NHKのEテレで、羽生善治が七冠当時のインタビュー番組が再放送された。
1996年2月16日放送。羽生の七冠にいたる、あるいは少年時代から現在にいたるドキュメンタリーフィルム。それと、中心部分として小阪修平によるインタビュー。
当時羽生は25歳である。その発言から、私が面白いと思ったものを、要約していくつか紹介してみる。

「勝つことだけにこだわると指す手が制約される。プロの世界が進歩すればするほど、制約が大きくなって、つきつめると皆同じような将棋になってしまう。そういう部分から解放されないと、新しい発想や従来になかった手を見つけにくいと考えている。
人間なので無意識に安心したい楽にしたいと言う部分がある。前にあった形に頼りたくなる。そういう部分から解放されたい。」

羽生世代たちによって、定跡研究が進み序盤の体系化が既にかなり進んでいた時代の発言である。
現在は、さらにその定跡化体系化が著しく進んで、羽生の言う「制約」がさらに進んでいる。
羽生はそういう中で、この頃から意識的にそういうものから自由に逃れる指し方を望んでいた。それは基本的に今も変わらないと思う。
勝つためには現代ではなおさら定跡研究の「制約」を離れる事が難しくなっている。羽生といえども完全に自由に指すのは至難の業なのだが、常にそのことを意識して指しているのは感じられる。
例えば佐藤康光も「自由」に指しているが、それは意識してと言うよりは自分が思うように好きに指すと自然と人と違うといった感じだ。
羽生は、そういう佐藤を羨ましいと思っているかもしれない。だが、少なくとも羽生はそういう事態を俯瞰的に意識して指しているという点では現在でも珍しい数少ないタイプのような気がする。

「現在は、「勝負」というよりも盤上の真理を考える人が多くなっている。現在の将棋は形にこだわらない。昔は美学もそうだし、綺麗な形にこだわるところがあった。」

例えば、羽生が名人戦で米長に挑戦して名人を獲得した際に、第一局で先手中飛車を採用した。当時は中飛車など名人戦で用いるべき戦法ではなく素人の作戦だという考え方も一部にはあった時代だ。
しかし、羽生世代は作戦として有効ならば、形にはこだわらず、当時はまだ邪道ともされた穴熊などもどんどん採用した。「盤上の真理」のためには、それが合理的だと考えたから。
しかしながら、現在の若手と比べると、相対的には羽生世代は「綺麗な形」や「筋」を指すようにも感じられる。例えば、初期に糸谷が郷田と対戦した頃は、郷田がその感覚の違いに絶句したものである。
現代将棋は、「綺麗な形にこだわらない」ことをとことん突き詰めている。角換わり系や一手損、ゴキゲンなどなんでもありの世界に突入している。
多分、当時の羽生もこここまで「形がこわれる」とは予想しなかっただろう。

「(「羽生マジック」について。)
自分では普通に指しているつもり。他の人とは感覚が違うのかもしれない。
閃きも大切だが、何か手を閃いて読んでダメだと思った時には、あまり選ばない。
むしろ、読んでみて分からない、どうなるんだろうという場合に、そういう手を選ぶ事が多い。
将棋は最後まで読みきれる事などありえない。将棋では、10手先20手先に自信を持てない局面が必ず二度か三度ある。手が限定される終盤の前では特にそうなので、そういう局面の捉え方では他の棋士と異なるところがあるのかもしれない。
形勢が悪くなったときは逆転を期待していない。ベストを尽くして負けたならば仕方ないと思っている。」

これは、多分当時の羽生と現在の羽生で一番変わっていない点だと思う。
特に面白いと思うのは、羽生が中盤以前では「読んでみて分からない、どうなるんだろうという場合に、そういう手を選ぶ」と述べている事。
確信を持った順を選ぶのではなくて、分からない順を選ぶというのだ。ここには、後年の羽生がよくいう「将棋は他力」の思想、考えてもどうしても分からないところがあるという考え方があらわれているような気がする。
自ら「よく分からない」ジャングルに進んで
突入していくのだ。羽生の棋風の本質と関連してくる発言のような気がするのだが、どうだろうか。

「普段の生活と盤上は全く別だと思っているので、そういうスタンスでやっている。」

当時は、このように爽快にわりきっていた。そのことで、当時の将棋界に羽生世代は革命を起こしたのだ。
但し、現在はこれほど簡単にはわりきっていないような気もする。

「(チェスでコンピューターが人間に勝ったことについて)
チェスの世界が将棋の世界より、(全ての面で)多分十年以上進んでいると思う。だから、10年後に将棋の世界で同じ事が起きても不思議ではない。なぜなら、現在の人間将棋のレベルはそれほど高くないので、コンピューターが人間を凌駕してもおかしくない。」

羽生は将棋の世界を意外に冷徹に現実的に当時から捉えていたことが分かる。
だから、現在のコンピューター将棋の強さについても、意外に羽生が一番冷静に受け止めて分析しているような気もした。

「盤上で考えていて、苦しそうだったり険しい表情をしていても同時に楽しいという側面もある。この先どうなるのかを考えていて楽しい。無限の可能性の一部でも、考えていてそれが正しい事もあるので、それが楽しいこともある。」

羽生は、あれだけ将棋に深く没入していながら、将棋が基本的には「楽しい」と考えている。それは、多分羽生に限らず超一流棋士に共通するところなのではないだろうか。
例えば、加藤一二三もそうだ。私が過去に書いた記事でも紹介したが、加藤は対局中にこんなことを感じているのだ。
「私の角が二枚並び、大山棋聖の飛が二枚並んだ形は心を打たれるもので、まず二度と出ないと思う。私は対局中この形に進行したときに、大きな喜びを覚えていた」


「将棋の面白さと同時につらいのは、自分の全てが出てしまうところ。自分のいいところ、わるいところ、きれいなところきたないところが全部出てしまうところ。」

この発言を聞いて私はドキッとした。しかしか、弱い素人にもこれは何となく分かる。
一枚の棋譜自体から、それを指した人間の全人間性を洞察することが恐らく可能なのだ。
その棋士と現実に長時間付き合うよりも、迅速に正確無比に。
観る将棋ファンにとっては、それがプロ将棋の最大の魅力でもある。


同時放送された、「迷走〜碁打ち・藤沢秀行という生き方〜」についても過去に書いた事があるので、興味のある方はよろしければご覧ください。

藤沢秀行と坂田栄男の封じ手をめぐるせめぎあいーNHK「迷走〜碁打ち・藤沢秀行という生き方〜」より