そもそも、昨日は梅田さんの本について将棋ファンとしての視点からある程度きちんとした書評をするつもりで書き始めたのである。しかし、ただ普通にするのもつまらないかと思い、まず雑談からはじめたらどんどん脱線してしまい、軌道修正不能になりそのまま力尽きて終わってしまった。今日は、昨日書ききれなかったことの補足を少ししておこうと思う。
というわけで、昨日の記事は我ながら何を言っているのかよく分からない内容に見事に仕上がったのだが、梅田さんご本人があんまり変わったことを書いているのがおかしかったのか?、ブログで取り上げてくださった。

My Life Between Silicon Valley and Japan 「観る」ことと「する」こと「生きる」こと

「シリコンバレーから将棋を観る」では、当然将棋や棋士を対象としているので、その中で梅田さん御自身の個人的なことはそれほど語られていない。しかし、この記事では梅田さんの個人史が率直に語られていて面白い。
(どうでもいいことだが、今日は「梅田さん」「梅田さん」と言っているが、オマエは昨日は「梅田」と呼び捨ての連発だったではないか思う方もいるかもしれない。しかし、言い訳するとあの呼び捨ては、例えば、羽生は、渡辺はというときと同じ意味の完全に自分とは別世界の人へのリスペクトをこめた呼び捨てである。イチロー、松井を呼び捨てにするのと同じこと。野球のブログで「イチローさん」とか書いてあったら、多分不自然でかなり気持ち悪いだろう。要するにスター性が高い固有名詞ほど呼び捨てにしやすいのである。将棋の世界では、まだ棋士が「イチロー」レベルまでいっていない。もっと将棋がメジャーになって「羽生が」と呼び捨てるのがごくごく普通になって欲しいと思う。)
さて、梅田さんは、将棋に関しては「観る」楽しみに徹しているわけだが、「生きる」方に関してはシリコンバレーでの多忙かつ過酷な実生活を生き抜いてこられたようである。
会社を創業してからの日常は、ぜんぜん意識していなかったけれどじつは勝負・勝負の連続で、ブラックジャックのテーブルの上のチップとは比較にならぬ金額が、自分の判断の一つ一つによって、ちょっとしたことの成功と失敗の違いによって、出て行ったり入ってきたりするものなのだということが、ブラックジャックをやり始めてまもなく、鮮やかに身体でわかってしまったからである。

12年前に会社を始めたときに、僕は本当に「自分の人生を生き」はじめ、その代償行為を必要としなくなったのだろう。

代償行為というのは、梅田さんの場合、例えば「ラスベガスで夜通しテーブルに座り続けて妻に呆れられたブラックジャック」である。梅田さんの場合、かなり高踏的な将棋ファンというイメージが強いのだが、やはり将棋が好きなだけあって、実はかなり勝負事が好きなのだと分かって、ちょっとおかしい。
それはともかくとして、「生きる」という行為が゜、賭博以上にスリリングで緊張感に満ちているような生を梅田さんは過ごしてきた。しかし、ただ必死に自分の生きているだけの者でも、必ずといっていいほど人間は自分の人生とは別のもの求めるものである。それが梅田さんの場合「将棋を観る」という行為だった。
梅田さんは羽生さんの対談で、将棋を仕事をする上での「触媒」と語っている。朝から順位戦のネット中継をつけっぱなしにしながら、仕事もこなし、将棋を観ていることでよいアイディアがぱっと浮かんだりするそうである。(その辺、やっぱり梅田さんは我々一般の怠惰な将棋ファンと違ってストイックなところを捨てきれない。笑)
私が昨日書いたことと強引に結びつけると、「生きる」という自分の主体的行為をしながら、それを「将棋を観る」という客観的な行為で補完し、生きることに役立てるとともに、逆に将棋を深く「観る」ために自分の生活体験をフルに生かしているという言い方が出来るかもしれない。
その際、面白いのが、梅田さんが会社の経営がブラックジャックのように「自分の判断の一つ一つによって、ちょっとしたことの成功と失敗の違いによって、出て行ったり入ってきたりするものなのだ」の述べていることだ。要するに自分の力で全てをあらかじめ判断できるのではなく、常に先行きが不透明な中で瞬時の決断を積み重ねていかなければならない。そして、その一つ一つの決断が、実は大局的には重要な意味を持つ。これって、将棋そのものではないか。
本の最後の対談で、羽生さんが将棋について一貫して語っているのも、「分かってないで」指しているということである。具体的内容は本を読む方の楽しみのためにここでは詳しく言わないでおくが、一般のファンが思うほど、プロは先の見通しをクリアに立てて指しているわけではない。ほとんど五里霧中の中を航海する様な感覚の言葉を、羽生さんが次々に発するのに、読者は驚くはずである。
しかし、。そうだとは言っても、漠然と指しているわけにはいかないので、全く見通しが立たない中でも、次々と決断し続けなければいけない。ここまで来ると、逆に将棋が梅田さんの会社の経営と実に性格が良く似ていることに気付くだろう。
つまり、ちょっと通俗的な表現になることを恐れずに言うならば、将棋は人生の縮図そのものなのである。従って、何も将棋が分からない人間でも、人生を各人なりに深く生きてきた人間ならば、将棋の本質を「観る」ことは可能なのだ。逆に、単なるゲームに過ぎないように思える将棋だけを指してきたプロ棋士も、もし真摯に深く追求してきたならば、「人生」についても驚くほど深い理解を示すことができるはずなのである。羽生さんが、その最たる存在といえるだろう。
だから、「将棋を観る」というよりは「生きながら将棋を観る」という表現がいいのかもしれない。そういう「観る」行為は。全く将棋と関わらずに生きてきたどのような人間にも可能なはずだし、梅田さんのこの本をキッカケにして、そういう将棋の魅力を知る人間が一人でも増えてくれればと思う。一将棋ファンとして。

さて、予定に反してもまたしても、この本の中の将棋についての具体的内容を全く書けずにもう力尽きかけている。もう一つ、どうせならやはり将棋自体とは全く関係ないことを書いて終わりにしよう。
この本の編集は、okadaicさんという女性が行っている。彼女自身「指さない将棋ファン」であり、梅田さんは「彼女の、ときには狂気さえ宿った「将棋の世界への愛情あふれる言葉」で励まされることがなければ」本書を書き上げることは出来なかったそうである。
当然然私はokadaicさんのことを全く知らないが、彼女はtwitterで盛んに活動していて、私はその読者の一人なので、彼女の「狂気」というのはひそかによく理解で来てしまう。okadaicさんのブログにこんな記事がある。

帝都高速度少年少女! 近況:相変わらず指せませんが、将棋の本を作りました。

1970年生まれの羽生善治が七冠王になったのは、1980年生まれの私が高校へ進学する頃のこと。当時、同年代の女の子たちの一部に、熱狂的な羽生ファンが生まれた。運動部のエースより軽音部のカリスマより、じーっと何か考えているメガネ君に弱いタイプ。そういう子は、当時あらゆるメディアに引っ張りだこだった「天才・羽生」の、一局ごとの勝敗から、個人的なことまで、いろいろ知りたくて、他の子たちがスポーツ選手やアイドルを追いかけるように、熱心に彼を追いかけたものである。何を隠そう、私もその一人だ。

こんな将棋の楽しみ方もあるのだ。現在のプロ棋士には男しかいない以上、女性のファンが居るのが、本当は当然のことともいえる。しかも、将棋を全くさせないタイプの女性ファンが、もっと増えていいはずなのだ。
勿論、okadaicさんは男として興味があるからだけで将棋を「観て」いるのではなく(笑)。やはり梅田さんと同じ文脈での将棋の不思議な文化性に興味があるのである。それも、我々普通のおじさん将棋ファンが全く考えもしないような将棋の文化性に着目していて面白い。「女性として生きながら将棋を観る」ことだってあっていいはずだ。

それにだいたい、将棋イベントに行くと必然おっさんの溜まり場という現状を、我々もそろそろなんとかしたいではないか(笑)。