革新的国家公務員OBが語りたいこと・伝えたいことー自由と民主主義を信じ国益を考えるーAiming at an innovative official of the national government

36年の公務員生活で培った「防災・復興法制」「都市計画法制」の知識を広く共有するため、書評を通じて、関係する新しい論点を示します。なお、意見にわたるものは個人的なものであり所属する(した)組織の意見や立場ではありません。

日本現代史

『東アジアの王権と思想』を読んで、近世政治史の大家が大胆な発言に見るべきものあり。

東アジアの王権と思想 増補新装版
渡辺 浩
東京大学出版会
2016-12-17

 先日、『日本の近代とは何であったか』http://blog.livedoor.jp/shoji1217/archives/1071403721.htmlという政治学の大家の三谷先生の本を読んだが、この本も近世政治史の大家で同じく丸山真男先生のお弟子さんの書いた本。

 この本も、三谷先生が既述の本で述べていた、老年期の学問=総論(general theory)を述べたもの。

 最近の学術論文が、新しい知的貢献ということでミクロで細かな実証データや新しい歴史的事実に拘泥しているのに対して、大家となった先生が大胆に大きな筋となる話しを指摘してもらうのは、素人にとって頭の整理になりありがたい。

(1) 「一般に、ある種の社会集団においては、その存在理由・根拠について自ら思考をめぐらし、さらに自他双方に説得力のある理論を持つ必要が特に多いと考えられる。(中略)「泰平」の中では武士の存在意義の実証の機会は乏しい。武士が武士としてあることの意義は、その機能発揮の潜在的可能性の強調に大きく依存することになる。実力ではなく「御武威」「御威光」の維持が、実際に戦うことではなく「武士道」の称揚と遵守が、その存在の支えとなったのである。」(79頁)

(2) 「中国の建前上万人に開かれたペダントクラシーに対比していえば、当時の日本はいわば「家職国家」(石井紫郎氏)だった。世襲を原則とする全ての「家」が「天命」「天職」ともいわれた「職分」としての「家職」「家業」を持ち、各「家」がその務めを果たすことで世の中が成り立っているのだと、広く観念されるようになったのである。」(99頁)

(3) (五箇条のご誓文を題材にして)「明治維新とは、「大ニ皇基ヲ振起スベシ」の語の示す「王政復古」の革命であると同時に、「儒学的西洋」化の革命でも、多分あったのである。しかも、そのことによってその後、儒学的諸理念は西洋思想にいわば吸収されていき、相対的には速やかに独自の体系としての思想的生命を失っていった。即ち、少なくとも日本では、儒学は西洋に発した「近代」を導き入れる先導役を果たし、しかも、そうしていわば自殺したーそのような一面が多分あったのである。」(209頁)

『明治維新で変わらなかった日本の核心』を読んで、江戸時代を過大に評価しすぎるのもいかがかと思う。


 第一に、構成に対するコメント。

 猪瀬氏と日本の近世史がたぶん専門の磯田氏との対談形式。猪瀬氏は雑学や蘊蓄を披露し、磯田氏が学問的な情報を提供するという形になっているが、もっと磯田氏の話が聞きたい感じ。また、雑学と日本史学ではシナジー効果がないので、むしろ、西洋史の先生とか別ジャンルの先生の対談の方がよかったのではないか?

 第二に、全体を通じて江戸時代と明治維新との連続性を強調し、江戸時代を再評価する姿勢に対するコメント。

 江戸時代を全く暗黒の時代と評価するのは行き過ぎだと思うが、江戸時代は優れていたという点を強調しすぎると、欧米各国に圧迫され、戦力を含めた国力の遅れから、不平等な通商条約を認めさせられたという、基本的な構造認識が歪んでくる。
 
 例えば、磯田先生の「江戸時代の日本は、法が極めて厳しい国家で、かつ国民の識字率が非常に高い情報国家でもありました。持ち逃げしたら必ず捕まえるというのが、他のアジア諸国とは違うところで、これが資本の蓄積を生んだと考えられます。」(255頁)、「日本では上と下が太くなったのに対して、朝鮮では真ん中の部分を太らせた。近代化するにあたっては日本の方が(朝鮮より)有利だったと思います。中世的な武士の領主権は弱まり、将軍と大名は官僚のようになっている。しかも、農民に実質的な土地所有権があるから農奴ではない。将軍や大名が「法の支配」をやっていて、農民の人権や財産権が保障されていれば、これはもう市場経済や資本制にも移行しやすい。」(141頁)などの指摘。
 
 アジアの中で日本が先に発展したことは説明できても、そもそも江戸時代の日本の経済社会が欧米に比べて、経済、技術双方で圧倒的に遅れていたこと自体が議論の前提になるはず。

 第三に、やや疑問な点。

 磯田先生の「京都にしても道幅を広げることができたのは、奇跡的に行政権が強かった一九四四年と五年です。空襲に備えるということで強制疎開させて、その間に建物を取り壊してしまった。準備が間に合わず、まだ荷物を運び出している家でも強制的に倒した。これは軍の命令だからと、京都市役所が断行したのです。そうして御池通や五条通ができたのですが、いまだに京都の人たちは恨んでいます。日本の都市計画が難しいのは、やはり江戸時代に淵源するもので、それは明治維新でもまったく変わらなかった。むしろ権利意識を強めた気がします。」(218頁)

 この指摘については、日本の都市部の道路改造の歴史からみても疑問が多い。別途丁寧に反論したい。(http://blog.livedoor.jp/shoji1217/archives/1071441759.htmlで反論しておきました)

 第四に、その他面白い指摘。

 磯田先生の「(知行地が一カ所に広い土地を渡すのではなく、あちこちに分散にして与えていたことについて)、それは徳川家直属の旗本だけではありません。関東地方と岐阜ちから中部にかけての地域は大名の領地も細かく分散して、小大名をたくさんつくりました。京都周辺も膳所藩(滋賀県大津市)や淀藩など、数万国の藩しか置きませんでした。重要な地域には、いわゆる大藩は置かないのです。この地域は、一円誰かの領地ではないという意味で学術的には「非領国地域」と呼んでいます。」(191頁)





 

『近代日本百五十年』を読んで、一刀両断に過去の科学技術総力戦を批判するのもいかがかと思う。


 元東大全共闘代表の山本氏が書いた本。

 緻密に明治以降の日本の科学技術史をフォローしている。

 しかし、全体的にみて、現時点から過去の科学者を翻って批判している感覚が強く、そう一刀両断的に批判することから、科学者や学者のあるべき態度が改善されるわけではないと思う。
 
 国の存亡の危機だと国民全体が感じているときに、科学者がそれに協力して自分の専門分野で必死に努力する、そしてその結果としてその時期その時期で政治的にも権力を持つという側面は、後知恵で批判しても仕方がない気がする。

 より短期的・自国中心主義でない視点をどのようにもつかという視点が重要なのではないか?

 そんなに批判しても、と思った点。

(1) 「戦前から多くの科学者と親交のあった科学評論家・松原宏遠の書には、戦時下の物理学者について、「目を物理学界にむけると、何としたことか、ここだけはきわめて明るく、なかでも仁科芳雄を総帥とする理論物理の若手たちは、いわゆる冬の時代の日本にありながら、自由に溌溂として研究にいそしんでいるのが印象的でした。」とある(松原 一九六六)。実際にも、理研はしばしば「科学者の自由な楽園」と語られてきた。しかしその「自由」は、理研指導部の戦争への全面協力によって保障されていたのである。」(189頁)

(2) 「現実には「科学線で敗北した」という総括は、責任逃れにとどまらず、初めて直面した原子爆弾の異次元の破壊力と殺傷力を背景に語られることにより、それまでの戦争指導の責任、および大本営の虚偽宣伝でもって戦況を語り、そのことによって敗戦の受け入れを先送りしてきた責任をうやむやにして、民衆に敗戦を受け入れさせるための、願ってもない口実を戦争指導者たちに与えたのである。
 技術者や科学者もまた、同様に語っている。」(207頁)

(3) 「学術研究会議は人文・社会科学系の研究者をふくまないから、政治家や「国民一般」の「学問軽視」が戦争と破局に導いたというようなこの主張(1946年の建議)は、当時の理工科系の指導的研究者の総意と見てよい。しかし、現実には、戦時下で「経済、政治が」一から十まで「不合理なる精神によって支配され不合理に営まれ」ていたのではない。自由主義経済のアナーキーに統制経済の計画性を対置したのは、他でもない、軍人と官僚であった。(214頁)

『明治国家形成と地方経営』を読んで、発足当時の内閣における各省の権限争いは現代にも通じる論点を持っている。


 政治史の大家の御厨先生の助手論文をベースにした本。

 内閣成立時の様々なグループの権力闘争と内閣成立後の各省庁の権限争いの分析が中心。

 このうち、後者の各省庁の権限争いについては、大まかな流れとしては、工部省が内務省に対して土木局移管を求めて敗れたこと、内務省の土木予算要求に対して、農商務省と大蔵省が興業銀行で対抗したこと、内務省が地方財政の安定のための官有林の払い下げを大蔵省に求めて敗れたことが軸となっている。

 それぞれの権力闘争は、当然理屈だけでなく、様々なプレーヤー、藩閥などの力関係に左右され、そちらが決着の要因だが、当時、各省庁が戦わせた理屈については、現在に通じるものがあり、確認しておくことが重要と考える。

(1) 1984年の工部省への土木移管の主張は、工部小輔の渡辺洪基が、「内務省ー府県会による土木管理のために、各地方によって道路や河川堤防がまちまちに起工されており、全国的に不統一である点にあった。しかも、費用負担の面から、業半ばにして途絶した工事が多いことも上げられている」(78頁)
 「結局、鉄道ー道路ー河川ー港湾等は、国家的見地から一つの運輸体系として把握すべきことを、渡辺はここで主張している。」(78頁-79頁)

 「これに対して内務省は、当面工部省との正面から衝突することを避けた。」(79頁)

(2) 内務省が内務省管轄下の官有地について「管理条例」を制定しようとしたのに対して、大蔵省はあらゆる官有財産を統一的に管理する「官有財産法」を法制局と連携して提案した。(189頁)

 「最終的には、1890年に「結局「官有財産管理規則」は、青木外相の主張どおり勅令の形で議会の関与を認めず、第一議会開会の直前の十一月二四日に公布された。因みに、本則規則第二条には、「官有財産ハ主管ノ各省大臣之ヲ管理ス」と規定されており、遂に官有財産の大蔵省による統一管理方式はならず、内務、農商務両省に管理権が留保された。とまれこのような形で官有財産管理問題を処理したことにより、井上毅の意思如何にかかわらず、山県内閣は官有財産払下げの手段を地方自治政策における経済的手段として活かすことを、事実として放棄したのである。」(247頁)

(3) 「以上のような内容を有する「興業銀行」「動産銀行」「農業銀行」の創設を大蔵省は意図したのである。しかも一七~一八年当時においては大蔵省は、「興業銀行」を土木費国庫補助に代わる役割を果たしうる金融機関としてのみ推進したのに対して、今回はより積極的な経済政策的考慮によって、しかも、地方自治団体に対する財政的保障を組み込む形で「興業銀行」草案を提示している。既に述べたように、利益供与手段としての官有財産払下の政策を政府自らの手で封印してしまった以上、当面地方に利益を供与する手段は、この「興業銀行」以外にはなかったといってもよい。
 だが、結局、山県ら政府首脳はこの「興業銀行」構想を実現しなかった。」(250頁)

 より大局的な視点、精緻な論理を展開しても、必ずしも権力闘争に勝てるわけではないことを歴史は示している。


『総力戦のなかの日本政治』を読んで、戦時中の総力戦体制の制度設計の論点をメモ。


 首都大学の歴史の先生が書いた本。

 日中戦争、日米開戦の概略を押さえている。ただし、開戦のプロセスなどの事実分析については、『日本はなぜ開戦に踏み切ったのか』http://blog.livedoor.jp/shoji1217/archives/1070755182.htmlの方が詳しい。

 この本でもそれほど詳細には扱っていないが、いわゆる戦時体制における法制度の内容についてメモ。

(1) 京大憲法学の教授だった黒田覚の国家総動員法に対する主張「総動員法は正常的状態の規定に基づく法律だが、これが制定されたことで帝国憲法の立憲主義的構造を、非常事態に適合させることになったと解釈できる。つまり先の非常的状態に関する規定(第八章の緊急勅令、第14条の戒厳布告など)とは無関係であるものの、総動員法のような非常時を想定して制定された法律が大きく意味をもち、帝国憲法全体の適用に重大な変革をもたらすのである。例えば、帝国憲法第二七条に規定されている所有権は、従来は自由主義的資本主義を前提として解釈され、その絶対性が強調されてきた。だが現在は、自由主義的資本主義を修正し、国家が上から統制をはかる「国防国家」体制のもとにある。そこでは、以前は許されなかった所有権の侵害が認められる。すなわち同条文の後段にある「公益の為必要なる処分は法律の定める所に依る」という文言中の「公益」の内容が、大きく変化するのである(『国防国家の理論』)(17頁)

 比較的リベラルであった黒田氏の主張を現時点で安易に批判するのは適当ではない。ただし、憲法よりも下位の法律によって憲法解釈が変更されるというかなりアクロバティックな議論、さらに、制限される国民の基本権が財産権ではなく、生存権や精神的自由権などの関わった場合にどう考えるべきか、など多くの論点を含むと考える。

(2) 「一九四〇年九月一一日、内務省訓令第一七号が発せられ、①万民翼賛の本旨に従い地方共同の任務を遂行させること、②国民の道徳的錬成と精神的団結の基礎組織とすること、③国策の国民への徹底と、国政全般の円滑な運用に役立たせること、④国民生活の安定と統制経済の運用に用いることを目的に、全国的に町内会・部落会・隣保班(隣組)を組織・整備することになった。だが、これは単ある伝統的組織の利用にとどまるものではない。むしろ、新しい国民支配機構の創出に他ならなかった。町内会・部落会・隣保班には常会を設けて行政からの伝達を徹底し、住民相互の間での意思疎通をはかることになった。(『戦後自治史(隣組及び町内会、部落会等の廃止)』)(98頁-99頁)

 現在の自治会が行政の下部構造的な役割を担っている歴史的背景の一つ。

(3) 一九四一年一二月、言論出版集会結社等臨時取締法が制定され、事実上許可をえなければ言論活動ができなくなっていた。(169頁)

(4) 一九四二年三月に公布された、灯火管制時や敵襲の危険がある状態での刑法犯を厳罰に処す煎じ刑事特別法は、一九四二年末召集の第八一議会で、従来から規定されていた殺人以外に、傷害、逮捕、監禁、致死、暴行、脅迫、騒擾が追加され、さらに治安を害すべき事項を宣伝することも処罰すると内容に改正された。(169頁)
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