イ・セドルが勝った。前三局を見て、誰もがもう勝利を諦めかけていた。本人だって、もう勝てないと思っていたかもしれない。
しかし、本局も一度非勢に陥ったにもかかわらず、決して諦めずに渾身の勝負手でアルファ碁をあわてさせる事に成功したのである。追い込まれた状況の精神的プレッシャーを考えれば、本当にたいしたものである。
セドルは第一局で負けても、アルファ碁の開発者を素直に賞賛するなど、態度も一貫して立派である。対局姿勢も誠実で真摯で、今回ファンになった人間も多いのではないだろうか。
そのセドルについて、解説していた高尾紳路が次のように述べていたのがとても印象的だった。
「セドルさんは本当の天才です。十年前くらいにセドルさんが現れた時に何をしているのか全然よく分からなかった。今のAlphaGoのようでした。」
セドル勝ちが確定的になって、すっかり高尾も元気を取り戻していた。
「これ、井山さんならAlphaGoに勝てるんじゃないですかね。」
「アルファ碁に何か壮大な読みがあるのかと思っていたら、何にも読めていなかったです。」
まぁ、今までのアルファ碁があまりに強すぎたので、これくらいの軽口は許されるだろう。
さらに、あのコジュが、当初アルファ碁は俺に勝てない、勝算が60%か70%あると言っていたのが、第三局を見て勝算5%とすっかり元気をなくしていたのが、どの程度まで%が回復するのかも楽しみである。
アルファ碁は中央のゴチャゴチャした大きい石の読みに難点があるようだ。それは、採用しているモンテカルロ法自体の弱点だそうである。
結果的にソフトの打つ碁の内容の高度な素晴らしさも、人間の技術の高さと意地も見ることができて本当に良かった。

さて、ここで数日前の記事でアルファ碁の「直感」「感覚」について紹介したが、その点についてもう少しきちんと考えてみたい。
人間が将棋を実際に指す上で必要なのは「読み」と「感覚」である。
「読み」については、一手こう指し相手がこう指し自分がこう指し相手が…..ということ。これはコンピューターにそのまま理解させられる。▲7六歩△8四歩▲6八銀と符号にすればいいだけである。
問題は「感覚」をどう言語化してコンピューターに理解させるかである。人間は盤面を見ると直感的に何らかの手が浮かぶ。それはプロから私のような弱いアマチュアまで可能である。その精度が段違いに異なるだけで。
その際、人間は意識的あるいは無意識に色々考える。駒の損得はどうか、玉のかたさはどうか、駒の働きの効率はどうか、どれだけはやく相手玉に迫ってどれだけ自玉がもちそうか。それらをいちいち考えなくても将棋の経験を積んでいれば、盤面を見ればパッといくつかの候補手が浮かぶ。
その際それまでに経験を積んだ局面のパターン認識の記憶の蓄積を無意識に思い起こして、そこからうまくいきそうなパターンを直感的に判断するわけだ。
そういう直感作業をコンピューターはそのまま実行できないので、先に述べた判断基準を数値化して「評価関数」に置き換えるわけである。
その置き換えの過程で、人間の柔軟で細やかな思考直感作業の多くが失われるのはやむをえない。
単純化すれば、将棋のソフトは、そういう局面を評価する「感覚」の代替物としての「評価関数」、それと人間と同じ「読み」で成立している。

ところが、囲碁ソフトの場合は話が単純ではない。人間の方は「読み」と「感覚」で将棋と同じ。
しかし、まず「読み」の部分からして、囲碁は打つ手の組み合わせ数が膨大すぎて、具体的に読む探索方法では対応できない。
現在囲碁ソフトが用いている「モンテカルロ法」は、ある局面から終局まで適当に多数並べて勝つ確率が一番高いものを選ぶ。だから、そこにはある局面で勝つ確率が提示されるだけで、その後の具体的な読み筋はない。つまり、囲碁のソフトは人間のような「読み」なしでやっている事になる。(一応極端に単純化して考えると。)
一方、ディープラーニングは人間の神経ネットワークを模したシステムである。囲碁の場合だと盤面に白黒の石が配置されている図像をパターンとして、人間の神経が知覚するのと似たように把握する。
だから、将棋の「評価関数」と比べれば、人間が「感覚」で盤面を認識するのと一応は似ている。(実際には全然違うのだろうが。)
そしてプロ棋士の膨大な棋譜を学習して記憶してパターン認識として蓄積することで、ある盤面を見た場合、それらの膨大なパターンを照合してその中から一番良いものを選択するわけである。
それが、ハサビスがいう「棋士たちは、無意識的にパターンの照合を行っていて、ディープラーニングはそれをとてもうまくやるのです」という事だ。
それが、まるで人間が直感で手を選ぶかのようだという事である。
つまり、囲碁ソフトは、人間の「読み」はなくてそれをある瞬間の局面で勝つ確率で代替して、そのかわり「感覚」の方は、人間の神経ネットワークの知覚になるべく近い形で行っている。
こうして考えると将棋ソフトの方は、「読み」はそのままだし、「評価関数」が人間の「感覚」と別物だとしてもきちんと数値化していて、とても合理的なシステムである。「機械」らしい。
ところが、囲碁ソフトの方は、厳密な「読み」がない上に、ディープラーニングのニューラルネットワークによる画像認識で漠然としていてとても「感覚的」なわけである。
つまり、アルファ碁の場合は、極端に言えば、全然読まないで感覚直感だけで打っているとも言える。それで、あれだけ強いのは我々の常識的な考え方、感じ方からすると信じられないことなのである。
もっとも、「感覚」と言ってもディープラーニングのニューラルネットワークのそれはきちんと数値化定量化可能なもので、人間の本当の「感覚」とは異なる。擬似感覚とでも呼ぶべきだろうか。
あくまで、有限でルールも決まっていて計量可能な世界を、単純な機械の計算ではなく、神経システムの擬似感覚でなるべく精密かつ柔軟に捉えようとしているだけだ。
その辺りが、アルファ碁の人工知能としての限界なのかもしれない。
実際、その点について以下の記事で、アルファ碁のナローAIと汎用AIの違いの問題である。

囲碁の欧州王者に勝利した囲碁の欧州王者に勝利した「AlphaGo」に見るナローAIとグーグルのアプローチ

アルファ碁の囲碁に特化したナローAIは、本当に人間のような能力を持つかもしれない汎用AIとは全く異なるという事である。
そして、アルファ碁は「人間のような囲碁の着手」を可能にしたけれども、「人間が本当に自力で考えるように囲碁を打つ」わけではない。
それでも、今回のAlphaGoがなしとげた偉業は勿論評価されるべきである。また、実際にこのナローAIを他分野に応用して利用することも可能で、Googleもそもそもその事が目的なのである。
しかしながら、いくらナローAIが進化しても、少なくともホーキングが憂慮する人工知能が人類を支配する事態になる恐れは全くない。それは、汎用AIの方が本当に実用化されてしまった時の話だ。
井山裕太の七冠をかけた十段戦で、二十五世本因坊治勲が解説をして、人気女流の吉原由香里が聞き手だったのだが、治勲先生が人工知能についてこんな事を言っていた。
「人工知能が支配したら、私なんかコイツはいらないとすぐ排除されちゃうけれど、吉原さんなんかは大切にされる。人工知能にも感情があるからね。」
それはよかったね。いや、よくない。
ホーキング博士、人間にはこんな面白いジョークを言う能力がありますが、人工知能にはとても無理なんで、人類はまだまだ大丈夫です。
多分……