有沢翔治のlivedoorブログ

 wikipediaや「解説」に書いてあることをそのまま書いても余り意味がない、を信念に書評もどきを書いています。大事なのは自分がどう思ったのか。そしてそれはどうしてか?

 同人ゲームシナリオやボイスドラマの脚本を書いています。過去には、
ゲームシナリオ
天地争像伝奇
ましろいろ
白い焔
怪奇探索少年隊
こころのかけら
戯曲
『めぐる季節の中で』より「ラブラブパニック」他(企業依頼
ハシを直す(有償依頼)
視線を感じて
 などを作ってきました。
 また文芸同人誌『TEN』に作品を発表。ご依頼、ご注文はholmes_jijo@hotmail.comまで。基本無償でお引き受けします。

ウィリアム・フォークナー『熊 他三篇』(岩波書店)

熊 他三篇 (岩波文庫)

あらすじ

 その熊はオールドベンと呼ばれていた。それを狩ろうと、アイク少年は南部の森に分け入る。しかし……、さまざまな困難に立ち向かい、狩りを通じてアイク少年の精神的成長を描いた「熊」。
 狩りの最中、しゃっくりが止まらなくなった様子をユーモラスに描く「熊狩」。大鹿を仕留める「朝の追跡」まで。狩りを通じて、南部の大自然を描いた連作短編。

読みやすかったけど

 『響きと怒り』に比べたらかなり読みやすい。〈語り手〉は固定されてるし、時系列も全く錯綜していませんでした。しかし、どういったわけか僕は少年の精神的成長を描く小説──ビルティング・ロマン──は余り好きになれないんですよね。
 だから「熊」は名作と言われているらしいのですが、頭に入ってきませんでした。いや、面白いと思いますよ。オールドベンを追いつめるシーンとか。恐れられてる割には犬にあっさり倒されるので、残念。もうちょっとくんずほぐれつの死闘を繰り広げて欲しかったんですが……。というかアイクが仕留めるんじゃないのかよ。あれだけ伏線を張っておいたら、展開はアイクが仕留めるのがセオリーだろ。
 ラスボスが脇役に倒されたようで、解せぬ。

人種差別の問題

 ウィリアム・フォークナーと言えば南部特有の雰囲気、例えば黒人差別や暴力の問題を中心に描いています。『響きと怒り』*1のジェイソン、『八月の光』*2、『サンクチュアリ』そして短編の「乾いた九月」*4まで。
 また、「赤い葉」*5ではネイティブ・アメリカンにこんなことを言わせています。
「この世の中はだんだんだめになってゆくわい」と老人はいった。「白人の手で破壊されてるんだね。白人がニグロをわしらに押しつけるまでは、われわれも長年のあいだ、うまくやっていたんだよ。昔だったら、年寄りは日陰にすわって(中略)いたんだな。ところが、今日のわれわれは、何をするのかね? 年寄りまでも、汗を流すことの好きなやつらの面倒を一生けんめいに見て、へとへとになっているんだよ」
 もちろん元凶は白人であることは言うまでもありませんが、黒人に対してもあまり好印象は抱いていないように映りました。
 このように同じ被差別者でもネイティブ・アメリカンと黒人との微妙な感情のすれ違いを描くなど、黒人の問題を中心に取り上げてきたという印象がありました。

自然との共生

 しかし、この短編集では自然との共生を描いていて、ネイティブ・アメリカンが持つ素朴なアミニズムが語られています。したがって良く言えば、マイルドな仕上がりに、悪く言えばフォークナーの要素が一つ減った作品になっています。とはいえフォークナーらしい文章も。
 サムがこうした古い時代や別の人種の死せる人々のことを語るにつれて、両方の人種を知る少年にはそうした古い時代は古い時代でなくなりはじめ、やがて少年の現在の一部分になっていった──まるでそれらが昨日起こったことに思えたばかりか、これから起こることのように思われ、サムの話の中を歩いた人は今もこの空気を吸って歩いていて、まだ埋められぬ大地に確かな影を落としていると思えるのだった。
 この一文の長さだけではなく──確かに『アブロサム、アブロサム』の中には世界一長い文章として登録されたものもありますが、上の長さならジョイス、ヴァージニア・ウルフなど意識の流れを使った作家にも出てくるでしょうし、そもそもフォークナーも意識の流れを汲んでいるのですが──この過去、現在、未来が混同していく時間の流れが特徴的です。
 例えば、前述した黒人差別や暴力の問題は直接的に描かれていません。「まるで列車自体があの破壊を持ち込んでいるかのようだった」と列車を通して象徴的に語られるのみです。
 それどころか、ネイティブ・アメリカンのサム・ファーザーは文字通り父親のようにアイク少年を教え導いているのです。
 そんなネイティブ・アメリカンの自然観はこの言葉にもっともよく現れています。〈おれ〉が「大鹿をきっと仕留める」と言うと、ネイティブ・アメリカンのアーネストは言います。「たぶん、だ」、と。
 わしらの言葉の中ではこれが最上のものだ、最上だよ。このたぶんこそ人間をここまで生きつづけたものなんだ。人年の一生のうちで最上の日々というのは、きっととか必ずとか言って過ごす日々じゃないのさ。人にとって最上の日々というのは、たぶんとしか言えぬ日々なんだ。きっとするなんて言葉はあとになって言えることだ。なぜって、人はそうできるかそれまで分からんのだし、それまでは本当にそうしたいのかどうか分からんのだから
 もはや解説すると野暮ったくなってしまいますので、語りませんが、この台詞に連作短編の全てが凝縮されているような気がします。


*1 ウィリアム・フォークナー『響きと怒り』(岩波書店)
*2 ウィリアム・フォークナー『八月の光』(新潮社)
*3 ウィリアム・フォークナー『サンクチュアリ』(新潮社)
*4 「乾燥した九月」ウィリアム・フォークナー『フォークナー短編集』(新潮社)
*5 「赤い葉」ウィリアム・フォークナー『フォークナー短編集』(新潮社)



筒井康隆『ウィークエンド・シャッフル』(講談社)

ブログネタ
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ウィークエンド・シャッフル (1978年) (講談社文庫)

概要

 諷刺に幻想、ユーモア、エロティック……、筒井康隆のハチャメチャな世界。
 例えば旅行中、女の子を口説いていると、黄色い鳥が群れをなしてじっと見ている。女の子に鳥の名前を聞くと「ジャップ鳥」だと答え、その特徴は日本人観光客に当てはまるものだった……! 日本人を風刺した「ジャップ鳥」、ある団体に名前を載せたことがきっかけで、次々政治的なトラブルに巻き込まれる「旗色不鮮明」、ドタバタ喜劇から本当に戦争になってしまう「『蝶』の硫黄島」など筒井康隆が送る13の短編!

ジャンルは?

 実は1年くらい前に読了した小説。つまらないというわけではありませんが、なかなか感想文を書けずにいました。そもそもつまらないんなら、つまらない、その理由を書きます。
 確かに面白い。面白いんですが切り取り方が解らない。まずジャンルが解らない。近年意図的に、SFやミステリーの手法を使って、純文学に切り込む小説がありますが、スリップストリーム小説*1に分類されます。確かに「如菩薩団」は犯罪を扱ってますが、推理小説の手法が用いられているかって聞かれれば違うと言わざるを得ません。つまり、この小説は何であるのかが解らなかったんです。
 たぶん、これは僕が物語を書く際に、どのジャンルを書くのか最初に決めるということに依存してると思うんですよね*2。そこで何とか切り口を見つけようと、再読しました。

比喩と諷刺

 「ジャップ鳥」は諷刺であることは言うまでもありませんが、なぜ諷刺として成り立つのか考えてみました。ジャップ鳥の外見的特徴は下記のように表現されています。
 さっきから黄色い鳥がきてとまっている(中略)。眼のあたりに眼鏡をかけたような黒い模様のある小柄な鳥だ。
 しかも〈語り手〉は「出っ歯ならもっといいんだろうが、あいにくあの鳥には歯がない」とジーナへ感想を漏らしています。言うまでもなくこのイメージは出っ歯、黄色、眼鏡という日本人のステレオタイプです。

ビゴーの諷刺画

 もちろん全ての日本人が出っ歯というわけではありません。諷刺画家、ビゴーが日本人を書いたときに出っ歯と眼鏡として描いたのですが、理由について
当時の日本人は現在に比べて国民全体の栄養状態が悪く、小柄で出っ歯の人が多かった。そうした日本人の姿が1867年のパリ万博で直に欧米人の目に触れたことと、ワーグマン、ビゴーなどの来日外国人の絵や当時の写真などの影響とによって広まり、欧米人の日本人観の一要因となったのではないか*4。
 また眼鏡については、「一般的に言って、日本人の視力はたいへん悪い。日本では様々な形をした、また様々な色をした眼鏡をかけている人に出会う」*5と述べています。
 また眼鏡も日本人ならではというわけではありません。つまり日本人に特徴的だった点を強調しているのです。

カメラについて

 多分、「ジャップ鳥が世界各地にあらわれて人々の関心を惹き始めた」とありますが、日本人観光客が増えたことを諷刺しているのはないでしょうか? ジーナの「窓を開けておくと商店やら、ホテルのロビーやら、ふつうの家庭にまで遠慮なくとびこんでくるのだよ」と言って「おれ」が納得するのは、日本人にそういう側面がある、と承知しているからです。
 そして実際にそういう観光客が多かったかはともかく、確かに海外旅行で写真を撮る日本人は多いんです*6。これも、日本人に特徴的な点を強調した結果と言えましょう。

啓発活動としての諷刺

 つまり「ジャップ鳥」からは、マナーの悪い自国民への諷刺が読み取れるのです。もしこれが、例えば昨今の中国人観光客のマナーを諷刺したのなら、攻撃的に映ります。
 しかし日本人を諷刺している以上、マナー向上を訴えた啓発活動とも読めるのです。しかし、真正面を切ってマナー向上を訴えかけたのでは、煙たがられてしまうだけです。

侵略者

 SFでは侵略者が描かれることがあります。例えば、古くはウェルズの『宇宙戦争』*7、ハインラインの『人形つかい』*8、神林長平『戦闘妖精・雪風』*9まで。多くのパターンは、外界から侵入してきて、それを排除するという構成なのですが、この「ジャップ鳥」もジャップ鳥という侵略者を排除する……というストーリーを途中まで匂わせます。
 通常なら〈語り手〉が侵略者を退治するのですが、「ジャップ鳥」ではそんなことはありません。前述したようにジャップ鳥は日本人の諷刺であり、〈語り手〉も日本人である以上、追い出すわけにはいかないのです。代わりにジーナを口説くのを辞め、すごすごとホテルを後にします。

訪問客

 侵入者という観点で見れば、「弁天さま」もまた外界からの侵入者なのですが、日本人の宗教観を現しています。なぜなら弁財天はインド由来の神だという歴史的事実に加え、小説でも訪問客として描かれているからです。
 そして日本人である「おれ」と性的に交わるのですが、七福神も弁財天ふくめ六人が日本古来の神ではありません。性交を価値の創出と考えれば、弁財天との交わりで日本人の宗教観を示唆しているのです。

比喩が現実に

 さて比喩は「見立て」、つまり現実とは違うものを共通点により結びつけるレトリックだと定義できます。例えば先程の「ジャップ鳥」が日本人の比喩として成り立つ理由は、両方とも、黄色い体、眼鏡という共通点があるからです。つまり本質的には全く違うものを外見的な特徴で結びつけているのです。
 この観点から見れば「『蝶』と硫黄島」は比喩として見られていたものが、現実になっていきます。硫黄島で戦った戦友が偶然、『蝶』というバーで再開。昔の思い出を語っているうちに、「蝶」の形が硫黄島に似ていることに気付きます。島を硫黄島に見立てて話しているうちに、段々と本当に硫黄島へタイムスリップするという話です。
 比喩として扱われていたのが、現実のものになっていく……、この物語の面白さはそこにありますが、認識としてそうかもしれません。例えば「○○菌」などの不名誉な仇名をつけられてイジメられることがあります。はじめは誰も菌などと思ってはいないでしょうが、エスカレートしていくうちにいつしか本当にその人が菌のように──あるいは菌の保有者のように思えてくる。
 比喩が現実になるという主題でそんなことを考えました。
 

*1 フィリップ・K・ディック、ポール・オースターなど。
*2 もっといえば既存の「物語」を要素分解して、組み合わせる。したがって、今まで読んだことがないと、どのように要素分解していいのか戸惑ってしまう。
*4 wikipedia「ジョルジュ・ビゴー」
*5 同文献
*6 
日本人は必ずカメラを首から下げている?・・・
*7 H・G・ウェルズ『宇宙戦争』(東京創元社)
*8 ハインライン『人形つかい』(東京創元社)
*9 神林長平『戦闘妖精・雪風』(早川書房)




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ウィリアム・フォークナー『響きと怒り』(岩波書店)

響きと怒り (上) (岩波文庫)

あらすじ

 知的障害者のベンジー、兄で精神病患者のクエンティン、精神はまともだが、黒人差別主義者のジェイソン、そして黒人の召使、ディルシー……それぞれの視点から、コンプソン一族の没落を描く。
 一家のうち、キャディだけがベンジーの介助していたが、やがて結婚してしまう。しかし、結婚相手とクエンティンは反りが合わず、諍いを起こした。もともとクエンティンは妹を庇護したいと思っていて、素行が悪い相手とは結婚させたくなかったのである。
 やがてキャディの結婚を機にクエンティンが精神を病む。そしてジェイソンが姪、ミス・クエンティンの養育費を着服し……それを機に、コンプソン一家の歯車は大きく狂い始めるのだった。

錯綜した語り

 あらすじを簡単に説明しましたが、この小説はあらすじを追うのが大変です。というのも第一部の〈語り手〉は知的障害者ですので、過去と現在の区別しか付いていないのです。つまり過去のことでもキャディが結婚する前日のことなのか、キャディの結婚式当日のことなのか、それとも去勢されたときの出来事なのか……などが混同して語られているのです。おまけに、結婚式当日でも時間軸・因果関係を無視して語られています。
 第二部は、第一部よりはマシですが、妄想と現実が混同して語られています。例えばキャディと近親相姦関係にあったというのはクエンティンの妄想(あるいは嘘)です。唯一の手がかりはゴシック体(原文ではイタリック体)のみ。
 第三部は時系列こそ錯綜していません。しかし差別主義者であるため人物評価は偏ったものとなっています。
 第四部は錯綜しておらず、スムーズに物語が進みます。
 岩波ではどこの行で何の場面に切り替わるか、対応表が書いてあるので、これに助けられました。あとwikipediaにも。

僕がこの物語を呼んだ理由

 前述の通り、かなり語りが錯綜しています。これが読みにくいと悪名高い大きな由縁なのですが、二つあります。
(1)この〈語り〉を生かして叙述トリックを仕掛けられないか、と思ったのです。
(2)現代文学を論ずるに当たって、〈語り〉は非常に重視されます。例えばガルシア=マルケス『百年の孤独』の語り手ははインディアンの伝承を本気で信じていますが、フォークナーの『響きと怒り』の影響下にあります。
 したがって現代文学批評の潮流を確認する意味でも読みました。

去勢

 さて、ベンジーは一家の恥である、と思われ、また強姦*1を引き起こしたため、去勢されてしまいます。去勢されたこともはっきりと第一部では明示されていませんが、
 ボクは服を脱がされ、自分を見おろすとボクは泣き出した。だまるだ、とラスターは言った。探したって仕方がねえだぞ、そいつはもうなくなっただよ。
 という文章があります。ここでベンジーが「探しているもの」とは男性器に他なりません。

「去勢」(クエンティンと父親)

 さて、この去勢というキーワードで見てみると、ベンジーだけでなくクエンティンも「去勢」されていることが分かります。もちろん物理的・生物学的に去勢されたのではなく、精神的に去勢されたのです。僕がここで参照するのはフロイトです。

エディプス・コンプレックスとは

 フロイトはエディプス・コンプレックスという概念を提唱。これは父親を殺害し、母親を寝取ったという『オイディプス王(エディプス王)』に基づくものですが、これが心の中で葛藤として現れている、とフロイトは指摘しています。つまり、父親から愛されたいと思う反面、「言うことを聞かないとおちんちんをちょん切るぞ」と父親から脅されていたのです。
 もちろん、これはフロイトの生きた時代、しかもヨーロッパの教育方針だったのでしょう。しかし父親の立場・価値観を危うくするものは、比喩的に去勢、つまり弱体化させられてしまうのです*2。

去勢されたクウェンティン

 クエンティン・コンプソンもそういった意味で、比喩的に去勢させられたと言えましょう。騎士道精神にあふれる彼は、キャディの純潔を守ろうと、父親に彼女を諌めるように頼みます。しかし、実利的な父親は「なぜなら女にとっては純潔などたいした問題ではないからね(中略)処女性なんてものを発明したのは女ではなく男なのさ」と相手にしません。
 つまり、クエンティンの倫理観をある意味で「去勢」しているのです。キャディと近親相姦を行なった、と父親に嘘をついてまで、価値観を変えようとするのですが、結局、嘘だと見破られてしまいます。ここで父親への反抗心を失い、去勢されてしまうのです。
 さて、卒業後、クエンティンは迷子の女の子を保護しますが、誘拐していると誤解され、逮捕されてしまいます。
 ここでも父親と騎士道精神の対立と同じ理由で読み解けます。父親も警官も権力により、クエンティンの騎士道精神を否定しようとします。ここでも

名前

 ここで名前についても見ていきましょう。知的障害者は始め、モーリーという名前でしたが、母親、キャロラインの希望でベンジーという名前に改名させられます。これについて、ディルシーが「名前なんぞ助けにならねえだよ。悪さもしねえだがな。名前を変えてみたって運が良くなることはねえだ」と述べているように現実的な目線で言えば、ベンジーの知的障害が回復するわけがありません。

二人の「モーリー」

 しかしモーリーという名前はキャロラインにとって特別な意味があったのです。それは第三部で実業家のモーリー・L・バスコムからの手紙を読む場面で解ります。この場面でキャロラインは「わたしたち二人がいなくなれば、バスコムは誰もいなくなる」と述べているように、バスコム家に大変な誇りを持っています。もし誇りを持っていなかったら家の存続を望むはずがありませんので。
 さてそういった意味で見てみると、知的障害者のベンジーがバスコム家に由来する名前であることは、キャロラインにとって非常に不愉快だったと思います。加えて、キャロラインはベンジーのことを疎ましく思っています。キャロラインがモーリーからベンジーに名前を変えさせた理由はそこにあったのだと思います。

キャディとクエンティン

 さて、キャディと近親相姦を行なった、と嘘をついてまで父親にキャディを諌めさせようとしますが、はからずも象徴的に叶っています。
 子供を産むというのは母親の何かと父親の何かを普遍的に子供へ引き継ぐことだと解釈できます。生物学的に言えばDNA、社会学的にいえば基本的な価値観ですが、何でも構いません。そういった目で見てみるとキャディが兄、クエンティンの名前をそのまま与えたというのは実に示唆に富んでいます。上の解釈に基づけば、クウェンティンと象徴的に近親相姦を犯していたことになります。
 また近親相姦という解釈に基づかなくとも、兄の名前をつけるということは彼をいかに愛していたかと示しているといえるかもしれません。

語りの斬新さよりも

 先に述べたように『響きと怒り』は〈語り〉が斬新で、多くの文芸評論家、そして作家たちが論じてきました。ウィリアム・フォークナーがノーベル文学賞を受賞するきっかけとなったとも言われています。
 確かにベンジーの〈語り〉も精神障害者のクエンティンの〈語り〉も斬新です。そして解りにくいのは否めません。しかし理解しようとすればできますし、『響きと怒り』の粗筋が語れるということは理解している証拠です。
 しかし僕含め、現実に知的障害者が語っていると、信頼できないな、と思ってしまうのではないでしょうか。

語ること/騙ること

 さて、ジェイソンが「〔ベンジーについて〕気違い病院ごとここへ運び込んでもいいですよ」と冗談めかして言うと、母親、キャロラインはたしなめます。
「あの子はあなたの弟なのよ」とオフクロは言う。「たとえ障害があるとしたって」
 一見すると、キャロラインはモラリストであるかのように映ります。しかし、これはモーリーという名前を知的障害者に与えたくなかった理由が仄めかされた後なので空々しく聞こえてしまうのです。響きと怒り (下) (岩波文庫)
 これも立派な〈語り〉の問題なのですが、ベンジーが意図しないで〈信頼できない語り手〉になってしまうのに対し、キャロラインのこの台詞には欺瞞と偽善が含まれています。〈語り〉の問題を扱う場合、無邪気に斬新さだけに目を向けるだけでなく、そういった諸問題も考えなければいないのかもしれません。

*1 強姦を匂わせる描写があるだけで、はっきりと明示されてはいない。
*2 ジークムント・フロイト『エロス論集』(ちくま学芸文庫)



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九鬼周造『人間と実存』(岩波書店)

人間と実存 (岩波文庫)

概要

 ハイデガーから直接教えを請うた九鬼周造は、実存という言葉を日本に定着させた。哲学・形而上学とは何かに始まり、人生観、偶然性の問題、ハイデガーの哲学から日本文化の考察にいたるまで手広く論じている。
 この『人間と実存』では仏教、神道、儒教、道教などの東洋哲学と、西洋哲学とを結びつけ、独自の哲学を作った九鬼周造が、自身の思索を大まかに論じている。

九鬼周造の問題意識

 あらゆる学術書・学術論文は問題意識を解決するために書かれている、とおもっています。例えば九鬼周造は<私>が生まれてきたのは偶然か必然か、という問題に関心を寄せているように思います。]

偶然か必然か

 例えば『偶然性の問題』*1に九鬼周造は次のように述べています。
 確率の先験性、経験性のいずれにかかわらず、蓋然法則はいわゆる巨視的地平において成立するので、微視的地平において各々の場面にどの目がでるかという偶然的可変性は依然として厳存しているのである。
 例えば健康保険は確率を計算して掛け金を決めています。純粋に統計・確率論で『偶然性の問題』でいうところの「巨視的地平」である程度は計算できます。しかし、一人一人の人生(微視的地平)にとっては、まったくの偶然です。アメリカンファミリー生命保険のコマーシャルでつんくさんが出演し、「何で俺が、何で喉に〔癌ができたんだろう〕」と言っていまますが、果たして理由なんてあるんでしょうか? まったくの偶然にすぎませんよね
 癌を例に取りましたが、九鬼周造は自分の生に対して偶然か必然かを問うているように感じました。九鬼周造の出自は少し複雑です。wikipedia*2によれば、
母の九鬼波津子は周造を妊娠中に岡倉覚三(天心)と恋におち(隆一は岡倉の上司であった)、隆一と別居(のち離縁)するという事態となった。生みの父・隆一、精神上の父・岡倉、そして喪われた母という、この3人のはざまで幼少期・青年期の周造は成長していくこととなり、それは後の精神形成にも大きな影響を与えることとなったと考えられる。九鬼は子供の頃訪ねてくる岡倉を父親と考えたこともあったと記している。
 とあり、伝記的研究でも九鬼周造の問題意識と出自の関係が語られています*3。

科学史と九鬼周造

 さて、『人間と実存』では統計力学の話が出てきます。僕は物理学には疎く、統計力学を噛み砕いて解説はできないのですが、ニュートン力学ではこんな問題を解くことができました。砲弾が落下する時間と敵陣に到達する時間、ボールが落ちる時間……。中学・高校で習う物理の世界です。
 このようにあらゆる要素を考えれば、大きなものは計算できるのです。
 数学者、ラプラスは『確率の解析的理論』*4に於いて、
もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も〔過去同様に〕全て見えているであろう。
 こう述べています。つまり、自然現象で未来予測は完璧に行なえる、というのが統計力学までの考えだったのです。統計ではなく、百発百中で。
 確かにこれはは目に見えるものだと当てはまるのですが、素粒子の動きは統計的にしか解らなくなる、というのが統計力学の面白いところです*5。
 統計力学は量子力学とも呼ばれるのですが、これには原子の存在が前提となっています*6。原子の存在が認められ、量子力学が確立し始めたのが、九鬼周造の生きた1930年代だったのです。1930年代には、マックス・プランクが本格的に量子論を唱え、1933年にはシュレディンガーがノーベル物理学賞を受賞しています。
 九鬼周造は偶然性という考えについて深く考えたのですが、このような科学史としての土壌もあったのではと思うんですよね。現にホイヘンスを引き合いに出していますし。
 つまりフランス現代思想は数学用語を濫用して悪評を買いましたが、九鬼周造はおそらく権威付けのためではありません。従来、確実に未来予測ができるとされていた自然科学でさえ、偶然の余地が入り込む。いわんや人間世界は……、ということなのでしょう。

決定論の否定

 九鬼周造は「自由〔意志〕ということは問題にならないほど確かなこと」だと決定論を強く否定しています。もちろん、1925年に加藤高明内閣が普通選挙を実施したことが背景にあるのでしょう。しかし、九鬼周造は運命決定論と自由意志論の狭間で揺れ動いているように僕には見えます。
 また将来への希望はこの一文からも窺い知ることができます。
〔人間一人一人の〕視点は無数にあり、見解も無数にある。視点や見解の相対性を認識するところに神の絶対知がある。人間の矮小を最も露骨に明るみへ出すものは、狭隘な見解にもとづく独り良がりである。
 梅田望夫の『ウェブ進化論』*7を契機に集合知が話題になったのですが、すでに約80年以上も前にこんなことを考えていたんですね。
 しかし残念ながら九鬼周造も──そしてもちろん梅田望夫も──いささか楽天的だったようです。例えば梅田望夫はグーグルを礼賛していますが、集合知どころか「集合痴」になっています。それはひとえに「相対性を認識」できていないからです。

ハイデガー

 さて自分の存在は偶然か必然か、このような九鬼周造は問題意識を持っていました。そんな九鬼周造にとってハイデガーの問題意識は重なり合うものがあったのでしょう。
 ハイデガーもまた、<ある>ということについて終始考え続けた人だったからです。その問題意識はすでに初期の論文『アリストテレスの現象学的解釈』*8で見られています。この論文を僕なりに説明しますと、西洋哲学は人間一人一人の、もっといえば<私>についての考察が不十分である、とハイデガーは考えました。そしてこの傾向の起源をアリストテレスにまで遡っているのです。
 したがってハイデガーにとって<ある>という、極めて素朴な疑問を問うたのです。九鬼周造はハイデガーの直弟子なので、<ある>という問題について考察しています。
存在という概念は我々がそれにぶつかってそれを越えることのできない壁のようなものである。存在を定義しようて試みるのは、窓ガラスにとまっている蠅がガラスの外へ出ようとしてもがくようなものである
 この<存在>という概念について、ハイデガーは真正面から取り組みました。

九鬼周造の発想

 しかし九鬼周造はこういう風に考えます。「ない」という概念を考察すれば「ある」という概念も解るのではないかと。
 これは仏教哲学に親しんだ日本人ならではの発想といえるかもしれません。なぜなら仏教哲学は「無我」、あるいは「空」が中心テーマとなっているからです。ブッダは下記のように述べています*9。
 あらゆる執着の場所を知り終わって、そのいずれも欲することなく、貪りをはなれ、欲のない聖者は、作為によって求めることがない
 また西田幾多郎も「絶対無」*10について考えています。「本がない」という場合は、
1.「本がある状態」を想定して話している。
2.「本は消えるものだ」と想定して話している
 つまり、僕たちが日常生活で「ない」という場合、巡り巡って「ある」ことを語っていると西田幾多郎は指摘しました*11。このような「有」を前提とした「無」と区別するために西田は「絶対無」という概念を用いたのですが、九鬼周造もそれを引き継いでいます。

ハイデガーから引き継いだもの

 このように仏教哲学の伝統から「無」を引き継いで考察していったのですが、ハイデガーから引き継いだものは言語分析です。ハイデガーはseinという言葉がどのように使われているか読み解くことで<ある>とは何か考えた*11のですが、いかんせん母語話者ではないので分からない。
 九鬼周造を通して、ハイデガーがどんな手法で<ある>という概念に迫っていったのかが、おぼろげながら見えてきました。
驚くという漢字には馬が書いてある。驚くとは馬がおどろくことであるという。実際、馬はよく驚くものである。(中略)
 「おどろく」という言葉について見ても、「おど」とは「おぢ」すなわち「おそれ」から転じたものだろうという。「ろく」とは動揺する意味であるという。
 つまり「驚き」と「おそれ」は区別がないと言っているのです。漢和辞典を引いてみると、九鬼周造の字源で合っていました*13

違和感

ハイデガーもこの論法でseinを考えたのでしょうが、違和感が芽生えました。それは厳密に言えば漢字は日本語ではなく、中国語だということです。言葉という側面からのアプローチは面白いと思うんですが、日本語と中国語だけでは説得力に欠けます。
 のみならず、<日本人>にとって驚くとは何なのか、<中国人>にとって驚くとは何なのか、馬にとって驚くとは何なのか、語ってるに過ぎません。つまり<驚き一般>については語っていないのです。
 またこういう反論も成り立ちえます。言葉で区別されているので別の概念ではないのか、とも。

有/在

 とは言ってもこの考えを全く否定する気にはなれません。
 それは日本語で「ある」と書く時、「有る」と書く場合と「在る」と書く場合があるからです。加えて有在、在有という言葉もないことから、別の概念だと思うのです。

 これは「金がある」、「意味がある」という風に所有の意味で使われます。現に九鬼周造も「有っている」というふうに書いていますし、字源からして「肉(月)」を「手「ナ」で持っているところを現しているのです*14。

 この漢字には所有の意味は全くありません。川を土で堰き止めているところを表しているのですが、そこから「ずっととどまっている」という意味になっています*14。「在宅」「在位」などという風に。ちなみに存は「孤児をいたわっている」ことが字源です*15。
 つまり「金が有る」と書いた場合と「金が在る」と書いた場合には少し意味が違うことに。「金が有る」と書いたときには、財布でも銀行口座でもいいので、「金を持っている」ということになります。
 一方、「金が在る」と書いた場合は「誰の金か解らないけど、目の前に金が在る」という意味になります。そしてハイデガーが問題にしたのはこの「在」だと思います。

*1 九鬼周造『偶然性の哲学』(岩波書店)
*2 wikipedia「九鬼周造」
*3 田中久文『九鬼周造 偶然と自然』(ぺりかん社)
*4 wikipedia「ラプラスの魔」
*5 マーカス・チャウン『僕らは星のかけら』(無名舎)
*6 その少し前にボルツマンが熱を説明するために、原子という概念を唱えた。しかし当時はオカルティズムだと批判された(マーカス・チャウン『僕らは星のかけら』無名舎、トーマス・クーン『科学革命の構造』講談社など)。
*7 梅田望夫『ウェブ進化論』(筑摩書房)、西垣通『集合知とは何か』(中央公論)など
*8 マルティン・ハイデガー『アリストテレスの現象学的解釈』(平凡社)
*9 中山元[訳]『ブッダのことば』(岩波書店)
*10 西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」(『自覚について』岩波書店)
*11 デリダが言及しててもおかしくはない。
*12 ハイデガー『存在と時間』より。
*13 藤堂明保『漢字源』(学研)
*14 同上
*15 同上



自己紹介作成

 推理研究室に自己紹介のコンテンツを追加しました。同人活動用です。
 工夫した点は、冒頭に「同人ゲームで社会を変えたい」と書いて、何のために同人活動を行なうかを明確化したことにあります。
 そしてどのように同人ゲームで社会を変えていくのかを書いています。
 これはある程度の人数で作業する時に、あるいは自分を売り込むために必要なんじゃないかと思うのです。例えばATTなら世界中を電話で結びたいという壮大な目標を掲げました。ATTが創業したころはまだ電話が発明されたばかりだと言うのに。
 ここにも書きましたが、今は短期的な成果が求められています。しかし目の前の利益ばかりに目が行くと、疲弊してしまうのです。その結果、役に立たないものしか産まれなくなります。

つまらない吊り広告が増えてきた

 僕は文章の勉強を兼ねて、大学時代からずっと電車の吊り広告を見ています。ところが最近になって何を言いたいのか解らない、独りよがりな文章が増えてきました。
 一番ひどいのは「呑む前に飲む」という広告文。二日酔いの薬だということが全く分かりません。多分、コピーライターとしては、「呑む」と「飲む」で薬と酒を分けているつもりなんでしょうが、この文面だけで分かりますか? せめて「飲む前に<これ>飲む>という風にするだけでも解りやすくなるんですけどね。

某結婚相談所の広告

 最初は面白かったのに、段々とつまらなくなってきた吊り広告もあります。結婚相談所の広告。
 最初に見たときは、
妹が婚約者を連れてきた。
前もって言え いろんな意味で
主にこっちの気持ち的な意味で
 という秀逸なキャッチコピーでした。何一つムダな文章がないんですね。
1行目:「妹が婚約者を連れてきた」とどんな状況か説明しています。
2行目:前もって告知されていないことに腹を立てていることが分かります。それで機嫌が悪い、と思わせておきます。そして「色んな意味で」と読者を引きつけておいて……
3行目:「主にこっちの気持ち的な意味で」と不機嫌だった真の理由が明かされます。自分が結婚していないのに妹が婚約者を連れてきて、これから肩身が狭くなるということを怒っているのです。くどくどと説明しなくとも解ると思いますが、ショートショートの構成にそっくりなんです。これだけスマートな文章はなかなか作れません。
 それで毎回、楽しみにしていたのですが、最近は
あー、
このままだと
このままだわ
 こんな具合で広告がただの愚痴になっています。

広告業界の裏側

 僕は学生時代に文章修行の一環として、キャッチコピーを作っていたこともあるんです。一つの単価は80円でした。……とてもそれだけで飯の種にはなりそうにありませんよね。つまり兼業かもしくは、素人が安価で書くことになるのです。
 学生が片手間に書いたコピーなんてたかが知れています。そして4年後には卒業。人が育っていきません。目先の利益を追求しすぎると、その業界の将来性まで脅かされるのです。

功利主義の行き着く先

 功利主義とは「最大多数の最大幸福」。聞こえはいいですが、税金は限られています。つまり税金はもっと役立つものに、という発想になっていくのです。
 もちろん、ムダな税金は抑えるべきです。しかし何をもって「ムダ」と定義するかが問題です。ともすれば、植松聖容疑者のような発想に陥りかねません。
 一個人なら単なる殺人犯として刑事罰で裁かれるのですが、ナチス・ドイツは障害者は「生きるに値しない命」だと考えて抹殺しようとしました。T4作戦です。功利主義はその危うさも含んでいるのです。

果たして障害者は本当に役立たず?

 実は一人の障害者が一国を救ったこともあります。アラン・チューリングという数学者。彼はアスペルガー症候群だったのではないかと言われています。
 アラン・チューリングは暗号解読機を作り、ナチス・ドイツの作戦を見破ります。この暗号解読機こそがコンピューターの原型なのです。

将来役に立つなんて誰にも解らない

 もう一つ数学の例を。数学者の例ではなく今度は数学です。
 整数論の開拓者、ガウスはこんなことを言っています。整数論は数学の女王だ、と。これはガウスの時代、整数論が数学的に美しいだけで、何の役にも立たないという自虐だったのですが、今、整数論がなかったら情報の安全性は保証できません。暗号化通信は整数論の賜物です。もし今、役に立つこと<だけ>を重視していたら、本当に将来がなくなってしまいます。

同人の可能性

 しかしこんなことをブログで言っても耳を傾けてくれません。そこで、同人ゲームにメッセージを込めて、作ろうと思っています。



ウィリアム・シェイクスピア『テンペスト』(白水社)

テンペスト (白水Uブックス (36))

あらすじ

 アントーニオは兄、プロスペローをミラノ王の座から引きずり下ろした。プレスペローは娘、ミランダととも島流しにされる。しかしプレスペローはそこで魔法を習得し、嵐を自在に操れるようになっていたのである。中でも空気の精霊、エアリエルは忠実なしもべ。
 ある日、プレスペローはアントーニオの舟が近づくのを見て、嵐を起こしたが、アントーニオは漂着。その舟には、陰謀に加担したナポリ王国、アロンゾーも同乗していた。アントーニオはナポリも手に入れようと、王を抹殺しようとするのだが、その島はプレスペローのいる島だった。
 ナポリ王子であるファーディナンドもその舟に乗っていたため、漂着するのだが、アロンゾーたちとはぐれてしまう。ミランダと恋に落ちるのだが……。

シェークスピアと言えば

 純文学で堅苦しいイメージがあります。しかしそんなことは全くありません。読んでみると、エンターテイメント性に優れているんです。
 例えば第一幕第一場の冒頭で嵐が起き、いったいこれからアロンゾーたちがどうなってしまうんだろう、と観客たちは思うことでしょう。そして第二場に移り、嵐の原因と乗組員たちの過去が分かるわけです。
 そして次、エアリエルにどんな指示が下るのか、という興味も沸き起こります。ファーディナンド王子とミランダの恋はどう発展していくのか? など畳み掛けるような展開はまさにエンターテイメント。

善悪の構図

 またアントーニオなど善悪が分かりやすく描かれているのも、娯楽作品にはよく見られる構図。そういえば『リチャード三世』*1、『ヘンリー八世』*2のウルジー枢機卿、あるいは『ヴェニスの商人』のシャイロック*3……。いくつかのシェイクスピア劇は喜劇も含めて、悪人がはっきり描かれています。しかも権力や金銭に目が眩み、最後は身を滅ぼす、という。
 そしてこのパターンは初期シャーロック・ホームズ*4、『怪傑ゾロ』*5などの娯楽小説、水戸黄門、『痛快スカッと』ジャパン……、大衆娯楽によく見られます。でもこの「解りやすい」人物配置は好みでないんですよね。だって、一方の正義だけ書かないのは不公平です。
 テンペストで言えばプレスペローの言い分だけしか書かれていません。
 わが弟アントーニオはひそかに反乱軍を組織し、/あらかじめ定めておいた時刻にミラノ城門を押し開いた。おりからの真の闇夜だ、そしてその門からあらかじめ手配してあったやつの手先によって/おれと泣き叫ぶおまえは追い出された。
 しかし、見方を変えれば、エアリエルも私怨のためにこき使われています。しかも時に脅され、時に恩着せがましく。エアリエル視点で書けば、また違った話になったかもしれません。
 シェイクスピアは古代ギリシャやローマの話を下敷きに書いていることが多いのですが、ギリシャ悲劇とシェイクスピアの悲劇の違いはここにあります。ギリシャ悲劇は、全員が善に向かっているはずなのに悲劇になる話が多いんです。
 そういえばギリシャ悲劇に『タウリケーのイピゲネイア』*6というエウリピデスの作品があります。この戯曲は生き別れの肉親と無人島で再開するというもの。正反対にすれば、プレスペリーとアントーニオの関係になります。

tempest

 この演劇そのものがプレスペローの心象風景とも思いました。
 つまり嵐=怒りで始まり、心の平穏=穏やかな海で終わる、という点で嵐とも一致します。これはプレスペローが最後に「おかえりの海はおだやか」と述べていることや、今までずっとこき使ってきたエアリエルを解放するというラストとも一致します。
 調べてみるとtempestの語源はtempus。これはラテン語で時間や天気を意味しています。そして同じtempusから派生した言葉にtemporary(一時的)があります。つまりtempestは一時的なという言葉ともつながっているのです。
 ついでにいえば『テンペスト』には音楽が多用されていますが、tempoもまったく同じ語源です。
 そしてこれは「豪奢を誇る宮殿も、/荘厳極まりない大寺院も、巨大な地球そのものも、結局は/溶け去って今消え失せた幻影と同様に、あとには/一片の浮き雲も残しはしない。われわれ人間は/夢と同じもので織りなされている」というプレスペリーの台詞とも通じるのです。


*1 シェイクスピア『リチャード三世』(白水社)
*2 シェイクスピア『ヘンリー八世』(白水社)
*3 シェイクスピア『ヴェニスの商人』(白水社)
*4 「赤毛連盟」「まだらの紐」など『シャーロック・ホームズの冒険』に多い。
*5 ジョンストン・マッカレー『怪傑ゾロ』(角川書店)
*6 エウリーピデース『タウリケーのイーピゲネイア』(岩波書店)


眉村卓『まぼろしのペンフレンド』(角川書店)

まぼろしのペンフレンド (角川文庫 緑 357-6)

あらすじ

 ある日、渡辺明彦のもとに一通の手紙が届く。「身の周りのことを教えてほしい」と書いてあり、調査費として1万円が同封されていた。はじめはイタズラだと思っていたが、明彦は何者かにトラックで拉致されそうになり……。
 はたしてペンフレンド、本郷玲子とは一体何者なのか(表題作「まぼろしのペンフレンド)。

第一印象

 中高生向けに向けて書かれたこともあって、ライトノベルのような感覚で読めました。またヒロイン役である伊原久美子を冒頭で出したり、明彦とそっくりな人間が現れたりと畳み掛けるような展開も参考になった……のですが、亜空間が崩壊して抜け出るよりは自分たちの手で脱出したほうが面白いと思った。
 なぜなら、亜空間が崩壊するという伏線は全く張られていなかったため、唐突なんですよ。この物語で亜空間という言葉すら初めて出てくる単語です。何か前もって亜空間を示唆するアイテム──例えばコスタリカの真球、ナスカの地上絵などを人知では考えられないものとしてチラとでも話題に出せばかなり違和感が拭えるんですけどね。

自分と同じ人間が現れたら

 本書で描かれているテーマはもし自分と同じ人間が現れたら、というもので、これはエドガー・アラン・ポオの短編小説、「ウィリアム・ウィルソン」など昔から描かれています。
 「ウィリアム・ウィルソン」は自分と同姓同名の人物、ウィリアム・ウィルソンと学校で知り合います。彼は身振りも癖も模倣され、笑いものにされてしまいます。そして舞踏会の会場でたまたま再開して、彼を刺殺すという内容です。
 なぜウィリアム・ウィルソンに限らず自分と同じ人間には恐怖があるのでしょうか。それは、「まぼろしのペンフレンド」にも描かれていますが、自分の地位がとって代わられるような感覚に陥るからです。
 この「自分の地位が取って代わられる」恐怖は物語冒頭にも仄めかされています。小学校時代からの友人に運動をやめて勉強すように勧められるのですが、彼の内面に明彦が気づきます。
 こいつはさびしいので仲間がほしいんだ。いつの間にかクラスののけものにされていることに気がついて、みんなと仲間になりたいんだ。それも、じぶんの成績のよいことを、みんながみとめるそんな仲間がほしいのかも知れない。(強調は有沢による)
 寂しさをうめるのは簡単です。今すぐ勉強をやめてクラスの輪に入ればいい。しかし、彼にはそれができません。「ホームルームの時間でも教科書をひろげるというガリ勉ぶりで、(中略)クラスの首席」、つまり彼は勉強で今の地位を築き上げていて、孤独を埋めるために学年一位の座は明け渡せません。だから今の地位を脅かさずに孤独を埋めたくて、明彦を誘っているのです。
 明彦は「バレー部のレギュラーというものに対する今の発言まで許すことはできなかった」とあるように、明彦もまた、バレー部に対して自分の地位を見出しています。

この物語はフィクションですが……

 さて学年一位なら可愛いものですが、これが生活そっくりそのまま交換し、しかも本人は原子の単位で分解される……という話なら恐怖の対象となります。もちろんこの物語そのものはフィクションなのですが、心の動きを比喩的に描いたものとして考えています。
 つまり、自分よりも強いもの、優れたものに地位が脅かされ、しまいには自分がいらなくなるのではないか、という恐怖感です。実際、渡辺に入れ替わろうとしているロボットは、彼よりも優れています。
 そして中学生はこの心の動きが顕著です。自分とは何かと考え始めますから。しかし、多かれ少なかれ、大人にも当てはまるのではないでしょうか。

偽物/本物

 「まぼろしのペンフレンド」はこう言いかえることもできます。偽物が本物に成り代わりつつあると。例えば明彦は工場で降ろされるのですが、そこでは無数のアンドロイドが作られています。そこで本郷玲子から「あなたそっくりのアンドロイドも今ごろは処分されて、あたらしいものがつくられかけているはずです」と説明されます。
 これは二種類のアンドロイドがあってたとえ両方が偽物だとしても、本物に近い方を優先させて残そうという試みです。しかし最高に明彦自身が一番本物に近いのは言うまでもありません。
 また、工場の地下には偽物の町が作られていて、明彦たちはそこで人間の生活をシュミュレーションすることになるのですが、作り物だと評しています。
 自分の地位が取って代わられる恐怖がここでも描かれているのです。



眉村卓『ショートショート ポケットのABC』(角川書店)

ポケットのABC―ショート・ショート (1982年) (角川文庫)

概要

 ショートショートといえば星新一が有名ですが、眉村卓もショートショートを書いています。しかし玉石混交。僕もショートショートを何作か書いているのですが、最後のラストが難しい。
 面白かったのは「AとBとCの話」。芥川龍之介「藪の中」のような構成です。Aは探索ロボットで、謎の生命体を見ていると言っている。そしてBが突然、光線銃を撃ってきたと。
 一方、衛兵Bの言い分は、というと……。修理工場に向かっていると、変なものが見えたので発砲した。辺りには誰もいなかった、と。そしてCはというと……。もっとちゃんと名前を付ければいいと思ったんですが、星新一もエス氏、エヌ氏というような登場人物ですので、これはこれでありかなぁと。
 逆につまらなかったのは「終電車」。こういうものは古くなると新鮮味がなくなるので、仕方がないのかもしれませんが、結末が読めてしまったんです。同じホラー作品なら、「彼女の手紙」のほうが面白かったです。

結末が読めても面白い

 ショートショートは結末の一行が勝負。むしろこの一行のために全ては書かれていると言っても過言ではありません。そういう意味でショートショートは推理小説ともつながってくるのですが、結末が読めてしまっても面白い作品もありました。

社会風刺

 例えば、「友達を作る会」。これは友達を作るためことを主目的にしたサークルの話です。何かを通して友達を作るのではありません。繰り返して言いますが、友達を作るためだけにサークルへ入るのです。そこでは、テキストが配布されるのですが、
 まず、友人の定義が書いてある。つづいて、友達どうしではどんな付き合いをするのがいいか、どういう言葉づかいが適当か、などが書いてある。
 僕が結末を作るとして……と考えた時、まっさきに思い浮かんだのは友人経験のない人たちが集まったサークルでした。僕の予想は当たっていたのですが、それでも面白かった。その理由は現代への風刺になっているからだと思うんですよ。
 そういえば、眉村卓の中編小説に「テスト」*1という小説があります。村尾良作は勉強、友人関係すべてを犠牲にして、文芸作品に打ち込むという人物なのですが、「友達を作る会」も健全な人間関係を犠牲にして受験に打ち込んだ人が集まっています。
 そしてこれは現代によりいっそう当てはまります。例えば「お受験」、「英才教育」などが一昔前に流行りましたし、SST(ソーシャル・スキル・トレーニング)が高校生活の授業で用いられています*2。

もし社会が……

 もし僕たちは誰かに夢を見させられてるのかもしれない。「ぼくやきみや、まわりの人々や、世の中や地球や、何もかもが誰かの夢に過ぎないんじゃないのかね」とあるように「ひとり遊び」はまさにそういうテーマなのですが、VRが進んでくると現実味を帯びてきます。
 むしろこの小説を現代の作家が書いたら、VRかマトリックスに影響されたんだろう、と思われてしまいかねません。今書くとしたらもう一捻り必要でしょうね。
 

*1 眉村卓『まぼろしのペンフレンド』所収。
*2 原田恵理子『高校生のためのソーシャルスキル教育』(ナカニシヤ出版)



ウィリアム・シェイクスピア『ヘンリー八世』(白水社)

ヘンリー八世 (白水Uブックス (37))

あらすじ

 イギリス国教会の創設者、ヘンリー八世。イギリス王家ではウルジー枢機卿らの陰謀が渦巻いていた。彼に従わぬものは、みな濡れ衣を着せられ、幽閉されるか処刑されていった。
 そんな中、ヘンリー八世とキャサリン妃の離婚問題が持ち上がり、キャサリンは落ちぶれていく。時を同じくして、政敵に悪事を密告され、ウルジーは失脚させられるのだが……。
 『リチャード三世』などと並ぶ、シェイクスピアでも人気の歴史劇。

第一印象

 解説によれば「『ヘンリー四世』二部作、『リチャード三世』についで人気の高い作品」*1だそうなのですが、僕は余り好きにはなれませんでした。
 不遜にも点数をつけるなら65点くらいでしょうか。理由はいくつかあります。

登場人物の性格

 解説によれば、『ヘンリー八世』は合作説が唱えられてきました。その根拠としてあげられたのが、登場人物の行動に統一性がない点です。
 解説に具体的な点までは書かれていなかったので、僕が感じた範囲で紹介します。例えば、ウルジーが秘書官にこう囁きます。
 不平を抱く平民どもはおれを恨んでいるという、だからおれのとりなしで命令がとり消され、赦免か出たという噂をばらまくのだ。
 この台詞はウルジーの性格を際立たせていて非常に効果的なのですが、悪事がヘンリー八世に露呈して、失脚する時の「人間の運命とはこうしたものか」という台詞に違和感を覚えるのです。こんな性格の持ち主なら、もっと悪あがきするはずなんですけど。
 これはウルジーばかりではありません。彼に蹴落とされたバッキンガムの台詞も同様です。「あの悪魔」とまで憎悪の炎を燃やしているのに、あっさり許しています。仮にも自分の人生を破滅させた男を、あっさりと。もちろん許してもいいのですが、そこに至るまでそれなりの心境変化があったはずでしょう?

主人公がはっきりしない

 タイトルがヘンリー八世なので、主人公は彼かというとそんな雰囲気は全くしませんでした。むしろ途中までウルジーが主人公なんだろうかと思うほど、彼とその周辺に焦点があてられているのです。
 しかし、キャサリン妃と離婚が決まった途端、彼女が焦点化されます。つまり読んでいる方としては誰を描きたいのか二転三転して、戸惑うのです。

冗長な比喩

 これは賛否両論あると思いますが、言い回しがくどい。例えば、
今日、ういういしい希望の新芽を吹き出し、明日、一斉に花開いて燦然たる名誉の飾りを身にあまるほどつけたかと思うと、三日目にはもう霜が、万物を枯死させる霜がきて、疑うことも知らぬまま、自分ではますます栄えるものと安心しきっている最間に、その根を噛みちぎられ、どうと倒れるのだ、このおれのように。おれはまるで浮き袋につかまるいたずら小僧のように、長い夏の間、栄光の海を泳ぎ回っていた、そのうちに無謀にも背の立たぬところまできてしまった。
 こんな感じです。僕は冗長だと感じました。同じ内容を二つも三つも違う言い方で表現しているのです。

詩人として

 理由はシェイクスピア自身、詩人を目指していたからだと思うんですよね。今でこそ脚本家の地位は高いですが、当時の脚本家は娯楽作品*2。文学のメインストリームは詩でした。現にシェイクスピアはソネットの中で脚本家に甘んじていることを嘆いています*3。
 確かに詩的表現が垣間見られ、詩として鑑賞するには面白い作品です。詩というのは五感で捉えられないものを、五感で捉えられるものに置き換える作業です。栄光は五感で捉えにくいですが、夏なら五感で捉えられますよね。草花が生い茂り、一番太陽が照る季節……。このような夏のイメージを栄光という抽象的なものに託しているのです。
 シェイクスピアは劇場がペストで閉鎖した際、貴族に詩を書いて稼いでいました。その時のソネットに、
君と夏の一日を比べてみようか。
だが君のほうがずっと美しく、もっと温和だ。五月には強い風が可憐な花のつぼみを揺らすし、
夏はあまりにも短いいのちしかない
金色の光は絶えず雲にさえぎられる
美しいものはすべていつかは頽れていくもの
(ソネット18番*4)
というものがあります。 この詩でも栄光、美という目に見えないものを、夏の映像で置き換えていますよね。つまり『ヘンリー八世』でウルジーが言った台詞と同じ理屈がそこには成り立っています。
 またキャサリンが詩を口ずさむなど、物語性よりは詩に重きを置いていたと思うのです。



*1 前川正子「解説」(ウィリアム・シェイクスピア『ヘンリー八世』白水社)
*2 柴田稔彦「解説」(ウィリアム・シェイクスピア『シェイクスピア詩集』岩波書店)
*3 ソネット111番には、「public means which public manners breeds」という一文がある。これは「大衆受けのする下賤な仕事」をしなければならなくなった、シェイクスピアの生き方を反映している(柴田稔彦「解説」(ウィリアム・シェイクスピア『シェイクスピア詩集』岩波書店)
*4 ウィリアム・シェイクスピア『シェイクスピア詩集』岩波書店



エドガー・アラン・ポオ『ポオ評論集』(岩波書店)

ポオ評論集 (岩波文庫)

概要

 エドガー・アラン・ポーは「モルグ街の殺人」、「盗まれた手紙」、「黄金虫」など推理小説の嚆矢を書いた。しかしその一方で、大鴉やアナベル・リーなどの名詩で知られている。
 本書はワーズワース、コールリッジなど一部のロマン主義、チャールズ・ディケンズ、ナサニエル・ホーソーンなどの小説、クーパーなどの娯楽小説などの書評。そして「大鴉」の創作過程を綿密に解説した「詩の原理」を含む詩論を収録。

僕が期待していたもの

 僕がこの評論集で期待していたもの。それはポオの詩論ではなく、詩の客観的な記述です。「モルグ街の殺人」や「盗まれた手紙」といった推理小説の古典的名作を残し、その上、「マリー・ロジェの謎ではポオが新聞記事を読んだだけで、犯人を言い当ています。したがって論理性を期待して読みました。
 その点、エリオットの『文芸評論集』より少しは優れていますが、僕としては不満でした。例えばこういう論理展開なら納得できます。

理想の論理展開

 詩の長さについて。人間の集中力は連続15分が限界で、この範囲で収まる分量にしなくてはいけません。
 人間は1分間に平均400字読むことができます。したがって6000字が適当ですが、じっくり読むことを考えて5000字が妥当だと考えます。
 また行数について考えた場合、2行で1対の韻を踏んでいます。連はこの韻が2対で1つの形成しています。すなわち1つの連は2対の韻文からなっています。つまり1連は4行からなっています。
 1行の語数について。五歩格が一般的な詩形です。つまり10音節からなされなければいけません。1連の音節はここから必然的に4×10=40音節となります。したがって五歩格の場合、1作品は5000/40=125行が最適な行数と結論付けことができます。この125行のまとまりを仮に1ブロックと定義します。
 また15分間持続した後、少しの間、休憩を挟めば、集中力は15分間持続します。この集中力の波が90分続くと言われているので最大のブロック数は90/15=6個。つまり行数は750行です。

ポオの意図

 ポオは「一気に読めないほど長くなれば、その間に世の雑事が侵入してきて全体性というものはたちまち破壊されてしまう」と述べており、長編詩に対して否定的です。
 僕はダンテの『神曲』もミルトンの『失楽園』も大好きですが、ポオは「百行ほどの長さ」が最適だと述べていてます。
 ポオは「詩作の哲学」において、下記のように述べています。
 この〔「鴉」という〕作品がいかなる一点といえども偶然や直観に帰することができないこと──数学の問題を解くときのような精密で厳格な手順を踏んで一歩一歩と完成に近付いていったこと──をを明らかにするのがわたしの意図である。
 しかし残念ながらポオの意図は厳密とはいいがたく、直観に頼ってると言わざるを得ません。例えばポオはどういう計算、論拠に基いて百行が最適だという結論に行き着いたのでしょう? もっといえばなぜ90行、80行ではなく100行なのでしょうか? その根拠をポオは全く示していません。
 この100行という数字は、僕の計算した125行と近い値ですが、計算結果がたまたま近いというだけの話。という考えにのっとっただけのこと。つまり人間がどれだけ集中できるかを考慮して算出した値にすぎません。

バラスの胸像

 他にもバラスの胸像を選んだ理由が「男の学識のよさを現す」ことと「バラスという語そのものに響きのよさを感じたこと」を挙げています。確かに男の学識のよさ、政治思想を表現できているのですが、言葉の響きがいいという論点は直観に頼ってると言わざるを得ません。
 例えば、「バラス」という言葉で爆発音を表現したいのなら、納得ができます。「バ」は唇を閉じた状態から勢いよく口を開ける音ですし。

そもそもの前提が

 このように注意深く読んでいくと、いや注意深く読まなくとも、ポオの「厳密な分析」という意図は達成されていません。しかし「魂の高揚」という抽象的なものを描くと定義している以上は数学的な厳密性をもって、論証することは不可能です。
 数学に限った話ではなく、自然科学は物事を厳密に定義してから話を進めていきます。例えば円の定義は「平面において、定点からの距離が等しい点の集合」と定義しています。すなわち0や○は数学的に言えば円ではないことになります。これは話がどこかですれ違っていくのを恐れているからです。
 ポオは「魂」「高揚」「美」という単語を厳格に定義していません。音の美しさ? 映像美? したがってこの点でも数学的な厳密さを欠いています。読後の心拍数、アドレナリンの上昇などで測定した上で「魂が高揚した」と定義する分には問題ありませんが。
 僕は、五七五のリズムにこそ美を感じます。しかも助詞の一つ一つにまで気を配っている俳句を見ると、リスペクトします。五七五でも余分な言葉が入っていれば、冗長に感じます。これは日本人と西洋人の差なんでしょうけど、僕の目から見ると125行は多すぎる、という気すらします。

でも

 ここまでポオの意図に沿うような論証を考えてきました。でも文学、特に創作方法に科学的論証を持ち込むのは野暮だと思うんですよ。
  むしろどうしてバラスという響きに惹かれるのか、どうして数学的に分析しようと思ったのか、彼にとって美とは韻律の美しさだということは分かりましたが──どうして五歩格の詩ではなく完全八歩格、不完全七歩格、不完全四歩格の詩にこだわったのか、ということを自己分析してこそ明晰に論証できるのではないでしょうか。ちょうどデュパンが語り手の心理を推察するように、自分の心がどう動いていったかを観察して欲しかったです。
 ポオは僕の好きな詩人の一人ですし、とりわけ「大鴉」は大好きです。鴉が話しかけるという幻想的な空気も好きなんですが暗いトーンに惹かれます。そういえばポオの作品に明るい作品はあまりないような?




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