2010年07月

テレビ将棋観戦記 NHK杯 島vs井上、銀河戦 佐藤vs山崎、谷川vs丸山、久保vs長沼

(最近はネット中継のある将棋については、ツイッターでつぶやくことですっかり満足しているのですが、TV棋戦については、録画で観ることも多いのでブログの方に簡単に感想を書かせていただこうかと思っています。以下、ネタバレで書いているのでご注意ください。)

お暑うございます。相も変わらず将棋漫談でご機嫌を伺おうかと、と落語家の口上のように始めてはみたものの、別に私は綾小路 きみまろじゃない。ごく普通にテレビ将棋観戦の感想を「す」で書くだけなのである。
ところで、綾小路 きみまろといえば、今年の名人戦BS中継で緊迫の終盤戦生中継のあとに、彼が突然画面に現れて彼には何の罪もないのだけれども、それでも全将棋ファンの顰蹙をかったわけだが、私自身、やはり怒りに震えながらも「きみまろって結構おもしろいじゃん」と実は思ってしまったのである。で、ウィキへディアをくぐってみると、彼の常套フレーズがなかなか面白いのである。
例えば、このブログを読まれているのは「美しい方ばかりです、首から下が」とかね。きみまろのDVDでも借りて研究でもしようかと思っている今日この頃です。

NHK杯、後手の井上が意表の右四間から早い仕掛け。すごく素人っぽい指し方のように見えたのだが、それなりに難しかったようである。聞き手の矢内さんは清水さんにしょちゅうやられているので、興味津々だったはずだ。あまりに単純な攻めなので、プロでは嫌われているようだが、実際に指されてみればそれなりに難しいということなのだろうか。将棋は結局、終盤に島さんの鮮やかな寄せが決まった。
しかし、何と言っても有吉先生の解説が見事だった。見ていた誰もがこう思ったはずだ、「まだまだ指せるのに勿体ないあ」と。感想戦でも、有吉先生がいかにも将棋が好きで仕方ないという感じで積極的に参加されているのが実に好ましかった。対局者二人が気づいてない筋を次々に指摘して、二人も素直に感服。勿論、有吉先生も流石なのだが、好漢島と井上だからこそ、ああいう良い雰囲気になったのだろう。

銀河戦、佐藤vs山崎。佐藤が2五歩までつき越しての陽動振り飛車。解説の谷川先生によると、佐藤の得意とするところで、「こんな形から佐藤さんは飛車をふるんですよねぇ、『フフフ』」と先生も心なしか嬉しそうだった。
山崎も、らしくその2筋の歩を反発して、お互い言い分を存分に主張する展開になった。動かないとまずいと考えた山崎が打開したが、佐藤がうまく反撃して勝ち、但し、終盤は結構きわどかった。
感想戦でもふたりのらしさが出ていた。山崎が「暴発でした」と例によって自虐する。一方、佐藤には谷川が解説していたように普通に指してよくなりそうな順があったのだが、「それだと自信ないです。」と。どう見ても、普通の大局観なら佐藤良しなのだが、具体的に読んで納得できなければそのように言うのがいかにも佐藤流だと感じた。もっとも、山崎には「心配性すぎますよ。」とすかさずツッコまれていたのだが。

谷川vs丸山。先手、丸山で△8五飛戦法に。名人戦で二人が戦った際に、先後逆で後手丸山に△4五桂という意表の妙手が出て、丸山が名人を獲得した将棋の形に。丸山が先手で新研究をぶつけて、終盤きわどくなりかけたものの勝ちきった。谷川にしてみれば、イヤな記憶を呼び起こされた上に負かされてしまっては踏んだりけったりだったことだろう。

久保vs長沼。4連勝中と波に乗る長沼が二冠の久保と対戦。長沼といえばNHK杯で羽生を受けつぶすなど圧巻の活躍が印象的である。
久保先手で中飛車穴熊となり、久保が不満のない態勢を築き上げたかに見えたのだが、長沼もらしい辛抱をみせて簡単には崩れない。久保もよいとみていたのか普通にあっさり指していたのだが、気がつくといつのまにか長沼が必勝の局面になっていた。長沼も特別なことはやっていないのだが、久保が全然足りなくなってしまったという不思議な将棋だった。長沼流の受けだと、時々こういうことが起こる。「人間、辛抱だ。」
NHK杯では惜しくも優勝はならなかったが、決勝トーナメントでも暴れていただきたいものである。実は長沼さんの強靭な受け将棋にはファンが多いのだ。

NHKクローズアップ現代「学びをあきらめない 74歳老棋士・最後の闘い」感想

今更ですが、有吉先生の番組の感想です。放映当時は、既に早くも夏バテ気味でブログを書く棋力も気力もなかったのですが、最近暑すぎてむしろ少しハイになっております。ちょっとアブナイ気もします。今年は本当に酷暑のようなので、皆様もご自愛ください。


将棋の内容もきちんと取材してあったし、技術革新の波に古い世代がどう対応すればよいのかという一般向きのテーマにもなっていて、良質な内容に仕上がっていたと思う。
有吉先生の自宅にあった、戦型別に分類された膨大な棋譜ファイル、あれだけでも将棋ファンは感動してしまう。あれを見て、有吉先生宅にパソコンを持ち込ん設定から何から全てしてあげて、プロ棋士用のデータベースをすぐみられるようにしてあげたいと思ったのは、多分私だけではないだろう。でも、敢えて紙の棋譜ファイルを片っ端から盤に並べるというやり方が先生には合っているし身につくのかも知れず、実は大きなお世話なのかもしれない。
若手棋士たちとのVS(一対一の対戦研究)の場面も印象的だった。話には聞いていたが、ああやってラフな格好の若手たちに混じって、きっちりスーツを着込んだ先生がひとり控え室にいるのをみると、改めてすごいなぁと感じずにはいられない。
そういう、若手の強さや優秀性を素直に認めて現代将棋に適応しようとする姿勢は、実際に盤面の上でも成果をきちんと出した。その代表例が、番組でも大きく取り上げられていた高崎五段との順位戦だろう。会心の▲2三桂を嬉しそうに語るこぼれんばかりの有吉スマイルには、微笑まずにいられなかった。
そもそも、あの将棋でも出現した対ゴキゲン対策の▲7八金型の下図の局面では、以下▲2四歩△同歩▲2三角△3二金▲3四角成と先手だけ馬をつくる定跡手順がある。
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普通なら馬を作った先手がよさそうなものだが、先手の馬の活用が難しく、後手の飛車を自由に活用されて、むしろ後手の勝率が高い。つまり、この手順は、馬をつくれば有利という旧来の常識を根底から覆すもので、現代将棋を象徴する順ともいえる。
ここで、有吉先生は馬を作らずに▲6六歩から昔から得意にされている玉頭位取りの態勢を築いて、さらに下図の△2五桂ポンという現代将棋を代表する異筋にも見事に対応して完勝した。
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もし、有吉先生が昔の常識にとらわれていたら、馬をつくって悪いはずがないとして、若手の研究の罠にはまっていたかもしれない。しかし、有吉先生は若手の棋譜も十分並べて調べていて、この順が実は難しいことをきちんと把握していたのだろう。なおかつ、旧来の常識が通用しないことを率直に認める心の柔軟性も必要だったはずである。
さらに、その形を避けて自分が経験豊富でコツがよくわかっている玉頭位取りの形に持ち込むことに成功した。しっかり現代将棋の「新しさ」に適応しながら、過去の有力な指し方を利用して「伝統」も生かすという、有吉先生ならではの会心の指し回しだったといえるのではないだろうか。

週刊将棋で中原先生が有吉将棋を語る特集があったのだが、その中で面白いエピソードを紹介されていた。
6、7,年前に、中原先生が倉敷の大山記念館で有吉先生と会われた際に、「自分をモルモットと思って、どこまでやれるのか試している。」と有吉先生が言われたそうである。
現代将棋に、どりれだけベテラン棋士が対応出来るか、自分の身体を実験材料にしてまで最後までチャレンジされ続けたのである。言うのは簡単だが、勿論、簡単には出来ることではない。

囲碁将棋チャンネルの世界コンピューター将棋選手権特番感想

囲碁将棋チャンネルで、今年の第20回世界コンピューター将棋選手権の特番があった。この大会については動画を含めた素晴らしい中継が例年行われており(このページで如何に紹介する棋譜を全て閲覧可能)、それを全て見た人は全体像を把握出来ているかもしれないが、私は後から棋譜を中心に並べただけなので、ポイントがよく分からない部分もあった。現在は、棋譜をみただけではよく分からないくらいコンピューターソフトのレベルが格段に進歩しているのだ。その意味でこの番組は大変ありがたかった。解説は「勿論」勝又六段。聞き手の熊倉さんが、とても自然で素直な反応で番組に華をそえていた。

現在のコンピューター将棋を語る上で欠かせないのは、勿論ボナンザである。自動学習による評価関数(形勢判断基準のこと)作成で技術的なブレークスルーを成し遂げた上に、ソースコードの一般公開、さらにコンピューター将棋協会のライブラリー登録により、誰もがボナンザを利用して大会に参加することが文字通り可能になった。今回は、そうした「ボナンザ・チルドレン」の活躍ぶりが注目された。そうした自体を受けて、二次予選ではボナンザメソッドを使ったプログラムは2チームしか決勝に進出できないという制約までされたそうである。

初日の第一次予選では「稲庭将棋」が一身に話題を集めていた。将棋ブログでも一番このソフトが多く取り上げられていたのではないだろうか(笑)。それだけインパクトがあった。一切歩を突かずに専守防衛に徹して、相手の時間切れを狙うという作戦である。そして、稲庭将棋の画面には冷酷にも(笑)、相手の残り時間のみが表示されていたという。論より証拠、この局面をご覧になれば分かるように、相手は穴熊の上に伸び伸びとした陣形を築き上げているが、稲庭将棋が各筋に二つ以上の駒のききがあり場合によってはさらに応援もきくので、弱いソフトだと手出しが出来ないのである。稲庭将棋は見事? 一次予選を通過した。
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二日目の二次予選では、激指やYSSといった強豪も登場。この二チームは、ボナンザの自動学習ではなく、ずっとハンドメイドで評価関数をつくって進歩してきたソフトである。しかし、昨年ボナンザ勢に圧倒されて決勝で低迷し、ついに両チームとも今年は評価関数にボナンザ方式を採用しての参戦。つまり、純粋な手づくりの評価関数のソフトは、少なくとも上位ではついに絶滅してしまったのである。他にも、ボナンザを並列処理して、昨年の優勝ソフトのGPSをフリーの大会で破ったボンクラーズなども注目された。どちらにしても、あらゆるソフトにボナンザの影がちらつく大会となった。
勿論、稲庭将棋だけは例外である(笑)。二次予選での戦いぶりも注目されたが、やはり強豪ソフトには通用しなかった。稲庭が負けた瞬間に、他の開発者たちが一斉に歓声を上げ、稲庭の開発者の方が苦笑するという場面もあった。なかなかの見事なヒールぶりであるし(笑)、真面目な話としてはコンピューター将棋に対して面白い問題提起をした意義はきちんと認められてしかるべきだろう。

二次予選 9回戦 芝浦将棋 - 激指より。棋譜の57手目以降を見たいただければ分かるが、芝浦将棋がこわいこわい受け方をしてしのぎきってしまっている。木村一基でもこうはいかない。要するに、コンピューターは「こわい」という感覚がないのでとにかく寄らないとさえ思えば、どんなこわい順にでも平気で飛び込んでしまうのだ。図は後手の上下からの挟撃か受けにくそうだが、▲8八香が勝又六段いうところの「ピッタリ」の受けで先手玉がつかまらないそうである。
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最終日の決勝には、前年度優勝のGPSも登場。開発者の金子さんによると、ボナンザの自動学習、激指の実現確率探索、さらに東大将棋系の迅速な詰み検索などを全て取り入れているそうである。現在のコンピューターソフトを象徴する総合型のソフトともいえるのだろうか。さらに、今回は東大の300台のコンピューターをつかうという気合のいれようだった。女流の清水さんと戦う場合もとんでもないハードが使われそうなので、そういう意味でも注目された。
一方話題のボナンザは、「ボナンザ・フェリス」として、去年ボナンザの合議制で結果を残した文殊との協力を得ての参戦だった。
決勝 2回戦 GPS将棋 - 激指より。これは、私も大会直後に棋譜を見て感動した。GPSが見事な端攻めを決めて快勝したのだが、まるで人間ーそれもかなり強いプロクラスーが攻めをつないでいるかのようだったからである。勝又六段が指摘していたのは、下図の74手目あたりで、既にGPSは自分が優勢と判断できていたそうである。激指の穴熊が丸々残っていて駒の損得がなほとんどないのにもかかわらず。そして、その後の手順を並べていただければ分かるように、あざやかな端攻めを決めて、その形勢判断が正しいことを証明した。そもそも、端攻めが先にどんどん駒の損するので、ソフトには考えにくかった筈なのだが、人間のようにソフトが指せるよわうにっなた代表例といえるだろう。
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決勝 4回戦 Bonanza Feliz - 激指より。ボナンザがうまく攻めているように見えて、激指が巧みな反撃を見せる。図の△6六金打!歩頭の金。勝又六段は「羽生名人のようだ。」と表現していた。▲同歩だと△同馬が、先手玉への詰めろになっているのだ。ボナンザも看破して他の受けをしたが、最後はボナンザが詰み探索ルーチンを搭載していないのが響いて頓死をくらってしまった。
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決勝 4回戦 GPS将棋 - 習甦より。GPSの攻めがほどけないようだが、習甦が素晴らしい受けをみせる。図の△4一銀!▲同金ととると、次に▲3二銀と打っても後手玉が詰めろ担っていない!なので攻めあいで負け。以下もまるで長沼さんのように、というよりは長沼さんでもこうはいくだろうかという強靭な受けで受けきって、最後は悠々と攻めて勝ち。羽生名人も以前「コンピューターソフトは受けの方向で強くなる」と予言したそうである。
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最終的には激指しが優勝。開発者の鶴岡さんは、強くなった原因の7割はボナンザの自動学習のおかげと言われていた。謙虚で素晴らしい。
勝又教授も「ソフト開発者は皆、仲がよい。」と指摘されていた。確かに、開発者同士が仲良く談笑する場面が何度も映し出されていた。勿論、開発者同士もライバルなのだろうが、ソフトを強くしたいと言う目標では一致していて、ある種共犯的に共同戦線をはって、ソフトを強くしているのかもしれない。




阿久津主税「必ず役立つプロの常識」



現在、阿久津七段はNHKの将棋講座を担当している。阿久津さんは、ご存知の通りなかなかの男前で、朝日杯で優勝した際に、朝日新聞の記者が女性のファンを呼びこめる存在とか何とか書いていた。将棋界随一の究極の癒し系「あじあじ」こと安食総子女流初段をアシスタントにむかえて、なかなか楽しい講座をしている。「アッくんの目ヂカラ」のコーナーでは、毎回ポーズを決める事を強制されている、いや失礼、喜んでポーズを決めたりしているのである。
余計な前置きが長くなった。講座は「阿久津主税の中盤感覚をみがこう」というタイトルだが、定跡のおいしいところを解説して指すポイントを視聴者に教えるという内容になっている。一方、この本は、定跡ではなく決まった指し方がないまさしく中盤の指しかた、考え方をアマチュアに伝授する内容になっている。
プロ棋士の本は、まず定跡書が一番多く、一方終盤について書いている本もそれなりにある。しかし、漠然とした中盤の考え方について書かれた本は少ない。将棋の場合、定跡だけ覚えても勝てないし、終盤の読みがある程度出来てもそれだけでは不十分だ。自分の力で答えを見つけなければいけない中盤の地力がものをいう。特に、或る程度上達した人間がどうすれば分からなかったり伸び悩むのがこの分野だろう。それらについて、本書はプロの感覚で、分かりやすく指す上での考え方を説明している。将棋書としては、新しい斬新な切り口で、今年の将棋ペンクラブ大賞の技術書部門でを優秀賞を受賞したのもうなずける。
本の形式は、アマチュア代表の聞き手が、阿久津七段に色々質問していくという対話形式を採用している。本来相当な棋力の聞き手なのだろうが、敢えてボケ気味に阿久津七段をたててプロの考え方や感覚を聞き出す役割に徹している。その結果、とても読みやすくなっていると思う。
内容は多岐に渡っている。例えば、具体的に右玉への対処法を説明している。定跡書にのってなくて、実戦で対策が分からなくて困るという方も多いのではないかと思うが、ミレニアムから銀冠という具体的対策を提示している。最近の女流のマイナビ予選でもその通りの対策をとった棋士が勝っていた。そういう具体的な話、プロが好む銀冠の優秀性や中級者以上が必ず悩む歩の突き捨てのタイミングなど、或る程度基礎が出来た人間には大変参考になる話が多い。
また、陣形の厚みと低さ、アマチュア向きの重いが確実な攻めなど、一般的なテーマについても、あくまで具体的な題材に即して説明している。プロが絶対に嫌う指し方など、プロの感覚を知る上で参考になる部分も多い。
全体に、きちんと体系づけるというよりは、自由に具体的な題材に即してプロの考え方・感覚をアマチュアに参考になるように説明する形式である。あまりない形式の本で斬新だが、さらに望むならば、もっと体系化して「プロの戦術論」のように高めることも可能なのかもしれない。今回は阿久津七段が先鞭をつける形になったが、こういう本は色々なプロが様々な考え方を呈示することが可能なはずなので、今後に期待したいところである。

テレビ将棋観戦記 NHK杯 小林裕vs里見、銀河戦 森内vs行方

ちょっとさぼっているだけのつもりが、ずいぶん間があいてしまった。最近は少し変わったことばかり書いていたが、久々に以前やっていたようにテレビ棋戦の観戦漫談をして読者のご機嫌を伺ってみようかと思う。
目指せ、将棋ブログ界の、綾小路きみまろ!(違

NHK杯は里見先手で石田流に。ご覧になった方はご存じのように将棋自体は一方的で、里見さんにとっては残念な内容になってしまった。森九段が、実に師弟愛に満ちた解説ぶりであって、愛弟子のNHK杯デビューにあたって心配で仕方なく、是非ともいい将棋を指してもらいたいと思いつつ、一方では師匠として、きっちり弟子の指し手を厳しく言うべきところはいわなければという使命感もありつつ、それらがごたまぜとなった総体としての「愛」がにじみ出るとても好感の持てるものだった。
さらに、、感想戦での森師匠がとてもよかった。まるで愛弟子の敵をとるかのように、里見よしの変化を次々に指摘して、「これは先手がいいでしょー、フッフッフッ。」小林裕六段も、すっかり押され気味だったのであった。
里見さんの▲4六角が意表の手のようにも思えたのだが、着手も早く研究済だったようである。小林も研究会で経験済だったようだが、その後の△4五銀が飛車角両取りなので、後手良しで検討をうちきったが、実は▲7二銀から桂香を拾っておけば先手も十分戦えたといことである。森師匠はさすがに解説中からそれを指摘していた。やはり、研究だけでは見えてこない実戦の展開である。
さらに、先手が苦しそうになってからも、△3六歩を手抜いて▲7六銀から飛車成を見せていれば勝負形だったとのこと。これも解説中に森九段が指摘していたところで、小林六段も気付いていなっかたそうである。森師匠は、「これはむしろ先手の方がいいんじゃないのー、フッフッフッ」といって、小林を圧倒していたが、やはりよく調べると難しいかという感じだった。小林六段も、対局中はふてぶてしいちょっと憎たらしいような印象も与えたが、感想戦では森師匠に素直に従って恐縮していて、人の良さが滲み出ていた。
ちなみに、「フッフッッフッ」は一部私の捏造であって、森九段もそんなにしょっちゅうは「フッフッフッ」を連発していないので念のため。
里見さんは、さすがに悔しそうで、言葉も少なかったが、それでも場に飲まれた雰囲気はなくて堂々としていた。小さい頃から注目され続けて慣れているのかもしれないが、もともと勝負師向きの度胸の据わった性格なのかもしれない。

銀河戦は、森内先手で矢倉に。感想戦で行方が、「無策で」とらしく自嘲していたが、勿論本心は正々堂々と受けて立つ姿勢である。森内が、早めに▲7七銀とあがる工夫をして後手の急戦矢倉を誘い、行方もそれを受けた。森内の指し方は、豊島五段が開発したそうで、現在は研究の最先端が関西にもある。勝又六段が将棋世界の連載で紹介していたが、久保に宮田五段の新研究を教えたら驚いたが、久保が関西で若手に聞いたら全員知っていて二度驚いたそうな。関西が力戦派というのはいまや昔の話である。
将棋は、行方が形勢を必要以上に悲観して、最後は少し一方的になってしまった。「△1五桂を指す人はいませんよね。」と、やはり行方流の感想だったが、その前のあたりの手を後悔していて、やはり将棋は悲観して引き摺って指すとますますその後に悪影響を与えてしまうのだろう。
解説は阿部八段だった。現代将棋の話題になったのだが、阿部八段は淡路先生が初めて一手損角換わりを指したのを目撃して、その感想戦に参加したそうである。そして、淡路先生に「それだけは、カンベンしてください」と言ってしまったと。理論派正統派正義漢の阿部の面目躍如ではないか。どうしても言わずにはいられなかったのだろう。だが「今は私も実は指しています」という気持ちのよいオチつきで。
聞き手は山田女流だったのだが、最近入籍されたそうである。それをバトルロイヤル風間氏が見逃すはずもなく、週刊将棋の4コマ漫画では、有吉大内両巨頭引退とかけて、「山田久美女流三段独身引退」といわれて山田女史が「な、何よその表現!」とご立腹するネタになっていた。しかしながら、実にそういう表現がピッタリのお方ではある。NHK杯での司会ぶりは素晴らしくて、全ての男性ファンを魅了したものだ。
というわけで、おめでとうございます。(何よ、このオチ

羽生善治・吉増剛造「盤上の海、詩の宇宙」を再読して



最近、「生きてみた感想」さんの記事に触発されて、私もいくつか記事を書いたわけだけど、この本のことが何となく気にかかっていた。
これが出版されたのは1997年というから、もう13年も前のことである。羽生さんのことだから、多分、当時とは考え方や感じ方も随分変わっていることだろう。しかし、若いからこそ可能な率直な物言いが新鮮で、改めて読んでも感動が薄れることはない。
特に二回目の対談(なんと椿山荘で行われていたことに今回気付いた)は素晴らしい。二人の本物の表現者が、普段はとても語らないであろうことを、喜々として語っている。何度読んでも感じるのだが、二人が言っていることを頭で理解するこは出来ても、本当に二人の表現者のレベルにたって身体的に理解するのは無理だ。だから、素晴らしいのだが。
以下、いくつか最近書いたことに関係しそうな部分を紹介してみよう。

突然、羽生が将棋指す際に垣間見る「狂気」の世界について語りだす。以下そのテーマを二人で深く延々と語るのだが、その最初あたりから。
なにか抽象的な表現で申し訳ないんですけれども、つまり確信がもてない、その確信がもてないっていうことがいわゆる漠然とした不安ですよね。確信がもてない。つまり同じ不安でも、何が原因か分かっている不安というのは耐えられると思うんですけれども、確信がもてない不安ていうのは、なにかだんだんだんだん長く長く続いていると、精神が持ちこたえられないんじゃないかっていう、そういうところが狂気みたいなものの結びつくんじゃないかっていう、そういう感じはあります。
我々が普段将棋を指していても、不安も狂気も感じたりはしない。しかし、プロレベルになると「不安」を感じ出す。それが外面に分かりやすく表現された例が、名人戦での三浦八段である。しかし、プロといえども、「狂気」まではっきり感じてしまう棋士ははたしてどれだけいるのだろうか?
羽生の場合、人一倍真摯に将棋にむきあっているので、「狂気」とすら場合によっては直面してしまう。そういう恐ろしさをよく知っているからこそ、「不安」への対処が上手で、短い時間の将棋でも、次々に素早く拘泥しない決断が出来るのではないだろうか。羽生が一日制のタイトル戦で絶対的な強さを示すのも、恐らく将棋の強さだけの問題ではない。

「ヒカルの碁」と関連して、歴史全体とのかかわりについて、この本でもかなり深く語られている。特に、吉増氏の詩全体の歴史との関わりについての「告白」はもの凄いのだが、ここは一応将棋ブログなので(笑)、興味のある方には読んでいただくとして、羽生の発言を紹介しておこう。
定跡というのは、つまりいままでの歴史の蓄積みたいなものですけれども、その歴史の全部を否定するようなアイディアに行くのか、定跡にのるのかのどちらかしかないのではないかなという、そうい感じがして。
将棋もあと五十年経ったらどうなっているのかなあってことを考えたことがあるんですよ。(中略)狭く狭く考えていってしまうと、なんかつまらなくなるような気がするし、広く広く考えていけば、また逆にシジフォスの巨大な石じゃないですけれども、とんでもない可能性があるような気もする。それはわからないけれども、そういうことを考えていて楽しかったりするのです。

羽生が、吉増氏に対して詩の言語全体の歴史と詩人のかかわりについて、ものすごい勢いで質問し続ける。詩についての興味もあるのだろうが、羽生が将棋の歴史全体を意識しているのは明らかなようにも思える。
「ヒカルの碁」の「神の一手」が、恐らく歴史全体の産物であるように、羽生も将棋の歴史全体と意識的に対峙して将棋を指しているのだろう。そして、猛烈な定跡化によって解明されつつ現代将棋を賢明に理解しながらも、羽生の視線はそういう定跡化からどうしてもこぼれ落ちるもの、将棋全体の歴史の蓄積を全て感じることにっよって逆説的に可能な「自由」に向いているような気がしてならない。もちろん、私の独断に過ぎないののだけれども。つまり、羽生は将棋の歴史全体による拘束や不自由を全て正面かすら受け止めながら、その歴史を超える、ーという言い方は適切ではないかもしれないー、のではなく「すりぬける」ような行為を夢見ているとでも言うか。シジフォスのように、永遠に続く労苦を厭わずに、坂から降りる一瞬の喜びのみを待ち望んで。
また、羽生は「神の一手」が、羽生個人の所有物でないことも一番よく理解している棋士だろう。羽生が最近よくいう「将棋は他力」というのは。まさしくそのことだ。

さて、もう読むのがイヤだという読者のために、最後はこれを紹介しておこう。
(対戦相手と共鳴がおこりやすい条件について)それは、率直にいうと、相手の将棋を認めているかどうかということが大きいと思います。だから人間性とかでなくて、その人の指している将棋そのものを認めている、すばらしい将棋を指す人だということをちゃんと思っていれば、そういう共鳴は起きると思いますけれど。
やはり、羽生はエロスではなくアガペーの愛の人なのだ。
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