有沢翔治の読書日記

 同人小説家、有沢翔治のブログ。  いいものを書くためにはいいものを、幅広く。

【こんな小説を書いてます】

二人であることの問い

 双子の姉、亜衣の様子がおかしい。何かあったのではないかと真衣から萌は相談を受ける。やがて亜衣の部屋からバタフライナイフを買った痕跡が見つかり……。亜衣は何を考えているのか?


新田義弘『現象学とは何か』(講談社)

現象学とは何か フッサールの後期思想を中心として (講談社学術文庫)

概要

 現象学とは何か。ハイデガーからデリダなどに受け継がれる問題意識を、フッサール、特に『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』と『デカルト的省察』を中心に精読することで探っていく。
 最近の解説書は論理の飛躍が多々見られるが、そういった要素は一切ありません。地道ながらも丹念な読解が好印象。

フッサールについて

 エドムント・フッサールは心の動きをできるだけ正確に描こうとしました。全三冊に及ぶイデーンはその格闘の後で、自分が何に意識を向けているかを意識すれば、本来的な知識まで辿り着ける、と言いました。「自己を示すものがそれが自ら現れてくるままにそれ自身の方から見えるようにすること」、例えばコーヒーを飲もうとコップに意識を向ける、という自分の意識を観察すること。

絶対的所与性

 また今見ているものと心の中で描いているものは同じとは限らないということも挙げられています。『現象学の理念』*1によれば、下記の通りです。
その想像された色は想像体験の実的部分ではない。それは現在する色ではなく、現前化された色であり、それはいわば眼前にあるのではあるが、しかし実的現在としてではない。しかしやはりそれは観取されているのであり、観取されているからにはなんらかの意味で与えられているのである。
 自分がコーヒーに意識を向いたこと、コーヒーを飲んでコーヒールンバを思い出したこと、これらは絶対に確実で疑いえませんよね。絶対的所与性といいます。所与とは「哲学で、思考の働きに先立ち、意識に直接与えられている内容」*2のことです。『デカルト的省察』では「世界が現にあること」が挙げられています。
 つまり、想起・知覚・想像は明証となり、さらにフッサールはそれ以上、遡ることができない想起・知覚・想像を「本源的明証」と名付けました。しかもこの本源的明証から全ての想起・知覚・想像が発生しているはずだというのです。

フロイトとの類似点と違い

 『現象学の理念』の目標は、一見するとフロイトと近いものを覚えるかもしれません。調べてみて気付いたのですが、フロイトとフッサールはほぼ同時代の人だったのです。
 しかし、フロイトは患者の治療という実務的な目的ですが、フッサールは学問の基礎づけという学問的な目的でした。
 二人の決定的な違いですが、思い出せない記憶の取扱。フロイトは思い出したくないから思い出せなかった、と抑圧に結びつけて考えるでしょう。しかしフッサールはこの点、少し慎重に取り扱わなければいけません。なぜなら明証となることがらがその時々によって異なるわけですから、知識の地盤が不安定なのです。

問題点

 僕のこの疑問の他にも「重大な問題」があります。
 〔重大な問題とは〕本源的明証があらゆる意識の基準となること自体が一体どこで保証されるのかという問題である。本源的明証の持つ権利は(中略)明証の自己確認によって、究極的基準であることが決定されねばならない。もし確認された結果、それが根源明証であることが誤りであれば、訂正されねばならない。
 例えば世界の存在などはどうして成り立っているのか解らないけど、自明のものとして僕は受け入れています。このように世界の実在について疑うのではなく、断言しない態度で臨んでいるのが特徴だと言えましょう。この態度を判断停止、エポケーと言います。
 エポケーされた主観性を超越論的主観性と言います。
 晩年の著作『デカルト的省察』では「絶対的な明証というのは一つの理念、無意味な目標だろう」と断わりながらも、「その理念的な無限の綜合を体系的に組み立てて行く無限性の次元がもつ本質的な構造を、あらゆる内的な構造に即して解明すること」が課題だと述べています。

ノエマとノエシス

 フッサールはブレンターノの志向性という概念を受け継ぎます。そしてその中で重要となってくるのが、ノエマとノエシスです。意識は常に何かに向けられていますよね。このような心の動きをノエシス、対象をノエマと言います。
 世界の存在も意識が向いている限りにおいて、発生しているということです。どんなに疑いようがなくても、です。自分自身について語るとき、いつしか視点がずれてしまいます。例えば
1.私が鏡で顔を見ているとき、
2.私が誰かに見られて、その視点を想像するとき
3.私を俯瞰的に見るとき
 しかし、2.3はある意味でフィクションです。そして私だけの視点に引き戻すのが現象学的還元です。

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学

『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』*3は哲学史という目で見たときに、超越論的現象学を位置づけしています。
 ガリレオ以降の認識論として、世界の存在を自明なものとして捉え、疑いませんでした。つまり超越論的主観性になることはなかったのですが、フッサールはこの態度に自己忘却的な態度だとして、異を唱えています。
 ところで、このエポケーを伴わないで「世界の内で生きながら自己を知る」人間の素朴な態度は、自然的な態度である。この自然的態度の概念は、まず何よりも克服され突破されるべきものであった。
 しかし、この態度は行き詰まります。他人が<いる>ことについても、判断を留保する一方、他人の知覚を媒介にしか<ある>とは言えません。
 例えば幻覚<ではない>ということは他人が同意して初めて成立しえます。

*1 エドムント・フッサール『現象学の理念』(みすず書房)なお、「フッサール『現象学の理念』を解読する」(Philosophy Guides)も参考になる。
*2 kotobank「所与
*3 エドムント・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学



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ロバート・ゴートン[脚本]『恋におぼれて』(ワーナー・ブラザース)

恋におぼれて [DVD]

あらすじ

 天文学者のサムにはニューヨークに恋人、リンダがいる。しかし、リンダから突然、故郷に戻らないと手紙が届いた。サムは居ても立ってもいられず、ニューヨークへ。
 そこで新しい恋人、アントンと付き合っているところを目撃する。サムはアパートの向かいを借りて、監視を始めた。しかし、アントンに復讐を誓う元恋人のマギーと出くわすことになる。

第一印象

 復讐譚に恋愛要素を混ぜたような映画。
 裏には「ラブ・コメディ」と書いてあったけど、笑えませんでした。むしろマギー含む人間の闇を描いていて怖い! ストーカーのサム、嫉妬ぐるいのマギー、女を利用するアントン。常識人なのはリンダだけ。
 中でもマギーの陰湿ぶりがいい意味で際立ってたけど、女の復讐心は同性に向かうことが多いように思いました。

見る/見られる

 さて、『恋におぼれて』は視線の一方向性が挙げられます。通常の生活で、互いの目を見て話すなど、視線は双方向的なもの。恋愛で見つめ合うともなればなおのこと。
 しかし、『恋におぼれて』では監視していることからも解るように視線が一方通行です。サムは見る主体であり、リンダは見られる客体。冒頭部で宇宙を観測したり、マギーが現れる前、細かいデータを取って分析したりするのと同じです。
 そしてレンズの発明で、主体と客体が双方向ではなくなったのです。この双方向性の消失に輪をかけているのが盗聴器。
 ここから復讐を仕掛けることでアントンとマギーは段々と一方通行から「歪んだ」双方向性になっていきます。しかしサムとリンダの関係は一方通行のまま。それが解る場面が、リンダのタオルを嗅ぐ場面。視線と同様に、双方向の関係なら、リンダもサムの香りを嗅ぐはずです。
 またマギーは途中からサムに恋愛感情を抱き始めます。そしてリンダとよりを戻したところを、マギーはカメラに撮るのですが、サムはマギーと目が合います。加えてキスも互いに唇を付けあっているという点で触覚、味覚などが双方向になっています。
 つまり視線、嗅覚などの関係性は登場人物たちの恋愛感情を表しているのです。



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ポール・ヴァレリー『精神の危機 他十五篇』(岩波書店)

精神の危機 他15篇 (岩波文庫)

概要

 詩人、ポール・ヴァレリーは文学作品だけでなく評論などの分野でも鋭い著作を残している。ヨーロッパ文明の衰退を予言した社会評論の白眉「精神の危機」の他、機械文明に警鐘を鳴らした「知性について」……。精神、知性などをテーマにした評論アンソロジー。

栄枯盛衰

 この『精神の危機』ではヨーロッパの衰退を唱えています。 冒頭部でヴァレリーはシュメール、バビロニアの諸都市を引用して栄枯盛衰を訴えています。平家物語でおなじみ、日本人の世界観としては馴染み深いですね。
 しかし、日本人はあくまでも世界観であり、漠然としています。一方、ヴァレリーには具体的な危機感があったのではないでしょうか。

世界大戦

 第一次世界大戦後、ヨーロッパは戦場になります。初めこそ「馬による栄誉ある突撃」*1が主流でしたが段々と塹壕戦になっていきます。また毒ガス、戦車、機関銃などの火器……次々と新技術が投入されていきました。戦地だけではなく、本土では戦時体制が敷かれ、不便を余儀なくされます。
 また犠牲者もフランスだけで、述べ4,266,000人に上りました*2。このような時代背景のもと『精神の危機』で、ヨーロッパの衰退を唱えたのです。恐らくですが、キリスト教などの一神論では栄枯盛衰という概念は存在しないのではと思います。神は全知全能なので衰えることがありませんよね。
 このような宗教観の他に、
(1)300年間以上も続いていること
(2)世界各地に植民地を築いていたこと。
 を考え合わせれば、ヨーロッパは世界の覇者だと誰もが疑わなかったのではないでしょうか。
 しかしそのような中で世界大戦が起きてしました。ヴァレリーは世界大戦が終結しても、不安を感じています。それが
嵐が通り過ぎた。しかし、我々は嵐の前夜のような不安と焦燥感にとらわれている。(中略)教養ある頭脳でも到底、この不安を乗り越え、この暗鬱な印象を払拭し、社会生活の不透明な時期がいつまで続くのか予測することはできない。
 というフレーズに集約されています。
 実際、ヴァレリー個人の印象ではなく、実存主義が台頭していきます*3。これまでは本質主義といい、人間の普遍的なことがらを探ろうとしていたのですが、〈今ここにある存在〉*4を探ろうとしました。今、人間の世界がどうなっているのか、ひいては今後どうなるのかに関心が強まったのです。

予測不能

 しかし、ヴァレリーも述べているように、予測不能です。もちろん、当初、第一次世界大戦は短期決戦を予想していたにもかかわらず*5、数年間に渡ったことも要因の一つとしてあげられるでしょう。
 これは科学不信と大きくつながってくるように思います。科学は未来を予想できると信じてきました。例えばどの程度大砲を傾ければどこに到達するのか、課税はどのくらいが適切なのか、人口政策はどうすればいいのか……。みんな学問的に割り出せてきました。
 大量殺戮に使われるばかりではなく、予測不可能な社会になったという意味でも科学への期待が裏切られるのです。この科学礼賛から科学不信への動きはSFにおいてよく現れています。
 例えば、科学礼賛主義の小説はジョージ・ウェルズの『解放された世界』*6、これは第一次大戦で世界が統一され、世界連邦ができるという小説です。恐ろしい新兵器なども登場していますが、楽観的な結末。第一次大戦前夜に書かれているので、まだ科学に対して希望を抱いていたことが窺えます。
 一方、1920年〜30年になると、破滅的な世界が描かれていきます*7。栄枯盛衰は文明や王朝として捉えれば頷けますが、人間もいずれは滅ぶという考えは余り納得しないのではないでしょうか? 
 それはギリシアが、エジプトが、ローマが、あるいは平家が繁栄ののち滅んでいったのと同じ理屈です。しかし間違いなく人類の栄華はいずれ終わりを告げます。ただちにではありませんが、1000年か2000年か後には。

機械文明

 さて、ヴァレリーは機械文明に対しても苦言を呈しています。単なる老人の苦言ではなく、現代でも考えさせられるところがあります。機械が支配するというくだりはもちろんのこと、
さようなら、推敲を重ねた言葉、文学的省察、貴重な物象や精密機械にもなぞらえられる作品を生み出した数々の探求よ! 我々は刹那に生きて、衝撃や対照効果のみ気を引かれ、偶発的興奮あるいはそれに類するものが照射するものだけを捕らえるように強いられている。我々はスケッチ、荒削り、草稿で満足し、評価する。完成させるという概念がほとんど消えてしまったのである。
 文化にせよ、学問にせよ、じっくりと省察しなくして新しいものは生まれません。

現代の例

 例えば、スマホゲームでも、三つ並べれば消える、というアルゴリズムだけなのに動物、菓子、花などアイコンだけを変えているように思えます。もっといえばぷよぷよを4つから3つに変えただけです。
 しかしぷよぷよシリーズは広がりを見せていました。ディスクステーションの4コマ漫画、魔導物語シリーズなど。端的に言うと物語が感じられないのです。ZOO KEEPERはまだ動物園から逃げ出して彼らを捕まえるという物語がありました。
 もう一つの例はインターネット小説。僕はヴァレリーとは違い、ウェルギリウスも推理小説も面白ければ価値がある、という考えです。ただ問題なのは異世界転生で溢れかえっていること。しかもほとんどは二番煎じ、三番煎じどころか出がらし。もちろん、異世界転生が全て悪いと言っているのではありません。ただ戦国時代を中世ヨーロッパに変えただけ、という表面だけを模倣しているのです。
 少なくとも僕は2つの視点が思い浮かびます。
(1)異世界とは果たして何なのか、例えば、if世界史*8、多元宇宙論などを手がかりに模索していく方法。
(2)転生とは、死とは何なのか、という仏教哲学の視点から考察していく方法などが思い浮かびます。ライトノベルか否かは文体、形式の問題なので、これらの問題を内包させてたライトノベルは可能です*9。
 しかし性急な評価を気にかけるあまり、「省察」などの文化の本質を見失っているのです。
 さらにこれが現代では差別思想と結びついているので手に負えません。もちろんじっくり考えたすえの差別思想ならまだ救いがあります。しかし嫌韓、嫌中を唱えればとりあえずアクセス数や発行部数が伸びるという「刹那的」で「偶発的興奮」だけを追い求めていますよね。
 しかも歴史的な視点の誠実さを欠いているものもあります*10。
 新潮45の問題もこの延長線上にあります。

創造性に必要なもの

 真の意味で創造的な作業に必要なものを、ヴァレリーは二つ挙げています。感受性と、精神的に自由な時間です。精神的に自由な時間について、「忘我の時間」と説明した上で、「思い残しも明日への期待もなく、内的圧力もない状態で、あるのは忘我状態におけるある種の安らぎ、精神を本来の自由に返す有益な空白状態」だと語っています。
 まともに創作活動をしようとするなら心の余裕は必要不可欠です。そしてこの心の余裕は忘我の時間で生まれます。そして全人類にとっても。恐らくですがマインドフルネスなどは「忘我の時間」を回復するために生まれたのではないでしょうか。

独裁政治

 またヴァレリーは、独裁政治の問題も考察しています。
 政治権力の影響が及ぶ範囲や深度に対して過大な幻想が抱かれているふしがないわけではない。しかし、反省的思考と公的秩序の混乱とが出会ったとき、唯一形成されるのがそれなのだ。意識的か否かは問わず、みんなが独裁を思うのである。
 少なくとも公的秩序は混乱しています。小さなところで言えばハロウィーンの騒動、大きなところで言えばシリアの情勢など。このような問題を解決するには強い指導者が必要だと誰もが幻想を抱くのだとヴァレリーは指摘しています。

国粋主義

 ここまで現代とのつながりを探ってきましたが、ヴァレリーはヨーロッパの衰退を諦念で眺めていたわけではない、と感じます。むしろ衰退を食い止めようと焦燥に駆られているような文面です。
 あくまでも僕の印象なのですが、もし立て直そうと躍起にならなければ、繰り返し訴えないのではないでしょうか。
 もっと言えば、ヨーロッパ文化に対して悲観していたら、「フランスは〔トルストイやシェイクスピアやセルバンテスといった〕一級の人たちに事欠きません」などという言葉は出てこないはずです。ヴァレリーの文章からは第一次大戦で荒廃しても、再び文化の中心地として復興を遂げるという志が窺えます。

古典重視

 しかし、ヴァレリーはこの点、間違っているように思います。それは現状、アメリカが文化の中心という理由だけではありません。
 私が古典教育の実を信ずることがあれば、ツキジデスの小型本やウェルギリウスの愛蔵版を出して、新聞や推理小説の類を足元に踏みつけて、読み耽るのを目にしたときでしょう。
 つまりヴァレリーは推理小説よりも古典文学に重きを置いているのです。どちらかといえば僕も海外の古典文学が好きなのですが、あくまでも嗜好の問題。それに渡辺淳一、瀬尾まいこ、ライトノベル、WEB漫画なども読んでいます。そればかりではなく、ゲームなども行ないます。優劣などない、と少なくとも僕は思っています。
 また逆にシェイクスピアは当時の娯楽作品。今でいう映画のようなものです。

ギリシャについて

 ギリシャはヨーロッパの古典に含まれるかも考える必要があります。それはギリシャがトルコに支配されていたという事実ばかりではありません*11。
 ギリシャ文学、ギリシャ哲学はヨーロッパでは宗教的に弾圧されて途絶えます*12。イスラム帝国を介して十二世紀に再発見されました。したがってヨーロッパは直接ギリシア文学を受け継がれてはいないのです。
 地理的にはヨーロッパですが、文化の連続性から言えば、むしろ東方ではないかと思うのです。

方言の軽視

 ヴァレリーの保守性はこれだけに留まりません。「正しい発音」と間違った発音の二分法に基づいて議論しているのです。
 フランス語を話す訓練が受けられない唯一の国がフランスだということです。東京やハンブルクやメルボルンに行ってごらんなさい。フランス語の正しい発音を教えてくれるかもしれませんよ。反対にフランスを一周してごらんなさい。色々な訛りに出会ってバベルさながらです。
 しかし、この多様性こそが逆に文化の源泉であるとも言えましょう。例えばダンテの神曲は当時、一般的にはラテン語で書くのが常識でしたが、トスカーナ方言で書かれています*13。
 したがって過度な保守性は文化を硬直させ、結果的に腐らせていきます。


*1 NHK『映像の世紀 第二集 大量殺戮の完成』(NHK)
*2 Wikipedia「第一次世界大戦の犠牲者
*3 Wikipedia「実存主義
*4 これを現実存在、あるいは略して実存という。
*5 NHK『映像の世紀 第二集 大量殺戮の完成』(NHK)
*6 ハーバード・ジョージ・ウェルズ『解放された世界』(岩波書店)
*7 Wikipedia「サイエンス・フィクション
*8 フィリップ・K・ディック『高い城の男』(東京創元社)、半村良『戦国自衛隊』(早川書房)
*9 Wikipedia「キノの旅
*10 古谷経衡「買ってはいけない「儒教本」のお粗末な中身」(プレジデントオンライン)
*11 Wikipedia「ギリシャ独立戦争
*12 B・C・ヴィッカリー『歴史のなかの科学コミュニケーション』(勁草書房)
*13 Wikipedia「神曲


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重松清『定年ゴジラ』(講談社)

定年ゴジラ (講談社文庫)

あらすじ

 くぬぎ台に住む山崎さんは今年定年退職を迎えた。通勤に使っていたころはさほど不便を感じなかったが、歩いてみると、娯楽施設は何もない。退屈な街だった。
 散歩を始めた山崎さんは、やがて散歩仲間ができ……。散歩仲間の交流、家族との交流などを描く。

タイトルの由来

 定年ゴジラというタイトルは、くぬぎ台の模型を山崎さんたちが壊したことに由来しています。くぬぎ台に家を買った当初は理想的な街でしたが、今は不満だらけ。
 しかし、今の不便さは過去の町民たちの意見を反映していたと解ります。例えば、「公園の数が少ないと思いませんか?」という不満へは
だって十年前に市がフィールドアスレチック付きの公演を計画したら、反対運動が出たでしょうが。くぬぎ台以外の連中も遊びに来ると静かな住環境が乱されるって
 このようなやりとりの後、用済みになったくぬぎ台の模型を壊すのです。
 町民の一人、藤田さんは当時、くぬぎ台の開発計画に携わっていました。くぬぎ台に誰よりも愛着を持ち、「説明会のときも抽選会のときも全部立ち会」いました。また「規模縮小の話が出たときは、専務と刺し違える覚悟」をしています。
 先輩社員が模型を壊していくなか、藤田さんは壊さないと決意しました。しかし、理想は理想に過ぎないと悟り、ゴジラのように模型を踏み潰していくのです。山崎さんたちも加わり、くぬぎ台の模型はあっという間にぺしゃんことなりました。これが定年ゴジラの由来です。

定年退職後の日常

 さて、『定年ゴジラ』では日常の些細な出来事を描いています。例えば冠婚葬祭、引っ越し、週刊誌の取材……。みんな日常のありふれた光景ですが、個性的な登場人物とともに描かれているのです。
 実際に書いてみれば解るのですが、日常生活の小さな喜怒哀楽を面白く描くのは難しいです。殺人事件や魔王退治などがあれば、緊迫感が持続できますが、登場人物たちの個性、描写などで「物語」を盛り上げなければいけません。
 『定年ゴジラ』の場合は「語り」、つまり構成によって下支えされているところもあります。例えば「夢は今もめぐりて」は同級生が寸借詐欺の加害者になるのですが、冒頭部は
 つらい話を聞いた。電話口で相槌を打つごとに気が滅入ってしまい、電話器を置いたときにはため息をつくだけでは収まらず、いがらっぽいうめき声も漏れた。
 という文章。奥さんじゃなくとも「どうしたの? なにかあったの?」と聞きたくなるでしょう。そして、これは読者の感想を代弁するだけでなく、「なんでもない」と突き放すことで、さらにどうしたのかという疑問を読者に抱かせます。「乱暴な仕草で(中略)腰をおろ」すのもより一層、疑問を引き立てます。
 しかし、構成ばかりではありません。関西弁で短気の野村さん、お人好しの町内会長などと個性的な登場人物たちが物語を作り上げているのです。そして重松清お得意のちょっといい話も。

〈語り手〉の問題

 この物語を最初に読んだとき、違和感を抱きました。三人称視点で描かれていますが、地の文で登場人物の呼称があたかも一人称視点であるかのように書かれているのです。例えば、「第一章 定年ゴジラ」はこのように始まっています。
 長い散歩から帰ってきた山崎さんは、玄関の上がり框に腰掛けてウォーキングシューズを脱ぎながら、深々とため息をついた。
 一人称視点で書かれているなら、「山崎さん」という言い回しは〈語り手〉との親しさを表しています。しかし、三人称視点では登場人物に語り手そのものが登場しません。三人称の語り手が登場人物に寄り添って語ることはありますが、言うまでもなく人間関係は二人以上の場合で成立します。

〈語り手〉と登場人物たちとの関係

 ありていに言えば、〈語り手〉が姿を見せない以上、登場人物が〈語り手〉とどういう関係にあるのかつかみにくいのです。そしてこの問題は情報の取捨選択に関わってきます。〈語り手〉は地の文の呼称などからくぬぎ台に肩入れしていると解ります。
 一方、ニュータウンの評論家、宮田助教授ですが、地の文では「宮田助教授が突然くぬぎ台に来ることになった」と書かれています。宮田さんではなく、宮田助教授。学生のモリナガもモリナガさんではなくモリナガくん。漢字は付けられておらず、まるで外国人のような印象を受けます。

街全体が語り手?

 「野村さんは(中略)怒鳴りながら(中略)学生をさらに蹴りつける」*1という文章に注目しましょう。地の文でも「学生さん」とは呼ばず、学生と呼んでいるのです。通常の三人称視点なら、この表記が一般的なのですが、くぬぎ台の住人を「さん」付けで呼んでいます
 つまり三人称でありながら〈語り手〉はくぬぎ台の人には親しみを込めている一方、部外者をよそよそしく描いていることが解ります。
 山崎の目線で描いているようにも思えますが、彼の深層心理を描いているところや「奥さん」と呼んでいるところを見ると、山崎に限りなく近いものの本人ではないと言えましょう。
 そして。
 ここからはささやかな「先」のお話。

 というように山崎の視点からは絶対に知りえないことも書かれています。くぬぎ台という街そのもの〈語り手〉とも解釈できるのです。

*1 警察呼べよ、と思った。



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大井邦雄[監修]『イギリス・ルネサンス演劇集』(早稲田大学出版部)

イギリス・ルネサンス演劇集〈1〉

概要

 イギリスのルネサンスの演劇といえば、シェークスピアが思い浮かぶだろう。しかし、それ以外の戯曲家は? あまり翻訳が出ていないのが実情である。
 ジョン・フレッチャーとシェイクスピアの共作、『二人の貴公子』(挟)含め、中世道徳劇が色濃いジョン・レッドフォード『ウィット・知恵蔵とサイエンス・華子』などを収録。

リチャード・ブルーム『アンティポディス』

 空想癖があり、架空の国『アンティポディス』を旅したいというベリグリン。そんな彼を治そうと彼の父親、ジョイレスはヒューポール医師に相談を持ちかける。
 そこでヒューポールの「治療」が始まる……

空想するということ

 もちろんですが、リチャード・ブルームは空想しながらこの脚本を書いています。そして俳優も同じでしょう。そして観客も空想しながら演劇を楽しんでいます。
 つまり多かれ少なかれ、ベリグリンのような一面を持っていることになります。
 空想癖を直すという結末は一見すると空想を否定するようにも思えてしまいます。しかし、登場人物の名前を見れば、空想に否定的な考えを持っていないと解るのです。小野正和が注で指摘していますが、ジョイレスは「楽しみがない」という意味*1。
 どうしてこのような名前を付けたのか。もちろん空想に浸ってばかりいる息子に、楽しみを奪われたとも解釈できましょう。しかし空想を辞めさせようとすることは、ジョイレス自身が空想を認めていないのだと僕は解釈しました。
 事実、空想は精神状態を回復する上でとても重要です*2。『アンティポディス』は「強度の憂鬱症」と診断されたベリグリンが空想を通して、自分を見つめ直していくという物語とも取れます。
 そしてヒューポール医師は空想を芝居で手助けし、回復を促しているのです。

劇中劇

 さて、下記のやり取りを見てみましょう。
ルトイ その時の気分次第で、勝手放題。
自分の役柄に自由に想像を加え、
作家が技を凝らし、念入りに仕上げたものを、
時々、変えたり削ったりするからな
仲間の作者にはなさなれけばならない場面でも
観客を相手に問答しだしたりするし──
 パイプレイ そのやり方が、殿様、昔の時代では許されていて、それが楽しくもあり、笑いを誘っていたのです。
 そうだ、タールトンやケンプの時代、
 舞台から野性味が抜けて、
 今をときめく完成された形になる前までは

 この台詞を語られるのは、劇中劇の俳優とヒューポール医師の関係だけではありません。この『アンティポディス』そのものの関係性においても言えます。言ってみれば一つの演劇史であるとともにリチャード・ブルームと俳優との力関係を表しているのです。このセリフは物語を進める上で必要ないばかりか、余分なもの。そうだとすると、リチャード・ブルーム自身の思いが反映されていると考えて然るべきでしょう。

シェイクスピアの影響

 この劇中劇の技法ですが、シェークスピアは『ハムレット』*3や『じゃじゃ馬ならし』*4などでも使っています。あるいはもっと広く意味を取って変装、芝居などはシェークスピアではお馴染みですね。
 リチャード・ブルームは劇中でシェークスピアの名前を挙げています。このことからシェークスピア作品に何らかの形で接していたと解ります。

ジョン・フレッチャー、ウィリアム・シェイクスピア『二人の貴公子』

 シェークスピア作品といえば一人で書いているという印象が強いかもしれません。しかし、『ヘンリー六世』はクリストファー・マーロウとの合作であることが、近年明らかになりました*3。
 さて、この作品も、ジョン・フレッチャーとウィリアム・シェークスピアの合作です。ジョン・フレッチャーも当時の人気脚本家*4。『二人の貴公子』の他、『ヘンリー八世』もジョン・フレッチャーとの合作の可能性が指摘されています*5。

あらすじ

 舞台はアテネ。テーバイの貴公子、パラモンとアーサイトは捕虜としてアテネに連れてこられます。二人は従兄弟同士ですが、牢獄の窓を通して同じ女性を好きになりました。決闘を挑みますが、平安を乱したとして、パラモンは投獄、アーサイトは国外追放になります。果たして三角関係は解消されるのか。

プロローグの意味

 従兄弟同士が同じ人物を好きになるのなら、捕虜という設定はいらないのではないか、と最初、読んだ時は思いました。
 しかし、捕虜という設定について考えてみると、国外追放には特別な意味を帯びてきます。より話を明確化するため、比較として『リチャード二世』を出します。
 モーブレーとポリングブルックが決闘を行い、リチャード二世はモーブレーを永久追放します。そのときのモーブレーは「私の舌から/使い覚えた母国語を吐く息を奪われたのですから」*5と嘆くのですが、アーサイトはその必要はありません。
 なぜなら、彼はすでに捕虜であり、その意味で母国語を失っているからです。失うものがないばかりか、また捕虜の追放は解放、つまり自由の獲得をも意味します。
 同じ国外追放でも、『リチャード二世』のモーブレーは失うものが多く、逆に『二人の貴公子』のアーサイトは得るものが多いと言えましょう。

シェイクスピアの人生観

 『二人の貴公子』の第五幕第四場には、シェイクスピアの人生観が反映されています。
天上の摩訶不思議な力の持主、
われら人間には量り知れない御力よ! われわれ人間は、
もの足らざるときに笑い、みち足りるときに悲しむ、
ことごとに一喜一憂するわれわれはまだまだ子供だ。さあ、みんな、
在るがままのものに感謝しようではないか。
われわれ人間の揣摩推測など及びもつかぬ御力に、なぜと、問いただすのは
止そう。
 もちろん教会に忖度しながら書かなければいけません。事実、シェークスピアよりも後のガリレオ・ガリレイは、異端審問を受けます。その土台に立って「在るがままのものに感謝しようではないか」という台詞が出てくるのでしょう。
 もちろん、これは現代を生きる僕たちにも通じます。

トマス・ミドルトン『おかしな世の中』

 トマス・ミドルトンもルネサンス期のイギリスを代表する劇作家らしいです。

あらすじ

 ガルマンは母親と売春宿を営んでいます。しかしその実、裕福な老人を手練手管を使って言い寄り、その実態は結婚詐欺に近いのです。当初は財産目当てのプログレスに言い寄るが、彼の孫、フォーリーウィットも本気でガルマンに入れ込んでしまいます……

だますということ

 ガルマンは清楚な振り、という芝居をしています。そして、役者自身もまた観客へ芝居をしているのは言うまでもありません。つまりガルマンは二重の意味で「芝居」をしているのです。この作品の主眼がだますことに置かれているのは、
ずる賢く生きるものよ、聞くがよい。その運命は捨てられたり。
万人を騙し終えれば最後に騙すのは己れ自身なり
とやや教訓的とも言える台詞で締めくくられていることからも明らかでしょう。この点、当時の政治情勢とも絡められそうですが、出版は一六○八年でも出演の年は定かではありません。ただ社会情勢としては資本主義がようやく芽生え始めたころ*6。資本主義と詐欺は欲望という点でつながります。
 だます、という点において詐欺師と俳優の共通点をトマス・ミドルトンは意識していた、とも解釈できます。
 また『おかしな世の中』ではシェークスピアの長編詩『ヴィーナスとアドニス』などに触れています。劇中劇や登場人物たちが変装する設定が、シェイクスピアの戯曲にはよく見られます。ミドルトンが意識していたか否かはともかく、ガルマンが二重の芝居をしていることにはシェークスピア作品の影響を受けていたのかもしれません。

ジョン・レッドフォード『ウィット・知恵蔵とサイエンス・華子』

 この戯曲で特徴的なのは、登場人物がみな、寓意的な名前であること。これは中世道徳劇の特徴です。また最後に神への祈りで幕を下りるところも中世道徳劇の類似点。イギリス・ルネサンス演劇集〈2〉
 ただ中世道徳劇は、エブリマン(万人)の救済を描いています。『ウィット・知恵蔵とサイエンス・華子』も確かに救済がテーマなのですが、どちらかというとウィット・知恵蔵の救済に重きが置かれています。この二つの違いは、知恵が救済の鍵となっていくという主知主義の幕開けを思わせます。
 ウィット・知恵蔵は途中で、ぐーたら子(Idleness)に惑わされて、道化にさせられてしまいます。この場面は、堕落は罪だという価値観の萌芽とみなせるかもしれません*7。

*1 小野正和「注」(大井邦雄[監修]『
イギリス・ルネサンス演劇集』早稲田大学出版部)
*2 河合隼雄『昔話の深層』(講談社)
*3 シェークスピア「ヘンリー六世」は共同執筆、ビッグデータで証明(Reuters)
*4 Wikipedia「ジョン・フレッチャー(劇作家)
*5 ウィリアム・シェイクスピア『リチャード二世』(白水社)
*6 山田英教「解説」(『イギリス・ルネサンス演劇集』早稲田大学出版部)
*7 ミシェル・フーコー『狂気の歴史』(新潮社)



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ノーラ・エフロン[脚本]『ユー・ガット・メール』(ワーナー・ホーム・ビデオ)

ユー・ガット・メール [DVD]

あらすじ

 個人経営の「Shop Around the Corner(街角の小さな本屋さん)」のキャスリーン・ケリーはメル友がいた。NY152というハンドルネームだけで本名も住所も知らない。
 彼は大型書店のFOX BOOKSの御曹司、ジョー・フォックスだった。やがて、FOX BOOKSの出店により、キャスリーンの店は廃業に追い込まれていった。
 商売敵とは知らずに、メールを通じて、互いに惹かれ合っていく……。

第一印象

 懐かしい! 懐かしすぎる! 「ピーピーガーガー」という音は多分、僕よりも5年くらい若かったら知らないんだろうな……。

インターネット黎明期

 インターネット黎明期は電話線でつないでました。常時接続しようものなら、すさまじい電話代が請求される上に、使用中は電話がつながらなくなるという……。最後になっても写真を交換しませんし、キャスリーンからも要求しません。
 現代なら、犬を飼ってるという文面とともにブリンクリーの写真も送るでしょう。写真を突然送りつけると、メールの閲覧に時間がかかってしまうのです。
 このような状況ですから、メールのチェックも1日1回くらいが精一杯。したがって、文面を練りに練らなきゃいけませんでした。それは『ユー・ガット・メール』でも描かれていますね。
 それからサイバーセックスも懐かしい。日本ではチャットセックス、チャットH、チャHなどとも呼ばれていますが、文字の会話だけでセックスを楽しみます*1。

現在だったら

 現在だったらキャスリーンに軍配が上がるだろうと、考えていました。キャスリーンとジョーのラブロマンスそっちのけです。
・炎上
 キャスリーンの恋人、フランクが新聞に投書しただけで、あれだけの抗議デモが起こるのです。今なら炎上必死。
・NY152の身元がすぐに露呈
 今はSNSの発言からすぐに身元が特定されます。犬の写真を送ろうものなら、自宅の窓からの景色で住所が割り出され……。
・スレッドで思い出を語る住人たち
 多分、閉店が決まったら、掲示板で思い出を語る人も出てくるのではないでしょうか。
・FOX BOOKSの再就職。児童書コーナーのフロアマネージャーとして活躍。
 これは『ユー・ガット・メール』のその後を勝手に想像しただけです。ほらアマゾンが台頭するだろうし、その場合、生き残るにはキャスリーンのように詳しい書店員が必要だし。

メルヘンハウス

 この「街角の小さな本屋さん」はメルヘンハウスとすごく重なりました。メルヘンハウスは名古屋で45年以上続いた児童書専門店の老舗です。また、絵本の朗読会なども開催していたのですがが、経営難により閉店しました。
 原因はオンライン書店の一般化です。実店舗ではないものの大型書店が原因*2。

文明批判

 『ユー・ガット・メール』ではインターネットが重要な要素として登場します。もちろん冒頭でフランクがインターネットに批判的な意見を唱えていることも文明批判なのですが、『ユー・ガット・メール』ではキャスリーンに肩入れするように描かれています。
 そして、閉店後、このようなメールを送っています。
 some foolish persons will probability think it's a tribute to the city.The way it keeps changing on you.(愚かな人は街の発展だと言うかも。次から次へと変貌するのが大都会なのだと)
 このtributeの意味は「貢ぐ」という意味。つまり、直訳すると「何人かの愚かな人たちは、町へ貢いでいると考えるかもしれないでしょう(有沢訳)」になります。
 では「何を」貢いでいるのでしょうか? 僕は人情だと思います。現にキャスリーンの商売は、朗読会を開くなど地元密着で個人的なもの。地元のつながりを大資本で引き剥がしているのです。

*1 18禁小説を書きたければ、いい練習になる。
*2 日本初の児童書専門店が閉店 名古屋「メルヘンハウス」(2018年3月31日、朝日新聞デジタル)





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ストレスの元凶について知の愛好家が考えてみた

 どうも対人関係でイライラして寝付きが悪かった有沢です。パソコンでプログラムを組んでいるとき、バグが起きてもさほどイライラしないのですが、対人関係だけは弱いんです。
 さて、最近ではストレスマネジメントなどと言って、ストレスを管理する方法が流行っていますね。ストレスマネジメント関係のブログも多く書かれているようです*1。まず初めに断わっておくなら、心理学者でもなければ、脳科学者でもありません。強いて言えば「知の愛好家」でしょうか。
 しかし、ストレスは管理できる、という考えが幻想なのです。

そもそもストレスとは

 そもそもストレスとは何なのか考えれば解ること。典型的なイライラを考えてみましょう。
・上司との関係が上手くいかない
・子供が明け方まで起きている
・人身事故で列車が遅れている
・パソコンのOSが起動しない
・地震の影響で仮設住宅に余儀なく済んでいる
・月給が少ない
・小説で新人賞が取れない
・同人サークルが自然消滅した。
・ブログのPVが伸び悩んでいる
 最後の二つは個人的なことですが、これらには全て共通点があります。
 思い通りにならない、つまり、何かを自分の支配下に起き、管理したいという気持ちです。そして管理し、制御しきれないから、ストレスになるのです。例えばパソコンの電源が入らなくて、イライラしたとしましょう。この場合、パソコンが自分の力で制御できないからイライラするのです。現に僕はこの手のトラブルにあまりイライラしません。まず、BIOSが立ち上がるかどうかを確認し、原因を一つずつ潰していって丹念に原因を探っていけばほぼ、原因が見えてくるからです。

ストレスの根源は支配欲

 例えば……、「上司との関係が上手くいかない」場合、上司に言うことを聞かせたい、という願望。
 子供が明け方まで起きているなら、子供を言うことを聞かせたいという願望。
 もし夜更かしすると子供の健康に悪影響が出るから寝かせようとしてる、と反論するかもしれません。しかし、寝たけりゃ勝手に寝ます。現にある閾値を超えると、猛烈な眠気に襲われるそうです。
 つまり、自分が寝たいのに子供の物音で寝れないので、子供を無理に寝かしつけようとしてるのです。そして、自分が寝たいのなら耳栓を買うなどの対応策をすればいいだけのこと。
 どうして、「子供の健康に悪影響が出るから寝かせようとしてる」などと言い訳するのでしょう。それは、「子供を管理している」自分を認めたくないから。子供への愛情には支配欲が潜んでいると認めてしまい、心の暗部を直視することになるから。
 つまり自分の心さえも支配できてないのです。自分の心も管理できないのに、他人を支配できるわけがありません。ましてや地震や景気などは言わずもがな。何かを管理できるという幻想から抜け出せば、ストレスが溜まりにくくなるのではないでしょうか。

支配欲の根源は孤独

 そもそもどうして僕含め、他人を支配しようと思うのでしょうか。命令に従わせて、王様気分を味わいたいのでしょうか。確かに命令に従うと気持ちいいですよね。
 しかし僕はそれ以上に「自分の考えが正しいか」を常に確認したいという不安があるような気がします。つまり考えが同じであると確かめて安心感を得ようとするのです。しかし同じ考えかどうかは原理的に確かめられません。
 唯一の確認方法は行動と発言を通してですが、これも嘘を言っているかもしれないので確実ではありません。つまり、どう足掻いても他人の心を知ることなど不可能であり、したがって自分の考えが本当は正しいかどうかなど確かめることは原理的に不可能です。だからこそ考えであると同じであると強迫的に確かめたくなります。
 同じ考えであると確認したい気持ちは、同じ行動であると確認したくなり、最終的には同じ行動にしたい、という願望につながります。同じ行動にしたい、という気持ちは管理につながるのです。

ストレス管理の矛盾

 さて、ここでストレス管理という言葉について立ち戻ってみましょう。「〈何か〉を管理したいのに、制御しきれない状態」のときにストレスが発生すると述べましたね。
 さてこの〈何か〉をストレスに置きかえてみましょう。「ストレスを管理したいのに、制御しきれない。このことでまたストレスが発生する」という問題になり、悪循環にも陥るかもしれません。
 ではどうしたらいいのでしょう。簡単です。
 何かを制御しようと思わなければいい。ただ、ありのままの環境を受け入れて、自然に抵抗しない。それだけ。
 だから僕はLINEで返信がなくても全く気にしません。送ろうが送るまいが、相手の自由。僕が口を出すことでもないからです。返信は欲しい、と相手に伝えることはしますけど、それだけです。
 もう一つ言うと、ゲームが無性にやりたくなることも。そういうときは欲望を制御せずに思う存分遊ぶことにしています。「あぁ、また欲望に振り回されてるなぁ。でもそのうち飽きるだろ」と諦めながら。依存症の手前なのです*2が、思う存分遊べば、満足します。
 ゲームの欲求が下がり、読書や執筆など、他の娯楽の割合が相対的に増えていくのです。

僕にとっての知識

 何かを制御するために知識がある、という工学関係の人はそう思うかもしれません。もちろん情報工学はコンピューター制御に役立っていますし、物理学は原子炉の制御に役立っています。
 しかし「制御できる」ものが広がるにつれ、本来制御してはいけないものも制御できるという幻想まで抱くようになりました。何が本来制御してはいけないものかは人それぞれあるでしょうが、僕が思うものは二つ。
1.原発
2.個人の心
 です。原発については、完全に制御技術が確立すれば外しますが、個人の心については制御してはいけません。何があっても。

何が合理的なのか

 こんな話を聞いたことがあります。ある会社で入力作業を丸一日掛かって行っていた。データをコピペするだけなので、マクロを作ったら、既存の社員からクレームがきた。曰く「暇になったじゃないか!」と。
 僕は両方とも合理的だと思っています。ただ最終目標が違うだけ。合理的に仕事を終わらせるのか、合理的にサボるのか。
 合理的というのは「ある目的」を達成するための最短手段です。したがって最終目的が違えば、当然、何を合理的とするかは違ってきます。
 例えば、名古屋から大阪へ行くとします。新幹線が一番合理的だと思うでしょう。本当ですか? ここで立ち止まって下さい。
 もし相手が各駅停車で適当に下りて、適当に泊まる。宿が取れなければ寝袋でも構わない。このような旅をしたいなら、JRが一番、合理的です。
 また、サウンドノベルの背景写真で通天閣の写真が必要なら、フリー写真などで探すのが一番合理的です。さらにいえば大阪に友達がいて、メールを送るだけで撮るなら、フリー写真を探すよりも合理的です。
 このように何が合理的かは目的によって変わってきますし、相手の条件によっても変わってくるのです。

合理性という病

 もちろん、仕事なら「合理的」に進めなければいけません。しかし、クリエイターにとって、あるいは知識の愛好家にとってはこの「合理性」は大敵。

機械的に解くこと

 例えば、数学の問題。x2+3x+1=5において、xを求められますか? もちろん解の公式を知っていればすぐに解けるでしょう。しかし解の公式を覚えなくても平方完成や因数分解で求められるのです。
 中には解の公式を使わないほうが早く解ける場合すらあります。
 (x+9)(x+8)=0
 をわざわざ展開しなくとも、答えが出ているようなもの。
 (x+9)=0もしくは(x+8)=0
 ここからx=-9とx=-8
 とすぐに求まります。しかしある種の合理主義に陥ると、わざわざ展開してから解の公式に当てはめるという非常に不合理な事態に陥りかねません。つまり二次式が出たら解の公式と短絡的に考えると、こういう結果になります。

知の本質

 もちろんテストの点を取るためなら「合理的」と言えましょう。しかし少なくとも知の愛好家なら、この態度は避けるべきです。なぜなら小手先の技術だけで、大切な問いかけをしていないからです。
 どうして、9×0=0なのか? そしてこの数式は具体的にどんな状況なのか?
 例えば9×1ならこういう少なくとも二つの意味になります。
1. 1袋9個入りの飴が1袋あったときの個数(算術的な意味)
2. 短辺が1m、長辺が9mの土地の面積(幾何学的な意味)
 さらに不思議なことは、どうして9×1と1×9は状況が違う場合があるのに、同じ答えになるのか。「1袋9個入りの飴が1袋」と「1袋1個入りの飴が9袋」。個数は同じですが、状況は違いますよね。
 そして、この9×1=1×9について数学的な証明がなされたのは、19世紀になってからです。

合理主義

 そして、少なくとも本当の意味で理解するには長い年月を要します。かなりの長丁場。一生考えて続けても解らないこともたくさんあります。数学者の中には一生一つのテーマに捧げ、ついに解らずに終わった人もいるほど。過度な合理主義に流されなければ、丹念に納得行くまで調べる力が身に付きます。
 そして一つのことを丹念に調べれば、長期的に見てストレス解消につながるのです。
 
 

*1 ストレスは自分でコントロールできる。ストレスマネジメントとは?
*2 ダウンロードして遊ぶゲームが中心だということもあるかもしれない。逆にオンラインゲームは経済力やコミュニケーション能力などゲーム以外の能力が絡むので、すぐに飽きる。


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ノーマン・ジュイソン『オンリー・ユー』( ソニー・ピクチャーズ)

オンリー・ユー [DVD]

あらすじ

 フェイスは11歳の頃の占いを信じている。運命の赤い糸で結ばれた男性の名前はデイモン・ブラッドリー。小学校教師となったフェイスは結婚することに。しかし結婚式まであと数日になったある日、婚約者の友人から電話がかかってきた。結婚を祝う内容だったが、名前を聞いてびっくり。デイモン・ブラッドリーと名乗ったのである。

第一印象

 フェイスの個性的なキャラクターなど悪くはないけど、ご都合主義。ケートは夫のラリーと関係、また、義姉だということを考えればフェイスに協力するのも(まだ)納得ができます。しかしホテルのフロントがあっさり協力したり、あろうことか飛行機を止めてまで追いかけるのはどうなんでしょう。
 そこで不自然さをとその解決法について考えました。
1.ドウェインとの婚約を破棄する理由が弱い。
 いい大人が婚約直前でたかだか昔の占いで破棄するでしょうか。これは「あなたには神経科のお医者さんが必要よ」とケイトも言っていますが、これだけでは弱い。
 これはドウェインに理解しがたく、我慢できない欠点を設ければ解決できます。とことん面白おかしくするのなら、手料理に醤油を掛けて「東洋の魔法のソース、君のも掛けておいた」と言うなどがあげられます。
 また冒頭のプラトンにならうなら女装癖、少年しか愛せないなど*1の性癖を問題にしてもいいかもしれません。
 さらに念を押すため長年忘れていたというほうが自然です。家出のために、昔の品を整理していたら「デイモン・ブラッドリー」と書かれた紙が出てきた、というふうに。
2.協力しすぎ
 これはケイトの作り話次第でどうにでも動かせます。例えば、「婚約者が失踪して探してるの、名前はデイモン・ブラッドリー」といえば、強力は得られやすくなるでしょうし、ウェディングドレス姿でも不自然ではなくなります。
 さらにローマの休日を意識したいのなら、「オードリー・ヘップバーンとどっちが演技が上手い?」と囁くことも。
3.種明かしが唐突
 明らかに取って付けたような種明かし。推理小説好きだからかもしれませんが、もうちょっと上手く処理できなかったのかな、と思ってしまいます。
 どの程度、仄めかしたいかにもよりますが、一番あからさまなものはライリーがこそこそと話している描写。しかしここはもっと弱めに伏線を張りたいところです。そこで占い師は儲けを毎日、ノートへ記録していることにします。時間ごとでも構いません。
 例えば来店時間と受け取った金額、
  10/20 18:00 $2
  10/20 18:15 $4
  10/20 18:30 $11
 最後の$11という数字を伏線になっています。占い料は2ドルなので必ず偶数になるはず。つまり$11という金額はこの数字は明らかに通常の占いでは出てこないのです。……ということは誰かが金を掴ませた、という推察が成り立ちますよね。
 視聴者がそこまで注意して見るかはともかく、これなら取ってつけたような感じは拭えると思います。

引用されている詩人たち

 さて、この映画では冒頭の『オンリー・ユー』などを始め、哲学者や詩人の名前が出てきます。例えば冒頭で、プラトンの『饗宴』が引用されています。『饗宴』では*2、
人間の性には三種あった、すなわち男女の両性だけでなく、さらに第三のものが、男女の両性を結合させるものが、在ったのである(中略)また神々はかかる冒涜を見逃しておくわけにはいかなかった。(中略)それで人は誰でも不断に自分の片割れなる割符を索める
 と書かれています。
 また、フェイスはキーツかシェリーの詩を読んでくるようにと宿題を与えていますが、両方ともロマン派の詩人。恋愛と鳥をテーマにして詩を作っています。キーツは「ナイチンゲールへのオード」*3を、シェリーは「アッズィオーラ」*4という詩を。
 「アッズィオーラ」という詩は、恋愛を歌った詩。恋人がアッズィオーラという名を口にするので、誰かと尋ねると鳥の名だと聞き安心するという内容です。
「アッズィオーラって誰だい?」
舞い上がる気持ちがした、人間ではないと知って。
恐れ憎むべき僕自身に下手に似たものではないんだ!
  そしてメアリは僕の魂の有様を見抜き、
笑って言った──「不安にならないで
  小さな柔毛のふくろうよ」
 そして浮気の誤解という点ではケートの状況と重なります。
 もちろん「アッズィオーラ」も「ナイチンゲールへのオード」も直接、引用はされていません。したがって、ノーマン・ジュイソンがどこまで意識していたのかは解らないのですが、リルケの詩を二人で口ずさむ場面もあります。そして、「離れていた二人に昨夜同じ鳥の鳴き声が響いた」とあるようにこの詩も鳥をテーマに詠まれているのです*5。

ローマという場所

 恋愛のことを指し、ローマ熱(Roman Fever)という言葉があるそうですが*6、フェイスの行動は熱に浮かれたようです。
 異国の地を登場させる場合、異なった価値観に触れ、成長して帰るという話が結構あります。しかし、『オンリー・ユー』ではそのようなことはありません。
 恋愛の聖地として登場させているようです。しかし、西洋文化に疎いので、ローマに恋愛の聖地というイメージがあるかは解りません。

*1 プラトンの『饗宴』では少年への性愛をテーマにしている(プラトン『饗宴』、岩波書店)
*2 同書
*3 ジョン・キーツ『対訳 キーツ詩集』(岩波書店)
*4 パーシー・ビッシュ・シェリー『対訳 シェリー詩集』(岩波書店)
*5 原典は未確認である。
*6 イーディス・ウォートン「ローマ熱」より(大津栄一郎『20世紀アメリカ短篇選〈上〉』(岩波書店)。もちろん、恋愛を指してローマ熱というのはイーディス・ウォートンの創作かもしれない。



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日本経済新聞社[編]『キヤノン式』(日本経済新聞社)

キヤノン式―高収益を生み出す和魂洋才経営 (日経ビジネス人文庫)

初めに

 普段、僕はこのような本を読みません。読んだとしても、就職活動で業界研究をするときや、仕事の上で広報担当になったときなどどうしても必要でなければ読みません。なぜ読んだのか? 家に『キヤノン式』があったからです。
 社会勉強。知的好奇心の刺激。創作活動の幅を広げる、などもっともらしい理屈はいくらでも並べ立てられます。しかし、結局は真剣な暇つぶしです。

キヤノンの社史

 キヤノンの歴史は以外に古く戦前の一九三三年。産婦人科医、御手洗毅はドイツ製のカメラに負けないような製品を作ろうと、光学技術研究所を立ち上げます。当時の代表は内田三郎でしたが、戦死。初代社長に御手洗毅が就任します。
 戦争が終結すると、米軍が日本製のカメラを買いに来ます。ゼロ戦は作戦さえ間違わなければ、非常に優秀な戦闘機でした。産経新聞によれば
南方攻略作戦において、零戦は日本軍の先兵として大活躍したのはまぎれもない事実である。そのため対峙した米軍は「ゼロと空戦してはならない」、「ゼロを追って上昇してはならない」、「ゼロと雷雲に遭遇した際には、回避行動を認める」など、緊急通達を出したほどであった。
 とあります*1。
 以上のように技術を持っており、米軍将校が関心を抱いたのも頷けましょう。このような光景を見て、御手洗毅は一九四五年十月に元社員たちを呼び寄せ、こう宣言しました。「必ずやカメラで世界を制覇する日が参ります」
 おそらく、悔しい気持ちがあったのではないでしょうか。

経営理念

 御手洗毅は海軍工廠技術者などを登用。現在のキヤノンも独自技術に基づいて開発していきますが、その社風はこのころに培われていきます。また三つの経営方針を打ち立てます。
1.実力主義
2.健康第一主義
3.新家族主義
 健康第一主義は結核の集団検診などを行ないました。また新家族主義はキヤノンを擬似家族としました。このような経営方針について人間が大事だという考えがあると現社長の御手洗冨士夫は言います。例えば「週休二日制を日本で最初に取り入れ」ました。このように社員を大切に扱うという当たり前のことを行えば、ブラック企業の問題は改善されるのではないでしょうか。
 そもそも労働力不足が叫ばれる昨今、待遇を改善しないと志望者が増えません。ますます過労死の死亡者が増えていきます。

カメラから事務機器へ

 さて、キヤノンと言えばカメラとともにプリンターなどの事務機器。一昔前は写ガールなどと言って、カメラを持つことが女性の間で流行りましたね*2。今やスマホにカメラがついたこともあってか、デジタルカメラは苦戦を強いられているようです*3。ほら、インスタグラムにもすぐアップロードができますし。
 キヤノンと言えばトナーの消耗品で利益を挙げていますが、事務機器への進出は一九六四年の卓上計算機に端を発しました。その後、コピー機に進出。その狙いはカメラ以上にフィルムの収益性が高く「我々はフィルムメーカーにもうけさせてもらっているだけではないか」という御手洗毅の思いが強かったと言います。
 しかしこの時点でアメリカのゼロックス社が大半の特許を押さえていました。その技術を使うには莫大なライセンス料を支払わなければならなかったのですが、キヤノンは独自技術で克服します。
 順風満帆のように見えましたが、一九七四年に電卓でつまづきます。シャープやカシオが次々と参入。しかも、キヤノンが低価格小型電卓を新規に発売すると、部品不良問題が起きます。当時売上の三割を稼ぎ出していたので、キヤノンは大打撃を受けます。

経営再建

 賀来が新社長に就任すると、特許出願数がトップになります。これを境に「技術を特許などの知的財産権に変え、それらを原動力に企業成長を目指すというモデル」になっていくのです。

特許を生み出す

 さて、このように特許を次々と生み出すにはどのようにしたらいいのでしょうか。大学の先生に講演を頼むなど色々な工夫を凝らしています。
 しかし開発部門のモチベーションを保つ工夫も見られます。

社内試験

 実力主義と新家族主義を共存させるため、昇格試験が行なわれます。これに合格しないと管理職へ昇給できません。男女の区別も学歴による差別もありません。まず専門職(J2)、ついで技師補(J3)になるための試験に合格して管理職への資格を得られるのです。しかしこの二つの試験をクリアするだけでも、年収に最大二○%の差が出てきます。
 管理職からは試験がありません。上司の人事考査で決まります。「完全実力主義で、性別、年齢別、学歴別は一切なし。これがキヤノンを活性化し、みんなが自由闊達に考える根源だと思う」と御手洗冨士夫は話しています。
 この実力主義は、一九四三年に御手洗毅時代が日給制を廃止し、月給制を導入したことに端を発しています。当時、工員同士が技能を教え合うことは皆無。なぜなら教えると、自分の仕事が取られるから。請負制賃金で工員同士が仕事を奪い合っていたのです。
 請負制賃金では皆さんの生活が安定しない。病気になったら収入が閉ざされてしまう。真面目に働けば、安定した生活ができるようになる。
 と述べ、御手洗毅はこれを廃止。これ以来、キヤノンでは実力主義が根を下ろし、学歴に関係なく優秀な人材が集まるようになりました。

表彰制度

 キヤノンは「報奨好き」。とりわけ、発明考案報奨制度は一九四六年以降、修正を続けながらも今日に至っています。特許の出願と登録時に一万円を支給し、さらに「超特級」「特級」「一級」「三級」「四級」「五級」までの七段階評価で、ランク分け。
 中でも超特級は青天井です。
 特許法では「相当の金銭その他の経済上の利益」を受ける権利がある、と規定されています*5。しかし、青色発光ダイオードの中村修二が裁判を起こしたように、まだまだ対価が守られていないのが実情。
 ノーベル物理学賞クラスの発明にもかかわらず、当時の日亜化学は2万円しか支払わなかったのです。1000億円以上の売上をもたらしたにもかかわらず、です*5。
 オリンパス光学工業、日立製作所、日立金属、味の素、キヤノンなどの元・技術者たちも自らの発明に対する相当な対価を求めて訴訟に踏み切ったケースもある。オリンパス訴訟では5000万円の対価を請求していた元技術者に、約228万円を支払うようにという最高裁判決が下っている。訴額に比べればわずかだが、在職時に支給された「21万円」に比べれば破格の報酬ということができる。
 またこれを機に、次々と技術者たちが裁判を起こしています。もっとも、この原因は、評価者が工学の知識がないことも影響していると思います。つまり、どれだけ発明が画期的かが解らないという現状があるように思うのです。
 例えば青色発光ダイオード。素人目からすると、青色の光が実現できただけだと思われるでしょう。なぜ困難なのか、どのように乗り越えたのか、評価する目を持っていないのも原因の一つかもしれません。
 それなら、売上の割合に応じて報奨金を渡すほうが公平なのでは、と思いました*6。


*1 「『ゼロと空戦してはならない』 米軍が恐れた零戦の空戦性能とは?」(産経新聞)
*2 『写ガール』(判佝納辧
*3 「グラフで見るデジタルカメラ業界の今 スマートフォン増加の裏で何が起きているのか!」 
*4 特許法第三十五条の四
*5 「特許法改正で職務上の発明・特許の報酬はどう変わる?」(リクナビNext)



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中西進『万葉の世界』(中央公論)

万葉の世界 (1973年) (中公新書)

概要

 日本最古の和歌として知られる万葉集。古事記との関連性も指摘されているが、単に貴族たちの娯楽や庶民の慰めとして詠まれたものばかりではない。祭祀や儀式と強く結びついていた。そのため万葉集と古今和歌集とでは作者の概念が大きく異なっている。
 そして万葉の心は近代リアリズム文学にも受け継がれている。

記紀との関係性

 古事記や日本書紀をまとめて記紀と言いますが、万葉集はこの二つとも深い関わりがあります。「能く諷歌、倒語を以て妖気を蕩せり」という一文がそれに当たるのですが、その一例として、忍坂の戦の記述があります。宴を催し、敵が酔ったところで、奇襲の合図として歌が登場するのです。このときに詠まれた歌は久米歌と呼ばれ、記紀にのっています。
 「ふつう久米歌というのは、単純に軍歌として理解されているが、内容を韜晦した歌で仲間うちにはいろいろな符号をもった、ふしぎな歌だったようである」。このように奇襲の合図に始まり、久米歌は一見単純に見えて、真意を偽った歌なのです。

詩とレトリック

「謡の意は、大きなる石を以て、その国見丘に喩ふ」とあります。中西はこの詩とレトリックについて深く書いていませんが、詩と暗喩は深い関係にあります。そしてこの関係は韜晦という点で深く関わってくるのです。
 詩とは比喩の世界であるとよく言われます。見慣れたものを、見慣れてないものに変えていくことを異化作用として、シクロフスキーは提唱しました*1。たとえば、本来、石と国見丘は全く別のものです。この二つを結びつけるものは共通点だけ。
 そして直喩は本来、別のものだということを覆い隠す効果があるのです。例えば「僕は男です」だという文章を考えると、僕の属性を語っていますよね。このように「XはYである」という文章では属性を語っているのです。しかし「僕は猫です」という比喩の一文を考えてみましょう。この文章で比喩である以上、「僕は人間です」。しかし、形式だけに注目すれば「僕は猫」である以上、「僕は人」だということを覆い隠しているのです。
 このことは「石」と「国見丘」だけでなく、土蜘蛛退治にも見られます。当時従わなかった豪族たちを蜘蛛として描いていて*2、人間だったことを覆い隠しているのです。

和歌の起源

 さて、万葉集は儀式などで使われたと指摘しています。
 和歌が本来、神かけたことばとして妖気をしりぞけるものであるのなら、それは当然、死者の祟りを除き、霊の安らぎを祈ることばとして用いられるだろう。挽歌は当時葬儀が盛んになったという理由もあるが、この和歌の機能にとって、当然起こるべきものであったはずだ。
 これを今西さんは「幇間」と述べています。幇間とは太鼓持ちのこと。朝廷に献上されるものである以上は個人の心情よりは儀式に相応しい歌を作ることが重要となっていきます*3。
 ところがやがて儀式を離れ、個人の心情を述べるようになっていきます。。

作者の概念

 さて、和歌の公共性を考えると、作者の概念が万葉集では形式的なものとなってきます。

作者不記

 万葉集には防人の歌など特定の個人が解らない歌が半数近くに登ります。もちろん7世紀のもの。作者が解らないものがあって当たり前かもしれませんが、この原因について、中西進は下記の通り語っています。
 無名歌の諸巻は、実は作者を知りたいという姿勢も持っていない。(中略)つまり、一首一首の歌が誰の作であるか、という関心はこれらの巻はなかった。そうした態度が万葉集の基本にあって、たまたま編集者の編集意識から作者未詳ということばが用いられたにすぎない。
 現に酷似した歌が収録されているのです。これを類歌と呼ぶのですが、違う作者なのに、一語が違うだけ。中には全く同じものもあるほど。「古い歌を知っていて、誰かがそれを口ずさむと、そのままその人間が作者だということになってしまう場合もある」のだと語っています。

主体の問題

 さて、万葉集が民衆を代表して詠まれたということは主体に注目しても解ると言います。「鯨魚とり海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ」という句は「(有沢訳)海は干上がったり山は枯れたりしないのでしょうか? いえ、干上がったり、枯れたりします」*4。

反語か質問か

 素朴な歌が多い万葉集の中で、このような技巧を凝らした句は珍しいのですが、問答をそのまま歌にした、と考えれば納得が行きます。つまり、「鯨魚とり海や死にする山や死にする」は質問であり、「海は潮干て山は枯れすれ」はその答え。
 上句は聴衆に対する疑問の提出であり、その聴衆を参加させる方法は、説教の常套手段だろう。聴衆は海や山が死ぬかどうかおのおのの心の中で考える。そこに断定が下る。死ぬのだとその証拠に海は潮が干るではないか、山は枯山になるではないか、説教者は畳みかけるように、そういう。(中略)自然にだって死があるものを、何をもって人間が死をまぬがれ得ようぞという教えが説かれたわけである。
 このように上の句と下の句は同一人物が発したものだと、中西さんは解釈しています。しかし、僕は別の人が解釈しても成り立つのではと思いました。
 つまり、聴衆の一人が説法師に「鯨魚とり海や死にする山や死にする」と尋ね、その説法師が「海は潮干て山は枯れすれ」と答えたとしても辻褄が合うのです*5。

複数人で一つの歌を作り上げる

 芸術作品は大掛かりなものでない限り、一作品を一人で作り上げます。例えばすでに平安時代では「雪降れば木ごとに花ぞ咲きにける いづれを梅とわきて折らまし」と紀友則が一人で作っています。
 ところが、万葉集は複数人で一つの和歌を詠んでいたのだと言います。
 このあと和歌は源氏物語に詠まれ、井原西鶴はこのパロディとして『好色一代男』を書き上げます。『好色一代男』を明治時代に坪内逍遥が論じ、近現代文学へつながっていきました。そして、小説とは人間の内面を描くものだという価値観も、源氏物語の影響が強いと今西さんは考えています。
 西鶴は明治のリアリズム文学の中で、ふりかえられた。坪内逍遥が「小説神髄」といっしょに書いた「当世書生気質」は八文字屋本の模倣である。
 八文字屋本は、江戸時代の娯楽小説。名前は当時の出版社に由来しています。さしずめ電撃文庫などと言ったりするようなものです。八文字屋本はメロドラマが多く、『好色一代男』もその一つ。
 文学史の観点からリアリズム文学への系譜を中西さんは指摘しています。複数人で一つの作品を作るという観点で言えば、連歌を経て、俳諧、TRPGやリレー小説にも通じるところがあります。一つの物語を複数人で作り、その場に参加する喜びは昔も今も変わらないのかもしれません。



*1 Wikipedia「異化作用
*2 Wikipedia「土蜘蛛
*3 詩の公共性・祭祀性は『リグ・ヴェーダ』にも見られる。
*4 「鯨魚とり」は「鯨を取った」という意味である。しかし、海を導くための枕詞なので訳さない。また「海や死にする」は原文に即せば「海が死ぬのでしょうか」と訳されるが、意味が通りにくくなる。ここでは下の句を使って、「干上がる」「枯れる」と訳した。
*5 プラトンは、ほぼ全作を通じて対話形式を取っている。



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