革新的国家公務員OBが語りたいこと・伝えたいことー自由と民主主義を信じ国益を考えるーAiming at an innovative official of the national government

36年の公務員生活で培った「防災・復興法制」「都市計画法制」の知識を広く共有するため、書評を通じて、関係する新しい論点を示します。なお、意見にわたるものは個人的なものであり所属する(した)組織の意見や立場ではありません。

『証言 日本の住宅政策』を読んで、昨日に引き続き、住宅政策・都市計画の先輩たちの発言をメモ。

大本 圭野
日本評論社
1991-06


1.戦災復興院地政課二代目課長の町田稔

大本:それではその宅地法の中身というのか柱はどういうものだったのですか。
町田:これは農地法の考えとあまり変わらないんだな。土地の利用者がそこの所有権を得る、農地法がそうですよね、小作人が利用している土地が安い価格で自分のものになりましてね。それに類推のような考えがあったのわけです。それから地券制度を取り入れた。それで土地の利用をしている者が、所有権を得るためにどのくらいの値段でそれが買えるようにすればいいか、ということを定めるためには、その土地が将来どのように利用できるか、ということをまず考えなければいけない訳なんです。
 ちょうど、イギリスで都市農村計画法ができましてね(1947年)。あれはおよそ都市については全部、利用計画を作っちゃった訳です。そして、土地の価格を決めたんです。価格の上がったところからは国が差額だけを取り上げる。ランドボード(土地委員会)というのができた訳です。それと同じようなことをやっぱりやらないと無理だと言うわけで、日本でも都市については全部利用計画を立てようじゃないかということで、それも宅地法の中に入れましたね。(197ページ)

2 初代住宅企画課長の前田光嘉

大本、そうしますと、住宅金融公庫の骨組みはこちらで作ったということですね。
前田:そうです、国民金融公庫という一つの例があり、その例に従って骨組みを作っていくから、それほど大きな変更はない。ただ利率を書けとか、火災保険の事を書けとか、必要ないことも若干入れました。こちらも日本に合うように工夫したり色々やった訳です。
大本:戦後改革の中でGHQ自身特に住宅政策を持っていたと言うわけではないということですか。
前田:特例というか、積極的にはなかったと思います。我々の言うことはよく聞いてくれましたが、事細かにああせい、ということはなかったです。
大本:そうすると戦後の住宅政策のイニシアティブは建設省というか日本がと取ったということですね。
前田:私はそう思いますね。ただ、当初は資材統制はありました。それから公共事業としての国庫補助庶民住宅の建設についてもGHQに説明して了承を開いていました。住宅をどう復興するかについて、それほど文句を言われた覚えはありません。(244ページ245ページ)

大本:ヨーロッパなどでは住宅組合への貸付はかなり行われているのではないですか。
前田:ヨーロッパでは古くから協同組合システムが定着していますね。ですから我々は住宅組合をずいぶん研究しました。
 ただその時に考えたのは、住宅組合は連帯保証ですから真面目にやればお互いに助け合っていいけれども、怠け者なり悪者がいたら全部の信用を落としてしまう訳です、金の貸し借りの組合はどうもうまくいかない。個人が自分で責任を持つのが一番いいのではないかと思った訳です、組合に金を課す制度もやっていましたがやはりなかなか上手く動かない。金のことは個人というか世帯主というかそういうものを中心にしていくのが無難で問題がないという感じがしました。(251ページ)

3.公営住宅法の立法化にあたり、住宅企画課の課長補佐の川島博
大本:建築基準法の骨組みを作られたお仕事はこのあとなのですか?
川島:昭和24年に建設省の建築局庶務課から建築指導課に転属を命ぜられました。それは翌25年の市街地建築物法の全面改正の立法作業の法制面からのサポートのためです。これは技術立法ですから、中身の方の実体規定は技術官がやり、私は総則とか雑則、罰則と言った法律専門家でないと担当し得ないほうをやりました。その時の改正のハイライトは従来の建築許可制を確認制に改めたことです。つまり従来の建築行政では知事が建築許可をしていたんです。ところが知事は建築に全く素人なので、その人が許可を与えると言うのでは、事柄の性質から言って妥当ではない。ところが、アメリカにアプルーバル制度というのがあったんです、アメリカの建築行政は各市町村の固有事務になっていて、市長が許可するのではなく、建築専門家がアプルーバルと言う確認をすることによって、建築がきるようになっていたいるんです。それをまねて、確認制という我が国の従来の行政法体系にはない新しい行政処理が生まれた訳です。生まれるについては法制局とか関係省庁、でこんな聞いたこともない制度と反発もありましたけれどもね。(268ページ)

大本:昭和26年に公営住宅法が立法化されますが、その直接的契機は何だったのでしょうか。
川島:それはGHQの指令でも何でもなくて、鬼丸課長と私で、ここで法律を作って基礎固めをしておきましょう、と言うことであったのです。建築局は、25年に住宅金融公庫法と建築士法と建築基準法と三つを一緒にやった。だから、住宅企画課内に余裕がなかったんです。26年になると暇になったので、それでは一つアメリカの真似をして公営住宅法でも作るか、ということで簡単に決まったのです。作らなくてもよかったんです。その翌年また手が空いたからというので宅地建物取引業法を鬼丸さんと私で作った。(272ページ)

大本:しかし公営住宅を作る場合どうして田中さんでなければいけなかったのですか。
川島:当時から公共事業は産業の大きなバックボーンだったんです。当時は道路はあまりなく、ほとんどが災害復旧で、河川工事が主でした。それに住宅建築が加わるのですから、建設業界としては大歓迎しますよ。
大本:建設業界としても公営住宅法ができてくれれば安定する。
川島:それで議員の間で建設族と言うのは生まれたんです。どこの橋を直してください、どこの道路を直してくださいどこにダムを作ってください、と言ってくる。
大本:田中さんにしメリットは。
川島:あの人に頼めば早いから。そこで各党に渡りをつけて野党の頭を撫でて、全会一致ということにしてもらった訳です。共産党も確か賛成したはずですよ。要するに国会のまとめ役には最適だったんです。(280ページ)

大本:公営住宅の場合は。
川島:これはお願いして通してもらったんです。出来上がったものを、議員先生に渡して衆議院法制局で形ばかり審査をしててにをはを直して、田中先生が立案にされたものです。それに厚生省が足を引っ張っていて、政府案におそらくできなかったんでしょう。その方が大きな理由かもしれませんよ。木村忠次郎氏(当時厚生省社会局長)が反対していたんで、とても政府案として渡せないと言うことで、田中さんに密かに頼んだんでしょう。(282ページ)

5.建設省住宅建設課課長補佐で公営住宅制度の施行を担った尚明
尚:このように河川の時代、道路の時代があって、そういうものがある程度、形がついてくるとともに、経済成長も実現してきて、今度は国民生活の問題に入り、住宅政策をクローズアップされてきた訳です。だから終戦直後から、住宅を重点に考えると言うことができる環境にはなかったのです。
 ドイツなどは、終戦後から住宅を重点にやっていたのに、日本はなぜそうならなかったかは、それ以前の公共施設の不備の問題があまりにも多かった上に、社会福祉と言う問題が政治問題として強く生きが浮き上がるには若干時間がかかったと言うことでもあります。
 例えば、国会論議でも河川や道路をもっと整備しろという話が多くて、住宅の話は強く出てこない。だから私どもは、ある悔しさを持っていました。今年の道路や河川の予算はこんなに増えているのに。住宅の予算は足りないと。大蔵省も住宅の予算を増やしておりましたが、比例が違っていた訳です。(340ページ)

住宅公団取り方を立案した、ダンブ徹夜住宅却下町
南部、中略経済かが応援してくれれば反対してる吉田中等も参戦に回るだろうと声をあげて、この前時代を止めた石破さんが、官房長でしたが、官房長が先頭になってありました1009住宅局長伊藤ゴローさんや住宅局長の諸岡さんには反対されるし、それで局長病気になってしまった伊藤さんは、新聞に鋼材せず公団設立反対の投稿されました。
大本伊東五郎氏が反対された理由は何だったのでしょうか、南部伊藤氏は住宅建設は一番身近な都道府県市町村の責任であるべきだと考えていた伊東市は公営住宅の産みの親ですから、それにヒビが入ると考えたのでしょう、大本諸岡さんが反対したのはどうゆう理由なのですか、南部、やはり公営住宅政策にヒビが入ると言っていました。公団住宅になれば府県が公営住宅をだんだんやなくなるだろうと364ページ




参考
戦災復興院の組織165ページ
宅地法起案資料207ページ208ページ合成住宅法案319ページから324ページ

『証言 日本の住宅政策』を読んで、先輩方の住宅政策や都市計画に関する貴重な証言あり。

大本 圭野
日本評論社
1991-06

 1991年に発行された住宅政策と都市計画のオーラルヒストリー。

 御厨貴先生を中心としたオーラルヒストリーより前に行われたもので、既に亡くなった方の貴重な証言あり。

1 厚生省住宅家の二代目課長であった、豊原道也
大本:市街地建築物法は内務省の土木局でやっていたんですね。
豊原:そう内務省です。住宅は、厚生省でいち早く手をつけたのでしょうが、公平に行って私は厚生省なんていう素人がやらずに、内務省の土木局でやった方が良かったと思います。
大本:厚生省は、主に国民の福祉医療とか衛星を担当するのに、住宅が内務省の土木局行かないで厚生省に中に入った背景をどういうところにあるのでしょうか。
豊原:厚生省が早く気が付いたんでしょうね。厚生省が設置された昭和十三年から十四年当初は社会局生活課が住宅を担当していたのですが、その後は生活局住宅課と言うのができたのです。生活局の中には保護課もあり、これは社会局以外の伝統で、当時の救護法をやっていました。それから生活課は、わけのわからん課でして、国民服を制定したくらいのもので、後は何もやっていませんよ。生活局があったので、社会局は一時なかったんです。もともと社会局は老舗で、内務省の外局だったんです。それで戦後、復活しました。
大本:住宅課は生活局の中ですね。
豊原:生活局に、保護課、生活課、住宅課の三つがありました。(89ページー90ページ)

2 企画院において戦時国土計画の立案に直接携わられ、しかも戦後引き続き国土計画関係の職務に使われた酉水孜郎
酉水:戦時国土計画というのは、文字通り大戦計画が中心ですから、究極的には国内産業の全てを戦時編成にまで持っていくことと理解して良いでしょう。
大本:ゲオポリティクス(地政学)は、ドイツから発生したようですが、大東亜共栄圏ということで田辺先生や企画院の方々はゲオポリティークを一応勉強されたのですか。
酉水:そうです。十六年二月から企画院官制が国土計画策定を目標に改正されたんですけれど、その前の十五年九月に国土計画設定要項が発表されており、さらにその前に、満州国で「総合立地計画策定要項」と言うものが出ています。それが幸徳七年、満州国が出来てから七年です満州国は出来てから7年ですから、満州事変以後そういうものが先行しています。そのバッグの中でやっていくのですから、我々が企画院に入った頃はゲオポリティクスの考え方について、疑念を持つものは1人もいなかった訳です。そのほかの考え方はできないんです。(116ページ117ページ)

酉水:大来くんのグループは大来君が大将で、後藤誉之助君なんかもいました、
。みんな東大の電気工学を出た人達です。その連中がその後もずっと続いてきていました。そして経済企画庁のスタッフになって、国土庁にまたうつったりしたという人もいます。そんなわけで、いわゆるドイツ流とアメリカいわゆるドイツはアメリカの対立が出てきたと言うんですね。私は交通局の方で課長ではないけれども、事実上の責任者になっていましたから、随分大来くんとやり合いました。どこが違うかというと、ドイツ流は計画をどんどん立てていって、地域や国にしても全体計画の中にの一部分としてやろうとする訳です。ところがアメリカ流はそうではない、ビジョナリープランニングです、ニューヨークの計画とか、TVA計画、セントローレンス計画とか、ほとんど西部の開拓など国土の部分的なものになるのです、日本にあてはめてくれば地方計画です。

酉水:私はさっきの本(前掲)に企画院の官制を引用してありますけれど、「国土計画の策定に関することおよび国土計画上必要による学長事務の統制に関することと」、これがある訳です。今の国土庁の感性にそういうものはないですよね。(中略)だから、全国総合開発計画の経過を見ても色んなことを考えてはいますけれども、完成しないうちにみんなが後から言葉だけを変えていくような感じ、どうしてもそうゆうふうになってしまうんですね。ですから、大都市の人口集中をどうやって抑えるかということを一つ取っても今のような形ではできない。できっこないんです(134ページ)

酉水:私はずっとやってきたけどもけれども未だに混沌っていう感じしか持っていません。本当の国土計画は日本でできるかできないか、それすら私には疑問です。なぜ国土計画の本質は国民生活を豊かにする、また地域の文化を作り守る上に地域差のないように地域の均等な発展のために計画的に行うことです。日本には総合的な国土の計画はないように思います。(137ページ)

3 内務省都市計画課長であった大橋武を大本:そうしますと、内務省の都市計画課は戦時体制になると軍需工場と手を作っていた訳ですね。
大橋:一般の都市もそっちの仕事が多かったです。軍が応援しますから予算が取りやすかったです。
大本:整備というのは主に道路ですか。
大橋:あの頃はほとんど道路1本でした。大本:住宅は計画では扱わなかったのですか。
大橋:軍都を作れば自然に工場ができますから、労働者住宅が不定します。そこで地方は公営住宅を建てたいというので、福利課の方に話をします(145ページ)

大本:その案を練っていらした時には軍とか政府の上の方は何も文句を言わなかったのですか。
大橋:そんなものには関係ないもん。軍は建物疎開といって都市を壊してみんな田舎に引っ越せというだけですだから、私が中心で都市計画課の中で二十年の春までに戦災復興院の設立と戦災都市復興大綱を作りました。そしてそれを持っていた訳ですよ。(中略)幣原内閣はできて、内務大臣が堀切善次郎でした。彼は大震災の時の復興院の長官をしていた人ですだから、都市計画のことはよく分かっている訳です。それで堀切内務大臣が着任して見えました時に、私がいち早く大臣にあ、いまして、日本の復興は都市の復興が根本だ、こういう案を作ってありますと言うと、早速見せろというわけで、それを目にかけたんです。そうしたらこれはよくできている、だいたいこれでいこう、すごい確認出せ、そしてすぐに閣議で決定しまして、戦災復興院が昭和20年11月の初めでしたが、できたわけです(147ページ) 

大本:戦災復興院ができた時の日本の都市計画は前々から案が寝られていた訳ですが、GHQとの関係はどうだったのでしょうか。
大橋:GHQは全然援助しませんでした。GHQは日本が良くなることを希望しないんだから。
大本:GHQがこうしろとかああしろというかは。
大橋:いや全然言いません。
大橋:復興計画については全然言いません。(中略)大橋GHQは案を示さなかったと思います。GHQは日本を占領に来たのであって、日本を統治するために来たのではないんですから、日本の統治者として日本の復興家に来たわけではないんです。(158ページ159ページ)

『縄文の思考』を読んで、ベテランの考古学者による大胆な縄文文化の推測や想像が興味を引く。

縄文の思考 (ちくま新書)
小林 達雄
筑摩書房
2008-04-01

 縄文人が何を考えていたのかは、言語がないので土器や住居跡などから想像していくしかない。
 
 この本は、ベテランの考古学者による縄文文化に対する大胆な推測と想像。著者は、長年の研究から神秘性、精神性を縄文文化に見いだしたらしい。
 そのアカデミズムにおける評価は分からないが、一定の説得力、物語力はある。

 特に、定住空間や住居について論点をメモ。

(1)一方の縄文人の選択は日常的生活の根拠地としての村の周囲=ハラ生活圏とし、自然と密接な関係を結ぶに至る。農耕民が自然を利用対象として干渉を強める姿勢を取り、容赦なく物理的侵略の挙にでるのと対照的である。縄文人は生活舞台としてのハラの自然に身勝手な干渉を加えたりして、ハラ自体の存亡に影響を与える事態を招くとすれば、縄文人自身の生活基盤の破壊につながりかねない。だからこそ共存共生共栄こそが自然の恵みを永続的に享受し得る保障に繋がるのである。(73ページ)

(2)つまり縄文住居の炉は、灯りとりでも、暖房用でも、調理用でもなかったのだ。それでも必要にどの火を消さずに守り続けたのは、そうした現実的日常的効果とは別の役割があったと見なくてはならない。火に物理的効果や利便性を期待したのではなく、実は火を焚くこと、火を燃やし続けること、火を消さずに守り抜くこと、とにかく炉のそれ自体にこそ、目的があったのではなかったか。その可能性を考えることは、決して思考の飛躍ではない。むしろ視点を変えてみれば、常に火の現実的効果とは不即不離の関係にある、火に対する象徴的観念に思えが至るのである。(94ページ)

(3)縄文住居空間の家=イエ化を強化する装置の第二は、奥壁の施設である、とくに、縄文中期の中部山岳地帯においては、奥壁に石で囲った特殊な区画が設けられ、しばしばその中央に長い石を立てる。(98ページ)

(4)とにかく、床面上に特殊な土器の安置されることがあったのだ。日常的に使用される絶対多数の深鍋をケ=俗(日常性)の土器とすれば、特殊な生活のハレ=聖の土器が住居内にあり、完形を保つほどに特別扱いされているのは事実である。しかもこのハレの土器が、二個一組のセットとなっていることは大いに象徴的である。住居空間は、この点に於いても象徴性、聖性との密接なかかわりを確かに暗示している。(105ページ)
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