棋聖戦

コンピューターの感覚と人間の感覚ー棋聖戦第五局梅田望夫観戦記

棋聖戦中継plus 梅田望夫氏、棋聖戦第5局リアルタイム観戦記

今回の梅田観戦記はコンピューター将棋と人間将棋の比較がテーマだった。解説に最適任の勝又教授を得て(というよりは、梅田の熱烈ラブコールによってひっぱりだされて 笑)、大変興味深い話を多く聞く事ができた。以下は、その感想メモなのだが、私はコンピューター将棋に興味があってごく基本的なことは理解しているが、完全に文系人間で具体的な技術面が全く分かっていない。なおかつ、棋力も大したことは無いという二重苦?なので、もしかすると勘違いによる記述もあるかもしれないことを、あらかじめご了承いただきたい。

(2) コンピュータに不向きな将棋より
コンピュータに不向きな将棋になりましたね。」

 と勝又さんが言う。

 「手の狙いがちょっと目にわかりにくい将棋は、コンピュータには難しいんです。先手・木村さんは5八玉と3八金の形で、8七歩を打たずに頑張るぞという意志を示して、後手の8五飛を拒否したんですが、それで羽生さんは8四飛から2四飛とした。羽生さんのほうは、先手に2八銀という悪い形を強要するために、2四飛から8四飛に戻して二手損をしているわけです。たとえば「5八玉と3八金」の狙いの意味がわかるのは相当先ですね。「8四飛から2四飛」の効果、つまり先手の壁銀が先手にとってマイナスになるかどうかは、コンピュータ的には相当先にならないとわからない。つまり、相手の手を拒否する狙いの効果がずっと先に出るような将棋って、コンピュータには読みにくいんですね。」
横歩取りは、コンピューターだけでなく、弱いアマチュアにとっても分かりにくい。勝又六段の指摘は、そのまま我々弱いアマチュアに対してのアドバイスにもなりうるのである。振り飛車や矢倉なら、弱くてもとにかくどこが争点になる(なりそう)なのかは理解できる。しかし、横歩取りの場合、どの部分がポイントになるかを、まず的確に判断しなければいけないわけだ。
コンピューターの一番の課題は当然手が広い序盤であるわけだが、特に横歩取りの場合は指針方針が立てづらい。また、中住いという囲いとはいえない囲いも用いなければならない、穴熊や美濃と違って、堅さの判断がコンピューターには難しいだろう。例えば、ボナンザは駒の三手間の位置関係によって、囲いの堅さを判断しているそうだが、中住まいの場合は多分三点の関係だけでは判断できない。局面全体との関わりで判断しなければならない。それはコンピューターには難しいだろう。
ただ、全く対策が無いわけではない。例えば、本局では木村の2八の壁銀が最後までたたったわけだが、それは言語化してコンピューターに理解させることは可能なはずだ。金銀に邪魔されて玉が逃げ込めない状態の形に、きわめて高いマイナス評価を与える方法など。現在のソフトが、具体的な壁銀にどの程度対応しているかは不明だが、そういうきめ細かい一つ一つの言語化によるコンピューター教育が、やはり必要になっていくのだろう。

(3) 時速40手の研究のぶつかりあいより
コンピュータの課題は、この43手目まで来られるかどうかなのだと、勝又さんは言う。この「時速40手で進む展開」の裏には百科事典並みの変化があり、それを全部コンピュータに正しく入れるのは無理だから(結論が日々変わるから。最近は定跡に依存しようとするソフトが負けやすい状況とのこと)、この局面に来るまでに、トッププロによる落とし穴にコンピュータがはまってしまう可能性が非常に強いのだそうだ。
定跡の問題も、コンピューターにとっては重大な課題だろう。人間もある程度定跡に頼って指すわけだが、どんなに弱い人間でも、定跡でも何か変だと思った瞬間に自分で対応するモードに即シフトチェンジできる。しかし、コンピューターの場合、その融通がきかない。定跡を入れた部分までは、無条件にそこまで指してしまう。それだと、定跡による価値評価が誤りだったり、日々革新する定跡に対応していないと、少なくともプロレベル相手だと致命傷になる恐れがある。まして、横歩取りのように、激しくて大技が決まりやすい将棋では、その危険が高まる。だから、勝又の指摘のように、定跡に頼るソフトは勝ちにくくなる。本当に無難な間違いのない定跡を短い手数だけ入れておくしかないのかもしれない。
対策として、コンピューターとしては、なるべく直線的でない定跡の戦法を選ぶというのがあるが、しかしそういう力戦だと、先述したようにコンピューターの序盤感覚では対応できないという難点がある。となると、やはりコンピューターに適した戦法は、振り飛車穴熊あたりなのだろうか。とにかく、一目散に囲うことを目指すと。ただ、それも最近は研究が行き届いていて、プロ相手に工夫なしに穴熊にすると、あっという間に作戦負けになるので、きめ細かい定跡入力は欠かせないだろう。
この辺は、素人が考えてもいかにも難しそうで、プログラマーの皆さんが頭を悩ますところなのではないだろうか。要するに、コンピューターの永遠の課題は序盤なのである。

(7) 意表のコンピュータの指し手を控え室で検討。おっ、その手を羽生が指した! より
「この手にどう指すんですかねえ」

 屋敷さんが笑いながら、

 「これ、しびれてますかねえ」と言う。

 この手とは、GPS将棋がしきりに読み筋として指摘していた△4五桂を、ここで指してみたらどうかということである。いまは67手目▲9一桂成に羽生さんが長考しているさなか。

 △4五桂について、控え室の棋士たちの直感は、3三の桂はそのままにして、後手は右辺の駒をさばいていくべき、という棋士の感覚に、コンピュータの感覚はちょっと違う、と言うのだ。
(中略)
そこで羽生さんの手がモニター上にあらわれ、指したのが果たして△4五桂であった。控え室で歓声が上がった。

 「羽生さんは、先入観がないからなあ」とは勝又さん。「コンピュータが、この△4五桂を読み筋に入れているだけで、褒めなくちゃいけない」。
序盤では、コンピューターとトッププロの感覚の差が顕著な将棋だった。、具体的には羽生の△3一玉の構想をGPSが全く読めなかったこと。(ここでも、コンピューターに対する言語化としては、相手の歩がきかない筋にある玉の安全度は高い、というのがあるのかもしれない。今回、人間の感覚とコンピューターの感覚が異なる一方。もしその気になれば言語化できる部分も結構あるのではないかと、個人的には感じた。そのためには、勝又六段のようなプロ将棋の言語化の達人の力が必要だろうか。)
しかし。この△4五桂については、コンピューターの先入観のなさが長所になって現れた。プロ棋士がいうように、とにかく右辺の駒を捌きたいと言うのが人間の感覚、人情?である。しかし、本譜のように△4五桂から先手玉を寄せに行ってしまえば、おわりだったのである。実際、ほとんどこの一手によって、木村といえども受けることが難しく、収集困難になってしまったのである。
羽生のような超一流のプロ棋士の特徴は、常識にとらわれない手を指すことにあるといわれる。佐藤も典型的だろう。つまり、プロであるならば、「ここでこう指すべき」という基本的な感覚は誰もが習得している。そうでなければ、プロになることは不可能だ。しかし、さらに上に行くためには、「プロの常識」を疑う勇気と柔軟性が必要になってくる。羽生の将棋が常に新鮮なのも、どの一局にも「驚きの一手」が必ず出てくるからだ。
そして、実はそういうことは、全く先入観の無いコンピューターが得意とすることなのである。人間の場合、直感的に読む筋を最初から何通りかに限定するが、コンピューターにはそういう能力がそもそもないので、基本的にはあらゆる組み合わせを読む。(技術的に全幅探索と選択探索の差はあるにしても、相対的には人間よりはるかに広く多くの手を読む。)だから、コンピューターが人間の気付きにくい妙手を発見するというのは、当然ありうることなのである。
そして、実はこのことはコンピューターが人間を凌駕する可能性の一つともいえる。現在は、評価関数の制度が高くないので、優劣の評価をトッププロ並にはきちんと出来てないのだが、少なくとも「妙手」をコンピューターは必ず「読んで」いる。あとは、その「妙手」を選択肢の網の目に掬い上げることが出来るように、評価関数の精度を上げればよいのだ。といっても、多分それが一番難しいことなのだろうが。
羽生は人間の指す将棋のチャンプであるとともに、実はコンピューター将棋の最大の理解者なのかもしれない。


(10) 構想力で最高レベルを行った羽生の芸術的将棋より
本局が、羽生の人間的な構想力が最高度に発揮された将棋である。まだ、特に序盤感覚メンでは、コンピューターとの大きい佐賀あることを見せ付けた将棋だった。それを受けて埋めだせはこのように言う。
 『私個人はと言えば、「コンピュータが進歩に進歩を続けて人間のプロの最高峰に挑みながら、紙一重のところで人間が勝つ」ということが相当長く続く未来の戦いを見てみたいと思う。』

 と書いたが、私は、私が見たい未来を、見ることができる、と確信した。相当先までx-dayは来ないのではないかと、私は強く思った。人間の能力の深淵を垣間見た一日だった。
いかにも梅田らしい言い方だと思う。こういう良い意味での楽天性は、梅田のウェブ関係での書物から終始一貫しているものである。ただ、個人的には私はコンピューター将棋に対する人間の優越については、あまり楽天的な見方をしていない。
本局は極端な例であるにしても、現時点では、感覚面ではまだ人間がかなりコンピューターに対して優位にあることは間違いない。それは、勝又六段による絶妙な言語化能力による説明を聞いてもよく分かることだ。
しかし、そういう感覚面の優劣と、実際の勝負というのは全く別物なのである。先ほども、少し述べたがコンピューターの基本原理は、とにかく数多く読むということである。その点だけでは、最初からコンピューターが人間に対して絶対的有利な立場にある。当たり前だ。
それでは、なぜコンピューターが人間に勝てないかというと、読んだ手を評価する「評価関数」部分が、まだコンピューターは人間に全然追いついていないからである。つまり、いくらたくさん読んでも、そのどれが実際に有効な手なのかを判断的なければ無意味だ。その形勢判断能力、大局観、将棋の感覚部分では、まだまだコンピューターは人間に対して後れを取っている。
その「評価関数」部分に関して、駒得のみを重視しない工夫や、ボナンザメソッドの自動学習の導入によって。かなり精度が上がり、そのことでコンピューターは格段に強くなってきている。但し、人間とはまだ差がある。
にも関わらず、既にコンピューターは、既に奨励会二三段レベル、つまりほぼプロレベルに到達している。そのことにこそ驚くべきである。つまり、「評価関数」は、かなり雑駁なのに、それでも圧倒的な読む能力でここまで強くなってしまったのだ。
つまり、人間の美的感覚とは別のレベルで、コンピューターは「勝つ」ことが出来る。そもそも、思考原理が人間とはまったく別なのだ。だから、人間の感覚に全く追いつくことが出来ないまま、コンピューターが勝負だけでは、人間を上回る可能性がないとはいえないと思うのである。
勿論、それは人間にとっては必ずしも嬉しいことではないのだが。そして、個人的には、私も梅田同様に、コンピューターの非情な読む能力に、感覚面でしのいでギリギリで勝っていてもらいたいと願うものである。

「人間の感覚」自体について、ボナンザ開発者の保木さんが言っていることを引用して終わりにしたいと思う。人間の「感覚」というものは、人間が思っているほど絶対的なものではない。少なくとも、人間はそのことだけは、コンピューターから謙虚に学ぶべきだと思う。
面白いのは、当初、コンピューターチェスの指し手は、チェスプレイヤーたちからすれば、揶揄すべきような手であった。「あんな手を指すなんて、やっぱり機械だな」「美しくない、ただ力ずくの手だ」というわけである。ところがそんな中傷に対して文字通り聞く耳を持たないコンピューターはどんどん強くなっていった。そしてディープブルーが世界チャンピオンを負かすにいたって、「コンピューターチェスの指し手には知性を感じる」という印象に変わってきたのだ。これは意外なことだが、人間というものはそんなものなのかもしれない。コンピューターにしてみれば、単なる計算結果なのだが、その一手、たとえばポーンをひとつ前に進めた手に、人間は奥深さを感じた。「渋い!」というわけである。(渡辺明・保木邦仁の「ボナンザvs勝負脳より)

「将棋マニアバージョン」梅田望夫さんの棋聖戦ウェブ観戦記感想 2

棋聖戦中継plus 梅田望夫氏、棋聖戦第1局リアルタイム観戦記
2 大局観

去年の竜王戦第一局でも、梅田は羽生と渡辺の大局観の違いについて、突っ込んだ取材と考察を行っていた。

【梅田望夫観戦記】 (12) 佐藤康光棋王、現代将棋を語る
【梅田望夫観戦記】 (13) 羽生名人、大局観の勝利

普通ならどう考えても渡辺良しと思う展開で、実は自分が戦えることを見切っていた羽生の不思議で秀逸な大局観が話題になった一局である。解説の佐藤康光が、世代による大局観、将棋観の違い、現代将棋の欠点と関連させて説明していた。
今回は、後手の羽生の急戦矢倉に対して、木村が中央に位をはり、それを銀二枚で支える伸び伸びとした陣形を敷き、一方後手の羽生はまるで渡辺のように穴熊に組み替えてひたすら玉を堅く囲って、それをいかして攻めかかろうとする態勢を築いた。
つまり、羽生が世代の違う渡辺竜の指し方を採用したようにも見えた。解説の深浦も「渡辺竜王の影が見えますね、今日の羽生さんの指し方には。」と指摘していた。
ところが、この局面の味方について対局者や検討陣の見方が大きく分かれたのである。
解説の深浦は後手持ち、藤井は先手持ちだった。
対局者の木村は、このあたりの局面では自分が指せると考えていたようである。そもそも、そういう指し方を自分で選んだのだから、それについては納得できる。一方、意外なことに羽生は自分が苦しい将棋にしたという見方をしていた。
「駒が偏り過ぎて、攻め味がなくなって、作戦負けだった。仕掛けられてダメでしょう。先手の銀二枚のおかげで動けなくなってしまった。」
羽生棋聖は、「やる手がなくなってしまって、囲いに行くのではだめですね」と、穴熊は不本意という様子だった。

つまり、玉は堅くなったものの、駒の働きのバランスを欠いているという大局観である。基本的に羽生世代の大局観というのは、このようなものだと思う。ネット中継を見ていてメールをしてきた渡辺は次のように述べている。
現局面は後手持ちです。深浦王位も言っていますが、先手の指し方はいかにも木村流で、△5三銀右急戦に対して、この局面を目指す人は少ないのでは。現局面、後手は暴れれば良いのに対して、先手は丁寧な指し口が求められます。

やはり玉を堅めているのが大きく、あとはうまく暴れられれば良いという大局観である。渡辺は現場におらず、ネット観戦しながら、ある時点だけ見て言ったサービスなので、これだけで判断してしまってはフェアではないかもしれないが、それでも基本的な大局観の違いははっきりしていると思う。
渡辺は、羽生が自分が得意にしている穴熊への組み換えを採用しながら、それでは苦しいという感想を述べたのを、かなり複雑な心境で聞いたのではないだろうか。
しかしながら、羽生は渡辺世代の大局観を無下に否定しているわけではなく、認めるべきところは認めている。梅田の今回の記事中にもこんな部分がある。
羽生さんは、新著「勝ち続ける力」(柳瀬尚紀との共著)の中で、渡辺さん以降の世代について、こんな面白いことを話している。

 『渡辺さんの世代は、その(将棋の)体系化がかなり具体的に形になった時代に育ってきた第一世代です。ですから、将棋が学術的な形で学んでいける環境の中で、成果を吸収したり分析したりして強くなってきています。(中略) 渡辺さんの世代は、一つの形を見て、将来性があるかどうか、とても鋭い判断力を持っているんですよ。(中略) あの世代は、余計な情報、今の段階では使えないような知識はいっさい持ちません。どんな歴史があったとしても、ぱっと先入観なく、分け隔てなく切り捨てることができるんです。ですから、この形はすごく未来が描けそうだとか、この形にはほとんど将来性がない、という見極めはとてもシビアで、はっきり見えています。(p213-214)』

歴史的な先入観。余計な知識にとらわれずに、合理的に形の適性を見抜く力があると言い換えてもよいのだろうか。つまり、羽生は渡辺世代の先入観のない合理的でシビアな判断能力には素直に敬意を払っているのである。しかしながら、当然世代によるものの見方の違いは当然ある。直接的には自分達が強くなる過程で学んだ将棋の影響は避けられないだろうし、間接的にはその世代の人間としてのものの考え方、感じ方の違いもやはり影響しているはずだ。
そういう世代間の大局観の違いに着目して将棋を鑑賞してみるのも面白いだろう。但し、今回の例のように世代には関わりなく個人による差が出ているので、単純に世代の問題で割り切れないいことは、言うまでもない。

3 木村八段のこと

先に述べたように、今回の梅田観戦記は、将棋の内容自体を純粋に伝えるという硬派な側面が強かった。但し、木村八段について書いている部分については、将棋ファン以外にもよく分かるように人間を描いている。木村の繊細さ、他人に対する気配りがタイトル戦では邪魔になっているのではないかということである。そういえば、木村がタイトル戦に初登場した際に戦った渡辺竜王とは対照的である。
渡辺が竜王を獲得した際に、森内と戦った時には、とても初タイトル戦とは思えない落ち着きぶりだった。それどころか。まるで対局場でも我が家のように振舞ったと、ある観戦記者が述べていたと記憶する。また、感想戦でも、森内に対して人をくったような発言をしていたし、当時見ていて、大変な若者が出現したと思ったものである。
そういう部分が木村には欠けているのだろう。でも、それはその人間の個人的な性格なのだから、変えろといっても無理だろう。木村は、A吸棋士になるほどの才能の持ち主でありながら、奨励会をなかなか抜けることが出来なかった。やはり、そこにも人間的な優しさが関係しているのかもしれない。
しかしながら、今回の梅田観戦記を読んで、改めて木村の人間性が好きにっなたというファンも多いだろう。久保棋王同様、何度もタイトル戦に出たりからんだりする力があり、やはりタイトル未経験者の中では、現在間違いなく一番タイトル獲得に近い男である。勿論、本シリーズも含めて。

4 梅田の将棋マニアと将棋啓蒙家という二つの顔

今まで述べてきたように、今回は思い入れの深い急戦矢倉だったこともあるのだろうか、梅田の観戦記は、かなり将棋の内容自体に専門的に踏み込んだ内容だった。将棋ファン向けとも言えるだろう。
将棋というのは、深く理解すればするほど、のめりこむものである。理解するにつれてどんどん専門性が高くなっていき、一般の人間には分からない仲間内の符牒をささやき出す。それが将棋の魅力ともいえる一方で、一般のファンにとっての敷居の高さにもなってきた。
梅田は著作でもウェブ観戦記でも、そういう敷居の高さを取り払い、なるべく多くの人間に将棋を楽しんでもらえるようにすることを大きな目標に掲げている。その意味では、今回の観戦記は、将棋ファンには十分満足のいくものである一方、一般ファンにとっては、やや理解がたい部分があったかもしれない。
しかし、梅田も将棋啓蒙家の役割を意識的に果たそうとしていながらも、同時に将棋の専門性にどんどんはまり込みつつある将棋マニアでもある。今回は、急戦矢倉の戦型、そして見事な解説ぶりをみせていた深浦や藤井が近くにいたこともあり、すっかり将棋マニアになりきってしまっていたのではないだろうか。それは、一将棋ファンとしては、とても嬉しいことだ。梅田さん、ようこそ将棋の底知れぬ魅惑の泥沼の世界?へといったところである。そのように徹底的に将棋マニアになりきることは、将棋を外部の世界により分かりやすく伝えるためにも絶対に役立つはずである。
梅田はよく「均衡の美」ということを言う。対局者二人が最善を尽くすと、局面は絶妙な均衡を保ち続け、それがとてつもなく美しいという意味である。梅田自身の中でも、将棋マニアと将棋啓蒙家の二つの力があり、観戦記を書きだした頃は、後者が優勢だったが、今回は、どちらかというと、前者の力が勝っていたのかもしれない。
両方の要素を求められてご本人は本当に大変だろうとは思うが、将棋マニアの力を強化することでより深く将棋を理解鑑賞しながら、それに見合った形で将棋啓蒙家としてもパワーアップして行って頂きたいものだと思う。そして、二つの力が絶妙で高度な「均衡の美」を保つのが理想形だろう。
と、傍で言うだけなら本当に簡単なんですけれどね・・。

「将棋マニアバージョン」梅田望夫さんの棋聖戦ウェブ観戦記感想 1

棋聖戦中継plus 梅田望夫氏、棋聖戦第1局リアルタイム観戦記

1 急戦矢倉をめぐって

「シリコンバレーから将棋を観る」は、羽生善治の「変わりゆく現代将棋」の話から始まる。矢倉の序盤で、従来はある程度、定跡手順を自動的になぞって指す事が多かった。それに対して、羽生は序盤の本当の入り口の段階の手順、5手目に▲7七銀とすべきか▲6六歩とすべきか、それに対して後手がどのような対策を取ることが可能なのかを、徹底的にこの連載で再検証した。いわば、自明とされる常識的な矢倉の序盤が、本当に棋理を追求したものになっているかを、一度白紙に戻して徹底的に疑い、矢倉戦法の本質を問い直そうという試みである。
そして、後手番で普通に矢倉の駒組みに追随するのでなく、先手の初手からの数手をとがめようとする指し方の一つが、本局で現れた「急戦矢倉」なのである。つまり、急戦矢倉は単なる一つの作戦というだけではなく、矢倉の思想における根本的な革命的意義も備えている。
梅田は、そのような羽生のものの考え方に刺激され深い共感を覚えて、決してアマチュアにとって易しいとはいえない「変わりゆく現代将棋」を耽読した。それは、単に将棋の戦術書を読むというのではなく、他の世界とも通底する本質的なものの考え方の指南書として向き合うという特殊な読み方だったのかもしれない。そこから、梅田は、将棋世界と別のウェブ世界などの共通性、あるいは将棋が別世界を逆に先取りしている意味を、鮮やかに描き出してみせている。
梅田はtwitterで、ひたすら将棋のことをつぶやき続けているが、昨年の竜王戦で、渡辺が羽生相手に立て続けに急戦矢倉を採用した際の過剰ともいえる反応には、一人のfollowerとして、なぜなんだろうという疑問を覚えずにはいられなかった。梅田の著作を読んで、その疑問が氷解したというわけである。
そのような経緯があっての、今回の棋聖戦第一局での、後手番での羽生の急戦矢倉採用なのだ。梅田としては、もう天にも昇らんばかりの心境だったのではないだろうか。無論、羽生は有効な作戦だから採用しただけなのかもしれないが、梅田としては羽生からの強烈なメッセージを感じずにいられなかっただろう。
羽生は時々こういう戦法選択をすることがある。立会人が振り飛車の達人の時に振り飛車を採用したり、解説に来ている棋士が得意とする作戦を選んだり。詳しい将棋ファンなら、多分誰もが知っていることだろう。余裕があるともいえるのだが、羽生には一種他力思想のようなものがある。梅田との対談でも言っていたが、将棋は自分だけで指すのでなく、相手がいるので、とにかく自分のできることはした上で相手に任せるという思想。将棋の対局だけでなく、作戦選択においても、一番勝てそうだという戦法を自分一人で勝手に仮想して選択せず、始まってしまえば自分の思うようには行かないに決まっているので、その場にいる人間が喜ぶ戦法を大胆に採用する。選ぶというより、サイコロの目をふるるような駆けの要素のある方法。出たさいの目の通りにどうぞとでも言うような。オールラウンダーの羽生だからこそ、出来ることなのだが。
とにかく、梅田にとって恐らく現在一番思い入れの強い急戦矢倉になったのだ。そうなったら、梅田の「将棋マニア」の血が沸き立たないわけがない。今回のウェブ観戦記は、かなり将棋マニア向けの専門的な内容になっているという印象を受けた。それは、今述べたような事情が関係しているのかもしれない。
梅田の著作の中で、その後手急戦矢倉の復古ののろしを上げた渡辺が、「変わりゆく現代将棋」を読んだ感想を語っている部分がある。渡辺は羽生の志の高さに反応して、やはり現代矢倉の本質を鋭く問う発言をしていて興味深い。
5手目の局面での後手の利点は(1)角が通っていること(2)金銀の位置を決めていないこと。対して先手のデメリットは(3)角をとめていること(4)▲6八銀と矢倉に決めてしまっていること。この4条件を組み合わせて、後手が対抗出来る形を見出したいと思っているのですが、具体策が分かりません(笑)。「やってみて、ダメならまた新しい手」の繰り返しになりそうだと感じています。
その手段の一つが急戦矢倉というわけである。つまり、渡辺は自明とされる後手の矢倉の駒組みに簡単に従うのではなく、本質的なところで先手の矢倉作戦をとがめる方法を探っているのだ。「将棋の神様〜0と1の世界〜」で渡辺の記事を紹介しているように、渡辺も羽生同様に将棋の神様を意識しながら将棋を指している棋士の一人といえるだろう。
ところで。その竜王戦で後手の渡辺が立て続けに急戦矢倉を採用した二局では。どちらも羽生は敗れている。特に、最終第七局は、最後までどちらに勝利の女神が微笑むか分からない将棋史に残る激闘を、結局渡辺が制した。羽生にとっては、痛すぎる敗戦である。普通に考えれば、思い出したくもないだろう。「縁起の悪い作戦」として、自分では採用しないよう封印しても、何ら不思議ではない。
その作戦を、羽生は採用した。しかも、今回の対局室で羽生はなにかうれしそうだったという。羽生は、個人的な好き嫌い、将棋の勝ち負けだけで将棋を指していないのだ。急戦矢倉という、将棋の思想の根本を考える作戦が、竜王戦に出てきたことを喜び、その意義を素直に認めて、自分でも指してみようという無私の態度。直前の王位戦リーグでは、なんと先手渡辺に対しても、羽生は急戦矢倉を採用している。渡辺も、また十分に対策を練って、逆に先手での新手を試して応じている。
将棋に特許はなく、他人の開発した作戦を誰もが自由に用いることが可能だ。有効とされる作戦は、たちまち大流行し、多くの棋士の実戦や研究を通じて、瞬く間に解明される。つまり、自分の好き嫌いでプロ棋士は作戦を選択するのではなく、有効とされる作戦に「従う」のである。渡辺が再発見した急戦矢倉を羽生が使う。渡辺もまた逆に羽生に返して答えを問うことも近い将来あるだろう。彼らは、自分の主張をエゴイスティックに貫こうとしているのでなく、将棋の神様に忠実に仕えて、将棋の真理を見出すために日々努めている神官たちなのである。
(続く)

棋聖戦第二局・第三局、将棋世界7月号勝又講座

棋聖戦は、一局ずつ勝ったわけだが、両方とも似たところのある将棋である。
表層的には、自玉を十分にかためて攻撃する態勢をとったほうが、結局は一方的に攻めて勝っている。例えば、アマチュアのごく普通のレベルなら多分勝つであろう側が、トッププロ二人の対局でも勝っている。
しかし、局後の感想などを見ると、そう簡単な話ではなく、守勢を取ったほうにも十分にチャンスがあったようである。単に玉をかためて攻めたから勝てるという単純な話ではないようにも思える。「見た感じ」では判断できないレベルの将棋を二人は指しているようだし、そういうところを観戦記等では伝えて欲しい。
第二局については、週刊将棋を読んでみた。羽生さんが△5三銀と引いたのが敗着で、△5六歩とすれば後手も面白かったとのこと。但し、後手が押さえ込みに失敗すれば、たちまち穴熊の猛威がふるう将棋なわけで、実際羽生名人の上手の手からも水がもれてしまい、佐藤棋聖が豪快に勝ちきった。
記事中では触れてなかったが、▲5六角などは一見随分乱暴な手のように見えたのだが、あのあたりでは既に後手はどうしようもなかったらしい。穴熊のかたさをフルに生かして、佐藤さんが豪腕を発揮して力強く押し切ったということのようだ。
第三局も、佐藤新手の「いきなり△5二玉」も、羽生さんがしっかり玉をかためて、玉頭付近を争点にしてしまっては、後手が相当勝ちにくそうに見える。佐藤さんの玉の動きというのは、まるで駒落ちの上手のようだった。でも、控え室もかなり最後のほうまでどちらが勝ちか分かりかねていたそうだし、羽生さんの手もまたもや震えたらしい。一方的な将棋では、さすがにそういうことはないだろうから、「(やっと)▲7三歩成で勝ちになったと思った」、というのは本当なのだろう。しかし、あんなに後手の玉が危なくて一方的に攻められているように見えても、まだ難しいのだというから、プロの将棋はすごいと素直に思う。
相変わらず、佐藤さんの新手魂は健在である。竜王ブログによると、通常は4一から5二とやるのを、いきなり△5二玉とやったのが佐藤流の工夫だそうだ。しかし、当然いきなり玉が動くと、先手も当然それに応じた攻める場所を考えるわけで、今回は羽生さんにきっちり答を出されてしまったということなのだろう。
第二局では、羽生さんが、四手目△3三角戦法を採用。最近、週刊将棋でも、勝又六段の講義があった。丸山さんの得意戦法というイメージがあるが、実は第一局は羽生さんが加藤先生相手に指した将棋である。一応は「羽生新手」で、佐藤さんに対策を投げかけたわけで、第三局とは逆の立場になっている。
この戦法は、後手は居飛車・振り飛車両方の指し方があるのだが、先手が▲7八金とすると、後手は振り飛車にすることが多いらしい。いきなり穴熊に囲ったのが、佐藤さん考案の対策ということで、一応結果的には玉のかたさが生きる展開になった。
ということで、お互いの新手をつぶしあったわけである。この二人は、あらゆる点で張り合っていて面白い。

やっと、将棋世界7月号に手をつけた。最近は、次号が出るのであせって読むパターンばかりだ。やばい。
とりあえず、勝又教授の最新戦法講義だけは、真面目に読んだ。今回は、一手損角換わりの歴史なのだが、やはり面白くて分かりやすい。ネットのおかげで、最近は見ようと思えば、プロの将棋をそれこそイヤになるくらい観ることが可能だ。ただ、一局一局の内容は、なんとなくおぼろげに印象に残っても、それを戦法の歴史の流れの中で理解するのは、普通の素人には到底無理だ。それが、これを読むと分かってしまうのだからありがたい。例に採用されている将棋は最近の有名なものが結構多くて、ああアレかと思うのだが、体系的にどう位置づけられるのかが、私などははじめてこれを読んで知る次第である。
しかも、今回の名人戦の、戦法選択の意味も明快に理解推測できてしまうのだ。第一局で、後手の羽生が、一手損角換わりと見せかけて、ウソ矢倉にしたのは、一手損後手に問題を感じているからではないか。第二局で、森内が「ワンクッション一手損」を採用したのに対して、早繰り銀で対応した(さらに佐藤新手を取り入れた)のが、この戦形に対する現時点での「羽生の頭脳」の中身(この部分は私の勝手な表現です)なのではないか。というのが勝又教授の推理分析である。ナルホドー、そういうことだったのかと納得してしまう。
本記事は第二局終了時点で書かれている。勝又教授の、第三局以降の分析も是非知りたくなってしまう。第四局の、後手森内の一手損角換わり振り飛車も、
第二局を踏まえてのものなのだろう。但し、一番注目すべきは、名人戦だけで三局も出てきた相がかりだろう。どう考えても、これが今後の注目戦法になりそうな気がする。

棋聖戦第一局 梅田望夫氏のネット観戦記

産経ニュース コラム・オピニオン 梅田望夫

まずは梅田望夫氏のネット観戦記の基本的特徴
,呂笋ぁ 迂闊にも後日まとめるものかと思っていたら、当日に複数の超長文記事を5つも仕上げていた。これがネットの性質を生かした最大の売りだろう。ネット中継については、普段から中継担当者たちが練達の達人芸を披露してくれているが、長文の「記事」を当日にこれだけ大量にアップしたのは恐らく初だろう。
△箸砲く文章量が多い。 説明不要だろう。まるで、対局者二人かが膨大な量を読んでいるのに張り合っているかのように。
Jかりやすい。 この記事を書こうと思ってすぐ気づいた。余計なことなど言わなくても、記事を読んでもらえば全て分かるじゃん。
ぐ貳命邑け 記事冒頭に書かれているように、将棋マニアは数的にはさほど多くない。むしろ、それほど詳しくないけれども興味があるという人間が圧倒的多数のはずだ。そういう人間が読んで楽しめるように書かれている。実は、これは梅田氏自身が「ウェブ進化論」→「ウェブ時代をゆく」(→「私塾のすすめ」)の著作で進めてきた方向でもある。ウェブの専門家にだけでなく、なるべく多くの人間に分かるように説明し、一般人にも役立ててもらいたいという願いを、将棋の世界でも実行しようとしているのだ。プロ将棋を、将棋マニアだけの占有物から、「指さない将棋ファン」のみならず、完全な門外漢にまで開放しようとする試み。
グ用豊富。単に、自分の考えたことだけを材料に文章をつづっているのではない。羽生や佐藤との対話を、豊富に織り込みながら、本局に話題を限らず、将棋にも限定せず、一般読者が興味を持って読めるように工夫してある。他者の発言をどんどん取り入れるのは、ウェブで常に自己を他者に開いている梅田氏らしいやり方ともいえる。
Τ閉瓦高い。 しかし、梅田氏の観戦記は、従来の「人間的将棋観戦記」とは、完全に一線を画する独特なものである。羽生や佐藤と親交のある梅田氏は、彼らの将棋に対する突き詰めた取り組み、プロフェッショナルな姿勢、芸術家のような繊細な感性、求道者的な一途さ、といったものに強く打たれているようである。彼らから受けた人間的影響に加えて、梅田氏のもともとの個人的嗜好も関係しているのだろうが、単純化して言うと「格闘技としての将棋」というよりは「アートとしての将棋」という見方を好まれているようである。まるで、素晴らしい絵画や高尚な音楽を鑑賞するかのように、将棋を高雅に高踏的に楽しんでいる。しかし、一方で棋士に対する人間的な関心も失われていない。
Ε漾璽蓮爾淵侫.鶺ぜ繊 梅田氏に対してこんな表現を使うのが失礼なのは分かっているが、勿論ほめ言葉である。子供のようにプロ棋士に憧れ尊敬している。梅田氏自身、普段どんなに激務の最中にあっても、将棋の棋士に会ったり、将棋の話をしている時には、実に楽しげなよい顔をしていると人に言われたと、ブログに書かれていたことがある。ウソだと思うなら、この写真を見てみるがよい。こういうのを満面の笑みというのだ。羽生や佐藤までつられて、すっかりなごんでしまっているではないか。

で、あとは、万が一まだの方がおられたら、是非読まれてみてください、で終わりにしてもよいのだが、大量の文章を書こうという梅田氏の情熱が私にも伝染したのか(笑)、この程度では物足りないので、以下雑感も蛇足で付け加えておこう。

羽生の銀と佐藤の桂
羽生は、「つなぎ」の役割を果たす銀を一番良く使うそうである。駒組みの際にも、駒のつながりをとても意識しているのだと。あの名人戦第三局の終盤で打った△6九銀。敵陣深く打ちこんだ銀が、守りの金を追いかけ回しながら、中段まで生き物のように動いてきて森内の入玉への攻めを「つないだ」とはダジャレになってしまったが。
一方、佐藤の桂の話は初耳であるし、ちょっと意外でもある。桂使いの名手といえば、中原誠である。軽妙に誰にも真似の出来ない桂の使い方をする。しかし、佐藤の棋風は決して軽快ではなく、むしろ剛直である。イメージに合わないのだが、佐藤自身の説明を聞くと、他の駒は自然に使うことになるが、桂という駒は、自分で意識して意志的に使う必要があると考えているらしい。この辺が、佐藤らしい表現だと思う。佐藤は、一番変り種の動きをする他の駒とは異質な桂を、「自分の意志」で使いこなそうとしているのだ。中原が桂に自由に遊ばせているとしたら、佐藤は、自由な桂の動きすらも自分で支配しようとして戦っているとでもいうか。
はからずも、本局のポイントになったのは△2七桂。しかも、打ったその桂を△1九桂成と空成りした。普通では考えられないし異筋の桂なのだが、羽生の角が身動きをとれなくなって、一気に佐藤ペースになった。強引な意志の力の桂打ち。

将棋には闘争心は必要ない、他力本願
羽生が言うには、要するに将棋は一人では指せないということだ。一方、相手が指し手によって主張したことに対して、闘争心で自分の主張を貫き通そうという考え方はあるはずだ。実際、そういう考え方で指しているプロ棋士も実は多いのではないただろうか。しかし、羽生の場合は、お互いのエゴをぶつけ合って強いものが主張を通すというような将棋観とは無縁なのだろう。相手の出方に応じて、その場で最善と思える指し手を自然に選択してゆく。
かつて、島が言っていたことがある、「羽生さんは私が悪い手を指すと、ため息をついたりしてガッカリした様子をするのですよね。アレはこたえます。」と。羽生の場合は、相手が悪い手を指すことを期待することなどなく、最善の手で応えてくれて最良の将棋を作品としつくりあげたいという気持ちがあるのだろう。
それと矛盾するようだが、私は羽生の勝利に対する執念は人一倍だと感じる。しかし、それは単なる勝利へのあくなき執念・本能というよりは、お互い最良の手順を尽くして最良の作品を作り上げるためには、決して欠かせぬ動機という意味合いがあるのではないだろうか。いわば、将棋という神聖な競技においては、「勝つ」という目的に全神経を注がないと将棋の神の意思に反するからベストを尽くすのであって、個人としての勝ちだけが問題ではないというでも言うか。
羽生とはまったくタイプが異なる加藤一二三だが、氏は教会で祈るときに、「対局に勝つこと」ではなく「全力を尽くして戦うことが出来るように」祈るそうである。羽生にも、それと似たようなところがあるような気がする。

科学者の目
対局自体は、△2七桂を羽生が厳しいと感じすぎたために対応を誤り、以降大差になり終局したということのようである。ただし、やはり感想戦で調べてみると難しくなる変化があったようだ。
二人がお互いに「むつかしい」を連発する様子が描かれている。この二人には限らないことだが、一流の棋士ほど、そう簡単には将棋は終わらないし、形勢も簡単に傾かない、双方がベストを尽くして最善手を指しさえすれば、梅田氏の言う「均衡の美」が保たれるものだというほとんど信念のようなものがあるように感じる。
将棋のことがよく分かれば分かるほど、将棋に対してどんどん謙虚になっていくようなところがある。まるで、修行に没頭する宗教者が、かすかにでも神や偉大なものや悟りの存在を察知すると、そういう存在に対して怖れを抱くかのように。「指さない将棋ファン」のひとりであるokadaicさんが、羽生をこう評していた。
「将棋と羽生善治」の関係は、ゲームとトッププレイヤーというよりは、「神と聖職者」の関係に近い
やはり、佐藤康光も「聖職者」の一人なのだと思う。但し、二人は全く違う宗教なのだとおもう、というのが私の言いたかったジョークである。これは将棋マニアにしか喜んでもらえないかなあ。

梅田氏は、「指さない一般ファン」の代表だというが、実は全然「一般」でもフツーでもない将棋ファンである。金子金五郎の観戦記を全て読破しようとし、一般ファンが何十年もかけて読む棋貴を一週間で集中して読破する実験を敢行したりもしている。
梅田氏にとって将棋観戦気を書く上での「ロールモデル」は間違いなく金子金五郎なのだろう。残念ながら、私は読んだことがないのだが、梅田氏のはてなハイクで、一部金子の文章を読むことが出来る。いかにも梅田氏好みな感じのする高踏的にして哲学的な文章である。本質的に梅田氏の将棋観に合致しているのだろう。
「ロールモデル」というのは、すごい有名人でも恥ずかしがらずにあげてみて、自分の性向を分析するのに使ってしまえばいいらしい。なので、私ごときも堂々と言ってしまうと、将棋観戦記のロールモデルは坂口安吾である。安吾の観戦記は、金子とは対照的にもきわめて人間的にして、いい意味で通俗的である。升田、木村、大山、塚田といった千両役者を対象に得て、将棋を通じて人間を、人間を通じて将棋を語るというスタイルだ。
実は、安吾自身も将棋はルールしか知らない「指さない将棋ファン」だった。梅田氏は、終局までずっと対局室に張りついて二人を観察していたそうだが、安吾も分からないまま升田や木村の姿を見つめ続けるのが特技だった。
いうまでもなく、あの二人なら将棋など分からなくても全く退屈しないだろう。その一挙一動をそのまま描写するだけで名記事になる。しかし、羽生や佐藤では、なかなかそういうわけにはいかないだろう。佐藤の場合A級順位戦というすごい例があるが、あくまでアレは特例だろう。梅田氏も二人の対局姿の描写を試みているが、それほど強烈なものというわけにはなってていない。むしろ、梅田氏の観戦記で面白いのは対局以外で二人が語った言葉である。二人が、どのように将棋という「対象」に向き合い取り組んでいるかの描写である。
安吾の観戦記では、あくまで個々の「人間」が主役であり、「将棋」はそれを引き立たすひとつのゲームに過ぎなかった。しかし、梅田氏の観戦記においては、あくまで「将棋」自体が主役であり、登場する個々の「人間」は将棋という神聖なものに仕える存在である。いかに、羽生や佐藤が個人として傑出していても、二人ともあくまで将棋という神聖なる対象(神)に使える聖職者なのだ。
昔と違って将棋に人間味がなくなってつまらないというのは、ある意味正しいのかもしれないが、しかし、それは「将棋」の真理をより深く究めるようになったために、「人間」が「将棋」に謙虚に仕えるようになったからだともいえるだろう。
その魅力を正しく伝えるのは、昔と違ってむつかしい。棋士の人間的魅力を言えばすむという話ではないのだから。梅田氏は、独自の手法で、そうした現代将棋の魅力を、一般の人間にも伝えようとしているのかもしれない。
これだけの情熱的な観戦記を読ませたもらった以上、梅田氏も「聖職者」の列に加えても構うまい。
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