有沢翔治のlivedoorブログ

 wikipediaや「解説」に書いてあることをそのまま書いても余り意味がない、を信念に書評もどきを書いています。大事なのは自分がどう思ったのか。そしてそれはどうしてか?

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ゲームシナリオ
天地争像伝奇
ましろいろ
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怪奇探索少年隊
こころのかけら
戯曲
『めぐる季節の中で』より「ラブラブパニック」他(企業依頼
ハシを直す(有償依頼)
視線を感じて
 などを作ってきました。
 また文芸同人誌『TEN』に作品を発表。ご依頼、ご注文はholmes_jijo@hotmail.comまで。基本無償でお引き受けします。

ナサニエル・ホーソーン『ホーソーン短篇小説集』(岩波書店)

ホーソーン短篇小説集 (岩波文庫)

概要

 『緋文字』で有名なナサニエル・ホーソーン。彼はまた短編の名手だった。大衆社会の日常に潜むふとした心の闇を、幻想的に照らし出している「僕の叔父、メジャー・モリヌー」。ある時から黒いベールをするようになってしまった牧師の秘密が描かれる「牧師の黒いベール」、子供たちの想像が現実のものとなってしまう「雪少女」など12編の短編小説に加え、処女作の「アリス・ドーンの訴え」を訳出している。

大衆社会にひそむ闇

 ホーソーンの『緋文字』もヘスター・プリンが私的制裁を受けますが*1、「僕の叔父、メイジャー・モリヌー」は大衆による私刑をテーマにした話。古都ボストンにロビン青年が叔父を訪ねに降り立ちますが、私刑によって命を失っているのです。ここでロビン青年の描写を見てみますと、「名か性のどちらかをロビンといった」とあります。つまり、この主人公の名前もよく解らないのです。旅人であるという理由から街の人には名前を知らせないことはもちろん、〈語り手〉は読者にすら主人公の名前を完全には明かさないのです
 そして大衆はお互いの名前も素性も知らないのに、同じ都市に暮らしています*2。そしてその不安こそ私刑の心理となってしまうのです。

なぜ夜なのか

 さてこの物語の時間は「ある月の夜の、九時近くのこと」です。この夜という時間設定には、幻想的に雰囲気や物語づくりの矛盾点を解消する他にもいくつかの効果があります。
1.相手の顔を解りにくくする:これはもちろん、昼間だったら物語に不都合が生じてしまいます。すぐに一人で何人もの役を演じていると気付いてしまうでしょう。
 しかし顔が見えないということはそればかりではありません。大衆社会の匿名制を暗示しているように思います。
2.夜は魔物が出る時間である:急いで補足するなら、この魔物とは猫娘、ワーキャット、化猫などの化物ではありません。心の闇、心の暗部、とよく言うように人間の心には恐怖、欲望などが潜んでいるのです。
 そして大衆社会の闇に触れ、メイジャー・モリヌーは私刑になってしまったのです。さらに甥であるロビン青年は、彼を助けずにみんなと一緒に笑っているのです。
笑いは伝染性をもっていて、群衆の間にいまそれが拡がってゆくところだったので、ロビンもそれに感染し、ひと声大きな爆笑を挙げたから、それが町じゅうに響きわたった。
 そして街の人と別れる時、ロビンはこう言われます。「多分、適当に世間を渡ってゆけると思うよ、君の親戚メイジャー・モリヌーの助けがなくとも」。つまり、親戚の助けがなくとも、世間に合わせればいい。ロビンはその術を身に付けている……。ということを言っているのです。

異端者を排除すること

 どうしてメイジャー・モリヌーが私刑になったか? それは序文にかかれているように、イギリス人の排斥運動が高まっていました。この他にも、ボストンという街にも鍵があります。ボストンは非常に保守的な街であり、よそものを受け付けません*3。
 しかし、ボストンは清教徒が占めていたのに対し、メイジャー・モリヌーはユーグノー教徒であること、フランス人であることが大きな要因を占めているのではないでしょうか。モリヌーはMolineuxと綴り、明らかにイギリス人の名前ではありません。キリスト教について細かいことは解りませんが、同じプロテスタントでも清教徒とユグノーがあるようです。
 また「ヤング・グッドマン・ブラウン」は黒ミサの話ですが、民衆は異端者をヒステリックに暴き立てています。この村には以前にも同じようなことがあったようで、「あのクェーカー追放騒ぎのとき、あのクエーカー女を「セーラム・タウン」の町じゅうで丸太棒に吊して引き回し、血の滴るまで鞭刑にした」と書かれています。
 この作品こそ異端者を裁判の名のもとに排除しようとしているように映ります。市民の暴力性という問題は恐らくウィリアム・フォークナーとも合致するように思いますが、どうでしょうか。

匿名性

 都市の匿名性というキーワードで見てみると、「牧師の黒いベール」は実に象徴的と言えましょう。あるときからフーパー牧師は人前に出るときに黒いベールで顔を隠すようになりました。信徒たちは何があったのだろうと噂し合います。
 やがて不気味だと恐れられたまま死を迎えることになるのですが、最後までベールを外しません。牧師はこう言い残して死んでいきます。
お互いを見合ってさえ怯えているではないか! 皆が私を避け、女たちが哀れみも示さず、子供らが泣いて逃げ出したというのもすべて私の黒のベールのせいだけだというのかね? (中略)いずれの時にか、友が親しい友に、恋人が最愛の人に、魂の真相の秘密を打ち明けられる時がくるとしたら、さらにまた、人が自分の罪を嫌々ながらも大切に仕舞いこみ(中略)その時こそ、私がそのために生きてきたし、いままたそのために死んでゆく象徴の怪物だったとかなんとかいうがいい。私のまわりのどの顔を見回しても、見よ! 「黒のベール」あるではないか!」
 これも「僕の叔父、メイジャー・モリヌー」と同じく、大衆を暗示しています

顔が見えない不安

 「僕の叔父、メイジャー・モリヌー」は月夜で顔が見えませんでした。顔が見えないということは表情が見えません。つまり相手の内面を知る手がかりが減るのです。フーパー牧師はそのことをベールを使って現しています。
 しかし、我々はベールをつけていないといえるのでしょうか。フーパー牧師が「お互いの顔を見合ってさえ怯えている」と言っているように、そして、「私のまわりのどの顔を見回しても、「黒のベール」がある」と言っているように本心、素性を隠して付き合っています。
 これは近代の都市部に顕著です。前近代の農村は生活する場所と労働する場所が同じでした。つまり同じ地域ですから、村民がみんな見知った顔だったのです。これだと秘密など生じ得ません。一方で近代都市は隣人がどこで何をしているか知りません。もしかしたら過激なテロリストかもしれないし、殺人犯かもしれない。
 また猫を虐待しているかもしれません。そういった都市生活者の匿名性をフーパー牧師の黒いベールは現しているのです。

幻想性

 さて、この『ホーソーン短篇小説集』を貫くもう一つの要素として幻想性が上げられます。『雪少女』は子供が少女の雪像を作って、それが動き出す、という子供ならではの想像をします。そして母親が子供の想像に付き合っているうちに、本当に動き出したのではないかとほのめかすような話です。
 明確には断言されていませんが、〈語り手〉は本当に動き出したと思っているようです。

宙吊り

 このようにどちらとも取れるような作品は他にもあります。その典型例が『ヤング・グッドマン・ブラウン』。これは魔女たちの集会が「果たしてグッドマン・ブラウンは森で眠りこけたすえ、夢を見ただけではなかったのか」というように、悪夢だったことがほのめかされています。
 安息日など、会衆が賛美歌を歌っているとき、彼はじっと聴いてはおれなかったが、それは罪の挽歌が彼の耳に割れるような音で突進してきて、すべての清い旋律を掻き消してしまうからだった。
 というくだりは、悪魔憑きとも解釈できますが、トラウマによるヒステリー症状とも解釈できます。このように狂気と理性の間、「夢幻と現実の間を揺れ動いてい」*4ます。
 そして、それは大衆の特徴なのかもしれません。

*1 ナサニエル・ホーソーン『緋文字』(岩波書店)
*2 ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』(岩波書店)
*3 映画「スポットライト」でもボストン市民とよそ者の対立を見ることができる。
*4 「僕の叔父、メイジャー・メリヌー」の一節である。


ポール・ボウルズ[編]『モロッコ幻想物語』(岩波書店)

モロッコ幻想物語

概要

 自身も作家であるポール・ボウルズ。彼は優れた物語収集家でもあった。モロッコの作家が書いたものを翻訳したり、あるいはテープレコーダーで録音したものを書き留めたりして、本書の編纂に踏み切った。ボウルズがモロッコ文学の紹介に寄与した影響は大きい。
 神話や民話を読むような、素朴で幻想的な作品群がほとんどだが、虐待や冤罪などの悲惨な現状を映し出しているものもある。

モロッコの作品

 どこかで読んだことある雰囲気だなーと考えてみたら『ラテンアメリカ短編集』*1でした。悲惨な話、幻想性という雰囲気と、素朴な物語構成が『ラテンアメリカ短編集』に似てると感じたのです*2。モロッコはイスラム教の国らしく、ところどころにアラーの神に祈りを捧げる場面が出てきます。例えば「僕に言えるのは、ただアッラーの御心のおかげで、きみを発見できたということだけさ」などという台詞が出てきます。

キリスト教に対して

 またキリスト教に関する憎しみもイスラム圏らしいです。ラルビー・ライヤーシーの作品『異父兄弟』は自伝的小説なので義父がキリスト教徒を憎んでいただけなのかもしれませんが、三つのヒカーヤの一文にはキリスト教徒とユダヤ教に対する敵意が見てとれます。
 この物語はキリスト教徒とイスラム教徒とユダヤ教徒が天国について話しているところから始まります。そして行ってみよう、ということになり……。
 キリスト教徒はそれ〔ユダヤ教徒が嘘をついて中に入る姿〕を見ていましたが、嘘をついてまで中に入るのが怖かったのです。そこで国に舞い戻って、皆の者に天国などは存在しないと語るのでした。
 ユダヤ教徒は嘘をついてまで天国に入ろうとします。もちろんこの感覚をイスラム教徒やモロッコ国民全員が持ち合わせているとは限りませんし、アブドゥッサラーム・ブライシュの個人的な感覚かもしれません。

アッラーの神に対して

 この作品でアッラーは冷徹な神だという印象を、僕は持ちました。例えばアフマド・ヤアクビーの『ゲーム』という小説では、アッラーのために「十日間断食する」のですが、最後、断食を強行したがためにライオンに食べられてしまうのです。
 ライオンは立ちあがり、男のほうに向かいます。ライオンは笑い声をあげて言います。「やりすぎだ」と。
 また三つのヒカーヤでは一人の乞食が「アッラーの敬虔な愛のしるしに、パンを恵みたまえ!」と叫びますが「誰も気にもとめません」。やがてこの乞食は男の家に勘違いして押し入り、思い込みから彼の首を絞めます。そして男は首を絞められた挙句に、新妻からは見捨てられるのです。
 一方の「衣装箱」はアッラーの啓示を聞いて、大金を得る小説で、幸運をもたらしてくれる存在として描かれています。
 アッラーが〔大金を貯めこんだ〕衣装箱をハッダードから奪って、自分の家に運び込んでくれたのだ、と信じているのです。

素朴な物語構成

 さて口承文学ということもあり、物語構成がどれも素朴です。素朴というのは、前に起きた出来事が後から起きる出来事にあまり影響しない。純粋に時系列順だけで話が進み、因果関係はあまり気にしていないということです。
 因果関係に意識的なジャンルとしては推理小説があります。些細な一言が後々の伏線になっていることが推理小説ではあるのですが、『モロッコ幻想物語』ではそのようなことがありません。強いて上げるなら「衣装箱」ですけど……、これも因果関係、というよりは時系列を重視しているように思います。
 あとは物語が過去に移動したり、語り手が変わったりすることがないのも「素朴」と思える要因かもしれません。

*1 野々山真輝帆(編)『ラテンアメリカ短編集』(彩流社)
*2 もちろん南米文学が全て素朴な語り口ではない。例えばバルガス=リョサ『緑の家』などはかなり錯綜している。

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ミゲル・デ・セルバンテス『セルバンテス短篇集』(岩波書店)

セルバンテス短篇集 (岩波文庫)

概要

 ドン・キホーテの作者で知られるセルバンテス──彼は短編小説の名手でもあった。『セルバンテス短篇集』には『ドン・キホーテ』に出てくる小噺や、短編集である『規範小説集』から四編を収録。
 浮気するのではないかという不安から妻を軟禁するが、色男が現れて……「やきもちやきのエストレマドゥーラ人」、自分はガラスになってしまったと薬の副作用で思い込んでしまった「ガラスの学士」などコメディタッチの作品が多いです。

「やきもちやきのエストレマドゥーラ人」

 若い妻を嫁にした老人、カリサーレスは気が気ではなかった。浮気するのではないかという妄想から妻を屋敷の一部屋に軟禁する。召使いたちは女性のみで、暗い時間帯にのみ外出を許可していた。
 そんな暮らしは近所中の話題となる。中でも貴族・富豪の子弟たちの間では、格好の話題だった。ある時、彼らの一人が音楽を教えるといい、召使の一人を誘惑するが……。

植民地

 タイトルにもなっているエストレマドゥーラとは、スペイン西部の州で、ポルトガルと隣接しています*1。このポルトガルですが、また1640年までポルトガルの王をも兼ねていました*2。
 また二人が船の上で合うのも当時のスペインを反映しています。というのも、当時のスペインは世界各地──主に南米──へ乗り出していました。この他にもフィリピンなども植民地化していきました。
 そしてこのことは、「やきもちやきのエストレマドゥーラ人」でペルーが出きたり、「ガラスの学士」でエルナン・コルテスが英雄の代名詞として出てきたりするなど、植民地統治の影響がありありと窺えます*3。

近代的自我

 さて、こういった背景があるにも関わらず、この小説は自由をテーマに描かれています。それは最後の一文「人に自由な意志さえあれば、(中略)人のを抑圧することはできない」からもうかがい知ることができます。
 この記述を皮肉と言ってしまえばそれまでなのですが、ルネサンスの特徴の一つともいえます。、文学にしろ哲学にしろ宗教的なテーマがほとんどでした*4。
 絶対的な権力の前だと不安などは起こりません。例えば宗教的な価値観が絶対だと、「神様が結びつけてくれたんだから、浮気などするはずがない」という考えになります。また「もし浮気したら神様が別れるように指示を与えてくれたんだから従おう」、と考えるはずです。つまり不安にならないのです。
 しかし、宗教の力が弱くなるとどうなるのでしょうか。選択の余地が現れ、不安になります。この内面の再発見がルネサンス期に起きました。
 現に「ルネサンス文学〔の特徴〕は(中略)具体的な人間性の内面の動きを描写する点にある」*5のです。つまり宗教的な価値観が段々と弱まっていって相対的に個人の価値観が表に現れてきたのだと思います。
 意志というテーマも選択と深く結びついています。そして意志の力で自由を獲得するという結末は、宗教的な価値観が弱まりつつある人間像を象徴しているように思います。

「ガラスの学士」

 ガラスの学士は物語としてみると、盛り上がりに欠けます。職業について話をするのですが、それぞれのつながりがない上に、どのエピソードもみんな均等に書かれていて、平板な印象をうけました。

理性と狂気

 恐らくはセルバンテスの関心として狂気があるのだと思います。ドン・キホーテでも騎士物語を耽溺するあまり、自分が騎士になるという筋書きです*6。おまけに風車小屋を怪物だと思って突撃するという記述も出てきます*7。
 「ガラスの学士」も自分がガラスになったのではないかという妄想に取り憑かれる話です。
自分がガラスでできていると思いこむがごとき、いかにも奇妙きてれつな狂気と、あらゆる難題に対し、的確で、しかも鋭い洞察に満ちた答えをするという知性が同一人物の裡に同居していると知ると、大学の秀才たち、ならびに医学や哲学の教授連でさえ驚き、関心したのである。
 ここからも解るように、狂気と理性は相反するものとして描かれてはいません。しかも街全体がこの狂気を受け入れているのです。
 ここでルネサンス期を理想化して語っているつもりはありません。というのも、「本当にガラスでできているかどうか試してみようと、手元のぼろ切れを、さらには石ころまでも投げつける始末だった」とあるように、子供たちがガラスの学士を試しているのです。
 しかも狂気を試すという発想はこの後、精神科によって確立していくことになります。狂気がここまで明確に現れていないにせよ「やきもちやきのエストレマドゥーラ人」、そして浮気しないかを確かめるために、誘惑してほしいという「愚かな物好きの話」*8……。どこか常軌を逸しています。
 狂気がこれほどまでに関心を引いたことの一つに、匿名化があげられると思います。

匿名化──「麗しい皿洗い娘」を中心に

 「ガラスの学士」は旅人という地位で、その素性を知る人はほとんどいません。この素性の知れぬものが社会にいることで市民は不安になります。もしかしたら自分に害を与えるのではないかと。この市民の匿名性が本格化するのは産業革命以後からなのですが、セルバンテスの作品にもその萌芽が垣間見えます。
 「ガラスの学士」よりも、「麗しい皿洗い娘」を例にとって話すべきでしょう。旅籠に訪れた旅人、アンセルモが「麗しい皿洗い娘」ことコンスタンサに恋をします。そして身分を隠して、旅籠で働くのですが、その娘の出世にはある秘密があったのです。
 「麗しい皿洗い娘」は匿名的な人物が二人登場します。つまり、コンスタンサとアンセルモです。コンスタンサは街の人たちに出世の秘密を、アンセルモは旅籠の主人に身分を隠しています。この身分を隠すことができる社会が「狂気」に興味を持ち、そして過敏に反応するのです。

語り口

 内容そのものの分析も面白いのですが、語り口についても触れておきます。小説よりはどちらかと言えば落語を聞いているかのようでした。
 また全て、詩が挟まれるなど誌と散文の融合が感じられました。



*1 Wikipedia「エストレマドゥーラ」参照
*2 Wikipedia「ポルトガル王政復古戦争」
*3 サイード『オリエンタリズム』(平凡社)によれば、非ヨーロッパ世界に対して歪曲された知識が植民地支配を正当化してきたと主張している。
*4 詩人ではアッシジのフランチェスコがミサの詩を、哲学者ではトマス・アクィナスが神学に関する哲学書を書いている。もちろん、時代も地域もバラバラなので十把ひとからげに述べることはできない。中には卑俗な話もあるし、貴族の栄誉を称える歌もある。
*5 柴田三千雄、弓削達、辛島昇、斯波義信、木谷勤『新世界史』(山川出版社)
*6 セルバンテス『ドン・キホーテ 前編』(岩波書店)
*7 セルバンテス『ドン・キホーテ 前編』(岩波書店)
*8 そういえば夏目漱石も『行人』で近代人の葛藤を描いているが、大まかなあらすじは「愚かな物好きの話」とよく似ている。これについては土居健郎の論考があるとのこと。

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ポール・ヴァレリー『コロナ/コロニラ』(みすず書房)

ヴァレリー詩集 コロナ/コロニラ

経緯

 別に詩を書きたいわけではありませんが、詩の勉強を通して表現の糧にしようと思いました。だから詩なら何でも良かったんです。事実バイロン詩集にしようか迷いましたが、ヴァレリーは詩人としてだけではなく評論家としても有名で、『精神の危機』*1なども書いています。
 本当は岩波文庫から出ている『ヴァレリー詩集』を借りたかったのですが、こちらは旧字体のため見送り。詩という苦手な分野に加え、旧字体は読みにくい。いや、読もうと思えば読めるんだけどね……。

詩って何だろう

 詩とは比喩の世界だと思います。ここでは『コロナ/コロニラ』に収められている詩を使い、独断と偏見で抜き出してみます。

ナルシサへのソネット

 「ナルシサへのソネット」は呼んでて小っ恥ずかしくなるような詩。「あっ、きみの両手だ。ひんやりとさわやか。花びらのよう、/ぼくの額には断然これ。他のどんな冠も考えられない。」という冒頭で始まりますこれは病気の<ぼく>を看病している恋人を読んでいるのは間違いありません。ソネットとは脚韻の踏み方*2なのですが、原文が載っていないので、確かめようがありません。
 素材は自由なのですが*3
 ここでも二つの比喩が出てきます。一つ目は恋人の手を花びらに例えているところ。これは凡庸ですが、詩における比喩表現を説明しやすいと思います。つまり、「花びら」という言葉から連想されるイメージは「美しい」、「可憐」等が挙げられます。
 例えば「ひんやりとした」というイメージから氷のようとしてしまったのでは、冷たさ、硬さ、などが連想されてしまいます。恋人に冷たい印象を与えたいのなら氷に例えることは成功している、といえるかもしれません。しかし看病の優しさを表現したいのであれば、氷に例えることは不適切だと言えましょう。
 もう一つの比喩は恋人の手を「冠」に例えている点です。冠は高貴なイメージがあります。そしてこれは第四連の、「きみの両手の間にあるものにキスを、キス一つのルビーで/ぼくの王冠は完璧になるのだもの」という言葉にも対応しています。
 つまりキスを、より厳密に言えば相手の唇をルビーに例えているのです。そして言うまでもなく、恋人に対して高貴なイメージを持っていることの現れと言えましょう。

ジャスミンへのオード

 そしてこの宝石の比喩は「ジャスミンへのオード」にも生きています*。「きみの「眼」は私のこころにぴったり嵌め込まれた宝石の中央に位置して」と書かれているように、眼を宝石に例えているのです。
 ではこの「きみ」というのは誰なのでしょう。「おお、いかなるものにも宿っている「存在」、あらゆる部分にいます「きみ」」とあるように人間ではないことは確かです。僕が思うのは日本人の感覚で言う神に近いのではと思うんですよ。西洋の神は全ての一神論ですが、日本人は自然に神が宿っていると考えます。キリスト教の感覚からすると、自然は神の被創造物なんですが、日本人は自然こそが神なのです。
 ヴァレリーの「きみ」はこの「自然」そのものなのではと思うんですよね。

船のメタファ

 さて、詩はメタファそのものだと話しました。船のメタファについて注目していきましょう。
 その前に船がヨーロッパにおいて普通、どのようなイメージで語られているか、調べてみました。フランス語には、名詞一つ一つに女性・男性がそれぞれあって、つく冠詞がそれぞれ違います。例えば、女性名詞のetoile(星)には女性冠詞のlaがついてla etoile(英語で言えば the star)、テーブルはla tableとなります。一方、フィルムが男性名詞なのですが、冠詞はLe filmという風になります*5。
 船は男性名詞なのでLa navire、つまり男性……のはずなのですが、不思議な事に代名詞は「Elle(彼女)」*6になります。なお、ラテン語navisでは女性名詞でしたので、もしかしたらこの名残りかもしれません*7。また名詞の性が分かれていない英語においても、航海日誌では“she”を使います*8。そういえば初航海を「maiden voyage」といったり、「mother ship」、「sister ship」 と言いますよね。処女航海、母艦、姉妹艦はその訳語にすぎません。このように船は女性だという文化が強いのです。

「世界一気高い……」

 以下の詩は言うまでもなく、船を女性として見たてています。この意味では素直なメタファと言えそうです。
世界一気高い船の金色のへさき、
波が来るたびに高々と跳ね上がるへさきよ、
世界の海がその航く姿をかつてみなかった
世界一美しい船長がみせる青色の目。

そして、きみ、陽の光と水の泡にたっぷり愛撫された
みるだに心地いい船腹のいとしい喫水線下よ、
きみの影を千々に砕き、塩味のする割れ目にきらめく水の
立てる逆波を平らにして、
さあ、行け、ぼくの「船」よ、きみの泊まる港といえば
きみが張っているしあわせいっぱいのメインスルの下、
舷側いっぱいに積んでいる愛を
まちこがれている、このこころしかないよ。

 塩味のする割れ目とか実に際どい表現なのですが、言うまでもなく「真っ最中」です。さてロバート・ブラウニングの詩にも船が登場する「夜のあいびき」という詩があります*9。それはここまで露骨でないにせよ「真っ最中」だと暗示しています。
灰色の海 黒々と闇に沈む長い陸地。
大きく低くかかる 黄色い半月。
さざ波は 驚いて眠りから覚め
小さな火花のように 飛び散る
入江に船を寄せ オールを繰りながら、
濡れた砂浜に舳先を乗りあげるとき。
 船の舳先が男性、濡れた砂浜が女性です。こう書くと僕の人格が疑われそうなので、一言申し添えておくなら、解説に書いてありました。
 さてヴァレリーの詩は船を女性、一方のブラウニングは船を男性として使っています。多分、ヴァレリーは女性を包み込む母親のイメージとして用いているので、女性に例えてるのではないかと思います。


*1 ポール・ヴァレリー『精神の危機 他十五篇』(岩波書店)未読
*2 Wikipedia「ソネット」より
*3 シェークスピアは「恋愛・美・政治・死など」をテーマにソネット形式の詩を書いている(Wikipedia「ソネット集」)
*4 オードとは「崇高な主題を、多く人や事物などに呼びかける形式で歌う、自由形式の叙情詩」(デジタル大辞泉より)です。
*5 フランス語の冠詞:un,une,le,la,les,des,du,de の使い方と使い分け(http://www.lefrancais.jp/)
*6 wiktionary「navis」より
*7 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1175542756
*8  wikipedia「船」。
*9 富士川義之[編]『ブラウニング詩集』(岩波書店)



山本光雄『ギリシア・ローマ哲学者物語』(角川書店)

ギリシア・ローマ哲学者物語

概要

 ギリシャ・ローマ時代の哲学者がどう生きたのかを解りやすく紹介する。タレス、プラトン、ソクラテスなどの大御所から、アリスチッポス、アンチステネスなどの有名ではない哲学者も含めて、28人以上の哲学者。
 前半は哲学者の笑いというサブタイトルでギリシア時代を、後半は哲学者の憂いと称してローマ時代の哲学者を扱っています。
 もちろん知らない哲学者、名前だけ知ってても詳しくは知らない……という哲学者が多いですので、彼らを中心に書きます。

アルケーを求めて

 万物の根源はアルケーと言って、これは現代物理学の素粒子論にもつながってきます。またそれらをつなぐ力は何かという問いかけも現代物理学の領域です。。
 ちなみに僕は小学生ころこんな考えを漠然と抱いていたことがあります。ビスケットもにんじんもおもちゃも砕いていくとやがてはなくなってしまう。砂糖水だって水に入れればなくなってしまう。だから全てはないところから生まれてるんじゃないかと。これはもちろん見えるものを<ある>、見えないものを<ない>として、考えていたからなのは言うまでもありません。
 しかし逆に考えてみると、どうして目に見えないものを<ある>と断言できるんでしょうねー?

エンペドクレス

 エンペドクレスはガストン・バシュラールの『火の精神分析』*1において紹介されていました。ついでに言っておくと、火山に飛び込んで自殺した哲学者がいたなぁという記憶だけで、名前までは覚えていません。
 重要なのは「彼は世界のもとのものを地・水・空気・火の四元素であるとし」たという見解。僕は今までずっとアリストテレスが元祖だと思って、『形而上学』*2を読み返したら彼について言及されていました。
 エンペドクレスは、彼よりも以前の人々とちがって、(中略)運動の始まりをなす原因を一つとはしないで、互いに相異なり相反するものとしたが、しかし、さらにかれは質量の意味での原因として四つの「元素」を語った最初の人である。
 エンペドクレスは火そのもの、あるいは水そのものが根源だと考えてたのですが、アリストテレスは火の持つ熱さ、水の持つ冷たさ、湿気などが万物の根源だと考えていました。つまりさらに抽象的、観念的になったのです。

アナクシメネス

 またエンペドクレスは火・水・空気・土などをつなぐ力を、愛情と憎しみだと考えていました。この本では取り上げられていませんが、アナクシメネスという哲学者は「空気」と考えました。この発想ができるのは画期的。なぜなら他のものはどれも目に見えるのですが、空気だけは目に見えないのですから。
 彼がヒントを得たのは呼吸。人は死ぬと息をしなくなることから、アナクシメネスは空気(=呼吸) こそ万物の根だと考えたのです。さらにはアナクシマンドロスという人もいてこの人は、万物の根源という意味でアルケーという言葉を最初に使いました。ややこしいので、また解らなくなったらググります。

アナクサゴラス

 アナクサゴラスですが、マーカス・チャウン『ぼくらは星のかけら』*3に名前と学説が出てきました。太陽を鉄の固まりだと考えたとして。彼は、山本光雄さんの解説によれば、他にも天体観測について考えていて、「月には地球のように山もあり、人も住んでいて、その光を太陽から受けているといい、また月食は地球の影によって暗くなるからだと説明した」とあります。
 このアナクサゴラスですが、今日で言う科学精神──つまり物事の因果関係を筋道立てて考えること──ができていた人のようです。

ローマ哲学への系譜

 今日でこそソフィストは詭弁家という余り良くない意味がありますが、最初の「ソフィスト」はそんな意味では用いられていませんでした。プロタゴラスが最初にソフィストと名乗ったのですが、彼は教育者という意味でこのソフィストという言葉を使っていました。
 この系譜が弁論家と呼ばれ、ローマ時代に注目されます*4。どうしても哲学というとアリストテレスのような「哲学者」を思い浮かべるのですが、このような弁論家の系譜も重要だと思います。特にローマ哲学を勉強するにあたって。

快楽主義か禁欲主義か

 さてローマ時代になると人々の関心は自然から人生とは何かに移ってきます。つまりより現実的な話題になり、その一つとして政治哲学も論じられるようになります。プラトンも『国家』で政治体制について考察していますが、あくまでも道徳を認識するための話題にすぎません。つまりプラトンは国家を問題にしたかったのではなく、人間の認識を問題にしたかったのです。
 そんな中、アリスティッポスは人生とは何かという問題に向き合いました。彼は快楽主義を説いたのです。アリスティッポスはアリストテレスの『形而上学』に記述があるようなのですが、索引を引いても該当箇所が見当たらず……。
 これとは反対にアンティステネスは禁欲的な生活を説きました。

*1 ガストン・バシュラール『火の精神分析』(せりか書房)
*2 アリストテレス『形而上学』(岩波書店)
*3 マーカス・チャウン『ぼくらは星のかけら』(無名舎)
*4 キケロー『弁論家について』(岩波書店)




キケロ『弁論家について』(岩波書店)

弁論家について〈上〉 (岩波文庫)

ローマ哲学について

 ギリシャ哲学は万物の根源は何かという、自然哲学の要素が強いんです1。例えば万物の根源は水であると説いたタレスなどがそうですし、デモクリトスは古代の原子論として今でも科学史の本に名前が出てきます。またエピクロスなどのストア派は生き方を説きましたが、彼らもまた認識論に興味を持っていました。
 ところがローマ人は認識論よりは生き方に関心があるような印象を受けます。例えばセネカは『人生の短さについて』*2、『怒りについて』*3などの著作を残していますし、キケロも『老年について』*4などの著作を残しています。またギリシャは戦乱で荒廃していましたが、まだ学問の中心地としての役割を果たしていました*5。
 この関心の違いは多分、普段の生活で自然がどのような位置を占めていたかにあるのでしょう。例えば、農業従事者にとって自然との向き合い方は死活問題でした。ところがローマは「パンとサーカス」という言葉があるように、食事と娯楽は権力者から無償で提供されていました。これはローマの諷刺詩人ユウェナリスの詩に由来しています*6。
国政に対する関心を失って久しい。
かつては政治と軍事の全てにおいて権威の源泉だった民衆は、
今では一心不乱に、専ら二つのものだけを熱心に求めるようになっている―
すなわちパンと見世物を…
 自分たちの生き方はこれでいいのか、という問いかけが出てくるのはごくごく自然な発想だと言えましょう。そしてこれは『弁論家について』において、「プラトーンは、(中略)正義について彼が語るべきと考えた事柄は、日常生活の習いや一般の国家の慣習とはあまりにもかけ離れたものなのである」として『国家』を批判していることからも解ります。

ギリシャとの関わりについて

 このころ戦争でギリシャは荒廃していました。その影響でギリシャ人哲学者がローマにも亡命していたのです。
 しかし荒廃したといってもまだまだ学問の中心。例えば、キケロはギリシャ人哲学者の講演を聞きに行っていますし、何よりもギリシャに留学しているんです。またギリシャが学問の中心地だったことは、この『弁論家について』でギリシャ人哲学者が紹介されていることからも明らかでしょう。
 さて、このころローマ人の関心分野といったら弁論術でした。元老院での演説、民衆の前での演説……、出世のためには弁論術が欠かせなかったのです。

語ること

 そしてそれは『弁論家について』の「互いに言葉を交わし、感じたこと、思ったことを言論によって表現できるという、まさにその一点こそ、われわれが獣にまさる最大の点だからである」という言葉にも反映されています。しかし、いつの世にも口だけが上手い人はいるもので、キケロの問題意識はそう言った人たちへの批判でした。キケロは「舌」に言葉を、「心」に精神をそれぞれ代表させながら下記のように語っています。
 言わば舌と心の乖離が始まった、われわれは賢明さの知恵を教える者と、言論の知恵を教える者が別々であるという、いかにも理不尽な、無益な、批判されるべき乖離がね。
 したがってソクラテスがよく引用されています。というのは、ソクラテスは詭弁家たちを論理の力で打ち負かしたからです*7。
 また当時の流れとしてイソクラテスの弁論術が流行っていました。イソクラテスの弁論術は実務的な問題を解決することに特化していて、話術を教える学校まで運営していたのです。

弁論術の学問化

 さてキケロは弁論術を小手先だけ技術ではなく、哲学として体系化しようとしていたのだと思います。どのような演説に惹かれるのかを分析することで「明確に学問とまでは言えないにしても、ある種の学術のようなものは見出せるはず」であると語っています。
 これはキケロの目的だけでなく当時の弁論術が置かれた立場を反映しているとも言えましょう。そしてその根拠としたのがアリストテレスの『弁論術』でした。
 実務に特化したイソクラテスの弁論術とソクラテス−プラトン−アリストテレスの知識探求を統合しようとしたのです。
万般の豊かな知識は言葉の豊かさを生むからであり、語る事柄に高尚さがあれば、言葉にはおのずからある種の輝きが生まれるからである。語ろうとするもの、あるいは聞こうとするものは子どもの頃に自由人にふさわしい教育と学問を施された者でありさえすればよく、さらに情熱に燃え、天性の助けを得、一般的・包括的な主題に関する非限定的な問題の論争の修練を積み、誰よりも詞藻を凝らした著作家や弁論家を師に選んで知悉し模倣しさえすればよいのである
 と語っているのが、それをよく反映していると言えましょう。
 とは言っても、キケロ自身はどちらかというと実務家の目線から語っています。つまり理論的な考察が手薄で、ギリシャ哲学は権威化を目的として語られています。

キケロという人物評

 というのも僕はキケロに対してあまりいい印象は持っていないんですよね。主義主張が時節によって結構変わっています。あるときは共和制を支持したと思えば、貴族制を支持しています。つまり一貫した政治信条がなく、僕を混乱させます。また名演説として名高い『カティリーナ弾劾演説』*9も単にヘイトスピーチとしてしか映りませんでした。弁論家について〈下〉 (岩波文庫)
 また身も蓋もない話になるのですが、もともと政治思想には関心が薄いんですね。僕自身、社会を実態のない「フィクション」として捉えているので。一応、真剣には投票しますけど、政治が変わるとはあまり考えていません。
 アウグスティヌスが『告白』でキケロの文章を絶賛*8していましたが、あいにくラテン語は全く解りません。しかし、キケロの『カティリーナ弾劾演説』を引用して、アメリカの議員が大統領の弾劾演説*10を行なうなどその影響力は今でも健在です。
 

*1 マーカス・チャウン『僕らは星のかけら』無名舎
*2 セネカ『人生の短さについて』(岩波書店)
*3 セネカ『怒りについて』(岩波書店)
*4 キケロ『老年について』(岩波書店)
*5 ピエール・グリマル『キケロ』(白水社)
*6 wikipedia「パンとサーカス」
*7 プラトン『ソクラテスの弁明』(光文社)、プラトン『ゴルギアス』(岩波書店)
*8 アウグスティヌス『告白』(中央公論社)
*9 キケロー『キケロー弁論集』(岩波書店)
*10 https://www.washingtonpost.com/news/the-fix/wp/2014/11/20/ted-cruz-goes-peak-senate-in-opposition-to-emperor-obama/



植松聖容疑者について

 久々に時事問題をテーマに記事を書く。理由は危機感を抱いたからである。異常犯罪が増えていることではない。「異常者」と呼ばれる人に僕たちがどう向き合っていくかについて。 最初に断らなければいけないが、僕自身、植松容疑者の心理を汲み取ることができない。それでも最大限、汲み取ろうとしようと思った。
 なお手紙はこちらを参考にした。

犯人の手紙を「読む」こと

 手紙にかぎらず他人の文章を読むことは本当に難しい。なぜなら質問しても返事など帰ってこないからだ。あるいは心理が変化しているかもしれない。コンピューターは与えられた常に命令通りにしか動かないが、人の心は刻一刻と変化していく。
 取っ掛かりとなったのは冒頭の数行である。
この手紙を手にとって頂き本当にありがとうございます。
私は障害者総勢470名を抹殺することができます。
常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為と思い居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。
 「常軌を逸する発言」だと自覚していること、そしてその理由として「保護者の疲れきった表情」などが挙げられている。また、「職員の少ない夜勤に決行致します」と宣言していることから、冷静さが窺える。つまりここから異常者だというよりは、むしろ自己の経験から培われた思想的な背景が窺える。
 もちろん、罪を犯したのであれば正当に裁かれるべきである。しかし「障害者は不幸を作ることしかできません」という言説までは否定することは間違っている。「共感」できるかどうかは別問題なのだ。
 手紙を読めば解るようにある一定の論理が流れていて、彼も語っているように「私は大量殺人をしたいという狂気に満ちた発想」ではないのである。
 そしてそのどのように人格形成が行われ、どのように犯行が計画されたか、ということを真剣に考えなければならない。

矛盾

 またその一方で植松容疑者自身も心の底から「障害者は不幸にする」という考えを信じていないように思える。
 「心神喪失による無罪」を希望しているのだ。心神喪失になるということは「障害者」になりたいと告白しているのである。もし本当に障害者は不幸にすると考えているのなら、死んでも出てこないはずである。

異常者はいないことになっている

 異常者と切り捨て、犯罪者を塀の中に送り込むことは簡単だ。法の手続きにのっとって行えばいい。
 しかし、そういった行為は「異常者」を隠蔽し、隔離し、あらかじめいなかったかのように振る舞うことと似ている。名前を報じなかった報道機関があり、そのこともまた植松容疑者を覆い隠しているという印象がある。
 また今回、障害者施設で起きたということも象徴的である。なぜなら彼らもまた隔離され、隠蔽し、はじめからいなかったかのように振る舞われる存在なのだ。
 もちろんこれは言葉というレベルでは認知されている。あるいは「フィクション」としてなら。もっといえば実態とは違う形でなら。24時間テレビなら安心して「楽しめる」のだ。その理由は簡単。自分よりも「不幸」な人を見ることで相対的に幸せになるからである*1。
 しかし街中で会った際に、彼らを直視できるだろうか。例えば自閉症児に会ったら目を背けたくなるのではないか。
 障害者が「隠されている」と言っているのはそういった点においてである。福祉施設が運営するカフェに訪れた人*2、農業における障害者雇用の取り組み*3、あるいは養護学級に遊びに行った人などを知っている方が何人いるだろうか*4。
 そもそも障害者/健常者という区分は明確に色分けできると信じていないだろうか? WAISIIIという知能検査で一定点数以下なら、発達障害などと認定されるに過ぎないのである。
 そのことを知っている人が何人いるだろうか。今や調べ物は簡単な時代であるにもかかわらず、関心を持っていないのである。あるいは意図的に関わり合いたくないような空気を感じる。おそらく自分は異常なのかもしれないという不安から逃れたいのではないか。自分との共通点を見出したくないのではないか。
 植松容疑者の手紙には「全人類が心の隅に隠した想いを声に出し」とあるが、そういったことを踏まえながら文面を見ると、あながち異常だとも言い切れない。
 そしてそう言った気持ちがある以上、僕たちと植松容疑者の差は紙一重ではないのか。僕たちはまずこのことを自覚しなければいけないように思う。

異常な発言を封じ込めることの危険性

 病院と刑務所は、その「異常者」、あるいは逸脱者たちを隔離するという共通点がある。病院は精神的な逸脱者を、刑務所は法からの逸脱者を隔離し、監視するのである。
 我々は社会の目、あるいは倫理観を気にしている。こう言ったら相手はどう思うだろう、などと想像することで自分自身を「監視」している、と言ってもいい。しかし倫理観は誰が作るのだろうか。学校などの教育によって作られる。
 そしてその際、他人を理解することを学ぶはずである。あるいは金子みすゞの詩から他者と違ってもいいことを学ぶはずである。あるいは言論の自由を学ぶはずである。それなら「障害者は殺していい」という発言はもちろん殺人を肯定するような発言も(あくまでも発言のレベルなら)自由に保護されてしかるべきである。
 「殺人はなぜいけないのか」という議論を排除すること、自分とは異なった考えを排除すること、自分たちとは異なった存在を排除すること。そして始めから存在しなかったかのように扱うこと。異常犯罪だと決めつけているとこういう社会につながりかねない。
 繰り返して言う。僕たちは「異常者たち」に興味を持たなければならない。そして正常だと断言できる根拠・自信はどこからきているのかを常に考え続けなければいけない。

いくつかの論点

 最後に論点をいくつか挙げる。
1.もしこれが自殺の遺書としての内容だとしたら?
2.もしこれが我が子の将来を悲観してだとしたら?
3.もしこれが姪の将来を悲観してだとしたらどうだろう?
 この三つは当事者との距離が違う。今回は第三者、つまり血縁的な距離があった。こう反論するかもしれない。その人を知らないのに人生を決めていいはずがない、と。
 しかし親よりも友人の方がよく知っているケースもある。さて、この場合、親に人生の決定権があるのだろうか?
4.もし誰にも人生の決定権がない場合、自殺にも他人は介入できないのではないか?
5.他人の人生に介入する権利はないと考える人は、自殺は止めなければいけないと思うのか?

政治的な観点

6.もしこれが殺人者の発言ではなく、大恐慌下の政治家が発言していたらどうなのか。例えばヒトラーのように、経済の立て直しに成功した政治家がホロコーストを支持した場合、果たして僕たちは逆らえるのか?
 事実ナチスドイツはT4作戦を行ない障害者を安楽死させている。まさに植松容疑者の思想と酷似しているが、法案が通ってしまった。このような事態を防ぐにはどうしたらいいか、植松容疑書を切り口に論じられないだろうか。
7.遺伝子工学的な検査を行ない、障害児だと解ったら堕胎する。この考えと植松容疑者の決定的な違いはあるのか? 
8.小頭症の子供だと解ったら堕胎する。このことと植松容疑者の考えとに決定的な違いはあるのか。
9.今回、植松容疑者は経済的な損失しか考えていない。資本主義社会においてそれは頷ける。しかしこのことは支持できない。つまり経済以外の点からも人間の価値を考えていることになる。しかしその一方で年収に執拗なこだわりを見せるのはどうしてなのか?

歴史的な観点

10.江戸時代などは人間の間引きが行われていた。それは一家全体が養えなくなるという懸念からだったが、この口減らしとの決定的な違いは何なのか。両者とも経済的な損失を防ぐためだと言える。

 例からも解るように倫理観は人それぞれ違う。一方的な価値観で植松容疑者を倫理的に断罪することは、彼が障害者を殺した動機と同じ理屈に陥ってしまうかもしれないのだ。

*1 https://happylifestyle.com/13422
*2 就労継続支援A、就労継続支援B型、就労移行支援がある。
*3 障害者、農業の担い手に 「農福連携」進む
*4 ちなみに僕のいた小学校では休み時間に開放されていた。



T・S・エリオット『文芸批評論』(岩波書店)

文芸批評論 (岩波文庫)

概要

 『荒地』、『四つの四重奏』などで名高いノーベル文学賞作家、T・S・エリオット。彼は文芸評論に対しても印象批評に代わり、新批評という分野を開拓した。
 文学に対し、批評に対し、どう考えていたのだろうか。伝統、歴史的意識というキーワードをもとに読み解く文学論「伝統と個人の才能」、文芸批評について論じた「批評の機能」「批評の実験」「批評の限界」など10編を収録。

感覚的な論文

 わずか200ページ程度なのに読んでて疲れました。訳が古めかしいのもありますが、全体的に感覚的なんですよ。エリオットは詩人ですので、感覚的になるのも頷けるんですが、評論なのでもう少し論理的に書いて欲しいと。
 なおここで個性滅却の過程と伝統意識との関係をはっきりさせておかなければならない。芸術が科学の状態に近づくということはこの個性滅却の過程で言われるのだ。そこで私は白金の一片を酸素と無水亜硫酸に入った容器に入れたときに起こる反応を考えてもらいたい。この類推によって、示唆が得られると思う。
 確かに示唆は得られました。これが自然科学の研究者がどうして文芸評論を読みたがらないかという理由だと思うんです。だって関係ないですもん。
 注意して欲しいのは、このアナロジーが「詩」として書かれた文章なら僕は文句は言いません。詩はアナロジーの世界ですから、科学的な事実とは離れた言い回しがむしろ期待されます。
 科学にかぎらず、学問における比喩は気をつけなければならないと僕は思っています。比喩は本来、無関係のものを結びつけるのですから、メカニズムも踏まえて、全く同じメカニズムでおこる現象のみ使っていいと思います。

比喩の落とし穴

 例えば「被爆は散弾銃で撃たれるのは変わらない」というのは科学的事実に基づいた比喩になっています。散弾銃の弾を原子レベルにまで小さくすれば「被爆」という現象になるからです。もう一つ言っておくなら拳銃の弾では適切な比喩とは言えません。なぜなら拳銃の弾は撃っても細かな弾が体内に飛び散らないからです。
 もう一つの比喩として「卵を電子レンジに入れると爆弾になる」。これも科学的な事実に基づいた比喩になっています。密閉空間で温度が上がると体積が膨張し、耐え切れなくなって中が破裂する現象が「爆発」なのです。
 科学者はアナロジー思考に慎重ですが*1、エリオットが用いている比喩を見る限りと、無邪気に使ってると言わざるを得ません。化学的反応における触媒の作用と、その作家の個性が認められて文学史に名を残す経緯は全く違うのはいうまでもありません。たとえエリオットの感覚が似ていようと化学的なメカニズムが違う以上は比喩として使うのは危険だと考えています*2。
 もし読者が科学に教養のない人を想定しているとしても、この比喩は不適切です。比喩というのは未知のもの、自分の考えを解りやすく説明する意味があります*3ので、科学的に無知な人にこのような比喩を使っても逆効果です。
 そして詩は比喩の世界ですので、自分が使っている道具がどんな危険をはらんでいるのか自覚的になる必要があります。

早まった一般化

 この論文においては早まった一般化がなされています。しかも些細なところならまだ許せるのですが、エリオットの主張の中心となる部分ですので大問題です。
 シェイクスピアは(中略)歴史の精髄をプルタークから獲得した。だから詩人は過去についての意識を展開し、もしくは把握したうえ、生涯を通じてこの意識を絶えずひろげていかなければならないことをここで繰り返し強調しておこう。
 確かに、シェイクスピアはプルターク(プルタルコス)を下敷きにして『コリオレーナス』*4、そして『ジュリアス・シーザー』を書きました。しかし一人の例で一般化するのは余りにも乱暴すぎます。

論理の進め方を抜きにすれば

 エリオットの主張は、どんなに個性的な作品でも歴史の中に埋没するというものです。このことは極論であるにせよ、納得はできることでありますし、エリオットの時代は印象批評が主流だったことを踏まえると頷けます。
 印象批評というのは各人がとらえた印象をそのまま評論するという、読書感想文のようなものです。エリオットはその印象批評からの脱却を図ろうとしたんです。
 エリオットはロマン主義を批判し、印象批評に反対することから出発した。そのロマン主義の人たちはめいめいの個性が大事だと考えて、その表現につとめてきたけれども、実をいうと、個性にはそれほど価値がない。大切なのは過去から現在に続く文学の伝統を認め、自分もその大きな秩序の中で生きていることを感じる「歴史的感覚」である*4。
 こう言うとただ既存の文学作品を模倣すればいいという風にも聞こえますが、エリオットは「だが祖先から後世へと伝えるという伝統のただ一つの形式が、すぐ前の世代に属する人たちの残した成果をめくらめっぽうにさもなければ恐る恐るそのしきたりを守って追従することだとすれば、「伝統」はきっと力を失ってしまう」とも述べていて、精査して残さなければいけない、と言っているんですね。

『荒地』に見る伝統

 この価値観はエリオットの『荒地』*6からも窺えます。『荒地』は『神曲』や旧約聖書からの引用が随所に散りばめられている……らしいのですが、僕には解りません。
 またこの詩の形式自体、ロバート・ブラウニングが創りだした劇的独白という技法に基づいたものとなっています*7。普通、詩の〈語り手〉は詩人なのですが、ブラウニングは詩人以外を語り手にしました。例えば、ブラウニング「ポルフィーリアの恋人」という詩では絞殺する男を、「実験室」という詩では毒殺する女をそれぞれ主人公に据えています*8。そしてそれは、もちろんロバート・ブラウニング自身の体験ではありません。
 『荒地』でも語り手が神になる場面があり、これはもちろんエリオットではありません。このように代表作、『荒地』は伝統的な作品を踏まえているのですが、その思いを批評の形にしたのが『文芸批評論』だと言えそうです。
*1 科学者は常にアナロジーの誘惑と戦ってきた(ガストン・バシュラール『科学的精神の形成』平凡社)。
*2 ジャック・プーヴレス『アナロジーの罠』(新書館)
*3 「メタファーは、馴染みのない概念を馴染深い概念と関連させることで説明するために使うものであって、決して逆の状況では使わない」(アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン 『「知」の欺瞞』岩波書店より引用)
*4 小田島雄志「解説」(ウィリアム・シェイクスピア『コリオレーナス』白水社)
*5 矢本貞幹「解説」より引用(T・S・エリオット『文芸批評論』岩波書店)
*6 T・S・エリオット『荒地』(岩波書店)
*7 富士川義之「まえがき」(富士川義之[編]『ブラウニング詩集』岩波書店)
*8 富士川義之[編]『ブラウニング詩集』岩波書店



ウィリアム・シェイクスピア『コリオレーナス』(白水社)

コリオレーナス (白水Uブックス (31))

あらすじ

 時はローマ時代。民衆の不満は蓄積していた。パンが十分に行き渡らず貴族たちが独占していると市民たちは言うのである。そこで元老院議員、ケーアス・マーシャス・コリオレーナスを倒そうとしていた。彼はかつてローマを救った軍人でもあったが、確かにかつての功績を鼻にかけて傲慢な態度を市民たちにとっていた。一方で友人、メニーニアスは人望に富み、ローマ市民からは慕われていた。彼は何とかローマ市民を説得し、思い留まらせた。
 しかし、そんな中、コリオレーナスはローマ市民の神経を逆撫でする繰り返す。この暴動が現実のものとなるのを恐れた元老院は護民官としてシシニウスとブルータスを任命する。
 彼らは表立って市民をなだめているが、コリオレーナスを引きずり降ろそうと、影では市民たちを焚きつける。そのとき、敵対勢力であるヴォルサイ人が攻めてきて、コリオレーナスが奮戦の末、撃退。これに気をよくした彼の母親は執政官への出馬を促すが……。

第一印象

 やっぱりシェイクスピアは面白い。今でこそ堅苦しいイメージがありますが、ルネサンスの人々にしてみれば大衆娯楽だったので、面白くなきゃ客が入らない。

政治色

 それに加えて選挙の時期に読んだせいもあってか、政治家への皮肉が辛辣に描かれてるように感じました。例えば市民の台詞には、
「俺は執政官になりたい」って言うのです。「だが、昔からの慣例でおまえたちの推薦がないとなれない、だから推薦してくれ」って。「はい」と答えると、「推薦してくれてありがとう、かたじけない。もう用はない」だそうです。
 と評したものがあります。そして、大衆への辛辣な台詞もあります。
 執政官になろうとしますが、護民官の煽動した暴動に巻き込まれ、こう失言します。
衆愚の賛成、反対によらざればなにごとにおいても、決定をくだすことができぬありさまだ──これでは、必要な措置はなに一つとれず、その場しのぎにうろうろするのみだ。政策の実施が妨げられればなにごとも無策に終わるほかない
 確かに一面を突いているのですが、民意をないがしろにしたと判断されて、政治家生命を絶たれます。
 それで、ローマから追放され、ヴォルサイ人とローマを攻めるのですが、慌てたのが民衆。母親を説得役に立て、ようやくコリオレーナスはローマ人としてヴォルサイ人は和平を結びます。そしてそのときにコリオレーナスと一緒にローマを攻めた共謀者が「〔民衆は〕性こりもない阿呆どもだ、自分の子供を殺した男に、喉も避けよばかりに万歳をとなえていやがる」と言うのです。
 こういった民衆への皮肉がある作品は、シェイクスピア劇にはあまりありません。生前に上演されなかったらしいのですが、この皮肉が原因かもしれません。

人物紹介

 僕は創作活動もしているのですが、シェイクスピアの構成力は実に巧みです。最初で演劇の大雑把な人間関係をすべて出しながらも、どういうローマ市民たちが状況に置かれているかが描かれているのです。
 本当に序盤、市民1の「おれが復讐しろというのは血に飢えているからではない。パンに飢えているからだ」という台詞で市民の生活が苦しいことを出しています。その次の会話が実に多くの情報をさり気なく観客に提示しているのです。
 市民2 やっつけようとしているのはケーアス・マーシャスだけか?
 市民1 まずあいつだ、あいつこそ民衆の生き血をすする犬だ。
 市民2 だがあいつの国家にたいする功績を考えているのか?
 この3つの台詞からはかなりの情報が得られます。まず、市民たちは市民たちは貧困にあえいでいること、ケーアス・マーシャスを憎んでいること、その一方でケーアス・マーシャスは国家に対して功績をなしとげたこと(ここでは軍を追い払ったとはまだ書いていません)、市民の間でも賛否が解れていること。
 そしてもう少し演劇が進むと「実はおふくろを喜ばせたい」と母親に依存していることが明かされます。そしてこれが後の伏線につながってくるのです。
 一通りコリオレーナスの悪口を言い終わったところで、メニーニアスが登場します。そしてローマ市民はこう話し合うのです。
 市民2 メニーニアス・アグリッパだ。いつも民衆を愛してくれるかただ
 市民1 あれは誠実な人だ、ほかの連中もそうであってくれたらいいんだが!
 この対比でケーアス・マーシャスとメニーニアス、二人の性格の違いがなされているのです。こういう本当に基本的なことはできるだけ最初に出しておくことが望ましいことは解っています。しかもさり気なく会話などに忍ばせくのがべすと。
 それは解っていますが、いざ書いてみると本当に難しいところがあります。

陰謀

 さて、次の場面で語られるのは、ヴォルサイ人が攻めこむ策略を練っているところです。ここでローマには内乱の火種だけでなく、外にまで敵を抱えているとしり、観客は不安になるんです。このサスペンスでお馴染みの手法は、ちょっとしたネット広告にも使われています。
 例えば……、不況の不安を煽り、独立を促す、などの手法はよく見かけますよね。また医学番組でもこの手法はよく使われています。まず病の前兆となる症状を出しておいて、診断名、予後の経過などの番組構成が一般的です。

ルネサンスとは

 何を当たり前のことを、と思われるかもしれませんが、実はルネサンス以前の演劇は違いました。キリストの一生を描いたり、新約聖書の教えを伝えたりという宗教的な演劇だったのです*1。目的も娯楽のためではなく、聖書の教えを民衆に伝えるためのもの*2。僕も学生時代にビデオで典礼劇の様子を字幕付きで見ましたが、起承転結ががないんです。
 この物語構成そのものがギリシャ・ローマ時代に培われたものでした。いったん、ゲルマン民族の大移動でその文化は途絶えてしまうんです。しかしギリシャ時代の文化アラビアに保存されていました。主に自然哲学、神学が主だったのですが、ギリシャ・ローマ文化が入ってきました。
 そのため、ルネサンス期にギリシャ・ローマ文化を見直そうという動きが強まったのです。したがって題材も『コリオレーナス』含め、代表作『ジュリアス・シーザー』、『アントニーとクレオパトラ』などローマを扱ったものが多いんです。

完全オリジナルではない

 無から無は生まれず、と言いますが、「シェイクスピアの全戯曲のほとんどは、既存の物語やエピソード、詩などをベースに翻案したもので」*3す。この『コリオレーナス』は歴史家プルタルコスの『対比列伝』です。しかし、もちろん伝記なので、いまいち盛り上がりに欠ける。そこでシェイクスピアはプルタルコスの作品を下敷きにしながら、物語を脚色したのです。
 つまるところ、シェイクスピアは、そして娯楽作品に求められているのは、物語のオリジナリティよりも面白く見せる技術なのかもしれません。

マクベスとの比較

 さて、僕が感じたのはコリオレーナスとマクベスは似ているということです。マクベスのあらすじは、三人の魔女にたぶらかされて、マクベスは反乱を起こして王位を乗っ取りますが、また反乱を起こされて殺されるというもの。
 反乱を起こして殺されるという側面だけなら、偶然とも言えます。しかしマクベスもマクベス夫人にそそのかされ、反乱を起こすのです。
 共通した要素を抜き出すなら
1.両方とも女性(家族)にそそのかされている
2.両方とも初めは乗り気ではない
3.両方とも破滅的な死を遂げる。
 3はコリオレーナスやマクベスに限った話ではありません。ハムレットは全員が壮絶な死を遂げるので、シェイクスピア悲劇に共通する要素とも言えそうですが、マクベスとコリオレーナスの人物像があまりに似通っていると思いました。
 
*1 Wikipedia「典礼劇」
*2 同上
*3 Wikipedia「ロミオとジュリエット」



富士川義之[編]『ブラウニング詩集』(岩波書店)

対訳 ブラウニング詩集―イギリス詩人選〈6〉 (岩波文庫)

この本を読んだ理由

 どういうわけか、詩を読みたくなりました。文学の勉強をしたい、とか(もちろんこの思いはいつもあるんですが)、そういう高尚な思いは余りありません。
 もう一つ、南米文学で有名なボルヘスが講演録『詩という仕事について』で引用されていたので興味を持っていたんです。あの講演録の中には他にも、たくさんの詩や小説が引用されているのですが、ブラウニングを手に取ったのは特に理由はありません。
 後のエリオットに受け継がれる劇的独白という形式を確立したらしいんですが、これも知りませんでした。そもそもブラウニング自体、名前を知ってるだけの詩人だったのです。

詩とはなんだろう

 まずそもそも詩とは何だろうということから書かなければいけないと思います。僕が思うに詩的表現とは比喩によるイメージの記述です。例えば、「失われた恋人」は失恋を歌った詩なんですが、
「蔦の新芽が羊毛のようだ/ぼくは今日それに気がついた/あと一日ですっかり開いて/──赤が灰色になるんだね」というくだりがあります。
 最初の「蔦の新芽が羊毛のようだ」という文章から、僕は羊毛の温かみをイメージしてしまい、失恋とはすぐに結びつきませんでした。しかし、ブラウニングが表現したかったのは、むしろ羊毛の暗い色だったのだと「赤が灰色になるんだね」というくだりを見て気付きました。
 もちろん染めれば美しい色に仕上がりますが、刈って数日置くと黄ばんでしまうのです。しかし黄色(Yellow tint)だと鮮やかなイメージがつきまとうように僕は思います。
 また恋愛をしている最中の色は新芽の緑、赤などが鮮やかな色合いので、この場面は彩度の低い色が望ましい。つまり失恋を灰色という色で現しているのです。そしてこの比喩的な表現こそが詩的表現だと僕は思っています。

夜のあいびき

 さて、「失われた恋人」の他にも視覚表現が美しい詩があります。「夜のあいびき」という詩は「灰色の海、黒々と闇に沈む長い陸地/大きく低くかかる 黄色い半月」という暗い表現をはじめ全体として暗い配色です。そこへ「青白く光マッチの炎(blue spurt of a lighted match)」と書かれ、ここだけが明るい小さな灯火があるような印象を受けます。
 そして、このことは〈語り手〉の心理状態とも対応しています。「歓喜と恐れに 二人の触れ合う/心臓の鼓動よりもかすかな愛の囁き!」ともあるように恐らくは道ならぬ恋でしょう。最初の描写が冒険を思わせるのは「性的な暗示」だけではなく、そういった冒険心なども暗示しているのかもしれません。

クリスティーナ

 さて複雑な比喩が使われている詩がクリスティーナ。悪女、クリスティーナに取り込まれる男たちを描いた詩なのですが、ブラウニングは彼女をこう表現しています。
 “ need ti strew the bleakness
Of some lone shore with its pearl-seed,
That the sea feels
 寂しいどこかの荒磯に真珠の種を撒き散らそうと海が思っている(富士川義之訳)
 このことについて富士川さんは「女の心を「海」に、その魅力を「真珠の種」にたとえ、男たちのわびしい心を「荒磯」になぞらえ、多くの男たちに媚びる心を表している」と解説しています。
 これに加え僕は音も海をイメージさせると思います。僕は英語の母語話者でないので、何とも言えないのですが、sとthの音が多く使われているような印象を受けます。この「ス」・「ズ」の音は海の波を連想させるのです。

恋の詩

 さて全体として恋愛を歌った詩が多いのですが、恋愛讃歌ではありません。嫉妬や欲望が渦巻いているのです。例えば、前述の「クリスティーナ」という詩もそうですが、「ポルフィーリアの恋人」は恋愛対象者を「一本の長い金色〔有沢注:の髪〕の紐に束ね、それを/ぐるぐると三重に女の首に巻きつけて/絞め殺した」挙句、「それでも神からは一言も咎められることはなかった」と言い放つような詩です。
 原文は「And yet God has not said a word!」なので、直訳すると「それから、まだ神は一言も何も言っていない」になるので、絞殺した咎めの言葉に限定されていません。
 他に「ぼくから逃げるだって?/絶対にできないことさ──/愛する女よ(中略)恋するぼくと嫌がる君がいる限り」といったどう見てもストーカーとしか思えない「愛における人生」などが収録されています。
 実験室という詩も恋敵の毒殺を企む女性の詩です。
 「あたしはいま、ガラスの防護マスクをしっかりとはめて、/かすかな煙が白く渦巻きながらのぼってゆくのを眺めている。この悪魔の仕事場であなたが仕事に励んでいるとき──ねえ、どれがあの女の命を奪う毒薬かしら?」という強烈な書き出しから始まるこの詩は、嫉妬に狂った女の詩です。怖いよー。

劇的独白について

 ブラウニングが確立した技法に劇的独白というものがあります。これはT.S.エリオットなどのモダニズムに受け継がれるのですが、劇的独白という手法はどういったものか調べてみました。
 それまでは詩人が〈語り手〉となり、詩人の心情を描いていたと解釈されていました。しかし、劇的独白ではまるで演劇の登場人物であるかのように詩の〈語り手〉が振る舞うのです。
 例えば「ポルフィーリアの恋人」と「先の公爵夫人」が典型例ですが、「ポルフィーリアの恋人」では絞殺した男性に、「先の公爵夫人」では絵描きの視点から詩を読んでいるのです。



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