関西外語大学の比較的若手の先生が書いた本。
小村寿太郎は、吉村昭『ポーツマスの旗』とか、岡崎行彦『小村寿太郎とその時代』では、超人的な交渉能力をもつ人物として描かれており、自分もその印象が強かった。
この本では、より学問的に緻密に分析をして、超人的というよりは、「地味」「非社交的」で外交官としては欠点をもった人物として説明されている。
小村は、いわゆる「貢進生」として、明治維新の元勲の次の世代として、明治政府の基盤を作った人物。混乱期から制度を作り上げているという立案者と、制度を運用している官僚の両方の側面を果たす必要があったため、外交官としては失格ともいえる非社交的な性格であっても、日露戦争の後のポーツマス条約締結などの場面で活躍することができたとも言える。
制度が成熟している現代では、外交官として務まらないかも知れない。
とりあえず、小村寿太郎の経歴を整理すると以下のとおり。
小村寿太郎
こむら-じゅたろう
1855−1911
明治時代の外交官。
安政2年9月26日(安井小太郎撰の墓誌では16日)生まれ。ハーバード大に留学。外務省にはいり,政務局長,外務次官などをつとめ,対清(しん)(中国),対韓国外交にあたる。第1・第2次桂内閣の外相となり,明治35年日英同盟をむすぶ。日露戦争のポーツマス講和会議では全権をつとめた。43年韓国併合を実施。44年不平等条約の改正に成功,関税自主権を回復した。侯爵。明治44年11月26日死去。57歳。日向(ひゅうが)(宮崎県)出身。東京開成学校卒。
【格言など】(ロシアに対して)即ち一は交戦をも辞せざるの決心を示すこと(日英同盟に関する意見書)
"こむら-じゅたろう【小村寿太郎】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2022-05-17)
その他の気になった記述をメモする。数字はページ数。
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(1)基本的に社交を好まない小村の性格は、外交官としては大きな短所だった。これ以降に赴任した外国でも、人脈を積極的に広げない彼の非社交性は、常に欠点であり続ける。81
(2)実は日英同盟交渉は、日英独三国同盟交渉というかたちで、駐英ドイツ臨時代理公使エッカルトシュタインが提案して、一九〇一年(明治三四)三月に開始されていた。ただし、この提案はエッカルトシュタインの独断だったので、ドイツは交渉から離脱し、日本とイギリスだけが残ったのである。97
(3)小村の強硬な反対によって、桂・ハリマン予備協定覚書は潰れた。このとき南満州鉄道の日米共同経営が実現していれば、満州をめぐる日米対立や一九四〇年代の日米戦争は起きなかったという説もあり、小村の評価が分かれるところである。172
(4)(1908年に米国のノックス国務長官主導で満州鉄道中立化案を提議したことについて)権力政治が渦巻く国際政治の舞台で、正論を放つのは素晴らしい。ただ、その正論は、現実をしっかりと踏まえたものでないと、ノックスの提案のように、しばしば最も望ましくない結果をもたらすのである。204
(5)(元老の関与を最小限にして内閣と外務省主導で行う)このような小村の外交手法は、非民主的でエリート主義的だった。しかし、その一方で、外交政策を政争の具にしない強みがあった。217
(6)(第一次世界大戦頃から)多くの仕事をこなせる能吏型の外交官が好まれるようになってきた。小村が行った外相個人の力量に大きく依存する個人外交ではなく、外相といえども部下との役割分担が以前よりも必要な外交に移行しつつあった。221