科学史の大家の村上先生が、口頭で話したものをまとめた本。

 その成果、論理的にきちんと整理されていない感じがする。

 しかし、重要な論点を指摘している。

 以下、抜き書き。

(1) 「1988年頃から、新しい技術が社会におよぼす影響に関して、市民・生活者が参加して安全性、経済性、倫理性などさまざまな観点から評価する「PTA(Participatory Technology Assesment)」という概念が国際的に浮上してきました。(中略)
 この制度が生まれるにあたっては、①民主主義社会で一部の人の間の関与で決定されることへの疑問、②細分化が進み専門家の関与できる範囲が狭くなったこと、③最終決定には科学者の意見だけでは不十分、④地域社会などの代議制度では住民の意向が正確に反映しないこと、など従来の方法への疑問や不満点が前提になっています。」(138頁)

(2) (専門性の優位=科学的合理性に対して社会的合理性が同時に求められるとして)「公共(パブリック)的課題に対しては、民主(デモクラティック)的手法で。つまり専門家も他のひとと同等の立場で、公共の場で議論して、その中で落ち月処を見出していこうという考え方です。」(107頁)

 著者も悩んでいるように、専門家を一般市民と同等に扱うかべきかどうかについては、議論があるところ。

(
3)  「競争的資金に応募するために、「公共的利益」をこじつけてみせたとしても、本音はちがう、ただそういう本音をさらしては、もはや仕事はできない。社会認識と科学者の自覚の間に大きな格差があり、引き裂かれた状況にあります。個人的な感想でいえば日本の科学と社会の関係性、科学者の責任をめぐっては、まだ課題があると思います。」(54頁)

(4) 「不確実性の社会における意思決定では、科学的合理性は当然よりどころですし、評価損益も考えます。しかし、それに何かもう一つ、それらだけでは意志決定はできないというアルファの部分、それは「常識」ではないか、という考え方があります。」(126頁)

 科学的合理性からは政策の選択肢を示すだけで、それを選ぶのは民主的手続、そしてそれを支配しているのは「常識」ということだろう。

 社会に役立つ科学って何だ、専門家はそのためにどういう役割をすべきか、について、原子力事故で専門家の信用が地に落ちている現在、まじめに、冷静に考えるべき。