元革新的国家公務員が伝えたいことー自由と民主主義を信じ国益を考えるーAiming at an innovative official of the national government

36年の公務員生活で培った「防災・復興法制」「都市計画法制」の知識を広く共有するため、書評を通じて、関係する新しい論点を示します。なお、意見にわたるものは個人的なものであり所属する(した)組織の意見や立場ではありません。

『AI時代の「超」発想法』を読んで、当たり前の指摘だが、共感する点多し。


    野口先生は自分より年齢がずっと上なのに、前からスマホの音声入力などを活用していて、新しい技術の活用には、自分も頑張らなきゃいけないなと思っている。

     この本は新しいアイデアを発想する方法をわかりやすく述べている。(やや同じ話の繰り返しが多いが)

     ポイントは以下の通り。

(1)新しいアイデアが無から生まれることはない。どんな独創的なアイディアも、既存のアイデアの組み換えだ。模倣は創造の出発点。発想は一部の人の独占物ではない。

(2)発想のためには必要な知識をまず頭に詰め込む必要がある。

(3)既存のアイデアの組み替えは頭の中で行われる。方法論にこだわるよりは、環境整備を心掛けるべきだ。

    この部分は既存のKJ法などの発想法を批判している。

(4)科学上の発想、ビジネスでの発想、芸術の上の発想は、外観上は異なるが、本質は同じもの。(位置No2842)

    (2)の必要な知識を徹底的に頭に詰め込むことと、そこから導かれるアイデアをずっと考え続けることが大事だと思う。

    その他気になった指摘をメモする。

(1)発想は必ず模倣から出発するものであり、その意味で誰にでもできる作業であることを強調します。真に独創的な考えとは、模倣から出発しながら、模倣にとどまらずにそこから脱却したもののことです。(位置No27)

(2)アイディアを出せる企業や人が、これからの社会を作っていくことになるでしょう。(位置No313)

(3)美的感覚が重要な役割を果たすのは、数学や物理学に限ったことではありません。研究者一般にとって、あるいは経営者や企画担当者にとっても重要な感覚です。彼らの直観的判断を導いているのは、美的感覚なのです。(位置No459)

(4)発想の条件は、「考え続けること」です。考えていないときに発見や発想が天から降ってくることは、ありえないのです。「考えていること」こそが、アイディアを導くのです。(位置No584)

(5)アイディアが生育してゆく過程は、没頭期、潜伏期、啓示期に分けられる。(位置No660)

(6)昔から、アイディアが生まれやすい場所として、「三上」ということがいわれてきました。これは、枕上、馬上(または鞍上)、厠上です(北宋の文人政治家欧陽脩の言葉)。私の場合も、これとほぼ同じであり、散歩、風呂、そしてベッドです。(位置No1340)

(7)ブレインストーミングは、最低2人でできます。参加者があまりに多いと、うまく機能しなくなります。人を超えては、1人ひとりの発言時間に制約が加わり、有効なディスカッションは期待できないでしょう。4、5人が最適な規模ではないでしょうか。(位置No1507)

(8)このように、対象を性格付ける要素を2つ取り出し、その組み合わせを2×2のマトリックスで考えます。4つのマス目に対象を入れてみると、そこからアイディアが得られることがあります。とくに、空になっている欄がある場合には、そうです。(位置No2039)

(9)注意深い観察を怠り、十分な知識を持たない人は、思いこみに囚われやすい。(位置No2172)

『宝くじで1億円当たった人の末路』を読んで、タイトルの割には中身はまとも。


    タイトルは人目を引くようなものだが、中身はかなりまとも。ただし、いろんなコメントのバックデータが一切引用されていないので、信じるか信じないかは読者次第。

     例えば、以下の指摘は真っ当だと思う。

(1)持ち家よりも賃貸の方が人生の自由度は増す。(位置No952)

     これは高額で長期のローンを組んだ場合に、まさに当てはまる。

(2)地方でのんびり暮らそうと思って移住しても、地方では都会のように、全くマイペースでのんびり暮らすことなど、なかなかできない。(位置No1370)

(3)店舗の全面禁煙化による売り上げ悪化という常識が、ここ数年覆りつつある。(位置No2346)
    ただし、喫煙率の高い田舎での禁煙化はハードルが高い。(位置No2375)

(4)宝くじは、外れればお金と時間の無駄でろくでもない。
   当たれば、親族トラブル、かえって貧困化、やる気の喪失が生じて、これもロクでもない。(位置No169)

     こんなに国民にを不幸にするビジネスを、国や地方公共団体が関与してやっていいもんだろうか?もちろん、地方公共団体にとって都合のより財源になっているのは知っているけど。

    その他の気になった記述。

(1)啓蒙主義を代表するフランスの哲学者、ヴォルテールは、かつて「労働は我々を3つの大きな悪から逃れしめる」と言いました。退屈、悪徳、欲求です。(位置No121)

(2)人生もビジネスも「リスクを取ってリターンを取りにいく作業」の繰り返し。その際、何より大事なのは、目の前のリスクとリターンを正確に見極めることです。リスクもリターンも過大評価していては、人生も仕事もろくなことにはなりません。(位置No188)

(3)人間は本来孤独であり、それぞれ自分の道を生きるしかない。そうやって孤独を引き受けた者同士だから、分かり合うための努力をする。孤独を知った者同士だからこそ響き合える、深い出会いがあるんです。(位置No542)

(4)(自宅にいても高齢化すれば)
 自分だけでは食事にも手をかけられなくなり、買い物もできなくなり、不安が増していくかもしれません。そうなると最後は多くの人が高齢者住宅や施設に行かざるを得ません。その意味では、賃貸派であろうと持ち家派であろうと結局、最後は人間皆、同じとも言えます。(位置No954)

(5)話をまとめると、(満員電車の中で)すぐ降りるわけでないにもかかわらず、中ほどまで進まない人は3タイプに分かれる。①気が利かない、②周辺の環境情報が十分に把握できない、③周囲に働きかけて〝奥に進む技術〟がない、のいずれかだ、と。(位置No1499)

(6)(外国人観光客を無意識に警戒するのは)
    ここまでの話をまとめると、こうなりませんか。①我々は進化の過程で、未知の集団に会うと敵か味方か識別するようになっている、②その識別基準はステレオタイプによる、③異文化の住民には最初からポジティブなステレオタイプは抱きにくい──。つまり、外国人観光客を警戒するのはレイシストの始まりでもなんでもない、普通のことであると。(位置No1760)

(7)「みんなが少しずつ我慢することで、みんなで生きていくシステム」。これが沖縄の共同店が存続できる理由で、そんな助け合いの精神を現地では「ゆいまーる」と言うそうです。(位置No2581)

(8)(ワイシャツの下に何を着るかについて)

宮崎俊一(松屋銀座の紳士服バイヤー) :
    対策の一つは、白いワイシャツの下に着ても透けにくい「ステルスカラー」の肌着を着ることでしょう。ただ国際的な基準では、ビジネスシャツは下着として扱われており、例えば欧州では、ビジネスで着るシャツの下にアンダーウエアを着る人はほとんどいません。下着の重ね着になるからです。(位置No2828)

『中世史講義』を読んで、現代にも通じる、色々マニヤックな情報あり。


    先日読んだ『古代史講義』と同じく、若手の学者の論考も集めた真面目な本。

    ちなみに、この本の中世とは、藤原氏を外戚としない後三条天皇から、信長上洛までの間とされる。そもそも中世の定義自体も自分はよく理解していなかった。

    色々知らなかった情報があるのだが、特に自分が面白いと思った情報を先に列記する。

(1)(集落の歴史)
    端的にいえば、中世後期から近世にかけての村落、高度経済成長期以前、日本のあらゆるところに存在していたような「村」が、鎌倉時代にまで遡るものであるのかどうかについては、実は必ずしもはっきりしているわけではないのである。(位置No1214)

    そうした成果によると、平安期、荘内に散在していた住人たちは、畿内では一三世紀後半から徐々に集住するようになり、集村的村落を形成していくと考えられている(湯浅治久「惣村と土豪」『岩波講座日本歴史 第9巻中世4』岩波書店 二〇一五)。(位置No1227)

(2)(鎌倉幕府は東国と西国で支配の形態が異なっていたという指摘)
    全国政権となった鎌倉政権であるが、反乱軍としての戦争の中で実効支配を打ち立ててきた関東地方、寿永二年十月宣旨や木曽義仲の追討により内乱の早期から支配が行われてきた東海・東山・北陸道諸国、朝廷の意向に従わず独自に奥州藤原氏の政権を滅ぼして占領した陸奥・出羽両国からなる東国と、朝廷という既存の政府の中で政権を掌握した平氏を滅ぼしたのみで、朝廷とその支配が存続している西国とでは、その政権としての関与のあり方に大きな差があった。尾張・美濃・飛驒・加賀以西を西国とする鎌倉政権の原則は、その滅亡まで維持されるが、特に一二二一年(承久三)に発生した承久の乱後、鎌倉政権の西国への関与のあり方は変化してゆく。(位置No912)

(3)(武士の原点に関する最近の学説)
    武士はかつて「地方で土地を開発した在地領主が武装化したもの」と考えられていたが、近年では、都の貴族社会において武芸を専業とする中下級貴族(軍事貴族)に起源をもつと考えられている(「職能」論・「京武者」論という)。(位置No323)

    その他の気になった論点。

(1)将軍と武士との主従関係によって成り立っていた(鎌倉)武家政権であるが、主人である将軍でさえも、「武士のイエ」内部の問題には介入することはできなかったのである。(位置No179)


(2)一二七四年、元(モンゴル)のクビライ゠カアンは南宋・日本に向けて、相次いで軍隊を派遣する。日本は運良くこれを撃退することができたが(文永の役)、南宋は一二七六年に降伏し、残存勢力はなお抵抗を続けるが、一二七九年までに殲滅された。(位置No636)


(3)平安時代後期以来の「旧仏教」=顕密仏教が、依然として鎌倉時代の仏教の主流だったという理解は、研究者の間で広く認められるようになった。(位置No1020)

    ただ、日蓮の門流(法華宗・日宗)、親鸞の門流(浄土真宗)、そして道元の門流(曹洞宗)が、多くの人々の支持を獲得するのは、室町時代後期(戦国時代)を待たねばならなかった。(位置No1130)


(4)では治天の君(上皇)は何をしていたのか。主に公家たちの人事、また所領関係の争いを主とする裁定である。この時期、公家社会では徳政(善政)とは人事と裁判である、と認識されるようになっていた(『平戸記』延応二年二月二十日条)。(位置No1433)

    権力者に最後まで残る仕事は、人事と争いの裁定なんだな。

(5)後醍醐天皇は、制度面では基本的にそれ以前からの朝廷運営を引継ぎ、時代の激変の中で変化せざるを得なかった部分に、逐次対応をせまられたのであろう。(位置No1607)

(6)ここまで見てきたように、中国禅の「日常生活はすべて修行」という考え方は、東班衆と西班衆が対等という理念を生みだした。時には東班衆を下に見て排除しようという動きが現れたりもしたが、それでも理念としては対等という原則をもち続けることによって、(実務を行う)東班衆の技術が(学問を行う)西班衆の知識と融合し、実用的な学問となることができたのである。そしてそれは禅宗寺院の周辺の人々へ伝えられ、やがて江戸時代の数学や医学にもつながってゆく。(位置No2007)

    実務と学問の融合でやっぱり大事だということだ。

(7)国家による保証を欠くだけでなく、銅貨であるがゆえに素材価値も低い渡来銭が、なぜ人々の信認を得ることができたのかは不明だが、当時の社会が求める新たな貨幣の条件を具えたものがタイミング良く持ち込まれたことが、国内通貨としての受容につながったのは確かである。(位置No2101)

やがて本願寺は報謝行の概念を拡張して、門徒に軍事的な奉仕を求めるようになる。仏敵との戦いに参加することは、命がけの報謝行であるという理屈である。こうして本願寺は、「絶対他力」の教えを守りつつ、門徒を軍事動員することが可能になったのである(金龍静『一向一揆論』吉川弘文館、二〇〇四)。2824


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