最終局に残留をかける深浦康市が、厳しい表情といつものシャープなオーラで足早に歩いてくる。が、スタッフに声をかけられると、いかにも人の良い笑みが顔中に拡がった。「諦めが悪い」とまで言われる勝負へのあくなき執念と、普段の実直な人のよさの両面が見え隠れする。
谷川浩司が、悠然と品よく歩いてくる。この人は年を重ねるごとに気品が高まってきており、このまま進むと一体どうなってしまうのだろうか。若い頃より内面からそうしたもの滲み出てきていて、精神の力が肉体にまで影響を及ぼしているかのようだ。車がこないかに注意する姿まで絵になっている。
橋本崇載が全身をブランドファッションでかためてサングラスを着用して歩いてくる。彼だけ別の業界の人のようだ。但し、やはり少し緊張気味である。その後姿からは、普段豪放を装ってはいるが、実は繊細で感じやすい橋本の心のありようが感じられるようにも思えた。
こうして、いつものように将棋界の一番長い日が始まった。
今年はスカパーが終日大盤解説、全対局の映像放映を行った。ニコ生も終日大盤解説をしていた。そろそろこの私の毎年恒例の記事も用なしになる時代が来たのかもしれない。勿論、ファンにとってはありがたい事である。
羽生善治と橋本崇載の対戦は、羽生は勝ては即挑戦、橋本は負ければ即陥落というわかりやすい将棋。先手の橋本が初手に数分時間を費やしたのが、この将棋の大きさを物語っている。
橋本が意表をついて先手中飛車。考えに考えた末の作戦なのだろう。但し、先手橋本対後手羽生では矢倉の名局といわれる将棋で橋本が競り勝った事がある。そのように堂々と戦うのも一つの選択肢だったとは思うが、橋本は作戦を決めて主導権を握りたかったのだろうか。
高橋道雄と三浦弘行の将棋は、高橋が得意の先手での横歩取らせ。
高橋はA級では苦しい星の事も多いが、特に後半の勝負強さで毎年しのいできている。高橋が対局開始の際に目をつぶって瞑想する姿が映ったが、それは人を全く寄せつけない感じで、禅僧が厳しい座禅をしているかのようだった。とにかく集中力がすごい。
渡辺明と郷田真隆は、現在棋王戦で戦っている最中である。事前の予想を裏切って二局とも二手目△3四歩だった。せっかく現在の棋界では二手目△8四歩を指す両棋士であるにもかかわらず。
今回は両者とも挑戦にも降級にも関係なかった事もあって、郷田の二手目は△8四歩。対して渡辺は角換わりではなく矢倉を選択。渡辺は現在後手の矢倉の指し方に困っているフシがある。具体的戦型の点でも両者の意地の点でも注目される将棋になった。
屋敷伸之と谷川浩司の将棋は後手の谷川のゴキゲンで、先手の超速に対して後手は△4四銀対抗型から相穴熊になった。
屋敷は今期順位戦を含めて先手でこの時点でなんと十五連勝。渡辺にも矢倉で痛い黒星をつけている。
そして、佐藤康光と深浦康市の将棋。深浦の首がかかった将棋だが、佐藤は一手損角交換から早めの△5四歩から△5三銀でダイレクト向かい飛車を目指した。「角交換には5筋を突くな」という格言の全否定である。
独創的とも言えるし、とんでもない指し方とも言える。まして、深浦にしてみれば「こんな大事な将棋でそんな指し方をしないでもいいじゃないですか」と言いたくなるところだろうが、最近の佐藤はいつもこういう指し方だから仕方ない。もしそう問い詰めても、佐藤に「えっ、ちょっと変ですか」と笑顔で答えられてしまうだろう。
深浦も、気合よく▲2四歩から▲2三角と真っ向からとがめにいった。大事な将棋だけれども決して萎縮していなくて見事だ。将棋はいきなり大乱戦になった。
今回はニコニコ生放送でも囲碁将棋チャンネルでも、ほとんど終日大盤解説が行われた。
私も勿論全部は見ることは不可能だったが、それでも十分面白かった。ニコ生解説をしていた長岡裕也は大変序盤に詳しくその語り口も理論的で明晰。羽生が研究相手に選んだのも肯けた。途中からは解説仲間に「長岡教授」と呼ばれていた。
以下、その発言の抜粋を。
中村修「A級だけは純粋に将棋を楽しんでいる感じがします。セレブというか。」
豊川孝弘「ピカソ佐藤王将」
中村太地 「羽生さんは。普段はとても気さくで優しいのですが、実際に盤をはさんでみて、普段とは違うこわさとか凄みを感じました。」
今回は将棋会館の大盤解説まで囲碁将棋チャンネルで中継していた。鈴木は中継されている事を忘れたのか意識してのサービスなのか。
鈴木大介「NHK杯でも、渡辺vs郷田と同じ将棋がありまして、その感想戦で行方さんが▲3二銀を打つのを忘れたと言うのを見て私は家で笑っていました。」
藤井猛「羽生さんと感想戦をやっていると面白いですよ。自分が自信がないと言うと、羽生さんも自信がないと言って、自信がないの言い合いになるんですよ。そしてよく調べると羽生さんの言っている事が結局正しい。形勢を非常に慎重に見ますね。そして羽生さんは形勢判断に絶対の自信を持っています。」
木村一基「私は対局中はほとんど食べないんですが、目の前で丸山さんが弁当プラス唐揚げ三個をすごい勢いでババーッとブルトーザーのように食べているんですよ。それで『丸山さんすごい食べますねー。』って言ったら『木村クンお腹すかないの?』ってニッコリ笑うんですよ。」
木村の話すニュアンスが文章では伝わらないのが残念である。落語家の道を歩んでも木村は大成したのではないだろうか。
羽生と橋本の将棋は、橋本の飛車を羽生が守りの金を繰り出して捕獲しようとする展開になった。橋本が三手目に端歩をついたために1筋に飛車が逃げられたのだが、それでも構わずに羽生はひたすら飛車を目標に据える。
そして、その羽生の考え方、大局観が正しかったようだ。橋本も必死に抗戦するが、飛車をはじめ自分の駒が、羽生の二枚の角に「羽生睨み」されて全く身動きが取れなくなってしまった。
そして、羽生は落ち着き払って△7三桂と活用。いかにも羽生らしい指し回し。カメラに映る橋本は明らかに元気がない。既に少し諦めて指し続けているようにも見えた。
そして、橋本はやや早いタイミングで投了。将棋のつくり自体に問題があったために最後まで粘って指す気にならなかったのかもしれない。
羽生の名人挑戦が決まって、橋本はこの時点で陥落が決定。橋本は羽生に対して「名人戦がんばってください」と声をかけたそうである。
羽生が大盤解説場に降りてきてインタビューを受ける様子まで放映された。
インタビューアーが「今日の将棋は序盤、中盤、終盤どうでしたか?」と聞いて会場に笑いが起きる。たまたま、NHK杯での佐藤紳哉の「豊島?序盤中盤終盤隙がないよね」と重なったからである。羽生も笑い声に不思議そうな様子だった。そんな会場の雰囲気まで伝わってきたのである。
それと、今期の順位戦で羽生は三浦と奇跡的な終盤の死闘の末に唯一の敗戦を喫したのだが、それについてこのように述べていた。
「実は最後の方で勝ちがあったんです。でもそれに気づいたのが翌日だったので遅すぎました。」
これには会場も大受けだった。
渡辺と郷田の将棋は、矢倉にはありがちだが先手の渡辺が一方的に攻めて郷田がひたすら受ける展開に。後手玉は何かあるとすぐ終わりである。まして攻めているのが細い攻めを的確につなげる事にかけては天下一品の渡辺なので、先手が勝つのではないかという雰囲気だった。
ところが、郷田が3時間19分かけて考えた△2二玉がさすがに読みの入った手でこれで容易には後手玉が寄らないようである。以下、渡辺にも他に手段があったようだが、本譜は郷田が攻めをきらして最後は満を持して堂々と反撃に出ての勝利。
相手の攻めを正々堂々と受け止めて、ギリギリのところで凌ぎきり、体勢を入れかえて鮮やかに勝つ。なかなかこのようなかっこいい「男前な」勝ち方が出来るものではない。プロにも郷田将棋のファンが多いというのが納得できる将棋だった。
ただ、結局この後手の指し方はなかなか有効なようなので、後手で矢倉を指す渡辺もそういう手順を知ることが出来たと言う意味では収穫があったのかもしれない。
屋敷と谷川の将棋は、相穴熊らしいジリジリしたやりとりが続いたが、そこから屋敷が抜け出して優勢になった。相穴熊の場合は一度形勢に差がついてしまうと挽回が至難の業になってしまう。しかし、谷川も首がかかっているので簡単に諦めるわけにはいかない。
最後の方に△6三銀と打って受けたのは、解説の森内俊之によると、「谷川さんが一番嫌う手です。単に受けただけで、攻める余地もなくしてしまうので」ということだそうである。それでも、谷川は歯をくいしばってこの銀を打った。いや、打たざるをえなかった。これが順位戦である。
しかし、結局全く望みのない形になって谷川投了。高橋がもし勝てば谷川は陥落である。
それと屋敷の先手での連勝も止まらなかった。
この時点で既に三勝している深浦の残留は決まった。しかし、指している本人は勿論その事を知らない。
将棋は最初の大乱戦から一度は落ち着いて第二次駒組みになった。しかし、深浦が居玉の状態からやや無理気味に仕掛けざるをえない状況になり、佐藤が的確にまた、らしく力強く受けた上で反撃して佐藤優勢に。深浦も必死に粘るが、結局佐藤が勝ちきった。
カメラが二人を映し出す。深浦が顔面を赤鬼のように紅潮させてガックリとうなだれる。彼が既に助かっていることを知っていても胸打たれる。
しばらくして別室で感想戦をする二人の様子がもう一度映し出される。しかし、深浦の顔は赤いままで表情は厳しい。明らかにまだ誰も教えていない。結局控え室にいた河口俊彦に教わったそうである。
私は寝てしまって見なかったのだが、囲碁将棋チャンネルに出てインタビューを受けたそうである。ここら辺も基本的に人のいい深浦らしい。深浦はなんとこれが始めてのA級残留である。
最後に残った将棋が本当に大一番になった。三浦と高橋の将棋。高橋らしく巧みに将棋をつくりあげて、ずっとややペースではないかと言われていた。大事な将棋で決して崩れずにこれだけの将棋をきちんと指す高橋の精神力、底力には感服させられる。
しかし、三浦も一度出た銀をもういちど引くなど辛抱に辛抱をつづけて局面の均衡を簡単には崩さない。A級らしい内容の濃密な素晴らしい将棋になった。
高橋が攻めに出るが三浦が△2三角と受けたところで、解説の藤井がこう言う。
「三浦さんの将棋は受けに特徴があるんですよ。シャレた受けが得意。ちょっと三浦さんがよくなったんじゃないですか。後手優勢の可能性があります。いかにも三浦さんの好きそうな手なんですよ。」
控室の評判も、この辺りから後手持ちにかわってきた。しかしまだまだ難解。三浦が度胸をきめて△5七桂成としたところでは、むしろ何か先手に手段があるのではないかと言われていた。
高橋は▲7七角と攻防手を放った上で自陣を一度受けた上で相手玉に必死をかけた。あとは先手玉が詰むかどうか。
しかし、手順が進むにつれて慎重な森内も「後手の持ち駒が多すぎますね。」と言いだす。結果的にはそれほど難しくなく先手玉は詰んだ。
高橋投了。この瞬間、高橋の降級と谷川の残留が決まった。
ところが、である。感想戦での検討の結果、実は最終盤で実は高橋に勝ちがあった。▲7七角のところで▲3四銀としておけば、以下後手玉を詰みに討ち取れる変化があった。但しその手順は大変難解で詰め将棋のようである。発見したのは詰め将棋の名手、宮田敦史だった。
この順を実戦で発見しろというのはかなり酷なような気がする。高橋には指運がなかったとしかいいようがない。
しかし、もし高橋がこの手順を選んでいたならば、その時は谷川が・・・、という事である。
谷川はまさしく薄氷の残留劇だった。
こうして、今年の将棋界の一番長い日も終った。NHKのEテレでは3月24日(日)午前10:05〜11:45に特集番組があるそうである。
そして、例年のように番組の最後ではノラ・ジョーンズの「ザ・ロング・デイ・イズ・オーバー」が流されるはずである。