革新的国家公務員OBが語りたいこと・伝えたいことー自由と民主主義を信じ国益を考えるーAiming at an innovative official of the national government

36年の公務員生活で培った「防災・復興法制」「都市計画法制」の知識を広く共有するため、書評を通じて、関係する新しい論点を示します。なお、意見にわたるものは個人的なものであり所属する(した)組織の意見や立場ではありません。

人類学

『昨日までの世界 上』を読んで、狩猟採集民族でも紛争・戦争が絶えないことと、国家権力の発生によりこの戦争等が減少したことを知る。

昨日までの世界(上) 文明の源流と人類の未来 (日経ビジネス人文庫)
ジャレド・ダイアモンド
日本経済新聞出版社
2017-08-02

 暴力や戦争による死亡者の数は、人口比率でみても、歴史的な資料から減少傾向にあるのはピンカーの書いた、『暴力の人類史 上』『暴力の人類史 下』でも指摘されていた。

 この本においては、ある程度人口密度高く居住している、ニューギニアなどの狩猟採集民族は、周辺の交易関係があり、同じ言語を使う他の民族との間で、頻繁に紛争・戦争を行い、殺人行為を行っていることがわかる。その人口あたりの死亡率は近現代の国家よりも圧倒的に高い。

 また、通常、狩猟採集族時代から農耕社会に変化し、資源の貯蓄が可能となってから以降、その資源をもとに争いが生じると言った説も聞かれる。しかし、この本によれば狩猟採集民族であっても狩猟採集活動をする土地の争いなどを原因として戦争が絶えないとのこと。

 なお、狩猟採集民族を観察している西洋人がいる前では戦争行為を見せないようにすることによって、狩猟採集民族は平和的と言った、人類学当初の誤解が生まれてきた可能性も指摘されている。

 その一方で、西洋人がニューギニアなどに入って、圧倒的な銃などの武器の効果を示すことによって、紛争を抑制することに成功し、かつ、狩猟採集民族自身も争いなく生活が行われることができ、満足したと言った報告もなされている。

 紛争を自力救済ではなく、国家権力が暴力を独占して処理すると言ったシステムは歴史的にも人類学的にも合理的なものであることが理解できる。当たり前のようだが、きちんと事実で説明することは大事。
 
 以下は抜き書き。今日コメントした戦争関係は(12)以降です。(5)までは狩猟採集社会の総論、(6)から(11)は警察・司法関係です。

(1)狩猟採集社会から農耕社会への移行は、わずか一万一〇〇〇年ほど前にはじまったばかりである。初めて金属器がつくられたのはわずか七〇〇〇年ほど前のことであり、初めて国家が成立し、文字が出現したのは、ほんの五四〇〇年ほど前にすぎない。(位置No269)

(2)ひとつの社会の人口が一万を超えてしまうと、市民全員が一堂に会し、顔を合わせて議論を重ね、それぞれが意見を述べるという方法では、意見をまとめ、実行し、管理していくことは不可能になる。社会の人口が多いと、意思決定をする指導者と、その意志を実行する高官、決定事項や法律を管理する官僚が存在しなければ、社会は回らない。(位置No362)

(3)本書では、エルマン・サービスが人口規模の拡大、政治の中央集権化、社会成層の進度によって分類した、人間社会の四つのカテゴリーを折に触れて使っていく。それはすなわち、小規模血縁集団、部族社会、首長制社会、国家である。(位置No423)

(4)伝統的社会でみられるもうひとつの交易パターンでありながら、現代社会においては類似の形態がみられないパターンとしては、「通念上の独占」と呼ばれるものがある。このパターンは、物品の取引関係がつぎのような形態にあるときにみられる。ある物品が、ふたつの集団のいずれの域内においても自前での入手や生産が可能な物品であるにもかかわらず、当該の物品の入手に関しては一方の集団が他方から独占的な提供を受けるという暗黙の了解を前提に、互いの交易関係の維持と継続がはかられる、という形態である。(位置No1941)

(5)伝統的社会における取引は、人々がほしい物品を入手するための手段ではあるが、それだけが取引に託された役割ではない。人々は取引を「創出」し、それを集団間に介在させることで、社会的な目標や政治的な目標を実現する手助けになる、と思っているのである。そして、伝統的社会の人々にとって、もっとも重要な目標が同盟関係の絆の強化である。(位置No1996)

(6)個人をして、私的暴力に訴えなくさせる方法は二通りある。ひとつは、国家権力を恐れさせ、その脅威によって個人の武力の行使を思いとどまらせる方法である。もうひとつは、国家社会の司法制度が自分に代わって公平に対処してくれるのだから、自分が武力に訴える必要はないと自然に思わせ、納得させる方法である。(位置No2598)

(7)このように国家司法が最優先する課題は、紛争の解決の代替案を提供すること、つまり、人が個人で正義を遂行するという形での紛争の解決方法に代わる方法を提供し、その方法を社会の規定とすることによって社会の安定を維持することにある。(位置No2638)

(8)アメリカもまた他の国家社会と同様の問題を抱えている。ひとつの問題は、民事においては、裁判の終結までに時間がかかりすぎる点である。場合によっては、判決が出されるまでに五年を要することさえある。(位置No2778)アメリカの民事制度の欠陥をもうひとつ挙げると、訴訟の弁護士費用の負担の問題がある。アメリカでは、大半の係争事案において、敗訴側が勝訴側の弁護士費用を負担することがない(ただし、紛争が生じた当該契約書の趣旨に、「弁護士費用は敗訴側の負担とする」と明記されていれば、そのかぎりではない)。(位置No2786)

(9)ところで、国家社会の民事制度のもっと根本的な問題は、制度の趣旨が損害を賠償する責任の所在の判断にあって、感情的な対立の終息や和解をはかるということが二の次にされ、ほとんど目的にもされていないことである。(位置No2801)

(10)すでに記したように、刑罰を科すのは、犯罪の抑止効果を期待してのことである。つまり、犯罪者に刑罰を科すことによって、一般の人が罪を犯すことを思いとどまらせ、新たな被害者が出ないようにすることが重要なのであって、当該事件の犠牲者とその親族の心情や望みといったことは、ほとんど問題外である。加害者とその親族の心情や願いもまたしかりである。国家は国民の代表として、犯罪の抑止効果を目的に犯罪者を罰するのである。(位置No2940)刑罰を科すふたつめの目的は、犯罪行為に対する応報・懲罰である。この、犯罪に対する国家的応報があるから、国家は「われわれ国家が犯罪者を罰するがゆえに、被害者みずからが罰を与えようとすることはしてはならない」といえるのである。アメリカでは、理由についてはいろいろ指摘されているが、実刑判決が下される割合が他の西洋諸国に比べて高く、刑罰も重い。しかも、西洋諸国のなかで死刑制度が廃止されていないのはアメリカだけである。(位置No2964)刑罰を科す三つめの目的は、教育と更生の効果の期待にある。犯罪者が教育を受け、更生し、社会に復帰してふたたび正常な社会生活を送れるようになり、社会に対して経済的に貢献できる人間になれれば、彼らは収監されて社会に大きな経済的負担を強いる人間ではなくなるのである。(位置No2980)

(11)国家社会の司法システムというものが、主として司法における国家の目的達成のために存在しているからである。それらの目的とは、私的な暴力による報復の抑制、遵法規範意識の醸成、一般多数の人々の権利・自由の保護、犯罪者の更生、および、応報・懲罰のみせしめ効果による犯罪の抑制である。国家社会の司法システムではこれらの目的が重視されるため、小規模社会の紛争解決で重視される個人的関係の回復や、感情面での対立の解消といったことが十分に考慮されない傾向にある。これらは、やむを得ない事由によって無視されているのではなく、国家の司法の目的が重視されるがゆえに無視されているのである。(位置No3204)

(12)「戦争とは、敵対する異なる政治集団にそれぞれ属するグループのあいだで繰り返される暴力行為のうち、当該集団全体の一般意志として容認、発動される暴力行為である」これが、本書で用いる定義である。(位置No3573)

(13)まず、それぞれの最高値の比較でみると、二〇世紀の現代国家の最高値であるドイツとロシアの値ですら、伝統的小規模社会の平均値の三分の一にすぎない。ダニ族の平均値との比較では、その六分の一にすぎない。全体的な比較では、現代国家社会の平均値は、伝統的社会のそれのなんと一〇分の一ほどである。(位置No3820)

(14)人間が生得的に好戦的かあるいは非好戦的かの議論が無益な議論であるように、人間が生得的に暴力的であるのか、生得的に協調的であるのかの議論もまた無益な議論である。人間社会はどれも、暴力的でもあり協調的でもあるからだ。どの形質が特徴として際立つかは、外部環境の影響に左右される。(位置No4320)

(15)国によって、国境を接する隣国の数が異なり、隣国の数が多ければ多いほど、その国が戦争に関与する回数も、長期的な平均値を取れば、多くなるのである。つまりは、戦争に関与する回数の大小は、隣国の数の大小にほぼ比例する。なお、リチャードソンの解析結果をみるかぎり、隣国同士が同じ言語を使用するか否かという言語的要素の影響はほとんどみられない。しかし、この傾向から唯一外れた例外もみられた。それは、同じ言語を使用している隣国同士にあっても、使用言語が中国語とスペイン語では異なる結果がみられるということである。使用言語が中国語である隣国同士のあいだでは、戦争になった回数が、世界の中国語話者人口から算出した統計的予測値より少なかった。ところが、使用言語がスペイン語である隣国同士のあいだでは、戦争になった回数が同様に算出した統計的予測値より多かったのである。(位置No4534)

(16)ローレンス・キーリーが指摘しているように、「多くの社会において人々は、婚姻・姻戚関係にある相手の集団と戦い、敵対相手である集団の人間と結婚し、交易関係にある人の集団を襲撃し、敵と交易をする傾向がある」のである。理由は、国家社会の場合と同じである。近接性の要因は、交易や婚姻に関与しているのと同様、戦争にも関与している。そのため、交易や婚姻があり得る集団のあいだでは、戦争もまたあり得るのである。(位置No4574)

『昨日までの世界 上』を読んで、狩猟採集民族の子育てについて気になった点をメモ。

昨日までの世界(上) 文明の源流と人類の未来 (日経ビジネス人文庫)
ジャレド・ダイアモンド
日本経済新聞出版社
2017-08-02

 『銃・鉄・病原菌』を書いた著者の新刊。

 近現代に残っていた(る)狩猟採集民族の様々な生態から、現代人への知見を得ようとする試みの
本。

 先日読んだ『なぜヒトは学ぶのか?』、においても、進化論の観点から、そもそも、人は教育を受け、そして教育を授ける機能があり、それがヒトが生き残るために必要だったと指摘している。

 この本は、同様の指摘を、狩猟採集民族のこれまでの調査を分類・整理することによって、彼らの子育て・教育についての手法が紹介されている。

 特に、米国の子育てを前提にすると、著者によれば、狩猟採集民族の子育ての慣習のうち、
(1)赤ん坊をと親が常に同じ向きの方向を向いて、抱いたりおんぶしていること
(2)赤ん坊が泣いたらすぐ対応すること
(3)親族や周辺の大人の赤ん坊の世話が盛んであること’アロペアレンティ)
(4)赤ん坊とのスキンシップを例えば随時、授乳するなど、濃密であることこと
などは、参考になると指摘している。(位置No5641)

 もちろん、狩猟採集民族の子育てには現代に全く受け入れられない要素もある。
 例えば、選択的な嬰児殺しや出生児死亡率は高い出産方法(妊婦が1人で出産する方法)、また幼児にナイフや火のそばで遊ばせてたりする育児法など問題のある点も多い。

 人類が進化する中で、元々持っていた教育の慣習の中には、参考とすべき点があると言う指摘は有益だと思う。

なお、上巻では、狩猟採集民族間の争いや戦争についての分析が詳細に行われているが、それは明日整理したい。

『わけあって絶滅しました』を読んで、絶滅理由は一つの仮説と思ってよむのが大事かな?


 まず、子ども向けの本として読む必要あり。
 
 その上で、生物の絶滅理由について、地球環境の大規模な変化とライバルの出現で説明している点。

 第一の地球環境の大規模な変化の解説については、6000万年前の隕石の衝突によるティラノサウルスなどの恐竜の絶滅(118頁-200頁)、ヨウスコウカワイルカの揚子江の環境破壊によるぜつめつ(122頁-123頁)など、一定の仮説ではあるものの、素人が読んでも説得力のるものが多い。
 
 後者のライバルの出現によって説明している部分(第一章 油断して絶滅、第二章 やりすぎて絶滅、第三章 不器用で絶滅)の部分については、いわゆる自然淘汰の理論が背景にあり、仮説は話としては面白いと思う。

 ただし、最近読んだ、『遺伝人類学入門』http://blog.livedoor.jp/shoji1217/archives/1071856975.htmlで指摘されていた、突然変異のほとんどは進化に対して中立的であり、近年は通説化して「中立理論」と呼ばれている、という指摘を踏まえると、どの程度、ライバルがでて、生存競争に負けたという仮説が説得的なのかよくわからない。

 少なくとも、まず、絶滅の要因が環境面、他の生物など多様かつ複雑ではないかという点、また、一定の規模の大小の違いが少ないグループを絶滅させるといった数学的な説明も可能ではないかという点など、いろんな指摘ができそうに思う。

 その意味では、絶滅理由にはいろんな説もあるけど、ダーウィンのいった自然淘汰説に近い考え方だと、こんな説明もできるね、ぐらいで理解したらいいと思う。

 でも、眺めているととても楽しいし、長い時間の経過と今後の人類の行く末を考えるうえでは、貴重な夏休み向けの読書本。

『遺伝人類学入門』を読んで、最先端の遺伝子分析で、女性と男性の遺伝子のばらつきの差を説明する部分が面白いな。

遺伝人類学入門 (ちくま新書)
太田 博樹
筑摩書房
2018-05-09

 北里大学の遺伝子人類学の先生が書いた本。

 初歩的な最近の遺伝学の説明が最初に続くがわかりやすい。

 ダーウィンが提唱した突然変異に伴う自然選択の議論に対して、木村資生の提唱した中立説、すなわち「全ゲノムのなかで突然変異が生き残るのは一部必然によって生き残る部分もあるが、ほとんどの部分が偶然で中立的」という」学説が、分子生物学の発達に伴い通説化し、現在では「中立理論」と呼ばれている。(位置No1748)

 この部分は勉強になった。

 後半の女性と男性で、女性の方が地理的距離が離れても遺伝距離が小さいのに対して、男性はばらつきが大きいという結果に対して、人類学的に仮説を提唱している。(第5章)

 非常にざくっというと、大部分の人類では父系社会で女性が嫁入りすることから女性の方が移動、移住をする機会が大きく、その結果として、地理的にみて女性の遺伝子のばらつきが小さくなっている。これは著者が例外的に存在する母系社会であるタイ山岳民族で遺伝子分析すると男が婿入りする民族の方が男性のばらつきが大きくなっているというデータからも裏付けられている。(位置No2328のグラフ参照)

 その他、本の副題にもなっている、モンゴル征服を受けたアジア地域に一定の遺伝子タイプが高頻度にあり、それがチンギスハンもしくはその関係するグループの遺伝子を引き継いでいる可能性の議論も、非常に興味深い。

 いろんなことが遺伝子学からわかってきているんだなと痛感。

 その他、抜き書き。

(1)ですからヒトゲノムの塩基数は3・5ギガの情報ということになります。DVD1枚に入れることができる情報量が約4・7ギガバイトなので、ヒトゲノム情報は、DVD1枚に入るほどの情報量ということです。つまり、ヒトゲノムはDVDに入れて持ち歩くことができます。(位置No400)

(2)ABO血液型の実体とは何でしょうか。簡単に言えば赤血球の表面に抗原が付いていて、その抗原にA型(N‐アセチルガラクトサミン)とB型(ガラクトース)があります。AB型はその両方を持っており、O型はそのいずれも持っていません。これが実体です。(位置No440)

(3)類人猿のゲノム解読はほかの生物種に比べて格段に早く進みました。ゲノムの塩基配列のうち並べて比較できる場所を比較すると、ヒトとチンパンジーの違いはわずか1・2パーセントくらいに過ぎません。これは、ヒトとチンパンジーのゲノムの塩基配列の比較できる場所のうち、たとえば1000塩基を比較したら、そのうち12塩基が違っているということです。並べて比較できない場所は比較しようがないから、そういう領域は除いての話であることは一応言い添えておきます。(位置No642)

(4)「人類」という言葉を使う時、その中にはヒト属のみならず化石人類(アウストラロピテクス属など)も含まれます。ホミニン(hominin)という括りに相当します。(位置No700)

(5)従来は〝旧人〟として世界史の教科書にも載っていたネアンデルタール人ですが、その姉妹グループであるデニソワ人も含めて、広い意味でのホモ・サピエンスの仲間として、つまりセックスをして子孫ができる範囲の親戚として捉えることができるかもしれません。おそらくできるだろうと思います。その中の一部が私たちの祖先であり、ホモ・サピエンスになったと考えるべきなのかもしれません。(位置No1387)

(6)ダーウィン的進化の考え方を表す言葉として「適者生存」(survival of the fittest)が有名ですが、これもダーウィン本人の作った言葉ではありません。ダーウィンと同時代に生きたハーバート・スペンサーが1864年に著した『Principles of Biology』に登場する言葉です。スペンサーは社会進化論を提唱した哲学者で、適者生存という概念は、自然選択の概念が誇張され拡大解釈されたものであり、科学的用語ではありません。(位置No1612)

(7)地球上の他の地域でもそうですが、ヨーロッパでは長い間(後述しますが特に農耕が始まって以降)父系社会が一般的であったため、その間は女性が集団間を移動してきました。家長である男性は一所に留まるため、土地ごとでY染色体のタイプに偏りが生じ、その土地と別の土地との間の地理的距離が大きくなればなるほど集団間の遺伝距離は大きくなりました。一方で女性の場合、常に土地と土地とを婚姻システムを通して移動してきたので、地理的距離が大きくなっても集団間の遺伝距離は互いにさほど変わりません。セイエルスタッドたちはこうした仮説を主張し、私たちのタイ北部山岳民族の集団遺伝学研究は、これをサポートする報告として世に送り出されました。(位置No2346)

(8)それは「特定の男性の系統では、より多くの子孫を残すことができたけれど、他の男性の系統では、それより少ない子孫しか残すことができなかった。女性の系統ではそういう偏りはなかった」という状態が起こったということです(図40)。 それをさらに解釈すると、社会的に成功した系統と、そうではない系統が男性には存在した、ということを意味します。(位置No3295)

『ゲノムが語る人類全史』を読んで、人類史の部分はたぶん標準的なものだと思う、むしろ最近の遺伝学の安易な引用を戒めている点が重要。

ゲノムが語る人類全史
アダム ラザフォード
文藝春秋
2017-12-14

 英国の進化遺伝学者、サイエンスライターが書いた本。

 前半部分のホモサピエンスのアフリカからの移動の話し、ネアンデルタール人との混血の話し(67頁)、デニソワ人とメラネシア人のDNAの共通性の話しなど、他の遺伝と人類学を扱った本と共通。

 たぶん、現時点での標準的な学説をベースにしているのだと思う。
  
 むしろ後半部分の安易や遺伝学の引用や遺伝子分析ビジネスへの警告の方が重要に思える。

 第五章の扉に書かれている言葉がその趣旨を明確に示している。

 「あらゆる複雑な問題について、単純で、直接的で、わかりやすい答えが一つはあるが、それは間違った答えだ。ーH・L・メンケン」(299頁)

 具体的な事例については以下のとおり述べている。

 「身長がきわめて遺伝しやすいことを私たちは知っている。(中略)しかし、総合すると、それぞれ身長に寄与するように思われる要因をすべて加えても、やっと二~五センチメートルほどにしかならない。残りの五一センチメートルをつくりあげる遺伝的寄与は、いまやその作用が見失われているのだ。」(344頁)

 「遺伝子は、人間の生物学的、心理学的性質のほとんどすべての帰結を決めてはいないのである。それぞれが小さな累積的効果をもつが、私たちのすむ世界によって緩和されている、数十、あるいは数百の遺伝子がかかわっていることがありうる。」(344頁)

 「私たちは遺伝的決定論から、遺伝的否認論へと振れ動いたのである。 
 両方の極端は、単純化しすぎでまちがっている。私たちはまだ、すべての形質全体について、「生まれ」がどれくあり割合を占めるか予測できていないのは事実である。これが科学である。そして科学者がすることは、自分たちが何を知っていて、何を知らないかを理解し、ゆっくると事物を「未知」カテゴリーから「既知」カテゴリーへ移していくことである。」

 遺伝子学の素人からみても、このような謙虚な姿勢と説明ぶりは、説得力を増すものの感じる。
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