少し前にこのことについて書いたら、わたしの記事に、というより、紹介した羽生さんの言葉に反応して、こんな記事を書かれていた方がいた。モダンアートを「理解する」ことの意味をめぐる引用集なのだが、これが実に面白い。
将棋と関連させて考えたいと思ったのだが、さすがに難しすぎる。ということで、気になった引用について、思いつくままに雑談してみようかと。
われわれにとって「和音」といえば、たとえば「ドミソ」のことであるが、中世においては「ドミソ」は不協和音だった。つまり「ミ(三度)」が入っていてはいけなかったのである。・・・中世の人々にとっては、この(近代の和声法では「空虚五度」と呼ばれて禁則とされる)「ドソ」の響きの方が「正しかった」のである。(「西洋音楽史」 岡田暁生著)
あまりに根本的な問題である。人間の各時代における感覚は、当然その時代の制約を受けた相対的なものである。音楽史において、自明とされている前提は実は全然自明ではない。いや、そもそも「西欧」の音楽の理論体系自体が、全然普遍的ではないかもしれない。自由な音楽を抑圧する帝国主義的体系なのかもしれない、というのはあまりにありがちな言い方過ぎますが。
「わたしたちがレト・ボラーの作品を「わからない」と嘆くのは、「芸術」という西洋近代が生み出した抑圧的観念のベールによってわたしたちの眼差しそのものが「制度化」されているからではないのか?」(「20世紀絵画」 宮下誠著)
我々が「分かりやすい」とか「あたり前」と思い込んでいるのは、実は制度によって刷りこまれた先入観に過ぎないのではないか。そういう制度の根元の部分の幻想のベールを剥ぎ取る作業が必要なのではないか。その作業の結果、従来の芸術の見方に、根本的な価値転倒が起こるのではないか。
さて、それでは将棋においてはどうか。さすがにそこまで根本的な価値転倒は起こらないだろう。将棋の世界は、根本的にはルールが明快な世界だし、勝ち負けという明快な終着点のある世界である。例えば、ある人間が、最初に飛車先を突いたり角道を明けたりするのに生理的違和感を覚えるといって、最初に玉を動かしていたら、たちまち負けてしまうだろう。
芸術の世界では、人間の感覚対象把握能力の相対性が問題になるが、将棋の世界においては、少なくとも程度の問題としては、人間が勝手な見方や理論づけをする自由は大きくない。対象やルールに即して考えることを最初から要請されるからだ。
しかし、それはあくまで程度の問題だし、将棋にも芸術同様の問題は当然発生する。

「何が描かれているか」という基準で見る限り「モナリザ」は「わかる」し、「黒に黒」(アド・ラインハートの作品。四角いキャンバスが真っ黒に塗りつぶされている。)は「わからない」。しかし「モナリザ」とは誰か、レオナルドがこの絵によって何を言おうとしたのかは今もって謎である。主題が分からないのだ。その点で「黒に黒」と寸分も違わない。「黒に黒」が私たちにとって「モナリザ」と違うのはだからその外観(見た目)にすぎない。ラインハートの世界解釈システムが「見た目」とは違うところで機能しているからだ。」
現代将棋は、形が古典的ではないし、見た目の理解が難しく分かりにくい。では、なぜそれを人は「分かりにくい」と思うのか。それは、将棋を「見た目」の基準で判断しようとするからである。古典的な将棋は「見た目」では、現代将棋よりは分かりやすいとしても、必ずしもその将棋の深い意味内容を一般の人間が理解しているわけではない。モナリザの主題が分からないのと同様に。
それでは、現代将棋の「世界解釈システム」とはどのようなものか。この引用でも、ラインハートのそれが何なのかは言われていない。表現するのが難しいのだろう。現代将棋もそうだ。弱い素人に、それが説明できれば世話は無いのだが、到底無理である。敢えて言って見れば、形の古典性でなく、各駒の働きや構図の力学を動的に把握しようとしているとでも言うべきか。内的動的力学関連さえ均衡していれば、外的な見た目の変さにはこだわらなくなっているというか。
いきなり角交換したり、馬を作りあったり、玉をちゃんと囲わなかったりするのは、「形はきれいでない。」しかし、見た目とは関係ないところでは、きちんとバランスがとれている。だからプロも指すのだろう。形のきれいさに対する図形的把握よりも、その局面の内的力学関係まで、現代将棋は読み取ろうとしているのかもしれない。と、一応仮説を立ててみたが、全然自信は無いです。

「ある無邪気な知り合いから「どうしてかつては・・・ロマンティックで美しい調性音楽を書いていたのに、なぜ不協和音だらけの曲しか書かなくなったのか?」と尋ねられたシェーンベルクは、憤然として「自分だって出来るなら調性で音楽が書きたい。しかし三和音を書くことを、歴史が私に禁じているのだ」と答えたというのである。」(「西洋音楽史」 岡田暁生著)
シェーンベルクは、彼の生徒に対して「私は、あなたたちが音楽を書けなくなること出来なくするようにするために音楽を教える。」という意味のことをいったそうである。
将棋においても、従来の指し方の理論体系を徹底的に疑っていったら、どんなことになるのだろうか。いつの日か、将棋のシェーンベルクが出現して、彼の弟子たちにこのように言うのだろうか。
「私は、あなたたちが将棋を指すことが出来なくなるようにするために、将棋を教えるのです。」と。

「歴史を一本の糸のように見て、過去から現在、未来にかけて直線的につながり、先に行くほど進歩するとか光明に富んだ時代になるとか言う考え方を批判して〈おのおのの時代は神に対し垂直な関係に立つ〉と言ったのは、確か19世紀の歴史学者ランケだったと覚えているけれども、音楽家、演奏家達も、また、前の人達の方が霊感に満ちていたとか、あとの時代になるほど技術が進むとか言うことはないので、それぞれの在り方とそれぞれの時代との様式において、作品に対し垂直な関係にあるのである。つまり、どの人の演奏も、一方では歴史の中で捉えなければならないと同時に、どの人の演奏も、それ自体の価値と考え方の体系として、その内部で評価されるに値するのだ。」(「一枚のレコード」 吉田秀和著)
音楽の世界においては、ある程度正論として素直に受け取ることが出来るだろう。しかし、将棋の世界では、話がかなり違う。基本的には、将棋の世界においては、技術の進歩が進んできている。分かりやすく言うと、昔の棋士より現代の棋士のほうが強い。従って、各人の個々の評価よりも、時代における将棋の全体レベルを評価すれば、それば十分であると。
しかし、それも実は程度問題である。明らかに、音楽と比べれば、将棋は個々人が自由な創造性を発揮する余地は小さい。しかし、全く無いわけではない。羽生と佐藤の将棋は全然違う。厳しい技術革新に対しては、羽生も佐藤もそのほかの全てのプロも、謙虚に学ばなければいけない。その努力を怠るものは、たちまち敗れ去るだろう。しかし、そういうことをやりつくした上でも必ず残る個々の人間の個性の部分がある。吉田秀和の言っていることは、ギリギリの部分では、ちゃんと将棋にも当てはまるのではないだろうか。
例えば、最近のインタビューで、羽生は大山のことを「史上最強」と呼んだ。私は、あれを偉大な先人に対する単なる社交辞令だとは思わない。現代将棋と大山の将棋との技術的差異を、冷徹に明晰に把握した上で、それでも残る「大山将棋の個別的特性」を、羽生は本当に見抜いているのだと私は考える。最近、羽生が急に勝ちだしたのは、決して偶然ではないだろう。羽生は、浅い合理主義者が馬鹿にして見逃す部分を、きちんと見ているのではないかと思う。
将棋世界の最新号に、各界有名人が祝いのメッセージを寄せているが、内館牧子さんが紹介して羽生の言葉は、きわめて興味深い。
将棋には「技術」と「人間性」がでる中、最近は技術の方が見直される傾向にあるとし、次のように語っている。「技術が進めば、今度は人間性が見直されます。二十年、三十年たてば、その人が持っている資質とか性格とかそういう部分が重要になってくると思うんですよ。」
今から十四年前の羽生の言葉である。羽生は預言者である。

「人はみな絵画を理解しようとする。ではなぜ人は小鳥の歌を理解しようとはしないのだろうか。美しい夜、一輪の花、そして人間を取り巻くあらゆるものを、人はなぜ理解しようとはせず、ただひたすらそれらを愛するのだろうか・・・。」(ピカソ)
「ピカソの不満は、人が絵画を「理解しよう」とすることにあるのではなく、人が絵画を「愛そうとしない」ことにある・・・」(「20世紀美術」 高階秀爾著)
ピカソは、モダン・アートを、頭でっかちに作り出したわけではない。本当に、自分の深いところの欲求に素直に従って描いたら、あのようになっただけだ。鳥を愛するように、自分の描いたものを愛した。野性的で強靭な理性と尽きせぬ泉のような創造性の稀有な結合。
羽生善治の批評力と佐藤康光の創造性を兼ね備えた将棋のピカソが、いつの日か出現するのだろうか。