革新的国家公務員OBが語りたいこと・伝えたいことー自由と民主主義を信じ国益を考えるーAiming at an innovative official of the national government

36年の公務員生活で培った「防災・復興法制」「都市計画法制」の知識を広く共有するため、書評を通じて、関係する新しい論点を示します。なお、意見にわたるものは個人的なものであり所属する(した)組織の意見や立場ではありません。

2016年11月

『自分の時間を取り戻そう』を読んで、生産性向上を政策で提示する意味を考える。

自分の時間を取り戻そう
ちきりん
ダイヤモンド社
2016-11-25

 木下斉氏の推薦。

 この本は、タイトルからわかるように、一人一人の資金や時間の投入量で自分のほしいもののアウトプットを効率化して、むしろ、自由につかう時間をちゃんともとう、という話。

 個人の生活設計という観点からも重要だが、要は生産性の議論だから、最近のイノベーションやi-constructionの議論とも共通する部分がある。

 産業の生産性の向上を政策で提示し、推奨する意味を考えてみた。

(1)より少ない資本や労働の投入で、より多くの付加価値をあげることが生産性の向上。一般的な企業や産業であれば、本来は、個々の企業が切磋琢磨して競争に勝ち抜くために自己努力すればいい話で、政策としては規制緩和などの環境整備をすればいい話だろう。

(2)社会インフラの部分については、税金で負担する部分がでてくるので、いかに財政効率的で持続可能な投資を行うかという観点から、受け手の産業の効率性に目配りは必要だろう。しかし、役所が下手に効率性に口出しをしても的確に方向性を示すことができない可能性が高いので、社会インフラの部分にも、民間企業が参加して競争できる環境を整備することが重要。また、持続可能なシステムとして初期投資と維持管理費を一体的に評価して事業者を決めるようなシステムも重要だろう。

(3)日本の国力、国益と考えたときには、インフラをはじめとした日本の産業が海外展開することを促進することは政策としてありうると思う。しかし、単に産業の海外展開だけであれば政策でできることは少ないが、支援対象国の国民の生命や生活環境を守るといった社会政策に関係した産業の海外展開であれば、よりODAなどと連携して政策支援を行う必要性もあると考える。

 「生産性」という用語を、マジックワードのように使わずに、なぜそれを政策でとりあげるのかを、とりあえず考えてみた。

 以下、抜き書き。

(1) そうではなく「高速道路や新幹線の建設が、都市と地方の格差を縮小するための、もっとも生産性の高い方法なのか? 他にもっとよい方法があるのではないか?」と考えることが必要なのです。地方活性化のためのもっとも生産性の高い支援方法とは、本当に地方に補助金を配ることなのでしょうか?このように価値の絶対量で善し悪しを語る人と、生産性の高低でその是非を判断する人が混在しているため、両者の意見はまったく噛み合わないのです。(位置No442)

(2)生産性とはあくまで「自分が手に入れたいもの」をいかに少ない投入資源で手に入れられたか、という指標です。(位置No776)

(3)ここで理解しておきたいのは、「今いる組織への最適化」を最優先に考えてしまうと、(良夫のように)生産性を上げるというインセンティブがまったくなくなってしまうということです。一方、「労働市場での評価を上げること」を意識しながら働くと、生産性を上げることが自分にとって必須の、かつ重要な課題になります。なぜなら労働市場で評価されるのは、まさに生産性の高い人だからです。(位置No873)

(4)生産性が高い生活とは、「時間やお金など人生の希少資源を最大限有効に活用し、自分が欲しいモノを手に入れる生活」です。これからも多大な希少資源を投入して「子供のいる幸せな生活」を求め続けるのか、それとも「子供はいないけれど幸せな人生」を手に入れるために希少資源を投入するという方向に舵を切るのか——そのどちらが、残された時間やお金をもっとも有効に活用できる道なのか。そういう視点で考えれば、異なる結論が出せる人もいるはずです。(位置No1236)

(5)私たちが大事にすべきなのは、過去ではなく未来です。今の時点で保有している希少資源をなにに投資するのがもっとも生産性が高いのか=自分が欲しいモノが手に入りやすいのか。そういう視点で考えてこそ、過去に縛られない生き方ができるのです。(位置No1258)

(6)アメリカの賃貸アパートでは、空調はセントラル管理、掃除機は部屋の壁に吸引口がついていて、付属の専用ホースを挿すとゴミを吸い込むしくみになっています。洗濯機も共用フロアにコインランドリーが並んでいるため、アパートの部屋を借りる人は冷暖房機も掃除機も洗濯機も買う必要がありません。日本でもシェアハウスが増えてくれば、「全員が自分専用の洗濯機や掃除機を持つなんて、生産性が低すぎるよね」と気づくはずです。(位置No2003)

(7)生産性が高くなるということは、限られた希少資源が最大限に活用され、今より何倍も大きな価値が生み出されるということです。それにより今よりずっと安い値段で、今よりはるかに高い価値が手に入れられるようになります。社会の生産性が上がって得をするのは、決して強者だけではありません。すべての人がより豊かな生活を手に入れるためにも、社会の高生産性シフトはとても重要な役割を果たすのです。(位置No2168)

『世界を変える100の技術』を読んで、土木、建築関係は要素技術としては地味だが空間設計としてみる大きな可能性があるような気がする。


 タイトルで役所の本屋で購入。

 生物や脳科学、AIなどが中心かなと思って読み始めたら、意外と土木、建築関係が多い。これって、個々の要素技術は地味だが、これを空間設計に実際に活用すると、新しい空間像ができそうな気がする。
 それをうまく提案したら、もっと大きく化ける可能性がある。

 以下、気になった技術。

(1)走行中給電(磁界結合型(コイル方式)と、電界結合型(コンデンサー方式)(p50)
 走行中に常時充電できると電気自動車の可能性も広がるし、逆に、道路空間の利用可能性も広がる。空間を活用して太陽電池などで発電しつつ、給電もできれば、エコでかつ持続可能な道路空間利用が生まれる可能性があると思う。 

(2)CLT(直交集成板)と耐火木材(p103、107)
 強くて耐火性能が優れた木材、それと他の資材のハイブリッドによって、木材建築の新しい空間形成ができる可能性を強く感じる。

(3)サイホン式排水システム(p34)
 ブリジストン、野村不動産、長谷川工務店の共同開発。これ自体のメリットは少しわかりにくいが、共同建築物の排水システム自体はもっと技術開発がメインテナンスなどの観点が必要だと思うので、メモ。

(4)新しい植栽基盤、J・ミックス工法(p122)
 東邦レオが開発。これも同様に具体的効果はわからないが、植栽基盤がもっとよくなると、屋上庭園とか都市公園の立体利用が有効になるはずなのでメモ。

(5)AIによる不動産鑑定(p61)
 ソニー不動産とソニーが共同開発したマンション価格推定機能。これは現実に、手数料を軽減したマッチングサイトの可能性がある。確かもう一部実現しているはず?
 ちなみにAIが人間が行ってきた作業を代替するのは、価格評価のようなある程度機械的な判断であれば、他の多くの作業でも代替できるはず。

 その他、ドローンによる測量や橋梁の維持管理などは当然大事。

 

『柳田国男』を読んで、冷静に考えれば氏神信仰やそれを支えていた共同体意識は衰退しつつあると考えざるを得ないか?


 役所の本屋で、タイトルから購入。

 国土計画とか不明土地の問題を考える上では、集落に残っている民俗知を価値のあるものと認識して、どう守るかという観点が重要だと思っている。純粋に経済的な観点からいえば、森林や山村を守る理屈が乏しいがそれが民俗知という言葉で、価値を明らかにできないか、という視点。

 その意味で、民俗学の泰斗の柳田氏の評論を読んでみた。

 以下、その主張のポイント。

(1)氏神信仰は、先祖はけがれをとく30年ほどたつと、集落の信仰を集めている山に戻ってくる。そして、集落は、異なるイエの集合体なので、異なる先祖が融合した神としての氏神として、祭られてきた。

(2)その素朴な氏神信仰に、時代を経て、都市化によって疫病などが発生したときのそれを沈めるために他の神を同時にまつる、さらに仏教とも混合する形で集落ごとに神社、寺社が維持されてきた。

(3)明治維新以降、それを国家神道の系列に一元化しようと内務省は試みたが、本来、国家神道と氏神は別のものであり、その試みは誤り。また、系列化に伴い村の神社を合祀させたことも氏神の生まれから考えて誤り。

(4)柳田氏は戦時中から、その氏神信仰の衰退を危惧していた。

 個人的に現時点で思うこと。

(1)農業や林業などが人の労働中心に行われていた時代には、集落単位での結びつきが重視され、そしてその先祖をみんなで祀るという行為に価値があった。しかし、農業、林業の衰退と、一方で効率化を重視しないと生き残れない経済社会を前提にすると、集落単位での結びつきの価値が乏しくなってきているのではないか。

(2)都市化に伴う集落での伝染病の蔓延など、不可解な現象に対して、集落全体で氏神様を祈るとか、氏神様を喜ばすために祭りをするという行為が維持できた。しかし、科学の発展に伴い、ご利益のための信仰というのは、衰退せざるを得ないのではないか。

(3)その一方で、人が誰でも持っている死への恐怖、少子化に伴い自分を将来祀ってくれる子孫がいない世帯の増加などによって、集落とは別の人のつながりやシステムが求められていくことも想定される。より、合理的でWin-Win関係を前提としたアソシエーション、例えば、身近にあるものでは、同窓会、カレッジスクールなど、さらにネットを使った人のつながりが重視されていくような気がする。

(4)このように考えていくと、従来型の集落を前提にした民俗学が対象としてきた、様々な信仰や習慣などがそのまま維持されるのは難しいのではないか。

 こんなことを言うと、柳田氏に怒られそうなので、もう少し、民俗知について考えてみる。

 以下、抜き書き。
 

(1)なお比較の具体的な方法として、しばしば「重出立証法」や「周圏論」があげられている。前者は、同種の民俗事象を比較し、それらのなかに共通に含まれている頻度の高い要素ほど古いものとして、民俗の変遷を再構成していく方法。後者は、文化的な中心地から遠い地方ほど古層に属する民俗が残存するとの見方である。(位置No491)

(2)柳田はこのような国民経済の「不景気」の原因の根本に、近代日本における都市と農村との関係、すなわち中央(都市)の地方(農村)に対する無制限な「搾取」があるとする。農村を犠牲にして都市が発達してきた事実、そしてそれによって今や農村がその「購買力」を失って、「衰微」しつつあるという事態が横たわっていると見るのである。(位置No1033)

(3)このように柳田は、国民の大多数をしめる勤労者を結集しうる新たな社会改革のビジョン、「学問と思索」に裏打ちされた社会改革の具体的構想を、無産政党自らが打ち出していくことを期待していた。 その「学問と思索」には、いうまでもなく「民俗学」が含まれていた。(位置No1943)

(4)つまり、様々な民間信仰やその他の民間伝承の研究によって柳田は、人々の多様な民間信仰の核が氏神信仰であることを明らかにする。それとともに、この氏神信仰が様々な変遷をへながらも独自のものとして過去から伝えられたものであり、一国的レベルで共通のものであることを示そうとした。そのことを人々が自覚し意識化することが、個々人がナショナルな意識をはぐぐみ、今後の国民的な結合をより確かなものとしていくと考えられていた。(位置No2753)

(5)つまり氏神とは代々の祖先の霊が融合一体化したものであり、したがって人は死後一定の期間の後それに融合していくと考えられていた。(位置No3216)

(6)大神の勧請や氏神の合同、仏教の影響などによって、村の氏神と代々の祖先の霊との関連が忘れられるようになってしまった。そして、これらを背景に、信仰の一種の個人化、信仰対象の流動化が進行した。また、個々人が共同の祭礼以外に村の氏神や他社の大神などに願をかける、いわゆる個人祈願も一般におこなわれるようになってきた。そう柳田は捉えている(『氏神と氏子』『日本の祭』)。 以上が柳田のえがく氏神信仰の神観念の原型とその展開のアウトラインである。(位置No3766)

(7)世界の多様な民族の心性(それぞれの信仰)には、相互理解を可能にするような通底するものが含まれているのではないかとみていたのである。(位置No3787)

(8)このように柳田は、ハレとケとケガレの関係について、ハレとケガレは対立しつつも非日常的なもの、非日常的な力をはらむものとして、同じく聖の範疇の側に属する。そして両者は日常性であるケと、根本的な対立関係にたっている。そう考えている。つまり、ハレとケガレは、いわば聖の両義性をあらわしており、対立して互いに他を排除するものではあるが、相互に転換可能なものである。それに対して、両者とケとの間は、聖と俗との関係に対応するものとして、本質的に相容れないもの、根本的に異質なものとみているのである。(位置No4212)

(9)たとえば「御弓の神事」「御的射の式」などと呼ばれる弓射の行事が、祭と不可分のものとして各地でおこなわれている。これは本来は村落または家筋によって組をわけ成績を競ったもので、その結果によってそれぞれの集団のその年の吉凶をうらなった。相撲、綱引き、闘鶏などもまた同様で、祭の際の楽しみであるとともに、もとは神意を推し測るためのものだった。その結果が一年間の神の好意のあらわれと解されていた。また競馬もしばしば祭において神占いの催しとしておこなわれた。(位置No4347)

(10)氏神信仰は、柳田にとって、国民意識の一つの基礎であり、また村落における人々の共同性を内面的に支えるものだった。さらには日本人の生の内面的意味づけと深く関わり、人々の価値観や倫理意識の形成に重要な意味をもつものとして、積極的に評価さるべきものと考えられていた(詳しくは後述)。それゆえ柳田は氏神信仰を、それにはらまれる一定の問題性を克服しながら、基本的には維持し持続させていこうとしていたのである。(位置No5209)

(11)つまり自分の子や孫、そして親類・縁者や親しい人々の子供たちがすこやかに育ち、その生活がそれほど大きな苦しみもなく充実したものとして営まれることを願うのは、ある時代に限らない、と。 そうすると、ほんとうにそれらの子供たちのことを考えようとすれば、彼らがおかれている社会や文化を、より良くしていくことを考えなければならない。そしてその社会や文化は、まさに他者や自然によって構成されているわけである。それゆえ当然、他者や自然との共生ということを意識的に考えていかなければならない。そこにやはり将来の倫理形成へのひとつの糸口があるのではないか。そう柳田は考えていたのではないのだろうか。(位置No6289) 

『2025年、高齢者が難民になる日』を読んで、著者の提案するケア・コンパクトシティの都市計画側が弱い、著者のせいではないが。


 主に、財政学者や介護系の学者が主体となって書いた本。

 今後の地域包括ケアのあり方について、地域側からみて、まちづくりとの連携を「ケア・コンパクトシティ」として提案した本。

 まずもって、財政や介護の学者が空間計画の必要性を理解し、まちづくりとの連携を提案したこと自体は望ましいし、素晴らしいと思う。

 その上で、これは都市計画の専門家の問題だが、立地適正化計画やコンパクトシティについての議論が混乱していて、その影響がこの本にもでている。

 小生として気になる点。

(1)介護や医療の一般的な論点は適切だが、例えば、個人負担ということを考えると、有料老人ホームやサービス付き高齢者住宅は、土地代や建築費を含んだ利用料等については、相当高額で、現役時代にざっくりいって夫婦で一人3000万円以上の貯蓄を確保し、厚生年金も最高額をもらうぐらいでないと、入居できないのではないか。
 逆に言えば、今後、空間計画と一体的に充実すべきは、そこまでお金持ちでない高齢者の受け皿を、どう財政効率的に確保することではないのか。

(2)上記の問題意識からすると、第4章で、
ア)空き家を活用した(新しく土地代や新築費用をかけないということ)武蔵野市の「テンミリオンハウスくるみの木」、世田谷区の認知症高齢者主体のデイサービスセンター「喜多見だんちディ」と、

イ)新規開発の板橋区「クローバーのさと」、杉並区の日産自動車跡地の「シーダ・ウォーク」、福岡県中間市「ウエルバーヒルズ」、岐阜市駅前再開発事業など

を同列に議論するのは、論点がぼけるのではないか。

(3)今後の都市計画のあり方を考える上で、散在した市街地をコンパクトに能動的にできるか、またそれが望ましいかについては異論があるものの、新しく新規開発を郊外にして、これ以上市街地が拡散するのは望ましくないというのは共通意識だと思う。
 また、再開発ビルのように超高層で住宅用途と他の用途が混在する区分所有建物が将来の大規模修繕や建て替え、さらには空き家がでた場合の平時の維持管理の問題があることも、ほぼ異論がないところ。これらの切り口から、本当に今後の地域で支える医療介護システムと都市計画の議論が整理されているかは、具体例についても再検証すべきだろう。

(4)少なくとも、既成市街地において空き家、空き室がでている団地や住宅市街地でその建物をリノベーションしながら活用することは、都市経営という点からも財政効率的だし、サービスの提供価格という観点からも、新しい介護施設を建設するよりも安価で持続可能なビジネスになる可能性があり、空き家、空き室を活用することを重視すべきではないか。

(5)そもそも、既存の都市構造を、一定の地域に居住者やそれに対するサービス機能を集約していることが可能か、それが望ましいのか、また、仮に可能で望ましいとしてもどれくらいの時間スパンで考えるかについては、都市計画の専門家でも議論があるところ。
 ここは、立地適正化計画やコンパクトシティの議論として都市計画側で論点を明確化して整理すべきだろう。

(6)なお、p209あたりから、市町村の65歳以上の高齢者人口密度と一人あたりの介護給付費、一人あたりの老人福祉費を回帰分析して、一人あたり介護給付費は無関係、一人あたり老人福祉費は高齢者人口密度が高まるとやや減少傾向にあると分析し、ここからコンパクトシティ化の議論をしている。
 これには二つの疑問がある。

ア)コンパクトシティは一番ざっくりした議論でもDIDの区域内での人口密度で議論するもの。
 市町村の行政区域単位で高齢者密度が高いということはなんら都市構造を表しておらず、単にその市町村で面積あたり高齢者が多いということ。それは政策的にはコンパクトシティしたから一人あたり老人福祉費がへるという結論を誘導するのは無理だろう。あえていえば、面積あたり高齢者が多い市町村は一人あたりの老人福祉費が少ないから、もっと高齢者を増やしましょう?ということになるが、これはほとんどナンセンスだろう。

イ)この手の静態的なデータで仮に全国の市町村を横に並べて、コンパクトシティ化した市町村が一人あたりの老人福祉費が少ないとしても、では、個別の市町村がコンパクトシティ化を主体的にしたらそれが減るかどうか、は別の問題だろう。
 コンパクトシティを実現するために、例えば、既成市街地への転居に補助したときの費用と、それに伴って、郊外での福祉サービスがどの程度、財政負担が減るかをきちんと検証しないと、なんともいえないはず。
 直観的には、補助金などの誘導措置で郊外から中心市街地に高齢者世帯が例えば、10%移住してくれても、のこりの90%の高齢者世帯が郊外に住んでいれば、ほとんど、郊外高齢者世帯向けの介護、医療サービスは減らすことができず、かえって一層非効率なサービス、例えば、地域包括ケアセンターの運営などをせざるをえないのではないかと思う。

 いずれにしても、この本での議論の混乱は、都市計画の専門家の問題であり、著者の空間計画と医療、福祉計画とを一体的に考えるという発想は現時点で必要なもの。

 これらの著者と連携して、都市計画の専門家が共同研究する場はつくれないものか?小黒先生の紹介ができる方ご連絡お願いします。

 

『トイレ』を読んで、江戸時代の世界最先端の汚物リサイクルや便器の歴史など、うんちくがいっぱい。


 HONZで確か紹介していた。

 もともと、目につきにくい、上下水道とかのインフラが実はとっても生活環境に大事だと思っているし、そのことを楽しく、みんなと語りあいたいなと思っていたので、思わず購入。

 トイレにまつわるうんちくが一杯。

 もちろん、太閤下水や神田下水は、カラー写真で紹介されている。(pviii)

 その他、へ~と思ったうんちく。

(1)日本最古の縄文前期のトイレは、鳥浜貝塚(福井県)で、桟橋式のものが発見された。(p30)

(2)平安時代の貴族は移動式のトイレ、鎌倉時代からは屎尿として活用するため、壺にためる方式が始まり、江戸時代まで続く。建築様式としては農家建築はトイレを外の建物に設置し、武家建築では建物内に設置。(p33)

(3)江戸時代、関東では長屋からくみ上げた屎尿代は大家のもの、関西では、大便は大家、小便は借家人のもの、そのため小便の回収が関西で盛んになった。(p57)

(4)列車にトイレがつきだしたのは、1920~1930の間。最初は全部垂れ流し。最初に新幹線でタンク式が着けられたが、糞尿処理の時間がかかったため、現在では、洗浄液を循環して、汚物だけをためる循環式となっている。現在は垂れ流しの鉄道は存在しない。(p182)

 あんまり、役に立つかわからないが、汚物処理のことを、まじめに考えるきっかけにはなる本。

 
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