革新的国家公務員OBが語りたいこと・伝えたいことー自由と民主主義を信じ国益を考えるーAiming at an innovative official of the national government

36年の公務員生活で培った「防災・復興法制」「都市計画法制」の知識を広く共有するため、書評を通じて、関係する新しい論点を示します。なお、意見にわたるものは個人的なものであり所属する(した)組織の意見や立場ではありません。

2014年10月

『日本の地価が3分の1になる』を読みました。


 タイトルとお世話になっている清水先生の著書なので購入。

 住宅必要戸数をマクロで推計する際には、住宅世帯数がまず一番基礎データなので、それで分析しているのかと思ったが、将来住宅地の地価の変化率は、総人口の変化率、現役世代負担率、一人あたりGDP変化率で説明できるとする。ここで、現役世代負担率を代表にしたのが、本著の全半分の決め手だと思う。

 一応、問題ないんだろうけど、日本の場合には総人口が減少するという現実のデータとその予測と、現役世代負担率のデータ、予測は、結局、人口のマクロ的な世代間構成の変化とその総量の減少になるので、二つのデータに共線性が生じないというコメントをつけていただくと良かったと思う。

 後半のデータ集部分も、おもしろい。

(1)江戸川、江東、板橋、北、豊島で外国人増加。外国人別でみると、中国人、ベトナム人、ミャンマー人の増加がめざましく、ブラジル人は減少傾向。(p107~)

(2〕吉祥寺は若者が減っているのに対して、北千住は増えている。(p138)

 吉祥寺は地価が上がりすぎて、賃貸価格が高すぎるらしい。

(3)最近は、横浜に住んで川崎で遊ぶ。(p180)

 高度成長期の悪い川崎のイメージが払拭され、川崎駅西口の開発もどんどん進んで、ヤンキー経済が川崎に及んでいるらしい。こういうビビッドな経済の動きの分析は、当たっているかどうかわからないが、とにかく注目。

 あと、最後の対談で、三浦さんが移民について、日本人がやりたがらない労働だけを移民にやらせるといった上から目線ではそもそも移民が来ないという話しもそうだろうなと思う。airbnbの簡易宿泊のマッチングビジネスも、旅館業法とか規制をうまく緩和して、実現したいな。

 なんか、密集市街地の防災対策でも、シェアハウスの寄宿舎扱いでも思うのだが、地域での実際の消火栓とか防災活動とかの実態からみて、ハードの規制を緩和するとか、シェアハウスでも、住んでいる居住者の居住ルールとか人間関係を評価して、住宅並みの基準でよくするとか、ソフトの部分の評価をハードの基準に反映させる、といった発想が大事ではないか?プロのご意見をお伺いしたい。

『都電型都市空間のすすめ』を読みました。


伊藤先生とアーク都市塾が一緒になって、ちょうど20年前に作成した本。
 
 大江戸線の計画があって、その駅を周辺とした、路地裏を大事にした、ちっちゃなまちづくり、ごちゃごちゃをむしろ受け止める都市計画を提案している。

 森泰吉郎さんの息子さんの森稔さんは、小生の誤解かもしれないが、ごちゃごちゃしたまちを大街区で再開発して、あしもとに大きな公共空間をつくる、さらには、密集市街地の上に人工地盤をはって、その上を再開発するといった大胆というか、極端な再開発論を唱えていたという記憶がある。

 その前にお父さんの森泰吉郎さんと伊藤先生が、猥雑でごちゃごちゃした町を残す提案をしていたというのは、ちょっと驚きだし、それだと、そのあとの都市再生特別措置法とかによる大規模再開発の誘導とか、制度設計した自分の思想的背景は結構脆弱なものだったのか、と反省する次第。

 しかし、人口減少時代で、東京でも、外資の本社機能が集まるような地区はより限定的に、東京の南側に重心を移しつつあるから、大江戸線などの駅周辺が、あまり開発が進まず、そのまま残っている地区も多いのは、これからまだチャンスがあるということと理解した。

 こういう、大規模な業務開発が行われる可能性のなち地区には、マンション業者が、売り逃げスタイルで安直な分譲マンションを建築しがちで、これを都市計画の観点、景観行政の観点から、どう押さえていくかが、本当はかぎだと思う。

 都市内の「緑」とか「緑地」「森は」はもうこれ以上こわさないという都市計画の大方針をきちっと国がだしたらいいと思う。

 なお、p160で提案されている春日での「下駄履き買い物公園」のアイディアはおもしろい。日本の参道の賑わいを、ふるびた公園の再整備で実現することは、制度的な制約をはずせば、実は、商業モデルとしては十分可能ではないか。是非、具体的なケースでモデル実験をしたいと思う。

 共感者を求めます。

『LRTと持続可能なまちづくり』を読みました。


 富山のLRTが営業を始めたころの本。ちょっと古いが、LRTに関する論点が網羅的に説明されている。

 本を通じた全体的な印象は、「公共交通」という土俵から議論をしていると思う。しかし、本来、公共交通は、人に対する移動サービスを提供する手段にすぎない。もう少し、大きな枠組み、例えば、地域住民の生活環境という枠組みから議論を展開する必要があると思う。

 そういう大上段の議論からすると、LRTのメリットとして、まず環境負荷の議論はLRTが圧倒的に有利かどうかあやしい。自動車がガソリンを大量に消費して大気汚染をまき散らしていた時代から、ハイブリッド、天然ガス車、電気自動車とそれ自体が環境負荷が小さくなってくると、今のように原子力発電が止まっていて、大部分を火力発電でまかなっている系統電力から電力を供給されているLRTが有利かどうか、わからない。

 都市アメニティという議論も、都心部のトランジットモール化とかなんとなくLRTになじみやすいかもしれないが、金沢市で
やっているようなバスとトランジットモール(p147)もありえるので、LRTだけ特に有利とも思えない。

 中心市街地の活性化にいたると、有名なストラスブールでもその効果ははっきりしていないという報告もある(p179)し、実際に図っているのが歩行者数ぐらいだが、正面切って、商店の売り上げ推移のデータが全くないことからみても、かなりあやしい。そもそも、通常の中心市街地の活性化の議論からすれば、店舗なり商業施設の中身がいかに人を引きつける中身と特徴を持っているかが、中心市街地の活性化のまず決めてで、それを支える交通機関は鉄道駅なのか、軌道の停車場なのか、バスの停車場なのか、自動車の駐車場なのかは、一概に決められないと思う。

 この本のp156以下のコンパクトシティの議論は、コンパクトシティを実現するためにLRTが有効かどうかもよくわからないし、そもそもコンパクトシティという概念自体が政策目的がはっきりしないので、何を何のために議論しているのかわからなくなる。

 都市財政へのインパクトの観点が、残念ながら一番わかりやすく、重要だと思う。都市財政は、市民、住民の生活環境を支える上で、これから福祉やインフラの維持管理など重要性が増す一方で人口減少、特に生産年齢人口が減少して税収がへってしまうという厳しい側面にある。これに対する負荷を小さくしつつ、市民、住民の生活環境を守るという観点からは、より持続可能な交通システムを様々な交通手段、さらには、公共交通システムの枠を越えて、運送会社などのよる買い物支援やNPO法人などによる福祉有償運送など、住民が自ら逆に移動しなくても生活環境が維持できる住民サービスなどを総合的に比較検討して、見通しをたて、暫定的でも計画をたてて、住民の意見を聞きながら、漸進的に実施するということが重要だと思う。

 その意味では、そうすると、LRTの弱点は、初期投資の大きさと経常的な赤字の発生の問題。これを解決するために初期投資を国や公共が補助する理屈を整理する必要がある。国は理屈に困るとモデル的事業とかいうけど、結局期限付きの事業になるので、財務省に説得的な理屈をたてる必要がある。自分は、地方公共団体の、次世代に対して負担をつけおくりしがちな傾向に対して、国の財政措置によって今、将来的に有効で長持ちする資産をつくる、次世代への負担に対するバイアスを軽減するという意味で、国も市も負担をする必要がある、という説明が一番いいのではないかと思う。

 これに対して、経常的な赤字に対する補助の理屈は難しい。市レベルでは、やはり、社会的な外部経済を固定資産税や都市計画税の増収分を基金化して、投入するという理屈が立つと思う。さらには、現実的に高齢者の利用が盛んであれば、高齢者への交通への福祉施設の代替的な意味として支援するという理屈がたつと思う。

 また、自動車の中心市街地での交通混雑という外部不経済が発生しているのであれば、駐車場の付置義務の緩和に伴う負担金制度の導入とか、トランジットモール化して、そこにどうしても進入しなければいえない自動車に課金するとかいう理屈もあると思う。ただし、国が経常的な赤字を補填する理屈は難しい。経常的な運転は受益が基本的にその市の利用者及びその停留所の周辺に限定されるはずなので、国全体からの税収から補填する理屈は思いつかない。

 この本では簡単に道路財源からの補填を言っているようだが、道路財源自体もなくなってしまったし、仮にあったとしても道路利用者の負担をLRTにつぎ込むというのは、受益と負担の関係がずれてしまっていて、うまく説明がつかない。

 本来の筋は、中心市街地の自動車、バス、タクシーとLRTなどの交通手段を統一的に計画して、中心部とトランジットモール化したり、駐車場の設置を抑制しつつ、公共交通機関の利用を便利にして、かつ、LRTとバスなどが不毛な競争をしたりしないように、市が総合的な調整と運輸連合のような仕組みをつくりあげていって、それぞれが利用者負担で経常的に黒字をだすことが大事だと思う。

 それが経常的に取り組んでもできないのであれば、LRTは当該都市では過大な交通機関という判断をせざるを得ないと考える。

 何度、思考実験をしても同じ結論になって申し訳ない。再度、考えてみる。

 参考論文、都心居住するだけでは自動車依存が改善しないという記述の参考論文 中道久美子ほか「サステナビリティ実現のための自動車依存性に関する研究」(都市計画論文集NO40-3、pp37-42,2005)

『キロワットアワー・イズ・マネー』を読みました。


 地域で払うお金が外に流出しないで、できるだけ地域で循環するように考えるという著者の発想は基本的に賛成。

 その上で、気づいた点。

(1)太陽光発電は、その系統電力の電力会社の高値での買い取りが前提となっている。これは、受益と負担が合っていない。太陽光発電を進めることが本当に国策として、エネルギー政策として重要ならば、きちんと国税で支援するか、国税をまける仕組みにすべき。その系統電力を使っていて、マンションなどに住んでいて太陽光発電ができない電気利用者が負担するのは筋がおかしい。また、著者もちらっと述べているが、ドイツでも固定価格での買電はどんどん価格がさがって、ほとんど太陽光発電会社は成立しなくなっていると理解している。日本でも系統電力会社が買い取り拒否を始めている。そもそも、太陽光発電を電気利用者に料金をオンして普及させようとする経産省の発想が論理的に無理がある。

(2)太陽光発電は、技術進歩が遅い。「ゼロ トゥー ワン」での述べられていたが、ITの二,三年で機能が1000倍とか急激に技術進歩するのに比較して、エネルギー効率も悪いし、当然ながら夜や天気が悪い時には発電できない。系統電力に頼らないためには蓄電池など電力をためる施設が必要となるがこの技術もあんまり進歩していない。技術進歩の遅い分野は現状で、自らのコストでは地産地消が成立していないことから考えると期待できない。

(3)むしろ、日本のように急峻な地形では、小規模な水力発電の方が可能性があるのではないか。農山村などでは、山際から沢水が流れてているが、そういうところに小さな水力発電施設を設置したら、集落の電力はまかなえるはず。系統電力が全国に広がる前には、そういう小規模な水力発電施設が実は集落ごとに結構存在したと読んだ記憶がある。これなら、電気が一番必要な夜にも発電できる。昔は発電しすぎたときに、電気をつけっぱなしにしていたという話を聞いたが、これなんかも、もう少し今なら蓄熱するとかうまい方法がありそう。

(4)著者のドイツの事例による断熱性能をアップするリフォームや新築の促進、特に、新築時での高い省エネ基準の義務づけには大賛成。

 日本の省エネ基準はあまりに低すぎ。近代的なオフィスとか新しいマンションでも未だに一枚ガラスで済むというのは、日本のようにエネルギー供給が不安定で、その大部分の資源を海外に頼っているというハンディをしょっている国の建築物としてはあまりにおそまつ。将来のまさに正の資産とするためにも断熱性能基準を義務づけすべきだと思う。(ドイツの事例はp158)

 なんで、こんなに日本は断熱性能に無頓着なんだろう。もちろん、ドイツのように全室暖房をしない日本の場合にはエネルギー消費自体はすくないかもしれないが、風呂やトイレで温度差で倒れる高齢者の存在も考えると、断熱性能をよくして、ライフサイクルコストを押さえることはビジネスとして当然成立しると思う。

 また、ドイツのように新築が住宅建築投資の20%台(p61)になる時代がきても、断熱リフォームで工務店や建築家が飯を食っている。これが日本のハウスメーカーや建築家の生きる道の一つだと思う。

 なお、この本の最初で、3.11の直前に国土政策局が発表した国土の長期展望を分析しているが、この分析と最近の国土のグランドデザインとが整合せいているか、気になるので勉強しなおしてみる。

 ちょっと、とっちらかった本だが、刺激的ではある。

『黒いアテナ 上』を読みました。


 ライフネット生命の出口さんの推薦。

 大著で上下二冊。この日曜日は上巻を読んだ。

 著者はロンドンのコーネル大学の名誉教授。

 通常のギリシャは、ヘロドトスなどの歴史書ではエジプトの影響が強く表れているが、近代になってからは、西洋中心主義の考え方から、ギリシャはアーリア民族の発祥の地と整理されている。

 これに対して、古代のエジプト語の語彙がたくさん小アジア、国会周辺やギリシャに存在することなどや、最近の炭素での年代測定法や考古学の知識をふる活用して、ギリシャには、エジプトの影響が紀元前3000年ぐらいから相当に強井こと、エジプトのファラオが黒海周辺やギリシャを征服した時代もあったことを論証している。

 また、古代エジプト王朝では、ナイル川上流からファラオがでた場合も多く、その場合には、当然、ファラオは今でいう黒人だった。その黒人のエジプト人の末裔が、現在のグルジアなどに存在する黒人の一部であるとの主張もしている。

 日本人からすると、別にギリシャや黒海周辺を、黒人のエジプト人が征服したという学説自体を別に嫌悪する気にはならないが、ドイツを中心とした白人の歴史学者にとっては許しがたい異説らしい。

 政治的、民族的な潜在意識、優越意識が、客観的な歴史上の論争をゆがめている具体的ケースだと理解した。

 来週の日曜日には、下巻に取り組む予定。

ギャラリー
最新記事
記事検索
  • ライブドアブログ