有沢翔治のlivedoorブログ

 wikipediaや「解説」に書いてあることをそのまま書いても余り意味がない、を信念に書評もどきを書いています。大事なのは自分がどう思ったのか。そしてそれはどうしてか?

 同人ゲームシナリオやボイスドラマの脚本を書いています。過去には、
ゲームシナリオ
天地争像伝奇
ましろいろ
白い焔
怪奇探索少年隊
こころのかけら
戯曲
『めぐる季節の中で』より「ラブラブパニック」他(企業依頼
ハシを直す(有償依頼)
視線を感じて
 などを作ってきました。
 また文芸同人誌『TEN』に作品を発表。ご依頼、ご注文はholmes_jijo@hotmail.comまで。基本無償でお引き受けします。

植松聖容疑者について

 久々に時事問題をテーマに記事を書く。理由は危機感を抱いたからである。異常犯罪が増えていることではない。「異常者」と呼ばれる人に僕たちがどう向き合っていくかについて。 最初に断らなければいけないが、僕自身、植松容疑者の心理を汲み取ることができない。それでも最大限、汲み取ろうとしようと思った。
 なお手紙はこちらを参考にした。

犯人の手紙を「読む」こと

 手紙にかぎらず他人の文章を読むことは本当に難しい。なぜなら質問しても返事など帰ってこないからだ。あるいは心理が変化しているかもしれない。コンピューターは与えられた常に命令通りにしか動かないが、人の心は刻一刻と変化していく。
 取っ掛かりとなったのは冒頭の数行である。
この手紙を手にとって頂き本当にありがとうございます。
私は障害者総勢470名を抹殺することができます。
常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為と思い居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。
 「常軌を逸する発言」だと自覚していること、そしてその理由として「保護者の疲れきった表情」などが挙げられている。また、「職員の少ない夜勤に決行致します」と宣言していることから、冷静さが窺える。つまりここから異常者だというよりは、むしろ自己の経験から培われた思想的な背景が窺える。
 もちろん、罪を犯したのであれば正当に裁かれるべきである。しかし「障害者は不幸を作ることしかできません」という言説までは否定することは間違っている。「共感」できるかどうかは別問題なのだ。
 手紙を読めば解るようにある一定の論理が流れていて、彼も語っているように「私は大量殺人をしたいという狂気に満ちた発想」ではないのである。
 そしてそのどのように人格形成が行われ、どのように犯行が計画されたか、ということを真剣に考えなければならない。

矛盾

 またその一方で植松容疑者自身も心の底から「障害者は不幸にする」という考えを信じていないように思える。
 「心神喪失による無罪」を希望しているのだ。心神喪失になるということは「障害者」になりたいと告白しているのである。もし本当に障害者は不幸にすると考えているのなら、死んでも出てこないはずである。

異常者はいないことになっている

 異常者と切り捨て、犯罪者を塀の中に送り込むことは簡単だ。法の手続きにのっとって行えばいい。
 しかし、そういった行為は「異常者」を隠蔽し、隔離し、あらかじめいなかったかのように振る舞うことと似ている。名前を報じなかった報道機関があり、そのこともまた植松容疑者を覆い隠しているという印象がある。
 また今回、障害者施設で起きたということも象徴的である。なぜなら彼らもまた隔離され、隠蔽し、はじめからいなかったかのように振る舞われる存在なのだ。
 もちろんこれは言葉というレベルでは認知されている。あるいは「フィクション」としてなら。もっといえば実態とは違う形でなら。24時間テレビなら安心して「楽しめる」のだ。その理由は簡単。自分よりも「不幸」な人を見ることで相対的に幸せになるからである*1。
 しかし街中で会った際に、彼らを直視できるだろうか。例えば自閉症児に会ったら目を背けたくなるのではないか。
 障害者が「隠されている」と言っているのはそういった点においてである。福祉施設が運営するカフェに訪れた人*2、農業における障害者雇用の取り組み*3、あるいは養護学級に遊びに行った人などを知っている方が何人いるだろうか*4。
 そもそも障害者/健常者という区分は明確に色分けできると信じていないだろうか? WAISIIIという知能検査で一定点数以下なら、発達障害などと認定されるに過ぎないのである。
 そのことを知っている人が何人いるだろうか。今や調べ物は簡単な時代であるにもかかわらず、関心を持っていないのである。あるいは意図的に関わり合いたくないような空気を感じる。おそらく自分は異常なのかもしれないという不安から逃れたいのではないか。自分との共通点を見出したくないのではないか。
 植松容疑者の手紙には「全人類が心の隅に隠した想いを声に出し」とあるが、そういったことを踏まえながら文面を見ると、あながち異常だとも言い切れない。
 そしてそう言った気持ちがある以上、僕たちと植松容疑者の差は紙一重ではないのか。僕たちはまずこのことを自覚しなければいけないように思う。

異常な発言を封じ込めることの危険性

 病院と刑務所は、その「異常者」、あるいは逸脱者たちを隔離するという共通点がある。病院は精神的な逸脱者を、刑務所は法からの逸脱者を隔離し、監視するのである。
 我々は社会の目、あるいは倫理観を気にしている。こう言ったら相手はどう思うだろう、などと想像することで自分自身を「監視」している、と言ってもいい。しかし倫理観は誰が作るのだろうか。学校などの教育によって作られる。
 そしてその際、他人を理解することを学ぶはずである。あるいは金子みすゞの詩から他者と違ってもいいことを学ぶはずである。あるいは言論の自由を学ぶはずである。それなら「障害者は殺していい」という発言はもちろん殺人を肯定するような発言も(あくまでも発言のレベルなら)自由に保護されてしかるべきである。
 「殺人はなぜいけないのか」という議論を排除すること、自分とは異なった考えを排除すること、自分たちとは異なった存在を排除すること。そして始めから存在しなかったかのように扱うこと。異常犯罪だと決めつけているとこういう社会につながりかねない。
 繰り返して言う。僕たちは「異常者たち」に興味を持たなければならない。そして正常だと断言できる根拠・自信はどこからきているのかを常に考え続けなければいけない。

いくつかの論点

 最後に論点をいくつか挙げる。
1.もしこれが自殺の遺書としての内容だとしたら?
2.もしこれが我が子の将来を悲観してだとしたら?
3.もしこれが姪の将来を悲観してだとしたらどうだろう?
 この三つは当事者との距離が違う。今回は第三者、つまり血縁的な距離があった。こう反論するかもしれない。その人を知らないのに人生を決めていいはずがない、と。
 しかし親よりも友人の方がよく知っているケースもある。さて、この場合、親に人生の決定権があるのだろうか?
4.もし誰にも人生の決定権がない場合、自殺にも他人は介入できないのではないか?
5.他人の人生に介入する権利はないと考える人は、自殺は止めなければいけないと思うのか?

政治的な観点

6.もしこれが殺人者の発言ではなく、大恐慌下の政治家が発言していたらどうなのか。例えばヒトラーのように、経済の立て直しに成功した政治家がホロコーストを支持した場合、果たして僕たちは逆らえるのか?
 事実ナチスドイツはT4作戦を行ない障害者を安楽死させている。まさに植松容疑者の思想と酷似しているが、法案が通ってしまった。このような事態を防ぐにはどうしたらいいか、植松容疑書を切り口に論じられないだろうか。
7.遺伝子工学的な検査を行ない、障害児だと解ったら堕胎する。この考えと植松容疑者の決定的な違いはあるのか? 
8.小頭症の子供だと解ったら堕胎する。このことと植松容疑者の考えとに決定的な違いはあるのか。
9.今回、植松容疑者は経済的な損失しか考えていない。資本主義社会においてそれは頷ける。しかしこのことは支持できない。つまり経済以外の点からも人間の価値を考えていることになる。しかしその一方で年収に執拗なこだわりを見せるのはどうしてなのか?

歴史的な観点

10.江戸時代などは人間の間引きが行われていた。それは一家全体が養えなくなるという懸念からだったが、この口減らしとの決定的な違いは何なのか。両者とも経済的な損失を防ぐためだと言える。

 例からも解るように倫理観は人それぞれ違う。一方的な価値観で植松容疑者を倫理的に断罪することは、彼が障害者を殺した動機と同じ理屈に陥ってしまうかもしれないのだ。

*1 https://happylifestyle.com/13422
*2 就労継続支援A、就労継続支援B型、就労移行支援がある。
*3 障害者、農業の担い手に 「農福連携」進む
*4 ちなみに僕のいた小学校では休み時間に開放されていた。



T・S・エリオット『文芸批評論』(岩波書店)

文芸批評論 (岩波文庫)

概要

 『荒地』、『四つの四重奏』などで名高いノーベル文学賞作家、T・S・エリオット。彼は文芸評論に対しても印象批評に代わり、新批評という分野を開拓した。
 文学に対し、批評に対し、どう考えていたのだろうか。伝統、歴史的意識というキーワードをもとに読み解く文学論「伝統と個人の才能」、文芸批評について論じた「批評の機能」「批評の実験」「批評の限界」など10編を収録。

感覚的な論文

 わずか200ページ程度なのに読んでて疲れました。訳が古めかしいのもありますが、全体的に感覚的なんですよ。エリオットは詩人ですので、感覚的になるのも頷けるんですが、評論なのでもう少し論理的に書いて欲しいと。
 なおここで個性滅却の過程と伝統意識との関係をはっきりさせておかなければならない。芸術が科学の状態に近づくということはこの個性滅却の過程で言われるのだ。そこで私は白金の一片を酸素と無水亜硫酸に入った容器に入れたときに起こる反応を考えてもらいたい。この類推によって、示唆が得られると思う。
 確かに示唆は得られました。これが自然科学の研究者がどうして文芸評論を読みたがらないかという理由だと思うんです。だって関係ないですもん。
 注意して欲しいのは、このアナロジーが「詩」として書かれた文章なら僕は文句は言いません。詩はアナロジーの世界ですから、科学的な事実とは離れた言い回しがむしろ期待されます。
 科学にかぎらず、学問における比喩は気をつけなければならないと僕は思っています。比喩は本来、無関係のものを結びつけるのですから、メカニズムも踏まえて、全く同じメカニズムでおこる現象のみ使っていいと思います。

比喩の落とし穴

 例えば「被爆は散弾銃で撃たれるのは変わらない」というのは科学的事実に基づいた比喩になっています。散弾銃の弾を原子レベルにまで小さくすれば「被爆」という現象になるからです。もう一つ言っておくなら拳銃の弾では適切な比喩とは言えません。なぜなら拳銃の弾は撃っても細かな弾が体内に飛び散らないからです。
 もう一つの比喩として「卵を電子レンジに入れると爆弾になる」。これも科学的な事実に基づいた比喩になっています。密閉空間で温度が上がると体積が膨張し、耐え切れなくなって中が破裂する現象が「爆発」なのです。
 科学者はアナロジー思考に慎重ですが*1、エリオットが用いている比喩を見る限りと、無邪気に使ってると言わざるを得ません。化学的反応における触媒の作用と、その作家の個性が認められて文学史に名を残す経緯は全く違うのはいうまでもありません。たとえエリオットの感覚が似ていようと化学的なメカニズムが違う以上は比喩として使うのは危険だと考えています*2。
 もし読者が科学に教養のない人を想定しているとしても、この比喩は不適切です。比喩というのは未知のもの、自分の考えを解りやすく説明する意味があります*3ので、科学的に無知な人にこのような比喩を使っても逆効果です。
 そして詩は比喩の世界ですので、自分が使っている道具がどんな危険をはらんでいるのか自覚的になる必要があります。

早まった一般化

 この論文においては早まった一般化がなされています。しかも些細なところならまだ許せるのですが、エリオットの主張の中心となる部分ですので大問題です。
 シェイクスピアは(中略)歴史の精髄をプルタークから獲得した。だから詩人は過去についての意識を展開し、もしくは把握したうえ、生涯を通じてこの意識を絶えずひろげていかなければならないことをここで繰り返し強調しておこう。
 確かに、シェイクスピアはプルターク(プルタルコス)を下敷きにして『コリオレーナス』*4、そして『ジュリアス・シーザー』を書きました。しかし一人の例で一般化するのは余りにも乱暴すぎます。

論理の進め方を抜きにすれば

 エリオットの主張は、どんなに個性的な作品でも歴史の中に埋没するというものです。このことは極論であるにせよ、納得はできることでありますし、エリオットの時代は印象批評が主流だったことを踏まえると頷けます。
 印象批評というのは各人がとらえた印象をそのまま評論するという、読書感想文のようなものです。エリオットはその印象批評からの脱却を図ろうとしたんです。
 エリオットはロマン主義を批判し、印象批評に反対することから出発した。そのロマン主義の人たちはめいめいの個性が大事だと考えて、その表現につとめてきたけれども、実をいうと、個性にはそれほど価値がない。大切なのは過去から現在に続く文学の伝統を認め、自分もその大きな秩序の中で生きていることを感じる「歴史的感覚」である*4。
 こう言うとただ既存の文学作品を模倣すればいいという風にも聞こえますが、エリオットは「だが祖先から後世へと伝えるという伝統のただ一つの形式が、すぐ前の世代に属する人たちの残した成果をめくらめっぽうにさもなければ恐る恐るそのしきたりを守って追従することだとすれば、「伝統」はきっと力を失ってしまう」とも述べていて、精査して残さなければいけない、と言っているんですね。

『荒地』に見る伝統

 この価値観はエリオットの『荒地』*6からも窺えます。『荒地』は『神曲』や旧約聖書からの引用が随所に散りばめられている……らしいのですが、僕には解りません。
 またこの詩の形式自体、ロバート・ブラウニングが創りだした劇的独白という技法に基づいたものとなっています*7。普通、詩の〈語り手〉は詩人なのですが、ブラウニングは詩人以外を語り手にしました。例えば、ブラウニング「ポルフィーリアの恋人」という詩では絞殺する男を、「実験室」という詩では毒殺する女をそれぞれ主人公に据えています*8。そしてそれは、もちろんロバート・ブラウニング自身の体験ではありません。
 『荒地』でも語り手が神になる場面があり、これはもちろんエリオットではありません。このように代表作、『荒地』は伝統的な作品を踏まえているのですが、その思いを批評の形にしたのが『文芸批評論』だと言えそうです。
*1 科学者は常にアナロジーの誘惑と戦ってきた(ガストン・バシュラール『科学的精神の形成』平凡社)。
*2 ジャック・プーヴレス『アナロジーの罠』(新書館)
*3 「メタファーは、馴染みのない概念を馴染深い概念と関連させることで説明するために使うものであって、決して逆の状況では使わない」(アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン 『「知」の欺瞞』岩波書店より引用)
*4 小田島雄志「解説」(ウィリアム・シェイクスピア『コリオレーナス』白水社)
*5 矢本貞幹「解説」より引用(T・S・エリオット『文芸批評論』岩波書店)
*6 T・S・エリオット『荒地』(岩波書店)
*7 富士川義之「まえがき」(富士川義之[編]『ブラウニング詩集』岩波書店)
*8 富士川義之[編]『ブラウニング詩集』岩波書店



ウィリアム・シェイクスピア『コリオレーナス』(白水社)

コリオレーナス (白水Uブックス (31))

あらすじ

 時はローマ時代。民衆の不満は蓄積していた。パンが十分に行き渡らず貴族たちが独占していると市民たちは言うのである。そこで元老院議員、ケーアス・マーシャス・コリオレーナスを倒そうとしていた。彼はかつてローマを救った軍人でもあったが、確かにかつての功績を鼻にかけて傲慢な態度を市民たちにとっていた。一方で友人、メニーニアスは人望に富み、ローマ市民からは慕われていた。彼は何とかローマ市民を説得し、思い留まらせた。
 しかし、そんな中、コリオレーナスはローマ市民の神経を逆撫でする繰り返す。この暴動が現実のものとなるのを恐れた元老院は護民官としてシシニウスとブルータスを任命する。
 彼らは表立って市民をなだめているが、コリオレーナスを引きずり降ろそうと、影では市民たちを焚きつける。そのとき、敵対勢力であるヴォルサイ人が攻めてきて、コリオレーナスが奮戦の末、撃退。これに気をよくした彼の母親は執政官への出馬を促すが……。

第一印象

 やっぱりシェイクスピアは面白い。今でこそ堅苦しいイメージがありますが、ルネサンスの人々にしてみれば大衆娯楽だったので、面白くなきゃ客が入らない。

政治色

 それに加えて選挙の時期に読んだせいもあってか、政治家への皮肉が辛辣に描かれてるように感じました。例えば市民の台詞には、
「俺は執政官になりたい」って言うのです。「だが、昔からの慣例でおまえたちの推薦がないとなれない、だから推薦してくれ」って。「はい」と答えると、「推薦してくれてありがとう、かたじけない。もう用はない」だそうです。
 と評したものがあります。そして、大衆への辛辣な台詞もあります。
 執政官になろうとしますが、護民官の煽動した暴動に巻き込まれ、こう失言します。
衆愚の賛成、反対によらざればなにごとにおいても、決定をくだすことができぬありさまだ──これでは、必要な措置はなに一つとれず、その場しのぎにうろうろするのみだ。政策の実施が妨げられればなにごとも無策に終わるほかない
 確かに一面を突いているのですが、民意をないがしろにしたと判断されて、政治家生命を絶たれます。
 それで、ローマから追放され、ヴォルサイ人とローマを攻めるのですが、慌てたのが民衆。母親を説得役に立て、ようやくコリオレーナスはローマ人としてヴォルサイ人は和平を結びます。そしてそのときにコリオレーナスと一緒にローマを攻めた共謀者が「〔民衆は〕性こりもない阿呆どもだ、自分の子供を殺した男に、喉も避けよばかりに万歳をとなえていやがる」と言うのです。
 こういった民衆への皮肉がある作品は、シェイクスピア劇にはあまりありません。生前に上演されなかったらしいのですが、この皮肉が原因かもしれません。

人物紹介

 僕は創作活動もしているのですが、シェイクスピアの構成力は実に巧みです。最初で演劇の大雑把な人間関係をすべて出しながらも、どういうローマ市民たちが状況に置かれているかが描かれているのです。
 本当に序盤、市民1の「おれが復讐しろというのは血に飢えているからではない。パンに飢えているからだ」という台詞で市民の生活が苦しいことを出しています。その次の会話が実に多くの情報をさり気なく観客に提示しているのです。
 市民2 やっつけようとしているのはケーアス・マーシャスだけか?
 市民1 まずあいつだ、あいつこそ民衆の生き血をすする犬だ。
 市民2 だがあいつの国家にたいする功績を考えているのか?
 この3つの台詞からはかなりの情報が得られます。まず、市民たちは市民たちは貧困にあえいでいること、ケーアス・マーシャスを憎んでいること、その一方でケーアス・マーシャスは国家に対して功績をなしとげたこと(ここでは軍を追い払ったとはまだ書いていません)、市民の間でも賛否が解れていること。
 そしてもう少し演劇が進むと「実はおふくろを喜ばせたい」と母親に依存していることが明かされます。そしてこれが後の伏線につながってくるのです。
 一通りコリオレーナスの悪口を言い終わったところで、メニーニアスが登場します。そしてローマ市民はこう話し合うのです。
 市民2 メニーニアス・アグリッパだ。いつも民衆を愛してくれるかただ
 市民1 あれは誠実な人だ、ほかの連中もそうであってくれたらいいんだが!
 この対比でケーアス・マーシャスとメニーニアス、二人の性格の違いがなされているのです。こういう本当に基本的なことはできるだけ最初に出しておくことが望ましいことは解っています。しかもさり気なく会話などに忍ばせくのがべすと。
 それは解っていますが、いざ書いてみると本当に難しいところがあります。

陰謀

 さて、次の場面で語られるのは、ヴォルサイ人が攻めこむ策略を練っているところです。ここでローマには内乱の火種だけでなく、外にまで敵を抱えているとしり、観客は不安になるんです。このサスペンスでお馴染みの手法は、ちょっとしたネット広告にも使われています。
 例えば……、不況の不安を煽り、独立を促す、などの手法はよく見かけますよね。また医学番組でもこの手法はよく使われています。まず病の前兆となる症状を出しておいて、診断名、予後の経過などの番組構成が一般的です。

ルネサンスとは

 何を当たり前のことを、と思われるかもしれませんが、実はルネサンス以前の演劇は違いました。キリストの一生を描いたり、新約聖書の教えを伝えたりという宗教的な演劇だったのです*1。目的も娯楽のためではなく、聖書の教えを民衆に伝えるためのもの*2。僕も学生時代にビデオで典礼劇の様子を字幕付きで見ましたが、起承転結ががないんです。
 この物語構成そのものがギリシャ・ローマ時代に培われたものでした。いったん、ゲルマン民族の大移動でその文化は途絶えてしまうんです。しかしギリシャ時代の文化アラビアに保存されていました。主に自然哲学、神学が主だったのですが、ギリシャ・ローマ文化が入ってきました。
 そのため、ルネサンス期にギリシャ・ローマ文化を見直そうという動きが強まったのです。したがって題材も『コリオレーナス』含め、代表作『ジュリアス・シーザー』、『アントニーとクレオパトラ』などローマを扱ったものが多いんです。

完全オリジナルではない

 無から無は生まれず、と言いますが、「シェイクスピアの全戯曲のほとんどは、既存の物語やエピソード、詩などをベースに翻案したもので」*3す。この『コリオレーナス』は歴史家プルタルコスの『対比列伝』です。しかし、もちろん伝記なので、いまいち盛り上がりに欠ける。そこでシェイクスピアはプルタルコスの作品を下敷きにしながら、物語を脚色したのです。
 つまるところ、シェイクスピアは、そして娯楽作品に求められているのは、物語のオリジナリティよりも面白く見せる技術なのかもしれません。

マクベスとの比較

 さて、僕が感じたのはコリオレーナスとマクベスは似ているということです。マクベスのあらすじは、三人の魔女にたぶらかされて、マクベスは反乱を起こして王位を乗っ取りますが、また反乱を起こされて殺されるというもの。
 反乱を起こして殺されるという側面だけなら、偶然とも言えます。しかしマクベスもマクベス夫人にそそのかされ、反乱を起こすのです。
 共通した要素を抜き出すなら
1.両方とも女性(家族)にそそのかされている
2.両方とも初めは乗り気ではない
3.両方とも破滅的な死を遂げる。
 3はコリオレーナスやマクベスに限った話ではありません。ハムレットは全員が壮絶な死を遂げるので、シェイクスピア悲劇に共通する要素とも言えそうですが、マクベスとコリオレーナスの人物像があまりに似通っていると思いました。
 
*1 Wikipedia「典礼劇」
*2 同上
*3 Wikipedia「ロミオとジュリエット」



富士川義之[編]『ブラウニング詩集』(岩波書店)

対訳 ブラウニング詩集―イギリス詩人選〈6〉 (岩波文庫)

この本を読んだ理由

 どういうわけか、詩を読みたくなりました。文学の勉強をしたい、とか(もちろんこの思いはいつもあるんですが)、そういう高尚な思いは余りありません。
 もう一つ、南米文学で有名なボルヘスが講演録『詩という仕事について』で引用されていたので興味を持っていたんです。あの講演録の中には他にも、たくさんの詩や小説が引用されているのですが、ブラウニングを手に取ったのは特に理由はありません。
 後のエリオットに受け継がれる劇的独白という形式を確立したらしいんですが、これも知りませんでした。そもそもブラウニング自体、名前を知ってるだけの詩人だったのです。

詩とはなんだろう

 まずそもそも詩とは何だろうということから書かなければいけないと思います。僕が思うに詩的表現とは比喩によるイメージの記述です。例えば、「失われた恋人」は失恋を歌った詩なんですが、
「蔦の新芽が羊毛のようだ/ぼくは今日それに気がついた/あと一日ですっかり開いて/──赤が灰色になるんだね」というくだりがあります。
 最初の「蔦の新芽が羊毛のようだ」という文章から、僕は羊毛の温かみをイメージしてしまい、失恋とはすぐに結びつきませんでした。しかし、ブラウニングが表現したかったのは、むしろ羊毛の暗い色だったのだと「赤が灰色になるんだね」というくだりを見て気付きました。
 もちろん染めれば美しい色に仕上がりますが、刈って数日置くと黄ばんでしまうのです。しかし黄色(Yellow tint)だと鮮やかなイメージがつきまとうように僕は思います。
 また恋愛をしている最中の色は新芽の緑、赤などが鮮やかな色合いので、この場面は彩度の低い色が望ましい。つまり失恋を灰色という色で現しているのです。そしてこの比喩的な表現こそが詩的表現だと僕は思っています。

夜のあいびき

 さて、「失われた恋人」の他にも視覚表現が美しい詩があります。「夜のあいびき」という詩は「灰色の海、黒々と闇に沈む長い陸地/大きく低くかかる 黄色い半月」という暗い表現をはじめ全体として暗い配色です。そこへ「青白く光マッチの炎(blue spurt of a lighted match)」と書かれ、ここだけが明るい小さな灯火があるような印象を受けます。
 そして、このことは〈語り手〉の心理状態とも対応しています。「歓喜と恐れに 二人の触れ合う/心臓の鼓動よりもかすかな愛の囁き!」ともあるように恐らくは道ならぬ恋でしょう。最初の描写が冒険を思わせるのは「性的な暗示」だけではなく、そういった冒険心なども暗示しているのかもしれません。

クリスティーナ

 さて複雑な比喩が使われている詩がクリスティーナ。悪女、クリスティーナに取り込まれる男たちを描いた詩なのですが、ブラウニングは彼女をこう表現しています。
 “ need ti strew the bleakness
Of some lone shore with its pearl-seed,
That the sea feels
 寂しいどこかの荒磯に真珠の種を撒き散らそうと海が思っている(富士川義之訳)
 このことについて富士川さんは「女の心を「海」に、その魅力を「真珠の種」にたとえ、男たちのわびしい心を「荒磯」になぞらえ、多くの男たちに媚びる心を表している」と解説しています。
 これに加え僕は音も海をイメージさせると思います。僕は英語の母語話者でないので、何とも言えないのですが、sとthの音が多く使われているような印象を受けます。この「ス」・「ズ」の音は海の波を連想させるのです。

恋の詩

 さて全体として恋愛を歌った詩が多いのですが、恋愛讃歌ではありません。嫉妬や欲望が渦巻いているのです。例えば、前述の「クリスティーナ」という詩もそうですが、「ポルフィーリアの恋人」は恋愛対象者を「一本の長い金色〔有沢注:の髪〕の紐に束ね、それを/ぐるぐると三重に女の首に巻きつけて/絞め殺した」挙句、「それでも神からは一言も咎められることはなかった」と言い放つような詩です。
 原文は「And yet God has not said a word!」なので、直訳すると「それから、まだ神は一言も何も言っていない」になるので、絞殺した咎めの言葉に限定されていません。
 他に「ぼくから逃げるだって?/絶対にできないことさ──/愛する女よ(中略)恋するぼくと嫌がる君がいる限り」といったどう見てもストーカーとしか思えない「愛における人生」などが収録されています。
 実験室という詩も恋敵の毒殺を企む女性の詩です。
 「あたしはいま、ガラスの防護マスクをしっかりとはめて、/かすかな煙が白く渦巻きながらのぼってゆくのを眺めている。この悪魔の仕事場であなたが仕事に励んでいるとき──ねえ、どれがあの女の命を奪う毒薬かしら?」という強烈な書き出しから始まるこの詩は、嫉妬に狂った女の詩です。怖いよー。

劇的独白について

 ブラウニングが確立した技法に劇的独白というものがあります。これはT.S.エリオットなどのモダニズムに受け継がれるのですが、劇的独白という手法はどういったものか調べてみました。
 それまでは詩人が〈語り手〉となり、詩人の心情を描いていたと解釈されていました。しかし、劇的独白ではまるで演劇の登場人物であるかのように詩の〈語り手〉が振る舞うのです。
 例えば「ポルフィーリアの恋人」と「先の公爵夫人」が典型例ですが、「ポルフィーリアの恋人」では絞殺した男性に、「先の公爵夫人」では絵描きの視点から詩を読んでいるのです。



エラリイ・クイーン『ガラスの村』(早川書房)

ガラスの村 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-8)

あらすじ

 わずか三十六人の寒村、〈シンの辻〉で起きた殺人事件。しかも殺されたのは村の絵を描いて売上を村に寄付している画家、ファニー・アダムスだった。たまたま通りがかった浮浪者で移民のコワルチックが容疑者として浮上する。
 彼は金を盗んだことは認めたものの、殺人は否認した。そればかりか、窃盗罪を見逃す代わりに薪割りを頼まれたと供述した。独立記念日の七月である。冬ならいざしらず、真夏にそんなことを頼むとは考えにくい。疑いながらもシン判事たちは納屋を調べる。しかし、そこには作ったはずの薪はなかった。
 村民が集団ヒステリーにかかったようにコワルチックの死刑を訴えるが……。民主主義とは何か、閉鎖的な村で起こる殺人事件を通して訴えた作品。

エラリイ・クイーンの隠れた名作

 高校生の頃、一度読んだきりで放置してましたが、そのころは『エジプト十字架の秘密』、『オランダ靴の秘密』、『ギリシャ棺の秘密』の方が面白いと感じていました。しかし再読してみて、面白いと感じました。隠れた傑作だと。
 というのも民主主義の問題を暴いているんですよ。本格推理小説の骨格を活かしながら。どういうことかというと、陪審員はほとんどが全員、移民のコワルチックが犯人だと決めつけているんです。もちろん、状況的にはかなり不利な立場ですが、出てくるところを見たという目撃証言だけです。アメリカ独立記念日の翌日というのはコワルチックに不利な状況を作るためだけではありません。民主主義を祝う翌日に魔女裁判のような事件が起きたという皮肉を現しているのです。
 この村民たちはこういった状況証拠にも増して、コワルチックがポーランド移民だという偏見に基いて犯人だと決めているのです。この作品が発表された1954年には、すでにポーランド人民共和国という社会主義国家でした。
 その時代背景は以下の会話からも窺えます。
「こいつ〔=コワルチック〕はアカのスパイだぜ」トミー・ヒーマスがにやりと笑った。
「彼は何といっているんですか? ええ、シンさん」ジョエル・ハケットが尋ねた。
「どうやら」とジョニーは、「祈っているらしい」
「それじゃ彼はアカじゃない」エディー・バングマンは、「やつらは祈りはやらないんだ」
「そうだ」デイブ・ヒーマスが、「共産主義者のやつらは神を信じないんだ」
「信じるやつもいるぞ」ドレイクリー・スコットが不意に口をだして、「ロシアには教会があるんだぜ」
(中略)
「あれはアカの宣伝だぞ」
 このやりとりから解説でも指摘しているように、マッカーシズムの影響が見られることは間違いありません。またこの作品の批判はマッカーシズムだけではありません。ジョニー・シンは第二次大戦と朝鮮戦争で大量死を経験し、それが原因で厭世的になってしまったというキャラクター造形です。

ガラスの村

 さて、このガラスの村というタイトルについて。もちろんこのガラスの村はシンの辻の透明性がある経済状況の比喩でしょう。しかしこのタイトルに相反して、裁判の方法は極めて不透明です。いくら公平な裁判を行うためだとはいえ、弁護士、検察、裁判長、そして陪審員の一人が結託しているんですから。
 また不透明といえば、結論ありきの魔女裁判も不透明であるように感じました。

広島の原爆投下についても

 エラリイ・クイーンは広島の原爆投下についてジョニー・シンの口を通して語っています。「地獄とはまさにこのことです。(中略)ダンテの神曲に出てくるどの場面も、この地獄から百万マイルもほど遠いものです」とす。
 この辺りは、多分エラリイ・クイーンが親日家だったということもあるのでしょう。現に『ニッポン樫鳥の謎』*1という作品を書いていて、そこには親日らしい記述もあります。この原題が「Japanese Fan Mystery」だったという証拠はないのですが、作品に日本の文化を取り入れていることからも解るように親日家です*2。

クイーンが登場しない理由

 この作品には探偵エラリイ・クイーンが登場しません。なぜ探偵エラリイ・クイーンではなくジョニー・シンという探偵にしたかというと、探偵エラリイ・クイーンの人物設定はあまりにもこの問題を語るには不釣り合いだからです。
 もう一つにはジョニー・シンの戦争体験というバックグラウンドが欲しかったというのもあるかもしれません。しかし、それはサブキャラにすればいいことです。
 探偵エラリイ・クイーンは理知的な探偵で、人間味に欠けます。特に『ローマ帽子の謎』*3などの初期作品については、現場を遊園地か何かと勘違いしている節があります。したがってこのような社会性が強い作品に登場させると、浮いてしまうんです。
 「人間とはリズムもなければ理性もない混沌だ。彼はこの微妙に平衡のとれた世の中にあって、暴れ、自己分裂を起こして、自らを破滅させるにすぎない狂った野獣にすぎないのだ」という独白も理性信奉主義の探偵エラリイ・クイーンではなく、退役軍人のジョニーシンという人物が行なうことで初めて意味を持つものだと思うんですよね。

*1 エラリー・クイーン『ニッポン樫鳥の謎』(東京創元社)。
*2 他にも親日家だと示す証拠として二点が挙げられる。エラリー・クイーンは日本の作品を英訳して、アメリカに紹介していること、1977年に来日していることである。
*3 エラリイ・クイーン『ローマ帽子の秘密』(早川書房)



ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ『ワーグナーとニーチェ』(白水社)

ワーグナーとニーチェ

 ニーチェは若かりし頃、音楽家を目指して、13歳〜20歳まで作曲していた。例えば1871年に書かれた「断片自体」。

 これは若かった頃にありがちな一時的な興味ではない。音楽はニーチェの思想において重視されることとなる。特に処女論文『悲劇の誕生』においてワーグナーを絶賛。当時はワーグナーを心酔していた。その後も『バイロイトにおけるリヒャルト・ワーグナー』などの論文を次々と書いている。
 ワーグナーとニーチェは家族ぐるみで親交があったものの、やがて決別。この著作はワーグナーとニーチェの出会い、そして決別の記録である。

はじめに

 ニーチェの研究書として引用されていたので、興味を持って読みました。フィッシャー=ディースカウは声楽家で、ニーチェの作曲活動とワーグナーとの関係について研究しています。こういう研究の目的が最初に書いてあると解りやすい。
 ニーチェの創作活動の一面である作曲については、これまで彼の読者に特に意識されることはほとんどなかったが(中略)この哲学者の作曲家としての野望と密接に関係があると考えている。
 しかし、フィッシャー=ディースカウ自身はニーチェというよりもワーグナーに向いているように感じました。ワーグナーの誕生と最期は書かれているのに、ニーチェについては書かれていないからです。
 また訳注でも指摘されていますが、フィッシャー=ディースカウ自身の勘違いが多く見られます。
『悲劇の誕生』におけるワーグナー評価 『悲劇の誕生』*1はギリシャ悲劇の研究書。アイスキュロス、エウリピデス、ソフォクレスのうち、エウリピデスが悲劇を終わらせ、知識を重視する「悲劇」を書いたと言う主張がなされています。
 まずニーチェは情動と理性に分けて、情動をディオニソス、理性をアポロンに象徴させています。そしてエウリピデス以前は情動と理性を描いていました。そして合唱部(つまり音楽)に感情、情動が現れ、脚本部に理性が表れていると考えたのです。
われわれはギリシア悲劇を、たえず新たにアポロ的形象世界において爆発するディオニュソス的合唱として理解しなければならない。だから、悲劇にいくつもに分けられて編みこまれている合唱の部分こそ、いわゆる対話全体のいわば母胎なのだ。ということは、合唱部こそ、舞台の世界全体の母胎であり、本来の劇の母胎なのだ。
 しかしニーチェいわくエウリピデスの演劇では、劇の結末を神に語らせています。この物語の結末を知る〈語り手〉の登場によって、ギリシャ悲劇は崩壊したと指摘しています。そしてその「知る」という行為を重視する姿勢はソクラテスに受け継がれている、と考えているのです。
ドイツ精神のディオニュソス的根底から、一つの勢力が立ちあらわれてきたのだ。それはソクラテス的文化の根本条件とはなんの共通点もない勢力だ。そういう根本条件からは説明もできなければ弁護もできない勢力、むしろソクラテス的文化からは、恐ろしいくらい不可解なもの、威たけだかに敵意を持ったものと感ぜられるような勢力が頭をもたげてきている。つまりドイツ音楽、とりわけバッハからベートーベンへ、ベートーベンからワーグナーへの太陽の歩みにも似た力強い動きをいうのである。
 つまりワーグナーがギリシャ悲劇をまた再生させたと。僕はただワーグナーの楽曲が好きすぎて、ギリシャ悲劇を持ち出しただけのように思えてしまうのですが。

ワーグナー音楽の第一印象

 ニーチェの兄弟の中でもワーグナーの音楽は賛否両論渦巻いていました。例えばニーチェの兄は「これを聴けば誰でも夢中にならずにはいられない」と妹のエリザベートに言っていますが、母親は非難しています。ニーチェはワーグナーの音楽が理解されるのは難しいだろうと予想しています。
 しかしバイエルンの国王の即位でワーグナーに転機が訪れます。ワーグナーの音楽に心酔していたバイエルン国王に招待されるのです。側近たちはワーグナーの招待について「王侯の気まぐれだとうつったのだろう」とフィッシャー=ディースカウは書いています。
 このころのニーチェは古典文献学の専門家として、新聞社から記事の執筆依頼がきていたのです。また古典文学の講演会などにも呼ばれています。
 さてある日の講演を終えて家に戻ってみると、リヒャルト・ワーグナーを紹介する旨を記した手紙が置かれていました。ワーグナーに心酔していたニーチェは大興奮。こうしてニーチェはワーグナーと知り合うことになったのです。

決裂

 しかし、次第にワーグナーに対して幻滅していきます。ニーチェはギリシャやドイツ神話の復権をワーグナーの音楽に見出していたのですが、キリスト教的──しかも「変質したキリスト教的」──な音楽を作っていくことになります。
 しかしフィッシャー=ディースカウは、もっと早い時期から幻滅が起こっていたのではないかと指摘しています。特に劇場と歌手についての考え方は、ワーグナーに熱狂していた時代から早くも食い違っていたと言います。
 ニーチェは歌手について、「音楽の度を越して歌うドラマチックな歌手を求めていることを不自然と呼ん」でいました。では、なぜ早く気が付かなかったのでしょうか。フィッシャー=ディースカウはこの点を下記のように分析しています。ワーグナーの音楽を「芝居がかった仰々しさ」と認めながらも、それを超える何かがあると信じていたのです。

ロマン主義

 ニーチェはすでに見たように理性よりも情動や感情を重んじてきました。したがってロマン主義と極めて親和性が高かったのです。実際、フィッシャー=ディースカウによると、ニーチェの音楽にはロマン派音楽*2の最盛期に活躍したシューマンに惹かれています。
 そして彼の影響をうけてニーチェはシャミッソーとバイロンの詩に曲を付けています。この二人はロマン派文学の代表とも言える詩人であり、これまたロマン主義に強く惹かれていたことが窺えます。
 私はバイロンのマンフレッドと深くつながっているに違いない。私はマンフレッドのこのすべての深淵を私自身のなかに見出した。
 と特にバイロンに対しては思い入れが深かったようで、後に『この人を見よ』の中で回想しています。
 ワーグナーは、『ニーベルングの指輪』、『ワルキューレの騎行』などのドイツ神話をモチーフにいくつもの曲を書いています。こういったモチーフの選定もニーチェの価値観に合致していたのでしょう。
 ちなみに僕はワルキューレの騎行が一番好きです。

*1 ニーチェ『悲劇の誕生』(岩波書店)。意外なのは『悲劇の誕生』においてカントの評価が高いことである。カントこそ主知主義の権化であり、ニーチェにとっては酷評すべき哲学者だと僕は思う。
*2 一口にロマン派といっても音楽のロマン派と文学のロマン派とでは意味合いが異なってくる。特にロマン派音楽は1600年〜1900年の間続いているが、文学のロマン派はゲーテ、シラーの後から写実主義の誕生までと非常に短い。従って、ロマン派音楽、ロマン派文学、ロマン主義と表記し、区別した。




夏目漱石『倫敦塔・幻影の盾』(新潮社)

倫敦塔・幻影の盾 (新潮文庫)

あらすじ

 「英国の歴史を煎じ詰めた」ような倫敦塔。その倫敦塔を見物しているうちに昔の僧正、貴族などに思いを馳せる。そしてその想像はリアリティを持って「余」の前に立ち現われてくるのだった。
 漱石に留学している時に倫敦塔を訪れ、その時の経験をもとに書かれた幻想小説、「倫敦塔」。同じく幻想的な作風の「幻影の盾」などを収録。

夏目漱石といえば

 『行人』『こころ』などリアリズムが多いんですが*1、この「倫敦塔」や「幻影の盾」などは幻想的な作品です。『夢十夜』は「昨日こんな夢を見た」という書き出しからも解るように、夢を綴っていくという典型的なシュールレアリズムですし、『吾輩は猫である』も視点が猫になっただけで起きていることは基本的に*2現実的な話です。

倫敦塔

 倫敦塔は語り手である「余」が倫敦塔を見ているうちに過去へとある種のタイムスリップをする話です。これは明言されていないのですが、実際にタイムスリップしたわけではなく、語り手の想像だと思っています。その理由は「首を少し傾けて考えて居る所を想像して見た」とあるように想像だと明示されているからです。

歴史的建造物

 例えば歴史的建造物を見て過去に思いを馳せた経験は多かれ少なかれ誰にもあるでしょうし、思い出深い場所を通れば昔のことを思い出すでしょう。また、冒頭部で
 二年の留学中只一度倫敦塔を見物したことがある。その後再び行こうと思った日もあったが止めにした。人から誘われたこともあるが断った。一度で見た記憶を二返目に打壊されるのは惜い、三度目に拭い去るのは尤も残念だ。「塔」の見物は一度に限ると思う。
 と自分の意志で一回しか見ていないことが語られています。
 これは歴史が一回しか繰り返さないということと対応していると思います。歴史は繰り返す、と言いますが、似た事件は何度でも起こります。しかし厳密な意味において歴史は繰り返しえません。なぜなら、例えば2016年6月18日は一度きりであり、このブログを書いている時間も一度きりです。
 同様に「大僧正クランマー」やワイアットの生も一度きりです。塔の見物が一度きりだということと歴史の一回性とは対応しているように思います。

無計画性

 さてもう一つの論点は〈語り手〉が行きも帰りも計画を立てずに行動しているということです。
 しかも「いつの間にやら雨になって居た」とあるように、これもまた予想外の出来事です。また、雨が降る場合に備えて傘を持ってくるという発想も計画的・合理主義的な考え方です。しかし〈語り手〉は合理的に行動していません。合理主義的な行動を取らなかったことで、見えなかったものが見えてくるのです。つまり「倫敦塔」で語り手が合理的な行動を取らないことは、近代合理主義の批判とも受け取れるのです*3。
 さてそう言った目で見てみると、塔の見物を一回しかしなかったことについてもう一つの解釈が成り立ちます。忘れるなら何度でも見ればいいという発想は合理的な考えですが、〈語り手〉はその合理性ゆえに断ったのです。

幻影の盾

 「幻影の盾」はアーサー王伝説を下敷きにした短編。時代設定は「只アーサー大王の御代とのみ言い伝えたる世」とあるように古代イングランド。僕の読んだ限り、漱石は近代を舞台にした作品が多いので、珍しいと思います。
 しかし美文体の文章は読みにくい上に幻想性が強く、どこからどこまでが現実でどこからどこまでが幻なのかが解りにくい。クララとは一体何者なのか、池の畔は幻想なのか、現実なのか? 一応、あらすじとしては何となく理解できたのですが、僕の頭では解りませんでした。
 このような作品を書いたのは、イギリスへの留学経験が大きいように思います。しかし、晩年、『私の個人主義』という講演で述懐しているように、初めはただただ西欧文化を模倣することが国家の課題だったのです。そしてそれは漱石個人でも同じことが言えたのだと思います。
 そしてその「模倣」の現れが「幻影の盾」であるように感じました。


*1 もちろん『夢十夜』や『吾輩は猫である』などの非現実的な作品もある
*2 基本的に、というのは猫同士が会話する場面がある。
*3 計画を立てずに行動した結果、倫敦塔で非日常を経験する。この物語の類型は他にも萩原朔太郎『猫町』、佐藤春夫『西班牙犬の家』などが挙げられる。




高木彬光『破戒裁判』(角川書店)

破戒裁判 (角川文庫 緑 338-5)

あらすじ

 殺人、死体遺棄で起訴された村田は突然、裁判長にこう叫んだ。「裁判長! 私は無実です。少なくとも二つの殺人については無実の罪だと、天地神明に誓って断言いたします」と。
 若き敏腕弁護士、百谷泉一郎が検察と激戦を繰り広げるが、村田の有罪は確定したかのように見えた。しかし最後の最後で意外な展開を見せ始める。百谷弁護士は果たして被告の無罪を勝ち取れるのか!

タイトルについて

 島崎藤村の『破戒』からきていて、本書でも藤村の詩が出てきます。しかし、このタイトルは推理小説としてどうなんだろう、と思います。というのもタイトルの時点で事件の核心部分に触れているのです。もちろん、部落差別を受けていたということがタイトルを見て推察できたとしても、高木彬光のテーマ性・社会性は変わりません。しかし推理小説としての意外性は損なわれる気がするのです。もしかしたら当時の読者は破戒といえば部落差別というのは一般常識だったのかもしれませんが、後半部で明かされることを考慮すると高木彬光自身は核心部分として描きたかったのでしょう。
 ただ『破戒』からイメージされるものは、部落差別だけではなく、主人公である丑松の立身出世欲です。「それは、私がこの小説の主人公──丑松と同じ人種だからであります」と『破戒裁判』でもそれはしっかりと台詞で出てきます。

裁判について

 高木彬光は『破戒裁判』の中で「裁判を劇にたとえるなら、法廷関係者は、すべて俳優といってもいいだろう」とこう評しています。これはもちろん高木彬光自身が足繁く傍聴に通った印象にすぎないのかもしれません。
 しかし、被告人が新劇の俳優で、しかも被害者が劇団員だということを考えると、この比喩も生きてきます。つまり裁判という舞台演劇でも見ているかのように思えてくるのです。もちろん一般人を装っている(もなにも新平民となって部落差別はなくなったことになっている)という点から見れば村田は「演技」をして、俳優という職業とも比喩としてつながりが見えてきます。
 この小説の特徴は最初から最後まで法廷から場面は移らないことです。また〈語り手〉は百谷でも明子夫人でもなく、全然関係ない新聞記者が傍聴席から眺めている視点で描かれています。この視点は劇場の観客席から眺める視点とよく似ていませんか?
 また〈語り手〉が新聞記者というマスコミに注目すると面白いことが言えると思います。読者は裁判を多くの場合、新聞、あるいはテレビなどを介して知ります。ところが〈語り手〉は物語を恣意的に編集できます。建前上、あくまでも建前上は新平民と名を変え、部落差別はなくなったことになりました。現に部落差別の話題は伏線こそいくつかありますが、直接的な明言は避けているのです。ところがそれは〈語り手〉による編集行為だということが明らかになり、村田は部落差別を受けてきたという事実が明らかになります。
 この語らないという編集こそ、政府、あるいは村田の態度であるように僕は思います。



高木彬光『人蟻』(角川書店)

人蟻

あらすじ

 酒場での帰り、弁護士の百谷泉一郎は酔っ払いに「私は人を殺した男を知っている」と声を掛けられる。しかし泉一郎は酔っ払いの戯言だと考え、あしらった。
 数日後、立ち退きの立会人として同席した和歌山で男の死体が上がる。彼の名は井上力造。果たして酔っ払いの男と同じ名だった。百谷が調査をしていくと、八光製糖という会社の不正が浮かび上がっていく……。

僕の苦手な小説

 経済犯罪や企業の不正が絡んでくるんですが、実は僕の苦手な小説なんですね。というのも僕は社会に関してあまり実感が沸かないので。理由は簡単で、実際に見聞きしていないから。
 というわけで不親切な読者だなぁと思いながら感想文を書きます。

本格と社会派の

 企業や政界とも結びつく大掛かりな犯罪。高木彬光は神津恭介という探偵で長年書いてきたのですが、これは高木彬光がそのシリーズに一回終止符を打ち、新しく書き始めた作品です。社会派としての要素も、本格派としての要素も見られますが、解説で述べられているようにまだ試行錯誤の途中であり、苦労して書いたんだろうな、と伝わってくる作品でした。
 というのも無理に融合させたと思われる節が多々あるんです。例えば、冒頭の酔っ払いに話しかけられるところ、
 とにかく重大な事件です。わたくし、一個人の問題ではなくて、重大な、社会正義にかかわること、殺人までがからんでくる問題だとお考えください。
 この台詞は典型的な本格派の台詞であり、この男と同じ名前の死体が上がるところまでは典型的な本格派。また角砂糖が握られているところも典型的な本格派なのですが、その後、急にドミニカ砂糖事件の話題に。
 このドミニカ糖事件は実際にあり、昭和33年〜昭和34年に国会の決算委員会でも取り上げられています*1。この小説が連載されたのは昭和33年〜昭和34年に掛けてですので、当時の読者は時事問題と絡めながら読めたことでしょう。しかし現代の読者には今一つピンときません。
 だからなのか、この場面だけ浮いているように感じました。

登場人物の天才性

 さらには多くの本格推理小説*2では登場人物が天才であることを強調する描写が見られます。例えば高木彬光の処女作『刺青殺人事件』*3は神津京介をこのように描写しています。
 彼は弱冠一九歳ですでに、英、独、仏、露、ギリシア、ラテンの六カ国語を話し分けた。一高在学中に書き上げた整数論の大論文(中略)はドイツの学術雑誌(中略)に掲載されそれまで金科玉条のように尊ばれていたグルンワルトの定理を根本から覆すものとして……
 以降、一ページにわたって神津恭介の天才ぶりを語っています。
 さて、このような描写は多かれ少なかれ推理小説では定番になっています。おそらく人蟻ではそのような批判する意図が含まれていたのでしょう。百谷弁護士は神津恭介に比べると、正義感が強いもののどこにでもいる普通の弁護士として描かれています。
 しかし、この小説にも登場人物の天才ぶりを賞賛するくだりがあります。それは明子がいとこについて説明する場面。
「政治的な面にかけては特に〔鋭い人なのです〕。たとえば、岸首相がなぜ英国訪問にこだわっているか、そんなことをずばりと説明できるのはあの人のほかにはないでしょう」
 という台詞があり、本格推理小説へのこだわりが見受けられます。
経済学  さて解説でも指摘されていますが、これは経済犯罪という面で後の『白昼の死角』にもつながる重要なテーマです。『白昼の死角』は実際に起きた経済犯罪をモデルにしています。
 これもドミニカ糖事件の話題が出てくるなど、経済犯罪についての興味は『人蟻』からも見てとれます。しかしその興味の片鱗はすでに『刺青殺人事件』からも伺えます。神津恭介が犯罪経済学、という言葉を作り、犯罪を企業経営に例えているのです。
 このように高木彬光は処女作の段階から経済犯罪にも強い興味を抱いていたと思うのです。
*1 ドミニカ糖事件(http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50769860.html)
*2 クロフツなどを除く。
*3 高木彬光『刺青殺人事件』(光文社)



パルヴェーズ・フッドボーイ『イスラームと科学』(勁草書房)

イスラームと科学

目的とは合わなかったけれど

 僕の目的はイブン・シーナーやイブン・ルシュドなどの八世紀〜一三世紀までのアラビア科学・数学を知りたかったんです。しかし、この本は現在、イスラム圏でどんな科学教育が行なわれているか、パキスタンを例にとって批判的に解説したものでした。
 確かにパルヴェーズ・フッドボーイさんの問題意識は切実に伝わってくる上に、話が具体的で解りやすかったです。しかしいかんせん、僕の興味と違っていただけに余り頭に入りませんでした。

ルネサンスがもたらしたもの

 ギリシャ、ローマの科学は一回、亡命者の手でアラビアに渡ります。それを十字軍でヨーロッパ人は再発見し、ルネサンスに至るというのがルネサンスの科学史的な理解だと思います。現にガリレオ、ニュートンなどの自然哲学者から定数的にものごとを捉え、予測できるようになったのです。そしてこの方法は自然現象だけでなく、社会現象にまで伝播します

帝国主義

 ルネサンスがヨーロッパ世界にもたらしたものは科学だけではありません。「中世の封建制の崩壊、広いスケールでの資本主義の出現(中略)はヨーロッパに近代社会の産声を上げさせた」のです。
 このようにして西欧列強は植民地を世界各地に築きあげるのですが、イスラーム教徒は完全に無防備でした。たちまち支配され、今まで栄華を極めていたアラブ諸国の科学はたちまちヨーロッパ諸国に追い抜かれることになるのです。

科学とは何か

 科学とは何かというのは科学哲学の大きなテーマなのですが、ポパーは反証可能性を唱えます*1。反論するのに合理的な根拠を示せるのかという点が一つの焦点となってくるのです。例えば転んだのは透明人間のせいだと言っても、透明人間は目に見えない限り証明できないわけです。
 実は熱力学の観点からボルツマンが原子を唱えたときには始めはエルンスト・マッハに否定されました*2。しかし、最終的にアインシュタインが花粉の粒子を観測する中で、原子という存在を仮定すれば合理的に説明ができる考えます*3。これが現在の量子力学に結びつくのですが、このように科学とは反証可能性の有無で区別されるのです。

パキスタンにおける科学教育の現状

 本来、科学とはそういう観測データや論理的思考のもとで積み上げられていくものです。しかし、パキスタンにおいて科学教育は充分なされているとは言いがたいのが現実です。
 パルヴェーズ・フッドボーイさんは様々な事例を紹介していますが、我々にとっては「付章 彼らはそれをイスラーム科学と呼ぶ」の一例で事足りるかと思います。「祈りによってもたらされる神の恩恵の量」というグラフは大真面目に人数と神の恩恵が議論されています。
 しかも物理学者たちによって。その理由についてパルヴェーズ・フッドボーイさんは次のように語っています。
 次にこの奇妙な科学の提唱者たちが伝統的ウラマー〔イスラムの教養人〕ではなく、科学分野でのハイレベルな学位保持者であることに注目しよう。西側諸国で学んだ人がほとんどだ。ただし彼らは名誉となるような専門的業績はほとんど誰も挙げていない。イスラーム的科学は難解な科学の挑戦からの避難場所を提供しているのだ。
 パルヴェーズ・フッドボーイさんはこれをイスラム社会だけの問題として捉えているようですが、多かれ少なかれ名誉欲に駆られた専門家(と門外漢の人間との間)に当てはまることなのかもしれません。
 例えばアラン・ソーカルはでたらめな科学用語を散りばめた文章を論文と称して、人文科学の権威ある雑誌に送りました*4。『境界を侵犯すること:量子重力の変換解釈学に向けて』。また日本でも柄谷行人がゲーデルの不完全性定理を誤用しています*5。

科学主義

 そしてこれらの背景には科学信仰とも言える問題があります。確かに彼らは科学の専門家でありませんし、数学の教養もあまりない人もいるかもしれません。しかしサルトル以降、ざっくりと言って、相対主義が挙げられます。例えばレヴィ=ストロースは今まで未開だと思われていた土地にも、西洋とは違う「形式」の文化があるという見解を示しています*7。科学万能主義、近代化という「宗教」に疑問を投げかけるはずの哲学が、科学に迎合しているという問題が挙げられるのです。そもそも自然を定量的に捉え、分析するという方法は西欧によって生み出されたものです。イブン=シーナーが神を冒涜した疑いを掛けられた、というエピソードが載っていました。このことから近代的な価値観とは違い、自然を神格化し、絶対化し、畏敬の念を払うという伝統があると読み取れます。
 なら自然をこの方法で分析し、記述すればいいと僕は思うんです。一つの考えしかないと社会は脆いですので。

*1 カール・ポパー『推測と反駁』(法政大学出版局)およびwikipedia「反証可能性」。
*2 マーカス・チャウン『僕らは星のかけら』(無名舎)
*3 同文献
*4 Wikipedia「ソーカル事件」
*6 柄谷行人「 形式化の諸問題」(『現代思想』青土社、1981年9月)
*7 クロード・レヴィ=ストロース『親族の基本構造』(青弓社)



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