽生もやや攻め方を間違ったらしい。いくつか他に勝る手順があったようだが、それを逃してついに▲9六角と攻防手と打ったところでは、郷田ペースに。
ところが、最後にドラマが待ち受けていた。羽生が△3七飛成と王手をかけたのに対して、▲5七桂、あるいは▲5七銀と受けておけば難しかったらしい。感想戦では郷田勝ちとされたが、その後の検討では、実ははっきりしないところがあることが判明したようである。と言うことは、外野で見ていたら、形勢がわりと二転三転したように見えて、実はあそこでも均衡が保たれていたということか。もっともよく調べればどちらが勝ちかはっきりする段階なのだろうが、プロがよってたかって調べてもすぐに結論が出ないという意味である。
さて、郷田の▲7八玉が「錯覚」の一手だった。堂々と角をとられたら後手玉が詰まない。郷田は正直に、どう錯覚したかの詰め手順まで言っていた。中継で井上八段がすぐに「錯覚」という言葉を使っていたが、郷田本人も対局直後にやはり自分で「錯覚」と言っていた。他にも表現がありそうなところだが、その辺はプロの感覚はやはり共通しているのだろう。もっとも、「相手玉がつい詰むと思い込んでしまった」ということだから。素人でも「錯覚」という言葉がすぐ思い浮かぶのかもしれないが。「錯覚良くない、よく見るよろし」(升田幸三)である。
それにしても、去年の名人戦第三局に続いての終盤の大錯覚。奇しくも当事者の森内が解説だった。森内は、去年の「見落とし」の場面で、本当に飛び上がって驚いていたのが映像に残っていた。森内はどんな思いで、郷田の「錯覚」を見たのだろうか。

BS中継は、せっかく鈴木環那が聞き手だったのに、国会中継で時間が短くて大変遺憾であった。でも、短時間内で彼女はすかさず存在感を発揮していた。朝食でたまたま羽生名人と一緒になったそうな。「普段は良く食べるんですけれども、緊張して食べれらなかったです」。(見え透いたかわいいウソ)さらに、羽生が納豆とオレンジジュースと言う画期的な組み合わせを採用していたと。羽生名人もそんなことまで暴露されては大変である。でも、羽生も鈴木ならきっと仕方ないと許すのだろう。「鈴木環那に気をつけろ!」
大盤解説、竜王・名人の山崎七段も登場。以前は深浦王位を毒牙?にかけていたが、今回は井上八段が相方。井上は流石に余裕綽々の対応ぶりだった。
井上 5年か10年前にはやった将棋ですね。
山崎 5年か10年。結構アバウトですね。まあ大した人じゃない。
失礼だよ。しかし井上は平然たるものである。控え室では、いつもきっとこれ以上なのだろう。他にも、山崎が井上に変化を知っているか、試すような行為をして悦に入っていた。しかし、井上は怒ることもなく受け流す。
山崎 来期、A級で、もしかしたら、万が一。
井上 いや、万が一もない。
山崎 相当失礼なことを言ったような気がするのですが。素直に肯定されてしまいました。
井上 私は山崎さんに勝ったことがないんですよね。
山崎 先生、A級にいかれてさびしいです。
控え室で、糸谷五段が、▲3三桂打を「筋が悪い」と言ったそうな。谷川先生が指した手なのだが、ご本人の目の前で堂々と言ったらしい。
糸谷は、さぞ真顔で言ったのだろうなあ。谷川が苦笑する姿も目に浮かぶようではないか。

藤沢秀行名誉棋聖の言葉

囲碁の藤沢秀行名誉棋聖が亡くなられました。

asahi.com 囲碁棋士・名誉棋聖の藤沢秀行さん死去

今日の囲碁将棋ジャーナルでも、藤沢先生の生前のスピーチが流れていました。

宇宙と同じで、碁は有限なんだけど無限に近いんですね。だから、過去分かった人はいないだろうと私は思うし。もうこの歳ですから、そうは頑張れないかもしれませんが。とにかく碁が好きなんですね。ヘボの横好きっていうんですかね。碁が好きで。今でも毎日碁を楽しく拝見させてもらってます。勉強と言うほどはやっていませんけど。本当に無限に近いんで。だから、アマチュアの人も我々も一緒だと。我々もアマチュアと同じようなレベルで。分からないんですよ。誰も。分かったような顔をしているだけの話で。

羽生名人が梅田望夫さんとの対談で、「(将棋の)途中の感じを観るには、アマとプロの差は、じつはあんまりないんじゃないか、という気がしているんです。」と言っていたのを思い出しました。本物のプロ、プロ中のプロというのは、限りなく謙虚になる、というよりは、ならざるをえないのではないかと感じました。

ご冥福をお祈りします。

観ること、楽しむこと、努力することー梅田望夫「シリコンバレーから将棋を観る」書評4



ハイハイ、もう梅田さんの本の書評は飽きましたか?(笑)すみません。もう今日でおしまいにしますから。さらに書きたくなったキッカケはこの記事。

Party in Preparation 『シリコンバレーから将棋を観る』を読む

梅田氏の本は、将棋を観る楽しみを狭い範囲の将棋ファンから広く開放しようとする試みである。この記事の筆者は、そういう梅田氏の普及努力に敬意を払いながらも、どの程度の人間が本当に将棋の「棋譜」を楽しむことが出来るのかについて、自らの将
棋ファンとしての経験に照らして冷静かつ具体的に指摘している。

「しかしそれほど(将棋が)強くならなくても、将棋を観て楽しむことはできる」(『シリコンバレーから将棋を観る』98ページ)とは言うが、その「それほど強く」ないレベルというのはどの程度か。著者は、「ある局面の最善手や好手やその先の変化手順を、自分で思いつけなくても、それらを教えてもらったときにその意味が理解」(同98ページ)できるレベルを想定しているようだが、それはアマチュア2、3級以上ではないだろうか。私の経験からも、プロの将棋の変化手順を理解できるようになるのは「アマチュア2、3級」というのは頷けるところである。ただ、「アマチュア2、3級」が「それほど強くない」レベルなのかとなると少々首を傾げざるを得ない。
このアマチュア2,3級程度というのは、将棋ファンならば納得できる数字だろう。梅田氏の本を読んで、いきなり名人戦のネット中継を見ても、少なくとも「棋譜自体」を楽しむのは流石に無理である。無論、梅田氏は棋譜自体以外の楽しみ方も提示しているわけだが、やはり将棋を観る楽しみの根本というのは将棋の棋譜を鑑賞することだ。筆者指摘の通り、アマ2、3級というのは、何の努力もしないで将棋を漠然と観ているだけでは到達できないレベルである。やはり、自分でルールを覚え、指してみて、詰将棋を解くといった基礎作業を重ねて到達することが出来るというレベルである。但し、そういう努力さえ惜しまなければ、多くの人間が到達できるであろうレベルではある。
どちらしても、将棋の内容自体を理解して楽しもうとするならば、入り口の敷居がある程度高いというのは否定しがたい事実である。それが、野球やサッカーを観るのとは根本的に違うところだ。

昔読んだ本にニコラウス・アーノンクールの「古楽とは何か―言語としての音楽」というのがある。アーノンクールは古楽器を使って演奏し、古典音楽が当時演奏された形も緻密に考証するいわゆる「古楽器派」の親玉的な存在である。(今は、もうそんな狭いくくりでは言えない人になってしまった。)実際、その演奏は、それまでのものとは全然違う。この本の中で、音楽を「聴く」という行為について、様々挑発的な論考をしている。
(現在手元に著書がないので、記憶だけを頼りに書くのでかなりいい加減なことをお断りしておく。)そもそもかつては現在のように演奏者(作曲者)と聴衆が明確に分離していなかった。演奏するのは音楽を深く学んだ専門家、それを聴くのは一般大衆という図式ではなかった。例えば、モーツアルトは自身の手紙の中で「通のために音楽を書いている」と語っている。当時の聴衆は、自らも楽器を演奏する専門的な知識を持つ人たちばかりだった。モーツアルトの手紙から面白い箇所が引用されていて、モーツアルトが効果を狙って書いた部分に聴衆が反応している様子が書かれている。それと比べると、現在は音楽が漠然と「聴く」だけのものになり、大衆消費財に成り下がっている、とか何とかかんとか。
これを読んで、学ぶことが多いと思いながらも、どうしても納得できないものを感じた。じゃあ、クラシック音楽というのは一部の貴族のためのものなのかと素朴に感じたものである。
しかしながら、クラシック音楽というのも将棋同様、本当に理解しようと思ったら、ある程度は楽曲の形式を学ぶ「努力」が必要なのは間違いない。そうしなくても例えばモーツアルトの局を深く理解できることは可能なのかもしれないが、間違いなく最小限のことは学んだほうが良いに決まっている。
つまり、専門性のある深みのある対象を本当に「楽しむ」為には、そのために「努力する」ことも、ある程度は必要なのである。現代人は、何かとすぐ安易に「批評」したがる。むしろ、現代人に必要なのは、何でもすぐ「楽しむ」ことを求めるのでなく、そのために「努力する」のを惜しまないことなのではないか。
その場合、音楽と将棋で違うのは、音楽の場合は努力しなくても理解できる(出来たつもりになる)ことである。実際、素人が専門家よりも音楽の深いところを聴き取る事はありうるだろう。しかし、将棋の「棋譜」についてはもっと条件は厳しい。流石に将棋のルールを知らない人間が、将棋の棋譜自体を深く理解するのは無理である。だから、将棋の場合、アーノンクールが理想とする状態が、最初から確保されているという皮肉な言い方も出来るかもしれない。
私自身、とても自慢できるような棋力ではないのだが、それでもある程度将棋を学ぶことでプロの将棋をますます面白く感じるということを実際に体験している。それこそ、苦労して学べば学ぶほど、「観る」楽しみが増す世界である。
とはいっても、現実問題として、大多数の人間には、将棋をそれほど深く学ぶ時間的余裕がない。梅田氏もその一人で、その中で、ご自身としてどれだけ「観る」楽しみを追求できるか試している。また一般の人間にも将棋を「観る」楽しみを知ってもらいたいと思ってこの本は書かれている。そして、これは将棋ファンとしての贔屓目かも知れないが、現在のプロ将棋というのは「棋譜」以外の付加価値部分でも、多くの人間が楽しむ要素が十分にあると思う。それについては、梅田氏の本を読んでいただければよい。まさしく、そういうことを書いている本なのだから。
但し、梅田氏も実際はブロ将棋を理解する「努力」を積み重ねている人だ。それは実際に将棋を指すという行為が中心でないにしても、膨大な時間をかけてプロ将棋を「観て」、関連書籍を読んでいる。やはり、何かを深く楽しもうとするためらは必ず努力する必要がある。これは、どうしようもないことだし、将棋に限らず、何についても言えることなのではないだろうか。

今回は、一将棋ファンとして梅田氏の「将棋ファン以外のための本」を読んだ。私は、将棋を通じて梅田氏の事を知り、ウェブ関係の著作もほとんど読んでいる。そうしたウェブ関係の書物でも、今回の将棋の本でも共通して感じるのは、梅田氏の「楽しむ」能力のとてつもない高さである。この本の中で、梅田氏は棋士たちを「純粋な存在」と言っているが、それは恐らく梅田氏本人にも当てはまる言葉のはずである。将棋ファンとて傍で見ていても、将棋を心から楽しんでいる様子が羨ましいし楽しい。
日本という精神風土では、純粋に「楽しむ」と言う行為が馬鹿にされがちなところがある。分かったような物言いと大人を気取ったシニシズムが横行している。それに対して、梅田氏のよく言われるオプティミズムは異彩をを放っている。あっけらかんとして明るい。しかし、特に今回の本では将棋ファンとしてよく理解できるのだが、梅田氏が「明るく楽しむ」ために払っている「努力」はほとんど法外と言ってもいいくらい凄いものである。そういう「努力」を感じさせずに「努力」を楽しみながら対象を心から「楽しむ」こと。将棋の本としてに限らず、梅田氏の本が語りかけてくるのは、そういうことなのだと思う。
梅田氏は、この本で「将棋」を心から楽しんだ。しかし、読者は、何もそれに従って将棋だけを楽しむべきと言うことではないだろう。対象が何であれ、何か心から楽しんでみたらどうだろう。そのための努力が楽しみになるくらい没頭してみたらどうだろう。梅田氏のこの将棋の本は、そのように読者に語りかけているようにも思える。


さて、私が書いた梅田本の書評については、全部または一部を、英語はもちろん中国語でも韓国語でもスペイン語でもフランス語でも、どなたが何語に翻訳してウェブにアップすることも自由、とします(許諾の連絡も不要です)。
誰もしねーよ。


羅針盤のきかない世界ー梅田望夫「シリコンバレーから将棋を観る」書評3

梅田との対談で、羽生は現代将棋の一種の「分かりにくさ」について、様々な表現を用いて語っている。この本は将棋ファン以外でも楽しめるように書かれた本なのだが、将棋ファンとしてはあの部分が大層スリリングで面白かった。
最近片上五段が、ブログで現代将棋について論じていた。まるで羽生=梅田対談に呼応するかのような内容である。

daichan's opinion 将棋の「奥」について

現代将棋では、序盤の定跡を徹底的に体系化して解明したり、またその延長で中盤・終盤まで通して明快な法則性にのっとって勝ちきる技術が追求されてきた。その先駆者が羽生である。ところが、現在進行中の将棋では、そうした法則性を見出すのが難しくなってきているというのだ。
具体的には、後手番でいきなり角を交換したり、乱戦に持ち込むことで、「高速道路」の定跡からいきなり降りて「けものみち」を歩くように仕向ける。
実は将棋界では、先期に歴史的な出来事が起こった。それまで常に先手の勝率が5割を超えていたのが、初めて後手版の勝率が五割を割ったのである。その大きな要因が、後手番での「けものみち」戦法といわれている。

 しかしおそらく、法則探しの旅にはある程度「ケリがついた」。そしてこれからは例外探しの旅が始まる。否、もう始まっている。
 例外を掘り当てるのに必要なものは、たぶんすこしの勇気と、直観と、そして大量の読み。見たこともない局面において頼れるのは読みしかないから。そして将棋というのは原理的には、解にたどりつけるはずのものだから。たぶんこれからは「いくら時間があっても足りない」ような局面を前にする機会がどんどん増えることだろう。

片上は東大出身の理論派若手棋士である。「高速道路」の整備を徹底的にしてきた世代の若手が、現代将棋に対してこうした認識を示しているのは、とても興味深い。
ここまで読んで、梅田本を読んだ人ならばすぐ気付くだろう。これこそ、対談で羽生が盛んに言っていたことだと。羽生の表現は相変わらず巧みで多様で面白いのだが、一箇所だけ引用してみよう。

羅針盤がきかないんですよね。
(中略)
いや・・やっぱりその、いかに曖昧さに耐えられるか、ということだと思っているんですよ。曖昧模糊さ、いい加減さを前に、どれだけ普通でいられるか、ということだと思うんです。


その際大切なのは、羽生は最初から将棋をそのように訳が分からないものと考えていたのでは決してないということである。むしろ、従来の力勝負重視の将棋に対して、革命家として大改革を唱え、徹底的に合理的な作業を積み重ねて、将棋を出来うるかぎり法則的体系的に解明しようと努力しようとしてきた棋士なのだ。その辺の事情については、梅田が第一章で解説している通りである。
従来の将棋の歴史を単純に図式化して説明すると次のようになるだろうか。

第一段階 過去の名人達の時代
将棋は研究ではなく、最後は個人の力がものをいう。序盤研究よりも中盤終盤が大切。また、将棋の指し方に、人間的な美意識
を求め、穴熊などは邪道として名人が指す戦法ではないとされる。将棋と人生・その棋士の人間性には、大いに関係があるとされる。

第二段階 高速道路を徹底的に整備する時代
序盤の作戦は将棋においてはきわめて重要。また、その体系的な研究もすべき。羽生の「羽生の頭脳」全十巻がそれを象徴する。中盤終盤も、ある程度のパターン化法則化は可能で、それもできうるかぎり行う。旧来の美意識などにはとらわれず、可能な戦
法は全て追求する。将棋と人生は全く別物。とは、この時代の羽生の有名な言葉。

第三段階 けものみちの時代
体系化の作業が徹底して行われた後、むしろそこからこぼれ落ちる指し方にプロ棋士が生きる道を求めだした時代。序盤の高速道路の定跡をそのまま進むのでなく、いきなり見たこともないような局面に導き、そこでは各個人の力が問われる。しかし、あくまで合理的な序盤知識やある程度されたパターン化された終盤技術を、ほとんどの棋士が共有しており、差別化は難しい。本当に個人の創造性が問われる段階。

断っておくが、この分類自体、極端な単純化を行ったものであり、なおかつ内容自体も全く違う見方が可能である。また、時代区分自体明確でなく、例えば羽生などは第二期の時代から、現在をビジョナリーとして予知するような発言もしていた。
つまり、現代将棋は、のっけから非合理を求めているのではなく、徹底的な合理化をやりつくした末に、突如出現したようなカオス状態なのである。だから、第一期の名人が「人生と将棋は関連がある。」というのと、羽生が同じことを言うのでは、全然然意味が違う。
大風呂敷を広げるならば、これは将棋の世界のみならず、恐らくどんな世界でも起こることのはずである。徹底的に合理性を追求すること、そのことで体系的に建築を築き上げようというのは、基本的には全世界で起きたことである。その価値には計り知れないものがあるし、その意義を否定するのは馬鹿げている。確かにそのことで「世界は進歩する」。しかし、そういう追求には、必ずといっていいほどどこかで壁にぶち当たる。いくら追求しても分からない部分が出てくる。
将棋以外の世界のことと対比して言うと、どうしようもなく通俗的な話になりそうなので、やめておこう。ただ、将棋の場合、あくまで根底には勝たなければならないという鉄則がある。哲学的に遊んだりしていたら、あっという間に100連敗くらい喫してしまうだろう。そういうきわめて厳しい勝負の世界で、合理化の追求のはてに、そこかこぼれ落ちるむものが見え出しているというのは、やはり興味深いことだといわざるをえないだろう。
必ずしも、プロ棋士全てが、意識的にそういうことを行っているわけではない。だから、それを説明する人は必要だ。梅田もその一人だろうし、また羽生が何よりも凄いのは、プロ棋士でありながら、明らかに世界に対する感受性や直感を兼ね備えていて、それを極上の言葉で表現する能力を有していることなのだ。
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