元革新的国家公務員が伝えたいことー自由と民主主義を信じ国益を考えるーAiming at an innovative official of the national government

36年の公務員生活で培った「防災・復興法制」「都市計画法制」の知識を広く共有するため、書評を通じて、関係する新しい論点を示します。なお、意見にわたるものは個人的なものであり所属する(した)組織の意見や立場ではありません。

『小村寿太郎』を読んで、『ポーツマスの旗』ほどドラマチックな仕事ぶりではないな。


関西外語大学の比較的若手の先生が書いた本。

小村寿太郎は、吉村昭『ポーツマスの旗』とか、岡崎行彦『小村寿太郎とその時代』では、超人的な交渉能力をもつ人物として描かれており、自分もその印象が強かった。

この本では、より学問的に緻密に分析をして、超人的というよりは、「地味」「非社交的」で外交官としては欠点をもった人物として説明されている。

小村は、いわゆる「貢進生」として、明治維新の元勲の次の世代として、明治政府の基盤を作った人物。混乱期から制度を作り上げているという立案者と、制度を運用している官僚の両方の側面を果たす必要があったため、外交官としては失格ともいえる非社交的な性格であっても、日露戦争の後のポーツマス条約締結などの場面で活躍することができたとも言える。

制度が成熟している現代では、外交官として務まらないかも知れない。

とりあえず、小村寿太郎の経歴を整理すると以下のとおり。

小村寿太郎
こむら-じゅたろう
1855−1911
明治時代の外交官。
安政2年9月26日(安井小太郎撰の墓誌では16日)生まれ。ハーバード大に留学。外務省にはいり,政務局長,外務次官などをつとめ,対清(しん)(中国),対韓国外交にあたる。第1・第2次桂内閣の外相となり,明治35年日英同盟をむすぶ。日露戦争のポーツマス講和会議では全権をつとめた。43年韓国併合を実施。44年不平等条約の改正に成功,関税自主権を回復した。侯爵。明治44年11月26日死去。57歳。日向(ひゅうが)(宮崎県)出身。東京開成学校卒。
【格言など】(ロシアに対して)即ち一は交戦をも辞せざるの決心を示すこと(日英同盟に関する意見書)
"こむら-じゅたろう【小村寿太郎】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2022-05-17)

その他の気になった記述をメモする。数字はページ数。

(1)基本的に社交を好まない小村の性格は、外交官としては大きな短所だった。これ以降に赴任した外国でも、人脈を積極的に広げない彼の非社交性は、常に欠点であり続ける。81

(2)実は日英同盟交渉は、日英独三国同盟交渉というかたちで、駐英ドイツ臨時代理公使エッカルトシュタインが提案して、一九〇一年(明治三四)三月に開始されていた。ただし、この提案はエッカルトシュタインの独断だったので、ドイツは交渉から離脱し、日本とイギリスだけが残ったのである。97

(3)小村の強硬な反対によって、桂・ハリマン予備協定覚書は潰れた。このとき南満州鉄道の日米共同経営が実現していれば、満州をめぐる日米対立や一九四〇年代の日米戦争は起きなかったという説もあり、小村の評価が分かれるところである。172

(4)(1908年に米国のノックス国務長官主導で満州鉄道中立化案を提議したことについて)権力政治が渦巻く国際政治の舞台で、正論を放つのは素晴らしい。ただ、その正論は、現実をしっかりと踏まえたものでないと、ノックスの提案のように、しばしば最も望ましくない結果をもたらすのである。204

(5)(元老の関与を最小限にして内閣と外務省主導で行う)このような小村の外交手法は、非民主的でエリート主義的だった。しかし、その一方で、外交政策を政争の具にしない強みがあった。217

(6)(第一次世界大戦頃から)多くの仕事をこなせる能吏型の外交官が好まれるようになってきた。小村が行った外相個人の力量に大きく依存する個人外交ではなく、外相といえども部下との役割分担が以前よりも必要な外交に移行しつつあった。221

『会社法(第5版)』を読んで、テクニカルだけど最新情報しらないと困るのが会社法。

会社法(第5版) (LEGAL QUEST)
松井秀征
有斐閣
2021-06-04

大学で学んだ法学の復習編で、今回は会社法。

自分が学んだときには、会社法ではなくて商法だったりして、内容も大幅に変わっている。

実は、役人辞めると、株式会社か一般法人法の法人か別にして、会社運営をする機会がでてくるので、会社法とか、一般法人法の知識は不可欠。

役人にも必要な法学として、行政法、憲法、民法の次は、会社法かもしれない。

なお、このテキストは基本書、初学者向けの本ながら、敵対的買収と防衛策とか、現実社会の問題に対して、また、簡単に結論がでないことについても、丁寧に記述しており、社会人が読んでも、十分関心を維持できることが優れた点だと思う。

いずれにしても平成17年より前の商法を勉強した人は、ゼロから学び直す覚悟で読み通す必要がありますね。


『近代日本の官僚』を読んで、地道な官僚の意義を丁寧に分析しているのが好感もてる。


慶応大学総合政策学部の若手政治学者が書いた本。

最近は、明治以降の偉人たちを支えた官僚に注目している。

もちろん、最近の官僚バッシングとか政治主導というのに対して、そうはいっても、やはりこれだけ複雑化した政策決定システムや制度体系を維持運営するためには、官僚って必要だと思っているため。

この本では、明治維新の大久保、伊藤、木戸などの元勲の次の世代として、政治システムを支えた人物、例えば、小村寿太郎など貢進生から、終戦時の官僚までを概観している。

ちなみに貢進生については以下の説明を参照。この本でも73ページに出身者リストが載っている。

貢進生 こうしんせい
明治三年(一八七〇)二月の大学規則中の「貢法」に基づき各藩の推薦生を大学南校に入学させた人材簡抜の制度。中国に淵源するというこの制度は、維新直後小倉処平や平田東助らの建議によるとされるが、太政官は三年七月、大学南校の充実のためその実施を布告した。これは前年までの学神祭論争による大学本校の閉鎖という事態に対処する手段でもあった。すなわち十六歳から二十歳までの青年を、藩の石高に応じて十五万石以上三名、五万石以上二名、五万石未満一名ずつ割りあて五ヵ年間修業させる予定であった。四年一月の貢進舎生名簿によると総数三百十名のうち二百十九名が英語、七十四名が仏語、十七名が独語の三課程に分かれている。しかし学力性行とも区々であり、効果があがらぬため、同年七月の廃藩置県と文部省設置に伴い、九月大学南校を一時閉鎖して総退学させ、文部省達をもって廃止した。翌月改めて見込みある者を選んで再入学を許したが、この中から、小村寿太郎・鳩山和夫・古市公威・杉浦重剛など後年多くの人材を輩出している。
[参考文献]
『東京帝国大学五十年史』上、唐沢富太郎『貢進生―幕末維新期のエリート―』
(上沼 八郎)
"こうしんせい【貢進生】", 国史大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2022-05-12)

自分なりに頭を整理した点は以下のとおり。数字はページ数。

(1)法学が最初に重視されたのは、明治維新以降の政治体制をつくる仕組みそのものだったため。

(2)このため、第一次世界大戦くらいの時期になると、法学という観点からの官僚の専門性は揺らいできて、むしろ、労働政策、社会政策という新しい行政分野が重視され、そのために各省は若手官僚を欧米に留学させていった。273

(3)東京帝大法学部の授業も、1900年代になると、美濃部達吉、上杉慎吉の憲法論争や植民地政策を除いて、定型的でつまらないものになっていった。281

(4)第一次世界大戦の好景気は、財政や経済を担当する大蔵省と農商務省の人気が高くなり、内務省の人気が低下した。308

やや、視点はバラバラだが、当時の社会情勢、政治情勢を反映して、官僚や官僚志望者の動向が理解でき、また、現代とあんまりかわらないことが確認できて、それはそれで価値があると思う。

その他の気になった記述をメモする。
 
(1)(1871年)政府は府県の統廃合を進めていく。県の数は三〇二を数え、中央集権を前提とすれば非効率極まりない状態であった。統治の効率を上げ、旧藩の支配構造を払拭するためには大規模な再編が必要である。甲斐、播磨といった古代からの国域、国名に基づいた統合が進められ、一一月にはひとまず三府七二県に落ち着いた。県名もなるべく旧藩のものではない名称が用いられた。105
(2)県令(知事)にその府県の出身者を任命しない非出生地主義は、このときから戦後、知事が公選となるまで地方統治の原則となる。106

(3)一八七六年八月、政府は満を持して、これまでの五九県を三五県とする大統合を実施した。統合によって地方行財政の規模を適正化することが表向きの理由であったが、より本質的には、旧藩の影響力と反政府の傾向が根強い難治県を廃することが目的であった。内務省が全国統一の地方行政を行うためには、府県をその号令のもとに従わせなければならない。難治県の存在はこれを阻害するものだった。この統合で佐賀県が長崎県に、鶴ヶ岡県が山形県に、鳥取県が島根県に、名東県(のちの徳島県)が高知県に合併されたのはその証左である。134

(4)伊藤は特にシュタインから強く影響を受け、立憲制の趣旨を君主、議会、行政の均衡に求める国家有機体論を学んだ。148

(5)従来、学士官僚は、完成された秩序のなかで育ったことで、動乱を経験した維新官僚と違い、事務能力は優れているが創業の精神に乏しいと評されてきた。しかし、立憲主義を統治の方法として捉えた藩閥官僚に対して、近代国家の理念として捉えることのできた彼らは、藩閥か民党かという対立の図式を超えて、行政と立法が協働する未来を描き、その創立に携わろうとしていた。218

(6)第一次西園寺内閣は二年半にわたって政権を担い、一九〇八年七月、桂に政権を返上した。こののち、第二次桂内閣と政友会の「情意投合」が成立し、さらに第二次西園寺内閣に政権がスムーズな移行を見せたことから桂園時代と称され、政治的安定が訪れたとされる。 しかし、官僚たちにとっては、この時代こそが激変の時代であった。二つの勢力のなかで政権交代が進んだことにより、桂系か、政友会系かという、これまでにない選択を迫られたからである。232

(7)(原の本格的な政党内閣の発足、それに伴い有能な人材が政官の区別なく育ちはじめた)ただ一方で、官僚の専門性は揺らぎはじめていた。行政の専門化が進んだことで、法科万能の時代は終わりを迎えていた。くわえて、第一次世界大戦後の社会状況の変化は、労働行政、社会政策といった新しい行政分野を生みつつあった。 こうした変化を前に、各省は再び若手官僚を欧米に留学させることで対応していく。専門性を高めた彼らは、自らが描く新しい政策を実現させるために政党に接近する。しかし、同時に利益誘導や党利党略に走る政党政治のあり方に疑問を抱く官僚も現れるようになる。藩閥政治から政党政治への交代により、政党政治に対する、感情的ではなく、論理的な批判が行われる下地が形成されはじめた。272

(8)敗戦後、官僚たちは国家の再建に再び志を高め、学び、臨んでいった。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が官僚たちに能力試験を課したとき、彼らはこれをナンセンスと断じながら難なく合格してその能力を示し、想いを新たに戦後復興に取り組んでいった。彼らは再び政治家となって政党と官僚の協働を生み、公志と私志にあふれた青年が官僚として後に続き、その構造を支え続けた。325
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