革新的国家公務員OBが語りたいこと・伝えたいことー自由と民主主義を信じ国益を考えるーAiming at an innovative official of the national government

36年の公務員生活で培った「防災・復興法制」「都市計画法制」の知識を広く共有するため、書評を通じて、関係する新しい論点を示します。なお、意見にわたるものは個人的なものであり所属する(した)組織の意見や立場ではありません。

国際現代史

『ホモ・デウス 下』を読んで、科学技術の進歩が人間至上主義を脅かす可能性はあるが、データ至上主義までいくかはよくわからない。

ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来
ユヴァル・ノア・ハラリ
河出書房新社
2018-09-05

 昨日に続いて、『ホモ・デウス』の下巻を通読。

 上巻で、歴史的にみて、農耕産業化、そして科学技術の革新という流れのなかで人間至上主義、特に自由主義が、社会秩序を維持する、大きな物語として、中心的思想になったことを説明している。

 今後は、この人間至上主義が新たな科学技術の進歩によって危うくなると、著者は指摘する。
 
 その理由は、人間至上主義は、現在の生産システムや軍事システムが、多くの国民が平等に一定の知識を持っていることが不可欠で、それを背景にして生まれてきた。しかし、今後は、AIなどの発展から、これまで多くの国民が行ってきた機械的な活動は不要になり、その観点からは、経済、政治の面からは、多くの国民を平等に扱っていくインセンティブが失われてくる。 
 逆に、AIなどの新しい技術を使った、超エリート、超人が重要になってきて、そのグループのみが大事にされる可能性が高い。(位置No2015)

 その結果、新しい科学技術を前提にしたイデオロギー、物語として、テクノ宗教(テクノ人間至上主義とデータ教に分かれる)が生まれてくるとする。(位置No2963)

 一番極端なデータ教では、人の行動はすべて大量のデータフローとして把握し、データフローが円滑にかつ自由に行き来することを一番の価値と考える。人間の価値は、個々の経験は他の動物と同じだが、自分の経験をグローバルなデータ処理のなかに入れ込むことができることに、人間の(データの)価値があるといったように考える。

 これらの指摘を踏まえた、著者の問題提起は以下のとおり。

「何か月という単位で考えるのなら、中東の紛争やヨーロッパの難民危機や中国経済の減速といった、目の前の問題に焦点を当てるべきだろう。何十年の単位で考えるのなら、地球温暖化や不平等の拡大や求人市場の混乱が大きく立ちはだかる。ところが、生命という本当に壮大な視点で見ると、他のあらゆる問題や展開も、次の三つの相互に関連した動きの前に影が薄くなる。
 1 科学は一つの包括的な教義に収斂しつつある。それは、生き物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理であるという教義だ。
 2 知能は意識から分離しつつある。
 3 意識を持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが間もなく、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになるかもしれない。(位置no3873)

 そして著者自身が、この可能性について、再度読者が考え直してみてほしいといってこの本を終わっている。(下の抜き書き(9))

 仮定を積み上げていけば、極端な姿として人間の行動や判断をすべてデータ処理と考えることもできるが、バランスよく考えれば、その手前の科学技術と人間至上主義とのバランスをとった考え方(この本ではテクノ人間至上主義)ぐらいが、説得力があるのではないか?

 また、著者がいう生命という壮大な視点よりも、やはり何十年という単位で考えるべき、地球温暖化や不平等の拡大などの問題の方がずっと気になるし、自分たちが考え続けなければいけない課題だと思う。その意味では、著者の問題意識やややぶっ飛んだところがある。

 その他の抜き書き。

(1)人間たちが自分に自信を持つようになると、倫理にまつわる知識を得るための新しい公式が登場した。知識=経験× 感性だ。倫理にまつわるどんな疑問に対しても答えを知りたければ、自分の内なる経験と接触し、この上ないほどの感性をもってそれを観察する必要がある。(位置No733)

(2)ところが、科学者が発見しているものと技術者が開発しているものは、自由主義の世界観に固有の欠点と、消費者と有権者の無知無分別の両方を、図らずも暴き出しかねない。遺伝子工学とAIが潜在能力を余すところなく発揮した日には、自由主義と民主主義と自由市場は、燧石のナイフやカセットテープ、イスラム教、共産主義と同じぐらい時代後れになるかもしれない。(位置No1496)

(3)物語る自己は、私たちの経験を評価するときにはいつも、経験の持続時間を無視して、「ピーク・エンドの法則」を採用し、ピークの瞬間と最後の瞬間だけを思い出し、両者の平均に即して全体の経験を査定する。(位置No1822)多くの女性が出産のときに経験する耐え難い苦痛を考えると、正気の女性なら一度それを味わったら二度と同じ目に遭うことに同意するはずがないと、人は思うかもしれない。ところが出産の最後とその後数日間に、ホルモン系がコルチゾールとベータエンドルフィンを分泌し、これらが痛みを和らげ、安堵感を生み出し、ときにはえも言われぬ喜びさえ引き起こす。そのうえ、赤ん坊に対して募る愛情と、家族や友人、宗教の教義、国家主義的なプロパガンダからの拍手喝采とが相まって、出産をトラウマから好ましい体験に変える。(位置No1848)

(4)ところが生命科学は自由主義を切り崩し、自由な個人というのは生化学的アルゴリズムの集合によってでっち上げられた虚構の物語にすぎないと主張する。脳の生化学的なメカニズムは刻々と瞬間的な経験を創り出すが、それはたちまち消えてなくなる。こうして、次から次へと瞬間的な経験が現れては消えていく。こうした束の間の経験が積み重なって永続的な本質になることはない。(位置No1979)

(5)軍と企業は知能が高い行動主体なしでは機能できないが、意識や主観的経験は必要としない。(位置No2104)

(5)二〇三〇年や四〇年に求人市場がどうなっているか私たちにはわからないので、今日すでに、子供たちに何を教えればいいのか見当もつかない。現在子供たちが学校で習うことの大半は、彼らが四〇歳の誕生日を迎える頃にはおそらく時代後れになっているだろう。(位置No2436)

(6)資本主義が共産主義を打ち負かしたのは、資本主義のほうが倫理的だったからでも、個人の自由が神聖だからでも、神が無信仰の共産主義者に腹を立てたからでもない。そうではなくて、資本主義が冷戦に勝ったのは、少なくともテクノロジーが加速度的に変化する時代には、分散型データ処理が集中型データ処理よりもうまくいくからだ。(位置No3353)

(7)政府はたんなる管理者になった。国を管理するが、もう導きはしない。政府は、教師の給与が遅れずに支払われ、下水道があふれないことを請け合うが、二〇年後に国がどうなるかは見当もつかない。(位置no3438)

(8)人間の経験それ自体は、オオカミやゾウの経験より少しも優れてなどいない。ある一ビットのデータの価値は別の一ビットのデータの価値と変わらない。とはいえ人間は、自分の経験を詩やブログに書いてネットに投稿し、それによってグローバルなデータ処理システムを豊かにできる。だからこそ人間のデータは価値を持つ。(位置No3654)

(9)データ至上主義の教義を批判的に考察することは、二一世紀最大の科学的課題であるだけでなく、最も火急の政治的・経済的プロジェクトにもなりそうだ。生命をデータ処理と意思決定として理解してしまうと、何か見落とすことになるのではないか、と生命科学者や社会科学者は自問するべきだ。この世界にはデータに還元できないものがあるのではないだろうか?(位置No3806)

(10)私たちには未来を本当に予測することはできない。なぜならテクノロジーは決定論的ではないからだ。同一のテクノロジーがまったく異なる種類の社会を創り出すこともありうる。たとえば、産業革命がもたらした列車や電気、ラジオ、電話といったテクノロジーを使って、共産主義独裁政権とファシスト政権と自由民主主義政権のどれを確立することもできた。韓国と北朝鮮を考えてみるといい。これまで両国はまったく同じテクノロジーを利用することができたが、それを非常に異なる方法で採用する道を選んできた。(位置No3840)

『ホモ・デウス 上』を読んで、前著の『サピエンス全史』よりは、異論でそうな主張多し。

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来
ユヴァル・ノア・ハラリ
河出書房新社
2018-09-05

 ベストセラーの『サピエンス全史 上』『サピエンス全史 下』の著者の最新刊。

 前著がこれまでの人類の歴史を社会心理学など最新の知識を踏まえて分析していたが、この本は、今後の未来の姿を予測している。

 特に、扱っているのが、宗教や人間至上主義なので、著者(ユダヤ人)と宗教観の違う日本人からみると、こだわりの点など、やや違和感もある。

 上巻のおおまかな筋は以下のとおり。

(1)狩猟採集時代はアニミズムが中心だったが、農耕時代に入ると、一神教(この本では有神教と訳している)が生まれてくる。

 この部分でも農耕時代になっても、日本のように必ずしも一神教が根付かなかった国もあるのでやや疑問あり。

(2)科学革命によって、一神教は否定され、人間至上主義が一種の宗教の役割を果たした。著者によれば、共産主義やナチズムも一種の人間至上主義と整理するが、幸運にも自由主義が生き残ったとする。

 「農業革命が有神論の宗教を生み出したのに対して、科学革命は人間至上主義の宗教を誕生させ、その中で人間は神に取って代わった。有神論者が神を崇拝するのに対して、人間至上主義者は人間を崇拝する。自由主義や共産主義やナチズムといった人間至上主義の宗教を創始するにあたっての基本的な考えは、ホモ・サピエンスには、世界におけるあらゆる意味と権威の源泉である無類で神聖な本質が備わっているというものだ。この宇宙で起こることはすべて、ホモ・サピエンスへの影響に即して善し悪しが決まる。」(位置No1911)

(3)宗教の役割は大きな社会を維持していくために不可欠。そのために、一種の共同主観としての物語を大きな社会は求める。

 「したがって、科学は私たちが普段思っているよりも倫理的な議論にはるかに多く貢献できるとはいえ、少なくとも今のところは科学には越えられない一線がある。何らかの宗教の導きがなければ、大規模な社会的秩序を維持するのは不可能だ。」(位置No3726)

 社会秩序の維持のために大きな物語、みんなが共同して信じているストーリーが必要で、それが現代は人間至上主義、そのなかでも自由主義だというのは、西洋的価値観からはそうだと思うし、我々もそうであってほしい気はする。

 しかし、やや議論は運びとしては強引ではないか?

 ただし、イスラエルの学者である著者が、科学革命によって宗教は存在しえないと断言するのは、『科学者はなぜ神を信じるのか』で展開された無理な議論よりはすっきりはしている。

 その他、抜き書き。

(1)二〇一五年、医師たちは完全に新しい種類の抗生物質「テイクソバクチン」の発見を発表した。今のところ、バクテリアはこの抗生物質にはまったく耐性がない。テイクソバクチンは非常に強い耐性を持つ病原菌に対する戦いの形勢を一気に逆転させるかもしれないと考えている学者もいる。(位置No274)

(2)それが今日では、富の主な源泉は知識だ。そして、油田は戦争で奪取できるのに対して、知識はそうはいかない。したがって、知識が最も重要な経済的資源になると、戦争で得るものが減り、戦争は、中東や中央アフリカといった、物を基盤とする経済に相変わらず依存する旧態依然とした地域に、しだいに限られるようになった。(位置No326)

(3)歴史を学ぶ目的は、私たちを押さえつける過去の手から逃れることにある。歴史を学べば、私たちはあちらへ、こちらへと顔を向け、祖先には想像できなかった可能性や祖先が私たちに想像してほしくなかった可能性に気づき始めることができる。私たちをここまで導いてきた偶然の出来事の連鎖を目にすれば、自分が抱いている考えや夢がどのように形を取ったかに気づき、違う考えや夢を抱けるようになる。歴史を学んでも、何を選ぶべきかはわからないだろうが、少なくとも、選択肢は増える。(位置No1244)

(4)私たちは普通、有神論の宗教は偉大な神々を神聖視すると考えている。だが、その宗教が人間をも神聖視していることは忘れがちだ。以前、ホモ・サピエンスは何千もの役者から成るキャストの一人にすぎなかった。それが、有神論の新しいドラマの中では、サピエンスが主人公になり、森羅万象がサピエンスを中心に回り始めた。(位置No1766)

(5)魂の存在は進化論と両立しえない。進化は変化を意味し、永久不変のものを生み出すことはできない。進化の視点に立つと、人間の本質と呼べるものに最も近いのは、私たちのDNAだが、DNA分子は永遠不滅のものの座ではなく、変異の媒体だ。これに恐れをなす人は多く、彼らは魂を捨てるよりも進化論を退ける道を選ぶ。(位置No2043)

(6)率直に言って、心と意識について科学にわかっていることは驚くほど少ない。意識は脳内の電気化学的反応によって生み出され、心的経験は何かしら不可欠なデータ処理機能を果たしているというのが現在の通説だ。とはいえ、脳内の生化学的反応と電流の寄せ集めが、どのようにして苦痛や怒りや愛情の主観的経験を生み出すのかは、誰にもまったく想像がつかない。一〇年後か五〇年後には、しっかり説明がつくかもしれない。だが二〇一六年の時点では、そのような説明は得られていないから、それははっきり認識しておかなくてはいけない。(位置No2091)

(7)たちの知るかぎりでは、無数の見知らぬ相手と非常に柔軟な形で協力できるのはサピエンスだけだ。私たちが地球という惑星を支配しているという事実は、不滅の魂や何か独特の意識ではなく、この具体的な能力で説明できる。(位置No2555)

(8)私たちは、自分の人生には何らかの客観的な意味があり、自分の犠牲が何か頭の中の物語以上のものにとって大切であると信じたがる。とはいえ、じつのところ、ほとんどの人の人生には、彼らが互いに語り合う物語のネットワークの中でしか意味がない。(位置No2818)サピエンスが世界を支配しているのは、彼らだけが共同主観的な意味のウェブ──ただ彼らに共通の想像の中にだけ存在する法律やさまざまな力、もの、場所のウェブ──を織り成すことができるからだ。人間だけがこのウェブのおかげで、十字軍や社会主義革命や人権運動を組織することができる。(位置No2905)

(9)エイブラハム・リンカーンは、すべての人をずっと騙し通すことはできないと言っている。残念ながら、それは考えが甘い。実際には、人間の協力ネットワークの力は、真実と虚構の間の微妙なバランスにかかっている。もし誰かが現実を歪め過ぎると、その人は力が弱まり、物事を的確に見られる競争相手に歯が立たない。その一方で、何らかの虚構の神話に頼らなければ、大勢の人を効果的に組織することができない。だから、虚構をまったく織り込まずに、現実にあくまでこだわっていたら、ついてきてくれる人はほとんどいない。(位置No3224)だが、物語は道具にすぎない。だから、物語を目標や基準にするべきではない。私たちは物語がただの虚構であることを忘れたら、現実を見失ってしまう。すると、「企業に莫大な収益をもたらすため」、あるいは「国益を守るため」に戦争を始めてしまう。企業やお金や国家は私たちの想像の中にしか存在しない。私たちは、自分に役立てるためにそれらを創り出した。それなのになぜ、気がつくとそれらのために自分の人生を犠牲にしているのか?(位置No3357)

『リーマン・ショック 元財務官の回想録』を読んで、役人でリスクをとって一企業のために働くことも時と場合によっては大事。


 全体としては、慎重な記述が多く、また、特段びっくりするような情報もない。

 各国政府との為替や金融危機対応をめぐる調整って、結構、人的関係とか貸し借りでなんとか実現する側面が強いのがわかるが、自分の経験でもそうだろうなと思う。

 著者はさらっと書いているが、109頁-111頁のリーマン・ショック時のモルガン・スタンレーへの三菱UFJの出資への対応が立派だと思う。

 実際やったことは、三菱UFJの担当役員から、米国政府の資本注入で三菱の出資が希薄化してしまうのではないか、という懸念に対して、米国財務省マコーミック次官に連絡をとり、米国の資本注入が民間投融資慫慂のためであるなどのアシュアランスをとって、三菱側に提供して、三菱の取締役会に案件を通り安くし、結果として速やかな三菱UFJの出資を可能としたこと。

 これ自体は、まさに一企業の利害に関わることに役人が関与して口利きをしたととれないこともない。しかし、世界全体の金融危機の際に、三菱の出資がモルガン・スタンレーの再生の決め手となることから、役人としてのリスクをとって、自らが自分の判断で動いている。

 いざというときには、より大きな利益、公益の実現のために、役人がリスクをとって企業のために行動することも必要。そういう気概を後輩たちが持つことを自分も期待したい。

『プロテスタンティズム』を読んで、お盆を機会に宗教の意味を考えてみる。


 東洋英和女学院大学の先生が書かれた本。

 「宗教改革」とその後の「宗教改革の改革」の歴史を、大胆かつわかりやすく分析した本。

 大まかな歴史認識として重要だと思った点。

(1)キリスト教がヨーロッパで普及した理由としては、平均寿命が短く常に死に直面していた当時の住民にとって死を受け入れやすい、わかりやすく、ビジュアルな答えを与えたこと。(位置No215)

 日本での浄土思想なども同じ性格あり。逆に、平均寿命が伸びた現代では死後の世界の物語よりは、現在の生活に対して有益な精神的安定を提供できる、マインドフルネスやスピリッチャルな思想に人気が集まるのも理解できる。坊さんの説話を昨日聞きながら思ったこと。

(2)ルターの宗教改革は一種の現状の宗教体制の改善であって、領主が宗教を決めるといった枠組みや政治と宗教の二元的な理解を抜本的に変えるまでの内容を持っていなかった(古プロテスタント)。このために、さらに信仰の自由やそのための政治の自由を内容とする、新プロテスタントの活動が生まれた。(下の抜き書きの(6))

(3)ルター派の保守的な性格、現状肯定的な性格が、ナチスに対して少なくとも積極的な反対をしなかったという汚点を持つ。しかし、その反省を踏まえつつ、現状を極端に変革せずに改良を加えるという観点から、ルター派が公教育の中でカトリック、プロテスタントに加えイスラム教を加えることを賛成するという点については積極的に評価できる。(下の抜き書きの(9))

 以下、抜き書き。

(1)また、ルターが新しい宗派であるプロテスタントを生み出したという説明も事実に反する。彼は自身がプロテスタントだという意識を持っていたわけではない。教会の改革や刷新を願ってはいたが、新しい宗派を創設する意志などなかった。宗教改革を指す「Reformation(再び形成する)」というドイツ語が、この運動の本質をよく示している。それは新しい宗派の誕生などではなく、壊れかかった部分の修繕をめざす運動だった。(位置No65)

(2)教会は天国とそこにいたる通路を支配した。教会は「あの世」というきわめて宗教的な問題を取り扱っているのだが、実際には「この世」を支配した。なぜなら人は必ず死ぬからである。政治的な権力を手にした皇帝や王、この世の豊かな生活を手にした貴族も。この世の短い生を終えて、天国に行けるという保証のもとに生きたい者たちは、この教会の教えに魅惑されたのである。(位置No223)

(3)日本では免罪符という訳語が使われていることが多いが、これは正しくない。なぜならここで免じられるのは、すでに述べた通り、罪ではなく過ちのために科せられた罰であり、贖宥状はその罰を代行したことの証書だからである。いずれにしても人々はこれで安心を買った。そして、いつ死んでも天国に行けると考えたのである。(位置No307)

(4)この「聖書のみ」「全信徒の祭司性」、そして「信仰のみ(信仰義認)」を宗教改革三大原理と呼ぶことがある。833プロテスタントには正統もないが異端もない。自らの聖書の解釈が常に正統である以上、教会や宗派で異なった解釈をしても異端と呼ばれることはない。自ら別の教会や宗派を作り、正統性を主張すればいいのだ。(位置No1120)

(5)ルター主義者たちと改革派の人々との違いは神学の内容、礼拝についての考えだけに見出されるわけではない。はっきりしていることは、ルターが伝統的な宗教としてのカトリックの改革を内部にとどまって続けようとし、またその後のルターの支持者たちも社会での教会システムの大きな変化を想定していなかったのに対して、スイスの改革派勢力は、古い宗教的な伝統の人々とより徹底的な態度で決別したということであろう。(位置No1167)

(6)近代世界の成立との関連で論じられ、近代のさまざまな自由思想、人権、抵抗権、良心の自由、デモクラシーの形成に寄与した、あるいはその担い手となったと言われているのは、カトリックやルター派、カルヴィニズムなど政治システムと結びついた教会にいじめ抜かれ、排除され、迫害を受けてきたさまざまな洗礼主義、そして神秘主義的スピリチュアリスムス、人文主義的な神学者であったとするのがトレルチの主張である。そちらは「新プロテスタンティズム」と呼ばれた。1318洗礼主義がデモクラシーや人権を生み出したのではない。アイロニックなことに、キリスト者の自由を求めて立ち上がった改革者たちから迫害される中で、自らの信じる自由のための戦いを通じて、彼らがそれらの政治的諸価値のもっとも忠実な、また実質的な担い手となったのである。(位置No1422)

(7)ルター派はナチスに積極的に協力したわけではないが、もちろん抵抗したわけでもない。ルター派の伝統である支配者とともにある宗教という性格が、戦いや批判の武器を持つことを許さなかったのだ。そして大多数の国民も、戦いの手段や判断の材料もなく沈黙を続けたのである。(位置No1769)

(8)マックス・ウェーバーが指摘したのは、さらにこの先で起こった二重予定の反転だ。神が救いへと予定に定めた者は天国にいけるだけでなく、この世でも祝福に満ちた人生を送れる、という考えを超えて、逆にこの世で成功している者こそ天国に行ける者であり、それが神が救いを予定したことの証明だという考え方である。(位置No2178)

(9)たしかに宗教改革からはじまったプロテスタンティズムの歴史の意義と特徴は、自由のための戦いも、近代世界の成立の貢献も含まれるが、それ以上に重要なもう一つの特徴は、社会の中で異なった価値や宗教を持つものたちがどのように共存して行けるのか、という作法を教えてくれることにあるのではないだろうか。(位置No2462)

『近代政治哲学』を読んで、「主権」概念の対内的機能が「立法権」であり、「立法権」と「執行権」の区分を政治哲学の歴史の中で丁寧に議論されていたことは新鮮な情報。


 東工大の哲学の先生の書いた本。若手の属する方。

 先日読んだ『はじめての経済思想史』http://blog.livedoor.jp/shoji1217/archives/1071542431.htmlの著者が書き方を参考にしたという本として紹介していたので読了。

 大胆に筋を決めて、ジャン・ボダン、ホッブス、スピノザ、ロック、ヒューム、ルソー、カントを分析。
 
 自分になりに理解した「筋」

 第一に、様々な勢力が重複的に存在して、それに宗教がからんで戦争で悲惨な状態になったヨーロッパでは、その安定のために、最高権力たる「主権」概念が作り出されたこと。

 第二に、「主権」とは対外的には戦争をする力、対内的には立法をする力、国民を立法によって拘束する力。(封建時代は契約で主従関係が複層的にできていて、立法という概念が存在しなかった)

 第三に、立法権の横暴を抑制する観点から、一般的事項を決定する「立法権」と個別的適用をする「執行権」「行政権」の分離が解かれたこと。

 第四に、これらを導くための自然状態は、真面目に論理的に議論したのが、ホッブスやスピノザなのに対して、ロックは論理なしに「そうあるべき」と議論し、その後のルソーやカントなどはフィクションとして理解しつつもそれでその時代の統治体制をうまく説明できるとしてその意義を認めていたこと。

 第五に、ヒュームは個々の人間がエゴイストでそれが自然権を放棄するという社会契約論に反対し、人間のもつ「共感」という感情に着目し、それを相互に黙約(暗黙の約束事)とすることよって、社会の安定が確保される、そして社会の安定のためには「所有制度」の安定が不可欠、というように、普通の人間社会の現状を踏まえた議論を展開した。

 なお、この著者の筋とはずれるが、ルソーの分析から導いた「立憲主義と民主主義の対立」の指摘も重要。

 「立憲主義はある意味では民主主義に対立する。なぜならば、民主主義的な手続によっても変更できない諸原理を憲法で守るというのが立憲主義の考え方であるからである。たとえば、多数決で人種差別を正当化する法律を制定することは可能であるが、日本の憲法はこれを無効とすることができる。」(位置No1779)

 以上の議論は、歴史的な思想家を「主権」「自然状態と社会契約論」「立法権と執行権」という筋で、非常に切れ味よく分析していている。政治学、政治哲学の学界的な観点で主流なのかはわからないが、歴史の教科書で言葉だけで頭にいれていた概念が、きちんと整理できる。

 また、立法権が全権を持つことの危険性から、過去の思想家が立法権を一般的な決定とし、個別的な決定をする行政権を区別したことを踏まえて、立法と行政の関係の緊張関係を理解するという指摘も重要。(位置No2798)

 好著。

 以下、抜き書き。

(1)「封建国家」は一般に、多数の独立権力が、国王を最高封主とする封建的主従関係の網の目を通じて組織化されている国家と定義され、最も典型的な形でみられるのは九世紀から一三世紀までの西欧においてである、と言われている〔3〕。(位置No109)

(2)臣が複数の封主と契約を結んだり、あるいは遠方の封主と契約を結んだりしている場合には、その封臣の支配地域がいったいどの国に属しているのかが不明確である。つまり、封建国家についてはその領土を語ることができない。封建国家には領土の概念がない。封建国家にあるのは、契約による人的結合だけである。(位置No178)

(3)主権の対外的な主張は、戦争をその具体的な実現手段としていた。では、その対内的な主張の方は、何を具体的手段としているのだろうか? つまり、主権が被治者に対して有する超越性は、いかなる手段によって実現されるのか? その手段とは立法である。ボダンによれば、主権は立法に関わり、立法によって統治するのである。主権者は「臣民全体にその同意なしに法律を与えること」ができる。(位置No300)

(4)(ホッブスによれば)したがって自然権という際の「権利」とは、その語感が与える印象とは異なり、一つの事実を指していることが分かる。自然状態において、人は単に自由であって何でもしたいことができる。その自由という事実そのものを自然権と呼ぶのである。(位置No496)

(5)(ホッブスによれば)自然権の放棄は、権利の譲渡として行われる。平和と安全の内に生活するためには、それを保障する力をもった権力が必要であり、「このような能力のある共通の権力を樹立するための、ただひとつの道は、彼らの全ての権力と強さとを、ひとりの人間に与える、または、多数意見によって全ての意志をひとつの意志とすることができるような、人々のひとつの合議体に与えることである〔8〕」。(位置No533)

 「ひとりの人間」だけでなく「ひとつの合議体」も指摘していることが重要。

(6)(スピノザによれば)確かに国家状態は自然権に外的な規制を加える。自然権が行使できなくなるのだから、これはそれ自体としては不快なことであろう。だが人はそれを受け入れる。なぜ受け入れるのかと言えば、その規制を受け入れた方が利益が大きいからである。「人は何か悪い[と思った]ことをわざわざ実行したりしない。そうするのはただ、より大きな「悪いこと」を避けるためか、より大きな「よいこと」が生じるという希望に駆られた場合に限られる〔7〕」。(位置No879)

(7)スピノザが厳密な意味での民主制の政治制度を描き出すに至っておらず、かつ、彼が述べた貴族制が我々の知る「民主制」とほぼ同一であり、また、我々がそれを貴族制とは呼ばずに「民主制」とか「民主主義」などと呼んでいる事実は極めて重要である。我々の知る「民主主義」は実のところ貴族制にすぎないのに、今の社会が潔くそのように述べることをせず、ありもしない「民主制」の資格をそれに与えている可能性があるからである。(位置No973)

(8)(スピノザによれば)権力を集中させるとむしろ統治はうまくいかない。なぜならば、それほど大きな権力を担える者は存在しないからである。したがって、民衆が自由にものを考え、統治を監視できるような体制が整えられねばならない。つまり、民衆の自由はそれ自体としても尊重されねばならないが、国家の統治のためにも民衆の自由が必要なのだ。これは今日の政治にもそのまま当てはまる卓見と言うべきだろう。(位置No1021)

(9)ロックは、「法の規定によらず、時にはそれに反してまでも」行為することができる「大権(prerogtive)」という権力を必要性を認めている。これはまさしく緊急事態における独裁のことだ。これを担うのももちろん行政である。立法権で対応するには時間がかかりすぎるという理由で、行政に「法が規定していない多くのこと」の選択を委ねるのだという。(位置No1324)

(10)(ルソーの)一般意志は一般的なルールを定める領域においてのみ「行使される」。一般意志が個別具体的な政策を決定するのではない。ここで「行使される」とは、正確には、法律の成立をもって一般意志が行使されたと見なせるという意味である。(位置No1805)

(11)ルソーは統治行為において政府という中間項が絶対に必要であること、そして政府の行為が決して一般意志の実現ではないこと、即ち、統治行為には必ず立法(一般意志)と執行(個別的行為)の間のズレと緊張関係が存在していることを理解していたからである。それゆえ、ルソーは政府の定義や形態について長々と議論し、いかにして政府の越権を防ぐかを慎重に考察している。(位置No1836(

(12)(ヒュームによれば)生のままの(家族に強く感じるという意味で)共感は偏っている。しかし、黙約を通じてそれを拡張することができる。つまり、黙約が社会の全成員に共有されるようになれば、自分にとって近くない他人のことも考えて行動できるようになる。(位置No2074)

(13)(カントによれば)社会契約が歴史上のある時点で実際に締結されたわけではないにしても、あたかもそれが実際に締結されたかのように現実の国家が運営されれば、この理念は十分にその役割を果たす。社会契約の理念そのものが、法律の正当性の有無を判定する試金石となるからである。」(位置No2416)
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