有沢翔治の読書日記

 同人小説家、有沢翔治のブログ。  いいものを書くためにはいいものを、幅広く。

【こんな小説を書いてます】

二人であることの問い

 双子の姉、亜衣の様子がおかしい。何かあったのではないかと真衣から萌は相談を受ける。やがて亜衣の部屋からバタフライナイフを買った痕跡が見つかり……。亜衣は何を考えているのか?


渡辺淳一『光と影』(文芸春秋)

新装版 光と影 (文春文庫)

あらすじ

 時は西南戦争。小武と寺内は左手を負傷していた。同じ症状だったので、軍医は観察することに。小武の腕を切断し、寺内の腕は残した。しかしこの決定が二人の人生を大きく狂わせる。
 表題作「光と影」を含む医療を題材にした4つの短編。

渡辺淳一といえば

 「失楽園」「愛の流刑地」が有名で、恋愛作家という印象が強かったんです。ところが『光と影』を読んで、僕のイメージが一変。確かに「薔薇連想」などは劇団員と顧問の年の差恋愛を描いていますが、この四つの短編は医療が大きな鍵を握っています。渡辺淳一は解説によれば、整形外科医だったそうです。
 しかも表題作だけでなく、どの短編も光と影を描いているのです。

光と影

 僕は24時間テレビのころにこの作品を読み終えたのですが、実にタイムリー。病人への同情が時として残酷になることがありますが、「光と影」の小武は寺内の同情を嫌います。寺内が義手制作の紹介状を持ってくると、小武は「生半可な同情なぞはやめてくれ」と言って撥ね付けるのです。

障害者/健常者

 もちろん寺内は善意から持ってきました。しかし、この時点で障害者/健常者という図式ができあがっていて、しかも寺内は自覚がありません。「貴君は義手が欲しいと佐藤先生のところへ行った筈だ」とあるように、小武は確かに佐藤軍医のもとを訪れています。これは言ってみれば小武が自分自身で行動しているので、同情も何もありません。
 また万一、寺内の利害関係が義手の装具に含まれていたら、救いがあったでしょう。例えば「新しい義手の実験台になって欲しい。俺には紹介料としていくらか入る。それを二人で折半しようじゃないか」云々。障害者というよりも利害関係者という印象が強く出るためでしょうか。僕だったら、混じりっけなしの善意よりも抵抗がありません。

善意の行動

 混じりっけなしの善意は実際上、ないと思っています。例えばお年寄りに席を譲って、さも当然だという顔をされたら腹が立ちますよね。お礼を言われるために席を譲ったのではない、と思っていても釈然としません。この場合、感謝の言葉を無意識で期待して譲っているのです。
 このように具体的な見返りがなくても、何かを与えたらその分、無意識的にせよ何かを期待します。寺内の場合は何を期待しているのでしょうか。感謝の言葉などと生易しいものではなく、ナルシスティックな善意。つまり友達が病人になっても義手の紹介している自分が格好いい、と無意識的に思ってるのです。それを感じ取ったからこそ、「突然、小武の胸に抑えようのない怒りがこみあげた」のでしょう。
 しかし、寺内はナルシスティックな善意を自覚していません。そこに二人の確執が生まれるのです。

猿の抵抗

 健常者と障害者の関係にも色々あります。医師と患者ももちろんその一つ。「猿の抵抗」は珍しい症状の患者を教材として使用する、という医師と患者の関係をグロテスクに描いています。
 さて、「猿の抵抗」はフィクションなのですが、医学史を紐解いてみれば患者が見世物のように扱われた歴史があります。特に精神科の歴史において、フロイトの時代には精神病患者が見世物のように扱われていました。

宣告

 「薔薇連想」は梅毒を隠しているので、病人と健常者という図式は当てはまりません。しかし、「宣告」は健常者と障害者ではなく凡人と芸術家という図式で見ています。この点、「猿の抵抗」、「光と影」と大きく異なっています。画家の祁答院は末期の直腸がんが全身に転移していて、余命いくばくない状態。
 普通の患者ならがんの病状は伏せておくのですが、最高傑作を残して欲しいという思いから担当医、綾野は祁答院へがんの宣告をします。
これは僕の私見ですが、助からないと分ったら芸術家の場合はむしろ積極的に死期を報せてやった方がいいのではないかと思うのです。あと半年とか一年とか、それによって彼等はこの世でやり残していた仕事を全力で尽してやっていくと思うのです。
 そして、無事に遺作を描き終えるのですが、二枚残します。一点目は故郷の春、二枚目は極彩色で複数の男女が絡み合う姿
 二枚目の絵は言うまでもなく生殖、つまり新たな命の誕生を描いています。しかし、一枚目も新たな生命の誕生というテーマは共通しています。もちろん祁答院が自分の命の終わりを宣告され、この結果、命の誕生を強く意識した、というのもあるでしょう。
 しかし創作自体が命を生みだしていることに他なりません。つまり祁答院は絵のテーマだけでなく、創作行為そのものにおいても次の世代へと「生命」を残したのです。


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ヘンリク・イプセン『野鴨』(岩波書店)

野鴨 (岩波文庫)

あらすじ

 夫婦は嘘偽りなく過ごさなければいけない。グレーグルスは正義感から、エクダル家の真実を話してしまう。しかし、それはヤルマール・エクダルにとって、耐え難いものだった。愛娘、ヘドヴィクは自分の子ではなく、かつて裏切ったヴェルレと当時の家政婦だったギーナとの間との子だったのだ。
 その証拠にヘドヴィクとギーナには莫大な額の援助が約束されていた……。真実がエクダル家にもたらされたとき、悲劇が襲う。

タイトルの意味

 タイトルは『野鴨』ですが、この野鴨は物語の進行上はヘドヴィクが大事にしているものであれば別に何でも構いません。宝石、形見の人形、犬……。ヤルマールがヘドヴィクの愛情を試せるものであれば。
 しかし寓意の点から見ればやはり野鴨でなくてはいけないのです。エクダル老人が野鴨について下記の通り述べています。
いつもノガモはそうするからな。まっすぐ底に潜っていきよる。──潜れるだけいっぱい潜って、あんた、──藻や水草や──そのほか何でも手当たり次第にかじりつくんじゃ、そうして、もう二度と浮き上がってこんのじゃよ。
 登場人物全員に共通しています。
 例えばヤルマールは愛情に「かじりついて」いましたが、他にも金銭、過去の栄光などにかじりついています。心の支えにしがみつくあまり、みんな沈んでいきますが、ヘドヴィクは「かじりつく」ものが少ない。唯一の心の支えは野鴨と家族ですが、野鴨はヤルマールにとって愛情を試す道具にすぎません。
 しかもヤルマールは「真実」を知ってからというもの、家を開けることが多くなりました。つまり幸せな家族がなくなったのです。
 グレーグルスもまた正義感にかじりついて生きています。

悪意のなさ

 レリング医師はグレーグルスを正義病だと非難しています。そして悪意がなからこそ始末に終えないと述べています。

グレーグルス

 彼の指摘通り、グレーグルスはエクダル家の不幸を望んでいなければ、家庭崩壊も望んではいないのです。ただただ「理想」を広めようとするだけであり、この「理想」ですら独り善がりなものではなく、「嘘をついてはいけない」という倫理観に基づくもの。そしてこの倫理観は納得できるでしょう。
 お互いに洗いざらいぶちまけて、君たちは話し合った、──その話し合いの上に君たちは、いまこそ建設ができるんだ、──完全に生まれ変わった新生活──真実で、あらゆる虚偽から解放された共同の生活が──
 もちろん、ヘドヴィクの本当の父親であるヴェルレも純粋な気持ちで資金を援助しているのでしょう。
 つまり、登場人物の誰一人としてエクダル家の崩壊を望んでいません。それにも関わらず、エクダル家は間違いなく崩壊していくのです。

レリング医師

 グレーグルスの行為について、レリングはこのように否定的な考えを述べています。
第一に、その厄介な正義熱、そこへもってきてだよ、もっと困るんだが、──あんたは、英雄崇拝の激しい発作を起こしやすい。あんたは、いつもお節介に、何か崇拝するものを見つけたい、とうろつきまわらずにはいられないんだ。
 レリング医師は「嘘」という処方薬を出していると言います。しかし、レリング医師は対処療法で、たまたま効いているにすぎません。グレーグルスが告げていなくても遅かれ早かれ、二人は真実を知ることになっていた、と僕は思います
 例えばギーナが多額の現金を持っていたら、ヤルマールは問いただすでしょう。犯罪に絡んでいないか、不安だからです。そこから段々と綻び始め、疑心暗鬼になるでしょう。つまり、グレーグルスは単に崩壊を早めただけにすぎないのです。
 もちろん、ヘドヴィクの自殺という最悪の事態は免れていたかもしれません。しかしグレーグルスが真実を告げたからと言って、ヘドヴィクが自殺するとは限りませんよね。ましてやグレーグルスがヘドヴィクの自殺まで予期できなかったでしょう。したがって、この二つの事象は分けたほうが良さそうです。

ヤルマール

 むしろヤルマールが『野鴨』において一番の「責任者」ではないのかと思っています。僕は、気持ちと具体的な利害を切り離しています。この場合だと過去の遺恨を捨てさえれば、愛娘はもちろん、援助額がそっくりそのまま手に入ります。
 もっと言えば、遺恨はヤルマールの感情で、彼しか解決できません。もちろん気持ちを収めるためにヴェルレへ資金援助は辞めて欲しいというのも一つの手だとは思います(僕はそんなことしませんが)。
 グレーグルスよりもヤルマールがひどく子供じみて見えてしまいました。




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瀬尾まいこ『強運の持ち主』(文芸春秋)

強運の持ち主 (文春文庫)

あらすじ

 「私」こと、ルイーズ吉田はショッピングセンターの片隅で占いを開業。もちろん占いと言っても話術でもっともらしいことを言っているに過ぎない。そんなルイーズは様々な悩み相談に乗っていく。四つの連作短編集。

連作短編集とは

 連作短編集とは一つ一つの短編と読めるし、物語全体を通して一つの物語としても読める短編集のこと。
 例えば『強運の持ち主』なら、一つ一つの相談内容が物語であると同時に、「ニベア」「ファミリーセンター」「おしまい予言」「強運の持ち主」と読み進めていくことでルイーズ吉田の占い師としての成長物語や、恋人との関係を描いた恋愛小説としての側面も楽しめます。
 しかも恋人との関係は文字通り起承転結*1がはっきりしています。
「ニベア」では恋人を読者に紹介。
「ファミリーセンター」では、それを継続。
「おしまい予言」〜「強運の持ち主」で不穏な空気
「強運の持ち主」の結末で、不穏な空気が解決される。

コージーミステリのような話

 コージーミステリとは手軽に読める推理小説。作家で言えば赤川次郎の三毛猫ホームズシリーズのような作風です。

ニベア

 実際、「ニベア」では母親か父親かどちらかを選択するように占いで決めて欲しいという一ノ瀬少年が現れます。ルイーズは彼の自宅周辺を張り込み、どちらが適任かを判断するのですが、「興信所みたい」だと感想を漏らします。
 公園から出てきた父親は、下手な女装をしていました。
 父親の女装は笑えないほどひどかった。もともと背が高いせいでスカートは腹巻きのようだったし、カツラはぶかぶかだった。どうがんばってもコントにしか見えなかった。
 どうしてこんな女装をしていたのか、という謎にも一応の解決が与えられています。もちろんこの心理が理解可能なものであるかはともかくとして。

ファミリーセンター

 また「ファミリーセンター」では、ある男性を振り向かせたいという女子高生が登場します。普通なら二、三回で諦めるのですが、成就するまでルイーズのもとへ通います。どうしてそんなに足繁く通うのか。どうして思いは届かないのか、
 母親が再婚して新しい父親と仲良くなりたいという僕はこの心理、納得ができます。

おしまい予言

 ただ、そのような現実的な世界観の中で、「おしまい予言」の武田は未来予知ができると言います。この能力そのものにもなにか現実的な解決があるのかと勘ぐってしまいます
 この勘ぐりを消すために、瀬尾まいこさんは武田の特殊能力ではなく、ルイーズ吉田と通彦との関係に読者の関心を誘導しています。武田の特殊能力が本物だと証明されたら、間髪を入れずに
「ルイーズさんにも終わりが見えるねん」
 武田君の思いがけない言葉に、わたしは目を丸くした。
「終わりって?」
「なんかわからんけどルイーズさんにおしまいを感じてるんや」
 (中略)
「ちょっと待ってよ。終わりって何よ。いったい何が終わるのよ」
 描写が長ければ長いほど印象に残ります。つまり意図的にこの会話を読者に印象付けようとしているのです。
 もちろん、終わりを告げる登場人物なら他にも同僚、ジュリエ青柳などがいます。しかし彼女だとどうも印象が薄い。しかも前から登場しているので新鮮味に欠けてしまうのです。物語、つまりルイーズの心中をかき乱す登場人物の性格は、印象的なほうが面白くなります。とくにこの場面は『強運の持ち主』という連作短編集で謎を提示する箇所に当たりますから。
 武田の関西弁はもちろん、油揚げのエピソード、そして図々しさも含めて武田は印象的です。


*1 起承転結とは漢詩の作り方である。四行詩の絶句において、起句で歌い出し、承句で続きを書き、転句で変化を起こし、結句で全体を締める、という全体の流れを指す。

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三田誠広『いちご同盟』(集英社)

いちご同盟 (集英社文庫)

あらすじ

 ある日、中学三年になる「ぼく」は野球部の羽根木徹也から頼み事をされる。試合をビデオ撮影して欲しい、と。女の子が映らないように指示を受け、撮影していると、今度は病院で再生して欲しい、と言う。
 そこで徹也の幼馴染、直美と知り合った。「ぼく」が直美を慰めていると、ある提案をされる。「わたしと心中しない?」。手術を受けても直美は助からないと徹也は知る。そこで彼女の分まで生きて、覚えていようと提案。ぼくと「いちご同盟」を結成する。

生と死を巡るテーマ

 「ぼく」は進路について悩んでいます。本人は音楽高校を希望していますが、ピアニストの母親からは猛反対。プロのピアニストになれるのは一握りだからです。そして「ぼく」本人もそれは自覚しています。しかし音楽の道は諦めきれないのです。
 そんな折、小学生が自殺したというニュースが飛び込んできます。遺書らしきものには「無理をしても生きていても/みんなどうせ/死んでしまうんだ」と書かれて、これが「ぼく」の心に刻み込まれているのです。
 そして病気の直美と出会い、生きる意味を見出していく。今となっては新鮮さに掛けるのですが、丁寧に見ていくと、伏線が張られていることに気付きます。
 「音楽室でラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』を弾いていると、ドアが乱暴に開いて、背の高い男子生徒が入ってきた」
 という冒頭の一文から打ち出されます。実はこの何気ない一文ですが、物語の情報が詰まっています。
・主人公のいる場所
・主人公の趣味、性格
・相手の性格
 が最低限読み取れます。また、「男子生徒が入って」これるような時間帯に音楽室で弾いているということは、少なくとも授業中ではありません。昼休みか夕方だと推察できます。この辺りは書いていないので何とも言えないのですが、音楽の練習をしているということは、それなりに時間の余裕があるはず。次の授業はないのだろう、と思って夕方の情景を想像しました。
 そして、『亡き王女のためのパヴァーヌ』という具体的な曲名を出すということは、誰か高貴の死を暗示しています。現に「ぼく」は後日、直美とこの曲を重ねて後悔しています。
 また家族との人間関係に注目すると再発見があります。

父親不在の物語

 「ぼく」の家では父親があまり家にいません。父親像は倫理を植え付け、母親像は子供を包むという役割を担っています*1。しかし、この「ぼく」の家庭では母親が倫理を説いて、誰も包容する役割を担っていません。
 仕事が忙しいだけなので父親が完全に不在とは言えないのですが、母親が収入の面でも上だと解ります。つまり父親の発言権が著しく弱くなっています。
 何をかっこつけてるの。普段は家に寄りつきもしないで、都合のいいときだけ親の顔をしないでよね。
 この台詞からは「ぼく」の家で父親の立場が弱いかを示しています。しかし、最後に酔っていると言え、重要なことを語ります。しかも対等な立場で。
 お前にもいつか、わかるだろうがな。長く生きていると、大切な人間が次々に死んでいく。それは、仕方のないことなんだ
 どうしてこのようなことを泥酔して語らせたのでしょう。理性で抑圧されているから、死は普段、意識しません。しかし、酒を飲むと理性が一時的に緩みます。この結果、普段は抑圧している考えが沸き起こるのです*2。
 羽根木徹也の父親は彼の口を通してのみ語られますが、浮気症であり、憎んでいます。しかし父親を憎みながらも影響力が大きいのです。
 おやじは気まぐれで、女好きだ。いろんな女を追いかけて、くっついたり離れたりしている。(中略)おやじとおれは、親子だ。おれはおやじに似ている。おれの身体の中には、多情で気まぐれな血が流れている。
 そのストッパーこそが直美なのですが、彼女が死んだら父親のようになるのではないかと怯えています。この怯えを克服するために「いちご同盟」を結成します。

墜落する自我

 さて、九歳の子が投身自殺をした、と「ぼく」は新聞記事で読みます。
 十一歳の少年にも、ふるえおののくものがあったはずだ。新聞記事によれば、十三回に住む主婦が、廊下を行ったり来たりしている少年の姿を目撃している。階段の近くをうろつきながら、少年は何かと闘っていた。
 投身自殺、つまり墜落したのですが、この姿は直美と重なります。単に自殺という単純な一点だけではありません。
 直美は昔から病気だったわけではありません。昔はピアノが弾けて、徹也に淡い恋心を抱いていたのですが、骨肉腫を発症。つまり健康な身体から病身へと「落ちた」のです。落ちたのは社会的な地位だけではありません。「いじけてる」と徹也は評していますが、精神状態も落ちているのです。
 社会的な状態、精神的な状態、そして投身自殺という物理的な状態。『いちご同盟』において、この「落ちる」という状態で、自殺を言い表しているように思いました。

*1 フロイト『世界の名著〈49〉精神分析学入門』(中央公論社)
*2 フロイト『日常生活に於ける精神病理』(岩波書店)


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ヘンリク・イプセン『幽霊』(岩波書店)

幽霊 (岩波文庫)

あらすじ

 アルヴィング夫人の夫は女遊びが激しく、梅毒に感染して命を落としていた。夫人は女中レギーネと二人暮らしだが、世間体から亡き夫の名を冠して孤児院を建てようとする。もう愛は夫が生きていたころから冷めきっていたのにもかかわらずである。
 アルヴィング大尉孤児院の落成式に一人息子のオズヴァルが帰ってきたはいいが、レギーナに言い寄っていた。
 古い因襲から悲劇が生まれる。

リアリズム演劇

 イプセンといえばリアリズム演劇として知られます。この『幽霊』もリアリズム演劇で、タイトルの幽霊は出てきません。『幽霊』は比喩であり、この意味はアルヴィング夫人の台詞に現れています。
われわれはみんな幽霊なんじゃないかって、先生、わたしたち一人一人が。わたしたちには取りついているんですよ、父親や母親から遺伝したものが。でもそれだけでありませんわ、あらゆる種類のさまざまな滅び去った信仰。
 この『幽霊』には新旧の対立が描かれています。例えば、火災保険を掛けるかどうか、画家という新しい職業……。
 アルヴィング夫人は結局、心から夫を愛していないにも関わらず、世間体から愛していることを演じています。そしてこの結果が孤児院です。この孤児院には、アルヴィング夫人の結婚生活だけでなく、マンデルス牧師の保守的な思想などが関わってきます。マンデルス牧師が保険金を掛けたがらないのは倹約のためではありません。保守的な郷士たちが快く思わないからです。
 そうした中で孤児院が家事になります。つまり、旧体制を象徴するような建物が崩れ、メイドのレギーネが暇乞いをするのです。メイドのレギーネは最後、海原に旅立つことが仄めかされていて、『人形の家』のノラとも重なりますね。

近親相姦

 さて、アルヴィング大尉の落し胤です。つまり、第二幕ではオズヴァルとレギーネが恋愛感情を持つのですが、異母兄妹なので近親相姦になってしまうのです。そして、アルヴィング夫人が真相を打ち明けると、レギーネは態度を豹変させます。あとに残ったのは、オズヴァルとアルヴィング夫人。
 オズヴァルは落成式のためではなく、遺伝性の病気が発覚して帰ってきたのだとアルヴィング夫人へ告げます。発作が起き、譫言で「太陽! 太陽!」と言っているところで幕が降ります。
 オズヴァルを診断した医師は、彼にこう言います。「親の血は子で償われる」と。直接、オズヴァルド大尉から遺伝しなかったにせよ、オズヴァルは画家修行中に女遊びをしており父親と似たような生活を送っていたのです。
 近親相姦と言い、親からの血といい、ソフォクレスの『オイディプス王』のようです。オイディプスもまた運命に逆らえず、父親が原因で、自分の母親と関係を持ってしまうのです。
 『オイディプス王』で飢饉が発生してるのはオイディプスが近親相姦と父親殺害を行なった報いです*2。
 息子にしてまた夫、父親と同じ女に種を蒔き、かつその父の殺害者であると知られよう。
 このようにオイディプスは本当に逆らいがたかったのに対し、オズヴァルは違います。女好きなのは父親からの遺伝ですが、女遊びをしたのは間違いなく、オズヴァル本人。この時点でオズヴァルの意志が働いていますよね。つまりオズヴァルの言う通り「自業自得」です。


*1 イプセン『人形の家』(岩波書店)
*2 ソフォクレス『オイディプス王』(岩波書店)



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アレクサンドル・プーシキン『本邦初訳 プーシキン詩集』(青磁社)

本邦初訳 プーシキン詩集

概要

 プーシキンはロシア文学の開拓者で、『オネーギン』、『大尉の娘』、『スペードの女王』などの小説を残した。フランス文学の影響を受け、特に『オネーギン』はその傾向が強い。
 一方で詩人でもあり、一八〇にも及ぶ詩を書いている。本作は、このうち、日本で未訳の詩を訳したものである。

フランスの影響

 『オネーギン』はフランス文学の影響が強いのですが、その理由がこの詩集からは垣間見えます。ナポレオンや自由をテーマにした詩が多いのです。プーシキンが誕生した1799年に、ナポレオンがクーデターを起こしています。

エルバ島のナポレオン

 例えば、「エルバ島のナポレオン」という詩では、ナポレオンのエルバ島脱出を題材にしています。この「エルバ島のナポレオン」では「夕焼は深い海の上で燃え尽きようとし/陰鬱なエルバ島の上には静寂が広がっていた」という暗い描写から始まります数が、舟で脱出するから夕焼にしたのではありません。
 日没、つまり栄華の終わりという意味も含んでいるのです。後世の人間からは、ナポレオンの終焉だと解釈するかもしれません。この後、ナポレオンはワーテルローの戦いに破れ、百日天下となります。しかしプーシキン自身はむしろヨーロッパ諸国の王政が終わることを望んでいたのでしょう。同時代のプーシキンはナポレオンの敗北を予見できるはずもなく、熱狂ぶりが詩から伝わってきます。
闘いの火蓋が切って落とされる! フランスの鷲の後に従って
勝利が手の中の剣とともに 飛び立って行く
渓谷は 血の流れに沸き立ち、
わたしは砲撃で 諸国の王冠を灰燼に投げ棄て
ヨーロッパの強力な盾を 粉砕してやる!
  またナポレオンについての詩は他にも見られます。例えば「司令官」という詩はナポレオン配下の武将、ダウ*1の肖像画に言及しています。

「司令官」

 その上で、「おお 不運な指揮官! きみの運命は過酷だった」とあるようにダウはワーテルロー以降、ルイ18世に忠誠を誓わなかったことで、翻弄されます*2。
 どうしてナポレオンはここまで人気があったのでしょうか。絶対王制を打ち砕いただけではありません。初めて民主主義の選挙で選ばれた皇帝だったからです。
 このことから考えると、社会の破壊者ではなく、むしろ、旧体制から解き放つ英雄として映ったのでしょう。現に「陽気な酒盛」という詩では「ぼくの崇拝する自由」という一文が見られます。
 また新時代への期待は「少年」という詩からも読み取れます。
 白海の浜辺で一人の漁師が網を広げていた
  少年が手伝っていた 少年よ 漁師を置き去りにするがよい
 べつの網が べつの仕事が おまえを待ち受けている。
  おまえは知性を捕らえるだろう ツァーリたちを助ける人となるだろう。
 この詩からは漁民の少年が教育を受けて、政治に関わっていく、という期待が込められています。しかしそのまま述べてたのでは印象に残らない。そこで知性を「魚」に見立てているのです。


*1 Wikipedia「ルイ=ニコラ・ダヴー
*2 同上



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感動ポルノの物語分析

 とうとう24時間テレビの季節がやってきた。感動ポルノと揶揄されているが、チャリティ精神の観点からの批判が目立つ。障害を見世物のようにする姿勢に批判的な意見もあるが、個々人の自由だと思う。例えば、ドナ・ウィリアムズは障害者としての体験を出版している。ドナも障害をある意味で商売の道具にしているのであり、その意味で「見世物」にしているのと変わらない*1。
 このような視点ではなく、「物語」の視点で読み解いていきたい。

感動ポルノの定義

 差し当たって感動ポルノを論ずるに辺り、定義しなければならない。かつてバリバラで感動ポルノを取り上げた時に感動ポルノの特徴として下記の要素を上げた*2。
「大変な日常」⇒「過去の栄光」⇒「悲劇」⇒「仲間の支え」⇒「いつでもポジティブ」
 つまり物語の時系列としては下記の通りである。
「過去の栄光」⇒「悲劇」⇒「大変な日常」⇒「仲間の支え」⇒「いつでもポジティブ」
 このような物語の流れに加え、もう一つの要素がある*3。
「以前、映画を作った時に、主人公の友人が車椅子を使っている設定にしたら、結構、批判された。なんで車椅子?車椅子の意味があるの?って、すごく言われた。」
 つまり、障害が物語のプロットとは関係なく使われている、という特徴である。感動ポルノの対象は障害者に限らない。貧困などにも当てはまる。
 したがって、感動ポルノを下記の二点を含む物語と定義する。
定義1.社会的弱者が大変な日常を送り、乗り越える話
定義2.社会的弱者の属性は必然性がない。例えば、障害者でも貧困でも物語進行上、何の影響もない。

なぜ「感動ポルノ」が氾濫しているのか

 実は「過去の栄光」⇒「悲劇」⇒「大変な日常」⇒「仲間の支え」⇒「いつでもポジティブ」という物語は作りやすい。もちろん、類型化されていることもあるが、古今東西、作例が豊富にある。
 例えばホメロスのオデュッセイアも、
王(過去の栄光)⇒漂流(悲劇)⇒キュクロプス退治(大変な日常)⇒仲間の支え⇒生還(いつでもポジティブ)
 という物語の構成になっている。また少年マンガはほとんどがこの構成である。仮に『幽☆遊☆白書』を例に取ると下記のように示される。
 生者(過去の栄光)⇒事故(悲劇)⇒暗黒武術会、仙水との戦いなど⇒仲間の支え⇒生還。
 浦飯幽助を社会的弱者に当てはめるかは疑問が残る。しかし、戸愚呂弟や仙水忍などと比べると霊力差があるので、弱者に含めることにした。このように、冒険譚と感動ポルノは物語構成が重なっている。
 したがって古今東西で使い回されていて、手垢にまみれているのだ。
 つまりクオリティを度外視すれば、大量に物語が生産できる。例えば下記の物語は典型的な感動ポルノである。
 物語例1)水泳選手を目指す⇒事故に遭い両足切断⇒泳ぎたいという願望⇒パラリンピック出場

必然性を持たせる

 実は水泳選手、両足切断、パラリンピックにしたのは理由がある。水中では両足があると、水の抵抗から速く泳げないのだ。
 しかしどのような経緯で事故にあったのかが決まっていないので、まだ「必然性」が足らない。
 物語例2)水泳選手を目指す⇒大会に向かう途中で事故に遭遇⇒泳ぎたいという願望⇒パラリンピック出場
 という具合に必然性を持たせる。友達と遊んでいる時に、事故に遭う話よりは物語の上で必然性が高い。

全体のテーマを決める

 さらにこの物語の存在意義も重要である。もちろん資本主義なので障害者を利用してスポンサーを集めたい、というのが本音だろう。しかし、それだけならどのような「物語」も選択可能である。
 障害者雇用の問題に焦点を当てて、下記の物語も作ることができるのだ。
 物語例3)仕事で失敗が目立つ⇒部下からバカにされる⇒鬱病になり、心療内科へ⇒発達障害のチラシを目にする⇒手順書を作ったら成功
 それではどうして物語例2(あるいは物語例3)を選ぶのか? そこにも根拠が必要だ。物語例2なら下記のテーマが盛り込める。
 テーマ1)夢はなにがしかの形で叶う
 そうすれば下記の派生物語2-2を作ることができる。
 物語2-2)主人公の父親は作家を目指していたが、今は中学校で国語教師をしている。夢を諦めたにもかかわらず、夢を諦めるな、と熱く語っていて、主人公は父親を疎ましく思っていた。しかし小説の素晴らしさを教えたいという理由から、中学校で教鞭を取っていたと知る。
 このように派生物語を作っていけば、定義2の問題は克服できる。したがって感動ポルノにはならない。

問題は

 障害者を扱っている作品が問題なのではなく、必然性がないところで障害者を出しているところに問題がある。別に障害者に限った話ではない。物語作りにおいて、特殊なエピソードを目立たせようとすれば合理的な理由付けが必要となる。
 例えばウィリアム・フォークナーの『響きと怒り』*4では〈語り〉の問題点を浮き彫りにするため、谷崎潤一郎の『春琴抄』*5では佐助の行動を説明するため、それぞれ障害者を出している。
 伏線を回収しないと、消化不良に陥ってしまう。そして無理に消化するために著者の目的を考えてしまうである。芥川龍之介『藪の中』は意図的に伏線を回収していないが、感動ポルノにはそのような目的が感じられない。
 そうだとすると安易な感動を押し売りするためだと、すぐに感づいてしまう。つまるところ「物語」の作り方に関して無自覚なのである。
 ここでドナ・ウィリアムズ『自閉症だったわたしへ』と24時間テレビチャリティマラソンとの決定的な違いが明確になった。『自閉症だったわたしへ』は自伝であり、ドナの世界観を示している。つまり、彼女が書かなければ『自閉症だったわたしへ』というテクストは成立しえなかった。
 一方のチャリティマラソンは24時間テレビという物語を考えると、誰が出ても番組そのものには影響がない。それどころかチャリティマラソンを走らなくても番組そのものは成立するのだ。


*1 ドナ・ウィリアムズ『自閉症だったわたしへ
*2 【生放送】 検証!「障害者×感動」の方程式
*3 同上
*4 ウィリアム・フォークナー『春琴抄』(新潮社)
*6 芥川龍之介『藪の中』(青空文庫)
*7 なお、これはテクストの内容ではないことに注意。



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ジョージ・オーウェル『一九八四年』(早川書房)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

あらすじ

 一九八四年、オセアニアは〈ビッグ・ブラザー〉が率いていた。しかし徹底した監視社会。到るところに監視カメラがあり、言論統制も公式辞書「ニュースピーク(New Speak)」を編纂するという形でなされていた。真理省記録局の官僚、ウィンストンは歴史の改竄が仕事だったが、以前からビッグ・ブラザーには批判的だった。ある時、ジュリアと知り合い、反政府勢力に加わることに……。
 ディストピアを描いたSFの古典的名作。解説はトマス・ピンチョン。

ディストピア

 理想郷をユートピアと言いますが、ディストピアとはその対義語。考えられうる最悪の世界を描いた作品をいいます。例えば到るところに監視カメラがあり、メモ、日記の類も記録が残らないようにすべてその日のうちに灰にしてしまう、という徹底ぶり。
 しかも政治に批判的な考えを持っていたら、〈思想警察〉が真夜中にやってきて蒸発したことにされます。その後、登録簿(戸籍のようなもの)からも抹消されるのです……。ステキな世界ですね。

政治的イデオロギー

 『動物農場』はジョーンズさんの農場で牧場主を追い出し、指導者の豚が恐怖政治を敷く寓話。『一九八四年』はSFを用いて、反共産主義・反全体主義を描いています。
 『動物農場』も内容と文体を意図的に乖離させていて、ブラックユーモアたっぷりなのですが、『一九八四年』のほうが僕は好きです。陰鬱な空気が作品全体に漂っている上に、結末は救いがありません。

ビッグ・ブラザーとゴールドスタイン

 オーウェルが共産主義の中でもソビエトを意識しているという描写が随所に現れています。例えば、〈ビッグ・ブラザー〉の風貌は「四十五歳くらいの男の顔で、豊かな黒い口髭をたくわえ、いかついが整った目鼻立ちをしている」と描写されています。ヨシフ・スターリン
 ソビエトの独裁者、ヨシフ・スターリンが思い浮かびました。口髭の独裁者と言えばヒトラーも当てはまりますが、「豊かな」と言われると疑問ですね。 実際、ビッグ・ブラザーはスターリンをモデルにした、と言われています*1。
 また二分間憎悪という時間があります。これは人民の敵、エマニュエル・ゴールドスタインをテレスクリーン*2に映し出し、憎悪を掻き立てます。「かつては〈ビッグ・ブラザー〉と並ぶ地位にあった」こと、今は行方をくらましていることが語られます。
 そして、ゴールドスタインは「寡頭制集産主義の理論と実践」という本を出しています。これらのことを考えるとレフ・トロツキーを思い起こさせます。実際、トロツキーは『裏切られた革命』*3を出していて、スターリン体制を批判しているのです。

経済状況

 『一九八四年』の世界では配給制が敷かれていて、これもまたソビエトなどの共産主義国を彷彿とさせます。剃刀の刃一枚に至るまで、〈ビッグ・ブラザー〉から支給されるのですが慢性的に生活必需品が不足しています。それらを手に入れるには、非合法に「“自由市場”に出向いて(中略)あさるしかな」いのです。
 これもまた、ソビエトの状況と似ています*4。他にも計画経済を採用しているなど、ソビエトの経済政策と極めてよく似ています。『一九八四年』を共産主義国を諷刺しているという解釈は妥当であると言えましょう。

諷刺の対象

 『一九八四年』が共産主義を諷刺しているのは以上の理由から明らかです。しかし共産主義国だけを諷刺しているのでしょうか。トマス・ピンチョンは「解説」の中で当時のイギリスをも諷刺しているのではないかと述べています。
 チャーチルの戦時内閣が戦時下の旗印のもとで行なった報道検閲、賃金の統制、市民的自由の制限といった政策がまさしく全体主義的だったことに議論の余地はあるまい。
 これに加え、僕はアメリカをも風刺しているのだと解釈しました。それというのも当時、アメリカでは赤狩りが行われていて、まさに監視社会だったのです。おまけに共産主義への憎悪を煽ることは作中の〈二分間憎悪〉にも似ています。
 またマルクス経済学に関する本は言うに及ばず、数々の本が発禁の憂き目に遭いました。この辺りは『華氏四五一』でも描かれていますね*5。

二重思考

 さて、ここで今、『一九八四年』を読む意味について考えてみましょう。事実、トランプ就任前後は『一九八四年』の売上が増えたと言います*6。
 また、テレスクリーンではありませんが、監視カメラが設置されています。しかも300万台も*7。
 しかし、極めて特徴的なのが二重思考です。この二重思考というのは『一九八四年』にとって、重要となってくる概念。事実と政権にとっての公式発表が異なる場合、たとえ矛盾していても気にしてはいけないのです。作中の言葉で言えば「二重思考とは一つの精神が同時に相矛盾する二つの信条を持ち、その両方とも受け容れられる能力のこと」。
 例えば、チョコレートの配給が前月までは三十グラムだったが、今月は二十グラムに増量する、と〈ビッグ・ブラザー〉が発表する場面があります。もちろん、減量なのですが、〈ビッグ・ブラザー〉が増量と言ったらそれを受け入れなくてはならず、しかも市民たちは本気で受け入れているのです。
 これほど極端ではないにしても、日本社会には二重思考が結構あります。例えば非核三原則で持たない、作らない、持ち込ませないと謳っていますが、実際にはアメリカから核が持ち込まれています*8。
 また、『一九八四年』において、ウィンストンは記録を改竄しているのですが安倍内閣の公文書改竄問題を彷彿とさせます。


*1 Wikipedia「ビッグ・ブラザー
*2 基本的に薄型テレビであり、到るところに設置してある。しかし「どんな音でも拾ってしまう」「こちらの行動も捕捉されてしまう」とあるように、監視カメラとして使われている。
*3 レフ・トロツキー『裏切られた革命』(岩波書店)
*4 Wikipedia「ソビエト連邦の食事情
*5 レイ・ブラッドベリ『華氏451度』(早川書房)
*6 『「1984年」の売り上げ急増、トランプ政権が影響?』(CNN)
*7 「防犯カメラ、日本に300万台 捜査にどう役立つの?」(日本経済新聞)
*8 Wikipedia「日米核持ち込み問題



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姜尚中『悩む力』(集英社)

悩む力 (集英社新書 444C)

概要

 自由になり、〈自我〉を獲得したことで人間は悩むようになった。また近代に入り、科学主義・合理主義が席巻してきたが、この思想も悩むきっかけを作るようになったという。
 政治学者、姜尚中は漱石とマックス・ウェーバーを使って、現代人の悩みを解き明かす。

新書について

 小説だけでなく、僕は新書も読みます。学問の入門書、いろんな業界の話などが書いてあって面白いですよね! しかし、この新書は僕の好みに合いませんでした。以下、その理由を書きますね。

ウェーバーと漱石を出す必然性がない

 『悩む力』で姜尚中はマックス・ウェーバーと夏目漱石に言及しています。確かに夏目漱石は近代人の自我を主題にして、多く小説を書きました。そもそも漱石自身、神経衰弱に苦しみました。
 そうして書き上げたのが『吾輩は猫である』です。その意味では姜尚中が言っていることは正しいし、漱石を出す理由についても納得が行きます。しかし、マックス・ウェーバーを出す必然性がないように感じました。強いて言うなら、合理化の一文です。
 ウェーバーは西洋近代文明の根本原理を「合理化」に起き、それによって(中略)人間が救いがたく孤立していくことを示したのです。
 確かにウェーバーはそのような説を唱えています。他にもトルストイ、カント、エーリッヒ・フロムなど、数々の著作に触れていますが、『悩む力』の主張は漱石だけを引用するだけで充分で、ウェーバーまで引くと焦点がはっきりしなくなってしまいます。
 結果として、相互承認の必然性などの凡庸な結論を再生産することになってしまっているのです。もちろん結論こそ凡庸でも姜尚中が真に訴えるべきだと感じれば、著書に書くべきです。しかし理由付けや論点には姜尚中の独自性が必要となってきます。
 マックス・ウェーバーと夏目漱石の類似点を提示することで、それを達成しようとしているとのこと。それなら、近代的自我を持つとどうして悩むのかを深く掘り下げたほうがいいと思います。

論点

 論点も資本主義の行き詰まり、宗教の問題、知識の問題、恋愛の問題など多岐に渡ります。手広く手がけているといえば聞こえはいいのですが、一つ一つの論点が散漫としている印象を受けます。特にボードレールの詩などは思いつきで入れたという感じが強いと感じました。
 これらの問題は他者との関わり合いで一括りにできるのですが、論理構造が明確化されていません。論理構造というのは、『悩む力』の場合
1.労働とは他者との問題である
2.宗教も他者との問題である(ここでようやくマックス・ウェーバーが登場する)
3.知識をどのように社会に役立てるかも他者との問題である
4.恋愛も他者との問題である。
 故に近代的な悩みは他者との問題に帰結する、という帰納法的な考えに基づいています。
 そしてこの結論は『悩む力』で中途半端な位置に出てきます。
 社会というのは基本的に見知らぬ者同士が集まっている集合体であり、だから、そこで生き抜くためには何らかの形で仲間として承認される必要があります。そのための手段が、働くということなのです

 昔は宗教が共同体を維持していたのですが、今はそれが希薄になってしまったという点で宗教の問題ともつながってきます。姜尚中はこれを労働の問題で書いていることからも解るように、労働の問題のみとして扱っています。しかし、『悩む力』で述べられていることはほとんど上の一文から全ての問題が派生します。
 つまり、最初か最後に書いたほうが論理構造が解りやすいのです。ひいては姜尚中の主張が明確化するのです。

周りがどう言おうと自分の価値観を

 僕が悩む力で取り上げるとしたら、ニーチェとフランクルですね。二人ともこの『悩む力』に出てくるのですが、ほんの数行のみ。

自分の価値観がしっかりしていないと

 もちろん僕自身、この二人が大好きだということもあります。他者の価値観を本当に気にしなければ、悩みは薄らぐと思うのです。姜尚中は〈自我〉が肥大すると、自己中心的になってしまうと言っています。むしろ、自己中心的な人は周りに威張りたいのではないでしょうか。つまり、他者は意識にあるのですが、自分の価値観がしっかり定まっていないので他者から認めて欲しいのだと思います。だから否定的なことを言われると、傷つきやすい。例えば「絵なんて描いて売れるの?」と言われると意欲をなくします。
 また評価が得られないと、すぐに挫折

芸術家は

 これとはまた違い、芸術家、研究者の心境に近い。
 誰がなんと言おうと、芸術家は表現の道を追求します。自分の絵が社会でどう役立とうと気にしません。こういう人は「絵なんて描いて売れるの?」と笑われても「いや、描くだけで楽しいじゃん」と答えられると思います。価値観を含め他人はどうでもよく、自分が本当にいいと思える作品を作りたい、それが芸術家です。
 絵で名誉を得ようという気持ちはあるかもしれませんが、結局、その人は名誉や金銭に価値観を置いているに過ぎません。

僕自身の場合

 僕自身、趣味とは言え、小説を書いていて思うのですが、書いていて不安です。もどかしいです。思うように表現ができず、SNSに逃げてしまいます。また過去のいろんな人の評価が思い出されます。
 そこで自分の意見と他人の意見を「自分の価値観で」照らし合わせて、取り入れなければ軸がぶれてしまいます。そして、中途半端な作品に終わってしまうのです。
 創作に的を絞って話しましたが、自分の価値観を大事にすることは、他人に押し付けない限り、とても大事です。


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北川恵海『ちょっと今から仕事やめてくる』(メディアワークス文庫)

ちょっと今から仕事やめてくる (メディアワークス文庫)

あらすじ

 ブラック企業に就職してしまった俺、青山隆。線路内に飛び込み自殺をしようとしていたところを男に助けられる。男はヤマモトと名乗り隆の中学の同級生だと語った。何度か会うようになったが、違和感を覚え、SNSで検索。すると、当のヤマモトはアメリカにいることが解った……。

第一印象

 久々に面白いエンターテインメント作品に出会いました。読みやすく、ヤマモトの正体は幽霊かと思わせておいて、実は現実的な結末。誰がデータを書き換えたのかも容疑者が絞られているので、そこから推理していけば犯人に容易にたどり着きます。
 これが誰が書き換えたかの犯人を探す、あるいはヤマモトの謎を解くという推理小説だったら結末はつまりませんが、ジャンルは人情話。この手の話は推理小説だったらありきたりですが、違和感はありませんでした。さすがに書き換えの犯人はもう少し意外性を期待していたのですが、作者が描きたかったのは違うところにあったのでしょう。言うまでもなく自殺はいけない、ということが繰り返し語られます。例えば、「──大丈夫よ、人生なんてね、生きてさえいれば案外なんとでもなるもんよ」という母親の台詞はもちろん、二回繰り返される、
俺の人生は、お前のためにあるんでも、この会社のためにあるんでもねえ。俺の人生はなあ、俺と俺の周りの大切な人のためにあるんだよ!
 という台詞がそれをよく表しています。

自殺はいけない、と言うよりも

 よく自殺防止のポスターを見かけます。確かにポスターはそれなりに効果があるかもしれません。しかし風景の一部になってしまいます。一枚のポスターには物語がありません。
 自殺、とまではいかなくとも否定的な気分になっている人は自分の物語が見えなくなっています。ナラティブ・セラピーは自分の物語を回復するカウンセリング方法なのですが*1、感情移入するだけでも効果があるのではと思います。
 ただ問題は心と時間の余裕がなければ、読書をしないということ。つまり過剰労働をしているなど、ブラック企業に勤めている、本当に必要な人にはあまり読まれないのです。映画化もされているのですが、心の余裕がなければ映画館へは足を運ばないでしょう。

読者層について

 読者層についてはいくつか候補が考えられます。

就職活動をしている人へ


 この本はブラック企業に努めている人の他にももう一つ有効な読者層がいると思います。それは就職活動をしている人。
 むしろ命は大事に、というメッセージは手垢にまみれていますが、「〔就職活動は〕むしろ簡単じゃいけないんです。俺は、この会社を簡単に選びすぎた。時間をかけるのが怖くて、内定もらえりゃどこでもいいなんて、そんな気持ちで決めるもんじゃなかった」という台詞はブラック企業に就職しないための具体的なアドバイスです。

会社経営者へ

 もちろん、企業としては利益を最優先しなければいけません。しかし労働意欲を上げなければ、利益以前の問題。「俺」の職場環境はまさにギスギスしていて、とても幸せな環境とは呼べません。
 「俺」が退職届を部長に叩きつける時に、同僚に「みなさんは今、幸せですか?(中略)みんなギスギス働いて満足なんですか?」と問いかけます。
 そして、部長に「せめて法律は守りましょうよ。この会社のことを本当に思うなら、まずそこから変えていってください、みんなが健康に、楽しく働けるように」と。

幸せに働く

 幸せに働く、というとフィクションの世界だと、理想の世界だと思われるでしょう。もちろん小説は理想を述べて、現実を批判するもの。

現実の例

 しかし、十勝バスの野村文吾さんはバス会社再建の中で、「一緒の働いている人のことをもうちょっと愛せよ。お前は会社の事を話す時『自分たち』って言った事、一度もない!」と言われます*2。
 その翌日から野村さんは毎日、挨拶をするなど積極的に社員と接します。その結果、社員の労働意欲は徐々に向上。会社を建て直すまでにいたったのです。
 また別の例で言えば、南原竜樹さんは自動車販売店を経営していたのですが、倒産してしまいます。どれだけの社員が倒産寸前の会社に手を差し伸べてくれたのでしょうか。答えは263人中、たったの4人。
本来、社長は社員に感謝しなくてはなりません。当然ですが、そんな気持ちは一切ありませんでした。最初から一切なかった。
 後に再び会社を起こすのですが、「みんなに頑張ってもらえるのか、その土俵を創る」という経営方針に改めました。その結果、社員は笑顔で働けるようになりました*3。

肩書の魔力

 それでは部長、社長などどうして肩書きがつくと偉くなったように錯覚するのでしょうか。『ちょっと今から仕事やめてくる』の部長も尊大、傲慢ですよね。もちろん、これは物語の進行上、必要不可欠な性格の人物かもしれません。
 しかし、これは現実でも起こり得ることです。スタンフォード監獄実験*4。囚人・看守という肩書を与え役割を演じていただけだっただけだったのですが、看守という肩書の人物は尊大になっていきました。そしてついには囚人役の人に暴行まで加えるようになってしまったのです。
 この実験結果が示すのは肩書を与えただけで、人の行動を左右してしまうこと。もちろん人にもよりますが、部長、社長などという肩書は人の態度を変えてしまうのです。

 


*1 Wikipedia「ナラティブ・セラピー
*2 「奇跡体験! アンビリバボー」(フジテレビ、 2014年3月6日)
*3 「しくじり先生」(テレビ朝日、2016年9月26日)
*4 Wikipedia「スタンフォード監獄実験

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