「計画による公共性」の議論は、工業団地造成事業や新住宅地市街地開発事業など、特定少数に供される土地の収用権を認めるために使われる行政法上の論理。

 遠藤先生は、これを先駆的に提唱し、藤田先生はそうはいっても一定の歯止めがあるんじゃないか、と議論している。

(1)遠藤「工業団地造成事業にしろ、新住宅市街地開発事業にしろ、また流通業務団地造成事業あるいは市街地再開発事業にしろ、それらの公共性は、個々の施設の公共性によってでもなければ、事業それ自体として眺めた場合の公共性でもなく、全体としての都市計画の中で、都市機能の分散等による都市機能の維持増進とか、住宅問題、交通問題への寄与とか、全体としての都市問題解決の一環として位置づけられることによって根拠づけられる。広いいみでの全体としての都市計画と具体的事業をめぐる具体的な状況の中で判断される」(50頁、51頁)

(2)遠藤「公共性が計画の合理性にあるとして、その際最も重視すべきものは何かといえば、それは手続である。計画はもともとプロセスであり、当事者の参加は必須の要件でなければならない」(51頁)

(3)遠藤「法律それ自体が政策のための一つの道具であって、問題に対して全部の解答を与えているといった性格のものではない。いわば法律は自己完結的な世界を形づくっているのではなく、多面的な広がりを持った問題に対応する流動的で変転きわまりない世界の一つの流れの、さらにその一部を構成しているものにすぎない。利害の調整ないし政策の具体化は立法の段階では終わらない。政省令制定のあとに、さらに地域を指定し、法令の範囲内である基準を採用するなど、法令の具体化のほかに、さらに法令を補充補完するなど、法令の外側においても独自の行政過程が存在する。」(65頁)

(4)藤田「現在の行政法学は、多く、このような基準(計画の合理性を判断する具体的な基準)を実体的利益論の中に求めることをさけ、寧ろ、計画策定の手続的保証の中にそれを見いだそうとしている。しかし、このような主張を行うに当たっては、それに先立ち、少なくとも次の二つの問題について、十分な検討と考慮を行うことが必要であると思われる。 
 第一に、どのように民主的な手続によってもなお奪われ得ない個人の自由としての基本的人権という近代公法の基本的観念の一つは、もはや維持される必要はないのかという問題は、やはり避けて通ることのできない基本的な問題である。 
 第二に、「客観的に万人が一致して合理的と認めるような計画は恐らく現実にはあり得ないと思われるし、また利害の錯綜する多数の関係人の誰もが合理的と認めるような計画はあり得ない」のはその通りであるとしても、このことは、実践的な提言において提言者自身が、どのような利益を基本的に重要であると考えるかについての主体的な判断の可能性を妨げるものではない。(中略)このような意味において、諸利益の比較衡量に際して最も重要な基準として「生活の為に直接必要とする土地利用の最優先」という規準を採用することは、決して不可能なことではなく、又、不合理なことではないのである。」(175頁、176頁)(規準の注として『日本の社会と法』234-235頁)

 遠藤先生の指摘は、実務的な感覚にあうけど、それは突き詰めると(3)のように法律論の意義自体を危うくする可能性がある。それを藤田先生が、やはり法律論の理念は重要と踏みとどまるという展開になっている。