2009年12月

朝日杯 木村vs佐藤和俊 ー 名局と名実況

Merry Christmas!
朝日杯の対局が連日行われているが、本日の木村vs佐藤和俊 は千日手指し直しの壮絶な戦いとなった。特に指し直し局は名局かつ名実況(担当 銀杏記者)で、将棋ファンにとって素晴らしいクリスマスプレゼントになった。

朝日杯中継サイト
木村一基八段 − 佐藤和俊五段(木村一基八段 − 佐藤和俊五段(指し直し局)

終盤で千日手となり、両者最初から手一分将棋。(以下コメントは全て銀杏記者による。)
初手から1分将棋で秒読みというのは、記者も初めての経験。不思議な感じがする。
千日手局は、先手木村で後手佐藤のゴキゲン中飛車になった。後手の佐藤が二手目にいきなり△5四歩としたのが駆け引き。これは普通に△3四歩だと▲6八玉の「ゴキゲン封じ」があるためである。以下普通のゴキゲンの形に。
これで普通に戻る。現代将棋は2手目、いや、初手の段階から駆け引きがあるのだ。
木村は▲7八金方の再流行の対策を採用。本譜のように、先手が馬を作る形になるのが定跡手順なのだが、それでも先手有利ではなく、後手も十分に指せて勝率もむしろ良い。現代将棋の特異な感覚を象徴する形である。
先手は馬を作ることに成功。しかし、不思議なことにこの局面は先手の8勝16敗(9筋の端歩の突き合いがないものも含む)とダブルスコアになっている。
馬を作ったものの、後手に2筋を押さえられるのも大きいということだろうか。不思議な局面ではある。
銀杏記者は、このように千日手局でも、少しも慌てることなく将棋の内容、現代性のついてしっかり触れながら実況を進めていく。
指し直しで両者最初から一分将棋なので、「トイレ問題」も発生する。それをっしかり実況しているのが実に面白い。
佐藤が席を立つ。1分将棋では一番の決断。特に銀沙の間はトイレから遠いだけになおさらだ。
10数秒後、木村が指す。そして、木村も席を立った。
こちらは1分将棋での手筋。自分は時間が切れるリスクが少ない。
佐々木三段は初めての経験だったのだろう。「読んでいいんですか」と記者に聞いてきた。もちろんOKだ。
木村が指して、40数秒後に佐藤が戻ってきた。席に着いたときに「50秒、1、2、…」と佐々木三段。
佐藤の勝負手(?)は成功した。
生対局ならではである。結果的に成功はしたが、佐藤が帰ってくるのがあと十秒遅れていたらジ・エンドだったわけである。なんともスリリング。
さらに、途中で再度千日手かという局面も発生。大変だ。
▲同飛△4五銀▲3四歩△同銀▲3八飛…。ん?また、千日手か???
クエッション・マークに実況者の心の叫びが聞き取れるではないか!
さらに、佐藤の猛攻を木村がいかにもらしいギリギリの受けで凌ぐというすごい展開になったのだが、ここで銀杏記者の名言が飛び出す。
(木村の)真剣白羽取りの現場を見ているかのよう。
すさまじい応酬が続いている。
これを後で考えて書いたのでなく、秒読みの最中でコメントしているのだ。両者の鬼気迫る対局につられて、銀杏記者にも将棋の神が舞い降りて憑依した一瞬と言えるだろう。
その後も迫力満点の攻防が、いつ果てるともなく繰り広げられる。記録係も大変だ。
記録係の佐々木三段も疲れの色が見え、秒読みの声がかすれている。
記者は、頑張れと心でエールを送る。
壮絶な現場の雰囲気が如実に伝わってくるではないか。
最後は視力を振りしぼって佐藤が勝ちきった。第二局開始予定時刻をはるかにこえてしまっている。
※2回戦があるため、木村が佐藤に気遣って感想戦はほとんどなかった。△1九角成▲3四飛のあたりは先手が良かったと木村は駒を片付けながら話してくれた。△5二金打でとも。また、佐藤は△6六とでは△6六飛が良かったと話した。
悔しいはずの木村だが、決して相手に対する配慮を忘れない。またしても木村の勝負師としてはマイナスかと思え目ほどの優しさが自然に発露した瞬間である。そして、それを淡々ときちんと伝える銀杏記者。
佐藤はこの勢いをかって、二回戦でも深浦を破ってベストフォー進出。大したものである。なお、その対局の実況も銀杏記者が担当している。
名局があり、その素晴らしさを生の厳しい状況で過不足なく伝えうる実況の名人芸が助けた実例といえるだろう。

再度金子金五郎の加藤一二三分析について(追記アリ)

梅田望夫さんが、今度は金子金五郎の加藤一二三分析を集中的に紹介されている。加藤一二三ファン、将棋ファンにはたまらない貴重な資料である。
本来、これを元にプロ棋士や専門家に論考してもらいたいところだが、とりあえず一将棋ファンとしての感想を記しておく。勿論、素人の私には本来無謀でとてもではないが手に余る作業なので、間違い・勘違いもあるかもしれないことを、あらかじめお断りしておく。

梅田望夫のModernShogiダイアリー 金子金五郎語録(12) : 金子の加藤一二三論(1)

梅田望夫のModernShogiダイアリー 金子金五郎語録(13) : 金子の加藤一二三論(2)


これらを読んで感じるのは、金子が観察した当時の若き加藤一二三には、現在とは全く異質なものがある一方、きわめて本質的な部分では現在の加藤一二三のレイゾン・ディトール(存在理由)とでもいうべきものが既に確固たるものとして存在している。。金子がすごいのは、極めて具体的に将棋に即して論じながら、加藤の人間そのもののあり方、大げさに言うと魂の傾向といったものすら透視していることである。
若き日の加藤は、終盤に才気煥発な着手を連発するタイプだったようである。これは、現在のイメージとはちょっと異なる。
金子はそれを、「加藤の本領は中終盤の乱戦にある」とか「中盤戦から漸次終盤に入るが加藤は多くの敵手の予測されぬ奇手の連発で棋勢挽回乃至一打逆転で成功している」とか「中盤以後に対手の予想しない飛躍した手がとびだす」とか「中終盤の荒業的なもの」と表現している。
但し、単純な乱戦将棋ではなく、基本的な性質は「積み重ね」の将棋でありながら、そういう側面があったということのようである。
一方、加藤のその後の全盛期においては、そういう鋭さというよりは、序盤で築いた優位を派手ではないが重厚で確実で力強い手を積み重ねることで堂々と押しきるというイメージである。
そういう変化の原因には、大山の影がちらつく。加藤は、若くしてA級に昇りつめて名人に挑戦するのだが、大山の壁はとてつもなく厚かった。加藤の若き日の対局写真を観ると、眉目秀麗のクールな美男子、とても涼しげな様子で、現在の全力集中型とは大分感じが違う。
実際、加藤自身がこのような意味を語っていた記憶がある。
自分は若い時は、将棋はそんなに力まないで指すものだと思っていた、それでも十分勝てた、しかし大山と戦ったり経験をつむことで、将棋がそんなに簡単に勝てるものではないことが理解できてきた、従って全力を傾けて対局に臨むようになった、と。
それが現在に至るまで続いている加藤一二三スタイルである。梅田さんも紹介されているが、五味康祐の表現を借りると「大山に町人根性でいたぶられ」た結果、対局姿勢も棋風も変更せざるをえなっかたのだろう。金子も、大山と戦う前から既にA級で、加藤にそういう変化の兆しがあったことを指摘している。
加藤がA級にはいるとともに、序盤の芸が中終盤の荒業的なものとおよそ異った細かい将棋をみせるようになったと思う。だいたい序盤の研究をはじめると、中終盤は序盤の延長であるとする考え方が強くなってくるものである。だから、加藤が本来的に所有していた荒けずりな中終盤の性格が、序盤の科学的な考え方というものに影響され、変化することは進歩を意味する。が、変ぼうを遂げる間の過渡期においての動揺が忍び寄ってくることも考えられる。なぜ、このようなことを述べたかというと、こんどの名人戦の第三局で加藤が勝ち将棋を逸していることについて、何か上述のことと関係がありはしないかと、ふっと思ったからである。勝負というのは理外の理という原因があってきまることが相当に多い。ここでいう理外の理とは、表面に現われない精神面のことであるが、若い加藤にはまだ彼が本来持っている荒けずりな指し方を抑制していると、そこに精神的な不調和が訪れることがある。それが表面に出てきて第三局の敗因をなした、という想像である。
加藤には、升田のような繊細な序盤感覚がないというのが金子の分析なのだが、勿論加藤が序盤研究をしなかったということではない。それどころか、この後、加藤は居飛車党の先輩山田道美の影響もあって、対振り飛車の徹底的な序盤定跡研究に打ち込む。それは、やはり大山相手だと、何の工夫もなく指して終盤の才気煥発ぶりだけでは勝てないと分かったことも関係しているのだろう。矢倉においても同様である。ただ、加藤の研究というのは、実に堂々と相手を力で打ち破るという性格のものであり、対振り飛車なら、棒銀をはじめとする急戦で堂々と仕掛けて戦果を挙げて相手を打ち破り、矢倉でも積極果敢に攻め込むという調子であった。将棋を単純明快に考える「古典主義者」加藤の面目躍如である。
ただ、金子が既に若い日の加藤をみて指摘しているのは、序盤の感覚は単に研究すれば会得できるものではないということだ。
序盤技術というものでも中終盤と同じく必ずしも、経験や研究のみで得られるのでなく、先天的なカンというものがむしろ基礎になっているというのが筆者の主張である。この仮説に立ってみると加藤がA級に入った場合、ねらわれるのは序盤であるといえそうな気がする。
特に現代将棋の序盤感覚においては、素人には分かりにくい晦渋な押し引き・駆け引きがあり、まるで騙しあいのような繊細な感覚が要求されるようである。そういうものが、おそらく加藤の性質には合わないのではないだろうか。加藤は、今でも昔以上に努力を続けていると語っている。序盤研究も独自に行っているが、いわゆる現代的な序盤感覚とは違う、単純明快に相手を打ち破ろうとする研究を続けているのではないだろうか。また、加藤が共同研究ではなく、基本的には一人で自分で考えて研究していることも関係しているだろう。それが、善悪ではなく、あくまで加藤スタイルなのである。
金子は、加藤が本格的な序盤研究に取り組む時代の前に、さらにその後に加藤が研究はしていてもいわゆる純粋な序盤将棋が好きになってから 八割の力の駆け引き上手とはいえない現在の時代を予見していたかのようである。一つ時代をまたいで、遠くに射程を置いて予言しているかのようだ。
しかし、金子の分析で何と言ってもすごいと思うのは、加藤の将棋や人間の本質ー時代の変化・年齢の変化とともに当然大きく変遷していく中でも核として不変な部分ーを鋭く見抜いていることだろう。
一二三の将棋は率直簡明で複雑な組立て方に精力を投入しない。
今の加藤八段は青年の素直さの中に「ただ、われ将棋するのみ」といった、ドライな面があるように感じられる。昔流の「心」といったものを先に出さないのがこの世代の特色というものだろうか。
すこしほめすぎのようだが、加藤君の対局ぶりをみていると"達人"という感じに近いものをうける。考えているときでも苦しんでいる様子もなく、また、自分の着想を妙に気負う風もない。真面目(まじめ)でいながら、よそ行きも普段着もない態度で一貫している。こういうと大山名人に似ているように思うだろうが、大山には何か一種のくせが底にひそんでいて、それが強味を構成しているように思える。これに比して加藤は陽性であり、表口から名乗りをあげている将棋であり、対局態度もそうだ。
特に、最期の引用は、そのまま現在の加藤一二三にあてはめても全く違和感がない。名評といっても構わないだろう。
二十歳の頃の加藤一二三を見て、ここまで本質を予言者のように見抜いた金子金五郎がすごいのだろうか。それとも、金子金五郎に既にそういうものを感じ取らせた加藤一二三の唯一無比な強烈な個性、決して変わることのないまっすぐな将棋に対する姿勢がすごいのだろうか。
多分、その両方なのだろう。

(追記)加藤先生の若き日については、こちらの記事が紹介されています。私のおぼろげな記憶も、もしかしたらこれと関係しているのかもしれません。

将棋が好きになってから 八割の力

金子金五郎の加藤一二三分析

梅田望夫さんは、ブログでシリーズとして金子金五郎語録を紹介されているのだが、最新回はとりわけ面白く興味深かった。

梅田望夫のModernShogiダイアリー 金子金五郎語録(11) : 金子の将棋史観と升田幸三

金子が、升田の将棋の理論的革命性、その序盤戦術の評価、木村などの旧来の将棋観を乗り越えた歴史的必然性などについて述べている。金子の本質を掴み取る慧眼に驚く。升田将棋の革新性については現代棋士たちの多くも気付いているところであり、羽生や渡辺といった現在のトップたちが、升田将棋に新鮮な驚きを感じて、おのおのが升田将棋から影響を受けている。その本質を同時代にあって、金子は極めて深いレベルーそれは、ほとんど哲学的といっても構わないーで把握しているのだ。
また、升田も、金子の序盤作戦を高く評価していたことも、この記事では紹介されている。
それらについては、梅田さんのブログを読んでいただくのにこしたことは無いのだが、今回私が特に取り上げたいのは、金子の加藤一二三分析である。
そのときにあって現われたのが加藤一二三、二上等の二十台の人々であるが、加藤(一)の棋風をみると近代将棋といわれた木村、花田や筆者達が共通に持つ将棋観をずっと昔に飛び越えた古典に属する指し口が感じられてならない。升田も三代宗看の棋風が好きだといっていたが、加藤(一)君には伊藤印達(詰将棋の煙り詰の作者看寿の兄)を思わせるものがある。筆者はいつか本誌で加藤君の穴は序盤の感覚がすこしわるいところにあるという批評をしたが、このことは、「古典に流れている思想――将棋観――が先天的に加藤にあって、それが細密な分析に基礎を置く今の将棋を知ることを妨げているのだ」といえないだろうか。

つまり加藤(一)にある個性が強くて今の将棋を受け入れることを排除してしまうということである。しかし、この排除作用を受け入れようとする個性的な努力でもあるかもしれない。(一)君は今、その闘いをしつつあるのだと思う。
木村をはじめとする「戦前派」を、升田の「戦中派」がラジカルに乗り越えていったという文脈の中で、さらに若い加藤のことを紹介している部分である。
現代の読者は、金子が加藤一二三の本質を実に誤ることなく的確に射抜いていることに驚きを禁じずにはいられないのではないだろうか。
升田の理論、序盤作戦は現代にも通じるものがある。ところが、加藤一二三の場合は、升田とは異質であり、さらに戦前派の木村さえ通り越して、江戸時代の「古典主義」に通じるという。まさしく、それは我々が現在の加藤一二三の将棋を見て感じていることではないだろうか。
ほとんど頑なと言ってもいい序盤作戦へのこだわり。現代将棋では、飛車先不突き矢倉が最早常識中の常識であっても、飛車先の歩はまず突くものだという、ほとんど信仰に近い信念。対振り飛車に対して、居飛車穴熊など、とにかく玉を固めるのが圧倒的な主流の現状の中で、ひたすら急戦によって振り飛車を打ち破ろうとする、頑なかつラジカルな原理主義。ほとんど一人だけ棒銀を採用し続け、結果的に藤井流△4二金の決定的対策を生み出させる姿勢。棒銀に対する決定版の対策を生み出させたのは、現代の居飛車党ではなく加藤一二三なのである。それは、決して加藤にとって不名誉なことではなく、藤井のような本物の振り飛車党(と敢えてここでは言っておく)にとって、加藤は懐かしい恋人のような存在であり畏敬すべきライバルのはずである。
例えば、矢倉の飛車先不突きの立場から言えば、加藤の指し方ははっきり時代遅れだろう。飛車先を保留することで、自分の作戦に含み、選択を持たせるというのが、現代将棋の本質である。そういう考え方からすれば、加藤の飛車先を必ず突く指し方は、合理的な根拠がないということになってしまうかもしれない。
しかし、恐らくそこには加藤なりの「江戸時代にまで遡る」古典主義の感性が裏打ちされているのだ。飛車先を突かないと何かおかしいという、ほとんど直感的な将棋に対する形式感。勿論、合理的な現代将棋においてはいとも簡単に否定されかねないわけなのだが、加藤はそんなことはお構いなしに、将棋に対する深いところに潜在する思想を直感しているような気がしてならない。
指し将棋においては技術革新が著しく、「昔の棋士より今の棋士が強い」というのが定説である。実際、加藤も若手たち相手に厳しい戦いを余儀なくされているのが現状だ。それは、事実は事実として認めるべきだろう。
しかし、一方詰将棋の世界においては、伊藤宗鑑看寿の詰将棋は、現代においても不滅の輝きを今でも失っていない。そういう、最高の頭脳が残した指し将棋には、おそらく深いところで決して失われない生命力のようなものがあるはずだ。序盤作戦等では、特に現代の目ではおおらかでぬるいところがあるのかもしれないが、例えば終盤などでは現代棋士が見ても驚嘆する手順が残されている。それは、トップ棋士たちが、江戸時代の将棋の終盤を分析する企画で現に実証されている。
さらに言えば、終盤だけてなく、かつての最高の頭脳が残した将棋の本質的な形式感には、決して現代将棋も看過しえないものが残されているのではないだろうか。それを、まだ現代の将棋では解明把握する力がないだけで。加藤一二三は、無人の荒野をただ一人行くごとく、そうした古典的な形式感を直感的に把握して、現代においても実践している人なのではないだろうか。
将棋は単純な勝ち負けの勝負である。それが良い所でもある。だから、加藤一二三の将棋を現代の目で冷徹に観察批判する作業もあっていいが、しかしもっと深いところで加藤一二三の将棋の本質的な価値観を摘出する作業だってあっていいはずだ。
チェスの世界では、カスパロフが過去の名人たちを敬意を込めて分析するという作業を行っているらしい。将棋の世界でも、例えば羽生善治が、現代将棋の技術的成果を踏まえながらも、加藤一二三のもっと本質的なところでの美点を分析するといったことがあってもいいはずだ。遠い将来の夢として期待しておこう。
とにかく、金子は、現在の加藤一二三を見てではなく、まだ二十代の加藤を見て、これだけの本質を喝破している。それだけで、金子の分析力の凄みを証明していると感じた。
加藤一二三は、つい最近朝日新聞のインタビューを受けてこんなことを言っている。
将棋は戦いであると同時に人に感動を与えられる芸術だと思っています。モーツァルトは200年たっても人々に感動を与えている。私の将棋もそうありたいと願っています。
そう、加藤一二三はまるでモーツアルトの音楽のように将棋を指しているのである。昔から今に至るまで変わることなく。

藤沢秀行と坂田栄男の封じ手をめぐるせめぎあいーNHK「迷走〜碁打ち・藤沢秀行という生き方〜」より

私は囲碁のことを何も知らない。でも、NHKの藤沢秀行特番はとても面白かった。
藤沢秀行が愛したという「ベサメ・ムーチョ」をバックに、藤沢を偲ぶ会で男女がペアでで踊っている。男はブラックハットを着こなしたお洒落なダンサーだ。とても優雅な動き。あっ、カメラが近づいたら、なんと武宮正樹先生だ!
というように秘蔵映像が次々に出てきて飽きさせない。
特に、相米慎二監督が撮ろうとしていたが急逝によって果たせなかったたという「藤沢秀行の家族の物語」。ご家族の証言を聞くと、実際に周りにいたら大変だったとろうとは思うが、本当に誰かが映画化して欲しいと思うくらいだ。
その中から、昭和38年度の名人戦、名人藤沢秀行と本因坊坂田栄男の頂上対決における封じ手をめぐるせめぎあいを取り上げてみよう。
相米が撮ったという藤沢秀行の秘蔵映像とともに、坂田栄男もインタビューで登場する。
ボクはね、秀行のね。ちょうちん持つような番組なんか出たくないんだけどね、本当は。
秀行はね、無頼派の棋士という、最後の無頼派、無頼派っていうのは嫌いなの僕は、正反対だよ。
いきなり、こんな調子である。歳をとるとともにますます内面が外面や言動にはっきりとでてきてしまっている強烈きわまりない男がカメラの前で喋っている。
名人戦当時の坂田の写真が映し出されている。既に若い時から、猛烈な勝負への執着が表情に現れていて壮絶である。むしろ、藤沢の方が、見た目だけだと普通の人である。
秀行とはね、不思議な因縁があるんだ、
38年のボクと秀行の大勝負だよ。勝った者はね、即日本一なんだよ。二つしかないんだから。「名人」、「本因坊」。
しかも秀行とワタシは仲が悪いんだよ。これも有名だったんだ。だから、両方、舌戦の、今じゃ想像できないくらい、お互いにもうそのくらい大勝負だったんだよ。
坂田が二連勝した後、藤沢が三連勝。
あのぐらい苦労したとき、後にも先にもなかったね。ボクが三連敗した時は大ショックだよ、ボクは。どうしても、このままじゃ勝ち目はないと思ってね。それからがボクとしては本当に命を削ったね、次の対局までに。
そして、第六局の封じ手場面で事件は起きた。藤沢は語る。
勝負と碁っていう・・結びつけて考えた場合に・・・。
たとえば、勝負に徹するっていうことになると、たとえば、二日でしょ、だいたい挑戦手合いって。五時半なんですよ、打ちかけ(封じ手)がね。1分前ぐらいね、それまでわざと考えといて、時間引き延ばして瞬間的に30秒とか1分前ぐらいで、えらい難しい手を打ってくるわけですよ。
相手困るんですよ。
当時の橋本方円子の観戦記より
チラリとまた時計を見た本因坊が、やにわに石をつかみ、白50-2.
それを見た名人に、一瞬血がのぼった。恐らく自分に封じ手をさせようとしている相手の意図が怒りを呼んだのであろう。
やにわに石をつかむなり、50-3.
ところが、本因坊は、またすぐ50-4.
ここで一言、「頭にきた」と名人が言って腕組みした時、立会いの高橋七段が定刻をつげたのである。
将棋の世界だと、かつて名人戦で挑戦者の森内が封じ手の直前に着手したことがあった。しかし、羽生は怒った様子もなく、ほどなく自然に封じ手。一切波風は立たなかった。森内にしても、盤外作戦とかいうことでなく、単に封じ手をするのがイヤだっただけらしい。
一方、この二人の様子は凄まじい。藤沢は振り返って語る。
もう、あんまり言いたくないね、もう腹が立つことが山ほどある。
だから、そういうのも神経作戦の要素に加わってくるんですよ、盤上の。相手を怒らせる・・だって、20時間くらい顔つき合わせているわけでしょ、昔はね。(ふっふっと笑う)
坂田は語る。
あれも勝負の内だと思って・・気合負けしちゃいかんと思うから、それでああいうバカなことをやったんだ。
そして秀行は、おそらく怒りに震える尋常ではない気持ちの状態のまま封じ手することを余儀なくされる。その一手が、大問題で、結局敗着になってしまったのだ。
藤沢
だから、オレみたいに神経がピリピリしている奴は損なんだよね。図太い奴は、そういうの乗らないでしょ。(えっへっへっ)いや、勝負っていう面から言えばね。
坂田
考えてみるとね、あの勝負でね、やっぱり寿命縮めたね。
それからは それが最後と言ってもいいね、後で考えると、ボクが本当に碁を打てたのは。
すごく心身ともに、もうガックリしちゃった、参っちゃったんだよね。勝っても。
その後の第七局では、逆に藤沢が封じ手直前に打ってお返しをするが、結果は坂田に軍配が上がった。
当時の局後の坂田の笑う写真が映し出されるのだが、これがすごい。なんというか、謙虚に勝ちを喜ぶとかホッとするとか言うのでは全然なく、してやったり、どうだみたかといわんばかりに勝ちを喜ぶ笑顔。そこには敗者に対するいたわりのようなものは、ほとんど感じられないのだが、私はそういうところに坂田の凄みを感じてしまう。勝負の鬼、本物の鬼。
藤沢も、私生活などではとんでもない人だったらしい。手のつけられない荒ぶる魂ということでは、二人とも共通しているのかもしれない。しかし、秀行には、どことなく人間的な弱さの美しさのようなものも、そこはかとなく感じてしまう。
番組中で小西泰三八段がこんなことを語っていた。
(藤沢には)自分の形がない。虚像かもしれない。実際はすごい神経質で。自分の虚像をつくりあげることで、自分の実像を保っている、そういう部分が本人の中であったという気がする。
私は門外漢でお二人のことを、ほとんどよく知らないが、この番組を観ただけでも、そういう部分は直感した。藤沢の無頼は意図的に作り上げた部分もあり、それとはそぐわない部分を内面にもっていた人のような気がする。一方、無頼は嫌いだとと言い切る坂田の方に、本物の精神的無頼派とでもいうべき逞しい何者かが潜んでいたのではないか。勿論、これは私なりの勝負師坂田に対する最大限の賛辞のつもりなのだが。当たっているかどうかはしらない。
だから、おしまいなんだ。あけが最後なんだよ、ああいう勝負は。
ああいう勝負をね、するのは僕と秀行でオワリなの。
その坂田は、藤沢を偲ぶ界に自主的に出席した。
新聞で見たから、知らなかった。オレ、通知もらわないもん。オレが来るとは思わなかったもんな、向こうは。最期だから行ったんだ。
お別れだから、お別れだ、最期の。
車椅子ながら、今でもダンディで生命力に満ちた姿の坂田が偲ぶ会に登場してくる。趙治勲が近づくと、ネクタイをしめてあげるしぐさをして、「このままギュとやったら死んじゃうかもしれない。」と相変わらずおどけている。
坂田が、藤沢の遺影に近づいて、碁の石を打って捧げている。坂田はハンカチで口を押さえている。悲しげで目の表情は確かに「泣いて」いた。
そんなかつての仇敵の姿を藤沢はどんな思いで見ていたのだろうか。



藤井感想戦システム

昨日のNHK杯をご覧になった方も多いだろう。もしかすると、感想戦についてまたあのアホが何か書いているんじゃなかろうかと、本ページをのぞいておられる方もいらっしゃるのかもしれない。しかし、私も一応は人間らしい心を少しは持ち合わせているのである。さすがに藤井先生に対して悪いのでないかと。だが、そういう気持ちよりも、あの感想戦からにじみ出てくるほとんど人間のギリギリの形での悲しみや自嘲や誇りがない混ぜになったとても人間らしい光景に対する感動が上回って、こうして私に書かせているのである。というのは真っ赤なウソで、結局私はあの感想戦を心底面白がってしまったロクデナシに過ぎない。
芸術的な攻めの構想で圧倒的な優勢を築き上げた藤井が、信じられないようなウッカリの一手だけで一局をだいなしにしてしまった。そして、丸山がその手をとがめる当然の一手を指したのを見て、藤井は秒を読まれる中、即投了。肩を落として、まるで「ガックシ」が背広を着ているかのような哀愁の姿がテレビ上に映し出されていた。
具体的指し手については、勝又教授が来年「新手ポカ妙手選」で紹介されるはずなので、そちらを参照されたい。と、なんでこんな意地悪なことを書いてしまうのか、自分で自分がよく分からない。
画面では終局直後、藤井が丸山に話しかけている。
まぁ、こんなもんかね。大爆笑だね、しかし。
丸山も笑うしかないのだが、見る者は既に涙をこらえることが出来ない。
木村と矢内が入ってくる。藤井が木村に話しかける、誰かにものを言わずにはいたたまれないかのように。
いや、芸術的でしょう。
(木村)でも、攻めのつくりはすごく良かった・・。
しかし、オチがひどいね。
(今度は矢内を見て)
笑ったでしょ、これ、いくらなんでも。
しかし、矢内は表情を硬くしたままみじんも笑顔を見せない。木村と矢内の優しさ、心遣いがひしひしと画面を通じて伝わってくる。以下、藤井の悲しくもおかしい自虐節が炸裂し続ける。その場は笑いに包まれるが、笑いを取れば取るほど、藤井の姿が孤独で寂しくなっていくような空間。こういうのが、残酷なようだが、命がけで戦っているプロ棋士たちの尊い姿なのだと思う。
悪手にしても、悪手を指したいよね。(といって、飛車を分かりやすくタダで取られる場所に置く)
(木村が藤井の鋭い攻め筋を褒めると)こんなとこ、うまく指してもあんまり意味がないんだよね。オチがひどいね。しかし。
必勝なんですよ。必勝なのは分かっているんですよ。確かにね。頭では分かっているんですけど、体が反応しないんです。
よく見たら、桂をとるじゃん。ひどいじゃん、これ。なんで投げないの?なに、これっ。ひどいじゃん。一勝損しちゃったよ。
木村も矢内も笑いながらも、同業者として気持ちが痛いほど分かるのだろう、藤井への気遣いが美しい。
しかし、そんな中、丸山は常にいつも通りの丸山であった。勿論、丸山だって藤井の心情はよく分かっているに決まっているが、特に態度を変えたりしないのが、丸山の良いところである。
終盤丸山に△8六桂という強引に藤井玉に迫る手が出たのだが、
木村 玉頭桂がいやらしいんですかねー。
丸山 しかし、まぁ、なんでもないですからー。
といつもの丸山スマイルでおっしゃった。
その通りです。丸山先生。でも、藤井先生は、その「なんでもない桂」で動揺してやらかしちゃったんですよ。実際その通りだし、悪気など一切ないのでしょうが、そのお言葉は結果的に藤井先生に対する致命的なダメ押しになってしまっているのですよ。

ブログ紹介「将棋が好きになってから」

将棋が好きになってから

一昨日、塚田名誉十段の名言について記事を書きましたら、ある方からコメントをいただきました。ご自分でもブログをされていて、塚田さんについて記事を書かれているとのこと。実際に地下鉄で塚田さんをみかけられたそうなのですが、これが面白い。

ある朝、たまたま私鉄からの乗換駅で高輪台方面の電車を待っていると、並んだ列の間をじりじりと動いている人物が目についた。古びたショルダーバッグを肩にかけ紺色の靴を履いたその人は、周囲の非難めいた視線や迷惑そうな態度を気にする様子でもなく、少しでも前に進み、いち早く電車に乗ることだけを考えているようだった。
何じゃいな…と横顔を見て、心臓がドキンとなった。つげ忠男の漫画に出て来る町工場の課長さんのように見えるその人物は、誰あろう実力制第二代名人、故・塚田正夫名誉十段なのであった。

「地下鉄の屈伸戦法」より

「つげ忠男の漫画に出て来る町工場の課長さんのように見えるその人物」というのは知っている人には、たまらないでしょう。言い得て妙です。この後も続きがあっていいところなので、是非お読みください。中平邦彦さんの「棋士 その世界」ばりに、塚田さんの姿が彷彿としてきます。
そして、塚田さんがこういう方だったから「勝つことはえらいことだ」という人を喰ったような言葉が素直に口から飛び出してきて、そして誰もがそれに納得してしまうわけが分かるでしょう。
あまりに面白かったので、すごい勢いで過去の将棋関連記事を全て読破したのですが、他にもいくらででも素晴らしいのがあります。例えば、加藤一二三ファンの方、こんなのはどうでしょうか。

加藤一二三九段のときに
司会「加藤先生は休日などはどのようにお過ごしですか?」
加藤「えー、そうですね、ま、読書をしましたり」
司会「どんなご本を読まれるんでしょうか?」
加藤「えっ、そうですね、ま、宗教関係の本ですとか」
そんなやり取りがあって会場に笑いが起きたことだけを覚えている。
 
将棋の日?より

具体的に言わずに「ま、宗教関係の本ですとか」というのが、実に奥ゆかしくていいではありませんか。タイトルに「将棋の日」とありますが、このブログ主の方は、なんと第一回の将棋の日を実際に見に行かれていて、このブログに当時のことについてレポを書かれているのです。実際にどのような様子だったか、また舞台裏にどんな事情があったかなども、詳しく書かれていて興味深いです。それを淡々としたさりげない名文で綴られています。

観戦記者の東公平さんは、最近妙なことで有名になってしまいましたが、このブログでは、東さんが描き出したかつての懐かしい対局風景記事も紹介されています。例えば、これ。

よく生きてやがったな

最後の部分がなんともいえません。こんなことを書ける記者は。もういないのかもしれません。また、こんな書き方の対象となりうる棋士自体が、そもそももういないのかもしれません。勿論、現代の棋士には現代のよさがあるのですが、かつての一種の強烈なにおいのようなものを知っている人間は、どうしても懐かしさを覚えずにはいられないはずです。

ネットの世界は広くて深い。

「勝つことはえらいことだ」ー塚田正夫名誉十段の言葉

気まぐれにtwitterのアイコンに塚田正夫名誉十段のこの有名な名言を使ってみた。
塚田正夫名誉十段は、改めて説明する必要もないだろうが将棋の歴史上、重要な名棋士である。かの木村義雄から名人を奪い、大山相手に防衛も果たしている。また、詰将棋作家としても高名である。
しかし、個人的にはそのキャラクターの際立ち具合が忘れがたい。いかにも将棋以外では恐ろしく不器用であろう職人気質の純粋な将棋指し。超然として飄々としていかにも世間離れしていながら、それが全く作為めいてなく自然そのものなので、一般の将棋ファンからどうしようもなく敬慕されざるをえない人柄。
そうした塚田の人柄を私が知り、また最高に見事に活写していると思うのは、中平邦彦さんの名著「棋士 その世界」である。塚田名誉十段について書いた「永遠の名匠」から、引用させていただこう。
塚田九段ほど、職人的な風ぼうの人はいない。将棋という勝負の風雪を耐え抜いてきたやせた肩、強靭な根性。それは"名匠"と呼ぶにふさわしく、人を魅了ぜずにはおかぬ。ところが、本人はそんなこと一向にとんちゃくしない。人がどう思おうが、われ関せず。ひょうひょうと生きている。無垢というか、世俗をすり抜けるというか。塚田に会った人は、塚田が好きになる。うらやましくなる。
もうこの名文。名調子だけで、これ以上の説明は不要だろう。現代の棋士で言えば、宮田敦史五段が、かろうじて似たものを感じさせるだろうか。自分で個性的になろうなどと、これっぽっちも意識的な努力などしていないのに個性的ではいないではいれないタイプの人間。しかし、一般の人間から見て、決して拒否されることなどなく、むしろその自然で得がたい個性に誰もが惹かれずににはいられない存在。
タイトルの名言も、もし勝負にギスギスしているの人間がいったなら、もしかしたら嫌味かもしれない。しかし、塚田の場合、飄々としていて、むしろ勝負には恬淡なイメージすらある。しかし、そういう人間でも、プロ将棋の場合は全身全霊をこめて必死に戦わないと勝つことなど到底不可能である。ブロ将棋において勝つとは、本当に大変なことだ。
通俗的な道徳観ではこのように言われるかもしれない。将棋のように「勝った、負けた」で全てが決まってしまうなんて、なんて非人間的な野蛮な世界か、勝った負けたよりも人間にはもっと大切なことがあるのではないかと。しかし、ブロ将棋の精魂をこめたギリギリの戦いの前では、このような建前論は限りなくむなしい。将棋に勝つという単純極まりない結果にたどり着くまでに、どれだけ人間の極限的な努力と忍耐を必要とするか。
だから、将棋において「勝つことはえらいことだ。」それは、決して現代的で浅はかな適者生存、勝ち組・負け組みの二分法ではない。それどころか、「勝つ」という単純そのものの行為の中に、「勝敗」という結果などどうでもよくなるような、人間の極限的なありかたの尊さを内包している逆説的な表現なのである。
そして、それを今述べたように理屈っぽく言うのでなく、塚田はアッサリといってのけたのだ。
「勝つことはえらいことだ」と。
塚田流の名言は他にもある。「自身を持て」「勉強せいよ。」
バカバカしいくらい単純だ。塚田が言うとなんともいえない優しさと重みと味わいと俳味がある。まるで、種田山頭火の単純きわまりない自由俳句が、読むものの魂の奥底深くまで不思議に染みわたってくるように。

分け入つても分け入つても青い山

遠山雄亮「遠山流中飛車持久戦ガイド」(マイコミ)



目次
序章 基本図までと本書の概要
第一章 先手中飛車・5筋&角交換編
第二章 先手中飛車・5筋交換編
第三章 先手中飛車・5筋位取り編
第四章 後手ゴキゲン中飛車・5筋位取り編
第五章 後手ゴキゲン中飛車・角交換編
第六章 自戦記編


相変わらずプロ将棋ではゴキゲン中飛車が隆盛中だし、アマチュアにも愛好家・使い手は多い。中飛車関係の定跡書も多くでているが、また新たな一冊が出版された。
遠山四段は、明確な意図を持ってこの本を執筆している。
?従来は、中飛車関係の定跡は急戦関係の説明が中心になることが多かったが、本書では持久戦の形を中心に解説している。
?プロでも、現在ゴキゲン中飛車に対する居飛車穴熊の対策が大流行しており、そういった最新型関連の情報を提供する。
以上が、本書の骨子だと思う。ブログで自ら発信するなどネット活動にも精力的に関り、情報収集してファンの感じ方などにも敏感なようである。そんな遠山四段らしく、定跡書を書くにあたっても漠然とやるのでなく、他の定跡書との差別化や、一般読者が読み易いようにするなど、様々な細かい点で心配りをしている。
ともすれば定跡書というのは、プロが変化手順をとにかく羅列することになりがちである。一般将棋ファンのレベルだと、変化を追うだけで精一杯で、読み進んでいるうちに全体の構成が分からなくなったり、場合によっては読みながら前の部分を忘れてしまったりする。(これは私だけかも?)
本書では、序章で概観したり、あるいは各章末に「まとめ」を設置することで、読者が全体の流れ、重要なポイントを何度も確認できるようにしている。例えば、第一章では角交換型を解説しているのだが、その際に頻出の▲7一角の大切さを、少し口がすっぱくなる位に強調している。しかし、私を含めた普通のレベルのファンにはそれくらいで丁度いいくらいなのだ。「まとめ」の部分に限らず、普通の本文中でも、そのように読者の頭にポイントが入るように工夫して叙述しているのが分かる。
また、単に定跡手順の説明を無味乾燥にするのでなく、ゴキゲンあるいは振り飛車特有の感覚を説明しようとしている部分も多いと感じた。
前書きに次のように書かれている。
私もそうだが昔からの振り飛車党は派手な捌きとともにじっくりした戦いも好きで、実際に指す機会も多いと思う。
これは、アマチュア振り飛車党の多くが共感するところなのではないだろうか。個人的には私も「昔の振り飛車党」だが、ゴキゲンが大流行しているし面白そうということもあって手を出してみたが、じっくりした昔の振り飛車が懐かしくなるというところもある。従って、本書が中心的に取り上げている持久戦定跡をマスターすれば、従来の感覚の振り飛車党が、現代的な中飛車・後手ゴキゲンを今までに近い感覚で指すことが可能になるかもしれない。
やはり研究熱心な若手の振り飛車党だけあって、最新の研究成果も織り込まれている。戸辺五段も紹介しているが、例えば相穴熊の形で筆者自身が「この本でしか紹介していない」という形も掲載されている。特に、中飛車・ゴキゲンに対して居飛車が穴熊を採用するのは最新形なので力点を置いていて、中飛車先手の場合と、ゴキゲン後手の場合に章を分けて詳述している。
そもそも、先手中飛車・ゴキゲンが流行しだしたのは、居飛車が穴熊にしにくいというのが主眼だったのだが、居飛車の対策が進んでこうして居飛車穴熊対策を中心にする書物がでるようになったのも、時代の流れといえるだろうか。
対ゴキゲンの対策については、現在様々なものがあり、プロでは▲7八金型の復活や▲3七銀型急戦も流行している。本書では、趣旨上それらには触れていないが、第一章の角交換型で現代中飛車の醍醐味ともいうべき独特の手筋を紹介している。従って、本書は、今まで急戦等を学んだ人が持久戦をさらに詳しく学ぶための本であると同時に、現在のゴキゲン中飛車のエッセンスを学ぶという読み方も可能かもしれない。さらに詳しく急戦等を知りたくなったら、鈴木八段の本や将棋世界で現在連載中の勝又六段の講座にあたってみるという方法もあるかもしれない。
さらに、遠山オリジナルの△7二金戦法についても一章をあてて解説している。かつて、羽生さんがとても驚いた新手としてあげていたこともある手である。最近は余り指されなくなったのだが、別に居飛車の対策決定版が出来たわけではなく、ゴキゲンの他の普通の指し方が多いだけなので、戦法としては有効なままで、ゴキゲン党が変化球(というと遠山先生には失礼かもしれないが)として用いる参考にしても面白いかもしれない。
ゴキゲン中飛車の本なので、当然基本的には振り飛車側から見た定跡である。しかし、筆者は無理に振り飛車有利の変化にするのでなく、互角な変化は互角とするなど、居飛車党が読んでも参考になるように心がけているということである。特に、最新の居飛車が穴熊を採用する形については、そういう書き方をされていると思う。
自戦記の部分では、居飛車穴熊に対して、現在の最神型を先駆けするような形を遠山四段が指している一局も紹介されている。
なお、各章ごとの具体的内容については、こちらのプログが簡潔かつ分かりやすくまとめられているので参考にされたい。

将棋備忘録 【書評】遠山流中飛車持久戦ガイド

持久戦にテーマを中心に絞り、最新型にも言及しながら、場合によっては中飛車・ゴキゲン入門としても読むことの出来る一冊といえるだろう。

「コンピュータ将棋を用いた棋譜の自動解説と評価」について

今年度の世界コンピューター選手権で優勝したGPS開発者の金子知適先生が、twitterを利用した自動棋譜解説について論文を書かれている。

金子知適 「コンピュータ将棋を用いた棋譜の自動解説と評価」

大変興味深い内容なので、コンピューター将棋に興味がある方は読まれてみることをおすすめする。
その中で、具体的にプロ将棋を解析した内容について論じている部分があるので、将棋ファンの立場から簡単に感想をまとめておく。
 
4 実験結果:コンピューター将棋による実況
4.1 形勢判断がおおきく変化した局面の検証

4.1.1 控え室の評価と一致した局面

twitterでGPSやBonanzaや大槻将棋がプロ棋戦の自動解析を開始してから、我々ファンは中継を見ながらコンピューターソフトの読み筋や局面評価を参照することが可能になった。その際、特に個人的に印象的なのは、トッププロが人間ならではの大きなミスを終盤で犯してしまった場合に、ソフトが決して見逃さないということである。
具体的には次のようなことを何度も体験した。
?大きな疑問手がでて控え室がざわめく。「これはなんだ、だいじょぶなのか」
?ソフトの評価値を見てみると、直前の手から疑問手で評価値が大きく変動したり、プラスとマイナスが反転したりしている。
この論文中で挙げられている例のうち、竜王戦挑決第一局(図10)と新人王戦第一局(図11)については、どちらかというと分かりやすい一手バッタリである。この程度ならある程度のアマチュアなら、自力で理解できるかもしれない。
しかし、竜王戦決勝トーナメントの羽生vs片上戦(図9)の場合、かなり強いアマでなければ、すぐにはっきりした疑問手とは理解できないと思う。この対局の場合、確か渡辺竜王が控え室にいて問題を指摘していたので、我々ファンも疑問手だといわれて理解したという感じだったと思う。(但しプロにとっては、やはりすぐ分かるレベルのミスのようである。)
しかし、GPSは、この手できちんと評価値を変えていた。かなり高いレベルでコンピューターがプロ将棋を理解できているのだなと観戦していて感じた。正直言ってかなり驚いた。他にも、こういうレベルの「普通のアマチュアには、すぐに疑問手とは分からない」レベルの手を、コンピューターソフトが冷徹に指摘できているという印象がある。逆に言うと、コンピューターソフトは、最早終盤では人間のような大きなミスを犯す可能性が低いということだと思う。あくまで「大きな」ミスという条件付だが。

4.1.2 GPS将棋の読みが及ばなかった局面

金子先生は、客観的に謙虚にGPSがブロ将棋を理解できなかった例もあげられている。但し。プロがミスした例がとても分かりやすいのと比べると、それほどはっきりした間違いというわけではなく、人間より罪は軽い(笑)という印象を受けてしまうが、どうだろうか。
王座戦挑決(図13)については、これは確かに大きなコンピューターの大きなミスといえるかもしれない。コンピューターの読みが、後手玉の頓死の筋を見逃してしまっている。当然勝敗に直結する。コンピューターの得意な詰みの領域で、こういうミスがでるのは不思議だが、何手先まで読むかの設定などと関係しているのだろうか。なお、頓死の筋を見逃さないように修正を加えられているそうである。
王位戦第四局(図12)については、△6九銀の時点では、既に後手の深浦勝勢で、以下数手で木村が投了した。それをGPSは理解できなかったということなのだが、それでも直前で-1000程度としていて、後手がかなり良いことは理解できているのだ。つまり、後手勝勢であることを認知するのが遅れただけで、これはそれほど大きいミスとは思えない。
竜王戦挑決第三局(図14)についても、GPSは先手が良しと認識できなかったとされている。この将棋は森内が▲6二角成とじっと成ったのがいかにもらしい好手で、以降後手にチャンスはなかった将棋と「対局後は」言われた。しかし、実況では、どうも先手が良さそうとしながらも、まだまだ後手にも何か手段がありそうだと控え室では検討が続いていた。GPSも先手有利を認知するのが少し遅れただけで、それまでもほんの少しの先手マイナス値評価で、別に先手が悪いと認識しているわではない。これも、ひれほど大きなミスとは思えない。というよりは、森内の▲6二角成の時点で、コンピューターが先手勝ちを見切れていたらこわすぎる(笑)。
最後の王位戦第七局(図15)。これも難解な終盤戦で、GPSの評価値がゆれて、先手勝ちを認識できていなかった例とされる。しかし、この本譜の順も本当にギリギリのきわどい手順だし、しかも先手玉の入玉がからんでいる。恐らく入玉の局面評価はコンピューターにとって大きな難点・課題だろうし、ここでも正しくどちらがいいかを数値化して評価するのは至難の業だろう。
この部分は、あくまで評価値が大きく変わった場合について論じられている。しかし、終盤の場合は、最早多少の評価値のゆれよりも、実際に正しい手順で指せるかどうかがポイントである。現在のコンピューターソフトのレベルでは、むしろ評価値が多少不正確でも、指してくる手は的確ということが多いのではないだろうか。また、実際、人間ののトッププロでも、難解な終盤では大まかに勝ちそう負けそうという直感はあっても、本当に最後の最後までよく分からずに指していることが多いのだと思う。羽生さんの手が震えるのだって、本当に最後の最後なのだ。
だから、コンピューター将棋の終盤を評価するためには、評価値の動きも大切だが、それ以上に具体的にどういう手順の読みをしているかを具体的に分析するのが大切だと思う。勿論、そのような作業は私程度の棋力のアマチュアの手にはあまるし、それこそプロ棋士の助けが必要だろう。
その一例として、将棋世界の1月号から始まった片上六段によるシリーズがある。早速読んでみたが、GPSの読みについて、片上六段が自分の読みを披露して人間とGPSの読みや感覚を比較検討するという興味深い内容になっている。

コンピューター将棋の実力という面から感想を述べてきたが、それ以外にGPSがプロ将棋を自動解析して、一手ごとに形勢判断して数値化して表示してくれていることで、我々アマチュアは鑑賞が楽しくなったという側面も決して見逃せないだろう。将棋は専門性が高いので、ほとんどのアマチュアは解説なしでではプロ将棋を理解できない。その際に、かなり実力の高いソフトが、得点ボードのように形勢判断を全ての手で表示してくれるというのは、大変ありがたいことである。そういう、将棋鑑賞の助けになっている側面も、我々ファンは決して見逃してはならないし、また、ソフト開発者の方々に感謝すべきだろう。

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