とある下町の夕暮れ時、街外れにある鰻屋は客もまばらで、おかみさんが客をさほど期待することもなくボンヤリと座り込んでいる。
すると深編み笠姿の浪人風の男が、静かに店に入ってくる。おかみさんが立ち上がると、人のいい―年増の色気を滲ませながら―笑顔で「いらっしゃい」と声をかける。
男は深編み笠をかぶったまま席に座る。
「何にいたしましょう。」
「鰻」。
男はボソリと答える。
「ハッ、その声は・・。」
男は何も言わない。
「おまえさんだろ、誰がその声を忘れるもんか・・。」
男はためらいつつも、ゆっくりと編み笠を脱ぐ。
「やっぱりタケシかい・・。まったくどこを
ほっつき歩いていたんだい。あたしがどれだけ心配したか、あんたは分かっているのかい・・。」
おかみさはオイオイ泣き出す。男はただ一言ボソボソと、
「すまねぇ・・。」
以下、夫婦の仲直りの感動の場面は、読者諸賢のご想像にお任せして省略することにする。
さてここで説明の必要があるようだ。タケシは江戸の町では知らぬものなき鰻職人だった。その辺の経緯は、「鰻職人タケシの冒険」に詳しいとか。
タケシは鰻職人の名声も身分も捨てて、屋台をひいて蕎麦職人に転身したのだ。誰もがバカなことをすると言ったのだが、そこは天才料理人のタケシ、あっという間にタケシの蕎麦は江戸の町でも有名になり、老舗の食堂でもタケシ蕎麦が取り入れられるようになったのだ。
そこまではよかった。それで満足していればいいものを、タケシの向上心は限りなく、よせばいいのに江戸の料理の家元ヨシハルに料理で勝負を挑んだのだ。(今で言うところの
「料理の鉄人」だが、この番組ももう古くなって分からない御仁もいるかもしれないが、そういう事は気にしないことにする。)
結果は残念ながらタケシの惨敗。ヨシハルは「タケシさんの蕎麦の味は他の誰にも出せません」とニコヤカに何の邪心もなく慰めたのだが、プライドの高いタケシはいたくショックをうけ江戸の町から姿を消してしまったとさ。
そして冒頭の夫婦再会のシーンへつながる。
「すまねぇな、苦労をかけて。でも、腕前が一流のトシアキのやつに任せたから、ちゃんと店はうまく行ってたんだろ?」
「それがおまえさん、きいとくれよ。トシアキさんは、最初のうちは真面目に鰻を焼いていたんだけどさ、そのうちにもう今時鰻なんかはやらねぇと言いだしてさ。
わけまのわからないトシアキ流の寿司にすっかり夢中になって、そればっかりさ。でもそれが信じられないほどうまくて、大流行さ。あんたには悪いけど鰻の比じゃなかった。あたしだって、店が繁盛するんで文句は言わなかった。
ほら、常連のヒフミ先生がいただろ。昼も夜も鰻重の松を食べに来てくださってさ。あたしたちも、いくら好きでもあんなに食べれるもんじゃないって笑っていたじゃないか。
ところが、そのヒフミ先生までも昼も夜もトシアキ寿司の特上にぎりの連続さ。今度はトシアキと、ヒフミ先生も好きだねぇと笑っていたのさ。
それがトシアキ寿司は飽きられるのもビックリするくらいはやかったのさ。向かいにある料理屋が、回っていて待たずにすぐ食べれる寿司を始めたのさ。それが大流行。
すぐ食べれる・・、すごくはやい・・、超速・・、ばんざーい、こん平でーす。」
「はっ?お前何言ってるんだ?」
「ごめんよ、取り乱してわけわからないことを言って。とにかくそんなわけで、あっという間にウチは閑古鳥さ。
トシアキはすっかりノイローゼになって、寝言では超速超速とうなされる始末でさ。
ついに、知らない間にうちから姿を消してしまったんだよ。かわいそうに、トシアキも男前もいいし腕もいいし本当にいい男だったんだけどねぇ・・。」
「おまえっ、もしかしてトシアキの奴と・・。」
「おまえさんもバカだねぇ、いい年して嫉妬するのはおよしよ。あたしが本当に好きなのは本家の鰻屋だけさ。」
「へっ、バカいうないっ、照れるじゃねえか。」
以下夫婦がいかに仲直りして愛を語りあったかは、馬鹿馬鹿しいので読者諸賢のご想像にお任せして省略することにしよう。
といったわけで、めでたくタケシは鰻屋の主人に再びおさまった。最初は腕のなまりを心配する向きもあったけれど、さこはさすが、筋金入りの職人だ。前と変わらない本物の鰻の味。鰻だけは回る鰻で対抗できるわけもない。(今時はファミレスの鰻っていうんですか?)
というわけで、鰻屋は前と変わらぬ大繁盛。
以前の常連もすっかり戻ってきて、やっぱりタケシの鰻は絶品だと舌鼓をうった。
でも、そこは研究心旺盛なタケシのことだ。従来の鰻重だけじゃなくて、新しいメニューも始めた。と言っても今度はちゃんとした鰻料理だ。鰻の開きとかいう変な料理だ。
鰻の開き・・、角道を開いたまま・・、角道オープン四間・・、おいっ、強引過ぎるけどばんざーい、こん平でーす。
昔からの常連にはこの新料理はすごく評判が悪い。タケシは普通に鰻重をつくっていた方がいいのにと。ところが、さすがはタケシ、こちらも段々人気が出てきて、特に若手の鰻職人は最近はこればかりになってきた。
結局、昔ながらの鰻をやっているのは気がつけばタケシだけになってしまった。でも、おかみさんも幸せそうで一件落着のはず・・だったのだが・・。
ある時、タケシが言い出す。
「なぁ、おれはもう一度ヨシハルのやつと戦ってみたいんだけど。今度は鰻でな。」
「おまえさん・・・何度バカを言えば気が済むんだい。やっとつかんだ幸せをまたぶちこわそうっていうのかい。いいじゃないか、こうして大人しく鰻を焼いていれば誰もが幸せで。」
「すまねぇ、でもこれは男の意地ってやつなんだ。もう最近は鰻なんかはやらねぇと世間の奴らは思っている。俺はそれが歯がゆくてならねぇ。ヨシハルの奴は本物さ。おれもそれは骨の髄まで分かっている。でも、こういう時代だからこそ、ヨシハルにおれの鰻をぶつけてみたいのさ。」
おかみさんが、しばし沈黙する。そして長い間があった末に・・。
「わかったよ。あんたがそうしたいならそうおし。一度言い出したらあたしの言うことなんか聞いてくれないんだろう。
でも、タケシ。あたしは本当は嬉しいんだよ。あんなみたいな本物の職人を旦那にできて。店の事なんかきにしないでいいよ。思いっきり戦っておいで。」
タケシはもう何もいえない。あっ、タケシの目から涙が一筋・・。
夫婦の感動の場面は涙なしには語れないので、読者諸賢のご想像にまかせて省略することにする。
というわけで、またしてもタケシとヨシハルの大勝負。言うまでもなくお江戸の町は上に下への大騒ぎさ・・。

・本文は完全にフィクションであり、実在する人物団体等とは一切関係ありません。


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