2010年06月

「ヒカルの碁」感想




(ヒカルの碁」についてネタバレで書いているので御注意ください。)

生きてみた感想 『ヒカルの碁』――「神の一手」と歴史の慈愛について

「ヒカルの碁」についての素晴らしい分析なので、是非お読みください。私は「ヒカルの碁」を未読だったのだが、これを読んで興味をもち、今ものすごい勢いで全23感を読破したところである。本当に面白かった。


「佐為」は、囲碁の歴史上で最強とされる本因坊秀策に降臨して背後で碁を打っていた存在である。時を経て今度は全く碁をしらないヒカルに憑依する。だか、憑依するといっても、ヒカルに危害を加えるのではない。佐為は、人間として生きた際に個人的な不幸な体験があり、そのために成仏できていないのだが、おそろしく明るい。「ヒカルの碁」の読者は佐為のかわいらしさに魅了されてしまう。全く人間的な俗ないやなところがない。原作者に、佐為が女性だという声が何度も届いたそうだが、確かに佐為は人間的な男女の性質を超越しているところがある。成仏できていない霊というよりは、「天使」的な存在である。
碁に対してだけは「神の一手」を極めようという限りない情熱がある。いわば、「囲碁の神」と「人間」を媒介する「天使」である。碁の真理をきわめようとする「人間」を常に助けようとする。佐為も、現代に現れることで自身も一応は進歩を遂げる。秀策が現代に生まれて、進歩した定石を学んだらどうなるのかというのが佐為なのだから。しかし、佐為の本質はあくまで佐為であって、ヒカルのような「人間」の持つ予想不可能な進歩の可能性をもたない。それが、霊あるいは天使としての佐為の本質だ。
天使としての佐為は、「人間」としてのヒカルに対して囲碁の腕前で圧倒的に優越する位置にある。しかし、それでも佐為はあくまで、ヒカルの教師、助言者以上の役割を持たない。ヒカルが「人間」としての無限の可能性を開花させるのを、ただ佐為は、見守って助けるしかない。ヒカルにとってほとんど囲碁の神に近い佐為も、或る意味では人間よりも劣っている。それが天使の本質だ。天使は、囲碁の神とと人間を媒介するのが任務なのだから。
だから、ヒカルが自身の能力に気付き、それを最大限に伸ばす努力を決意した際に、佐為は静かに去るしかない。しかし、佐為は、これからも何度も人間のもとを訪れるだろう。第二、第三のヒカルを助けるために。自分が進歩するためではなく、人間を援助するための天使として。

その佐為が、ヒカル以外の人間と本気で交錯する一瞬がある。saiとして、塔矢行洋とネット対局する場面だ。あれは、要するに秀策が現代の布石を学んで、現代の名人と戦ったらどういうことになるかということだ。将棋で言えば、例えば升田幸三が現代的な定跡を全てマスターした上で、羽生善治と戦ったらどういうことになるかと。
勿論、それもとても興味深いテーマだが、今は別の点に注目したい。saiは完全に正体不明の存在だ。世界中の囲碁ファンが、saiの対局をリアルタイムで見守り、その腕前に驚嘆しながら、誰もが正体をつかめない。完全に世界に対して開かれていながら、完璧な匿名性を保持している。これは、ある意味では「神」の特性に近い。
しかし、実際は佐為は囲碁の神ではない。彼もまた、「神の一手」を求める存在にすぎない。その佐為が、名人の塔矢行洋と囲碁の「神曲」を繰り広げる。ヒカルにそれを見せる為と同時に、やはり「神の一手」を追求する塔矢行洋のためにも。
ここでも、佐為は損な役回りだ。佐為も対局を満喫するが、かれはネット上のsaiから生身の人間へ移行することは許されていない。佐為は塔矢行洋に勝つ。しかし、本当に何かを得る勝利者は塔矢行洋の方だ。塔矢行洋は、この敗戦を機に自ら名人位を返上して引退し、韓国に単身渡って、ひたすら「神の一手」を追求することに専念する。世間的には愚行だが、囲碁棋士としての塔矢行洋にとっては最高の生き方に目覚めたということである。それを可能にしたのはsaiだ。しかし、佐為は勝利以外には何も受け取れない。
ここでも、佐為=saiは、ネットという世界に開かれつつ匿名性が守られる舞台で、「人間」にたいして「囲碁の神」の姿を、直接見せないで暗示し、両者を媒介する役割を果たしているのだ。

進藤ヒカルの最大のライバルは塔矢アキラである。アキラも、ヒカルの中に住む佐為を囲碁を通じて最初に見て「囲碁の神」を瞥見する。アキラは外見は完全に女性のように描かれている。ずっと読み続けていても、絵の力によってつい女性と考えてしまい、何度も男性なんだと意識的に訂正しないといけない。
ヒカルとアキラは何から何まで対照的だ。アキラは早熟である。粗野なところが少しもない。ヒカルは成長が遅い、荒削りの原石である。単純に言えば、ここでも女性性と男性性の対比を見て取ることができる。
しかし、内面性においては、両者は意外な部分がある。アキラはみかけに似合わず、強固な勝利への意志、揺るがない強い心の持ち主である。一方、ヒカルの方は、元気一杯そうでいて、内面はおそろしく繊細でもろい部分がある。それもヒカルがアキラに先行される要因のひとつだ。ユングの言う、アニマ、アニムスのように、男性も女性も内面には自分の性別とは正反対な性質を隠し持っているのだ。
まさしく、ヒカルとアキラは、二人で対の存在である。お互いに激しくひきつけられ、反発しあう魂の一組だ。もし、二人が男女だったならば、猛烈な恋に落ちてしまっても不思議ではない。しかし、それはアキラが男性であることで、注意深く避けられている。佐為も、二人が結びつくキューピットの役割を果たすが、あくまでそれは肉体上ではなく精神的な結婚、魂の相補性のためであろう。
それでは、男性性を象徴するヒカルと女性性を象徴するアキラのどちらが、「神の一手」に先に辿り着くのだろうか?

それについては、「生きてみた感想」に答えが書かれているのでここでは繰り返さない。桑原本因坊がいうように、囲碁は二人いなければ打てない。誰か個人の囲碁棋士のみに「神の一手」が舞い降りるわけではない。「神の一手」は、二人の「あいだ」、関係性によってのみ生じる。誰かがそれを所有できるわけでもないし、確実に触れることが出来るわけでもない。それは、囲碁の「歴史」に参画する全ての人間によって生み出されるものだ。
第23巻の最後にも、作者は少し照れながらはっきり結論を書いているではないか。
「遠い過去と遠い未来をつなげるために」(ヒカル)

ヒカルただ一人の力によるのでなく、アキラと最高の碁を打った時に、それは可能になるはずだ。しかも、それは二人の所有物としてではなく、過去と未来の歴史がつながるという形で。
そもそも、こんな疑問が浮かばないだろうか。「神の一手」というのは、果たして実在するものなのか。それは、囲碁の神が人間に与えた問題なのだが、「神の一手」に実際にたどり着かせるのが目的ではなく、そのために人間的なギリギリの努力を積重ねる行為自体が目的なのではないのか。何かの報酬を得るのが目的ではなく、無償の行為をひたすら楽しみつつ苦しみつつ続けることのみに価値があるのではないか。囲碁の神が与えた「神の一手」は、答えのない質問であって、人間を行為に駆り立てるための質問のための質問なのではないか。
囲碁だけの話ではない。神と人間の関係自体、あるいは人間にとって世界が存在する意味もそういうことではないだろうか。
妄想が行き過ぎたので、もうやめよう。

ーー読者「こんなの、ヒカルの碁の書評じゃないよ。」

インタビュー「ドラマを伝える将棋 〜名人・羽生善治氏に聞く」

asahi.com ドラマを伝える将棋 〜名人・羽生善治氏に聞く

 朝日新聞社デジタルビジネスセンターの企画・制作のインタビューなのだが、大変良質な内容で、「羽生善治の現在」を考える上での手かがりが満載である。

私にとって理想の将棋は、最初から最後まで停滞なく、秩序立った手が続くようなもの。
こういう考え方は、多分羽生が若い頃から変わらないところなのだろう。将棋は場合によっては、秩序とは無縁な泥沼の戦いに突入することもあり、特に現代将棋の場合はいきなり序盤から混沌状態に陥ることもある。羽生は、そうした現代将棋に対しても積極的な興味関心をもち、現代将棋の最前線に常に顔を出し続けながらも、やはり本質的には秩序だった古典的な形式感のある将棋に対する強い憧れがあるのではないだろうか。量子力学に「神はサイコロを振らない」と言って抵抗したアインシュタインのように、羽生も本質的には古典的秩序主義者なのではないかと思うのだが、どうだろうか。

テニスの試合などによく似ていると思います。相手が簡単な球ばかり打ってくると、こちらも平凡なショットしか返せない。厳しいところにいい球が打ち込まれるからこそ、スーパーショットが生まれ、観客が感動するわけですよね。
羽生ならではの美しい比喩である。常々羽生が言うように、将棋はあくまで対戦相手との共同作業であり、一度自分が手を指してしまったら、相手にゆだねるしかない。将棋は他力である。そして羽生は、相手がベストのショットを返してくることを常に期待している。最近、深浦が一部で「恋愛流」と湯呼ばれたているようだが、ある意味羽生こそ本物の「恋愛流」なのかもしれない。まず、なによりも自分ひとりでは何も出来ず、常に最上の恋人を待ち望んでいるという意味で。羽生がよく急所で見せる「手渡し」も、相手のベストショットを期待して敢えてチャンスボールを打っているのかも?

一つの局面に対し、限られた時間内で「深く」読む(主要な手について何十手先まで展開を考える)か、もしくは、「広く」読む(手の選択肢を増やしていろいろな可能性を検討する)か、この二つのアプローチがありますよね。最近の私は後者をとる傾向が強く、結果的にほかの人の頭になかった手を選ぶということがあるのかもしれません。
「羽生マジック」について、羽生はいとも簡単にいう。種も仕掛けもありませんよ、ただ広く読んでいるから他の人の考えない手が読めるのですよ、と。特に、近年は広く読む傾向が強まっていると言う。これは後述の大局観の問題とも関連するが、現在の羽生が、いかに力づくで読む作業を省略して、局面を直感的に正しく把握しようとしているかとも関係するのだろう。羽生は、そういう方向性に自分を変えて、さらに一段上のレペルへ進歩させようとしているかのようだ。

定跡やセオリーの中で、不利な局面につながるから損だといわれている手でも、実際はどれくらい損なのかはよくわからない。それを実戦で使ってみて、自分の感覚として理解することの積み重ねが、手の良し悪しを判断するカンのようなものを磨いてくれるのかなと思うんです。
羽生は、忙しい中、タイトル戦当で常に最新の研究将棋を指している。羽生くらい力があれば、研究将棋を避けて力戦に持ち込めばとも考えてしまうが、研究将棋の定跡についても、羽生はそれほど簡単には考えていないのようだ。最新形の定跡の中からも、普通は先入観で考えてしまう場面で柔軟に考えて疑問を投げかけているようだ。また、その能力に相当個人的な自信があるのではないか。だから、徹底的に研究された定跡将棋にも、羽生は常に大事な将棋で自分の身を投げ入れ、なおかつその定跡のちょっとした隙をついて勝ち続けることが可能なのだろう。研究将棋でも、実は個人の考える能力が一番大切だと考えているのではないだろうか。

私は、劣勢になったら、差がそれ以上開かないように、ひたすらついていきます。その間はずっと劣勢が続くわけですから、気持ちの上でイヤになって投げてしまいたくなりますが、そこは耐えて粘り強く……。もちろんそのまま逃げ切られてしまうこともありますけど、チャンスが来てひっくり返せる場合も少なくない。それ以外に、とくに秘訣はありません。
これも羽生マジックの秘密公開である。問題なのは、種明かしされても、誰もなかなかそう簡単には実行できないことだ。羽生は、基本的にはとても筋よく指すが、時にはとてつもない辛抱を厭わないことがある。普通の棋士が指したならば、とても勝ち目がない、酷評されそうな我慢の手を指す。多分、それは羽生の中では、劣勢を素直に認めて差を開かないようにするための手段に過ぎないのだろう。じぶんの劣勢を率直に認めるというのは難しいことだ、それを認める能力と言うのは、羽生特有の全てを客観的にみつめる能力とも関係しているのだろう。

後は、40代、50代とそれぞれの年代ごとにテーマを決めて、それを達成していきたい。もうすぐ40歳になりますが、『大局観』つまり、勝負の全体を見通す感覚のようなものはこれから伸びてくるところだと思うので、そこは磨きをかけたいですね。
羽生が最近良く口にする「大局観」も、とりあえずの40代のテーマに過ぎないのかもしれない。なんと貪欲な、そして常に自分を変えて生きたいという意志。ここまで来ると、孔子の「三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。」のようではないか。まさか、四十にして大山、五十にして升田、・・、というようなことを考えているわけではあるまいが。とにかく将棋ファンは、当分先まで楽しめそうである。

生活全般の中で、行動がルーティンになってしまわないように心がけています。行動がパターン化すると、思考もパターン化しがちですよね。しかし、思考のパターンだけを変えるのは難しい。だからまず行動パターンから変えてみるというわけです。簡単ですよ、いつもより早起きしてみるとか、朝食のメニューを変えてみるとか、行ったことのないところに行ってみるとか、そんなことです。そうした結果、新しいアイデアや発想が生まれやすくなる気がします。パターン化されたことが嫌いなのかも知れません。例えば、私は10年後、20年後には、今予想されるのとは違う姿でいたいなと思っています。青写真どおりに人生が進んでいくのはちょっとつまらない気がするんですよ。
常に毎日同じ時間に同じ事を儀式のように繰り返して行動しないと気がすまないタイプの人間がいる。一報、羽生のようなタイプの人間もいる。両者は、同じ人間でも全くタイプが違う。農耕民族と狩猟民族、定住民族と遊牧民族、平地の民と山の民、色々な言い方が可能なのだろうが、明らかに羽生は後者のタイプである。羽生は、一見健全な常識人のようでいて、いい意味で普通の生活人とはちょっと違うところが明らかにある。常に変化を追い求めて一箇所に無安住しない本質的な血のようなものを感じさせるところがあるのだ。羽生は他の職業でも何でもこなせる人なのかもしれないが、やはり「棋士」ではない「将棋指し」にふさわしい人なのではないかと勝手に思ったりもするのだ。

「将棋と時間―将棋に見る有限性の考察」について

少し前の記事なのだが、私のブログにリンクをはっていただいていたことで最近気付いた記事を紹介させていただく。

生きてみた感想 将棋と時間―将棋に見る有限性の考察

羽生名人と三浦八段の名人戦における三浦八段の必死な対局姿は誰しもの心をうった。それを、ハイデガーの「恐怖」と「不安」をひきつつ、プロ棋士が将棋を指す上での時間の有限性と三浦八段の対局姿勢とに関連させて、きわめて本質的な考察を深くなおかつ明快にされている。大変面白いので、是非皆様お読みになっていただきたい。(私のブログなどよりも読者数の多いブログのようなのだが、将棋ファンの為に申し上げています。)
私自身、哲学にも興味はあるのだが、本格的な素養は全然ないので、何も言うべきことはないのだが、折角私の愚記事を紹介してていただいた事もあるので、少しだけ私自身の感想も書かせていただく。
ハイデガーは「不安」という気分の源泉を、いつかやがて訪れる「死」を先取りすることのうちに求めました。「不安」というのは、有限性を肌で感じることの極限にある気分であるというのです。ですので、相当に勝手な解釈であるとは自覚していますが、名人戦で三浦挑戦者が見せた極限状況を、将棋に潜む「不安」と向き合ったがために追い詰められた、棋士という存在にともなう有限性の、生々しくも美しい発露であると捉えてみたい、と個人的には考えています。
いきなり、結論部分を引用させていただいた。
名人戦のような長時間の将棋でも、持ち時間は有限である。将棋の指し手の組み合わせも一応有限ではあっても、人間にとっては殆ど無限に近い。その、「無限」に対して「有限」な時間内でいかに人間が立ち向かうのか。仮に時間がなくなることを「死」と考えた場合に、有限な「生」が宿命の人間がどう対処すべきなのか。
三浦八段は、「無限」の存在にたいして、「有限」の身でありながら、自分の出来ることをすべてやろうとする。なりふり構わず、必死に人間らしさをむき出しにして。散々話題になった「封じ手練習」もその一端に過ぎない。当然、人間には「無限」を理解することなど不可能なのだから、努力すればするほど「不安」が生じる。また、そのあまりに一生懸命な姿は、そのドンキホーテ的な姿勢の為に一種のおかしみ誘う。しかし、見ている人間達は、気持ちよく笑いながらも多分分かっている。三浦の姿が、本来の人間のあるべき姿を、極限的な形でありのままに提示していることを。だから、誰もが笑いながら、とてつもなく心を揺り動かされるのだ。すっかり「死」を忘れ果ててしまった現代人が、本来の「生」にふと気付かされるように。

一方の羽生。
そして逆説的にも、多くの手を読み進めることができればできるほど、この困難さ、つまりそこには必ず読み切れない部分が残る、という点をより強く実感するのだろうと思います。羽生名人が、将棋における他力、つまり将棋の指し手は、最終的には対局者の指し手に依存せざるを得ないのだという一種の諦念のようなものにたどりついたことは、このことを如実に示している事例のように思われます。羽生名人は、将棋というゲームに向かう際に人間につきつけられるある有限性というものに、もっとも敏感な棋士の一人であるのかもしれません。

羽生は、吉増剛造氏との対談で、将棋を指している際にふとのぞきこんでしまう「狂気」について延々と語り続けていた。羽生が最近「他力」ということを盛んに言うのは、楽天主義というようなことでは決してあるまい。羽生も、三浦と同様、あるいはそれ以上に「有限」な人間の身でありながら、「無限」を突きつめようとする、あるいは突き詰めざるをえないという種類の存在である。恐らく。その努力を普通の人間には想像も出来ないくらい激しく徹底的に行ったうえで、羽生はサラリと言う。「将棋は他力ですよ」。あるいは、かつての大山のように「全然考えなくても急所に手がいく大局観」を言う。
羽生が、最近この種の発言を繰り返すことを、ある種のファンは批判的に考えるかもしれないもしれない。羽生も、かつては徹底的に合理的でラジカルな存在だった、しかし、現在は人生の達人のような境地に逃げるようになってしまった、と。しかし、一見そう見えるだけだ。羽生の場合、最初から人生や将棋を達観しているわけではない。むしろ、有限な人間として、極限的な努力をしたうえでの、「他力」なのだ。当然、その努力の過程では、人間が耐えることの出来る最大限の「不安」も体験しているはずだ。いや、羽生の場合、その「不安」は、一直線に「狂気」へと繋がってしまっている。その危険を一番よく心得ている羽生だからこそ、あっさり「他力」という。羽生の「他力」は全然楽天的ではなく、恐るべきストイシズムの裏づけがあるのだ。多分。自力救済の極限的な修行を積重ねた上で、自分の根底になるエゴに気付いて、「絶対他力」の境地にたどりつく修行者のように。

三浦は三浦らしく、真正面から人間的な「不安」と向きあっている。一方、羽生は、そこから賢明にスルリと身をかわしてしまっているようで、実は三浦の最大の理解者なのだ。
羽生は、三浦の猛烈な努力と不安を一番良く理解していて、おそらく微笑みつつ三浦の姿を眺めている。
ーー三浦さん、あなたの姿はそのまま私の姿だよ。
しかし、羽生の場合、その羽生自信の姿を常に冷静に突き放して見つめているもう一人の自分がいる。それが、恐らく羽生が他の棋士たちに優越しているわけの本質だ。恐らく、唯一つの理由だ。
しかし、羽生は、一心不乱に「不安」と向きあえている三浦を、きっとどこかで羨ましがっているはずだ。多分・・。

羽生のアガペーと深浦のエロスーー相思相愛問題をめぐって

今年の棋聖戦第一局でも梅田望夫さんのリアルタイム観戦記があった。本来将棋ファンなら、(2) 二手目△8四歩問題と将棋の進化の物語について語るべきなのなのかもしれないが、それはもっと棋力のある本格ファンに任せるとして、ワタシが食いつかざるをえないのは、当然?(1) 相思相愛の羽生と深浦なのである。
タイトルのテーマについてはじっくり論ずるとして(笑)、まずこの文章はとても興味深い「人間・深浦康市論」になっている。
昨日の深浦とのやり取りで私は、アメリカにわたってまもなく仕えた、抜群に仕事のできるスウェーデン人の上司を思いだした。同僚たちはその上司のことを「シリアス」という一言で評していたが、そうか深浦も「シリアス」な男なのだなあ、と深浦をより深く理解できた気がした。「シリアス」とはなかなか日本語にしにくいのだが、真剣で一生懸命ということだけでなく、必要以上に深刻という感じが含まれ、甘えや妥協がいっさいなく、きわめて目的志向で、目的を達成するためにはときに手段を選ばないこともある、という感じが合わさっている。そしてこの「シリアス」さは基本的に仕事上に限られ、その上司もそうだったし深浦もそうだが、プライベートのときはまったく違う顔を見せるのだ。
これは、多くのファンが深浦から感じているところなのではないだろうか。勝負に対する貪欲さが少なくとも表面には出てこない羽生世代、あるいは羽生が最近戦った少し下の世代の、木村や三浦という人間的な魅力や場合によっては弱さも感じさせるナイスガイ、ある意味面白いところがある渡辺竜王とは違って、とことん深浦はシビアである。将棋の内容も、綿密極まりない序盤の周到な準備、厳しい順をいとわずに妥協なく選択する中盤、場合によっては肉食獣のように相手に襲いかかったり、あるいはど根性で粘り抜く折れない心の終盤。実にプロらしい厳しい将棋を指す棋士である。また、対局態度でも、羽生何するものぞという気持ちがストレートに表に出てくるタイプである。まさしく、「シリアス・ガイ」。
また、梅田氏が紹介しているように、プロ棋士は深浦に対してある種屈折した感情をいだいているようである。とにかく、羽生世代が絶対的な存在として君臨し、どの棋士もが羽生打倒に燃えつつも、倒すとしたら誰がふさわしいのかという人間らしい感情もいだかずにはいられないのだろう。同じ羽生世代の誰かが羽生を倒すのなら仕方ない。全く世代の違う渡辺が倒すのも納得できる、しかし、実力は誰もが認めながらも従来それほどの活躍がなかったのに、深浦だけがなぜ、という、正直な気持ちはとてもよく分かるような気がする。
また、人間的なタイプからしても、深浦はいかにも隙が無い。木村や三浦と違って(というと彼らに失礼かもしれないが)、甘いところがまるでない。実際、王位戦での、木村vs深浦での後半四連勝した際の深浦の精神的な強さは素晴らしかった。しかし、それがある意味、特に男たちの軽い反感や嫉妬を買いやすいところもあるのかもしれない(笑)。一方。twitterでの将棋女子の反応を見ていると、深浦はとても人気が高い。あのも隙のなさ、スマートさ、そつのなさ、シャープさが女性をひきつけるのも、よく理解できるのである。
さて、その深浦と羽生の関係。深浦の発言を噂の「ゲーム・ラボふ2月号の」アイラブ?将棋特集から紹介してみよう。
「(相手のことばかり考えると言う意味で)番勝負はある種恋愛と似ている」「(対局日が迫るにつれて)羽生さんのことばかり考えています。」「(羽生名人が長考前に眼鏡を外すと)羽生さんの素顔を見られるので、ドキッとしてしまいます。」といった発言から2ちゃんでは恋愛流と称されている。
梅田氏のタイトルも、当然こういったところから由来しているはずである。とにかく、深浦が羽生に恋していることはわかった、ことに一応しておこう。冗談抜きで、深浦にとって将棋対戦棋士として、これ以上望むべき相手はいないはずである。ある意味、全てのプロ棋士が羽生将棋に恋しているわけだし。
さて、問題は羽生が深浦のことをどう思っているかの一点にかかってくる。(既に調子に乗りすぎなのは自覚しています。)梅田氏が紹介しているのは、とにかく羽生が「深浦は強い。」と率直に実力を認めているということである。そして、
仲間の棋士たちが深浦に複雑な思いを抱く中、羽生は、深浦の将棋を高く評価し、人間的にも深浦に好意を持ち、難解な現代将棋を究める同士と位置付けているふうである。羽生とこれまで幾度も対話を重ねる中で、私はそう感じることが多かった。
とも。
私は、梅田氏の実際の付き合いを通じて得た感触を素直に信じる。だから、基本的に羽生と深浦は相思相愛ということで、特に問題はないのだ。
しかし、中継当日のtwitterでの反応をみると、私を含めて「深浦片想い説」が圧倒的に優勢だったのである。勿論、我々一般ファンは、具体的な人間関係を知らないのだから、取るに足らない主張と言ってしまえばおわりないのだが、人がそうしたイメージをもつのはそれなりの根拠があるはずだ。だから、これ以降述べるのは、あくまで事実に基づいた「深浦片想い説」ではないし、また同時にある種の勝手な羽生善治論、深浦康市論に過ぎないことをあらかじめお断りしておかなければならない。
深浦が、羽生の将棋に対して深い興味関心を持ち、相手を倒すことを一途に考えながらも、きわめて人間的なある種愛情に近いようなものいだいているのは理解できる。しかし、羽生は深浦に対して、果たしてそれと等価の愛情をいだいているのか?
その点が、我々一般将棋ファンが勝手に一番ひっかかった部分なのである。先ほど、一般プロ棋士の深浦に対する屈折した思いを紹介したが、そういう感情を持つはずがない棋士がただ一人だけいる。それが、まさしく羽生善治だ。
羽生は常に将棋界のトップに立ち続けている。それが同じ羽生世代の他のメンバーとも本質的に違う。全ての棋士は、羽生に対してコンプレックスと羨望の入り混じった感情を持たずにはいられないが、羽生だけがそういう感情とは無縁でいられる。勝者の必然として、人間的な勝負のドロドロとした感情から比較的身を引いていることが可能なのだ。羽生も実は勝負の鬼であって、ひとたび盤面の前に座れば相手を倒すことに専念するが、それはあくまで勝負の際の一時の感情の燃焼であって、勝負が終わればあっさり燃え尽きてどこかに消えてしまうだろう。
また、羽生独特のキャラクターも関係している。羽生の場合、どこか常に超然と飄々としている。対戦相手も客観的に見るし、自分自身についても常に突き放して客観的に見ている。先ほど、紹介した羽生の実力評価にしてもそうである。たんに、深浦が強いから自分と互角の成績を残しているのだと。我々なら、何か人間的な要素の原因を無理やり探し出そうとしてしまうところだが、羽生はそうして我々俗人を優しく笑って、「単に強いだけですよ」、とあっさりいう。どうも、深浦に対して敵意をいだいていることはなくても、どう考えても深浦に対する人間的な思いいれなどありそうにないのだ。ここでも、羽生は爽やかに言うのではないか、「深浦さん?好敵手ですね。」恐らくそれ以上でもそれ以下でもない。まして恋愛感情など存在しようがない。

ここで、当日のtwitterでのやりとりを紹介してみる。
@Zeiramsさんの発言
梅田さん観戦記「>相思相愛の羽生と深浦」;・・・・ちょっと、待て。片想いじゃなかったの???
それを受けて私。
私見だけど私も深浦さんの片思いだと思う。別に羽生さんが深浦さんを嫌いと言うのでなく、羽生さんは全ての棋士が好きだけどそれは慈悲に近いものであって決して愛ではないと思う。(朝から悪乗り
すると@rakuhaから、このような反応があった。
なるほど、羽生さんの将棋に対するアガペーと、深浦さんの羽生将棋に対するエロスという愛の構図で見ればいいんですね
さらに
神の愛に立ち向かう人間の愛。壮絶な相思相愛ですね(笑)

再び@Zeiramsさん
キリスト教では愛。仏教では慈悲。つまり羽生=菩薩説を唱えてみる。菩薩は全ての人を真理に導くためにあえて仏とならずに現世にいるとか。

なんかすごいことになって来た。しかし、羽生さんが一神教の神なのか、仏教のようにいつかは誰もが仏になれる先達としての菩薩なのかは、慎重に深く考察せねばなりますまい(笑)。


ほとんどお遊びのつぶやきを勝手に紹介して恐縮だけれども、多分私を含めて全員あるいみ本気のはずである、と私は勝手に解釈してしまった。
アガペーとは神の人間に対する愛である。人間的な、相手を愛し憎み奪うエロスの愛とは本質的に異なる。羽生さんは、アガペーのように全ての棋士を平等に愛するが、しかしそれは人間的なドロドロした愛憎とは無縁である。そうした神の愛に対して、深浦はほとんど不可能事なのだが、人間的なエロスで立ち向かっている。それが深浦の尊さでもある。相思相愛ではあるが、それは、双方向の平等な愛ではなく、人間が神に無謀に挑む壮絶な相思相愛である。というのは勿論、私の勝手な解釈なのだが・・。
一方、仏教的に言えば、羽生は深浦に対して慈悲を抱くが、深浦は羽生を愛している。むしろ、菩薩のように、羽生は深浦が自分の位置にたどり着くことを誰よりも切望している。菩薩は、全ての人間が仏陀にならないかぎり、自分は可能でも仏陀になることを拒むという。羽生は、常に将棋界の先頭をひた走りながらも、同時に情報公開することで、周りも高めてきた。そのことについては、森内が羽生に感謝すると率直にインタビューで述べているのを見て驚いたことがある。
さて、ここまできてどうしても一つ断っておかなければいけないことがある。今述べたのはあくまで遊びである。羽生も生身の人間だ。神や仏じゃない。羽生も人間らしい感情をいだく一人の人間に過ぎない。あくまで、今述べたのは、将棋界における羽生の位置についての、一種の比喩に過ぎない。人間羽生については、おそらく梅田氏が述べている通りのはずだ。
さらに、それ以上にどうしても述べておかなければならないこと。この小文は、深浦を侮辱するために書かれているのではない。むしろ逆だ。将棋界にあっては、絶対的な存在であり、それこそ神仏扱いされかねない存在に対して、きわめて人間的に努力を積み重ねてあらゆる手段を用いて真摯に戦おうとしている。そうした深浦の素晴らしさを私はいいたいのだ。現在と羽生善治のタイトル戦でもっとも緊張感をもたせるのは、深浦康市か、あるいは渡辺明なのだから。
そして、冗談抜きで言うと、実は神や仏の愛は人間より優越するのではない。人間として人間らしく愛することは、本当は至上の行為なのであって、神や仏もその愛には。ほんの少しだけ嫉妬せずにいられないのだ。

名人戦第二局の封じ手をめぐって

将棋世界7月号で、梅田望夫さんが名人戦第二局について「研究の功罪」というエッセイを書かれている。対局日の晩の、三浦、久保、行方の感想戦の様子、日を改めての羽生の感想を取材した上でまとめられていて、貴重な内容である。
そして、これについて取り上げているブログ記事。

センプレ・アタッコ仮設倉庫 男の黒ミントキャンデーが美味しい日

対局当時に私とattacco_ko氏がtwitter上で封じ手をめぐってかわした会話が暴露、・・いや紹介されている。以下該当部分の再掲。

(アタッコ氏)
以下、私の妄想。三浦さん、▲5三桂成はすでに研究である程度結論を出されていたのではないかと。「先手ダメ」ということで。・・・その手を羽生さんが指して、99分間を羽生さんだけでなく自分自身とも戦っていた。それで疲弊してしまったような。
(私)
@attacco_ko そうですね。今回一番気になるのは、三浦さんの封じ手予想、研究の中身と結論ですね。羽生さんが、その場で徹底的に読んで▲5三桂成で研究を打ち破ったのなら、三浦さんのダメージは大きい。さすがに三浦さんも、その辺はあまり正直には言わないのかもしれませんが。
(アタッコ氏)
@shogitygoo 私、羽生さんの考えていることは全然わからないので(当然だけど)、封じ手で▲5三桂成を決断した思考過程が知りたいです。先手結構いけると踏んだのか、相手が三浦さんであることを意識した勝負手なのか。
(私)
@attacco_ko 「相手が三浦さんだから」というのは大山先生とは違うのでないのではないでしょうか。純粋に踏み込む順を読んで成算があったと。竜王のように封じ手で意識的に作戦を使うことはしないタイプかと。結果的に封じ手が駆け引きになったと。別に私も羽生さんの考えは分かりませんが

この後もアタッコ氏が、最後の私の発言に対して柔らかい言い方ながらも必ずしも同意されない旨を言われていたように記憶する。

アタッコ氏も私も一応紳士なので?粛々と会話が進行しているが、必ずしも意見は全て一致していない。それを、思いきりくだいた表現にしてみると次のようになるだろうか。
(アタッコ氏)
三浦さん、封じ手なら自分がいいと思っていたんじゃない?
(私)
そうそう、それを羽生さんが読みでうち破ったのなら三浦さんのダメージでっかい。
(アタッコ氏)
もしかして、三浦さんが相手であることを意識した羽生さんの勝負術なんじゃない?
(私)
それはないよ、羽生さんは大山さんとは違う。ちゃんと合理的に読んで結論を出しているに決まっているじゃない。
(アタッコ氏)
羽生ファンの模範解答みたいで恐れいるなぁ。それは私もよく分かっているけど、羽生さんにはちょっと違う面もあるんじゃないかなぁ。
と、これはこれで名人戦顔負けの二人の戦いが繰り広げられたのであlりました。本家と比べれば、かなり平和だけれども。

さてと、論点は要するに羽生さんが単に合理的に読みだけで判断していたのか、それとも三浦さん相手の勝負術のような要因もあったのかということである。
その点について梅田さんのエッセイから読み取れる事実をまとめてみる。

・封じ手で三浦が本線と考えていた別の手なら、三浦は良いと自信があった。羽生も、まずその手から読んでみたが、よく読むと自分がまずいことに気付いた。
・その際、読み以外に、直前の三浦が指すのに用いた時間の短さから、その順は三浦の研究順だと羽生は思った。
・従って、実際の封じ手しかないと思って選択した。
・三浦は封じ手については、「言葉の上での」本格的ではない研究ですまして自分が良いと判断してしまっていた。

基本的には、羽生はやはり全てきちんと読んだ上で判断している。三浦が本線と考えた手を研究だと推測しているが、それだけでなくその順だとなぜ自分がまずいのかも実際に読んで発見している。なんとなく三浦の研究だから不気味だということで退けたわけではない。やはり、基本的には具体的な読みの裏づけがある。
但し、それ以外にそういう読みにプラスして、三浦の時間の使い方などから、敏感にどれが三浦の研究手順なのかも察知している。恐らく、時間の使い方以外でも、羽生は盤の前の三浦の全てを、意識的に或いは無意識に観察して、それを具体的な読みに付加していたのではないだろうか。羽生は、単にたくさん深く読む棋士ではなく、そういうことにも敏感だという気がする。
ということで、折衷的な結論で申し訳ないが、羽生さんの場合、合理的な読みがあくまで基本だけれども、それ以外の人間同士の対局の要素も敏感に感じ取ってプラスさせている。ということなのではないだろうか。これなら、アタッコ氏の顔も私の顔も立つでしょ(笑)。さらに付け加えると、そういう読み以外の部分について、例えば渡辺竜王辺りなら、かなり意識して戦術的に効果的に用いるが、羽生名人の場合、そういうことをあたかも呼吸するかのよう無意識に自然にたやすく成し遂げてしまうとでもいうか。
近年、羽生は大山への傾倒を深めつつあるようにも見える。それは、梅田さんも指摘している。この点について、深浦王位が梅田さんに興味深い発言をしたそうだ。
今回の羽生vs三浦は、かつて大山に事前の深い研究で挑んだ山田道美のケースとよく似ているようだ。それに対して、緩急織り交ぜて、研究の自信を歩揺さぶっているのではないか、と。
羽生と「恋愛関係」のタイトル戦を戦い続けている深浦ならではの指摘である。なかなか、棋譜だけからは見えてこない羽生の何かを感じ取っているのだろう。やはり、この名人戦のテレビ中継で深浦がこうも指摘していた。
羽生さんは、三浦さんがこの手を指さないことをみすかしてさしているのではないか、と、
この発言にはちょっと驚いた。少なくとも深浦は羽生がそういうことをできると考えているのではないか。
もしかすると、深浦が一番羽生の大山化を肌で感じ取っているのかもしれない。しかし、勿論本来羽生と大山は対極である。むしろ、若い頃の羽生は盤上の真理のみが存在する爽やかに断言し、直接的ではないが大山的な盤外戦術や総合人間力主義に懐疑的だった。ところが、盤上でやれることをすべてやり尽くしても、どうしても分からない部分が残る。そのうち羽生がフト気付く、なんだ、結局大山先生が正しかったんじゃないかと。勿論、今のは私の妄想だ。

羽生には、徹底的に合理的そうでいて、どうもそうではないなんだか変なところがあり、そしてそれが羽生の一番の魅力でもある。
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