2010年12月

「NHK杯将棋トーナメント60周年記念・歴代優勝者が選ぶ名勝負十局」感想

最初から最後まで余すところなく語りつくしたくなるような貴重な番組だった。以下、呼び捨てにしてはいけない方々が次々に登場するのだが、敬称略で統一して書かせていただく。

十局中、羽生善治の将棋がなんと七局を占めた。やはり、NHK杯の歴史は羽生善治の歴史だったといえるだろうか。今回は歴代優勝者が選んでいるので、特に現役世代の将棋が多くて昔の名局が抜けているかもしれないが、やはり現役世代にとって、NHK杯に限らず将棋の歴史がそのまま羽生善治の歴史だということを感じさせた。
選ばれた将棋では、やはり羽生が、大山康晴、加藤一二三、谷川浩司、中原誠という歴代名人を連破して優勝した伝説の大会が印象的である。一位に加藤戦、四位に決勝の中原戦が選ばれた。
加藤戦については、伝説の▲5二銀があるので一位は予想通りである。当時の映像で全ての指し手を再現したので、将棋の流れが分かって良かった。角換わりの将棋で羽生が先手で加藤のお株を奪う棒銀で攻め倒した将棋である。そういう将棋の内容もそうだが、羽生の指し手、指す手つき、全てに迷いがなくて若々しい。新鮮である。羽生睨みも出ていた。それに、負けずと加藤もど迫力の対局態度と手つきで対抗していたのも爽快だった。伝説の▲5二銀よりも、羽生が若くて攻撃的に年長の棋士に襲い掛かる様子に感慨を覚える。最近、逆の立場の竜王戦を見終えたばかりなので。
米長邦雄が、いつものように賑やかな解説で盛り上げているのだが、羽生の若々しい将棋の勢いに反応していたところもあったように感じる。ちなみに、▲5二銀の瞬間に、米長がマイクの音声が割れるくらいの大声、奇声をあげたのだが、羽生によるとそれが防音された対局室にまで聞こえてきたそうである。そんなことは後にも先にも、その一度きりだとのこと。
加藤戦よりも将棋の内容が鮮烈だったのが中原戦である。当時の映像とスタジオの映像を見比べて感じたのだが、羽生はやはり今より顔も細身でシャープな印象である。黒澤明の「椿三十郎」で、三船敏郎扮する素浪人のことを大名の奥方が「あなたは抜身のないむきだしの刀のような方ね」と評するシーンがあるのだが、若き日の羽生の映像にも、ちょっとそんなところを感じた。
将棋自体も、角と飛車を次々に叩き切り、以下も鋭い寄せで中原玉を捕獲してしまった。その流れるような攻撃手順は本当に見事だ。羽生も振り返って、「今見ても信じられないくらいうまく指せていますね。自分の持っている力以上の将棋が指せた。出来すぎという感じがします。」と言っていた。後半は謙遜だろうが、羽生も自分の過去の姿を見て何か思うところがあったのではないだろうか。先日までの竜王戦では、どこかアンバランスで踏み込むべきところで自重したり逆に辛抱すべきところで無理に行ったりしていた様に思えた。素人が偉そうに言うべきことではないのだろうが、将棋に迷いのようなものを感じた。相手の渡辺明には、指し手に全く迷いが感じられなかった。そういうアクセルの踏み方緩め方が将棋では一番難しいのだろうが、かつての全く迷いのない羽生に何かのヒントがあるのではないたろうか。羽生ファンとしては、羽生にその何かを見つけてもらいたいなどと感じたりもした。
解説が大山だったのだが、当然ながら実に的確で鋭かった。最近、羽生が「大山先生は読まないでも局面を見ただけで急所がすぐに分かる」とよく言うが、まさしくそんなことを感じさる伝説の解説でもあった。永井英明の名聞き手ぶりも懐かしい。

羽生が負けた将棋も入っている。長沼洋が驚異の受けで羽生をうっちゃった将棋も当時話題になったものである。同票の七位。羽生が投了した瞬間に、長沼が何か申し訳ないとでも言うように、ほとんど畳に頭がついてしまうのではないかというくらい頭を深く下げていたのも印象的だった。長沼の人柄を感じさせると共に、羽生に勝った嬉しさがにじみ出る名シーンだった。
羽生が決勝で山崎隆之に負けた将棋も六位にランクインした。羽生も当時を振り返って、山崎の△3九銀が珍しい筋で印象的だったと語っていた。この手に象徴されるように、世代的にそれまでとは「線ではなく点で考える」新感覚の棋士が現れたなどとと騒がれたものが、今にして思うと世代の問題というよりは山崎の強烈な個性だと感じる。
羽生が決勝で村山聖と戦った将棋が三位。最後受けておけば村山の勝ち筋だったのを、ウッカリで飛車を抜かれて急転直下で負けにした将棋である。スタジオで映像を見つめる羽生も、やはり感慨深げだった。
中原と米長の重量級の対決が二位。ランクインした中では懐かしい感じがする組み合わせである。実はこのお二人での決勝はこの一回だけだったそうである。ちょっと意外だった。さすがに将棋も対局姿も迫力満点だった。
櫛田陽一が四段で一気にかけあがって優勝した決勝の将棋が流れたのも嬉しかった。第五位。やはり、この頃から櫛田は堂々と居飛車穴熊にくませて、堂々と作戦勝ちして勝っていたのである。そして、それを今でも変ることなく続けている職人肌で頑固な棋士である。フリークラスに自主的に転出した関係で、引退の時期が近づいているのだが本当に惜しい。何とかならないものだろうか。
中井広恵がNHK杯で女流が初勝利をあげた将棋も同票で七位に選ばれた。その回のトーナメントで、中井は佐藤康光もほとんど負かす直前のところまで行ったのである。本来その将棋が選ばれるところだったので、あれは残念だった。オマケで中井がNHK杯に初出場した際の映像も流れたのだが、対戦相手の先崎学も含めて、いや若い若い。他にも懐かしい聞き手や読み上げや記録が映っていたが、女性の場合、やはりファッションや化粧が随分変るものだと感じた。本当に余計なことだけれども。
番外編では、小林健二の時間切れブザー鳴り。ブーと無機質なブザー音が響き渡る絵はなんともシュールだった。有名?な豊川孝弘の二歩も。直後に豊川は「あっ、失礼失礼、申し訳ない」と。咄嗟に「申し訳ない」と出てくるのが豊川らしい人柄の良さを感じさせた。

羽生善治以外に、もうひとのこの番組の主役がいた。加藤一二三である。ラジオ時代の話をされていたのだが、若き日の先生のモノクロ映像が。クールな眉目秀麗な感じの痩せた美青年である。最近のファンは驚かれたのではないだろうか。対戦相手の大山が当時37歳というのにも貫禄がありすぎて私は驚いたのだが。
加藤の場合、今とその当時のイメージに落差がありすぎる。しかし、米長が羽生vs加藤の解説で加藤の少年時代を紹介していた。「若い頃はとてもお喋りだった。有吉さんが『ピン(一)ちゃん、うるさいよ』、そういう風に叱ったというくらい早口で喋る少年だった。」と。つまり現在の加藤は少年時代に先祖帰りしたということであろう。
同票の七位に、羽生が中川大輔に大逆転した将棋が選ばれたのだが、この将棋に関してだけは主役は解説の加藤だった。これは私もリアルタイムで見ていたが、中川玉の頓死を発見した後の加藤は伝説である。「あれっ、あれあれあれあれ。」あれを何度言ったか私は数え切れなかった。そして「ひゃあー」の繰り返し。擬音の天才。スタジオの羽生によると、「私も、あれ、っくらいは思った。ひゃあー、までは思いませんでしたが」とのこと。
第十位は加藤vs大山の古い対局。残念ながら映像が残ってないそうだが、その代わりに「加藤一二三・当時を振り返って語る」を観ることが出来たのはファンにとって僥倖であった。加藤一二三必勝の将棋を最後頓死を喰らってしまった将棋について、自分にショックな将棋なのに、加藤は嬉しそうに滔々と熱弁をふるったのである。▲8八金とやったために、すかさず△同角成とされて簡単な3手詰めの大頓死である。加藤先生曰く。
「ファンの方が言うのには、△8八角成と金を取った時の大山先生のね、この手の素早さ、つまりね、加藤さんに絶対にマッタは許さんぞ、という気迫のこもった△8八角成だったと。」と、少年当時と同じように早口で解説されたわけである。
これは谷川も印象に残っている将棋だそうで、スタジオの羽生も大山の電光石火の手つきを覚えているそうである。
唯一、この番組で残念だったのは、「加藤一二三・羽生の▲5二銀を振り返って語る」がなかったことである。
というわけで、BS特番「加藤一二三・6時間将棋を語りつくす」をどうっすか?NHKさん。

加藤一二三@週刊!将棋ステーション

昨日も、加藤一二三先生は順位戦で熱局を繰り広げられていた。昼食も夕食も、「鍋焼きうどんとおにぎり2個」という同一メニューの加藤一二三定跡で。先生にはこだわりがあり、うな重ならうな重、特上寿司なら特上寿司を昼夜繰り返すのが神聖な儀式なのである。なお、「おにぎり2個」には説明が必要だ。おにぎりメニューは、実はおにぎり3個のセットなのである。ということは・・賢明な読者諸賢ならば即座に計算されたことであろう、おにぎり2個というのは即ち必然的におにぎり6個ということになる。
将棋は、浦野先生相手に加藤先生の鋭い攻めが終盤に決まって快勝。先日の朝日杯では行方八段の指す手つきを「ロックな手つき」と中継記者が形容して話題になったのだが、加藤先生の場合ならば、アツアツで重量感溢れる「おにぎりな手つき」で盤面をたたき割らんばかりの迫力で指されていたことが容易に想像される。素晴らしいことである。

さて、加藤先生は先週の「週刊!ステーション」にも出演されて、おなじみの名調子を披露されていたので、昨日の勝利を祝して、そのさわりを紹介させていただく。
番組では羽生さんの王座就位式の模様も紹介していた。加藤先生、コメントを求められて「どうして、あんなに勝つんでしょうね、うっふっふっ」と、あの尊い笑顔を見せられていた。加藤先生は、羽生さんのことが大好きなのである。そして、羽生さんも加藤先生がタイトル戦の立会いつとめると楽しそうなのである。二人とも底抜けに明るい。
トークのコーナーでは、椅子に座って。となるとネクタイの長さがいつも以上に目に付く。真紫のネクタイが、随分ズボンの下まで垂れ下がっていた。加藤一二三流の、本当に昔から変ることなきファッション・スタイルである。
同一カード数では、一位 大山先生、二位 中原先生 三位 米長先生だそうである。かつてよく対局で当たった際に、米長先生が加藤先生に対して「顔はあうけれども、気はあわない」と言い放ったエピソードを加藤先生自ら披露されていた。そして、ご自分でも嬉しそうに大笑い。「それは彼一流のジョークでして、結構気もあうんですよ。」ということだそうである。このエピソードは昔から有名なのだが、もはや懐かしい良い思い出なのだろう。
そして、第七期十段戦第四局の大山先生相手で、初日から翌日まで計7時間考えた名手▲6二歩について。先生によると「なんと、それが強力そのものの、もうすごい絶妙手」だそうである。確かに素晴らしい手なのだけれども、ご本人がご自分でこれだけ素直に自画自賛できることが、それ以上に素晴らしいのである。さらに、▲6二歩と指せば「相手がどうやってきても、百局戦っても百局戦っても私の勝ちです」と言ってドヤ顔。それくらいの名手であったということを、胆に銘じていただきたい。
第40期名人戦で中原先生から名人位を奪取した際の話。1982年7月31日の夜の9時1分か2分の出来事だったそうである。とても大切なことなので、何分だったかも決しておろそかに出来ないのである。
加藤先生が終盤に絶妙な詰み手順を発見してかったのだが、それを発見した際に先生は「あっ、そうか!」と叫んだということである。この「あっ、そうか」は、本当にその場にいるように、スタジオでも突如トーンを上げて大声で発せられたことは言うまでもない。あくまで正確に再現しなければいけないからである。
しかし、正確を期すことでは解説の山田史生さんも負けていない。「あっ、そうか」という前に加藤先生は「ひぇぇぇぇぇ」と叫んだのだと指摘した。これには、加藤先生も照れたような嬉しいようななんとも憎めない尊い笑顔で応えるしかなかったのである。
オマケで、「東大将棋の名人戦道場」の話題。実は加藤一二三先生の声も収録されているソフトなのだが、この番組ではそれをスタジオで加藤先生本人に聞かすという暴挙?をやってのけてくれた。
というわけで、スタジオに「かとうです。よろしくお願いします。あと何分?」と流れた。
加藤先生は笑顔ながらも声が流れると「ピクッ」と(失礼ながら)かわいく照れて反応し、両手でご自分の頭をかかえてしまった。歳を召されれたびに、どんどん(再度失礼ながら)かわいらしくなっていくタイプの方なのである。
最後にキャスターの恩田菜穂さんが、ファンを代弁してこういっていた。「加藤九段、123歳までは是非頑張ってくださいね。」まさしく。先生も嬉しそうでした。
そして、加藤先生を見ていると少し気が早いけれどもこう言わずにはいられない。

メリー・クリスマス!

続・将棋における人間とコンピューター雑感

先日、「運命の一手 渡辺竜王VS人工知能・ボナンザ」がNHKのBSで再放送された。この番組について、私は初回放送の際に感想記事を書いたので、ここ数日検索して見て来てくださる方がいらっしゃる。その記事自体は、私がコンピューター将棋について全く無知な状態で書いたので、内容的に不十分だったり過ちに近い部分も多数あるのだが、最後に書いていることだけは今もその考えに変りはない。
一方の保木さんも、なかなか魅力的な人物である。最後に述べていた言葉がとてもよかった。
「ボナンザは一秒間に四百万局面を読むが、それを軽く渡辺竜王の脳が凌駕していて、訓練された人間の脳のすばらしさを認識し、やはり人間の知性は素晴らしいと思いました。」
ソフト開発者が言うからこそ、重みもあるし感動的である。
これも以前書いたが、究極的に「計算可能」な将棋というゲームでは、ソフトが人間の名人より強くなる日もいつかは来るだろう。しかし、そのこと自体はゲームの性質上、人間にとっては決して恥ではないのだ。
むしろ、コンピューターの冷徹かつほとんど無限な計算力に、一瞬の直感等の能力をフル稼働して対抗する人間の脳の神秘、人間の能力のすごさを思う存分楽しみ、誇りに思えばよいのだと思う。
コンピューター将棋については、具体的な話題を含めて折を見て書いてきたのだが、今回は人間とコンピューターというやや漠然とした問題について論じてみる。しかし、実はこの問題についても既に一度書いている。

ものぐさ将棋観戦ブログ 将棋における人間とコンピューター雑感

本質的な問題なので、ここに書いていることと今も考え方は変っていない。一応今回書くことだけで完結するように努めるが、この記事に書いてあることを前提にして論じるので、余裕のある方は出来ればまずこれを読んでいただけるとありがたい。
周知の通り、ここ数年でコンピューター・ソフトは飛躍的に強くなり、今やプロに迫る勢いである。そこで、この数年の変化に関連して考えていることを今回補足で書いてみよう。
一番の本質的な変化は、コンピューター・ソフトの「評価関数」の精緻化だろう。度々、自分の記事の紹介になるが、その辺の事情については、こちらにまとめてある。

ものぐさ将棋観戦ブログ 世界コンピューター将棋選手権雑感

「評価関数」というのは、コンピューター・ソフトが局面の優劣を判断する際の基準になる関数である。これによって、自分がどの程度優勢か劣勢かを数値化してはじきだすわけである。GPSのツイッターでおなじみの、あの数字である。
古い弱いソフトでは、単純な駒の損得だけで局面を判断しがちで、そのため評価関数が人間の感覚とはかけ離れて結果的に指しても非人間的だった。
それを、二番目に紹介した記事中の勝又先生の分かりやすい説明を参照していただきたいが、駒の効率や配置を評価関数に組み込むことが開発者ののアイディアで可能になった。そのため、単なる駒の損得だけでなく、その場の形に応じたより人間的な指し手が可能になった。それは、現在のトップレベルのソフトの将棋をみれば一目瞭然である。
ただ、その際に問題点が存在する。今述べた駒の効率や配置を計算するにあたって、将棋は複雑すぎて人間の手計算では難しい。そこで登場するのがボナンザ式の「学習」である。ソフトに人間のプロの棋譜を多数データとして与え、それを自動的に学習させることで、駒の効率や配置(駒の損得)をふくめた評価関数をつくりあげる。そして、現在トップのソフトは全て何らかの形でこの「学習」方式を取り入れている。
つまり、コンピューターが局面を判断するにあたって、完全にオリジナルなコンピューターだけの思考を行っているわけではないのだ。間接的にではあるが、人間の将棋を「真似」することで評価関数の精度をあげている。
そこで、テーマの人間とコンピューターの関係になるのだが、実は現在の将棋の世界においては、完全な人間とコンピューターの対立が存在するわけではない。あくまで人間の指す将棋のデータをもとにしながらコンピューターに役に立つ言語へと翻訳する方式を採用しているからだ。
一方で、人間らしい直観力や形の把握能力や流れを考える力や美的感覚のセンスなどなどがある。他方、コンピューターは完全に自前の思考ではない。あくまで、今いった人間の様々な能力が詰まった棋譜をもとに、なるべくそういう人間の判断に近づけて判断できるように努力を払っているというのが本質だ。その評価関数においては、つまり人間になるべく近づけようとしながら、一方で機械が人間を凌駕する計算力で、その差をカバーしようということである。
しかし、今の議論は単純化しすぎで、実は現在の「学習」による評価関数には別の側面もあると思う。先ほど述べた人間だけの能力というのは確かに素晴らしいものだが、その一方で人間は自分の経験に基づいて物事を先入観を持って主観的に捉えてしまう危険が常にある。将棋で言うと、いわゆる「よい筋」にだけこだわって、「異筋」の好手に気がつきにくい。
コンピューターの評価関数は、人間の棋譜を参考にして学ぶが、勿論そのままではない。コンピューターの一切際曖昧なところに翻訳する。また、そうしないとコンピューターには役に立たない。だから、その翻訳の経過で人間的な細心な緻密な判断が失われるかもしれないが、その代わりに人間的な偏見やクセが消し去られるという建設的な効果も期待できるのではないだろうか。
さらに、コンピューターは手を片っ端から(実際はある程度選択しながらのことが多いが)読む。人間のように、直感で最初から大部分の手を捨ててて幾つかの候補に絞り込んだりしない。その結果、人間が習慣でつい見逃してしまう手を、コンピューターが先入観なく発見できる可能性だってある。
それは、実際に起きていることで、対局者のみが気づいて検討しているプロが全く想像もしていなかった妙手を、例えばGPSがいとも当り前のように指摘するのを何度も目撃している。
まとめると、人間には人間だけの芸術的できめ細やかで直感的な思考が可能だが、一方で経験則にとらわれて新しい非凡な発見をしにくい。一方、コンピューターは、人間と違って融通の利き思考が出来ないのが欠点だが、そのかわりまっさらな目で先入観なく新しい発見が出来る。
なるべく、具体的な評価関数の問題と関連させて論じてきたが、それは人間とコンピューターの一般的な関係について言えそうだ。そのことについては、最初に紹介した記事で書いているのでここでは詳しく繰り返さない。説明を省いて結論だけ書いておく。繰り返しになるが、ここまで読んで興味を持った方は記事を是非読んでください(笑)。
まず、現在の将棋において、人間もコンピューターも、将棋の「解」を将棋の神様のように理解しているわけではない点では同じである。別の方法、道をたどって、両者ともなるべくその「解」に近づこうとしている。
その際、基本時には人間の人間的な能力が大変有効で、まだ人間がコンピューターを本質的な将棋の把握能力では優越している。コンピューターも、局面把握においては人間的な思考を「真似」せざるを得ないのが現状だ。
一方、人間の指す将棋には、どうしても伝統的経験的な因習の限界が付きまとう。本当に客観的に将棋の神の視点でみることが、かえって人間的な能力が邪魔になって曇らされてしまうことがある。一方、コンピューターはその能力がまだ不十分だが、偏見のない目で将棋の神様だけの知る真理に近い澄んだ見方を出来ることも稀にではあるが出来る。
2010年12月の時点で、具体的なコンピューターソフトについて、今言ったような状態になっていると私は考えている。
先の記事を書いた時には、今言ったこようなことになれば「いいな」という書き方をしていた。しかし、現在それがある程度実現に近づきつつあるのでではないかと感じている。勿論、まだ全然達成はできてないとは思うが。
そして、私が理想として先の記事で書いたことは流石にまだ夢の夢だ。つまりこういうことだ。まず人間の素晴らしい能力がある、しかし、その能力には人間的な弱点かせあるので、それを偏見のないコンピューターの視点で明らかにする。そして、そのコンピューターの力を借りて、人間が自分の能力を冷静に見つめ直して、さらにら人間的なな能力を高めていく、ということ。
私は人間とコンピューターが対立するものではなく、お互いを利すると考えている。人間が本当にコンピューターの力を十二分に活用して自分を高めることが出来た時に、はたして何が起きるのか。
人間は完全に自由になるのだ。




竜王戦が終わってー2010竜王戦第六局 渡辺竜王vs羽生名人

竜王戦中継サイト。

竜王戦は、渡辺明が防衛して見事に七連覇の偉業を成し遂げた。
その記事を書いたのだが、あまりに長くなりすぎたので二章に分けた。最初に第六局や今回の竜王戦について書いて、次に今後の将棋界全体について書いたので、各自興味のある部分だけを読んでいたいただければと思う。
勿論、全国約3名のものぐさファンの方には全部読んでいただきたい。

1.再度「2手目△8四歩問題」

第四局の時にも、同じタイトルで書いたので、その繰り返しである。その時うっかり書き忘れたのだが、タイトルは梅田望夫の「どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?」(以下「どう羽生」と略させていただく)に収録されている第81期棋聖戦第一局のリアルタイム観戦記のタイトルを使わせていただいている。
渡辺後手で、また通常角換わりになった。その意義については第四局の際に書いたので興味のある方は参照されたい。
この竜王戦の前に実に興味深い伏線があった。A級順位戦の対郷田真隆戦でも渡辺は後手をもって角換わりを指している。その際、相腰掛け銀同型に進めて、驚天動地の、と言いたくなるくらい大胆な△8一飛という新手を見せた。本来定跡では別の手がほとんど当り前の局面で、なおかつ感覚的にもものすごく考えにくい手だった。
しかし、先手の郷田も後手で角換わりを受けて立つスペシャリストで、何とこの手を考えたことがあり、優秀な対策を提示して将棋は郷田の快勝に終わる。
ちなみに、その郷田はA級順位戦で後手で三浦弘行相手に角換わりを指し、自分が大胆な新手を披露したが、三浦がその場で的確な対応をして、やはり快勝した。
つまり、「どう羽生」で、羽生善治が述べているように角換わりの歴史は後手の対策が次々にダメになって消えていく歴史である。また、羽生がどこかで言っていたが、プロの場合新手を出しても、相手がほとんど必ず的確に対策を示してくるものなのだ。特にトッププロの場合は。
さらに、その前に王将リーグでは、渡辺が後手で羽生相手に相腰掛け銀同型で新工夫をした上で、第四局では早い時点で変化した。そのような色々なことがあっての第六局だったので、勝負の行方以外にも、将棋の内容、渡辺の対策にも大いに注目が集まったわけである。
とはいえ、▲7六歩に△8四歩としても角換わりが確定するわけではない。先手は矢倉にも出来るので羽生の作戦が注目されたが、結局角換わりを選んだ。羽生は大事な将棋では、総力戦で力を出しきれる矢倉が多いという印象もあるので、そうするのかと個人的には考えていたのだが、今まで述べたような流れを受けて、つい羽生も好奇心が勝って大事な将棋であることとも関係なく角換わりが指したくなってしまったようにも思えた。
そして、渡辺が選択したのは△6五歩とする指し方だった。その後▲6四角と据えるのを故村山聖先生が良く指していたし、何年か前にもよく指されたが最近は「消えた戦法」になりかかっていたそうである。
そして、渡辺のその後の新工夫というのが、実に地味というか玄人好みというか渋い着想だった。この形にすると、先手から全面攻撃されがちで、後手が苦しめとされていたところを、手を待つ金の位置を△5二にすることで、先手が最善のタイミングで仕掛けることができないようにしたのだ。そして、羽生も激しく攻めることが出来ず、後手番の作戦としては成功した形になった。
ここからは私の推測だが、郷田戦と羽生戦での渡辺の作戦選択は次のような感じだったのではないだろうか。どちらも大切な将棋だが、一応やはり竜王戦の方が比重が高いとする。その場合、△8一飛の方は、見た目は派手でインパクトは抜群だが、何しろノーガードで先手の攻めを許す大胆な手なので、失敗すると酷い目にあう可能性もある。だから、実験的な新手の方は順位戦の方で思い切って使ってみる。そして、△5二金の方は地味そのものだけれども、それで急に後手がつぶれるということはなく、本局でもそうなったが細かい神経戦になる方法だ。竜王戦という大きい将棋、なおかつ時間も長い将棋で用いるには△8一飛より明らかに適している。
以上は私の仮説に過ぎないが、どちらにせよ、渡辺はこういうことを細心に考慮した上で戦術を緻密に組み立てて選択したような気がする。そして、実際に成功した。やはり、今回も2手目△8四歩とした正統派の側面と、その上で戦略を張り巡らせる実戦派的側面がうまく噛み合ったといえそうだ。竜王戦全体を通じて、渡辺の作戦の組み立て方は見事だった。
そうはいっても、後手がはっきりよくなったわけではなく、二日目も難解な戦いが続いたが、本局もそうだが、渡辺の大胆かつ手厚い指し回しと受けに羽生が手を焼くという展開が、竜王戦全体を通じて目立った。簡単に言えば渡辺の地力がすごくて、最近になっても力を伸ばしたということなのだろう。羽生がこんなに苦しむのも本当に珍しかった。
しかし、渡辺の強さを率直に認めて敬意を払う一方で、今回の羽生が最後までどこかおかしくてちくはぐだった印象を与えたのも事実だ。今回で言うと、▲3五歩と早めに動いたのが波紋を呼んで、結局羽生は端をつめられてしまい、最後までそれが響く形になった。初日に渡辺流の△5二金の手待ちの有効性を認めて▲4六角と手放して、さらにあまりれ打ちたくなさそうな▲4五歩も打って、辛抱して見事に局面の均衡を保った(ここら辺は羽生の柔軟な大局観のよさが出ていたように思う)のだから、ここでも自然に▲5六歩と突いて息長く辛抱強く指せばどうだったのだろうかと、素人ながら素朴に感じた。感想戦の棋譜コメントには今のところ言及がないし、▲5六歩だと何かイヤな筋があったのかもしれないが。
この順に象徴されるように、今回の竜王戦全体を通じて、羽生が攻め急いだり、単調になったり、短気になる局面が多かったように素人なりに感じた。一番目立ったのは、第二局で桂馬を馬で食いちぎって激しく攻め立てたことだが、まるで羽生は何者かに追い立てられているのかのように錯覚するようなところもあった。
羽生も第三局から第五局の終盤で見せたように、鬼気迫る的確な追い上げぶりはいつもらしかったが、そこに至る中盤から終盤の入り口の組み立てにややあせりめいたものが感じられたのだ。一昨年の竜王戦も死闘になったが、あの時は両者とも存分に力を発揮しているという印象で、どちらかの状態が悪いなどとは全然思わなかった。
勿論、そのように仕向けた渡辺の手厚い指し回しが絶品だったし何よりも褒めてしかるべきなのだろうが、やはり今回の羽生は万全のベストだったとは言いがたいように感じる。渡辺の方は充実しきっていて、特に竜王戦では存分に力を発揮するので、羽生も万全の状態でもう一度戦わせて見たいと、どうしても考えてしまう。
立会いの桐山清澄先生が、BSで今回の羽生さんを第一局からテレビで見続けていて、いつもと違って勝ちたいという気持ちが強く出すぎているように感じたと指摘されていた。まさしく、そのような感じである。一昨年のこともあり、「永世七冠」もかかっている。いくら感情のコントロールの達人の羽生でも、手に余る部分があったとしてもおかしくはないだろう。
以下はごく個人的な話になって恐縮だが、かくいう私も、羽生ファンの一人として今回ばかりは「永世七冠」だけはとにかくなんとか獲得してもらいたいと思って、今までになかったくらい勝敗にこだわって応援してしまっていた。いくら羽生といえども、そんなにしょっちゅうチャンスがめぐってくるわけではないので。
しかし、そういう考え方がよくなかったのかもしれないとも思う。羽生は今まで七冠を初めとしてありとあらゆる記録をなし遂げてしまった。物理的に年月のかかる勝ち星をのぞけば、もう永世七冠くらいしか残っていない。だから、早くその記録を決めてあとは気楽に戦ってもらいたいなどと考えたのだが、そういう目標は一つくらい残しておいた方が動機付けになっていい。パズルの最後の一枚は楽しみにとっておけば良い。
勿論、私はいつになるかは分からないが羽生が必ず永世七冠を達成すると信じている。しかし、万が一の万が一、ほとんどありえない話だが、羽生が永世七冠を得られなかったとしても、私が伝記映画「HABU YOSHIHARU」を撮る際には、「市民ケーン」のラストのようになぞめいた伝説的なエピソードとして使うことが可能ではないか。
羽生さんにも、そう考えてもらって次は永世七冠のことなんか、これっぽっちも考えないで戦っていただきたいと思う。あくまで、対戦相手との戦いを存分に楽しんでもらって。「3月のライオン」で、宗谷名人がライバル隈倉九段のことを、「お互いにお互いが相手のことを、力いっぱいブン回しても壊れないおもちゃだと思っている」ように。

 
2.「これからの10年間」

竜王戦の最中に、豊島将之が過酷極まりない王将リーグを抜け出して挑戦を決めた。ついに、渡辺よりも、さらに若い世代のタイトル戦登場である。
さてタイトルの「これからの10年間」は、やはり梅田の第80期棋聖戦第一局のリアルタイム観戦記「割れる大局観」の中の第一部から使わせていただいた。(「どう羽生」にも収録)そこで梅田は棋士を世代別に「羽生世代」「ちょっと下の世代」「渡辺竜王を中心とする世代」「もっと若い世代」に分類している。つまり、「もっと若い世代」に属する豊島が、いよいよ桧舞台に立つ日が出現したわけである。
王将リーグは、羽生、森内俊之、佐藤康光の「羽生世代」3人、深浦康市、三浦弘行の「ちょっと下の世代」2人、渡辺の「渡辺世代」が1人に豊島が加わった7人だった。この総当りリーグで豊島が挑戦したのは画期的な出来事である。かつての羽生世代ダイナスティに陰りが見えてきたところに、一気に一番若い世代の人間が突き抜けてみせた。最終局は、「羽生世代」の佐藤を豊島が破って挑戦を決めるという劇的な結末になった。「世代交代」を象徴する出来事とも解釈したくなるだろう。
しかし、事はそんなに単純ではない。豊島は別として、王将リーグの結果を振り返るとまさに星の潰しあいである。羽生は豊島に敗れ、渡辺は豊島に勝ったが、その渡辺は、佐藤や三浦というそれぞれの世代の棋士に敗れていて、その関係は実に込み入っている。どの世代がどの世代に強いとは言えない関係なのだ。つまり、普通の「世代交代」というのは若い者が年老いた者を追いやるのだが、現在の将棋界においては、各世代の実力が均衡して大差がない、まさに「戦国時代」なのである。
なぜそういうことになるのか。要するに「羽生世代」が歳をとっても強いからだ。普通は歳が上のほうが衰えるのだが、将棋に対して若い頃から真摯にかつ現代的な科学的な方法で一番ストイックに取組んできた人たち=「羽生世代」がいる限り、それより若い世代は決して楽が出来ない仕組みになっているのである。不惑の年齢にさしかかりつつある彼らは、今までのように栄華を一身に集めることは不可能でも、相変わらず将棋界の一番のキー・ジェネレーションでありつづけるだろう、というのが私の見方だ。
とはいえ、王将戦以上に世代交代的な現象が顕著だったのが棋王戦である。挑戦者決定トーナメントのベスト8に羽生世代が一人も残らなかった。但し若手だけで占拠されたというわけではなく、羽生世代より上の「谷川世代」に近い高橋、あるいは「ちょっと下」の丸山、若い世代より上の窪田の3人が残っている。これも、世代交代というよりはやはり「戦国時代」と解釈した方が正確そうだ。
そして、王将戦も棋王戦でも「羽生世代ではない」挑戦者を受けて立つのは「ちょっと下の世代」の久保利明である。この世代は常に板ばさみで苦労が多そうだ。
つまり、現在の将棋界は、若い世代の猛烈な押しあげが起きているが、単純な若返り現象ではなく、各世代が均衡しつつ、むしろそれぞれの世代から抜け出す個が光を放つ戦国の個人武将の時代なのだ。むしろ、世代別による勢力均衡図がどんどん無効化され、個人の力だけがものをいう時代になりつつあるのかもしれない。そして、その傾向は「これからの10年間」で、どんどん加速していくのではないだろうか。これからは、世代ではなく個の存在感や個性の時代だと私は考える。そして、伸びゆく若い世代には勿論、逆に羽生世代にも全ての優れた棋士にはチャンスがあるのではないだろうか。

さて、そういう時代において羽生と渡辺はどのような位置を締めることになるのだろうか。
まず、渡辺は、文句なく新時代の最有力の天下統一武将候補になるだろう。実力は今回の竜王戦で示した通りである。現在は竜王位しか保持していないが、その実力を考えると、複数タイトルを獲得するのは時間の問題のようにも思える。何より若くてこれから一番脂がのった時期を迎えるのが強みだ。今までの、木村時代、大山時代、中原時代、羽生時代の次に来る名前の最有力候補は勿論「渡辺明」である。
しかしながら、渡辺にとって苦しいのは、今まで述べてきた通りに、他の世代にあまりにもライバルが多すぎることだろう。古い時代に遡るほど、第一人者の実力が突出していて、彼らはごく少ないライバルを徹底的に叩き潰すことだけに専念すればよかった。それだけで、自分の王座は安泰だったのだ。しかし、羽生時代以降は、将棋が個人芸でなく共同的な科学研究にも似た世界になり、その叡智が共有化されたために、棋士のレベル差が著しく小さくなり第一人者も倒さなければいけないライバルが山ほど多くなってしまった。そして、その事態は時代を追うごとに加速化していく。なおかつ、羽生世代以降は年齢による衰えが小さい。従って、渡辺にとっては厳しい条件ばかり揃いすぎている。つまり、木村時代と現在の時代では、棋士を取り巻く環境があまりにも違いすぎるのだ。その中で渡辺が、どの程度「渡辺時代」を築けるかにも大いに注目したいところである。
一方の羽生、そういう意味では今まで僅差の実力差に取り囲まれながら圧倒的な実績を羽生が残してきたことにこそ、一番驚くべきなのかもしれない。つまり、それまでの第一人者の時代とは違い、羽生自らが先頭に立って将棋の研究体系化を推し進め、将棋を個人芸から知識共有型の科学に変えてきた。しかも自分の得た知識をある程度意識的に開示して、周りのレベルをお引き上げ、その力を借りてさらに自分のレベルを上げることを行ってきた。自分が独占的な第一人者でいられる条件を、自分からどんどん放棄してきたようなものだ。それなのに、なぜ圧倒的な「羽生時代」を築き上げることがなぜ出来たのだろうか。「どう羽生」はやはり簡単に解明できるような問題ではなさそうだ。
それでは、これからの羽生はどういう位置を占めていくのだろうか。不惑を迎えて、当然今後は体力という基本要素との戦いが付き纏うだろう。そして、渡辺をはじめとして今までよりも強力な若いライバルに多く直面することにもなるだろう。しかし、羽生はそういう事態に対処する能力を持ち合わせていると思う。羽生の最近の発言を考えても、あたかもこういう時が来るのをあらかじめ予測して、その対処方法を探ってきたようにも思える。
ある時は、現代の徹底的な研究将棋を逆手にとって、その定跡の穴を突いたり(竜王戦の最初の二局で見事にやって見せたように)、逆に定跡のない道の将棋に天才的な局面の初期把握能力を発揮したりしてくれるだろう。
今月の将棋世界の糸谷哲郎の自戦記で、羽生が実戦では現れなかった意外な手を感想戦で指摘し、その研究外の手がパッと見の印象と異なり実に有効なのに糸谷が驚いたことを率直に書いていた。一昨年の竜王戦第一局が有名だが、羽生の他の誰にも真似できない独特の深い大局観も、今後大きな武器の一つになっていくはずだ。
羽生が時代の大きなうねりに直面しながらも、むしろめそれを楽しむかのようにどのように対応してくれるかが私は楽しみでならないのである。
先ほど、第一人者の時代について触れた。勿論、木村も大山も中原も偉大この上ない棋士だし、渡辺もその列に自分名前を連ねることになるかもしれない。しかし、羽生はそうした第一人者達の中にあっても特別な存在である。将棋自体の質を根本的な転換し、なおかつ羽生善治という存在にしかありえない唯一人だけの個性を輝かしく放っている。将棋界においてのみならず、羽生はワン・アンド・オンリーな稀有な存在なのだ。たとえ、今まで通りのような独占的な「羽生時代」ではなくなっても、その圧倒的な存在感は羽生が将棋をやめるまでは決して失われないはずである。

最後にまた少しだけ個人的なことを書いておこう。私は羽生ファンである。「どう羽生」で梅田が最終的に誰もが「将棋界全体」を愛するようになればいいと書いていた。そのことと個人の棋士だけを愛することは果たして矛盾するのだろうか
そんなことはない。人間を全体として皆愛していても、それぞれが特別に深い結びつきや関わり持ち付深く愛する特別に人を持ち、その両者が消して矛盾しないゆように。
羽生のことだけを特別に愛するという行為は、むしろ将棋の世界全体を深く愛することを可能にするはずだ。誰かを深く愛さないと、人類全体を愛すことなど不可能なように。
最近痛感するのだが、結局私は羽生世代のことが一番好きなようである。羽生世代全盛時には、それが当り前すぎて見えなかったが、先にも述べたように、将棋に対する常にストイックな姿勢や、島朗の名言(というか本のタイトル)のように「純粋なるもの」たる他には見られないような澄みきった人間性。それでいて、人間味がないわけでなく、明るくてユーモア溢れるとてつもなく気持ちのよい人たち。いわゆる「ちょっとしたの世代」も羽生世代に近親憎悪的な屈折的な感情を抱きながらも、基本的には羽生世代の影響を色濃く受けた素晴らしい人たちだ。そして、それらを代表するのが羽生なのであるる
たまたま、私の場合は、それが羽生であるだけだ。それぞれの将棋ファンが、それぞれ愛する棋士をみつけて、とことんその棋士を深く愛せばいい。そうすることでこそ、あるいは、そうすることによってのみ、本当に将棋の世界全体を愛することが可能になるだろう。
地球は愛の惑星なのだ。




「3月のライオン」第五巻までをまとめ読みして

遅ればせながら、第一巻から第五巻までを一気に読んだ。恐らく他の皆さんもそうだろうが、泣いたり笑ったりして読み終えたわけである。読めば分かるという傑作なので、この種の本については余計な感想など不要なのだろうが、将棋ファンが感じたことをとりとめもなくメモ書きしておこうと思う。
なお、ややネタバレ気味で書くので未読の方はご注意ください。




河が何となく好きで現在の街に越してきた桐山零は世界に居場所がない、というようにこの物語りは始まる。あくまで優しくて、どことなく郷愁めいたものを誘わずにはいられない絵が物語をつつみこむ。零は不幸な境遇で育ったのだが、恐らくそうでなくともとことん孤独なタイプの人間である。零をあたたかく支えるあかり、ヒナ、モモの姉妹の家庭にも、(まだ明かされてない理由によって)明るいながらも、どことなく寂しげな陰がつきまとっている。
――という羽海野チカ・ワールドにどんどく引き込まれていきながら、この物語がどうやって「将棋」の世界とつながっていくのだろうかと将棋ファンの読者は思う。この優しい世界と、場合によっては殺伐とした勝負の世界がどうつながるのだろうかと。
そんな読者の疑問をよそに、次々と魅力的な「プロ棋士」のキャラクターが登場してくる。基本的に全て作者の豊かなイマジネーションによる創造物なのだろうが、将棋ファンだからなのだろうか、実在する棋士との関連性を感じてしまう。それは全体的な類似ではなく、ごく一部の素材が共通で、そこからキャラクターがふくらんだりリデフォメルメされたりしていて、元の棋士とは基本的には関係ないのだが。
私が頭に浮かんだ棋士を思いついただけだが挙げておくと、豊川孝弘、村山聖、加藤一二三、藤井猛、木村一基+行方尚志、羽生善治、体格が真逆の渡辺明・・。念のため繰り返すが、私の勝手な解釈だし、全体としてのキャラクターは全員全く別物である。
さて、その作者の創造行為によるプロ棋士たちは、皆素晴らしい魅力を湛えているのだが、全員人間的な弱さを何か抱えている。零とあかりたちの世界と並行してプロ棋士たちの世界が描かれていくのだが、少し大袈裟に言うとと、そこには人間存在の孤独や弱さとそれをあたたかく肯定する作者の視線が通底しているのだ。
今のところ、一番魅力的なのは第四巻の主役で表紙にもなっている島田八段だろう。私には色々なプロ棋士のキャラクターの複合体に思えてしまうのだが、実は現在、実在するプロ棋士にもこういうタイプが多いような気がする。島田八段はあくまで漫画上の登場人物なのだが、現在のトップ棋士には島田的な真摯さと優しさと人間味をもった人が多いようにも思う。恐らく将棋ファンでない人からすれば考えにくいことかもしれないが、それこそそのままこの「優しい」漫画に登場させてもおかしくないキャラクターが現在の将棋界には多数存在するのではないか。将棋ファンとしてそんなことを感じた。
一方、一番現在の実在棋士のイメージが浮かばなかったのは、後藤九段である。後藤は、物語自体に香子とともに波乱要素と緊張感を与える役割を与えられているが、あまり現在のプロ棋士にはこういうタイプはいない。むしろ、一昔前の強烈な臭いのするプロ棋士にこういうタイプがいたのかもしれない。
但し、後藤的な要素は現在の棋士も内面的には抱えている筈だ。それを表に出さないだけで。さらに言うならば、五島的な要素はあらゆる人間が持ちあわせていて、この漫画でも、後藤と香子という分かりやすい理念形として外部化されているだけなのだろう。作者の人間的な孤独や弱さや寂しさに対する肯定的な視線については先に述べたが、こういう人間的な業としての激しさや攻撃性や場合によっては凶暴性に対しても、やはり作者は優しい視線を向けているような気がする。
だから、恐らくこの漫画の最大の魅力というのは、結局人間のもちあわせている善悪の様々な性質を決して否定せずに、すべてあたたかく受け入れている視線の深さだろう。そのために、登場するキャラクターが全て生き生きとしているのだ。
そうだ、言い忘れていたことを最後に。私の一番のお気に入りキャラは、放課後理科クラブの野口先輩である。どうすればこんな素敵なキャラクターを思いつくのだろうか・・。





ザ・死闘 ー2010竜王戦第五局 渡辺竜王vs羽生名人

竜王戦中継サイト。

大変な将棋だった。終盤も、とてもきわどくて現時点では△2四角右ではなく精算して△6二銀打とすれば、難解ながらも羽生善治にも勝ちがあったということである。
ただ、生中継されていた時もそうだったが、その前に既に羽生が逆転したのではないかというムードだった。確かに渡辺明が▲7一龍と入ったあたりでは、それでは苦しくて羽生勝ちになったのではないかと素人ながら感じたのである。チャット解説でもそういわれていた。
なので、実は私も何か羽生の明快な勝ち筋がないかと、GPSツイッターや私の手元にある弱いけど詰み検索だけは可能なソフトを参考にして調べてみたのである。そして、泥沼にはまって現在に至りブログ更新が遅れたというわけである。そんなに簡単に勝ちになる順は発見できなかった。勿論、その原因の大半は私の弱さなのだけれど、局面自体が感覚的な判断より実はまだ難しかったしいうことも少しはあるのではないだろうか。
例えば、どこかで△7七歩と入れる筋が、チャット解説でも指摘されていたし、GPSも何度も主張していた。しかし、タイミングが難しくて、想像以上に▲6一金の筋が厳しくて間に合わないように感じた。本譜の最後に出てきた▲5一角で△2四角を抜く筋や、あるいは△3三玉と逃げても、王手をかけながら自玉を安全にしながら相手玉に詰めろをかける筋などがあって複雑怪奇である。逆に羽生側からすると、先に渡辺玉の辺りで精算してから△2四角とするタイミングも色々あって、結局弱い素人には、その複雑なパズルの組み合わせに眩暈がして断念せざるをえなかったのである。
もっとも、プロがよく調べれば、もう少し早い時点での羽生の明快な勝ち筋がみつかってもおかしくはないとは思うが。
最後の終わり方はあっけなかったが、一分将棋で今述べた様々な組み合わせを全て読みきるのは至難の業だったのではないだろうか。羽生にしても、最後△3三玉と逃げる筋がありそうで実は自分が負けと読みきる超絶した能力があったために、分かりやすい負け筋を選んでしまったということなのだろう。渡辺もその筋はちゃんと読んでいた。当り前だが二人とも本当に強い。
また、冒頭の勝ち筋も、無理やり受ける上に、先手に山ほど金銀をもたれて、いかにも後手玉が詰みそうなので(実際には詰まないそうだが)、実戦ではものすごく指しにくかったのではないだろうか。
羽生の追い上げは見事で、特に怪しげな△3七歩とか、△4五歩をゆっくり間に合わせて相手のあせりを誘おうとする終盤の技術は流石だった。普通の相手なら、「羽生マジック」の餌食になっていただろう。
しかし、渡辺も見事だった。▲7七桂から、あせらず遊び駒を活用し、▲7一龍から▲9一龍と時間差での活用。羽生に負けず劣らず落ち着いていた。本当にこの二人の終盤は見ごたえがある。「レベル高すぎ」、なのだ。
というわけで、羽生逆転ムードだったけれども、良く調べるともしかすると逆転までには至っていなかったのかもしれない。野球で言うと、7回までは10-0で勝っていたが、猛追されて10-9まで来たが、やはりそれまでの大量リードが大きすぎたという感じだろうか。同じく野球風に言うならば、明日につがる敗戦だったということにもなるだろう。
それにしても、羽生を負かすのは本当に大変である。「どうして羽生さんだけを負かすのが、そんなに大変なんですか?」である。
とはいえ、羽生も、流石に毎回毎回こう苦しい将棋を追い上げる展開ではしんどいだろう。次は、序盤中盤でリードを奪いたいところだろう。逆に言えば、渡辺の指し回しが冴えていて、渡辺とすれば次もリードを奪いたいはずである。
第一局第二局こそ羽生が本調子でなく、内容に不満があったが、その後の三局はどれも名局続きである。羽生も、本局についてある多程度内容には納得しているはずだ。次局も名局を期待しよう。
ところで、BS中継では、地元案内のロケで杉本昌隆がろくろを回して形をくずして失敗する微笑ましいシーンが流されていた。杉本の笑顔は、映画「千駄ヶ谷 天使の詩」(仮題)にふさわしい、憎めない素晴らしいものであった。


コメントを承認制にさせていただいています。反映まで時間がかかりますが、お気軽にどうぞ。
Recent Comments
  • ライブドアブログ