将棋本

中野英伴さんの写真

将棋写真家の中野英伴さんが先月亡くなられた。その際に、中野英伴さんが写真について語られている動画の事を知って観たのだが大変興味深かった。以前に無料の将棋動画チャンネルでつくられたもののようである。直接リンクをはるのはちょっと遠慮しておくが、中野英伴で検索すればすぐ分かるはずだ。
その動画を観れば恐らく誰もがまず中野さんの何とも言えない人柄に惹かれることだろう。温和そのものでクセや嫌味を全く感じさせない。
本来プロ棋士を撮影するのはそんなに簡単な仕事ではないはずだ。特になかなか難しい棋士が存在したかつての時代においては。ところが、中野さんはあらゆる棋士に好かれて常に問題なく棋士の写真を写し続ける事ができたようである。
ある意味、「難しい」代表格だった米長邦雄も中野英伴写真集「棋神」のまえがきを書いていて、中野さんの人柄を絶賛している。こういう人なら棋士たちもどうしても神経質にならざるをえない対局時にも安心して写真を撮らせることができたのだろうと納得できる。
私は写真については素人なので(いや、将棋についても本来そうなんだけど)中野さんの写真を批評する資格など勿論ありはしない。ただ、「棋神」の写真をながめていると、どの写真からも深い静謐を感じる。対局中の棋士の表情からは様々な表情が現れ、特に終盤においては激烈な一瞬の表情も生まれる。
しかし、中野さんは棋士のどんな感情の表情、姿を写していても、それが決して俗にならずに聖化されている。人間の奥深くから現れてくる多様な感情が、その本来の本質的なピュアなエネルギーの形として一枚の写真の一瞬に切り取られて定着されている。
それは、棋士が対局時に現実に見せる生々しくて場合によっては「美しくない」姿よりも、まるで棋士の本来の姿をモノクロの写真として昇華して表現しているかのようである。
羽生善治の若かりし頃の見ようによってはとんがったあの姿もひたすら純粋な聖なる形に見える。
ただ、「棋神」の写真でおそらく唯一の例外は加藤一二三のある一枚の写真(62P)である。全てを聖化昇華してしまう中野さんの腕前をもってしても、加藤一二三の溢れ出る人間味をおさえきることはできなかった。そして、これは中野写真においてもしかすると欠けているかもしれないユーモアを加藤が補ってあげた中野写真の傑作の一枚だと私は考える。
中野さんは、デジタルカメラを使わずモノクロにこだわった職人だった。「棋神」をながめていても、その光と影のシルエットが美しく、まるで昔の黄金期のモノクロ日本映画を観ているかのようだ。宮川一夫の撮影した「雨月物語」のような深々として、カラーよりも生々しい白黒の世界。
中野さんは棋士を写す際にもこだわりがあって、シャッターは一回しかきらないものだと考えて一発必中を目指して真剣勝負で少ないチャンスを狙っていたそうである。そういうところも写される棋士の側に負担にならなかったのだろう。
そして、その少ないチャンスで棋士の狙いの表情を撮る為に、中野さんは体の全身の動きに注目して見逃さないことで、表情の一瞬を予測していたそうである。そういう緊張感のある撮り方をしていたから、ああいう凝集力のある写真になったのではないだろうか。
中野さんは単に棋士の表情だけを写すのではなく、その身体性全体が醸し出す何かを捉えようとしていたようである。だから、場合によっては表情が見えずに背中から写した写真に傑作がある。そういう格好の代表が米長邦雄だったようである。「棋神」だとP52の米長が考える背中のシルエットを強調した写真。そしてP44の花月園における外は雪景色の中、米長が後ろ姿で静かに、しかし気合をこめて読みふける姿。その写真などは完全に古典モノクロ映画の世界である。
(ちなみに花月園は中野さんお気に入りの対局場だったようで、対局室が狭い分、光が十分差し込んで絶妙な光と影のシルエットをつくったそうである。「棋神」は全てが棋士の写真の中、一枚だけ花月園の無人の対局室の写真が収録されている。)
中野さんは、よい写真を撮るには将棋の中盤がよいと考えていたようである。将棋世界の企画の「勝負の刻」で中野さんが特別に終盤の対局室に入ることを許されて写した迫力十分の写真も「棋神」に多数入っている。特に102Pの日浦一郎の目つきは凄まじい。
ただ、中野さんは本質的には静謐な写真があっていて、先述した米長の二枚も中盤に写したそうである。じっくりと腰を落として読みふける姿、その身体性の全体が中野さん好みだったのだろう。中野さんは、序盤中盤終盤と隙がない中でも、特に中盤を得意とされていたのかもしれない。
中野さんにとっては米長邦雄が特別の被写体だったらしい。将棋写真の何たるかをつかんだのも米長の名人戦を写した際だったそうである。
そして、米長がお得意のポーズで考える写真(P49)を語る中野さんの嬉しそうな様子といったら。古いファンならよくご存知だろうが、米長が手を頬にあてて右腕をしっかり直立させてうつむき加減に考える例のポーズである。
着物の黒とむき出しになった米長の筋肉質な右腕の白の鮮やかなコントラスト。
中野さんはご自身の写真を見ながら、「いいですねぇ。」「申し分ないですねぇ。」「もう嬉しくなっちゃいますよ。」と米長が写った写真にまるで我が子に対するかのように語りかけるのだった。
中野さんは、棋士の写真は自分から写しにいくものではなく被写体から自然に何かをもらうものだとも述べている。まさしく棋士と中野さんの真剣な共同作業だったのだろう。
その格好の被写体が米長だったわけである。米長は言い方は悪いが、あれくらい「俗」な部分を自分の中にたくさん飼っていた人間はいない。しかし、中野さんはそういう米長の俗ながらも人を惹きつけずにはいられない強烈なエネルギーを、そのままの形で聖なるものに転換することに成功していたようにも思える。
余談だが、「棋神」には現役棋士の若かりし頃の懐かしい写真も多数収録されている。その中で、私は中川大輔と行方尚史を本人だとすぐには確認できなかった。
当時七冠だった羽生善治名人に森内俊之が挑戦した写真(P27)を、動画で田名後将棋世界編集長が印象的だと述べていた。羽生の後ろ姿を森内が何とも言えない目で見つめている写真である。森内の心中心情について、中野さんは「それは読者がそれぞれ考えてみるとよいのかもしれません。」と言っていた。
確かにこの森内の目は何とも言えない。小学生の頃からライバルで、プロでは実績で大きく遅れをとった相手に対する羨望と闘士と屈折といったあらゆる感情が入り混じったような目である。確かに印象的なのだが、中野さんの写真としては「解釈」の多様性が可能な人間的な生々しい感情がみてとれる例外的な写真の一枚なのかもしれない。
さて、中野さんの写真に勝手な感想を書き綴ってきた。随分間違いもあるかもしれない。なので、最後に中野さん本人の言葉を「棋神」のあとがきから引用して終わりにしよう。これくらい、中野写真の本質が明確に表現されているものはないと思ったので。
「人間の内なる心は、必ず外なる姿に、幽かにも表れて垣間見られるものと信じる。首筋から肩へ、肩から背の線や面、そこに伺う厚みや沈みは、思考の胸の中を美しく物語ると深み観る。ややに動き傾く首筋の角度は、心の揺れか、鎮みか。座したる腰の決まりは、精神いかにと見て、局面と心奥の在りようを展望したい。静は静の中に動を生み、動は動の狭間に静を生みだす。」


中野英伴さんの写真集「棋神」は、ご逝去当時は入手しにくかったようですが、現在はAmazon等で入手可能なようです。改めて謹んでご冥福をお祈り申し上げます。



PR誌「ちくま」に将棋エッセイコレクションの紹介文(ウェブ閲覧可能)を書きました

筑摩書房さんのPR雑誌「ちくま」の2014年3月号に、ちくま文庫「将棋エッセイコレクション」の紹介文を書かせていただきました。
筑摩書房さんの一般読者向けのPR誌なので、私も将棋ファンというよりは一般読者を意識して書いています。是非ご一読ください。

「ちくま」 純粋なる将棋界をめぐる多彩な文章たち/shogitygoo

(PR誌 ちくま HP)

HPの目次をご覧になればお分かりの通り、新刊書の紹介の他、錚々たるメンバーの連載を読むことが出来ます。(私の場違い感といったらないです。)興味のある方は雑誌自体を入手されてください。PR誌「ちくま」はHPから定期購読可能な他、大型書店で無料で配布している事が多いようです。
(全国約3名のものぐさファンはいますぐ大型書店へGO!)
本来、編者の後藤さんを含めて他に紹介文を書く適任者はいくらでもいるわけですが、最近ちくま文庫さんの河口俊彦先生の「大山康晴の晩節 」の解説をyomoyomoさんが担当されて大変好評だったようです。それで筑摩書房さんも再度冒険されたようなのですが、果たして柳の下にどじょうが二匹いたのかどうか大変不安なところです。とにかく自分としては全力を尽くして書いただけです。
せっかくあの筑摩書房様がちくま文庫で将棋の本を出していただいたのですから、一応参加した者としては、是非とも将棋ファンだけでなく広く一般読者の方々に読んでいただきたいと思っています。
ここを読んでいただいているのはかなりコアな将棋ファンの方々ばかりかもしれませんが、なにとぞお知り合いの読書子の方々にこんな将棋の本があるのだと紹介していただきたいと考えます。よろしくお願い致します。

さて、「将棋エッセイコレクション」に収録された私の記事は、「NHK「羽生善治・吉増剛造 盤上の海、詩の宇宙」再放送雑感」でした。この記事を改題して大幅に加筆修正したものです。
この記事が収録されたと知って、「わが意を得たり」とおっしゃっていただける方々がいる一方で、いやてっきり「鰻職人タケシの冒険」が載るのだとばかり思っていたという方があまりにも多くて驚きました。
さらに、中には「この記事が収録されたのでは、まるでものぐさブログがかっこいいブログだと思われてしまうではないか。」とおっしゃる方までいて、わたくしは大変憤慨した次第です。つくづく読者とはありがたいものであります。

再掲紹介記事 ちくま文庫「将棋エッセイコレクション 」に参加させていただきました




ちくま文庫「将棋エッセイコレクション 」に参加させていただきました


「内容紹介
プロ棋士、作家、観戦記者からウェブ上での書き手まで――「言葉」によって、将棋をより広く、深く、鮮やかに楽しむ可能性を開くための名編を収録。(Amazon紹介文)」

将棋観戦記者、ネット中継記者としておなじみの後藤元気さんによる編集の「将棋エッセイコレクション」に私も参加させていただきました。ちくま文庫から書店、Amazon等で発売中です。
なお、ツイッターなどによるとまだ書店に本が並んでいないケースがあるそうです。編集者の方に確認したところ、書籍というのは発売日が地域書店によってばらつくもので、今回も書店に並ぶのは本日7日以降のところが多いようです。
Amazonさんでは現在普通に扱われているようです。

題名通り後藤さんが古今東西の将棋エッセイを41編集めたものです。403ページと読み応えのあるボリュームになっており、定価は945円(本体900円プラス消費税)です。
著者はプロ棋士、観戦記者、作家、プロライター、将棋関係者、アマチュアと多岐に渡っており、懐かしい名観戦記者の文章から、現在のウェブ上の文章まで大変幅広いものになっています。以下、登場順に著者を紹介します。
(プロ棋士)
 真部一男、山崎隆之、先崎学、行方尚史、内藤國雄、片上大輔、河口俊彦、桐谷広人、青野照市、鈴木輝彦、渡辺明、芹沢博文、山田道美
(観戦記者、作家、プロライター、将棋関係者)
 中平邦彦、越智信義、宮本弓彦、倉島竹二郎、福本和生、湯川博士、高橋呉郎、山口瞳、田辺忠幸、鈴木宏彦、東公平、国枝久美子、小暮克洋、梅田望夫、高木彬光、信濃桂、天狗太郎、能智映、奥山紅樹、遊駒スカ太郎、古田靖、将棋ペンクラブログ
(アマチュア)
shogitygoo、将棋観戦記 

それぞれの著者についての紹介文、さらに巻末には後藤元気さんがそれぞれの文章について短い紹介解説文を書いています。
後藤さんの編集に当たっての基本方針は、一つはまず「統一感のあるものにしたい」ということだが、それ以外に隠しテーマのようなものがあるそうです。読まれる方はそれを探られてみてはいかがでしょうか。
内容については、当然全て将棋をめぐる文章なのですが、将棋の専門的な内容というよりは、読み物として楽しめるものになっています。普通に「読書」の対象になるので、将棋ファンの方だけでなく、一般の読者でも読める本になっていると思います。
棋士という独特な人たち、そして将棋界というちょっと他にはない世界の事を知るための格好の入門書にもなっています。
現在の棋士やウェブ上の文章が多数おさめられていて、そういう意味では現代的なアンソロジーになっていますが、昔の物書きや観戦記者の文章も多数収録されており、現在の将棋界とはまた一味違ったかつてのきわめて人間的な棋士たちの時代の事をよく知ることが出来ます。そういう意味で、最近新しく将棋ファンになられた方にも読んでいただきたい本です。
最近はちょっとした将棋ブームで、特にニコニコ放送や電王戦で将棋にライトな興味をもたれる方々が急増しています。そういう軽い楽しみ方も大変現代的ですが、もう少し将棋の世界を深く知りたいという方、また落ち着いて読書をしてみたいという方々にもお薦めです。
具体的内容については読んでいただくのが一番なのですが、私が面白いと思ったものをいくつかあくまでもネタバレのない範囲で簡単に紹介しておきます。

中平邦彦「聖性」
棋士の本質をズバリついた論考。名著「棋士・その世界」から取られていて、私も実はこの本で将棋の世界の事を知って何度も昔読み返した。興味を持たれた方はこの本をよまれる事もお薦めしたい。

越智信義「大山名人と棋譜ノート」
大山先生の人間の本質をついているエピソードで印象的。越智信義さんは将棋博士として有名だが、現在その著書が電子書籍で入手可能なようである。
「Amazon 越智信義 kindle」

真部一男「知られざるドラマ」
現在バラエティでクイズ出題で活躍中の「ひふみん」ですが、加藤先生と中原先生が同じ対局室で対局した際に真部先生が目撃した一触即発の事態とは.....。

山口瞳「血涙十番勝負―米長七段戦」
有名な本だが、それから米長さんとの駒落ち戦を。米長先生のあの人柄がよく出ていて懐かしい。

河口俊彦「「対局日誌」より
桐谷広人「緊急反論―「対局日誌」を読んで」
河口先生がおなじみの対局日誌で桐谷先生の将棋をとりあげたのに対して、桐谷先生が文章で反応したもの。とても珍しいケースで興味深い。「自転車と株のおじさん」の別の側面を見せている文章にご注目あれ。

山田道美「八月一日(日曜日) 朝」
山田先生の日記より。山田先生の日記というのは強烈な自己告白日記だが(私も山田日記の事はブログで紹介した事がある)、わりとさりげないものを後藤さんは選んでいる。多分この日記のラストが気に入られたのではないかしら。確かにこの本のラストにふさわしいかもしれない。

以上紹介しだすときりがないのでほんのサワリだけです。

さて、アマチュアからは実力派将棋ブログの「将棋観戦記」さんとともに二人だけ参加させていただいています。本当に光栄な事ですが、後藤さんの幅広い選択をという方針のおかげでかろうじてひっかかったのだと思います。
ブログで発表したものを改題して、加筆修正したものになっています。プロの編集者の方の手もかなり借りて、文章としてはブログよりはかなりまともな形にまとまっているはずです。どれが収録されたかはここでは言いませんが、興味のある方はオリジナルと比べてみていただければと思います。
後藤元気さんの紹介文によると弊ブログは「時にミーハーに楽しみ、時に鋭く考察する。」ということだそうです。今回選んでいたものはわりと真面目な顔をして書いていますが、私自身は「ミーハー」なところが自分の本領だと考えています。今まで書いたものをブログ本の電子書籍として「ものぐさ将棋観戦ブログ集成」として配信していますので興味のある方は「ミーハー」な部分をご確認ください。PDFかePubでダウンロード可能で完全無料です。(宣伝ごめんなさい。)

この大変多くの文章のアンソロジーを読んでも、それでもあの人あの文章が載っていないではないかと感じました。昔や今の名作家でもそうだし、プロ棋士でもまだまだ筆のたつ方はたくさんいるし、ウェブ上にも私より全然優れていたり面白かったりする文章がいくらでもころがっているはずです。
というわけで、気が早いのですが第二集が出ることを期待しつつ紹介文の筆をおくことにします。その意味でも皆様よろしくお願いいたします。

梅田望夫「羽生善治と現代 - だれにも見えない未来をつくる」 (中公文庫)


「内容紹介
なぜ彼は四十代でもなお最強棋士でいられるのか。ルールを知らずとも将棋に惹かれる全ての人に贈る、渾身の羽生善治論。羽生三冠との最新対談収録!
内容(「BOOK」データベースより)
将棋界の歴代記録を塗り替え続ける最強棋士。なぜ彼だけが常に熾烈な競争を勝ち抜けるのか。タイトル戦観戦記にトップ棋士たちとの対話、そして羽生本人に肉迫した真剣対談が浮き彫りにする、強さと知性の秘密。ルールがわからない人をも魅了する、天才棋士の思考法とは。既刊単行本二冊を再編集し、羽生善治との最新対談を収録した完全版。」
(以上 Amazonページより)

単行本二冊とは、「シリコンバレーから将棋を観る」と「どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?」である。
それに、羽生が昨年末に竜王戦のニコ生解説を行った日の午前に行われた梅田との最新対談、「はじめに」「おわりに」が新たに加えられている。

私のように既刊二冊を読んでいて、新たな最新対談を楽しみにされている方も多いと思うので、ここではあまりその内容を敢えて紹介しないでおこう。
ただ、羽生が現代将棋のまさに今の状況について発言している内容が大変注目すべきものだという事だけ紹介しておく。
また、渡辺明について述べている部分も、羽生らしい客観的な見方をしていて大変興味深かった。

その対談の冒頭でも話題になっているのだが、梅田が「シリコンバレーから将棋を観る」を出版したのが2009/4/24で既に四年経過している。(あるいは、まだ四年しか経過していないとも言える。)
そしてその四年の間に、梅田の提唱した「観る将棋ファン」を取り巻く環境は大きく変化した。将棋の世界がIT化に積極的に対応してきたためである。
具体的にはネット中継の内容も、解説や中継ブログのない内容は当時と比べると格段に充実したものになった。また、中継自体の即時性や安定性も高まった。
さらに、携帯やスマホに対応したモバイル中継も始まり、気軽にどこでも毎日将棋中継を楽しむ事が可能になった。
また、棋士が始めたustream中継を発端にして動画中継が行われるようになり、現在はニコニコ動画によるタイトル戦いの解説中継が日常化している。先日の棋王戦第二局でも、ほぼ10万近いアクセスがあったそうだ。大変な数である。
タイトル戦だけどころか、最近は将棋祭りまで完全中継される事が多い。
さらにこの後3/1のA級順位戦最終局「将棋界の一番長い日」では、スカパーが解説を含めた全局の映像放映を予定しており、同時にニコ生やNHKのEテレでの生中継も行われる。「観る将棋ファン」にとっては楽園状態だ。
さらに、「観る将棋ファン」側も、ニコ生コメント、ツイッターを通じて気軽に自分の意見や感想を発信することが可能になり、将棋ファン同士の交流も容易になっている。
そのような事がこの四年間の間に起きた事を改めて確認すると驚かずにはいられない。
そのような流れを受けて、現在は「観る将棋ファン」にとってはほとんど理想的といってもいい環境が整っていると言えるだろう。
そして、あまり自分では将棋を指さなくてそれほど強くなくてもプロの将棋や棋士の人間自体を「観る」のが好きだという人たちが急増してるように思える。私自身がしているツイッターでもそれは感じるし、特にニコ生放送での多くの人間の反応には圧倒される。
そして、ニコ生放送で行われるアンケートによると、放送を見ている人間のほぼ8割以上が、初心者から級位者で、恐らくその中には「観る」のが中心のファンが大勢を占めているのではないだろうか。
そして、そういう「観る将棋ファン」がどのように将棋を楽しめばよいかを教えてくれるのが、梅田の既刊本二冊と言える。既に梅田のこの二冊の著作は、「観る将棋ファン」の間ではバイブル的な扱いになっている。
しかし、梅田の本は「観る将棋ファン」の層が(主にニコ生の力で)格段に拡がりつつある現況にこそふさわしいと言えるかもしれない。
本ブログの読者も、どちらかと言うと既に「コアな観る将棋ファン」?中心になっているような気がするが、なんとか梅田の本が新規の「観る将」の目にふれて読まれて欲しいものである。

さて、今回この文庫本にも収録されている、羽生と梅田の最初の対談を読み返してみた。
その中で、タイトル戦などの難解な局面をどう捉えるかについて以下のように述べている。
「タイトル戦に限らず、大部分の対局は、その微妙なギリギリのところで、ずっとずっと揺れ動き続けているものです。私は、その途中の感じを観るにはアマとプロの差は、じつはあまりないんじゃないか、という気がしているんです。(中略)針がどっちに振れるか分からない、切羽詰った場面を見るには、将棋の実力は関係ない。最低限ルールさえ知っていれば、そのときの雰囲気とか「場」を、かなり捉えることができるのではないかと。」
この発言に梅田も感激している。
勿論強いプロの方がアマよりも具体的には比較にならないくらいに手を読むし将棋の内容も分かっている。しかし、ギリギリの場面での判断はブロとアマでもそう変わらないと言うのだ。
一見すると信じられない発言だが、私もプロ将棋を観ていてそれは何となく分かるような気がするのだ。
控え室のプロたちがよってたかって検討していても分からない難解な局面、意見が分かれるような局面では、最終的には「将棋勘」のよさがものを言う。
そういう勘のいい者は、多少弱くても局面の状態を驚くほど正確に把握する。逆に多少強くても、そういう勘がない人間はよく間違える。
さらに、最近ツイッターで観戦していると、本当にほとんど級位クラス、初級レベルでもなぜ分かるのだろうかと不思議になるくらい的確に判断出来る人がいる。それは、本当に棋力とは関係ない総合的な判断力によるような気がする。
つまり、たとえ将棋は全然弱くても、その他の人生の経験値があって自分のものの見方が出来ている人は、中途半端な「強さ」の人間より的確に判断できるのだ。それが「観る将棋」の面白いところだ。
そして、羽生は別に将棋が強くなくても観て楽しむ事が出来るものだと述べている。それを梅田は今回の新対談で「天動説が信じられている世界でいきなり法王庁が地動説を認めてくれたような(笑)大変に衝撃的なもの」と述べている。
羽生という将棋界のトップが「観る将」を認めてくれているのである。新たなファンはこの言葉をきいて、自信をもって将棋を観るのを楽しんでいただきたい。
また、現在の将棋界のもう一人のトップの渡辺明も、その著書「頭脳勝負―将棋の世界 (ちくま新書)」の中でこのように述べている。
「将棋を指すのは弱くとも、「観て楽しむ」ことは十分できます。
例えばプロ野球を見る時。「今のは振っちゃダメなんだよー」とか、「それくらい捕れよ!」。
サッカーを見る時。「そこじゃないよ!今、右サイドが空いていたじゃんか!」 (中略)
言いながら見ますよね。それと同じことを将棋でもやってもらいたいのです。
「それくらい捕れよ!」と言いはしますが、実際に自分がやれと言われたら絶対できません。
「しっかり決めろよ!」も同じで、自分では決められません。
将棋もそんなふうに無責任に楽しんでほしい。」
渡辺も、将棋を専門的に分析するのでなく、プロ野球やサッカーをテレビ観戦するように楽しんで構わないと述べているのだ。
さすがに、羽生も渡辺も一道をきわめる人間は、考え方が大きい。この二人がこういってくれるのだから、将棋の敷居が高いと思われている方も、是非気軽に将棋の世界に入ってきて楽しんでいただきたい。
そして、繰り返しになるがその楽しみ方を教えてくれる格好の本がこの梅田望夫の「羽生善治と現代」なのである。

最後に、今回まだ梅田の本を読んだ事がない方のために、既刊本二冊の書評を幾つか紹介しておこう。

「シリコンバレーから将棋を観る」
naoyaのはてなダイアリー シリコンバレーから将棋を観る
極東ブログ [書評]シリコンバレーから将棋を観る - 羽生善治と現代(梅田望夫)
(これ以外に毎日新聞の若島正氏による素晴らしい書評があったが現在ウェブでは見られないようで残念である。)

「どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?」
梅田望夫のModernShogiダイアリー どうして「どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?」という書名にしたんですか
Yoko Ishikura's Blog 「どうして羽生さんだけが。。。」に見る将棋の世界





糸谷哲郎「現代将棋の思想 ~一手損角換わり編~」



一手損角換わりというと、すぐに去年の竜王戦の▲渡辺vs△丸山を思い浮かべる将棋ファンも多いだろう。あの時に丸山が採用した四手目に△8八角成として△3二玉と構える形が、本書の最終章で取り上げられている。
竜王戦の際には、昨年も一昨年も後手の丸山の作戦がうまくいかず、先手の渡辺がうまく対策を講じたという印象だった。あの後手の形は玉のコビンが開いていて陣形として不安定だし作戦としてどうかと感じられた。あの丸山流の一手損作戦に渡辺が引導を渡したようにも素人ファンには思えたものである。
この糸谷本は、そういう主張に対する反論にもなっている。まず、第一にあの丸山流の形は、実はまだ未解決の変化を多く含んでいる。竜王戦で出た形にも言及しながら、後手が正しく指した場合の変化について糸谷の見解を述べている。そして、正しく指せば実は後手も指せると糸谷は考えているようだ。
第二に、丸山流の後手の一手損の形は一見奇異だけれども、なぜ現在ああいう形に至ったのか、糸谷は一手損の歴史を概観しながら解明している。丸山がああいう形を採用するに至った歴史的必然が本書で理解できるのである。
どうしても、我々一般ファンは将棋の結果だけで判断してしまいがちだ。竜王戦だけ見ると、丸山流の一手損は単なる冴えない作戦に思えてしまう。しかし、当然その背景にはプロの膨大な研究とその進化の紆余曲折の過程がある。私などは、本書を読んで竜王戦の丸山将棋への自らの理解の浅さを痛感させられた。
本書は基本的には一手損角換わりの歴史を概説したものである。その一方で、今述べたように竜王戦の▲渡辺vs△丸山という表に表れた一つの棋譜の膨大な背景を解説しているという読み方も可能な筈だ。水面上の氷山の一角の単なる一つの棋譜に、どれだけのプロ棋士の共同研究や実戦の試行錯誤の結果が盛り込まれているかを知ることが出来て面白かった。

マイナビのサイトが本書の予告として糸谷自身によるまえがきを紹介している。糸谷の本書での意図が明快に述べられている。
「――本稿においてのメインテーマは題目にもある通り一手損角換わりである。となれば、本稿の目的は一手損角換わりについての説明となるわけだが、その目的は何をもってすれば満たされるのだろうか? 単に戦術的な面について述べるに留まるのでは、一手損角換わりの一面についてしか描写出来ておらず、研究書ならばともかく解説書を名乗るには不満があるのではないだろうか。研究手順のみをつらつらと書き述べることもまた必要なのではあるが、研究手順は時代時代においてすぐに変革されていくため、本の価値を長く残そうと思うのであれば、研究手順の前に、「どうして一手損角換わりを指すのか」「一手損角換わりという戦法はどのようなことを狙っているのか」ということをおろそかにしてはならないだろう――」
(マイナビBOOKS 「糸谷六段渾身の処女作「現代将棋の思想 〜一手損角換わり編〜」もうすぐ発売!」より)
要するに単なる普通の定跡書にはしたくないという事である。
以下、まず各章の内容について簡単に紹介してみよう。

第一章 後手の戦法の比較検討
まず、一手損だけでなく、△8五飛、ゴキゲン中飛車、矢倉、一手損という後手の作戦を簡単に解説している。その際に、単なる手順だけでなく「玉の堅さ」「先後同型」といった観点によって定跡の進化を解説する工夫を試みている。
そしてそれらとの比較を踏まえて、一手損角換わりについては、「先手の手詰まり」を目指し、また「現代的な玉の堅さを目指す方向とは逆行している」と捉えている。

第二章 一手損角換わりの発展
現代的な一手損に至る前の一手損の歴史を概観している。その際、プロ将棋における実戦の感覚とその理論化の意義について大変糸谷らしい考察もしている(後述)。

第三章 一手損角換わり△3二金の衰退
それほど昔ではない近年に猛烈に指されていた△3二金に対して先手が早繰り銀で攻め込む変化の定跡歴史の解説。なぜこの後手の形が衰退したかについて。本文中には明示されないが、プロ将棋でよく出てきた形が次々に出てきて懐かしい。と言ってもそんなに昔の話でなく数年前の事で本当に現代将棋の定跡進歩の猛烈な速度を感じる。

第四章 一手損角換わりの工夫△8四歩不突き
第三章の△3二金プラス△8四歩突きではなく、△3二金プラス△8四歩不突きの形を解説している。
飛車先を突かないのは飛車先不突き矢倉など現代将棋の定番である。一手損でもその思想が現れた。
但し、次の△3二金をも保留していきなり四手目に角交換する形が隆盛となったために、この形は研究が進んでいないという。歴史の進化が猛烈すぎてその間のようになった形。
確かに他の章と比べてプロの将棋の印象が薄いように思える。

第五章 一手損角換わり△8八角成型・前
四手目で角交換した上で後手がダイレクト向かい飛車にする形の解説。本書で唯一振り飛車が解説されている部分である。
もはや、居飛車党か振り飛車党かを区別できない時代であることを象徴しているとも言える。

第六章 一手損角換わり△8八角成型・後
現在の課題になっている最新型の解説。冒頭に述べたように丸山が竜王戦で採用していた形である。
この形の成否が一手損角換わりの命運を握っていると言っても過言ではないので、糸谷も気合を入れて自身の研究成果を、竜王戦などの変化も踏まえて詳述している。

以上、基本的には一手損の歴史の定跡変化を網羅する形で書かれている。当然その定跡説明だけで本来膨大な量になる筈だ。
従って、糸谷が書くに当たって理想とした「一手損の思想」を十分に論じきる余地がなかったとも言える。特に後半は普通の定跡書とそれほど違うとは言えない。
但し、その中にも随所随所に糸谷は工夫して将棋の考え方を織り込む工夫をしている感じである。
これは書き方の問題と言うよりは、第一に本のボリュームの問題だろう。200ページ程度に、全ての一手損の歴史、後手の戦法、思想を盛り込もうとすれば、どうしてもどの部分かが不十分になる。
そして、基本的な定跡説明は欠かせないので、どうしても糸谷流の「思想」の説明部分が不十分になってしまう。
改善策としては、本のボリューム自体を大きくするか、或いは定跡説明を犠牲にしてでも、糸谷が将棋の思想を語ることを中心に据えるかしかないだろう。
本書は「一手損角換り編」と題されているので、もし続編が出るならばそういった事を期待したい。
本書はネット上でも前評判が大変高かったが、主に糸谷の「将棋の思想」に期待する部分が大きかったように思う。本書は定跡書としての価値も高い一方で、そういう側面を売りにした書籍も期待したい。
なお、このジャンルでは勝又清和が「最新戦法の話」や現在も継続中の将棋世界の連載で素晴らしい成果を残している。その際に、勝又はポイントになった具体的なプロ将棋をあげて定跡の進歩を解説している。個人的には、それが読んでいて楽しいし情報の整理確認にも大変役に立つ。
本書ではやはり何よりボリュームの問題でそこまでする余裕がなかったに違いないが「歴史」を書くならば、やはり勝又方式がベストである事は間違いないと思う。
本書も特に最終章などは具体的に竜王戦と関連させて説明していると、なお面白かっただろうと感じたので。

第二章の第一節は「理論化の意義、方法」というタイトルである。糸谷らしい、少し古風で硬めの文体で、まるで哲学の本のように語っている。ファンとしてはこういう部分をもっと増やして欲しいと率直に思う。
プロはいちいち理論化して考える事は少ない。むしろ多くの実戦を経験してその繊細な感覚を体で習得している。そして、それをおおまかではあるが言語化したものが理論だと糸谷は言う。
糸谷はプロ棋士にとっての「理論化」についても論じているのだが、我々アマチュアにとっては是非プロに自分たちの将棋を「理論化」して語ってもらいたいところだ。ただでさえ現代将棋は難解なので、単なる手順だけでなくその意味や思想を我々ファンは知りたいと思っている。その意味でこの糸谷本は(その意図が十二分に実現できたかはともかくとして)、やはり画期的だと思う。
特に、最近はプロやアマ高段者向きの高度な手順のみ記した定跡書が次々に出版されている。勿論、そういう研究成果の本も重要だが、アマチュアファンに読ませるためには、今後この糸谷本のような工夫は必要だと思う。この本がその嚆矢となればと思う。勝又教授の専売特許ではなく各棋士も各自の「思想」を今こそ語るべきなのだ。

最後に冒頭に述べた竜王戦に話を戻そう。
糸谷の言うように一手損というのは「先手の手詰まりを目指す」戦法である。
一番分かりやすい例をあげてみる。通常の角交換の相腰掛銀先後同型では現在先手が有利だとされている。先手が4、2、1、7、3筋の歩を次々に突き捨てて、入手した歩で後手の△7三桂の頭に歩を打つのが基本的な狙いである。
ところが、一手損だと後手は手が遅れているために単純に先後同型にすると△8五歩でなく△8四歩のために、桂頭に歩を打たれても△8五桂と逃げられるために、通常の角換わりのような仕掛けは成立しない。「先手が手詰まりになる」可能性があるわけだ。
以上は、(本書でも説明されているが)、一手損角換わりについて有段者なら誰でも知っている基本的な説明である。
本来そういう「手詰まり」を目指す思想だったわけだが、果たして現在の(丸山流の)最新型はどうなっているだろうか?
糸谷が本書で歴史を解説しているように、後手の形に対して先手の対策が次々に開発されて後手の形が潰されてきた。その歴史の中で、後手も飛車先も突かず△3二金も決めない現代的な指し方に進化してきた。勝又教授のいう現代将棋の肝である「後回しに出来る手はなるべく後回しにする」思想である。
しかし、その一方でふと冷静に考えると、現在の丸山流△3二玉型が果たして先手の「手詰まりを目指す」形になっているかというと素人にはやや疑問に思える。
現に渡辺など先手が盛んに採用している▲3六歩と控えて打って銀交換する形では、いきなり駒が交換されて「手詰まり」にはなっていないようにも思える。
つまり、先手の対策が進んで後手の形が次々に潰される形で、後手の形が限定されてきて、本来の「先手の手詰まりを目指す」一手損り思想というよりは単なる力戦志向になっているような気がするがどうなのだろうか。私の一手損への理解が浅くて及ばないだけかもしれないが。
一方、一手損については、後手では絶対には指さない渡辺明や郷田真隆といった先手を持つ棋士の「思想」もあるはずだ。
一手損が、今後も現代的な「思想」として生き残るのか、あるいは先手が完全勝利して「消えた戦法」になるのかも今後大変興味深いところである。
今後どのような歴史の結末になるにしても、本書は「一手損の歴史書」として価値は残るはずだ。そういう意味で、間違いなく糸谷がまえがきで書いた意図は達成できていると思う。

中原誠編 山田道美将棋著作集第七巻 日記

山田道美がまだプロになる前の十五歳の時から、結婚する二十六歳まで日記を、中原誠が編者として著作集の一巻として出版したもの。
前回紹介した随筆・評論集よりさらに赤裸々な山田の肉声を聞くことが出来る。わりと早熟な子供時代の日記から始まるが、特にプロになりたての頃の苦闘の記録が生々しい。
将棋という職業への根本的な疑問。将棋の本島の意味が見つけられずに、苦労しながらその疑問を打ち消すためのように必死に将棋に取り組んでいる。
プロ棋士になってからも親の仕送りなしではやっていけない厳しい経済状況、お稽古などがあまり得意でない不器用な性格。
人生の異議も真面目につきつめて考え、古典文学を読み漁り、「復活」や聖書や「神曲」などに答えを虚しく求める日々。随筆でも登場したが、シュバイツァーに傾倒して本気で博士を追ってアフリカで医療活動をしようと決意したりもする。
肺結核を患い自身の健康と行く末への不安。
そして、女性に対する恋愛感情の飾らぬ率直な告白。
プロ棋士の日記というよりは、あまりに真摯に生き過ぎている一人の孤独な魂の直截な訴えに心動かされずにはいられない。日記文学としても異色の出来栄えだと思う。こんな生真面目な人間が将棋指しという最も過酷で残酷な部類の実験場にほうりこまれると、どうなるか・・という記録である。
但し、最後は幸せな結婚の報告で終わり、一応彼の孤独には終止符が打たれる。とはいっても、最後まで真面目に生を考える性格は変わらなかったように、随筆等を読むと思えてしまう。
山田道美に興味がある方だけではなく、強烈な理想と絶望の間でゆれる若者の日記として読む価値があると思った。
最後に一日分だけ日記を引用しておく。
昭和29年12月8日(水曜日) 
 また、あのたまらない倦怠がやって来た。どこへももって行きようのない、このいらだたしさ。現在の自分のみじめな姿、明日のカテを得れない不安、そして棋士として将来生存でき得るかどうかの不安―そんな心配が一どきにやって来て、生きている恐怖すら起こる。
 生きたい、どうかして生きたい。死がこわい。生とは一体何だろう。衣食住に追われて生きる事なのか。夢のような理想を求める事か。或はよごれた世間に追じゅうして、うまく世渡りする事か。或は、生きている間だけ生き享楽する事か―ああ分からない。
 生とは?死とは?死んだ後は?愛とは?恋とは?快楽とは?禁欲とは?宗教とは?哲学とは?女とは?男とは?
 この世の事で、一体何が分かるのだろう。分からない事ばかり。今日は、殆ど生きる意欲すら失せそうな気がする。孤独のなせるわざか。

中原誠編 山田道美将棋著作集第八巻 随筆 評論 詰将棋

最近亡くなった北杜夫のどくとるマンボウシリーズに「どくとるマンボウ青春記」というのがあってとても好きだった。
旧制高校時代の北自身を含む真剣そのものだがそれがそのまま滑稽であるような青春時代を描いている。彼らは難解な哲学や高遠な文学に真剣に取り組み、それに嘘はないのだが、北杜夫の作家の目がそれを客観視して茶化す。但し深い愛情をもって。そういう現代とは全く異なる青春を送る学生がいた時代が存在した。
北杜夫は1927年生まれ、山田道美は1933年生まれである。6歳差。この山田が遺した随筆を読んでいて、ちょっと「青春期」を思い出してしまったのである。
山田は当時のプロ棋士らしくなく、ドイツ文学を愛し(ドイツ語の原書も読みこなしたらしい)、クラシック音楽を好み、将棋という職業の意味を愚直なまでに真剣に考えていた。その、真摯すぎる思考の記録が随筆等の文章に残されている。
例えば、山田は単なる将棋指しでいることに疑問を持って、生きることの真の意味を考えて、シュバイツァーを見習って医師としてアフリカに渡って他人に尽くして生きようと決意したりもする。真夏の炎天下を歩いたりもした。実際には断念することになるが本気だった。
師匠の金子金五郎は当時の将棋の名解説者として現在でも知られている。同時に引退後には出家して仏の道を歩んだ変わり種である。この師匠にしてこの弟子ありなのだが、二人が将棋という職業の意味について語り合う。
人を負かすことで成立する棋士という存在にたいする疑問。人によっては青臭いと笑うかもしれないがこの師弟は真剣である。そして、それが大層好ましい。
 私は、また聞いた。
「今、ボクは将棋を指すことがそれほど楽しくない。苦行であることすらあります。しかし、一体将棋は苦しむに値するものですか。もし、将棋が何らかの意味をもち、苦しみに値するものでしたら、名人、八段にならなくても、ボクは努力をする勇気が湧くのですが・・・・・。」
 老僧は、ちょっと困惑した表情をみせたあと、静かに言った。
「どんなことでも、苦しみに値するだろうね。」
 この答えはずっしりとした重みがあった。禅問答なら、明かに私の負けである。
このような調子で理想主義的な求道者としての情熱や絶望が、率直過ぎるくらいに語り続けられるのである。
その考え方は、いはゆる「大人」は冷笑的にバカにしてしまうかもしれないが、私にはそれがすごまく新鮮に感じられた。こういう真っ直ぐな性質のまま、大人になっても生き続けられている山田のことが、ちょっと羨ましくなるのである。
当時の棋士の世界を私はよくは知らないが、本などで読むとある意味純粋ではあっても、「あまりに人間的な」世界だったようである。当然、山田のような人間は浮きまくっていたことだろう。
しかし、山田にも気の置けない棋士仲間はいた。加藤一二三である。彼とは、ある時は将棋を真剣に語り、ある時はバッハの「ロ短調ミサ」のレコードを貸しあい、まるで文学の白樺派のような交友を繰り広げているようである。
基本的には大変真面目な文章だが、時にはその加藤一二三の結婚をめぐる微笑ましいエピソードも軽妙な筆致で語られている。
また、大山将棋を分析している文章も興味深い。ここでは、一部分だけ引用しておく。最近羽生善治がよく言う「大山先生は手を読んでいなかった。大局観だけで指していた。」という話を、もう少し具体的に補う証言とも言える。
要するに広く、浅くという形で思考線が非常に短いのが特徴である。長考しても一つの筋だけを深く読むのでなく、短い思考形式で広く読んでいる。

さて、最初に述べた北杜夫の場合は、自分の青春の真剣さを突き放して冷徹に見つめて笑い飛ばす作家の目が常にあった。しかし、山田の場合は大人になっても青春時代の延長で、真剣そのもののまま突っ走っている。
普通に考えると、北の方が大人だし成熟していると言えるだろう。
しかしながら、私にはそういう山田の愚直すぎるくらい愚直で真剣な姿が好ましくて仕方なかった。そんな生き方を現代でしても笑われるだけだろう。だが、そういう真面目な本質的な問いをする姿勢こそが、現在の日本の「現実主義」で何も変わらずにズルズル全てが流れていく状況に必用なのではないだろうか。
もうやめよう。山田の真剣さが私にまでうつって柄にもないことを言わせているようなので。
山田道美は「血小板減少性紫斑病」という珍しい病気で36歳の若さで亡くなった。この文章を読んでいると体だけではなく精神までも激しく燃え尽きて去ったようにも思えてしまう。

岡田武史・羽生善治「勝負哲学」



羽生はいつも通りなのだが、岡田氏の話が予想以上に面白かった。ワールドカップの裏話、具体的な戦術を含めて指導者としてあり方についても、かなり踏み込んだ内容になっており、サッカーファンの人が読めばかなり楽しめる内容になっているのではないかと思う。
以下、自分が特に興味をもった話のサワリを紹介してみる。

岡田が中田ヒデのような、サッカー場全体をまるで鳥の目のように見渡せる選手の才能について話し出す。
岡田 (ライフル射撃で銃を的に的てるために)照準や標的の周囲の景色も視野に入れながら集中するんだそうです。つまり、「全体に集中する」、それが大事なそうです。
羽生 感覚的にはわかる気がしますね。広さの把握と深さの把握を同時に行うような感覚じゃないでしょうか。もしそうなら、それこそ大局観をつかむときはそんな感じですよ。
将棋に即して言うと、まずは戦いの起きている場所についてきちんと深く徹底的に読まなければならない。プロなら当然誰もがすることだ。しかし、それだけではダメで、そういう部分を深く見つめながら、同時に局面全体を冷静に俯瞰しなければいけない。それが出来るかどうかが、恐らくプロの中でもトップといえるかどうかを分けているはずだ。
これは、将棋やサッカーに限らず、いや少し大げさに言うと人生を生きていく上でも大切なはずだ。直面する課題にきちんと向き合うことは当然必要だが、それだけに拘泥して捉われてしまうのではなく、どこか高所から自分を突き放して見つめて、冷静に受け入れて苦難も学ぶチャンスにしてしまう姿勢。

深い集中力の話になり、ジャック・マイヨールの「グラン・ブルー」を引き合いに出して二人の話は進む。
羽生 集中力が深度を増したときは雑念が消え去って、まさに深海のような森閑とした世界にあって時間の観念もほぼ消滅している。そういう状態になるときがあります。そういうときには、多くの手が読め、「これだ!」という決断も早い。
さらにそれが羽生がよく言う「玲瓏」だと説明すると、岡田がサッカーで言う「ゾーン」に近いかもしれないとこたえる。
岡田 極限の集中力が無心の状態を生み出して限界以上のパフォーマンスを可能にする。これは文字通り、無心、無意識のうちにしかなされないことで、ゾーンに「入ろう」「入りたい」と考えて入れるものではないということになっています。
岡田自身もプレーヤーの時に自身が「ゾーン」に入った経験があって、全く不得意な左足のシュート信じられないくらい見事に決めた体験があるそうである。
ここまで来ると、ほとんど宗教的な「覚醒」「一瞬の悟り」に近い。行者が激しくて過酷な修行の末に一瞬体験するような種類の。
しかし、羽生も岡田も、もちろんそういう宗教者ではなく、あくまで彼らの職業体験を徹底的に突き詰めた末に、そういう一種の異常な体験をしているわけである。恐らく、人間が日常生活で発揮している力など、その潜在能力のごく一部に過ぎず、本来はとてつもない可能性を秘めているはずだ。二人は、それをあくまで現実的な職業体験の極限として語っているのが、とても興味深いと思った。

というわけで、かなりディープな話もしているが、世俗的な楽しい話題にもこと欠かず、とても楽しく興味深く読めた対談であった。
羽生も色々な人と対談しているが、ここでは岡田武史という実際の職業人のプロフェッショナルと出会うことで、体験に照らした実のある内容になっていると思う。





勝又清和「突き抜ける!現代将棋」(将棋世界2010/11から2011/04について)

最近、村山慈明「ライバルに勝つ最新定跡」「豊島将之の定跡研究」と最新定跡書の紹介をしてきた。となるとまだ書籍化はされてないが、勝又教授の講座にもふれておかなければ片手落ちだろう。
最新の4月号は「パスは進化のエンジン」。基本時には最新形を随時取り上げてアマチュアに分かりやすく解説するという講座なのだが、時々意外なテーマを設定して、現代将棋だけでなく過去の名勝負も豊富に引用し、将棋の歴史を縦横無尽にかけぬけるスリリングな論考をしている。例えば「自陣飛車の歴史」「桂馬の歴史」については、私も記事に書いて紹介した。
今回は、パスとか手渡しという、地味だけれども、将棋において重要で、ある意味本質的な重要性を有するテクニックについて論じている。まだ発売されたばかりなので、内緒紹介を「予告編」風にやってみよう。
羽生善治と「将棋のほとんどが悪手である。指さないほうがいい手のほうが多い。」と言った。プロ将棋では、局面が煮詰まって有効な手がなく、パスや手渡しをした方がいい場合もまま生じる。そして、そういうパスが高いレベルのプロの将棋で勝敗を分けることも少なくない。但し、そういう手は我々アマチュアには分かりにくい。
しかし、ご心配なく。勝又清和教授が、その該博な将棋知識をベースに分かりやすく我々に解き明かしてくれる。まず、将棋と囲碁やチェス等との比較、あるいはコンピューター将棋の思考をもとにゲームにおける「パス」の本質的意義を説明する。
そして、竜王戦第六局で渡辺明が角換わりの後手で巧妙に用いた「パス」の手法を具体的に解説する。しかも、これを読めばあの分かりにくい将棋についても明晰に理解できるようになるだろう。
さらに、現代の将棋から「パス」が有効に機能した典型的な将棋を取り上げ、藤井や羽生の先見性や飯島の用いたパズルのような芸術的な手順をひもとき、興味がつきない。
それに留まらず、過去に遡り、大山のパスにまで言及し、しかも大山のパスと羽生のパスの性質の違いまで考察してみせる。
読み終えた読者は、いつの間にか、具体的な将棋の知識を習得しながら、自分の将棋を観る目がいつの間にか格段に深まっていることに驚くだろう。

といった感じだが、今回に限らず、単なる将棋の具体的説明にとどまらずに、そこに知的な切り口で論理的な分析を加えるので、読み物としてとても面白いのだ。それは、普通に流行形の解説を行っている時も同じである。最新定跡書は当然将棋が分からなければ理解できないが、勝又の講座は、極端な話、符号を全部読み飛ばしても、読み物として成立していると思う。だから、「観る将棋ファン」が、現代将棋の思想を理解するためには最適だと思う。勿論、基本時には具体的な将棋の棋譜を広くきちんととりあげていることは言うまでもない。
以下、最近半年の内容をメモしておく。これだけでも、この守備範囲の広さに驚く。なお、この講座とは別の2ページ見開きで毎月連載している「勝又教授の勝手に戦法ランキング」も、最新流行を押さえる上で見逃せない。

2010/11「注目の最新形をチェック」
広瀬流穴熊の特徴分析、藤井矢倉講座、石田流最前線、阿部健治郎インタビュー(藤井、三浦の二人の兄弟子の話が興味深い)
2010/12「ゴキ中対策と角換わり問題」
ゴキゲン対策最前線、角交換の簡単な歴史紹介と最新形。阿部健治郎インタビュー
2011/01「相居飛車30年戦争」
佐藤康光インタビュー、鈴木大介インタビュー、矢倉・相掛かり、一手損のレッスン。この回から「教授・生徒」の対話形式を導入。各形の現況分析だけでなく、その本質の解説・歴史講義にもなっている。特に角換わりの解説が一手損との比較も含めて勉強になる。
2011/02「一手損のパラレルワールド」
「一手損」という現代的な将棋の講義。通常角換わりとの比較による本質、具体的な戦法の変遷から他の現代将棋との関連など゛を縦横無尽に論じている勝又らしい回。「パラレルワールド」というのは、一手損の世界が0手損の世界と似ている様で全く異なる異次元世界であることを意味する卓抜な表現である。
2011/03「後手番のメリット」
3三角戦法と横歩取りの講義。特に横歩取りについては、単なる最新形紹介にとどまらず、その歴史から紐解いた上で、各形の基本コンセプトを解説しているので、分かりにくい横歩取りの将棋の思想がアマチュアにも理解できる。松尾流△5二玉の解説も分かりやすい。さらに、後手、一手損といった現代将棋のキーワードと関連させた考察も欠かさない。
2011/04「パスは進化のエンジン」
上述した通り。

この勝又講義というのは、ちょっと大袈裟に言うとフロイドやラカンの精神分析講義のようなものだと思う。当時、少人数の聴衆を相手に行われて、理解できる人間も多くはなかったが、現在ではその革命的意義が認知されている。
勿論、私も「理解している」とはいわない。あなたも講義に参加して歴史の証人になってみてはいかが?




「豊島将之の定跡研究」感想



本のタイトル通り、関西の新鋭、豊島将之による最新流行形の定跡研究書である。
まず、関西の棋士があらゆる戦形全般にわたる定跡書を書いたのが画期的。従来は研究といえば関東で、関西は定跡にとらわれない力将棋というのが一般イメージだった。しかし、それももはや昔の話。関東の研究家の代表格の村山慈明が「関東の研究は関西の3年遅れている。」と発言したとか将棋世界で読んだ記憶がある。今や豊島、糸谷、菅井といった若手精鋭を数多く擁する関西が最新定跡の発信源になりつつあるのだ。そういう意味でも、この豊島の定跡研究書は注目される。
扱っている戦形は、ゴキゲン、一手損、△8五飛、通常角換わり。それらの後手側の流行の作戦に対して、先手側の立場で対策をひつに絞って叙述するという形式である。「指す将棋ファン」のためには、多様な後手の作戦に対して、先手としてどう対応すればよいかという立場で書かれている。豊島が序文で「だから後手で指したい人は専門の定跡書などを参照して欲しい」と断っているのが真面目で好感が持てる。
一方私のような「観る将棋ファン」が鑑賞の手引きにするためには、最新流行形の定跡を知ることが出来るので、問題なく楽しむことが出来る。
帯に「流行形の最先端をビシッと解説しています!!」という広告文句があってちょっと笑わされるのだけれども、基本的にはその言葉に偽りなしで、例えば角換わり、横歩取りなどはそれこそ詰む詰まない、勝ち負けのレベルまできちんと書いている。
各形をしぼって、なるべく先の部分まで優劣が判断できるのまで書くというスタンスである。同時に、定跡には当然様々な指し手の枝葉があるが、それらをなるべく捨てずに簡単でもどうなるかをよく書いているという印象。
本文部分は、定跡が淡々とした筆致ながら内容は濃密に書かれていて、若手プロの定跡研究ノートをのぞきこむような趣がある。なんとなく、それが豊島の個性にあっているような気もする。
豊島はオールラウンダーだけれども、この本の書き方を見ても本質的には細かいところまで精緻に気にする居飛車党だと思う。だから、角換わりや横歩取りといった深く研究可能な戦形ほど持ち味が出ていると思う。振り飛車党の研究は最後まで突き詰めるというより、うまく戦える形を探るというところがあって、居飛車の研究とは性質が異なるところもあるのだろう。但し、菅井などは恐ろしく深く研究していそうで、若手レベルになるほど居飛車と振り飛車の研究の性質に差がなくなるのかもしれない。
以下、各章の内容についてメモ書きしておくので、興味のある方は参考にされたい。

第1章 ゴキゲン中飛車
ゴキゲンに対して超速▲3七銀(▲4六銀)の解説。後手がまず美濃囲いにしてからの4二銀形3二金形3二銀形。美濃囲いにせずに後手が早めに△3二金とする形など。
最近はさらに△3二金形で飛車銀交換になり先手が自陣飛車を打つ形で、▲2四歩とする糸谷新手なども出ている。後手も久保が王将戦で、美濃囲いにする前に早めに△3二銀と指したりして似た形でも微妙に形を変えて、やはりゴキゲンは変化が広いという印象。

第2章 一手損角換わり
後手の一手損角換わりに対する先手早繰り銀を解説。先手▲7九玉形。▲2四歩交換形の後手△5五角と△2四同歩。さらに△2四同歩の場合の後手の△3六歩と最新の△4五銀形。
△4五銀形についてはポイントの将棋がテレビ棋戦で、銀河戦の▲丸山vs△佐藤康光、NHK杯の▲村山vs△糸谷がベースになった定跡が書かれている。なお、佐藤の一手損の本にもこの形が書かれているそうである。

第3章 横歩取り8五飛
後手の横歩取り△8五飛に対して先手の新山崎流の対策を解説。後手の△7四歩形と△8六歩形の変化。
村山本でも出ていたが、やはり名人戦の羽生vs三浦の将棋が定跡として紹介されていて、この本では羽生のほとんど終盤の▲5三歩まで定跡になっているのが凄い。
さらに、△3五飛とする澤田新手についても解説している。羽生が将棋世界で紹介していたが、その後、羽生が後手で採用したが糸谷が研究勝ちした将棋も定跡として紹介されている。羽生は横歩取りを盛んに指したが、やはり定跡研究上で重要な役割を果たしているのだ。

第4章 横歩取り8五飛・△5二玉型
最近流行の松尾流△5二玉への対策を簡単に解説している。
ここでも竜王戦の羽生vs渡辺の将棋が定跡として紹介されている。

第5章 角換わり腰掛銀
いわゆる富岡流▲4四角成の各変化を、場合によってはそれこそ詰みに至るまで解説。一応、どれも先手がが勝ちか優勢とされている。今のところ富岡流の変化になると先手がいいとされていて、これが角交換の将棋の根幹のポイントで、後手の悩みの種になっている。それをそれこそ豊島が「ビシッと」解説してくれていて爽快だ。
それと、同型ではない後手の△7三桂保留の△3三銀型もとりあげている。
竜王戦第六局で別の形で渡辺新手が出たわけだが、形が対象外で省いたのか、さすがに本書には間に合わなかったのか。

最後に豊島の自戦譜が7局収録されている。









村山慈明「ライバルに勝つ最新定跡」感想



2010年9月30日初版。半年くらい前の最新定跡本なので、いまさら感想を書くのも何だが自分の読書記録メモも兼ねているので、興味のある方は参考にされてください。
最近は将棋本をゆっくり読む余裕もなかったのだが、「中原誠名局集」が出版されたことを知り、これは買っておかねばと思って将棋本コーナーに立ち寄ったら「豊島将之の定跡研究」を見つけて一緒に買ってしまった。そして、同じ定跡本の本書が積読になっていたことを思い出して、まずこちらから先に読んだという訳である。さっと読むことも出来るのだが、私は根がマジメなので、定跡本だと構えてじっくり読もうとして遅々として進まないことが多いのだ、羽生善治の「変わりゆく現代将棋」も同じ状態だ。思い切ってサクサク読んでしまおうかな。
さて、本書は序盤研究に定評のある村山が流行形にしぼってプロの最新定跡を解説した本である。プロの表面棋譜だけでなく、奨励会の情報も手広く収集したようである。内容は大変濃密である。渡辺竜王も、この本の出版当時に自分でも参考になると述べていたので、内容の質は間違いないだろう。
但し、ほぼ半年前の本で、現在は最新定跡の変化が迅速かつ著しいので、すでにさらに最新型がどんどん出でる。とはいえ、特に実際に指すために学びたい人は、かつての形や未解決の形も当然知っておく必要があるし、現在の最新型との関連も密接な定跡がほとんどである。また、私のようにプロ将棋鑑賞の手引きが目的でも、各形の進化の過程などをまとめて体系的に確認できるので勉強になった。
レベルは高め。この本の背景には、プロの膨大な棋譜や研究会の成果が当然あって、そのエキスの変化を凝縮して述べているのだから仕方ない。たとえば、久保が羽生から王将を奪った将棋で、終盤に三連続限定合い駒があってその手順も述べられているが、私はあれを中継で見ていたから理解できるが、何も知らずに手順だけいわれるときついだろう。本当に理解するにはかなり高い棋力が必要だろうが、(私のように)勿論ポイントだけを押さえて読む読み方も可能なはずである。
以下、現在との比較も簡単に含めて内容紹介。

第一章 後手番ゴキゲン中飛車
流行の超速▲3七銀に、後手が△3二金型で対応する変化を解説している。
現在もこの形はよくみる。但し、最近は久保が△3二銀型を試すなど、ゴキゲンの新たな対策も出ている。また、後手が△5六歩を交換して先手が゛▲5五歩と捕獲して、飛車銀交換から後手が△5五角と出てくる変化。先手がどこに自陣飛車を打つかという課題局面だが、最近銀河戦で糸谷が遠山相手に、▲2四歩と▲3五歩を入れてから▲5五歩として△5五角の瞬間に2四に飛車を走って5筋に転換する指し方をしていた。見た限りではかなり有効で決定版に近いくらいの印象を受けたが、どうなのだろう。

第二章 ゴキゲン中飛車超急戦
▲5八金右超急戦の最前線を解説。遠山流の△6六馬、菅井新手の△7一玉まで、最新型が説明されている。

第三章 先手番ゴキゲン中飛車
角交換型の△6四銀でゴキゲンの5筋の歩交換を拒否する形を解説。先手がすぐに▲7五銀で後手が深浦流の△2四角と反撃する形など。つい最近の銀河戦でも先手で菅井がこの形を採用していたので、最新でも課題局面のようである。

第四章 先手番石田流
後手がストレートに△8五歩まで伸ばしてきた場合に、▲7四歩△同歩▲5八玉とする稲葉流に絞って解説している。この形を詳述しているのは貴重なのかもしれない。
この後の最新型では△8五歩に▲7六飛とする過激な菅井新手を久保がタイトル戦でも採用して話題になっている。

第五章 横歩取り△8五飛対新山崎流
文字通り新山崎流の解説。名人戦の羽生と三浦の将棋についても、その変化を元に定跡として解説されている。

第六章 横歩取り△8五飛対▲5八玉
やはり最新の横歩取りでも頻出の▲5八玉型の解説。
その後の最新の横歩取りでは、後手が△5二玉とする松尾流が多く見られるようになっている。

第七章 同型角換わり腰掛銀
同型の仕掛けから▲3四歩から▲1一角と打ち、一度▲4九飛と逃げる形と、この形の最重要課題の▲4四角成の富岡流の解説。
その後の最新型では、渡辺が羽生相手に王将リーグで新手を出している。順位戦でも郷田相手に早い段階で大胆な新手をだした。渡辺は竜王戦では同型ではないマイナーな形に活路を求め、第六局では作戦が奏功して竜王防衛に成功した。

第八章 一手損角換わり対早繰り銀
一手損で一番多いと思われる先手早繰り銀対後手腰掛け銀の解説。先手が銀交換して飛車をひいたところに△3六歩とする変化などを解説している。
しかし、この後新しい変化が出てNHK杯の▲村山vs△糸谷で、いきなり△4五銀として▲3八金△3三桂▲7七銀△3六歩とした。その後も双方の研究手順ぽかったが、糸谷がどうも研究で上回っていた感じで勝ち。序盤研究家の村山にはショックだったろう。
ちなみに、△4五銀とする手は佐藤康光も考えていて、銀河戦で丸山相手に公式戦では多分初めて指して自身の一手損の本にも書いたが、本と違う変化と結論になって困ったというエピソードもあった。




王将戦第四局第一日、銀河戦 福崎vs稲葉、NHK杯「もう一度見たい!伝説の名勝負」

王将戦中継サイト

先手久保の▲7五歩に後手豊島は△6二銀。なんとなく納得。佐藤康光や渡辺明なら△8四歩から△8五歩といきたくなるところだが、豊島は彼らよりも老成して大人なのだ(笑)。概して将棋界では、年の若いほど大人びた将棋を指して、年齢が上になるほじ若々しい将棋を指すという一般法則がある。久保流の乱戦石田流をみたかったが、豊島はそれは相手の土俵なので損と冷静に合理的に考えるタイプのようがする。勿論、基本的には自由な作戦選択の問題に過ぎないけれども。
かつて、米長が南相手に「横歩を取れないような男に負けたらご先祖様に申し訳ない」と挑発して、南も横歩をとったことがあったが、久保も「久保流石田流を受けることが出来ない男に負けては(以下略)」と挑発してみたらどうだろう(笑)。
この将棋も久保が積極的に動いたが、豊島も「若者らしく」強気に応戦している。久保の▲7九金が印象的。意外な驚く手を必ずみせてくれる。最近、久保将棋のファンになりつつある。

囲碁将棋チャンネルHP(棋譜閲覧可能)


福崎先手で▲7六歩△8四歩▲6六歩△3二飛の出だし。3手目▲6六歩には相振りがトレンドとか聞いたが、稲葉もそうしているので本当にそうなのかもしれない。いきなり3筋を交換する形。私も相振りは(昔)指したが、単純にこうやられのは結構イヤだ。あっさり▲3七歩と受ければ特に問題ないが、それも悔しいので相手の出方次第で矢倉に盛り上がろうとして受け間違ったりしていた。私の場合はすごくレベルの低い話だけれども、若手の稲葉もそう指してくるというのは、結構プロレベルでも有効と考えられているのだろうか。
福崎が仕掛けて▲6四角と打ち、△6三金としてくれれば▲5五銀として攻めがつながったが、稲葉が△4四角と一度打ってから冷静に受けて、ひと段落してから逆に猛攻してそのまま一気に寄せきってしまった。稲葉は鋭い攻め将棋で、現代風にジワジワいくのでなく、どんどん思い切りよく攻め込む将棋なので、見ていて楽しい。
感想戦では福崎節が炸裂していた。△7四歩にいきなり▲6五歩と仕掛けても十分だし、△8三銀に▲8七飛と引いておいて△8四歩▲6五歩△7七角成▲同桂△6五歩▲7五歩△7二金▲7四歩△同銀▲8四飛△8三金▲7四飛△同金▲4一銀△4二飛▲5二銀成△同飛▲4一角で先手よし、と随分違う将棋を先まで検討していた。▲6四角では▲8五歩もあったらしい。その辺りの攻め方がポイントだった。「研究すれけばするほど、こちらがええやん」と福崎先生、ボヤくことしきりなのであった。

別冊NHK将棋講座 NHK杯将棋トーナメント60周年記念 もう一度見たい!伝説の名勝負

60周年の記念番組もあったが、NHK出版が記念して出版した本。
平成編と昭和編の二本立て。
平成編は、羽生のロングインタビュー、佐藤&森内の合同インタビュー、山崎、久保、鈴木各インタビュー、長沼のNHK杯予選等の自戦記、粟生野による女流棋士参戦記、それに2ページ見開きの17局特選記、NHK特番の際のベスト10の解説。
昭和編は加藤、谷川、米長インタビュー。中原特集。河口俊彦による大山記事、蛸島によるNHK杯エピソード、ラジオ時代記事、特選譜解説17局。

以上のように1500円だけれども大変内容が濃い。将棋マニアなら資料としても買う価値はあると思った。
羽生だけ、インタビューが長めで、羽生のNHK杯の歴史を全て振り返っている。
他にも色々懐かしい対局が出でくる。佐藤が中井にほとんど負けかけた将棋を振り返っているが、棋譜(部分図)を今改めてみると、本当に中井必勝なんで驚く。
鈴木が加藤に金四枚を並べて打たれて負かされた将棋の伝説の図面もででくる。
長沼の予選苦闘の歴史も微笑ましい。なぜか、ハイライトの羽生戦を語ってないのが長沼らしい。
棋譜解説は2ページのポイントの指しての解説。読み物というより、棋譜資料という感じ。また、特選譜は誰がどういう基準で選んだのか、今ひとつ分からないところはある。
私のようなオールドファンには昭和編が垂涎物。貴重な写真が満載である。135ページの加藤先生が時代劇役者のようでかっこいいかと思えば、142ページには前歯なしで満面の笑みの加藤写真があったりする。
特番の際に話題になった、大山の加藤戦の電光石火の手つきについては蛸島の貴重な証言もある。さらに、蛸島の加藤の秒読みについての証言もかなり笑える。
NHKがかなり気合を入れてつくった本だと思う。

羽生善治「結果を出し続けるために」感想



本書は、「100冊の本制作委員会」が羽生善治にインタビューしたのをきっかけに、羽生が講演会を開催し、その内容をもとに大幅に加筆・修正してつくられた本だそうでである。
内容は、羽生が将棋を指してきた経験を具体的に踏まえて、それを一般人が生きていく上でヒントになるようにまとめられている。目次は以下の通りである。
第一章 努力を結果に結びつけるために
第二章 ツキと運にとらわれずに、最善を選択する
第三章 120%の能力を出し切るプレッシャーとの付き合い方
第四章 結果を出し続けるためにはミスへの対応が鍵になる
第五章 自ら変化を生み出し、流れに乗っていくために
こうした、ツキ、プレッシャー、ミスといった具体的なテーマを将棋の経験と関連させながら、分かりやすく説明している本である。
なお、講演会の模様もDVD化されているそうである。


以上、簡単ではあるが、まず本の内容を紹介させていただいた。以下は、将棋ファン、羽生ファンの個人的感想である。
まず、純粋に将棋ファンとしても面白い部分がある。プロ同士が将棋を指していると、お互いに手を消しあうのでプラスになる手がなくて、なるべくマイナスの少ない手を選ぶことが多いという。その話とも関連するが羽生が得意とする「手渡し」についても述べている。
また、読む上で決断するプロセス、直感、読み、大局観について具体的に詳述しているのも将棋ファンには興味深いところだろう。

それと、この本の人生論的な側面について。タイトルすが「結果を出し続けるために」となっているので、もしかすると成功するためのハウツー本のように取られるかもしれないが、内容は逆である。羽生の人生に対する考え方は将棋同様に、ごくごく自然な素直で柔軟である。内容は本を読んでいただければ明快に分かるので、紹介のために具体例を最小限の範囲で引用させていただく。
(対局の)本質は、勝つためというよりは、価値をつくるためです。
私は、一人ひとりの人に、「自分が思っている以上に、周りに対する影響があること」に気づいてほしいと思っています。
私はさらに究極的には、「成功とは、今ではなく晩年どうなるか、ということに尽きる」と感じています。
これらの例で分かりの通り、決して強者が弱者をおしのけてエリート主義的に生き残るためではなく、各個人が自分の価値観に基づいて自分をどう生かせるかという考え方で書かれている本である。そういう考え方に共感できる方は、将棋ファンでなくても読んで見られる価値がある本だと思う。羽生も「本書では、『結果』『成功』『幸せ』等の言葉が出てきますが、これは世間的、社会的にという意味ではなく、あくまでも各々の価値観において、という意味です」と断っている。
羽生が読者が生きていく上でアドバイスしている事柄についても、決して上から押し付けるのではなく、こうしてみたらどうだろうかという謙虚なスタイルなのである。

ところで、将棋の世界はあくまで勝ち負けで勝負がついてしまう単純で残酷な世界である。そういう世界で圧倒的な「勝者」である羽生が、こういう勝敗に重きを置かない価値観について語るのはどうかと、意地悪な人間ならもしかしたら言うかもしれない。
勿論、羽生の魅力が将棋が強いことにもあることも確かだろう。しかし、そういう弱肉強者の世界の頂点にいる人間が、このような自然で普通な考え方をしていることを知ることができるだけで私には十分である。
羽生は将棋指しとしても、その他の面でも非凡な存在である。しかし、一人の生身の人間としてはごくごく普通の存在た。そういう羽生個人まで神格化してしまったら羽生も迷惑なだけだろう。この本は、厳しい勝負に明け暮れる人間が、ごくごくまっとうで普通な感覚を失っていないことをしることができる、きわめて健全な本である。
個人の人間としては、どんな凡人も羽生と対等である。心の世界には社会的地位や名誉や財産による差別など一切ない。例えば将棋の世界にも、まったく実績をあげてなくて無名でも素晴らしい心の持ち主はいくらでもいるだろう。羽生もそのことをよく理解している筈で、たまたま将棋の世界で有名だから、こうして自分の経験を生かした本を書いているだけのことであろう。
だから、羽生に対してかしこまったりせずに、そのアドバイスで役に立つ部分をありがたく取り入れてみればよい。そして、羽生もあくまで読者に対して対等な視点で気さくに一人のアドバイサーとして話しかけている。
そういうごくごく真っ当な本なので、それが返って今の世の中では珍しく感じられる。

「3月のライオン」第五巻までをまとめ読みして

遅ればせながら、第一巻から第五巻までを一気に読んだ。恐らく他の皆さんもそうだろうが、泣いたり笑ったりして読み終えたわけである。読めば分かるという傑作なので、この種の本については余計な感想など不要なのだろうが、将棋ファンが感じたことをとりとめもなくメモ書きしておこうと思う。
なお、ややネタバレ気味で書くので未読の方はご注意ください。




河が何となく好きで現在の街に越してきた桐山零は世界に居場所がない、というようにこの物語りは始まる。あくまで優しくて、どことなく郷愁めいたものを誘わずにはいられない絵が物語をつつみこむ。零は不幸な境遇で育ったのだが、恐らくそうでなくともとことん孤独なタイプの人間である。零をあたたかく支えるあかり、ヒナ、モモの姉妹の家庭にも、(まだ明かされてない理由によって)明るいながらも、どことなく寂しげな陰がつきまとっている。
――という羽海野チカ・ワールドにどんどく引き込まれていきながら、この物語がどうやって「将棋」の世界とつながっていくのだろうかと将棋ファンの読者は思う。この優しい世界と、場合によっては殺伐とした勝負の世界がどうつながるのだろうかと。
そんな読者の疑問をよそに、次々と魅力的な「プロ棋士」のキャラクターが登場してくる。基本的に全て作者の豊かなイマジネーションによる創造物なのだろうが、将棋ファンだからなのだろうか、実在する棋士との関連性を感じてしまう。それは全体的な類似ではなく、ごく一部の素材が共通で、そこからキャラクターがふくらんだりリデフォメルメされたりしていて、元の棋士とは基本的には関係ないのだが。
私が頭に浮かんだ棋士を思いついただけだが挙げておくと、豊川孝弘、村山聖、加藤一二三、藤井猛、木村一基+行方尚志、羽生善治、体格が真逆の渡辺明・・。念のため繰り返すが、私の勝手な解釈だし、全体としてのキャラクターは全員全く別物である。
さて、その作者の創造行為によるプロ棋士たちは、皆素晴らしい魅力を湛えているのだが、全員人間的な弱さを何か抱えている。零とあかりたちの世界と並行してプロ棋士たちの世界が描かれていくのだが、少し大袈裟に言うとと、そこには人間存在の孤独や弱さとそれをあたたかく肯定する作者の視線が通底しているのだ。
今のところ、一番魅力的なのは第四巻の主役で表紙にもなっている島田八段だろう。私には色々なプロ棋士のキャラクターの複合体に思えてしまうのだが、実は現在、実在するプロ棋士にもこういうタイプが多いような気がする。島田八段はあくまで漫画上の登場人物なのだが、現在のトップ棋士には島田的な真摯さと優しさと人間味をもった人が多いようにも思う。恐らく将棋ファンでない人からすれば考えにくいことかもしれないが、それこそそのままこの「優しい」漫画に登場させてもおかしくないキャラクターが現在の将棋界には多数存在するのではないか。将棋ファンとしてそんなことを感じた。
一方、一番現在の実在棋士のイメージが浮かばなかったのは、後藤九段である。後藤は、物語自体に香子とともに波乱要素と緊張感を与える役割を与えられているが、あまり現在のプロ棋士にはこういうタイプはいない。むしろ、一昔前の強烈な臭いのするプロ棋士にこういうタイプがいたのかもしれない。
但し、後藤的な要素は現在の棋士も内面的には抱えている筈だ。それを表に出さないだけで。さらに言うならば、五島的な要素はあらゆる人間が持ちあわせていて、この漫画でも、後藤と香子という分かりやすい理念形として外部化されているだけなのだろう。作者の人間的な孤独や弱さや寂しさに対する肯定的な視線については先に述べたが、こういう人間的な業としての激しさや攻撃性や場合によっては凶暴性に対しても、やはり作者は優しい視線を向けているような気がする。
だから、恐らくこの漫画の最大の魅力というのは、結局人間のもちあわせている善悪の様々な性質を決して否定せずに、すべてあたたかく受け入れている視線の深さだろう。そのために、登場するキャラクターが全て生き生きとしているのだ。
そうだ、言い忘れていたことを最後に。私の一番のお気に入りキャラは、放課後理科クラブの野口先輩である。どうすればこんな素敵なキャラクターを思いつくのだろうか・・。





書評 梅田望夫「どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?」――現代将棋と進化の物語



まず、刺激的なタイトルについて説明する必要があるだろう。この問いは梅田望夫が発したものではいし、この本に登場するプロ棋士たちによるものでないし、恐らく将棋関係者や詳しい将棋ファンがするような類の質問でもない。
「はじめに」に書かれているように、将棋の「インサイダー」とそれに近い人たちは羽生善治だけが突出して強いわけではなく、羽生と本当に首の皮一枚の差でしのぎを削るプロ棋士が多数存在することを認識している。「羽生さんだけが強い」などというのは素人の考え方に過ぎない、と。
この質問は、将棋の世界の「アウトサイダー」が将棋の世界をみて素朴に発する問いである。しかし、何も偏見のないまっさらな目の方が鋭い質問をすることもある。現に、実力差がほとんどない世界で羽生だけが今のところ圧倒的な結果を残し続けている。その理由は何かと問われたら、「インサイダー」もきちんと説明できずに口ごもってしまうのではないだろうか。
梅田の立ち位置は独特だ。現在かなり深く将棋の世界に関わっていて「インサイダー」的な側面も大きいが、基本的には「アウトサイダー」である。そして、梅田は将棋の世界との関わりながら、将棋をマニアだけのものでなく、一般の人間が楽しめるものにしようと努力を続けている。とすれば、「アウトサイダー」の立場からの究極の問いに、―もしかすると無謀かもしれないが―立ち向かうのが、一般の人間に対してなすべきことではないかと考えることになる。
同時に、梅田本人が「インサイダー」かつ「アウトサイダー」という境界線上に位置する以上、本人も一ファンとして楽しみながらこの問いにぶつかれる筈だ。梅田の本にもし意味があるとしたら、それは「インサイダー」によマニア向け将棋本ではなく、「アウトサイダー」的な素朴ながらも新鮮な視点を失わない本だという一点に尽きるのではないだろうか。
だから恐らく、本のタイトルが敢えてこういう挑発的なものなのだ。あくまで、将棋ファンだけでなく、全ての人間に将棋の世界の魅力を開放して解き放つために。

1、現代将棋の世界と一般の世界

梅田は、現代将棋の進化の過程で起こっていることが、ウェブなど一般の世界の出来事と通底することを常々指摘し続けてきた。この本でも、そうした観点から読み解くことが可能なテーマが扱われている。
一番分かりやすい例は、現代将棋における猛烈な「研究合戦」についてだろう。若手が努力した研究成果をトップ棋士が取り入れて将棋に生かしている現状について、深浦康市が「素材」と「調理」という秀逸な比喩で説明している。それを、インターネットのオープンソース・ソフトウェアを使って企業が収益をあげている問題と関連させて論じている。
それ以外にも、一般の世界と通ずるテーマが隠されている筈だ。私が気づいた例を一つ挙げてみる。膨大な広い内容をカバーする必要がある研究合戦を通じて、研究に通じているとされる有力な若手研究家の意見が権威主義的に盲目的に信仰され、定跡に疑いをもたれなくなり、実戦でその穴が発見されるということがあるという弊害が本書で指摘されている。研究が膨大すぎるために生じることである。これは、我々が日常身を晒している情報社会についても同じことが言えそうだ。あまりにも消化しなければいけない情報量が多すぎるために、自分の力で情報を吟味して確認する作業を怠り、特定の権威者の発言に頼って盲目的に信じてしまいがちではないだろうかか。
これは一例にすぎず、各人が自分の世界と関連するテーマを発見することが可能なはずだ。

2、将棋の言語の一般の言語への翻訳

プロ棋士の思考は、あくまで将棋に即して符号・記号を通じて行われる。それをそのままでは一般の人間は勿論のこと、ほとんと゛の将棋ファンにも理解不能だ。従って、それを理解させるためには、それを日常の言語に翻訳する必要がある。
この本では、五人のプロ棋士がインタビューを受けているが、全員がそれぞれ見事な翻訳作業を行ってくれている。
先述した、深浦の卓抜した比喩もその一例である。行方尚志もその「研究」について専門的な話がらも一般の出来事に通じそうな鮮やかな言語化を行っている。
勿論、将棋ファンが興味のある、もっと具体的な話についてはなおさらである。例えば、行方が羽生の指した▲5三歩という手に加えている説明はプロ棋士ならではの見事なものだ。
しかし、翻訳による言語化といえば、やはり羽生が際立つ。この本では、各章にインタビュー棋士以外に対局者本人の羽生の言葉がでてくるのだが、その明晰な論理と表現の分かりやすさには唖然とするばかりだ。急戦矢倉の現状、現代的な大局観、角換わりの現状といった概括的な話から、具体的な指し手の話に至るまで、全てがそのまま美しい言語表現になっている。少し先走りすると、もしタイトルの「なぜ羽生さんだけが」の理由を挙げるとしたら、私は羽生の言語化能力を真っ先に言うだろう。

3、棋士という不思議で魅力的な生き物

羽生がタイトル名になっているが、強さだけでなく人間的でも羽生にまさるとも劣らないタレントがプロ将棋の世界にはいくらでもいる。今回、タイトル戦に登場したためにたまたま取り上げられた、木村一基、山崎隆之、三浦弘行、深浦康市、全員が例外なく魅力的な「濃いキャラ」なのである。
本書で、その人間的な魅力を引き出すことに成功しているのはななんといっても山崎だろう。一切説明する必要がない楽しいインタビューなので、具体的な説明は省くが、将棋を知らない人が読んでも、恐らくなんて面白くて魅力的な奴なんだろうと思わずにはいられないのではないだろうか。
それと、羽生が将棋の内容を語る過程で、突然垣間見せる「狂気」の瞬間も、なんとも印象的である。
梅田の書いたりまとめたりしている文章の特徴は「棋士の人間」をよく描き出していることだ。それも、やはり梅田が常に「アウトサイダー」的な視点を失わずに、常に新鮮な姿勢でプロ棋士と向き合っているからではないだろうか。そして、「アウトサイダー」として、梅田はプロ棋士のことが好きで仕方がないのだ。分かりやすく言うと、思いきりミーハーなファン目線なのである。勿論、これは最大限の賛辞のつもりだ。

4、対局当時と時間を置いての感想

一般的な話題から書いてきたが、実はこの本の最大の特徴は、いわゆる将棋ファンが十分楽しんで読める内容になっているということだ。各章が梅田によるリアルタイム観戦記とそれに関連するインタビューを対にするという形式をとっている。そのため、インタビュー部分では、将棋の具体的内容により踏み込むことが可能になっている。
具体的には、棋聖戦での羽生の△8四飛について本人の後で振り返っての述懐、山崎の対局途中での読みと心理の詳細、名人戦での羽生の▲5三桂成について後日の研究で明らかにされた手順、同じく澤田新手をめぐる舞台裏の話、深浦の△3三桂についての、やはり後日発見された決め手の手順など。
これだけあげれば将棋ファンには分かっていただけるだろうが、純粋な将棋書としても大変充実した内容になっているのだ。
つい、対局が終わるとすべてを忘れてしまいがちだが、こうして時間を置いて振り返ることで、その将棋の内容をより明晰な分析することが可能になっている。

さて、冒頭のテーマの話を再び論じて終わりにしよう。
梅田は、最後にタイトルの問いに自分なりの解答を提出している。それは、いかにも梅田らしい徹底したものだ。しかし、それを必ずしも読者は無条件に受け入れる必要などない。各自が、その問いに答えようとすればよいのだ。梅田も、自分の考えが受け入れられることなどよりも、本書を通読してこのテーマに興味をもって色々考えはじめることを望んでいるのではないだろうか。
例えば、私ならこう言ってみよう、羽生の強さの理由は、羽生が究極のインサイダーでありながら、常にアウトサイダー的な新鮮な視点を失わずにいられるからだ、と。
さらに、読者の興味関心が羽生だけに限定される必要など全くない。梅田は「はじめに」でも「あとがき」でもはっきりこういっている。最終的には、誰もが将棋の「全体」を愛するようになって欲しいと。
結論は分かりやすい。タイトル名は梅田望夫による巨大な「釣り」である。梅田が望むのは、将棋界最大のビッグネームの羽生を入り口として、誰もが他の色々な棋士にも興味を持ち、羽生のことにもますます興味がわき、結局将棋の世界全体を愛することである。タイトル名は、そのために梅田が自分の身を危険に晒してまでも巧妙に張り巡らせたワナだったのである。そして、読者がそうなるように本書は書かれているのだ。
最近ツイッターで、将棋を観戦することに専念して楽しむ「観る将棋ファン」が増えている。彼らを観察していると、まさに梅田が言うような成長の過程をたどっている。
入り口は大抵羽生だ。しかし、羽生の将棋を見ているうちに、他にも魅力的な棋士がたくさんいることに気づく。猛烈な勢いで詳しくなり、それぞれが各自の贔屓を持ちつつ、結局将棋の世界全体が好きになっていく。
本書で将棋の興味を持った読者が、そういうプロセスをたどることを梅田は切望しているはずである。
そして、将棋の世界全体が好きになったならば、今度は各自が自分の好きな問いを始めればよいのだ。別にそれは、「どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?」などである必要など全くない。「どうして渡辺明さんだけが、そんなに強いんですか?」でも、「どうして里見香奈さんだけが、そんなに強いんですか?」でもいいだろう。
いや、別に将棋に限らなくてもよい。「どうしてマイルス・デイヴィスだけが、ジャズで特権的な位置を占めて来たんですか?」でも、「どうしてロッテだけが、そんなに日本シリーズで強いんですか?」でもいいし、「どうして鈴木京香さんだけが、そんなに美しいんですか?」でも。
なんだってよいのだ。そういう自由をこの書物は望んでいる。

里見香奈「好きな道なら楽しく歩け」(双葉社)



噂の里見香奈のフォト&エッセイ集である。
事前に、もしかすると高校生の写真集なんで、オジサン将棋ファンはちょっと店頭で買いにくいのではないかとも言われたりもした。しかし、私は酸いも甘いもかみわけた立派なオヤジである。そんなことは、これっぽっちも気にせず、さっさと目当てのこの本を手にすると、急いでいたこともあり、この一冊だけ持ってそそくさとレジへ向かったのである。レジには若い女性店員が待ち受けていたが、そんなことは気にも留めなかった。
それでも、私はなぜか無意識のうちに裏表紙を上にして、本を店員に差し出していたのであった。
店員は本を表に向け直すと。満面の笑みで「ありがとうございます。」
この一言をキッカケに私の被害妄想が繰り広げられることとなる。
ーーなっ、なんなんだ、表紙を見てのこの笑顔は。「女子高生がお好きなんですね。分かります。」と言わんばかりに。ちっ、違うぞ、オレは純粋将棋ファンで里見さんを応援しているだけなのであって・・。
さらに、店員の攻撃は続く。さらにそれ以上の満面の笑みで「カバーをおつけしてもよろしいですね。」
ーーなっ、なんだと。それは、「貴方もこれから電車の中ですぐ読みたいたでしょうけど、人目があるからカバーは必須でしょう。」ということか。なんだ、その笑顔をやめろっ。で、私は反射的に、
「カバーはけっこうです。」と、なぜか言い放っていたのであった。
勿論、たまたますごく愛想のいい店員に当たったに過ぎないのである。私が勝手に内心のドラマを繰り広げてしまっただけのことだ。
その後電車に乗ってから、カバーをつけてもらわなかったことを私がすぐに後悔した事は言うまでもない・・・。

さて、私が一番言いたかったことは既に書いてしまったのだが、これで終わると読者の怒りを買うこと必至問題なので、本の内用も一応説明しておこう。
撮影は弦巻勝カメラマンである。将棋界では、知らぬ人なき「鬚のカメラマン」氏である。その写真が期待以上に良い。対局風景だけでなく、里見のプライベートの写真も多いのだが、篠山紀信並の出来栄え?である。被写体もいいのだろうが、里見が見せる普段の自然なさりげない表情が、きっちり記録されているのだ。里見の場合、対局時の凛々しさと、普段のあどけなさのギャップが魅力なのだが、それがきちんと表現されている。
個人的なベストショットは表紙をはぎ取るとあらわれる、里見がはじけて走る姿である。これだけでも買った価値はあったと思った。
他には、里見らしいむ素直で飾り気のないエッセイ。里見による家族紹介と、家族による里見寸評。(やはり、絵に書いたような良い家族であって、羽生家や谷川家を想起させる。)女流名人戦についての、里見の各局ごとのエッセイ。森師匠によるエッセイ。森師匠と里見による名人戦の棋譜解説。里見に対するQ&Aといった内容である。
私がこの本を買ったのは、里見ファンということもあるけれど、それ以上に、将来振り返って、これが伝説の本になるのではないか、あるいはなって欲しいという気持も込めてである。
その意味で、森師匠が最後に書いているこの言葉が全てを言い表していると思う。

「夢は、羽生善治三冠を負かして名人だ。」

阿久津主税「必ず役立つプロの常識」



現在、阿久津七段はNHKの将棋講座を担当している。阿久津さんは、ご存知の通りなかなかの男前で、朝日杯で優勝した際に、朝日新聞の記者が女性のファンを呼びこめる存在とか何とか書いていた。将棋界随一の究極の癒し系「あじあじ」こと安食総子女流初段をアシスタントにむかえて、なかなか楽しい講座をしている。「アッくんの目ヂカラ」のコーナーでは、毎回ポーズを決める事を強制されている、いや失礼、喜んでポーズを決めたりしているのである。
余計な前置きが長くなった。講座は「阿久津主税の中盤感覚をみがこう」というタイトルだが、定跡のおいしいところを解説して指すポイントを視聴者に教えるという内容になっている。一方、この本は、定跡ではなく決まった指し方がないまさしく中盤の指しかた、考え方をアマチュアに伝授する内容になっている。
プロ棋士の本は、まず定跡書が一番多く、一方終盤について書いている本もそれなりにある。しかし、漠然とした中盤の考え方について書かれた本は少ない。将棋の場合、定跡だけ覚えても勝てないし、終盤の読みがある程度出来てもそれだけでは不十分だ。自分の力で答えを見つけなければいけない中盤の地力がものをいう。特に、或る程度上達した人間がどうすれば分からなかったり伸び悩むのがこの分野だろう。それらについて、本書はプロの感覚で、分かりやすく指す上での考え方を説明している。将棋書としては、新しい斬新な切り口で、今年の将棋ペンクラブ大賞の技術書部門でを優秀賞を受賞したのもうなずける。
本の形式は、アマチュア代表の聞き手が、阿久津七段に色々質問していくという対話形式を採用している。本来相当な棋力の聞き手なのだろうが、敢えてボケ気味に阿久津七段をたててプロの考え方や感覚を聞き出す役割に徹している。その結果、とても読みやすくなっていると思う。
内容は多岐に渡っている。例えば、具体的に右玉への対処法を説明している。定跡書にのってなくて、実戦で対策が分からなくて困るという方も多いのではないかと思うが、ミレニアムから銀冠という具体的対策を提示している。最近の女流のマイナビ予選でもその通りの対策をとった棋士が勝っていた。そういう具体的な話、プロが好む銀冠の優秀性や中級者以上が必ず悩む歩の突き捨てのタイミングなど、或る程度基礎が出来た人間には大変参考になる話が多い。
また、陣形の厚みと低さ、アマチュア向きの重いが確実な攻めなど、一般的なテーマについても、あくまで具体的な題材に即して説明している。プロが絶対に嫌う指し方など、プロの感覚を知る上で参考になる部分も多い。
全体に、きちんと体系づけるというよりは、自由に具体的な題材に即してプロの考え方・感覚をアマチュアに参考になるように説明する形式である。あまりない形式の本で斬新だが、さらに望むならば、もっと体系化して「プロの戦術論」のように高めることも可能なのかもしれない。今回は阿久津七段が先鞭をつける形になったが、こういう本は色々なプロが様々な考え方を呈示することが可能なはずなので、今後に期待したいところである。

大内延介「将棋の来た道」



大内九段の引退記事を書いた際にも紹介したが、実は未読だったので読んでみた。
日本の「将棋」のルーツを探る本である。しかし、難しい学術書のような書き方はされていない。将棋のルーツを探って、タイ、中国、韓国、インド・スリランカを巡ってゆく旅行記でもある。大内は、軽いフットワークで、現地の人々の懐に飛び込み、歴史物を調べたり、各地固有の「将棋」を現地の名手たちと実際に指している。気取らない楽しく読み物で、ある種、北杜夫の懐かしいドクトルマンボウ・シリーズのような楽しさのある旅ものでもある。
同時に、世界の将棋の歴史の基本的な構図も自然に頭に入ってくる。大内は、日本の将棋とタイ将棋「マーク・ルック」の類似性に着目し、また日本将棋と中国将棋・韓国将棋との異質性を考慮して、インド→インドシナ半島→中国江南の港町→日本というルートを仮説として立てている。
各国の将棋を分析するのは、同時に各国の文化的特性を考えることでもあり、とても知的な興味をそそるテーマだ。例えば、日本将棋は桝目に駒を置くのに対して、中国・朝鮮将棋は、桝目の交点に駒を置く。前者は安定的、後者は不安定というところから、定住民族と遊牧民族的な特性をあらわしているという説もあるそうだ。無論、そのように単純化できない面はあるのだろうが、本気で取り組めば各国の将棋を徹底的に分析すれことが、即各国の深い文化的特性の考察になるかもしれない魅力的な研究課題だろう。
日本将棋だけの最大の特徴、取った駒を持ち駒として再利用できることについて、大内は南北朝から戦国時代に生き残るために仕える対象を簡単に変えて、武将も自分の勢力維持のために敵の勢力を自分の側に受け入れようとしたことと関連させて考えている。これも、勿論日本の戦国時代だけの現象ではないから、なぜ日本にだけに持ち駒再利用か生まれたかの本質的理由にはならないのかもしれないが、一つの有力な説明にはなっているだろう。この、持ち駒再利用という世界でも類のないルールの誕生を含めた、日本国内での将棋の歴史だけでも、大変興味深いテーマである。
楽しく旅行記を読みながら、そういう歴史的な話の基本を知ることが出来る本である。
Amazonのページをみると、現在中古品を入手可能なようだ。

遠山雄亮「遠山流中飛車持久戦ガイド」(マイコミ)



目次
序章 基本図までと本書の概要
第一章 先手中飛車・5筋&角交換編
第二章 先手中飛車・5筋交換編
第三章 先手中飛車・5筋位取り編
第四章 後手ゴキゲン中飛車・5筋位取り編
第五章 後手ゴキゲン中飛車・角交換編
第六章 自戦記編


相変わらずプロ将棋ではゴキゲン中飛車が隆盛中だし、アマチュアにも愛好家・使い手は多い。中飛車関係の定跡書も多くでているが、また新たな一冊が出版された。
遠山四段は、明確な意図を持ってこの本を執筆している。
?従来は、中飛車関係の定跡は急戦関係の説明が中心になることが多かったが、本書では持久戦の形を中心に解説している。
?プロでも、現在ゴキゲン中飛車に対する居飛車穴熊の対策が大流行しており、そういった最新型関連の情報を提供する。
以上が、本書の骨子だと思う。ブログで自ら発信するなどネット活動にも精力的に関り、情報収集してファンの感じ方などにも敏感なようである。そんな遠山四段らしく、定跡書を書くにあたっても漠然とやるのでなく、他の定跡書との差別化や、一般読者が読み易いようにするなど、様々な細かい点で心配りをしている。
ともすれば定跡書というのは、プロが変化手順をとにかく羅列することになりがちである。一般将棋ファンのレベルだと、変化を追うだけで精一杯で、読み進んでいるうちに全体の構成が分からなくなったり、場合によっては読みながら前の部分を忘れてしまったりする。(これは私だけかも?)
本書では、序章で概観したり、あるいは各章末に「まとめ」を設置することで、読者が全体の流れ、重要なポイントを何度も確認できるようにしている。例えば、第一章では角交換型を解説しているのだが、その際に頻出の▲7一角の大切さを、少し口がすっぱくなる位に強調している。しかし、私を含めた普通のレベルのファンにはそれくらいで丁度いいくらいなのだ。「まとめ」の部分に限らず、普通の本文中でも、そのように読者の頭にポイントが入るように工夫して叙述しているのが分かる。
また、単に定跡手順の説明を無味乾燥にするのでなく、ゴキゲンあるいは振り飛車特有の感覚を説明しようとしている部分も多いと感じた。
前書きに次のように書かれている。
私もそうだが昔からの振り飛車党は派手な捌きとともにじっくりした戦いも好きで、実際に指す機会も多いと思う。
これは、アマチュア振り飛車党の多くが共感するところなのではないだろうか。個人的には私も「昔の振り飛車党」だが、ゴキゲンが大流行しているし面白そうということもあって手を出してみたが、じっくりした昔の振り飛車が懐かしくなるというところもある。従って、本書が中心的に取り上げている持久戦定跡をマスターすれば、従来の感覚の振り飛車党が、現代的な中飛車・後手ゴキゲンを今までに近い感覚で指すことが可能になるかもしれない。
やはり研究熱心な若手の振り飛車党だけあって、最新の研究成果も織り込まれている。戸辺五段も紹介しているが、例えば相穴熊の形で筆者自身が「この本でしか紹介していない」という形も掲載されている。特に、中飛車・ゴキゲンに対して居飛車が穴熊を採用するのは最新形なので力点を置いていて、中飛車先手の場合と、ゴキゲン後手の場合に章を分けて詳述している。
そもそも、先手中飛車・ゴキゲンが流行しだしたのは、居飛車が穴熊にしにくいというのが主眼だったのだが、居飛車の対策が進んでこうして居飛車穴熊対策を中心にする書物がでるようになったのも、時代の流れといえるだろうか。
対ゴキゲンの対策については、現在様々なものがあり、プロでは▲7八金型の復活や▲3七銀型急戦も流行している。本書では、趣旨上それらには触れていないが、第一章の角交換型で現代中飛車の醍醐味ともいうべき独特の手筋を紹介している。従って、本書は、今まで急戦等を学んだ人が持久戦をさらに詳しく学ぶための本であると同時に、現在のゴキゲン中飛車のエッセンスを学ぶという読み方も可能かもしれない。さらに詳しく急戦等を知りたくなったら、鈴木八段の本や将棋世界で現在連載中の勝又六段の講座にあたってみるという方法もあるかもしれない。
さらに、遠山オリジナルの△7二金戦法についても一章をあてて解説している。かつて、羽生さんがとても驚いた新手としてあげていたこともある手である。最近は余り指されなくなったのだが、別に居飛車の対策決定版が出来たわけではなく、ゴキゲンの他の普通の指し方が多いだけなので、戦法としては有効なままで、ゴキゲン党が変化球(というと遠山先生には失礼かもしれないが)として用いる参考にしても面白いかもしれない。
ゴキゲン中飛車の本なので、当然基本的には振り飛車側から見た定跡である。しかし、筆者は無理に振り飛車有利の変化にするのでなく、互角な変化は互角とするなど、居飛車党が読んでも参考になるように心がけているということである。特に、最新の居飛車が穴熊を採用する形については、そういう書き方をされていると思う。
自戦記の部分では、居飛車穴熊に対して、現在の最神型を先駆けするような形を遠山四段が指している一局も紹介されている。
なお、各章ごとの具体的内容については、こちらのプログが簡潔かつ分かりやすくまとめられているので参考にされたい。

将棋備忘録 【書評】遠山流中飛車持久戦ガイド

持久戦にテーマを中心に絞り、最新型にも言及しながら、場合によっては中飛車・ゴキゲン入門としても読むことの出来る一冊といえるだろう。

渡辺明「永世竜王への軌跡」(日本将棋連盟)


自戦記編はとうに読み終えたのだが、棋譜解説編がいつまでたっても読み終わらない。なかなか進まない理由があって、一局の棋譜に対して図面5つだと私の脆弱きわまりない脳内棋譜再生能力だと。ちと苦しい。きちんと理解しようと思ったら実際に盤に並べないと無理だ。本当は一局につき図面10個は欲しいのだが(我儘だなあ)、それは本の構成上無理だろう。とにかく、いつまでたっても書評が書けそうにないので、第一部自戦記編を読んだ感想をメモしておこう。
本書は第一部自戦記編で10局詳しく解説し、第二部棋譜解説編で31局の棋譜とポイントの指し手の簡潔な解説するという構成である。第一部があくまで本書の中心部分である。そして、取りあげている計41局は、竜王を獲得する17期の竜王戦の予選一回戦からの渡辺が指した竜王戦での全ての棋譜が網羅されている。他にも、羽生との王座戦など大切な将棋は多いわけだが、それらは取り上げておらず、本のタイトル通りに、渡辺の永世竜王への戦いの全ての記録である。
自戦記では、去年のあの羽生との壮絶な戦いから、第1,4,7局が取り上げられている。他には、谷川との決勝トーナメントでの1局、森内相手から1局、木村相手から2局、佐藤相手から、一年目2局、二年目1局の計10局である。
本書の特徴は、梅田望夫さんが書評で書かれているように、渡辺が戦っている上での気持ちをかなり正直に生々しく語っていることである。それは、竜王戦のネット中継や専門誌の観戦記でも決して読めない貴重な部分である。ここまで、自分の心のうちを率直に書いた例は、多分今までにはないだろう。従って、将棋マニアだけでなく、「指さない将棋ファン」でも楽しめる内容になっていると思う。特に、竜王戦の間のエピソードを記した部分については、将棋を知らない人でも読んで完全に理解できる。(当たり前だけど。)
梅田さんは、渡辺の「戦略性」について指摘している。いかに封じ手を自分に有利になるように利用できるかを徹底して考えるなど、緻密に計算して戦っているということである。普通、そういう事は黙っていたほうが有利なはずなのだが、渡辺の場合は全て自分の手の内のカードを明かしてしまう。それが渡辺流の面白いところで、昨年の竜王戦を取材した「情熱大陸」でも、渡辺の正直者ぶりが本当に印象的だった。(その番組のまとめ記事を書いたことがあるので、興味のある方はどうぞ。)
対局中の心理と実際の指し手の読みの関連を、きわめて具体的に語っている例が、佐藤との第20期竜王戦第6局の終盤での決め手となった▲9八飛の場面。他の飛車の逃げ方では全部ダメな場面で、渡辺は残り時間を全て使いきって正解の好手を指した。読んでいる内容を、まるで自分の心中を小説に書くようにリアルに再現していて面白い。そして、残り2,3分になったところで、やっと正解にたどり着いたそうである。
羽生との竜王戦第4局の終盤でも、自玉が打ち歩詰めで逃れていることを、羽生がコップに水を注いで飲んでいる間に発見したという有名になった話とともに、いかに本当のギリギリのところで戦っているかがわかる。ちなみに、その第4局についても、対局後の渡辺自身の発言についても、本書には新たな記述があって興味深い。
とにかく、こうして竜王戦での渡辺の戦いの歴史を振り返ると、ギリギリのところで恐ろしく勝負強いと感じずにはいられない。佐藤相手の△7九角にしても。その理由としては、希代の戦略家であること、徹底的に現代的な合理主義的将棋観といったものが考えられるのかもしれないが、根底においてはやはり精神面の強さ、図太さがあるように感じる。私がこのブログをはじめたのが、丁度渡辺が竜王を獲得した頃なのだが、その頃から渡辺の将棋自体は大きく変化し続けている一方、渡辺の人間に対する基本的な印象は全く変わらない。その頃の記事でも引用したことがあるのだが、坂口安吾の「勝負師」からの一節。
「勝負師という点では、大山はちょッと頭抜けているようだ」
「大山にはハッタリめいたものがないのである。非常に平静で、それを若年からの修練で身につけたミガキがかかっている。(中略) 温室育ちという生易しいものがないのである。勝負師の逞しさ、粘り強さは、升田の比ではない(以下略)。」
「この図太さは、棋士多しといえども、大山をもって随一とする。頭抜けたアクターであり、その底にひそむ勝負師の根性ははかり知れないものがあるようである。」
安吾は、若き日の大山を見てこのように評しているのだが、渡辺にもそういう勝負師的な資質があるように感じる、と当時も私は書いていたし今もそう思う。。羽生は羽生で、また別の種類の強烈な無意識派の勝負師だと思うのだが、やはり意識的に勝負に取り組んで勝つためのあらゆる努力を惜しまないという点では、大山に近いのは渡辺の方だと思う。もっとも、渡辺の場合は、大山のように露骨な盤外戦術を使うわけではないし、先述したようにきわめて「正直者」の一種爽やかな勝負師なのだけれども。
本書全体を通じて、渡辺は明らかに将棋マニア以外でも楽しんで読めることを意識して書いているのだと思う。それは「頭脳勝負」以来、広い層に将棋を楽しんでもらいたいと、渡辺が終始一貫考えているためなのだろう。そういうところまで、渡辺は「戦略家」なのである。勿論、それは将棋を多くの人間に楽しんでもらえるようにするために、素晴らしい事である。
ただ、唯一私がちょっと残念に感じた点。羽生との竜王戦の第4局と第7局の終盤というのは、とてつもなく難解で終わってからもむなかな結論がでない将棋だった。その変化手順について、本書は徹底的に詳しく解説はしていない。恐らく、そのようなことを詳しく書きすぎても多くの読者は理解できないし興味もないだろうし、この本はそういうことを書く場所ではないという渡辺流のバランス感覚なのかもしれない。ただ、やはりあの伝説の終盤の最終結論を知りたかった。ファンとは我儘なものなのである(笑)。
竜王戦のエピソードの部分については、ブログに近い渡辺流の軽やかなタッチで書いている。私としては自戦記の本文も完全にプログ調で書いて欲しかったくらいなのだが、それはいくらなんでも「指しすぎ」か(笑)。
最後に、私が思わず吹いてしまった部分を一つだけ紹介して終わりにしよう。
嬉野温泉は「日本三大美肌の湯」。対局場「和多屋別荘」の温泉施設は素晴らしく、3泊で5回は入っただろうか。勿論、美肌にはなっていない。

島朗「読みの技法」(河出書房新社)



少し前に「イメージと読みの将棋観」という本が話題になったが、そのオリジナルともいうべき本書を再読してみた。一つの局面を見せて、各棋士の読みを比較検討するという趣旨で、参加しているのは、羽生善治、佐藤康光、森内俊之という超豪華メンバーである。そして、かつてこの三人を伝説の「島研」で率いていた島朗が、ひたすら聞き手と編集のみに当たるという、これまた豪華な布陣。
「イメージと読みの将棋観」が、取材棋士も多くて個性も違っていたので読みの内容にかなり多様性が見られたのに対し、この本は三人だけ、しかも純粋羽生世代なので、読み自体はそれほど大きな違いは無い。むしろ、どの局面でも、急所の読みを全員過あやまたずにピタリと押さえていることに驚く。(無論、私程度のアマレベルの感想。)敢えて言えば、森内が強靭な受けの手を多く読んでいるのが目に付くが、それはあくまで棋風の違いであって、基本的な価値観という点では、やはり同質性を感じる。特に「イメージ・・」を読んだあとでは。
また、三人で、しかも取材を島が行っていることもあり、読みの説明が丁寧で、なおかつ、単に読み筋だけでなく「局面をどう考えるか」も、きちんと説明されている。読みの違いを楽しむ以外に、彼らが「どのように考えて将棋を指しているか」を知るためにも、良い手引きになっていると思う。島朗らしい、格調の高い内容に仕上がっている。
この本の最後で、四人がプロの読みについて討論しているのだが、これをはじめて読んだ時は結構衝撃的だったし、今でもプロの読みについて考える上で、第一級のの基本資料であり続けていると思う。
まず、読みににおけるいわゆる「第一感」について、実際に第一感で浮かんだ手を指す確率が、三人とも七、八割だと言っている。やはりかなり高い数字であって、アレコレ考える以前に、最善手がパッと浮かばないとプロにはなれれないという厳然たる事実。コンピューターがかなり強くなっているが、あらゆる手を読んでみて、その中から相対的なベストを選ぶというのが基本原理である。しかし、人間の場合、読まないでも直感で、だいたいは最善手を見出すことが出来る。現在、その仕組みを脳科学が探っているわけだが、やはりよく考えてみると不思議なことではある。
但し、羽生が、第一感はプロの場合ほとんど変わらないだろうと言っていて、「読み」の精度がかなり高い割合で勝負を分けると指摘している。その点について、佐藤や森内の考え方は、それぞれ微妙に異なる。トッププロが並みのプロとどこが違うのかは興味深いテーマだが、彼ら自身も必ずしも、はっきり分かっていないのかもしれない。また、この本は出て既に十年立つので、彼らの考え方も当然変化しているかもしれない。
最後に、我々アマチュアが大好きな質問「プロは何手くらい読むのですか」について。
佐藤が「平均して10手先を5種類」と答えていて、他の二人もほぼ同意。場面にもよるが、手の広い場面では、20から30手読むことはほぼないと。三人とも、10手先を読むのは本当に大変だと口を揃えている。
これを、初めて読んだ時には、私のような素人にとっては単純に驚きだった。プロなら、相当先の局面までイメージするものだと思い込んでいたので。10手先でも無限の数の組み合わせがあるわけだが、、プロの直感によって読みを捨てまくっても、先まで読むことが難しいということである。いかに、将棋で読むことが大変なのか、いかに先行きがはっきりしない状態のまま指しているかが、よく分かる話だった。目から鱗が落ちたのである。具体的に読めるのは、手の広い場面では、せいぜい十手先、それをいわゆる「大局観」で補い、どの選択が良いかを判断しているということなのだろうか。
森内は「短く、正確に」読むことを心がけていると言い、羽生もそれが「読みの急所」だと同意している。これは、レベルが違っても、我々アマチュアにも参考になる話ではないだろうか。勝手読みで先まで読むよりも、きちんと正確に相手の指し手を読むことがいかに大切か。
原田泰夫先生の「三手の読み」は永遠の金言なのである。

佐藤康光「注釈 康光戦記」(浅川書房)



将棋世界にたまに載る佐藤康光の自戦記が面白くて、少し古い本だが買って読んでみた。
初版が2004年8月だというから、もう5年前である。たった五年ともいえるのだが、プロ将棋も佐藤将棋も、その頃から随分変わってしまった。第一、巻末に登場するのは「天才少年」「渡辺明五段」なのである。
さらに、久保とのゴキゲンの将棋でも、旧式丸山ワクチンを使っていて、佐藤流の端歩をつく指し方ではない。ちなみに、この将棋の終盤は、わけの分からない凄い将棋で、やはりこの頃から久保は相当強かったのだという印象を受ける。
佐藤自身が、革命的な(訳が分からないと最初の頃は言われた)作戦を次々に試しだす前の時期でもある。
ではあるが、佐藤流の真摯で濃い内容の読みの掘り下げは、今と全く変わらないし、頑張って変化を辿って読んでいくと、プロ将棋の深さとコクを堪能することができる。
また、現在にも生きる棋譜もあり、例えば今年の名人戦の第三局で出た△8五飛戦法から△5五飛の松尾流から△4五桂の丸山流と跳ねる将棋。丸山が名人戦で谷川相手に初めて指して名人を獲得した将棋だが、棋聖戦で丸山相手に佐藤が先手をもった将棋が本書に収録されている。途中に▲5六角成に対して△4四馬▲4六馬と指して、以下佐藤がうまく指して勝ちきっている。色々難しい変化もあるようだが、先手も十分文やれそうということで、名人戦では、後手の羽生が▲5六角成に対して△同馬と変化したというわけである。このように、少し前の将棋でも現在につながっている。この佐藤の本の頃△8五飛は全盛期を迎えていて、その後一回下火になるが、最近羽生もタイトル戦でよく用い、高橋九段などスペシャリストが高勝率をあげるなど復活傾向にある。将棋の世界でも「歴史は繰り返す」のである。
ところで、この対丸山自戦記で佐藤が書いていることがふるっている。
1 私はアホですか?
(作戦がいつも)私が先手なら横歩取り、後手なら角換わりだった。私の作戦は物議をかもしたらしく、あちこちでアホだのバカだの言われた。しかし、賢いだけでは感動は呼ばない。アホやバカが戦うから面白いのだろうし、そもそも私にも、横歩取りの先手番や角換わりの後手を避ける理由が当時はなかった。
このように、佐藤には独特のユーモアのセンスがあるのだ。これは、ちょっと羽生もかなわないところなのではないだろうか(笑)?
本書は佐藤の自戦記以外に20時間に及ぶロングインタビューを行って、各章に膨大な註をつけている。その部分が実に面白い。読み物としては本文部分以上に。硬軟おりまぜた内容で、佐藤の将棋に対する真摯きわまりない姿勢とユニークなキャラクターが伺える。
例えば硬派の部分では、藤井システムの革命的意義と真価を高く評価しながらも、単なる「知識」ではなく「自分なりに考えた知識」の重要性を説く。単に旧来の定跡を知識としてなぞるだけでは駄目というわけである。藤井も定跡のクリエーターだったし、佐藤もこの本の後きわめて個性的な佐藤システム、佐藤ワールドを築き上げていく。ただ、そのシステムが藤井のように普遍的なものでなく、あくまで佐藤個人の資質に基づくという違いはあるにしても。
硬軟の軟の部分でも、いくつも引用したいところがあるのだが、一つだけあげておこう。他にも面白い話が満載なので、硬派の将棋ファンにも読み物としておすすめできる本である。変異佐藤時代の第二弾にも期待したいところである。
ーー一時期、自分は中村俊介に似ているとおっしゃっていましたね。
なんとなく境遇が似ているかなと。中村選手の場合は、ここ一番という時のフリーキックとか、見せる技を持っていますが、でもサッカーでは中田英寿が主役ですよね。ナンバー1でないという意味で・・。それに、なんとなくフィジカルが弱そうというイメージも似ているような気がします。

羽生善治・柳瀬尚紀「勝ち続ける力」(新潮社)



「対局する言葉」に続く、お二人による二冊目の対談本。三回の対話が収録されているが、そのうちの二回目は、羽生が竜王戦に負けた直後に囲碁将棋ジャーナルで自戦解説をした日に行われている!
梅田望夫も既に書評しているが、竜王戦第二局の渡辺の△8三桂をめぐるエピソードは将棋ファンならば興味が尽きないだう。対談時期あり、竜王戦の第四局や第七局の終盤についての羽生の話を聞く事もできる。
博識な柳瀬が、次々に羽生さんに問いかけ、場合によっては、普通の棋士にこんなことを聞いたらムチャ振りだろうということまで聞いているのだが、どのような問いに羽生の見事な答えが返ってくる。本当に驚くべきことで、柳瀬も羽生の返答能力を絶対的に信頼しているのだろう。対談の最後で、柳瀬はこう語っている。
「対局する言葉」を大江健三郎さんが読んで、「あなたが何かしゃべると、その先にちゃんと羽生さんがいる、またあなたがしゃべると、また先に羽生さんがいる・・・」そこが面白いと感心されていました。今回対談して、改めて「ああ、羽生さんの思考は僕を先回りして、至るところに存在しているんだな」とつくづく実感しました。

具体的に面白い部分はいくらでもある。将棋の場合、選択肢がほとんどマイナスの手であること。中原や大山が「脳みそから血が出るくらい」考えて指していたこと。直線的な将棋だけでなく、ゴチャゴチャしたものが混ざっている中にも美しさがあると最近は感じていること。外国人の指した将棋には、日本語が母国語でない人が書いた文章のような何かちょっと違う部分があること。「羽生マジック」には種も仕掛けもないが、むしろ大山先生に相手の人間を観察して指す「大山マジック」があったこと。不利な時にはマジック的なことをしようとするのでなく、ひたすら不利が広がらないようについていくように指しているだけだということ。など。
そういう具体的な話以外でも、一体羽生はどこまでものを考えているのだろうという部分が随所にある。例えば、柳瀬は天才とは何かと、天才の羽生に聞いてしまっているのだが、羽生は楽々とこのようにこたえて見せる。
人間の持っている潜在的な能力や発想は、まだまだ一部しか発揮されていないと考えています。ですから、人間の埋もれている力を見出せた人や、発揮できた人たちを「天才」と呼ぶのではないでしょうか。持って生まれた特別な能力がある人が天才というわけではないと思います。人間は、まず寿命が限られています。環境。教育、あるいは時代や場所など、偶然の働きによって左右される部分もあります。一人の人間の上に、そうしたさまざまな要素が折り重なり、音楽のシンフォニーのようにうまく合致した時に、極めて高い発見をしたり、目覚しい能力を発揮するのではないか、という気がしています。

これは、ただの将棋棋士がするような天才論ではない。人間の潜在力、そしてある個体に様々に重なった要素によって、そういう能力を発揮できたのが「天才」だという考え方。天才だけを特別視するのでなく、人間一般の能力への深い信頼が根底にある天才論、というよりは人間論。羽生は、将棋を指しながら、どこからこういう深くて美しい考えを導き出しているのだろうか。
また、相撲に関して柳瀬が問うたのに対して、羽生はこんなことを言っている。
相撲の原点は、豊作の祈念です。それを、狩猟民族の人たちに根本から理解しろというのは、無理な相談なのかもしれません。ただ、本質的なところまで遡って考えれば、やはり、農耕民族の儀礼という要素まで引き継いでゆくのが、相撲の伝統であり文化でしょう。とはいえ、相撲は日常生活と密着している部分がありますけれど、将棋の方は昔からずっとずっと、浮世離れしています(笑)。そこがいいところなんですよ。

相撲に連綿と続く農耕民族の伝統を見ているのも驚きなのだが、将棋をそれとは別の種類のものと捉えているのが興味深い。農耕民族と狩猟民族という対比をしているが、日本の内部でも当然二つの文化潮流の流れが並存している。定住型と遊牧型、土の民と鉄や日の民、常民と遊民といった対立する要素。羽生は、将棋という文化の、日常的な文化からは離れた非日常的な要素、そしてその底流にある日本の主流とは異なる文化のある伝統の流れを。おそらく直覚的に感じ取っているのではないだろうか。
朝青龍のガッツポーズをめぐって、羽生が語っていることも興味深い。この具体的な問題を、羽生は「伝統」とは何かについての本質的な思考へつなげている。
朝青龍の行為自体よりも、彼の人間に対する蓄積評価になっていることをまず冷静に指摘している。相撲はスポーツではないが、外国人から見ればスポーツとして見られてしまう可能性があることを指摘する。その上で羽生はこのように言う。
伝統的なものは、スポーツという明確な割り切り方ができないものを積み重ねてできているもみのでしょう。お茶でもお花でもお能でも全部同じです。だから、その中で勝敗がつくものは、ジャンルちとして限られています。似ているのは柔道ですが、これは日本人のメンタリティだとスポーツじゃないわけですが、海外でやっている人から見ればスポーツです。でも、「道」という概念を伝えて理解してみらえるかどうか・・。

そのように伝統の意味をきちんと考えた上で、羽生はこう続ける。
どういうものが残って、どういうものが刷新していくかは、まさに歴史の評価でしょう。朝青龍個人の問題より、その後に出てくる横綱とか大関の人たちが、どういう思想を持ちどういう考え方を持ち相撲を継承していくのかが大切ではないですか。後は、最初に出た名画の評価のように、百年、二百年後に決まることでしょう。

朝青龍の問題についても、決して感情的な反応をしないで、問題の本質を冷静に見つめている。また、伝統の問題についても、きちんと伝統の持つ意味を深く意識して自覚したうえで、伝統墨守にならず、「外の」視線を客観的に冷静に受け入れることも出
来ている。伝統が固定化して自家中毒を起こしてはならず、時代や環境に応じて変化進歩してゆくものだと語っているように、自分には思えた。後半部分ははっきり言っているわけではないので間違って勝手に釈しているのかもしれないが。
羽生は着物をちゃんと使う伝統主義者でありながら、同時に将棋を進化させる上で伝統の破壊も恐れない反伝統主義者でもあるのだ。硬直化した伝統主義者でもなく、無責任な伝統反逆者でもない絶妙なバランス感覚。自分の立ち位置に対する無私で徹底的な客観視。羽生の指す将棋そのものの「伝統」観ともいえるのではないだろうか。
もう一つ、一番引用したい部分があったのだが、もう十分に引用過多のでやめておこう。各自が本書に当たって各自のベスト部分を探していただきたい。
柳瀬の思考を羽生が先回りしているだけでなく、後から読む読者の思考も時間を逆転させて先取りしているともいえる。羽生の言葉は、あらゆる解釈と思考を誘発するべく、世界に完全に開かれ遍在しているのである。

観ること、楽しむこと、努力することー梅田望夫「シリコンバレーから将棋を観る」書評4



ハイハイ、もう梅田さんの本の書評は飽きましたか?(笑)すみません。もう今日でおしまいにしますから。さらに書きたくなったキッカケはこの記事。

Party in Preparation 『シリコンバレーから将棋を観る』を読む

梅田氏の本は、将棋を観る楽しみを狭い範囲の将棋ファンから広く開放しようとする試みである。この記事の筆者は、そういう梅田氏の普及努力に敬意を払いながらも、どの程度の人間が本当に将棋の「棋譜」を楽しむことが出来るのかについて、自らの将
棋ファンとしての経験に照らして冷静かつ具体的に指摘している。

「しかしそれほど(将棋が)強くならなくても、将棋を観て楽しむことはできる」(『シリコンバレーから将棋を観る』98ページ)とは言うが、その「それほど強く」ないレベルというのはどの程度か。著者は、「ある局面の最善手や好手やその先の変化手順を、自分で思いつけなくても、それらを教えてもらったときにその意味が理解」(同98ページ)できるレベルを想定しているようだが、それはアマチュア2、3級以上ではないだろうか。私の経験からも、プロの将棋の変化手順を理解できるようになるのは「アマチュア2、3級」というのは頷けるところである。ただ、「アマチュア2、3級」が「それほど強くない」レベルなのかとなると少々首を傾げざるを得ない。
このアマチュア2,3級程度というのは、将棋ファンならば納得できる数字だろう。梅田氏の本を読んで、いきなり名人戦のネット中継を見ても、少なくとも「棋譜自体」を楽しむのは流石に無理である。無論、梅田氏は棋譜自体以外の楽しみ方も提示しているわけだが、やはり将棋を観る楽しみの根本というのは将棋の棋譜を鑑賞することだ。筆者指摘の通り、アマ2、3級というのは、何の努力もしないで将棋を漠然と観ているだけでは到達できないレベルである。やはり、自分でルールを覚え、指してみて、詰将棋を解くといった基礎作業を重ねて到達することが出来るというレベルである。但し、そういう努力さえ惜しまなければ、多くの人間が到達できるであろうレベルではある。
どちらしても、将棋の内容自体を理解して楽しもうとするならば、入り口の敷居がある程度高いというのは否定しがたい事実である。それが、野球やサッカーを観るのとは根本的に違うところだ。

昔読んだ本にニコラウス・アーノンクールの「古楽とは何か―言語としての音楽」というのがある。アーノンクールは古楽器を使って演奏し、古典音楽が当時演奏された形も緻密に考証するいわゆる「古楽器派」の親玉的な存在である。(今は、もうそんな狭いくくりでは言えない人になってしまった。)実際、その演奏は、それまでのものとは全然違う。この本の中で、音楽を「聴く」という行為について、様々挑発的な論考をしている。
(現在手元に著書がないので、記憶だけを頼りに書くのでかなりいい加減なことをお断りしておく。)そもそもかつては現在のように演奏者(作曲者)と聴衆が明確に分離していなかった。演奏するのは音楽を深く学んだ専門家、それを聴くのは一般大衆という図式ではなかった。例えば、モーツアルトは自身の手紙の中で「通のために音楽を書いている」と語っている。当時の聴衆は、自らも楽器を演奏する専門的な知識を持つ人たちばかりだった。モーツアルトの手紙から面白い箇所が引用されていて、モーツアルトが効果を狙って書いた部分に聴衆が反応している様子が書かれている。それと比べると、現在は音楽が漠然と「聴く」だけのものになり、大衆消費財に成り下がっている、とか何とかかんとか。
これを読んで、学ぶことが多いと思いながらも、どうしても納得できないものを感じた。じゃあ、クラシック音楽というのは一部の貴族のためのものなのかと素朴に感じたものである。
しかしながら、クラシック音楽というのも将棋同様、本当に理解しようと思ったら、ある程度は楽曲の形式を学ぶ「努力」が必要なのは間違いない。そうしなくても例えばモーツアルトの局を深く理解できることは可能なのかもしれないが、間違いなく最小限のことは学んだほうが良いに決まっている。
つまり、専門性のある深みのある対象を本当に「楽しむ」為には、そのために「努力する」ことも、ある程度は必要なのである。現代人は、何かとすぐ安易に「批評」したがる。むしろ、現代人に必要なのは、何でもすぐ「楽しむ」ことを求めるのでなく、そのために「努力する」のを惜しまないことなのではないか。
その場合、音楽と将棋で違うのは、音楽の場合は努力しなくても理解できる(出来たつもりになる)ことである。実際、素人が専門家よりも音楽の深いところを聴き取る事はありうるだろう。しかし、将棋の「棋譜」についてはもっと条件は厳しい。流石に将棋のルールを知らない人間が、将棋の棋譜自体を深く理解するのは無理である。だから、将棋の場合、アーノンクールが理想とする状態が、最初から確保されているという皮肉な言い方も出来るかもしれない。
私自身、とても自慢できるような棋力ではないのだが、それでもある程度将棋を学ぶことでプロの将棋をますます面白く感じるということを実際に体験している。それこそ、苦労して学べば学ぶほど、「観る」楽しみが増す世界である。
とはいっても、現実問題として、大多数の人間には、将棋をそれほど深く学ぶ時間的余裕がない。梅田氏もその一人で、その中で、ご自身としてどれだけ「観る」楽しみを追求できるか試している。また一般の人間にも将棋を「観る」楽しみを知ってもらいたいと思ってこの本は書かれている。そして、これは将棋ファンとしての贔屓目かも知れないが、現在のプロ将棋というのは「棋譜」以外の付加価値部分でも、多くの人間が楽しむ要素が十分にあると思う。それについては、梅田氏の本を読んでいただければよい。まさしく、そういうことを書いている本なのだから。
但し、梅田氏も実際はブロ将棋を理解する「努力」を積み重ねている人だ。それは実際に将棋を指すという行為が中心でないにしても、膨大な時間をかけてプロ将棋を「観て」、関連書籍を読んでいる。やはり、何かを深く楽しもうとするためらは必ず努力する必要がある。これは、どうしようもないことだし、将棋に限らず、何についても言えることなのではないだろうか。

今回は、一将棋ファンとして梅田氏の「将棋ファン以外のための本」を読んだ。私は、将棋を通じて梅田氏の事を知り、ウェブ関係の著作もほとんど読んでいる。そうしたウェブ関係の書物でも、今回の将棋の本でも共通して感じるのは、梅田氏の「楽しむ」能力のとてつもない高さである。この本の中で、梅田氏は棋士たちを「純粋な存在」と言っているが、それは恐らく梅田氏本人にも当てはまる言葉のはずである。将棋ファンとて傍で見ていても、将棋を心から楽しんでいる様子が羨ましいし楽しい。
日本という精神風土では、純粋に「楽しむ」と言う行為が馬鹿にされがちなところがある。分かったような物言いと大人を気取ったシニシズムが横行している。それに対して、梅田氏のよく言われるオプティミズムは異彩をを放っている。あっけらかんとして明るい。しかし、特に今回の本では将棋ファンとしてよく理解できるのだが、梅田氏が「明るく楽しむ」ために払っている「努力」はほとんど法外と言ってもいいくらい凄いものである。そういう「努力」を感じさせずに「努力」を楽しみながら対象を心から「楽しむ」こと。将棋の本としてに限らず、梅田氏の本が語りかけてくるのは、そういうことなのだと思う。
梅田氏は、この本で「将棋」を心から楽しんだ。しかし、読者は、何もそれに従って将棋だけを楽しむべきと言うことではないだろう。対象が何であれ、何か心から楽しんでみたらどうだろう。そのための努力が楽しみになるくらい没頭してみたらどうだろう。梅田氏のこの将棋の本は、そのように読者に語りかけているようにも思える。


さて、私が書いた梅田本の書評については、全部または一部を、英語はもちろん中国語でも韓国語でもスペイン語でもフランス語でも、どなたが何語に翻訳してウェブにアップすることも自由、とします(許諾の連絡も不要です)。
誰もしねーよ。


羅針盤のきかない世界ー梅田望夫「シリコンバレーから将棋を観る」書評3

梅田との対談で、羽生は現代将棋の一種の「分かりにくさ」について、様々な表現を用いて語っている。この本は将棋ファン以外でも楽しめるように書かれた本なのだが、将棋ファンとしてはあの部分が大層スリリングで面白かった。
最近片上五段が、ブログで現代将棋について論じていた。まるで羽生=梅田対談に呼応するかのような内容である。

daichan's opinion 将棋の「奥」について

現代将棋では、序盤の定跡を徹底的に体系化して解明したり、またその延長で中盤・終盤まで通して明快な法則性にのっとって勝ちきる技術が追求されてきた。その先駆者が羽生である。ところが、現在進行中の将棋では、そうした法則性を見出すのが難しくなってきているというのだ。
具体的には、後手番でいきなり角を交換したり、乱戦に持ち込むことで、「高速道路」の定跡からいきなり降りて「けものみち」を歩くように仕向ける。
実は将棋界では、先期に歴史的な出来事が起こった。それまで常に先手の勝率が5割を超えていたのが、初めて後手版の勝率が五割を割ったのである。その大きな要因が、後手番での「けものみち」戦法といわれている。

 しかしおそらく、法則探しの旅にはある程度「ケリがついた」。そしてこれからは例外探しの旅が始まる。否、もう始まっている。
 例外を掘り当てるのに必要なものは、たぶんすこしの勇気と、直観と、そして大量の読み。見たこともない局面において頼れるのは読みしかないから。そして将棋というのは原理的には、解にたどりつけるはずのものだから。たぶんこれからは「いくら時間があっても足りない」ような局面を前にする機会がどんどん増えることだろう。

片上は東大出身の理論派若手棋士である。「高速道路」の整備を徹底的にしてきた世代の若手が、現代将棋に対してこうした認識を示しているのは、とても興味深い。
ここまで読んで、梅田本を読んだ人ならばすぐ気付くだろう。これこそ、対談で羽生が盛んに言っていたことだと。羽生の表現は相変わらず巧みで多様で面白いのだが、一箇所だけ引用してみよう。

羅針盤がきかないんですよね。
(中略)
いや・・やっぱりその、いかに曖昧さに耐えられるか、ということだと思っているんですよ。曖昧模糊さ、いい加減さを前に、どれだけ普通でいられるか、ということだと思うんです。


その際大切なのは、羽生は最初から将棋をそのように訳が分からないものと考えていたのでは決してないということである。むしろ、従来の力勝負重視の将棋に対して、革命家として大改革を唱え、徹底的に合理的な作業を積み重ねて、将棋を出来うるかぎり法則的体系的に解明しようと努力しようとしてきた棋士なのだ。その辺の事情については、梅田が第一章で解説している通りである。
従来の将棋の歴史を単純に図式化して説明すると次のようになるだろうか。

第一段階 過去の名人達の時代
将棋は研究ではなく、最後は個人の力がものをいう。序盤研究よりも中盤終盤が大切。また、将棋の指し方に、人間的な美意識
を求め、穴熊などは邪道として名人が指す戦法ではないとされる。将棋と人生・その棋士の人間性には、大いに関係があるとされる。

第二段階 高速道路を徹底的に整備する時代
序盤の作戦は将棋においてはきわめて重要。また、その体系的な研究もすべき。羽生の「羽生の頭脳」全十巻がそれを象徴する。中盤終盤も、ある程度のパターン化法則化は可能で、それもできうるかぎり行う。旧来の美意識などにはとらわれず、可能な戦
法は全て追求する。将棋と人生は全く別物。とは、この時代の羽生の有名な言葉。

第三段階 けものみちの時代
体系化の作業が徹底して行われた後、むしろそこからこぼれ落ちる指し方にプロ棋士が生きる道を求めだした時代。序盤の高速道路の定跡をそのまま進むのでなく、いきなり見たこともないような局面に導き、そこでは各個人の力が問われる。しかし、あくまで合理的な序盤知識やある程度されたパターン化された終盤技術を、ほとんどの棋士が共有しており、差別化は難しい。本当に個人の創造性が問われる段階。

断っておくが、この分類自体、極端な単純化を行ったものであり、なおかつ内容自体も全く違う見方が可能である。また、時代区分自体明確でなく、例えば羽生などは第二期の時代から、現在をビジョナリーとして予知するような発言もしていた。
つまり、現代将棋は、のっけから非合理を求めているのではなく、徹底的な合理化をやりつくした末に、突如出現したようなカオス状態なのである。だから、第一期の名人が「人生と将棋は関連がある。」というのと、羽生が同じことを言うのでは、全然然意味が違う。
大風呂敷を広げるならば、これは将棋の世界のみならず、恐らくどんな世界でも起こることのはずである。徹底的に合理性を追求すること、そのことで体系的に建築を築き上げようというのは、基本的には全世界で起きたことである。その価値には計り知れないものがあるし、その意義を否定するのは馬鹿げている。確かにそのことで「世界は進歩する」。しかし、そういう追求には、必ずといっていいほどどこかで壁にぶち当たる。いくら追求しても分からない部分が出てくる。
将棋以外の世界のことと対比して言うと、どうしようもなく通俗的な話になりそうなので、やめておこう。ただ、将棋の場合、あくまで根底には勝たなければならないという鉄則がある。哲学的に遊んだりしていたら、あっという間に100連敗くらい喫してしまうだろう。そういうきわめて厳しい勝負の世界で、合理化の追求のはてに、そこかこぼれ落ちるむものが見え出しているというのは、やはり興味深いことだといわざるをえないだろう。
必ずしも、プロ棋士全てが、意識的にそういうことを行っているわけではない。だから、それを説明する人は必要だ。梅田もその一人だろうし、また羽生が何よりも凄いのは、プロ棋士でありながら、明らかに世界に対する感受性や直感を兼ね備えていて、それを極上の言葉で表現する能力を有していることなのだ。

鈴木大介「角交換振り飛車(基礎編)」(浅川書房)




プロローグ
第一章 ▲7七角戦法
第二章 ダイレクト四間飛車
第三章 スピード角交換戦法

ごく最近出た新刊。近頃のプロの将棋では、角道を止める振り飛車が激減し、ほとんどが角交換(辞さず)の振り飛車になりつつある。ゴキゲン中飛車と石田流がその主流戦法だが、この本ではそれ以外の角交換振り飛車を解説している。
まえがきで、鈴木八段が角交換振り飛車の特長を説明している。
その一。まず、居飛車からの急戦を心配する必要がない。棒銀とか山田定跡は覚える必要がない。
その二。押さえるべきポイントが少ない、ひとつの戦型で覚えた筋は他の戦型でも応用できることが多い。
その三。振り飛車から攻めることができる。角交換振り飛車は受けの戦法ではなく、攻めの戦法なのだ。これが従来の振り飛車とは一番違う点である。
その四。居飛車穴熊対策が完備されている。振り飛車から急戦を見せているので、居飛車は穴熊に囲いづらいし、居飛車穴熊に組ませても、攻め筋がたくさんある。
その五。以上のような理由によって、最終的に勝ちやすい。

なかなか、鈴木八段も宣伝上手である(笑)。これを読むと、ぜひとも角交換振り飛車を指したくなるではないか。そして、実際その通りなのだけれども、公平を期すために(笑)、一応逆にアマチュアが角交換振り飛車を指す場合に問題になることを、個人的な体験に基づいてあげてみよう。
その一。常に角交換する可能性があり、角を持ち合っているため、打ち込みに神経を使う必要がある。
その二。序盤から激しい戦いになる可能性がある。力戦を覚悟しなければならない。たとえ定跡でよいとされる局面になっても、
力戦なのでそのあと勝ちきるには、ある程度の力が必要である。
その三。自分の囲いをあまりかたくすることが出来ないことがままある。金銀二枚の片美濃や片銀冠で戦いに突入することも良くある。特に左金の使い方に苦労することが多い。
いきなりネガティブなことを書いてしまったが(笑)、将棋は一人で指すものではないので、自分だけ思うようには行かないのは当たり前である。こういった長所と短所を把握しつつ、アマチュアは、従来の振り飛車と角交換振り飛車を使い分ければよいのだと思う。
しかし、とにかくプロ将棋が角交換ばかりなので、プロ将棋鑑賞の手引きとしても、本書は心強い味方になるだろう。私など、個人的な購入の主目的はそうだ。
本書で扱っているのは、基本的には後手番での作戦である。第一章の▲7七角戦法というのは、いわゆる後手4手目△3三角戦法で、振り飛車にする場合のことである。前書きにあるとおり、藤井システムのようなシステマティックな定跡というよりは、基本的な狙い筋が幾つかあって。それを場合によって使い分けるという感じである。まさしく力戦振り飛車なのである。例えば、ゴキゲンから向かい飛車に振り直した場合に良く出てくる、△2五桂と歩を掠め取る手筋も出てくる。鈴木八段の言うとおり、別の形で同じ筋を応用可能なことが多い。従来の振り飛車だと、例えば四間飛車と三間飛車は全く別世界なのだが、角交換振り飛車では、そういうはっきりした区分がないのも大きな特徴だと思う。
第二章は、角道を止めない四間飛車である。ここでは、相手が無理やり居飛車穴熊に組もうとした場合についても、詳しく解説している。通常の藤井システムだと、振り飛車から角道を止めるわけだが、この場合は、逆に居飛車穴熊にするために居飛車側から角道を止め、振り飛車は角道を開けたまま攻撃態勢を準備することが出来る。プロで角道を止める振り飛車が減った根本原因は居飛車穴熊対策での苦労である。従って、攻めることが好きな振り飛車党にはうれしいだろう。また、藤井システムのように一手が命取りになる精密きわまりない定跡というわけでもない。
第三章のスピード角交換戦法は、いわゆる後手一手損角換わりダイレクト向い飛車である。佐藤さんが指しはじめた頃は誰もが驚いたが、ついにこうして定跡書で説明されるようになったのだ(笑)。その場合に生じる▲6五角問題(居飛車が馬を必ずつくれる角打ち)についても、きちんと解説している。結論を言えば、この形では、振り飛車が十分指せるというのが鈴木八段の見解である。本書を読んでいるとそれはよく納得できるのだが、さっき述べたように最初から乱戦になるので、多少良くなっても実戦的には勝ちきるのは大変という側面もある。特にアマチュアの場合は。あくまで力戦が得意だという人が指すかと良い戦法だと思う。
本書全体を通じて、鈴木八段は、ポイントを分かりやすく説明している。まえがきの通りに、細々とした定跡を覚えるというより、基本的な狙いの形を教えてくれるのがうれしい。それは、鈴木八段の中飛車関係の書物とも共通して言えることである。また、実際の鈴木八段の棋風もその通りなのだ。
あまり細かいことにこだわらず、自由に力戦振り飛車を指してみたいという人に、おすすめの一冊といえる。
また、とにかくプロでは、時代は角交換振り飛車というくらい全盛なので、プロ将棋を観ることに興味がある人にとっても、一読の価値のある本といえるだろう。なお「応用編」も、出版予定とのことである。


やったー、買った本を何ヶ月も積読せずに、ほとんどはじめて定跡書の新刊案内ができたー(笑)。

(書評の続き)生きながら観るーー梅田望夫「シリコンバレーから将棋を観る」

そもそも、昨日は梅田さんの本について将棋ファンとしての視点からある程度きちんとした書評をするつもりで書き始めたのである。しかし、ただ普通にするのもつまらないかと思い、まず雑談からはじめたらどんどん脱線してしまい、軌道修正不能になりそのまま力尽きて終わってしまった。今日は、昨日書ききれなかったことの補足を少ししておこうと思う。
というわけで、昨日の記事は我ながら何を言っているのかよく分からない内容に見事に仕上がったのだが、梅田さんご本人があんまり変わったことを書いているのがおかしかったのか?、ブログで取り上げてくださった。

My Life Between Silicon Valley and Japan 「観る」ことと「する」こと「生きる」こと

「シリコンバレーから将棋を観る」では、当然将棋や棋士を対象としているので、その中で梅田さん御自身の個人的なことはそれほど語られていない。しかし、この記事では梅田さんの個人史が率直に語られていて面白い。
(どうでもいいことだが、今日は「梅田さん」「梅田さん」と言っているが、オマエは昨日は「梅田」と呼び捨ての連発だったではないか思う方もいるかもしれない。しかし、言い訳するとあの呼び捨ては、例えば、羽生は、渡辺はというときと同じ意味の完全に自分とは別世界の人へのリスペクトをこめた呼び捨てである。イチロー、松井を呼び捨てにするのと同じこと。野球のブログで「イチローさん」とか書いてあったら、多分不自然でかなり気持ち悪いだろう。要するにスター性が高い固有名詞ほど呼び捨てにしやすいのである。将棋の世界では、まだ棋士が「イチロー」レベルまでいっていない。もっと将棋がメジャーになって「羽生が」と呼び捨てるのがごくごく普通になって欲しいと思う。)
さて、梅田さんは、将棋に関しては「観る」楽しみに徹しているわけだが、「生きる」方に関してはシリコンバレーでの多忙かつ過酷な実生活を生き抜いてこられたようである。
会社を創業してからの日常は、ぜんぜん意識していなかったけれどじつは勝負・勝負の連続で、ブラックジャックのテーブルの上のチップとは比較にならぬ金額が、自分の判断の一つ一つによって、ちょっとしたことの成功と失敗の違いによって、出て行ったり入ってきたりするものなのだということが、ブラックジャックをやり始めてまもなく、鮮やかに身体でわかってしまったからである。

12年前に会社を始めたときに、僕は本当に「自分の人生を生き」はじめ、その代償行為を必要としなくなったのだろう。

代償行為というのは、梅田さんの場合、例えば「ラスベガスで夜通しテーブルに座り続けて妻に呆れられたブラックジャック」である。梅田さんの場合、かなり高踏的な将棋ファンというイメージが強いのだが、やはり将棋が好きなだけあって、実はかなり勝負事が好きなのだと分かって、ちょっとおかしい。
それはともかくとして、「生きる」という行為が゜、賭博以上にスリリングで緊張感に満ちているような生を梅田さんは過ごしてきた。しかし、ただ必死に自分の生きているだけの者でも、必ずといっていいほど人間は自分の人生とは別のもの求めるものである。それが梅田さんの場合「将棋を観る」という行為だった。
梅田さんは羽生さんの対談で、将棋を仕事をする上での「触媒」と語っている。朝から順位戦のネット中継をつけっぱなしにしながら、仕事もこなし、将棋を観ていることでよいアイディアがぱっと浮かんだりするそうである。(その辺、やっぱり梅田さんは我々一般の怠惰な将棋ファンと違ってストイックなところを捨てきれない。笑)
私が昨日書いたことと強引に結びつけると、「生きる」という自分の主体的行為をしながら、それを「将棋を観る」という客観的な行為で補完し、生きることに役立てるとともに、逆に将棋を深く「観る」ために自分の生活体験をフルに生かしているという言い方が出来るかもしれない。
その際、面白いのが、梅田さんが会社の経営がブラックジャックのように「自分の判断の一つ一つによって、ちょっとしたことの成功と失敗の違いによって、出て行ったり入ってきたりするものなのだ」の述べていることだ。要するに自分の力で全てをあらかじめ判断できるのではなく、常に先行きが不透明な中で瞬時の決断を積み重ねていかなければならない。そして、その一つ一つの決断が、実は大局的には重要な意味を持つ。これって、将棋そのものではないか。
本の最後の対談で、羽生さんが将棋について一貫して語っているのも、「分かってないで」指しているということである。具体的内容は本を読む方の楽しみのためにここでは詳しく言わないでおくが、一般のファンが思うほど、プロは先の見通しをクリアに立てて指しているわけではない。ほとんど五里霧中の中を航海する様な感覚の言葉を、羽生さんが次々に発するのに、読者は驚くはずである。
しかし、。そうだとは言っても、漠然と指しているわけにはいかないので、全く見通しが立たない中でも、次々と決断し続けなければいけない。ここまで来ると、逆に将棋が梅田さんの会社の経営と実に性格が良く似ていることに気付くだろう。
つまり、ちょっと通俗的な表現になることを恐れずに言うならば、将棋は人生の縮図そのものなのである。従って、何も将棋が分からない人間でも、人生を各人なりに深く生きてきた人間ならば、将棋の本質を「観る」ことは可能なのだ。逆に、単なるゲームに過ぎないように思える将棋だけを指してきたプロ棋士も、もし真摯に深く追求してきたならば、「人生」についても驚くほど深い理解を示すことができるはずなのである。羽生さんが、その最たる存在といえるだろう。
だから、「将棋を観る」というよりは「生きながら将棋を観る」という表現がいいのかもしれない。そういう「観る」行為は。全く将棋と関わらずに生きてきたどのような人間にも可能なはずだし、梅田さんのこの本をキッカケにして、そういう将棋の魅力を知る人間が一人でも増えてくれればと思う。一将棋ファンとして。

さて、予定に反してもまたしても、この本の中の将棋についての具体的内容を全く書けずにもう力尽きかけている。もう一つ、どうせならやはり将棋自体とは全く関係ないことを書いて終わりにしよう。
この本の編集は、okadaicさんという女性が行っている。彼女自身「指さない将棋ファン」であり、梅田さんは「彼女の、ときには狂気さえ宿った「将棋の世界への愛情あふれる言葉」で励まされることがなければ」本書を書き上げることは出来なかったそうである。
当然然私はokadaicさんのことを全く知らないが、彼女はtwitterで盛んに活動していて、私はその読者の一人なので、彼女の「狂気」というのはひそかによく理解で来てしまう。okadaicさんのブログにこんな記事がある。

帝都高速度少年少女! 近況:相変わらず指せませんが、将棋の本を作りました。

1970年生まれの羽生善治が七冠王になったのは、1980年生まれの私が高校へ進学する頃のこと。当時、同年代の女の子たちの一部に、熱狂的な羽生ファンが生まれた。運動部のエースより軽音部のカリスマより、じーっと何か考えているメガネ君に弱いタイプ。そういう子は、当時あらゆるメディアに引っ張りだこだった「天才・羽生」の、一局ごとの勝敗から、個人的なことまで、いろいろ知りたくて、他の子たちがスポーツ選手やアイドルを追いかけるように、熱心に彼を追いかけたものである。何を隠そう、私もその一人だ。

こんな将棋の楽しみ方もあるのだ。現在のプロ棋士には男しかいない以上、女性のファンが居るのが、本当は当然のことともいえる。しかも、将棋を全くさせないタイプの女性ファンが、もっと増えていいはずなのだ。
勿論、okadaicさんは男として興味があるからだけで将棋を「観て」いるのではなく(笑)。やはり梅田さんと同じ文脈での将棋の不思議な文化性に興味があるのである。それも、我々普通のおじさん将棋ファンが全く考えもしないような将棋の文化性に着目していて面白い。「女性として生きながら将棋を観る」ことだってあっていいはずだ。

それにだいたい、将棋イベントに行くと必然おっさんの溜まり場という現状を、我々もそろそろなんとかしたいではないか(笑)。

「観る」という行為は実は恐ろしく深いのだー梅田望夫「シリコンバレーから将棋を観る」

クルーゾー警部でおなじみのピーター・セラーズは、晩年に「チャンス」という不思議な映画を残した。知的障害をもつ「チャンス」は、ある富豪の大邸宅に庭師として住みこみ、一度も屋敷の外に出ることなく暮らしている。しかし、主人の死とともに追い出され、初めて外の世界に飛びだす。全く疑いを知らない静謐な人柄に人々はひきつけられ、誤解は誤解は招き、ついには大統領候補にまでなりかけるというコメディである。
チャンスの唯一の趣味はテレビを「観る」ことだ。外部の世界の騒ぎに巻き込まれることは決してない。屋敷の外に出ても、周りの人々や世界の喧騒をひたすら静かにテレビを観る様に見守り続ける。その落ち着きがますます人々を感心させる。本当は知的障害で、ただテレビを観る様に世界を観ているだけなのに。という皮肉。しかし、セラーズが完全になりきって演ずる「チャンス」は、まるで本物の聖人のようだ。この映画を観ている人間はいつしかこのようなに疑問を持つようになる。「果たして、人々は本当にチャンスに騙されているだけなのだろうか?」と。
人間はあくまで自分で「行為する」主体である。ひたすら「観る」だけというのは、どちらかというと神の領域に近い。半ば聖人のような「チャンス」が、そうだったように。
将棋の場合も、人生を生きることとの類比でいうならば、実際に自分で指してこそ本物である。勝ったり負けたり、読む苦しみを味わってこそ、初めて自分のものになるし、そのことで本当の喜び、充足を得ることが出来る。それと比べて単に将棋を「観る」だけというのは、なんと浅はかな行為なのだろうか?
しかしながら、ただひたすら「指す」だけが正しい行為とはいえない。もし、将棋を指すことで自分を忘れ果て、ただ勝つことに夢中になったり、自分の将棋の内容を全く省みないのならば、それは愚かしい時間の無駄、単なる気晴らしにとどまるだろう。人生を生きることに汲々として、全く自分自身を見失っている人のように。
一方、将棋を「観る」行為だけでも、それが真剣に集中する行為であれば、ほとんど芸術的な行為にまで高めることが可能だ。この梅田望夫の本は、要するにそういう観方を徹底的に自分の身をもって人体実験してしてみた人間の報告書である。梅田は謙遜しているが。無論実際は将棋の腕前も世間一般ではかなりのものなのだと思う。但し、将棋の世界のマニアというのは恐ろしいものなので、そういう連中と比べれば相対的に素人というだけのことである。とにかく、限られた時間で自分では指すことなく、どれだけ「観る」行為を深く出来るかを追求している。率直に言って、梅田は根がストイックで真面目そのものなのだ。梅田が、羽生をはじめとするストイックなヒーローたちに強く惹きつけられるのも、よく分かるような気がする。
巻末の羽生との対談で梅田はこのように言う。
梅田 ところが、そんなふうに言うのをはばかられる雰囲気が、将棋の世界にはありますね。だって「じゃあお前、指してみろよ」と言われたら、指せないわけですから(笑)。「いったいどこに感動したんだ」と問い詰められれば、言葉が浮かばない。・・でもね、たとえば絵画なら、自分で絵が描けなくても「感動した」という自由が許されているわけです。システィーナ礼拝堂の「最後の審判」を見て感動した、と言って「おまえ、描けないだろう」とは言われないですよね。将棋を観て感動したと言うと「え、君どのくらい指せるの」となる(笑)。
必ずしも深い専門性がなくても、「最後の審判」に直截的な感動を受けたり、美術専門家よりも深いところを「観る」ことは十分可能なのである。なぜ、将棋でそれをしてはいけないのかと。
そうは言っても、頑固な将棋ファンはこういうかもしれない。そんなのは言葉の遊びだよ。将棋をロクに指せないのに、深く将棋を楽しむことなんて出来るわけないさ、と侮蔑的に呟くだろう。しかし、これについては対談で羽生が恐ろしい言葉で答えてくれている。(梅田のブログでご自身でも引用している。)
将棋の局面というのは、つねに揺れ動き続けているようなものなんですよ。或るプロ棋士に訊いてこっちが良いと言っても、違うプロ棋士は自信がない、と言う。タイトル戦に限らず、大部分の対局は、その微妙なギリギリのところで、ずっとずっと揺れ動き続けているものです。私は、その途中の感じを観るには、アマとプロとの差は、じつはあんまりないんじゃないか、という気がしているんです。稀にすぐ大差がついて形勢がハッキリする場合は別として、そうして競っている状態のときは、みんな見解が分かれるものです。針がどっちに振れるかわからない、切羽詰まった場面を見るには、将棋の実力は関係ない。最低限ルールさえ知っていれば、そのときの雰囲気とか「場」を、かなり捉えることができるのではないかと。もちろん、その一手に潜む裏側の意味、といったことは、プロ棋士のほうが観えていますよ。ただ、プロは将棋を観るときに、そこだけを観てしまうきらいもある。プロの見方と一般的な人の見方は、補完する感じで表現できたら、一番いいのではないかと思います。
本当にプロでも分からないような局面でも、いや、そういう局面でこそ、プロとアマの観る感じには差がないといっているのだ。将棋の第一人者が。羽生は梅田相手だからといって、リップサービスで嘘を言ったりするようなタイプではない。将棋のプロフェッショナルとして、本当に深くそう考えているはずである。
「最後の審判」のギリギリの本質を感受する能力には、玄人と素人で大差ないように、難解なプロの将棋が語りかけているものを観て感じる能力には、プロとアマで差がないという驚くべき発言。ある意味、自分たちプロの指している将棋が単なる専門的な一ゲームでなく、ある種の普遍的な美を表現し得ているという自信の現われとも言えるだろう。
とにかく「観る」という行為は、実はとてつもなく深いところまで届く行為なのである。極端に言うならば、自分で「指す」という行為が全く出来ない人間でも、「観る」達人ならば将棋の本質を全く過たずにきちんと見抜くことが出来るはずである。逆に、中途半端な専門性をもつ素人には、自分の狭隘な主観性によって将棋を素直に観ることが出来ない危険があるともいえるだろう。
単純化すると「観る」というのは客観的な行為、「する」というのは主観的な行為である。人は結局自分の人生を生きなければならない。あくまで生きるというのは自分自身の主観的な行為である。自分でしなければどうしても身につかないということは確かにある。だから「する」(生きる)という行為は尊い。だが、そこに客観的な「観る」行為が欠けるのならば、自分を失ったり自分の狭い価値観に閉じこもることになってしまう。理想の生き方は自分の「する」行為を常に同時に「観る」ことである。時分の身を持って体験しながら、それを常に冷静に俯瞰するもう一人の自分を意識し続けること。
将棋についても同じことがいえる。本当に将棋を深く楽しもうとするならば、「指す」のが良いに決まっている。しかし、「指す」達人というのは、実は常に自分の将棋を「観て」いるものである。自分の勝手な読みだけでなく、相手の指しての可能性も「観て」いる。さらに、深い大局観で指すプロならば、アマチュアがプロ将棋を観て直感的に感じるのと限りなく近い「将棋の美」を「観て」指しているかもしれないのだ。これは私の勝手な妄想だが、本当に強い一流のプロほど、弱いアマが直感的に感じる将棋伸びの感覚に対して、素朴で捉われのない感覚の共有があるのではないだろうか。
将棋では、たとえプロであっても無限の組み合わせがある将棋の指し手を全て具体的に読んで指すのは不可能だ。従って、「大局観」という一種独特な将棋に対する感覚がプロにも必要になってくる。その大局観の大元にあるのは、つまるところその人間の感性そのものである。将棋を「観る」素人と差別のない人としての能力なのだ。ギリギリのところで勝負を分けるのは、その人間の美への感覚だとまで言ったら言い過ぎだろうか。
だから、きわめて深いところでは、将棋のプロも素人も、将棋を「観る」という行為では驚くほど平等だし、専門性のない素人が、指し手を具体的によく理解しているプロよりも、将棋の本質の深いところを見抜くことがあっても全く不思議ではないといえるのかもしれない。

「チャンス」のラストシーンで、いきなりセラーズは、池の上をイエス・キリストのように歩く。もし「観る」ことを完璧に出来るのならば、人間は神に限りなく近づくのである。



鈴木宏彦「イメージと読みの将棋観」(日本将棋連盟)



ある局面をトッププロ棋士たちに提示して、その読みの内容を比較検討するという企画。参加しているのは、羽生、谷川、渡辺、佐藤、森内、藤井の六名。将棋世界誌に連載していたものを一冊の本にまとめて刊行したもの。
この本の元祖としては島朗「読みの技法」がある。島研のメンバー、羽生、佐藤、森内が参加していて、かなり高度な内容の本だった。その中で、彼らが座談会で、せいぜい7手先位までイメージするのが精一杯だと共通していっていたのが印象的だった。い
かに、将棋では読むにあたって分岐が多くてきちんと読もうとするのが大変かが分かる。勿論、プロならば勝手に一直線に読むだけならば詰みまで読む事だって容易なことなのだろうが、相手があり指し手の広がりがあると、途端に読むのが大変になるということだ。
さて、本書は、島編よりは、もう少し気楽に楽しめる読み物に仕上がっている。取り上げている局面も、序盤。中盤。終盤、あるいいは、現代将棋のテーマ図、大山升田時代、江戸時代の将棋など幅広い。さらに、具体的局面だけでなく、封じ手や読みについてどう考えるかなどのテーマについても質問していて、各棋士の考え方の違いを知ることが出来る。
昔の将棋の局面について聞いているのが面白い。当然、聞かれるほうは何時の将棋か知らない。従って、過去の名棋士に対して、知らず知らずのうちに、とんでもない毒舌を吐いてしまう羽目になる。
藤井 えー、そんなの論外でしょう。どんなにえらい先生が指した将棋でも、僕の言った手のほうが正しいはずですよ。そんな手はないです。一体誰ですか、指したのは?中原先生?ひえー。

特に、渡辺竜王あたりは、指しているのが誰か分かっても、自分が納得できなければ、堂々と自分の意見を言っているのが面白い。ただ、どの棋士も特に中終盤の過去の偉大な棋士の指し手には感銘を受けるようで、その渡辺も、升田の将棋に感動して,
神田の古本屋まで足を運んで升田の対局集を購入したという。
中でも特に印象的なのは、三代目伊藤宗看(詰将棋で有名な宗看・看寿兄弟の兄の方)が終盤で指した妙手。本当に詰将棋のように作ったような一手で芸術的である。流石に現代のプロ棋士たちも発見できず、実際の指し手を教えられても感心しきりである。まるで谷川の
終盤のようだと、口を揃えているが、その谷川さえ、手を発見できていない。(渡辺だけは驚異的な直観力で指し手を言い当てているが。)
将棋の場合、基本的には、過去より現在のほうがはるかに強い。その辺、囲碁とは性格が異なる。特に序盤の洗練と体系化が凄まじく、過去の棋士がそのまま現代に現れたら、あっという間に作戦負けになってしまうだろう。
また、終盤の技術も基本的には格段に進歩しているが、しかし、過去において本当に強かった人たちが徹底的に読みを入れた指し手については。現代と遜色ない部分もあるようである。藤井も述べている通り、そもそも、宗看、看寿の詰将棋は、現代でも通用するレベルなのであり、そういう人たちが本気で考えたら終盤が弱いはずはない。
過去と現代の将棋の比較という点から、本書について紹介してみたが、他にも、各棋士の、プロならではの読み筋の一致やあるいは食い違い、同じ読みだとしても形勢判断が異なる大局観の個性、現代的な序盤についての各棋士の考え方、封じ手に対して意識的な渡辺と自然体の羽生の違いなど、様々な興味が尽きない。また、別のメンバーで機会があったら、行ってもらいたい企画である。


というわけで、かなり前に買い込んだ将棋本を、やっとこさ片付けることが出来た。全然新刊案内になってなくて申し訳ありません。あくまで、個人的な読書メモです。


杉本昌隆「相振り革命 最先端」(マイコミ)



第一章 現代相振りの基礎知識
第二章 後手三間5五歩・5四銀型
第三章 先手中飛車VB向かい飛車・三間飛車
第四章 後手△3五歩保留三間
第五章 ▲6七銀保留向い飛車
第六章 感覚を磨く次の一手


藤井の相振りシリーズを紹介したが、そもそも相振り本のパイオニア的存在は杉本昌隆七段である。「相振り革命」「新相振り革命」「相振り革命3」に続いて。本書がシリーズ四作目。かつて金無双が主流だった相振りに美濃囲いでの戦いを持ち込み紹介した。それをこの杉本シリーズで学んだというアマチュアファンも多いようである。
本書は、そうした相振りの歴史を踏まえて、現在指されている最新形に絞って解説している。藤井本でも部分的に現れていた形もあるのだが、進化の歴史というよりは、最新形そのものを集中的に書いている。最近は、最新定跡を書いているプロの本も多いが、その相振りバージョンといえるだろう。
後手三間で5筋位取りの指し方(第2章)、やはり後手で3筋の位をとらずに攻撃態勢をコンパクトに築く指し方(第4章)、先手向い飛車で銀を6八銀のまま保留する指し方など。やはり、相振りの歴史を通じて、自分の形を保留する戦形が、ここでも生き残っている。その辺は、やはり藤井本で流れを確認できたところである。
本書の内容自体は、かなり難しい部類だと思う。プロの実戦の最新形を、そのまま解説している場合が多い。杉本さんの旧著や、藤井本で相振りの基本を理解した上で読むべき本といえるかもしれない。また、とにかく即効性で現在役に立つ戦形のみ知りたい人にもおすすめだろう。
なお、第3章では、先手中飛車の時、後手が相振りにしてきた場合に、先手がどう指すかを解説している。先手中飛車で、初手▲5六歩とするアマチュアにとって、相振りは決して避けることの出来ない道である。先手中飛車党にとって、特にこの章は貴重だと思う。但し、指し方自体は決して簡単ではない。やはり、ここでもプロの最新形を叙述しており、いかに互角に戦えるかを学ぶという感じである。
ちなみに、第一章では、きわめて簡潔に、相振りの現在に至る歴史を概説している。
杉本七段らしく、誠実に研究成果をそのままきちんと本にまとめているという印象。プロの相振りを鑑賞する為にも役立つかもしれない。
杉本七段のコラムも随所に交えられているが、あるファンの方が、杉本さんの相振りの本を全て読んでいます、図書館で借りて、と堂々と言い放ったという話は笑える。杉本さんも、反応に困ったとのこと。やっぱり、なんといっても買ってあげないとね。そういうのをギャグにしてしまうのは、やはり杉本さんも西の人ということなのかなと思った。
コメントを承認制にさせていただいています。反映まで時間がかかりますが、お気軽にどうぞ。
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