Shography's blog

何でもいいの

2014年12月

お煮しめを火にかけ、鱠を作る途中なだけ・・・

皆様へ

今年も思うように、ご訪問もできませんでしたが、この不束者をお見捨てにならずいろいろと親切にしてくださり、優しいご厚誼を誠にありがとうございました。どちらさまにも心より感謝申し上げます。来る年も何卒よろしくお付き合いくださいますようお願いいたします。どうぞ、みなさまよいお年をお迎えください。

・・・・って、こんなふうにいつもご挨拶ができれば上等でしたが何しろふつつかもので・・・失礼をお詫びします。

               真心こめて 花てぼ   

11年前のこと・・・④(完)

昨日は、志村家での望年会を途中ですっぽかしてしまった。みなさま、大変失礼しました。これを載せようと頑張っていて居眠りしてしまったのです。

「11年前のこと」は、遡って①からお読みください。

このようにして、私がアメリカを訪れた翌年、佐藤先生率いる20人ばかりの「「日本伝統芸術研修旅行団」の一行が九州から東京まで、見学したり体験したりしながら北上してくるという旅行がありました。

九州では私の郷里の陶磁器の町、波佐見に一泊してもらいましたが入間にも立ち寄ってもらいたいと入間の国際交流協会に話を持ち掛け、そちらの主催で交流会をすることになりました。

佐藤先生の「21世紀の文化交流」と題した講演会や、アリット青丘庵でのお茶の交流(この一行の中にはお茶やお花の先生もいらっしゃるのです)、また着物の帯結びのショ-、入間の芸能の獅子舞など見ていただきました。何人かは入間で一日だけのホ-ムステイをしましたが、この旅行の中で一番印象的だったのが入間でのホ-ムステイだったという嬉しい声を後ほど聞きました。又、この旅行のすぐ後に、この時のホストとゲストの交流がアメリカであったそうです。


さて、人は一連のこの私の行動、つまり、新聞社に手紙を送り、佐藤先生を知り、アメリカに行き自分の夢を実現させ、挙句の果てには入間市に一行を招いて交流会を持つところまでやったとその行為を褒めました。

でも私は自分だけがこういう人たちと関わって自慢話のように人に語るだけなら全く意味のないことだと思っていました。今もずっとこの姿勢は続けて行きたいと考えています。


幸い、その後も先生と私のファックスでの文通はずっと続いていますので入間の方がたにはその後の報告のようなつもりで、先生の手紙を時々「国際交流ニュ-ス」に載せてもらっています。例えば佐藤先生が再びある大学で「日本伝統芸術コ-ス」の一学期間を受け持たれることになったなど紹介した時は「自分の為、或いは子供の為にも少し詳しく聞きたいなどという反応はないものだろうか」と期待していましたが残念ながらありませんでした。

私自身はあちらで知り合った人達とは、時折メ-ルの交換をしたり、クリスマスカ-ドのやりとりなどします。

それから、四年前にアメリカへ行った時のそのクラスの為にはその後も毎年、書の手本を送り、私が書いたものを「《ほんみょう》賞」として書道で一番よかった人に差し上げるということになっています。


そして、嬉しいことに四年後の今年、つい二か月前ですが、今度はあちらから招かれて(別のクラスですが)書の指導に行ってきました。

ああ、これで(あちらから招かれたということが)ほんとにほんとの夢が叶うと思いきや私の気持ちの中で問題が起きてきました。

自分自身の書のありかたについてです。

先ほど、書の勉強を続けるには大変なお金がかかることをお話しました。数人の生徒に教えるだけではとうてい賄いきれません。

それでも二年ほど前までは他にアルバイトをしていましたのでそれで何とかなっていました。逆に考えればそれがあったので書道の方の生徒集めは熱心にやらなかった、怠ったということが言えます。

アルバイトというのは児童英語のインストラクタ-なのですが、この時の採用試験でも私は資格などは別になく実力だけで臨みました。これは自慢をしているのではなく、その思いを持っている人は勇気を持ってチャレンジしてみるといいですよと言いたいためです。その試験は私よりはるかに若い人達と一緒に受けましたが、5人の中で2人が受かって、私はその後10年間も仕事をすることができたのです。

ところが2年前、その教室が閉鎖の為、仕事を辞めざるを得ませんでした。その後も「夢よもう一度」と新聞広告が出てると電話をかけました。でももう年齢の為に掛け合ってくれません。「この生きてきた年齢こそが資格だ!」と叫んでみてもそううまくいく訳がありません。近頃は全く観念しています。


今、私の脳裏を常にかすめているのは、この自分の書をなんとかしなければならないということ。「あなたが退職したら、私が書で稼ぐから」と夫に言った手前もありそのことを考える毎日です。(夫はいつも協力的で、それに掛かる費用などは快く出してくれていましたが)

そして今、そのことについては少し具体性を持った計画を考え中です。それは今、ここで話すことではないようですので止めておきます。

ここで言っておきたいと思ったのは、私の場合、今まで話してきたことをボランティアと言うならば、この楽しいボランティアを止めようとは思いませんし、その必要もないことですが、場合によっては自分の収入に少しは余裕がなければやりたいことも制限されるかもしれないということです。


そろそろまとめに入らなければと思います。
ここでもう一つ、私を支えた言葉をご紹介したいと思います。それは“当たって砕けろ”という言葉です。何からの引用かは知りませんが《今思うと特攻隊のそれでもあるのでしょうか、恐ろしい!》、これは私が高校を卒業して就職試験で悩んでいた時に父が言いました。「当たって砕けろじゃないか。」と、ま、受けてみればというふうに言いました。この「砕けろ」というのが「挑戦だけはしてみろ、あとはボロボロになっても」という意味なのか「体中が砕けるほど情熱を燃やせ」というのか、未だによくわからないままでいますが、とにかく私は積極的な意味にとりましたので、その後は何事かに向かう際にも、しばらくは躊躇するこことがあっても、いつもこの父の言葉が浮かんできて「え-い、当たって砕けろだ-」と飛び込んでしまうのです。そして何度も砕けてきました。
そしてこの言葉こそが私の今日の発表のキ-ワ-ドともなっていると言えます。
皆さんも、これからまだまだ先は長いです。当たって砕けてみませんか?
私の拙い話を聞いていただきましてありがとうございました。


もう一つのプリントは今日の私の話が全く皆さんの為にならなかったという場合の「つっかい棒」として持ってきました。これは私がこの夏にアメリカへ持って行って大変喜ばれたものです。自分の名前がカタカナで書くことができることがわかって大喜びで次々に友達の名、家族の名を書いて話が弾みました。

外国の方と一時的なコミュニケーションに使えます。

また日本人の間でも、カタカナ、ひらがながどのようにできたかをあらためて思い起こしたり知らなかった人には楽しんでいただけるのではないかと思います。

ありがとうございました。

             (2014年12月29日 再録・記録)

11年前のこと・・・③

(お配りしてありますプリントの内容と重複しますが、それは家でゆっくり読んでいただいて今日の話と照らし合わせて下さればと思います。)
さて、その本題ですが、私は長年購読しています、Mainichi Weekly という新聞で佐藤省三先生という方を知りました。先生は40年以上も前にイリノイ大学に招かれてアメリカに渡り日本の伝統文化をずっと紹介してこられました。

この先生の「和のこころ」と題した、お茶、お花、おもしろいところで歌舞伎、後に「墨の芸術」(墨絵)といったことについてエッセイがシリ-ズで掲載されてきていました。私はこのシリ-ズの2、3週目を読んだ頃でしょうか先生の生き方に共鳴し、先生のことをもっと知りたくてそのように編集部へハガキを出しました。ところがこの担当の方が直接アメリカの先生の所へこのハガキをファックスで送られたのです。

ある日突然、先生からお返事のファックスが家に届きました。私はもうびっくりするやら大変嬉しかったですね。

先生はイリノイ大学を退官後、北カリフォルニアのフォ-トブラッグという所を拠点に、日本の伝統芸術をアメリカの各地で紹介する仕事をなさっていました。

私は外国に書を紹介したいと思うきっかけから、最前話しましたような自分の思いを情熱的な文で綴り、又、アメリカの人たちが日本の文化をどのように学び、どのように感じているのか知りたい旨のファックスを送りました。

そしてまた、先生からお返事がきました。「それでは、毎年夏にアメリカの各地から集まってくる人たちのための二週間ばかりの墨絵の講座があるのでその機会に一度来てみないか」ということでした。私はすぐにその講座を受けることに決めました。そして先生をアメリカに訪ねたのです。12.、3人の私のクラスメ-トとなる人たちは退職した人たちで元、美術の先生などでした。

この墨絵の講座の初日はいつも書道を取り入れるということで私にその書道の時間を受け持たせてくださいました。

このようにして、今まで習ってきた書を、自分の力でアメリカの人達に紹介するという夢が一つの形として叶った喜びを感じたのでした。

つづく

11年前のこと・・・②

・・・・で、一足とびに、今から25年ばかり前のことになりますが、夫の転勤で、私は北九州からここ入間に引っ越してきました。と同時に私は自分の子供たちと一緒に書道を始めました。35の手習いでした。

ところが、それまでの自分の頭の中には書を習うという考えは全くありませんでした。ですから頭書は人に教えるとか師範の免状をもらうとか一切考えていませんでした。しかし間もなく書はおもしろい!そして英語も相変らずコツコツとやっていましたので、それならばと、書道と英語をドッキングさせてはということを考え始めました。

日本では、書道は学校でも塾でもよくやりますがこれもややもすると競書会の為であったり学校の成績の為であったりします。

大人となりますとやらない人は「字が下手で恥ずかしくて」などと言い、またやろうと思った人は「字が上手になりたい、精神安定のために」と言って、こういう人が公民館の書道の会などに入って来て、三回目ぐらいになると急に家の方が忙しくなり始めますね。お孫さんの世話をしなければならなくなったり、急に足腰がいたくなったり、ご近所にお葬式ができたりします。そして退められます。

もう一つは動機は何でもいいのですが、書道を始めて何とか困難を乗り越えて、師範の免状をいただいたり展覧会に出し始めたりするグル-プが出てきます。私も今、この中にいるわけですが、この辺まで来た人は書がおもしろくなります。


しかし、一方、この世界、日本の伝統芸術とはみなそのようなものですが、勉強するのに何とも出費が嵩みます。また、気持ちの上で、割り切れない、やりきれないことが多いです。

そんな中で、外国の人に書を紹介するという夢を持つことは私にとって最大の楽しみであったわけです。次第にそれは夢であると同時に自分の使命だと思うようになりました。と言いますのは、書というものは、世界的に見てまだまだ稀なことで絵画や音楽のようには行きません。外国でも一部展覧会は行われていてそのような機会に大家がサ-っと一筆デモンストレ-ションを行ってサ-っと帰ってしまわれるといった印象があります。

それならば、大家ともならない、しかし、一応基礎は学んで書に対する自分なりの考え方を持つことができたとする者として華やかでなくていい、草の根的に書を広めて行けたらという気持ちを強く持つようになったわけです。


では具体的にどのような形で取り組んで?・・・・などとそのような大げさなことは一切ありません。ごく日常的な成り行きの中からとお考えください。

少し、例を挙げますと入間市に国際交流協会というものがあります。私はその市民スタッフの一員でもあります。

この協会では、日本語教室が持たれていますが、その生徒さんたちへの書道教室を何回かのシリ-ズで行ったり、単発で頼まれることもあります。

また、私は旅行者であれ、ビジネスマンであれ、知り合いになった外国人には必ずこう尋ねることにしています。「私は書をやっています。あなたは書に興味はありませんか?」って。日本に来るような人はほとんど興味がありますね。もし、可能であれば家に招いて筆を握らせたりします。その人にとって、ほんの一時の経験であったかも知れませんが帰国して何かの折にそのことを思い出して周りの人たちに話をしてくれたりすることがあれば、それは立派な交流ではなかったかと思うわけです。

そうこうしているうちに、私は、この為にアンテナを張りめぐらせていたのだとも思われる思いがけないことが四年前に私に起こりました。

最近、私が大変共感している言葉に

“偶然は努力した者にのみ訪れる”とか
“偶然は準備のできていない人を助けない”というのがあります。

この二つの言葉は、同じことを言っているかも知れませんが後者はパスツ-ルの言葉らしいです。そしてこの言葉を私が今、じっくり味わっていることがこれから発表します今日の主題です。

焦っていて、まだ推敲もなにもしないまま載せています。お見苦しい点があるかと思いますがご了承ください。
まだまだ続きます。


11年前のこと・・・①

手元にある原稿を書き写しているのですが。長いですよ。とてもとても長いですから今半分ぐらいをワ-ドで作りましたが完成は明日になるかもしれません。11年前、ある講座の講師など頼まれて初めて人前でしゃべったのですが、何回も家でシャド-スピ-チなどしましたのでうまく行ってすっかり自信をつけることができました


第一回 市民のいるま塾  2003年10月11日

〔テ-マ〕充実した中高年の生きがいづくり

国際交流ボランティア  《ほんみょう》



ただいまご紹介に預かりました《ほんみょう》でございます。今日はよろしくおねがいします。「生涯学習をすすめる市民の会」の皆様にはこのような発表の機会を与えてくださいましてありがとうございます。

ここにも記していますように(講師紹介のチラシが配られていた)、私は朗読のグル-プに入っていますので人前で本を読んだり、何か書いてあるものを読むというのは何回か経験していますので楽なのですが、このように原稿なしで、いやもうしっかり書いてきましたが・・。このように大勢の方の前で話をするというのは私にとって最も苦手なことです。

  ですから、私が途中でつっかかったり言葉を失うようなことになりましても、どうかみなさん、シラ-っとしないで私を応援する気持ちで暖かい眼差しを送ってくださると大変助かります。

さて、今日の私の発表の題が“国際交流ボランティア”という厳めしい大層な題になっていますが、これから私がお話しますことが、必ずしもこの題にあてはまっているか、また皆さんの期待に添うものであるかちょっと心配ですが、或ることを焦点に私の体験談として話してみようと思います。


私が、初めてボランティアという言葉を聞いたのはいつ頃のことだったでしょうか。私たちが若いころは「奉仕活動」とでも言っていたように思いますが、とこう言おうと思っていましたら、この講座の初回で、T先生が日本ではボランティアが1970年代に盛んになりだしたとお話なさいました。そしてやはりそれまでは「奉仕活動」と言っていたということも仰いましたね。それからもう一つ、ここにおられる参加者のお一人が、「ボランティア」の言葉の意味をお尋ねになった時、T先生はボランティアの定義のようなことをお話になろうとなさいましたが、実は私もこのことがよくわかりません。今、日本でボランティアとはどうすることをボランティア、ボランティアと言っているのだろうと。私はこのことがよくわからないまま、言葉の意味で単に「物事を自ら進んでやる」と言った程度に考えた、今日の私の話になりますのでよろしくお願いいたします。

さて、私が20歳の頃のことだったでしょうか。或る新聞に「古切手を集めてネパ-ルにBCGを送ろう」という記事が載りました(それ以来私は古切手を一枚たりとも破ったり捨てたりしたことがありません)。それと同時に、岩村昇先生という、当時、鳥取大学の教授がネパ-ルで医療の奉仕活動をなさっているということを知りました。そしてそこにはまだまだそういう活動をする人が沢山必要ですとかいてありました。私はそれを読んで血が騒ぎました。私はそのころから、何か海外へ飛び出したいとか留学したいなどと思っていました。今の生活から脱出というか、現状打破したいということもあり、私は「私もネパ-ルへ行って何かしたいのです。」とその時手紙を書いたようでした。と言いますのは、最近偶然、岩村昇先生直筆のその時の返事のハガキを見つけたのです。そのころの確かハガキ5円のもので、青いインクが滲んでいました。

そこに何と書いてあったかと言いますと、「あなたはまだ若いですから、これからいろいろ勉強をして、何か専門的なことを身に着けて、その時を待ちなさい。」と言った意味のことが書いてありました。

私はその時初めて単に憧れや自分は健康なのだからそこへ行きさえすれば何か役に立つだろうという甘い考えでは通用しないのだと、その時つくづくそう思ったような気がします。そしてまた、このことが、そういう風に思ったことが、今考えるとその後の自分の在り方となる原点であったように思います。

さて、私は中学の頃から英語が大変好きでした。他の教科は全然駄目なんですよ。特に理数系などとんでもないのです。いつも英語に触れていたいと、それで何か英語を使った仕事につきたいと考えるようになっていました。


どのくらい長く載せていいのかわかりませんのでここで一旦切ります。


 

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花てぼ



絵は誕生日(2月14日)の花。遊工房さんよりいただきました。

「花てぼ」とは、九州で昔、子供が野に出て遊ぶ時提げてまわった素朴な 「かご」のことです。よく、れんげや、つくしなどを摘んで遊んだものでした。

「Shography」とは私の造語で、書道のShoと、「書道」の英語、calligraphyから捩ったものです。

埼玉県在住
朗読することが好きですが、故郷・長崎のことばで語るのも楽しいです。
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