2013年01月

糸谷哲郎「現代将棋の思想 ~一手損角換わり編~」



一手損角換わりというと、すぐに去年の竜王戦の▲渡辺vs△丸山を思い浮かべる将棋ファンも多いだろう。あの時に丸山が採用した四手目に△8八角成として△3二玉と構える形が、本書の最終章で取り上げられている。
竜王戦の際には、昨年も一昨年も後手の丸山の作戦がうまくいかず、先手の渡辺がうまく対策を講じたという印象だった。あの後手の形は玉のコビンが開いていて陣形として不安定だし作戦としてどうかと感じられた。あの丸山流の一手損作戦に渡辺が引導を渡したようにも素人ファンには思えたものである。
この糸谷本は、そういう主張に対する反論にもなっている。まず、第一にあの丸山流の形は、実はまだ未解決の変化を多く含んでいる。竜王戦で出た形にも言及しながら、後手が正しく指した場合の変化について糸谷の見解を述べている。そして、正しく指せば実は後手も指せると糸谷は考えているようだ。
第二に、丸山流の後手の一手損の形は一見奇異だけれども、なぜ現在ああいう形に至ったのか、糸谷は一手損の歴史を概観しながら解明している。丸山がああいう形を採用するに至った歴史的必然が本書で理解できるのである。
どうしても、我々一般ファンは将棋の結果だけで判断してしまいがちだ。竜王戦だけ見ると、丸山流の一手損は単なる冴えない作戦に思えてしまう。しかし、当然その背景にはプロの膨大な研究とその進化の紆余曲折の過程がある。私などは、本書を読んで竜王戦の丸山将棋への自らの理解の浅さを痛感させられた。
本書は基本的には一手損角換わりの歴史を概説したものである。その一方で、今述べたように竜王戦の▲渡辺vs△丸山という表に表れた一つの棋譜の膨大な背景を解説しているという読み方も可能な筈だ。水面上の氷山の一角の単なる一つの棋譜に、どれだけのプロ棋士の共同研究や実戦の試行錯誤の結果が盛り込まれているかを知ることが出来て面白かった。

マイナビのサイトが本書の予告として糸谷自身によるまえがきを紹介している。糸谷の本書での意図が明快に述べられている。
「――本稿においてのメインテーマは題目にもある通り一手損角換わりである。となれば、本稿の目的は一手損角換わりについての説明となるわけだが、その目的は何をもってすれば満たされるのだろうか? 単に戦術的な面について述べるに留まるのでは、一手損角換わりの一面についてしか描写出来ておらず、研究書ならばともかく解説書を名乗るには不満があるのではないだろうか。研究手順のみをつらつらと書き述べることもまた必要なのではあるが、研究手順は時代時代においてすぐに変革されていくため、本の価値を長く残そうと思うのであれば、研究手順の前に、「どうして一手損角換わりを指すのか」「一手損角換わりという戦法はどのようなことを狙っているのか」ということをおろそかにしてはならないだろう――」
(マイナビBOOKS 「糸谷六段渾身の処女作「現代将棋の思想 〜一手損角換わり編〜」もうすぐ発売!」より)
要するに単なる普通の定跡書にはしたくないという事である。
以下、まず各章の内容について簡単に紹介してみよう。

第一章 後手の戦法の比較検討
まず、一手損だけでなく、△8五飛、ゴキゲン中飛車、矢倉、一手損という後手の作戦を簡単に解説している。その際に、単なる手順だけでなく「玉の堅さ」「先後同型」といった観点によって定跡の進化を解説する工夫を試みている。
そしてそれらとの比較を踏まえて、一手損角換わりについては、「先手の手詰まり」を目指し、また「現代的な玉の堅さを目指す方向とは逆行している」と捉えている。

第二章 一手損角換わりの発展
現代的な一手損に至る前の一手損の歴史を概観している。その際、プロ将棋における実戦の感覚とその理論化の意義について大変糸谷らしい考察もしている(後述)。

第三章 一手損角換わり△3二金の衰退
それほど昔ではない近年に猛烈に指されていた△3二金に対して先手が早繰り銀で攻め込む変化の定跡歴史の解説。なぜこの後手の形が衰退したかについて。本文中には明示されないが、プロ将棋でよく出てきた形が次々に出てきて懐かしい。と言ってもそんなに昔の話でなく数年前の事で本当に現代将棋の定跡進歩の猛烈な速度を感じる。

第四章 一手損角換わりの工夫△8四歩不突き
第三章の△3二金プラス△8四歩突きではなく、△3二金プラス△8四歩不突きの形を解説している。
飛車先を突かないのは飛車先不突き矢倉など現代将棋の定番である。一手損でもその思想が現れた。
但し、次の△3二金をも保留していきなり四手目に角交換する形が隆盛となったために、この形は研究が進んでいないという。歴史の進化が猛烈すぎてその間のようになった形。
確かに他の章と比べてプロの将棋の印象が薄いように思える。

第五章 一手損角換わり△8八角成型・前
四手目で角交換した上で後手がダイレクト向かい飛車にする形の解説。本書で唯一振り飛車が解説されている部分である。
もはや、居飛車党か振り飛車党かを区別できない時代であることを象徴しているとも言える。

第六章 一手損角換わり△8八角成型・後
現在の課題になっている最新型の解説。冒頭に述べたように丸山が竜王戦で採用していた形である。
この形の成否が一手損角換わりの命運を握っていると言っても過言ではないので、糸谷も気合を入れて自身の研究成果を、竜王戦などの変化も踏まえて詳述している。

以上、基本的には一手損の歴史の定跡変化を網羅する形で書かれている。当然その定跡説明だけで本来膨大な量になる筈だ。
従って、糸谷が書くに当たって理想とした「一手損の思想」を十分に論じきる余地がなかったとも言える。特に後半は普通の定跡書とそれほど違うとは言えない。
但し、その中にも随所随所に糸谷は工夫して将棋の考え方を織り込む工夫をしている感じである。
これは書き方の問題と言うよりは、第一に本のボリュームの問題だろう。200ページ程度に、全ての一手損の歴史、後手の戦法、思想を盛り込もうとすれば、どうしてもどの部分かが不十分になる。
そして、基本的な定跡説明は欠かせないので、どうしても糸谷流の「思想」の説明部分が不十分になってしまう。
改善策としては、本のボリューム自体を大きくするか、或いは定跡説明を犠牲にしてでも、糸谷が将棋の思想を語ることを中心に据えるかしかないだろう。
本書は「一手損角換り編」と題されているので、もし続編が出るならばそういった事を期待したい。
本書はネット上でも前評判が大変高かったが、主に糸谷の「将棋の思想」に期待する部分が大きかったように思う。本書は定跡書としての価値も高い一方で、そういう側面を売りにした書籍も期待したい。
なお、このジャンルでは勝又清和が「最新戦法の話」や現在も継続中の将棋世界の連載で素晴らしい成果を残している。その際に、勝又はポイントになった具体的なプロ将棋をあげて定跡の進歩を解説している。個人的には、それが読んでいて楽しいし情報の整理確認にも大変役に立つ。
本書ではやはり何よりボリュームの問題でそこまでする余裕がなかったに違いないが「歴史」を書くならば、やはり勝又方式がベストである事は間違いないと思う。
本書も特に最終章などは具体的に竜王戦と関連させて説明していると、なお面白かっただろうと感じたので。

第二章の第一節は「理論化の意義、方法」というタイトルである。糸谷らしい、少し古風で硬めの文体で、まるで哲学の本のように語っている。ファンとしてはこういう部分をもっと増やして欲しいと率直に思う。
プロはいちいち理論化して考える事は少ない。むしろ多くの実戦を経験してその繊細な感覚を体で習得している。そして、それをおおまかではあるが言語化したものが理論だと糸谷は言う。
糸谷はプロ棋士にとっての「理論化」についても論じているのだが、我々アマチュアにとっては是非プロに自分たちの将棋を「理論化」して語ってもらいたいところだ。ただでさえ現代将棋は難解なので、単なる手順だけでなくその意味や思想を我々ファンは知りたいと思っている。その意味でこの糸谷本は(その意図が十二分に実現できたかはともかくとして)、やはり画期的だと思う。
特に、最近はプロやアマ高段者向きの高度な手順のみ記した定跡書が次々に出版されている。勿論、そういう研究成果の本も重要だが、アマチュアファンに読ませるためには、今後この糸谷本のような工夫は必要だと思う。この本がその嚆矢となればと思う。勝又教授の専売特許ではなく各棋士も各自の「思想」を今こそ語るべきなのだ。

最後に冒頭に述べた竜王戦に話を戻そう。
糸谷の言うように一手損というのは「先手の手詰まりを目指す」戦法である。
一番分かりやすい例をあげてみる。通常の角交換の相腰掛銀先後同型では現在先手が有利だとされている。先手が4、2、1、7、3筋の歩を次々に突き捨てて、入手した歩で後手の△7三桂の頭に歩を打つのが基本的な狙いである。
ところが、一手損だと後手は手が遅れているために単純に先後同型にすると△8五歩でなく△8四歩のために、桂頭に歩を打たれても△8五桂と逃げられるために、通常の角換わりのような仕掛けは成立しない。「先手が手詰まりになる」可能性があるわけだ。
以上は、(本書でも説明されているが)、一手損角換わりについて有段者なら誰でも知っている基本的な説明である。
本来そういう「手詰まり」を目指す思想だったわけだが、果たして現在の(丸山流の)最新型はどうなっているだろうか?
糸谷が本書で歴史を解説しているように、後手の形に対して先手の対策が次々に開発されて後手の形が潰されてきた。その歴史の中で、後手も飛車先も突かず△3二金も決めない現代的な指し方に進化してきた。勝又教授のいう現代将棋の肝である「後回しに出来る手はなるべく後回しにする」思想である。
しかし、その一方でふと冷静に考えると、現在の丸山流△3二玉型が果たして先手の「手詰まりを目指す」形になっているかというと素人にはやや疑問に思える。
現に渡辺など先手が盛んに採用している▲3六歩と控えて打って銀交換する形では、いきなり駒が交換されて「手詰まり」にはなっていないようにも思える。
つまり、先手の対策が進んで後手の形が次々に潰される形で、後手の形が限定されてきて、本来の「先手の手詰まりを目指す」一手損り思想というよりは単なる力戦志向になっているような気がするがどうなのだろうか。私の一手損への理解が浅くて及ばないだけかもしれないが。
一方、一手損については、後手では絶対には指さない渡辺明や郷田真隆といった先手を持つ棋士の「思想」もあるはずだ。
一手損が、今後も現代的な「思想」として生き残るのか、あるいは先手が完全勝利して「消えた戦法」になるのかも今後大変興味深いところである。
今後どのような歴史の結末になるにしても、本書は「一手損の歴史書」として価値は残るはずだ。そういう意味で、間違いなく糸谷がまえがきで書いた意図は達成できていると思う。

贅楽夢への手紙


(駒.zone vol.6所収 贅楽夢「ツクモさん、叩きすぎです!」)


贅楽夢さん、駒.zone vol.6の「ツクモさん、叩きすぎです!」を拝読しました。
読んでいて純粋にとても面白かった。と同時に色々考えさせられたので、書評を普通に書こうと思ったのですが、ちょっと書評では書きにくい内容になりそうなので、小林秀雄の「召悗亮蟷罅廚里茲Δ冒郎遒箸睇章世箸發弔ない書簡体で書かせてもらいます。
前作、前前作の時にもツイッターで言ったけれど贅楽夢さんの小説は、ちょっと(ある種の)ゴダール映画のようだ。映画なのだけれども、「映画」である事にこだわってなくて、自分が興味のあるものをちょっと強引なくらいに映画の中に詰め込んでしまっている。完成した作品としての「映画」じゃないところが爽快である。
贅楽夢さんの「小説」にも、そんなところがある。蒲尾向日葵や月萌(つくも)のような完全に創作の人物、存在(それが皆妙にリアルで魅力的だ)が登場するかと思えば、実在する将棋界の人物がモデルとおぼしき登場人物も
平気な顔をして出てくる。かと思えば、ツイッターの実際の知り合いの人たちも突然姿を見せたりするかと思えば小説の筋とは関係ない興味のある妖怪やら仏教の薀蓄が延々と続いたりする。
蒲尾向日葵や月萌(つくも)と懸香太郎のやり取りをゲラゲラ笑いながら読んでいると、急に妙に真面目な話になったりする。
全然「小説」としての体をなしていない。特に第一作がそうだった。でも、そういう「小説」としての完成品じゃないところが素晴らしい。その種の「小説」の形式を壊すアイディアは今では別に珍しくないのかもしれないが、贅楽夢さんは意識的にそうしているんじゃなくてほとんど本能的にそうしているようなところがある。
理屈理論じゃなくて、ゴダール映画のようにスキゾ的に軽やかに次々に変転して行って見る側、読む側を幻惑する。そういう贅楽夢さんの個性が何より私は好きです。
蒲尾向日葵や月萌(つくも)といった、恐らく
贅楽夢さんの個人的な女性の趣味を思い切り盛り込んだ存在がたいそう生き生きしている。それも、小説の登場人物を無理に造形するというよりは、本当に好きな女性をつくってしまえというような贅楽夢さんの趣味的に徹底的に書く姿勢のおかげだと思う。とにかく妙に玄人を目指してなくて(よい意味の)素人に徹しているために、かえって読むのに堪える作品になっていると思う。
それと、本来リアルではあなた自身であるはずのZeirams氏の登場のさせ方には腹を抱えたよ。そうくるかと。主人公もZeirams氏も本当のあなた自身の分身体であるようでいて、さうでもなくて、本当のあなた自身の姿がよく分からない、私小説っぽく感じさせるようでいて、全然そうじゃない。かといって完全なフィクションでもない。
贅楽夢さんの「小説」の一番の美点はそういう、何が飛び出すか予測不能で、真面目なのか不真面目なのかよく分からない、リアルなのかフィクションなのか決定できない、虚と実を自由に行き来するところだと思う。
「縊鬼」のような妖怪のように。妖怪は人間でもないし死者でもないし普通の意味の霊でもない。この世界にあって普通の分類が難しい存在だ。贅楽夢さんが妖怪のことを好きなのも、贅楽夢さんの「小説」の性質と意外に深いところで関係しているのかもしれない。
まるぺけさんの挿絵も相変わらず素晴らしい。特に今回は四コマ漫画がよかった。懸香太郎も月萌(つくも)もかわいい。贅楽夢さんの原作のキャラクターを深く理解した上で、さらに彼らに新たな魅力を付加する事に成功している。贅楽夢さん原作で、まるぺけさんに漫画を描いて欲しいくらいだ。それにしても、贅楽夢さんとまるぺけさんはセンスが似通っていて息が合っているね。
それと、「ものぐさ将棋観戦ブログ集成」の宣伝もありがとう。あまりによく扱ってくれていて恐縮しました。でも、登場の仕方としては、しゅうさんの方がおいしかったかな.....

ところで贅楽夢さん、住職の田沼泥鮒と懸香太郎が自殺について語りあうところがありますね。
仏教の考える自殺という事で、私は思い出した事がありました。
本多信一さんという自己啓発系の生き方の本をたくさん書いている人がいます。かなり変わった人で、ご自身が極度の内向性で学校生活、会社生活などすべてうまくいかず、そういうご自分の仲間の内向型人間ために「無料相談業」を東京のアパートの一室で行いながら、本を書いたり中小企業診断士の仕事をされている。
「無料相談」などというとかえって怪しげだけれど、本当に純粋に人助けでやっている。宗教とか何らかの組織とは一切関係ない一匹狼である。
実は私も実際にお目にかかったことがある。私は本当は純粋な内向型では全然ないのだが、ちょっと存在が信じられない生き方をされている方だし会いたかったので相談を申し込んだら、本当に都内の質素なアパートの一室で笑顔で迎え入れてくださった。都市伝説ではなくて実在されている事にちょっと感動した。
さて、そんな本多さんは、若い頃にあわないマスコミ勤めのストレスもあって尿道ガンにかかる。深く絶望するが手術の七日後まで、それまでの自分の経験を順番に遡って思い出す作業をはじめる。
七日間ほとんど寝ずに、その早朝に「はじめの記憶」に辿りつく。それは母親の背中におんぶされている赤ちゃん姿の自分だった。
戦争時の疎開中に食うや食わずの暮らしの中、蛇が頻繁に出る「蛇山」を食料を調達するために必死で歩いている母親の背中でそれを大変だと思っている自分。勿論、普通の記憶ではなく潜在意識の記憶のようなものと本多さんはそれを考えた。
その記憶を思い出した瞬間に、本多さんは意識を喪失して眠り込み、しばらくして目が覚めると、驚く事に医師や看護婦の姿がまぶしいほどの黄金の光に包まれていた。
それは他の患者たちもそうでどの人間にも例外はなかった。
人間だけでなく傍らの花も強烈な光を放っている。窓の外の一枚の桜の花ビラが目に入り、それがグーンと拡大して大きな大きな花弁になり、本多さんの目に入ってきたという。
その瞬間、本多さんは道元の有名な現成公案
思い出し理屈ではなく体の底からその意味を理解した。
すると病気で体が弱りきっているのにもかかわらず、自然に腹の底から呵呵大笑が起きた。看護婦たちが怪しむが、どうしても笑いが止まらず笑ったまま手術室に運び込まれた。
手術は成功し、病室に戻ってもまだしばらくは同室の患者たちの体から光が放たれていたという。
本多さんは自殺についても明確な考え方を示されていて、人はどんな生き方でもいいから自殺しないで最後まで生き抜けば合格なのだと言われている。
もし、本多さんの言うように、どんな人間も―善人も悪人も裕福なものも貧しいものも健康なものも体が弱いものも―本来は光を放ち続けているのだとしたら、自殺するのは間違いという事になる。光が自分を消すのは自己矛盾だから。
田沼泥鮒のような輪廻転生の考え方が事実かどうかはさておいて、とにかく人間はただ存在するだけでよいのではないだろうか。本多さんの影響もあるのだけれど、私自身も特に311以降はそのように考え始めている。
贅楽夢さんは特に禅系の仏教に興味がおありのようなので一々説明しないけれど、本来人間存在は仏性を誰しも備え持っているという考え方がありますね。それが、自己エゴのの力によって本当の自分が見えなくなっているだけだと。
そして(禅系の)仏教ではそういう本来の自分を見出して「悟る」ために修行するわけだけど、私は最近は「悟り」というのもあまりよくない考え方じゃないかと思っている。
「悟り」というと、どうしても努力して選ばれたものだけが到達する境地だと考えられがちだ。(実際の禅はそうじゃないかもしれないけれど。)
でも、人間に本来仏性が備わっているならば、もう今のままの矛盾だらけで自分を自分を苦しめ続けている自分のままで潔く苦しんで生きていけばよいのではないか。「悟り」など求めてその苦しみから逃避しようとするのが誤りの元ではないか。
そして、これまたこれは本多さんの考え方でもあるのだけれども、人間はどんな人間であれ死んだ瞬間に例外なく大悟すると。だから、現在のあり方のままで行き続けていればそけで十分ではないかと。
勿論、生の苦しみを減らす智慧ある程度の努力は必要だが、間違っても凡夫が「悟ろう」とか「聖人」になろうとするのはやめた方がいいのではないか。
勿論、そういう考え方は結局仏教からははずれてしまうのかもしれない。もともと、私は仏教ファンでも一切の宗教組織とは関係ないし仏教徒でもないのでそれで構わないが。とにんく私は最近はそのように考えています、贅楽夢さん。
そして、生きている限り人間はエゴによって本来の自分をある程度見失うのは仕方なくて、逆に全てのエゴを消してしまったらそれは即死なのではないか。それがそのまま悟りだと言えなくもないが、凡夫はそういう道に近づかないほうがよいような気がする。
本多さんのように、限界状況で自己エゴがフッと完全に消え去って生命の実相を垣間見る事がまれにあるにしても。
贅楽夢さん、こういう話についてはしようと思えばキリがないのでもうやめておきます。
あと一つ、本多さん自身の自殺未遂体験を紹介しておきます。
本多さんは若い頃に自分にあわぬ大マスコミ勤めに疲れて、死にたくなってフラフラと岩手の雪山に入った。雪の中に横たわってある種の幸福感に浸って自分は死ぬのだとボンヤリ考えていた。
すると、一面白の雪景色の中に赤い実があってそれを黒いカラスが食べに来てカァーと鳴いた。
その色彩と声にハッと本多さんは目が覚めて、立ち上がって何とか雪山を下山して生還した。
本多さんの場合も、死にたいという時はその期間の記憶がほとんど欠落していて、何かに魅入られたように雪山に入っていたという。まるで、「縊鬼」に取り憑かれたように。
本多さんはそれを仏教でおなじみの「内魔」と「外魔」で考えている。勿論、人は自分で死にたいと思って自殺するわけだけど、確かにそういう心理状態の人間には「内魔」も「外魔」が働きかけやすいのかもしれない。
だから、「縊鬼」は決して荒唐無稽なフィクションでなくて、習慣的に自殺を考えてしまいがちな人間にとっては、注意しなければいけない人間の象徴なのかもしれない。

とりとめがなくなってしまったが、最後に。何よりも私は、贅楽夢さんの「作者紹介」の話に感動したよ。リアルの贅楽夢さんの妖怪好きが、単なる「趣味」の領域を超えているのが良く分かった。最後まで虚と実を行き来する贅楽夢さんらしいエピローグだった。
あれも大変重要な小説の一部だよね、贅楽夢さん。


(駒.zone vol.3所収 贅楽夢「ツクモさん、指しすぎです!」)


(駒.zone vol.5所収 贅楽夢「どうしたの?辻村君 〜ツクモさん、五割一分以上七割未満な番外編です!」)
コメントを承認制にさせていただいています。反映まで時間がかかりますが、お気軽にどうぞ。
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