先日読んだ『いま、息をしている言葉で』にインスパイアされて、光文社古典新訳文庫の1冊として読んでみた。

    著者のセネカは、紀元紀元前1年の生まれとされる。今から2000年以上前の言葉が記録として残されていること自体に価値があると考える。
   
    日本に関する記録が西暦200年代の魏志倭人伝までしか遡れないことを考えると、その古さが一層際立つ。

     訳がこなれていることもあるのだが、説得力あるフレーズが多く見つかる。

(1)つまり、そういうことなのだよ。われわれは、短い人生を授かったのではない。われわれが、人生を短くしているのだ。われわれは、人生に不足などしていない。われわれが、人生を浪費しているのだ。(位置No78)

(2)賢者は、つねに、揺らぐことのない真実の自由を持ち、なにものにも縛られず、自分自身の主人なのである。そして、賢者は、すべてを越えた高みにいるのだ。じっさい、運命を超越した人間の上に、何がありうるというのだろうか。(位置No226)

(3)生きるということから最も遠く離れているのが、多忙な人間だ。(位置No280)

(4)人生という、この休みのない急ぎ足の旅も、それと同じだ。われわれは、起きているときも寝ているときも、この人生という旅を同じ歩調で歩み続けている。しかし、多忙な人々は、終着点に至るまで、そのことに気がつかないのである。(位置No376)

(5)これに対して、英知の力で神聖になったものは、傷つけることができない。そのような神聖なものが、ある時代に滅んだり、衰えたりすることはないのだ。次の時代、その次の時代と、時がたてばたつほど、ますます尊敬されることだろう。なぜなら、近くにあれば嫉妬心が生まれるが、遠くにあれば素直な気持ちで賞賛できるのだから。(位置No636)

(6)ですから、元気を出して、まっすぐに立ちましょう。どこに行く事情が生じたとしても、なにものも恐れぬ足どりで前進し、どんな土地でも通り過ぎていくのです。この世界の中には、追放という事態などありえません。なぜなら、この世界の中には、人間に無関係なものなど、なにもないのですから。(位置No1226)

(7)優れた国民の行動は、決して無駄にはならない。だれかがその声を聞き、その姿を目にすれば、彼の表情、うなずく姿、かたくなな沈黙、そして歩く姿さえもが、役に立つのである。(位置No2152)

(8)われわれに降りかかる災難は、多種多様で、不公平なものであり、すべてをはねつけることは不可能だ。帆を大きく広げて航海をしていると、たくさんの嵐に襲われてしまう。それゆえ、われわれは活動の範囲を狭めて、運命の矢が当たらないようにしなければならないのだ。だからこそ、追放などのさまざまな災難が、かえって救いになるときもある。軽い損害を受けることによって、重い損害を受けずにすむのだ。(位置No2312)