Shography's blog

何でもいいの

2009年07月

毎日書道展

第61回毎日書道展。7月8日から始まったが後期展のⅡ期、(最後の最後の期)は昨日から始まった。都美術館で行われていたこの展覧会は、新国立新美術館ができてから、こちらへ移ったのだが、展示の仕方が非常に複雑で、初めて見学する人に説明するも、呑み込むのは難しいのではないかと思われる。今日は、自分たちから「見学したい」という友人二人と一緒だったが、彼女たちは思いがけなく非常に興味を示してくれた。この後期展は「かな」、「近代詩文」、「大字」の展示なのだが彼女たちにとって、特に近代詩文書がおもしろかったようだ。多方面から言葉、文章を取り入れたり、その表現が多様であることに関心を示し感心していた。先の私のブログの記事で触れたように、「感じてくれればいいのよ。」と言うものの、何か私が思うことを言ってあげた方が彼女たちにもっとおもしろく見られるように感じたので、ちょっと、その作者が意図したであろうことの蘊蓄を垂れると、図らずも「朗読と一緒ね。」(この二人は朗読の仲間)という反応があってびっくりした。先日、私がそのことをブログに書いたばかりだったから。
Mainichi Calligraphy Exhibition  2009
 
    磋 みがく   polish or cultivate

「今度は何と言う字を書いたの?」と事前によく書の仲間に聞かれた。私は、「石偏に差・・・、差額の差・・・、差別の・・・」などというと、尋ねた人毎に、「ああ、切磋琢磨の・・・」という。あ、そうか、そう言えばすぐわかるのかと思っても、自分ではその言葉があったことも気にしないで書いたので、そう言うふうに説明するのは憚る。では何を思ってこの字を選んだかというと、辞書をめくっていて、ただこの字が一字書として効果的に仕上がりそうな気がしたからだ。しかしそれだけで字を決めることはない。その字は何を意味するかはその字を採用するには大切だ。「磋」は「みがく」という意味がある。それならばその字を書くに値すると、まあ、今回はこのように字を選んだ。しかし人によって字選びは様々である。


(近代詩文書 )     
Poem by Robert Browning, translated into Japanese by Ueda Binn

春の朝(あした)・ロバ-ト・ブラウニング・上田敏訳  (雪影・書)
        ( 2月6日当ブログに同じ詩をかいたものを載せている。)


  上の写真は拡大できます。




毎日書道展に、「U23」 というものが設けられている。23歳以下の若い書道人を育成、応援すると言った意味で、出品料なども一般より安くなっているようだ。若い人たちらしく英語を挿入したものや、斬新な作品があっておもしろい。次の作品、びっくり仰天。こういうことをしていいのかわからないが皆さんにも紹介したくて、写真を載せた。この作品はとても遠いところから、目に付いた。



何を書いてあると思います?
或る小説、一作がまるごとこの一枚に収められています。まるで、電子辞典を読んでいるよう。あ、今閃いたが、これは、もしかして電子辞典(ブック?)にでも載っていたのではないだろうか。本の作者、題名はしばらく伏せておきましょう。


この「書」は決して読むものではありませんね、これは断じて見る作品です。(でも、時間と勇気のある方は読んでもいいのですよ。)

上のU23の方の書は、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」全文。物語の冒頭の文と最後の文を認めました。まさか、中略なんてけちなことはしていないでしょう。


平常(たいらじょう)の人形劇 「オズの魔法使い」

「京急線」という電車に初めて乗った。たいらじょうの今回はミュ-ジカル仕立ての人形劇。会場へ行くには私の最寄駅からは池袋、品川を経てそこから京急線で新馬場で下車、徒歩3分との情報。6時開場、6時半開演には駅に早く着いたが、そのつもりもあったので、駅を降りてすぐに目に入ったドト-ルの店に入った。飲み物、サンドをオ-ダ-すると、店員さんに尋ねた。「三こうかいホ-ルへはどう行けばいいのですか。」応対の丁寧な非常に好感の持てる青年、少し考えて、「六こうかいですか?」 私「あ、そうそう六行会です。」とチラシの文字を思い出しながら、どうして数字を半分にしてしまったのだろうと笑ってしまった。青年は分かりやすい説明をし、すぐですよ。五分ほどで行きますからという(チラシの「徒歩〇分」はどうしていつもサバを読むのだろう)。それから彼は「今日はこちらで何か催しでも?」と続ける。私が言いたいことを察しでもしたかのよう。私は彼がたいらじょうさんのことを知っているような錯覚を起こし、「人形劇のたいらじょうさんの・・・」と微笑んで答えた。今時、店員さんとこんな爽やかな会話ができたのにすっかりいい気分になった。


それにしても私、たいらじょうさんの「おっかけ」になるかも知れない。
http://tairajo.com/jo.htm


続きはないのですが、ひとりでにこれが挿入されます。↓


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ほいほい、訂正を・・・・・

昨日の、記事で書を「見る人に気持ち良く見てもらおうと努力する」と書いたが、昨日、そう書いた時点でこれは少し自分の思いとは違うなとということは感じていた。作品を作る時は決してそんなことは思ってはいないはずだ。見る人がどう思おうが勝手であって、「それぞれに感じてください。」というのが本当の気持ちだ。「気持ちが良くなる」というのは、自分が他人の作品を見て、いい作品だと思う時の感情だ。
昨日の記事に早速反応してくれた方も、そこのところに引っかかっておられるのに違いない。


「パンが焼けた。」との声。ちょっと中断。


 


先日、書道のお稽古(月例の作品を提出と、展覧会の前には、家で書いたものを見ていただくことを「お稽古」と言っている)で、月例の仮名作品として、こんなものを持って行った。最近苦し紛れによく書いている、上田敏の「海潮音」からの詩の一節だ。そうすると、師はこんなことを言った。「その詩が自分が気に入ったからと言って、またその詩の内容を人に読ませようとするのなら、活字を読ませた方がよい。書としては、僕はこちらを取る。」と、何枚も書いたこちらではなく、前にブログに載せたことのある下(これそのものではなかったかも知れない)「実篤の言葉」の方を採用された。自分でもこちらは捨てがたく思っていたもので、そのような先生の意図を感じていたからこそ、持参していた一枚だった。


 奇を衒ったものより、奥ゆかしいのがよいという訳かも知れない。


 



これから、シリ-ズ的に書こうと思っていた「海潮音」からの作品は、文字が多くくなると筆が割れることもあって、しっかりした筆遣いができていないということもあるので、そこをクリアしたものができれば続けられそう。


「書」と「朗読」はよく似ている。

先の投稿からの続きだが、一気に行った方がよさそう。明日などと思っていると、もう面倒になってしまって記事にしない可能性がある。
「何事にも共通する」という話で、私は「書」と「朗読」は非常によく似ている、引いてはそのことは「人生」に通じると思っている。
書も朗読も、人に見てもらう、聞いてもらう場合は相手にいい気持ちになってもらわなければならない。人を構えさせたり、独りよがりなことをやっていると、相手はそっぽを向いてしまう(そうそう、俳句もそうだ。俳句の先生がよく作った句を「独りよがり」という言葉でたしなめる)。
初めから最後まで一本調子ではよくないし、どこかにポイントを置いて気を引くところを作るが、その場所を心得なければいけない。奇を衒って自分だけ悦に入ってはいけない。たまに極端に走りたい気が起こることがあるが、それをやってしまっては必ず師には見抜かれるし結局はいい作品とはならない。個性がなくなるということではないが、「素直に」にというのはなかなか難しいことでもある。

(ここで、前の記事にコメントが入っているのを読んだ。遊工房さんからだ。私のことを最初、「女史」だと思ったって。単なる「女子」なのに。私とちょっとでも一緒に居てみたことがある人は、そのおっちょこちょいさにに呆れていることだろうに。私は遊工房さんこそ、近づき難い人だと心から思っている(遊さん、仕返しだゾ!)

で、何が人生に通じるかって? 八方美人になるという訳ではないが、人生(生き方)は上に書いた書や朗読に似ていると思うのです。そして、絵をやっている人、政治をやっている人、それぞれその人がやっている何か一つのことは、全てに共通しその人の生き方に繋がっているのではないでしょうか。と思った次第です。私は浅はかですから今はこうです。そのうちに異論に左右されます。


一事は万事に通じる

タイトルのように思っている方は、沢山いらっしゃることと思います。つまり、何か習い事なり、趣味なり始めた場合、共通の道理?理論?(こういう場合どういう言葉を使うのかわかりませんが)、「普遍性」とでもいうのでしょうか、そいうものがあると思います。

先日、書道展で、展示してある作品を見て、「今年もわからない字ばかり」と不満気に会場を出て行った人がいます。「読めない」という人には「では、あなたは漢字を全てご存じの方ですか?」と聞いてみたくなる。作者は、制作の時は、漢詩ならば文字は勿論、意味もよく理解した上で(それなりにですよ)作成するので自分の作品のことは説明できても(時間を経るとわからなくなることもある。)他人の作品の中の文字や内容がわからないことはよくあります。学者ばかりが書をやっているのではないから不思議なことではないのです。言いわけのように聞こえるかもしれないがそういうことはありえるのです。
また、「読めない」と言った人たちが比較的読み易いと思われる、楷書や行書ばかりを、小学生の「書き初め」のようにきれいに整えて書いた作品ばかりが会場に並んだのでは、それこそ気分が滅入るかも知れません。
「書は、絵を鑑賞するように見てください。」とよく言います。文字は読めるに越したことはないのですが、百文字や二百字もある作品を「読めなければ」と思う必要はなく全体の景色を見て、感じてくださればいいのです。(展覧会に依っては作品の側に釈文がつけてあることもあります。)作者はなるべく、見る人に気持ち好い印象を与えるようにと努力します。この「気持ちのよい印象を与えるように」ということが先の「普遍性」に繋がるのですが、これからの肝心なことは、少し休んだ後で・・・・・。


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花てぼ



絵は誕生日(2月14日)の花。遊工房さんよりいただきました。

「花てぼ」とは、九州で昔、子供が野に出て遊ぶ時提げてまわった素朴な 「かご」のことです。よく、れんげや、つくしなどを摘んで遊んだものでした。

「Shography」とは私の造語で、書道のShoと、「書道」の英語、calligraphyから捩ったものです。

埼玉県在住
朗読することが好きですが、故郷・長崎のことばで語るのも楽しいです。
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