有沢翔治の読書日記

 同人小説家、有沢翔治のブログ。  いいものを書くためにはいいものを、幅広く。

【こんな小説を書いてます】

二人であることの問い

 双子の姉、亜衣の様子がおかしい。何かあったのではないかと真衣から萌は相談を受ける。やがて亜衣の部屋からバタフライナイフを買った痕跡が見つかり……。亜衣は何を考えているのか?


齋藤孝『読書力』(岩波文庫)

読書力 (岩波新書)

概要

 一行で言えば「もっと古典を読みましょう」。もっと言えば、読書をしないと日本が衰退する、というもの。教育も文化のレベルも下がり、日本全体の損失につながります。
 なお、ここで言う読書力とは「新潮文庫の百冊」のように少し難しい本を読む能力のことを指しています。また、「読書」の定義ですが要約を言えることです。

いろいろ言いたいことはあるけれど

 あとで意見は述べますが、まず賛同したところから。幅広い読書が必要だと説いていますが、これには強く賛同しました。また読書をしなければ日本文化の衰退につながる、というのもその通りです。
 例えば人工知能が盛んに取り沙汰されていますが、読解力に致命的な問題がありました。そして、これは日本の高校生と同じレベルでした*1。つまりいかに文章を読めていないかを証明しているのです。また僕は(あくまでも僕は)古典文学が好きなので、齋藤孝さんの言うことには賛同したい気になります。
 しかし全面的に賛同はできません。それは僕の読書についての捉え方にあります。ありていに言って、古典文学もマンガも同じ〈娯楽〉だからです。そしてこの二分法で捉えているとそれこそ文化の衰退を生んでしまうのではないでしょうか。

まんがで読破

 まんがで読破シリーズがイースト・プレスから出ています。ダンテ『新曲』*2、マルクスの『資本論』*3に至るまで、古典文学が漫画化されているのです。そしてマンガは読書に含めないという立場では、これは読書に当然ながら、含みません。
 しかし、あらすじはほぼ(?)同じです。そして仮にこれを読書に含めると、手塚治虫『火の鳥』はどうか、『金田一少年の事件簿』はどうか『名探偵コナン』はどうかなどと個別に指定しなくてはいけなくなります。また金田一少年の事件簿でも小説版*4は読書に含むのか、などという問題が発生します。
 また高次脳機能障害の日常を描いた「日々コウジ中」*5、自閉症を描いた「光とともに」*6、医療現場を刻銘に描いた「ブラックジャックによろしく」*7などは非常に訴えかけるものがあります。なかでもイチオシは「ブラックジャックによろしく(精神科編)」*8。統合失調症患者への偏見が描かれています。
 このように考えていくとマンガ/小説という二分法そのものに疑問を抱かざるを得ません。

つなげかたはいくらでも

 もし仮に理解できないものを理解しようとする、という斎藤孝の定義に基づけば、例えば『ドラえもん、のび太の海底鬼岩城』*9は東西冷戦を暗示しているという点で、(もちろん子供時代には気付きませんが)大人になっても楽しめます。この点はオーウェル『一九八四年』が読んだ高校生があとで全体主義について学んだ時と同じ反応だと言えましょう。
 いや、もっと子供向けのアンパンマンですらバイキンマンをトリックスターとして読めば面白いものが見えてきます。
 そればかりではありません。ストーリー性があれば、ゲームでも全く別の視点で、「精神の緊張」を持って楽しめるのです。例えば「第百略」*10というフリーゲームは明らかにシチリア、ローマ、カルタゴをモデルにしています。そこからローマ人の物語やガリア戦記を読むこともできます。
 またAge of Empire*11から歴史に興味を持つこともあります。

シェイクスピアとテレビの共通性

 シェイクスピアとテレビはある共通点があります。それは大衆娯楽だということ。それは『ヴェニスの商人』*12でのシャイロックがどのように扱われているかを見れば一目瞭然。
 さらには狂言は喜劇であり、昔の大衆娯楽だったことが窺えます。つまり後世の人が勝手に古典だとありがたがっているにすぎません。以上が読書は娯楽だという主張の論拠です。

論理矛盾

 マンガを読書に含めないといけない、と主張する理由の2つ目は論理的に矛盾するからです。齋藤孝は『読書力』でできるだけ幅広く本を読むように推奨しています。しかし、できるだけ幅広く、となると当然ながら娯楽小説も含まれます。つまり「幅広い読書」と「精神の緊張をもたらす本」を中心に読むことはどう考えても両立しません。
 その意味で説得力が失われています。
 読書の幅が狭いと、一つのものを絶対視するようになる。教養があるということは幅広い読書をし、総合的な判断ができるようになるということだ。(中略)
 〔神秘主義的な団体へ〕入信している人たちは決まってあるところで思考停止をしていた。読書の幅も限られていて、自分たちの教義に合致するものが選ばれ、推奨された。それと食い違う場合には、憎むべき悪書として攻撃していた。
 もちろん、齋藤孝の言うことは的を射ています。しかし『読書力』の論旨自体、マンガなどを「憎むべき悪書」として攻撃しており、この言説に見事に当てはまっています。皮肉にも○○を読まなければ読まなければ日本文化は衰退するという主張は神秘主義の常套句とも言えるでしょう。つまり批判の対象と全く論理を用いているのです。
 また巻末のブックリストを見ると人文科学に偏っていることからも齋藤孝自身が「幅広い読書」をしているとは言えないのです。
 また「SFを除く」という割にオーウェルの『一九八四年』もブックリストに含めています。
 ここで注意して欲しいのは齋藤孝の読書の偏りを問題にしているのではありません。純粋に論理的な話。自分も古典重視だと認めて「幅広い読書」が難しいと認めるか、マンガも読書に含めれば論理的な矛盾は解消されるのです。
 そして、このように著者の論理に寄り添いながらも補足や否定をしていくことこそ、まさに僕に取っての読書行為に他なりません。

本は誰のものか

 もちろん、このような批判は齋藤孝の本意ではないでしょう。そして本は作者のものである、という立場が根底にあるのです。
 そう考えるとオーウェルの『一九八四年』がどうして許されていたかも理解できます。『一九八四年』は全体主義国家への批判であり、明確なメッセージ性が読み取れます*13。しかしSFの中には『銀河パトロール隊』*14などの「エンターテイメント作品」も多いです。だからこそSFを除いたのでしょう。
 一方、僕は本は読者のものであるという立場で考えています。作者の手を一旦離れてしまえば、読者の手に全て委ねられるのです。どのように解釈しようが、読者の勝手。この立場では不注意などによる読み落とし、強引な解釈はあっても、誤読は原理的にありえません。そもそも作者にも気付いていないような点を解釈するのが、〈いい〉読者だと僕は考えています。
 そして考えの違いは作品論とテクスト論で現れています。作品論とは作家が言いたかったことを読み取る立場、テクスト論とは作家の主張と関係なく読者の解釈に身を委ねるという立場です。
 僕の考える読書力とは、どのようなテクストでも楽しみながら読み広げていく力です。例えば星野源の話題から彼のエッセイを読み*15、くも膜下出血について医学書を読み……。
 したがって僕の「読む」の定義は要約ではなく、「面白かった」「難しかった」「つまらなかった」など一言でもいいから感想が言えることです。独自の感想であればあるほど、好ましいと思います。その理由も言えれば最高です。
 どんなに崇高、高邁な思想でも一つの価値観に染まってしまうと危険です。したがって、古典嫌いの人、さらには読書嫌いの人が一定数いないと一つの価値観に染まって危険だと思っています。
 現にゲーム文化を異端視すればサウンドノベルという新しい「文学」は生まれなかったでしょう。「わすれものとおとしもの」*16「1999Christmas Eve」*17などはエンタメとしても解釈の多様性としても素晴らしい出来。そしてこれらの作品に影響されて、また別のサウンドノベル、小説などを生み出せば、それが文化の発展に繋がっていくのです
 不毛なマウント合戦には興味がありませんが、面白い本があったらぜひコメント欄でご紹介いただければ幸いです。うろ覚えでも、何とか頑張って探します(笑)
 初心者からブックリストなどのご希望があれば作成します。その際はできるだけ多ジャンルを含むように心がけますが、僕もかなり偏っていますので、あらかじめご了承ください。

 

*1 新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社)
*2 ダンテ『神曲 まんがで読破』(イースト・プレス)
*3 マルクス『資本論 まんがで読破』(イースト・プレス)なお、原作をどう解釈し、どう表現しているかという点で見ても、新たな発見があって「まんがで読破」は面白い。『罪と罰』の工藤精一郎訳と亀山郁夫訳を読み比べるのと同じ発想である。
*5 柴本礼『日々コウジ中』(主婦の友社)
*6 戸部けいこ『光とともに』(秋田書店)。なお、ここから茂木俊彦『障害児と教育』(岩波書店)へも繋がってくる。
*7 佐藤秀峰『ブラックジャックによろしく』(講談社)
*8 佐藤秀峰『ブラックジャックによろしく(精神科編)』(双葉社)。なおガン病棟編もオススメ。
*9 藤子・F・不二雄『大長編ドラえもん のび太の海底鬼岩城』(小学館)
*10 tyam [他]『第百略』(Vector)
*11 Age of Empires(Microsoft)
*12 ウィリアム・シェイクスピア『ヴェニスの商人』(白水社)
*13 ジョージ・オーウェル『一九八四年』(早川書房)
*14 E・E・スミス『銀河パトロール隊』(東京創元社)
*15 星野源『蘇える変態』(マガジンハウス)
*16 「忘れものと落とし物
*17 Wikipedia「1999ChristmasEve



 コメント一覧 (3)

    • 3. themis
    • 2019年03月22日 22:58
    • 世界の名著をおすすめする高等遊民.comさんはyoutubeでも楽しい動画を出してくださっているので,勉強になります。

      ブックリストありがとうございます!
      気になったものを読んでみます!
    • 2. 有澤
    • 2019年03月22日 21:01
    • >>1 世界の名著をおすすめする高等遊民さんは本当に哲学に関して造詣が深いですよね。いつも勉強させていただいてます。
      僕のブックリスト100選は
      https://ncode.syosetu.com/n0679el/27/
      ここに作ってます(かなりカオスですけど!)
    • 1. themis
    • 2019年03月22日 11:07
    • 初めてコメント致します。

      「世界の名著をおすすめする高等遊民.com」というブログのおすすめリンクから貴ブログを知りました。

      幅広い読書量に感服しております。私は最近,読書をどんどんしていきたいと思っており,読書家の方のブログやツイッター,youtubeなどを見て,オススメの本をチェックしています。

      そこで,有沢様のオススメブックリストもご教示下さいますと幸いです。とにかく色んな世界を覗いてみたいと思っています。

      どうぞ宜しくお願い申し上げます。

コメントする

名前
 
  絵文字
 
 

林郁『満州・その幻の国ゆえに』(筑摩書房)

満州・その幻の国ゆえに―中国残留妻と孤児の記録 (ちくま文庫)

概要

 満州を豊かにして、王道楽土を築こう。植民地政策のもと、開拓団が1931年から送り込まれた。インタビューの中心人物、山田タミもその一人である。
 しかし、王道楽土どころか地獄絵図に。抗日ゲリラに手を焼き、第二次大戦が始まるとソ連の参戦、そして戦後は日本人でありながら中国に留まることを余儀なくされた。当然、日本人は敵対国なので、イジメに遭い……。インタビューや手紙などで綴る、ルポルタージュ。

満州開拓団

Manchukuo_map 満州国の名前は聞いたことがあったのですが、地理的には不確かだったのでどの辺りにあったのかを確認しました。モンゴルと内モンゴル自治区くらいかな、と思っていたのですが意外と広い! そしてモンゴルが入っていませんでした。
 満州事変の詳細が『満州・その幻の国ゆえに』では記されていないので、このブログに書いておきます。

満州事変

 満州は昔、ロシアの領土だったのですが、日露戦争で日本が借りるという条約を結びます。しかし実質的には中華民国の領土でした。日本としては満州を手に入れたい。
 関東郡参謀石原莞爾らは1931(昭和6)年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道を爆破し、これを中国軍のしわざとして、軍事行動を開始し、満州事変がはじまった。(中略)翌1932(昭和7)年になると、軍はほぼ満州国の主要地域を占領し(中略)宣統帝溥儀を執政とし、満州国の建国を宣言させた*1。
 表向きは日本が満州国の独立を助けたということになっているのですが、実際には日本の傀儡政権だったのです*2。

満州開拓団

 そのような背景のもと、満州開拓団を募りました。「日本で貧しく暮らすよりも満州で楽しく一旗上げよう」という思いで、農村を中心に集まります。とりわけ長野県は満州移民に熱心で「分村」を多く設立しました。山田タミも長野県読書村の出身です。また満蒙開拓団は各都道府県にノルマが課せられていました*3。
 他にも「当時は左翼インテリが満州へ行く風潮があ」ったそうです。例えば房吉と言う青年は、
 マルクス主義に惹かれて警察に監視され、一般村民からも白い目で見られがちであった。彼は日本では生きていけないから、満州の新天地で存分に活動したいといって、みずから先遣隊をかってでた。
 とあります。
 また、開拓団は「王道楽土」というスローガンを掲げていました。これは、「アジア的理想国家(楽土)を、西洋の武による統治(覇道)ではなく東洋の徳による統治(王道)で造るという意味が込められている」*4というもの。しかし「また、第一次武装移民団と(中略)、翌年に公心集近くの千振村に入植した第二次武装移民団の土地の大半は現地民の既耕地で、入植に先立って満州開拓公社が安値で取り上げたもの」でした。このことが後に恨みを買うことになります。
 山田タミの家もまた「ただ同然で強制収用したもの」で、王道楽土の理念からは程遠いものでした。彼らは村報を発行し、内地に送っているのですが、その中に匪賊という言葉が出てきます。
 この匪賊は字義通りに解釈すれば盗賊団なのですが、実体は抗日ゲリラでした。
 例えば一九三四年に土龍山一帯の現地民が謝文東の指導で「東北民衆自衛団」に結束し、日本の武装移民団や現地駐屯軍を攻撃し」ました。しかし房吉はそれを知りませんし、タミもまた満州の人から開拓団が「購入」したとしか聞かされていませんでした。

言語について

 『満州・この幻の国ゆえに』では触れられていませんが、以前、ピジン言語について調べたときに満州語の文法を知りました。とても興味深かったのでご紹介。
 実は満州語は日本語と文法的に極めて似ているのです*5。
・主語、修飾語、被修飾語、述語の順番
・「彼は酔った人である」などのように名詞を動詞で修飾したいとき、英語ではHe is a man who drink alcohol too muchというが関係代名詞を使わない。代わりに動詞の連体形を使う。
・屈折語ではなく膠着語である。助動詞が動詞の語幹に付くことで過去形を作る(英語もadventuredなどはその傾向にあるが、中にはmadeなど動詞そのものが変化することもある)
・後置詞と呼ばれる品詞があり、動詞の後に付くことで、命令文などを作る。これは終助詞のような品詞である。例えば、英語だと「Do not look」などと助動詞を先頭に持ってくることで命令文を作るが、「見る」などのように動詞の後に語を付けて禁止などの意味を作る。
 そして朝鮮・韓国語*6やモンゴル語*7もこの3つの特徴があります

ソ連侵攻

 さて、当時、日本はソヴィエトと不可侵条約を結んでいましたが、1945年4月5日、ソヴィエトは破棄を表明しました*8。日ソ不可侵条約は「満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全」*9も謳っています。

残留へ

 当然、これも無効になり、満州はソヴィエトの侵攻に遭いました。当時の様子をタミはこう振り返っています。
「さっさと乗れ」とタミは背中を押され、列車に乗りかけた。すると別の誰かに「非国民! 逃げるとは何事か」と引き戻された。
 その後、「幹部たちの命令で全員開拓地に踏みとどまることにな」ります。そして人々が家に帰ると、略奪に遭っていたのでした。始めこそ「不案内な土地へ移動するのは危ない」などと理由を付けて、非難はしませんでした。

逃避行

 しかし八月十五日、現地民が洋梨片村で草刈り鎌、斧、日本刀、竹槍などを手にして、集団蜂起します。他にも、蜂起は中和屯村でも起こりました。
 洋梨片と中和屯の二部落は、読書分村の先遣隊が本体を迎える一年前の一九三八年七月から住みついていた土地で、ここも満州公社が現地民からただ同然の安値で取り上げたものであった。二部楽を襲ったのは、主にその現地民だといわれている。
 現地民の襲撃は珍しくありませんでした。「纏足の老婆までも鎌を振りあげ、怨みの声をあげながら日本人たちを追いかけた」と言います。このような状況を生き延びた青年の話によれば、「土地や家屋を奪われた怨みによるもの」でした。
 蜂起からタミたちは逃げたのですが、「敵」は現地民ばかりとは限りません。
 タミは自決したがる母を叱り、五歳の妹を背負って歩いた。タミのすぐ下の妹が一歳の妹を背負い、休むときはタミが一歳の赤子を抱いていた。赤子を母に渡すと道づれにして自決されそうだし、それに母の乳房は空っぽだった。タミはわずかな食べ物を嚙みくだいて、口うつしに一歳の妹に食べさせて命をもたせた。
 もちろん錯誤などもあるでしょうからタミ一人の証言に頼るのは危険でしょうが、貴重な記録です。

ソヴィエト

 逃避行の末に待っていたのは、ソヴィエト兵でした。もちろん紳士的に扱われるはずもなく、惨状が繰り広げられます。
 ソ連兵は地面にじかに寝ている避難民を軍靴で踏みつけながら、適齢の女を捜し回り、見つけ次第、近くの空地で次々と犯した。輪姦に次ぐ輪姦にたまりかねて叫び、その場で射殺された娘。娘が犯されて発狂した母。抵抗する女を銃尾で殴る音。(中略)タミは軍歌に踏みつけられても、奥歯を噛みしめて耐えた。
 中には「親切な将校」もいたのですが、このような経験から元満州開拓民たちはソ連を憎んでいる人も少なくありません。
 女性たちは生き延びるために満州人の妾になるしかありませんでした。例えば現地民の豆腐屋に嫁いで、暖かそうな服を着せてもらった人。当時の日本人は陰口を叩いていましたが、高待遇に惹かれて、次々と嫁いでいきます。
 しかしタミ自身は収容所へ残りました。看護師の資格を持っていたため、その後、八路軍の高待遇に惹かれ衛生兵として入隊します。しかし妹たちが心配で一週間で除隊しました。
 その時の看護婦仲間には結婚して、長野県に帰郷。給食婦として公立学校で勤務し始めますが、「ひところ、中共に洗脳されたアカだと言われ、日本社会の狭量さを痛感させられたとい」います。

中国残留

 さて、タミは中国に留まり子供を作りましたが、結婚の際に一悶着ありました。差別意識もあったのでしょう。タミの母から満州人に嫁がせたくはない、と言ったのです。もちろん自由恋愛で結婚するのではありません。文字通り養ってもらうために、嫁ぐのです。
 結婚相手のWは旧日本軍の倉庫から盗んでは売買していました。そのため、羽振りがよかったのですが、売上はみんな情婦の人妻に渡してしまいます。しかも情婦とタミの部屋は同じで、Wの不倫現場が見えるのです。

近所付き合いの変化

 タミが炊事をするときには、親族はおろか、近所の人まで寄ってたかって嘲笑しました。しかも
 生活習慣の違いでまごつくとWの手が頬に飛ぶ。Wは極端に短期で、折檻も激しかった。小柄でやせたタミはWの一撃で部屋の隅まで吹っ飛んだ。
 とあるように今で言うところのDVを受けていました。しかしWの家を追い出されたら家族が凍死してしまいます。タミは耐えるしかありませんでした。
 このような仕打ちは現代的な視点から考えれば、到底許されることではありませんが、恐らくタミが日本人だということが原因ではないでしょうか。満州の人は日本政府や関東軍を恨んでいたのは言うまでもありません。しかし、直接的に復讐はできないので、日本人のタミをいじめて満たしていたのだと考えられます。
 その証拠に「日本鬼、ざまを見ろ」という言葉で罵られていますが、タミ個人というよりは日本人だからいびっている風に読み取れました。
 あとがきで述べているように、加害民衆は被害者であり、加害者になることによって被害者になり、被害者は加害者となる──そういう重層的な仕組みの中に在るからこそ、民衆は悲しい歴史を繰り返す」のでしょう。これについてはタミが積極的に手伝い、だんだんと改善していきます。そして次第に共同体へ溶け込んでいくのです。
 例えば彼女の子供が現地の子供に「日本鬼子」などといじめられるとタミは、「叩くならおばさんを叩きなさい。この子に罪はない」と言ってかばいました。それを見て、現地の女性は「おとなしい民おばさんがおこるのだからよほどのことだ。もういじめてはいけないよ」とタミ親子を助けてくれたそうです。
 さらにかばったのは村民だけではありません。「共産党員の知り合いは、人民と日本帝国主義を分けており、人民はいじめてはならない」と言ってくれました。しかし村民もタミには親切でしたが、反日感情は根強かったそうで、それがタミにとって辛かったと言っています。

ヒューマニズムの裏には

 日本人の孤児を満州の人は積極的に引き取った、という事実だけを見れば、人道的に見えるでしょう。しかし、
 当時は売買婚だから女の子なら売れるし、男の子も将来、労働力として役立つと考えた人も中にはいただろう。植民地教育により、日本人は頭がいいと思い込まされていた人たちは日本人の子は将来役に立つというので孤児の世話をした。
 とあるように打算もあったのではないかと分析しています。

文化大革命

 さて、一九六六年の中国では文化大革命が起こります。毛沢東が資本主義思想を排除し、社会主義一色に中国を染める、と言う名目で政敵を追放したのです。ちなみにこのときに国民党の蒋介石は政争に破れ、台湾へ逃げ延びました。
 文化大革命では、労働者の敵を黒五類と呼びます。具体的には「地主、富農、破壊活動分子、反革命、右派分子」の5つ。日本人も黒に含まれ、差別されることになります。
 一方で労働者階級は紅として、高待遇を受けるはずでした。しかし日本人を妻に持っているので、Wは「黒」として冷遇されます。
 日中関係、中国人の対日感情が悪化しないという絶対の保証がない限り、日本人との文通の証拠など持たない方が中国人にとっては安全なのだ。「里通外国(外国と密通)」の罪に問われでもしたら、彼らが気の毒だ、とタミはいう。中国で生きる子どもらを思えば言動に気を使わざるを得ないともいう。
 このような理由から、タミは日本に帰っても、中国の友人に返信を出しませんでした。ようやく一九七二年の日中国交正常化で、気軽に文通などができるようになりました。
 そして一九七五年に一時帰国を果たすのです。

*1 石井進、笠原一男、児玉幸多、笹山晴生[他]『詳説 日本史B』(山川出版社)
*2 加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』(岩波書店)
*3 Wikipedia「満蒙開拓団
*4 Wikipedia「王道楽土」 
*5 Wikipedia「満州語
*6 飯田秀敏、イウナ『韓国語を学ぼう』(私家版)
*7 Wikipedia「モンゴル語
*8 Wikipedia「日ソ中立条約
*9 同上



コメントする

名前
 
  絵文字
 
 

ダグ・リーマン[監督]『ボーン・アイデンティティ』(ユニバーサル・ピクチャーズ)

ボーン・アイデンティティー [DVD]

あらすじ

 海を漂っていた男を、イタリアの漁船が救助する。銃弾を受け、海に投げ出されていたのだ。彼は意識を取り戻すが、名前すら思い出せない。皮膚の下にはマイクロカプセルが埋め込まれており、レボタンを押すとレーザーで銀行口座が映し出された。
 チューリッヒの銀行に到着して、貸し金庫に預けていたものを受け取ると、ジェイソン・ボーンだと書かれていた。しかし各国の紙幣や別名義のパスポートも複数枚見つかり……。

自分探しの物語

 アイデンティティと日本語で言いますが、同一であること、同定することという意味です。アイデンティティは「自己同一性」とも訳され、過去の自分と現在の自分が同一人物だと考えている根拠です。
 偽造パスポートが複数ある場面は、分裂しているアイデンティティの象徴とも言えましょう。監督も語っているように*1この物語は自分を探す物語ですが、果たして自分を失っているのはボーンだけでしょうか。
 マリーもまた自分を失っているように思います。マリーは「放浪癖があり」*2、帰る家がありません。アイデンティティと言えば、自分だけの問題だと捉えられがちですが、アイデンティティは帰属意識に関わっています。例えば日本人、家系。これらの事柄は自分自身と密接に結びついていますが、マリーは帰る家がありません。つまり、家を通して自分を探しているのです。
 流浪の民という点においても、各国の紙幣がジェイソン・ボーンの貸し金庫から見つかったというのは示唆的。各国の紙幣もまたマリー同様、流浪の旅を連想させます。

*1 『映像特典 ダグ・リーマンによる音声解説』(ダグ・リーマン[監督]『ボーン・アイデンティティ』ユニバーサル・ピクチャーズ)
*2 原文はGypsyとなっている。放浪癖というと、家があるように聞こえるが、Gypsyは流浪の民である。



コメントする

名前
 
  絵文字
 
 

ポール・グリーングラス[監督]『ボーン・スプレマシー』(ユニバーサル・ピクチャーズ)

ボーン・スプレマシー [DVD]

あらすじ

 記憶喪失のCIA諜報員、ジェイソン・ボーン。彼は恋人とともにインドでひっそりと暮らしていた。しかしトレッドストーン計画の全容を知られたらCIAにとって不都合である。
 ジェイソン・ボーンを抹殺すべく、CIAはインドまで諜報員を送り込んだ。恋人はその巻き添えで死亡。果たしてトレッドストーン計画とは一体何なのか?

自分探し

 冒頭はジェイソン・ボーンの夢の断片から始まります。もちろん、物語の暗示、記憶喪失の明示などを示しているのでしょうけど、それだけなら他の方法でも構いません。夢の断片を示すことで、自分の過去を探す、つまり自分探しの主題につながってくるとも解釈できます。

フロイト

 まずフロイトの話からしましょう。コップで水がどうしても飲めないという症例を報告しています。そして嫌いな犬がコップを舐めていたことを思い出した途端に、飲めたと言います*1。
 しかし、普段は思い出せません。思い出さないことで自我を保っているのです。これを契機に精神分析を確立していくのですが、その中でも特に夜見たときの夢を重視するのです。普段は意識しないだけで鮮烈に残っている出来事が夢となって現れてくると、フロイトは考えました。

ジェイソン・ボーン

 『ボーン・スプレマシー』の冒頭もそのような意味があると考えます。この場合、フロイトに代わって恋人のマリーが夢の意味を探っていますが、「2年間書き続けているが、イヤな夢ばかり。ずっとその繰り返しだ」とボーンは弱音を吐いています。
 これに対して「だから書くのよ。やがていいことを思い出すわ」と答えて、夢の書き取りを促します。夢から過去を探るという方法は精神分析の方法そのものです。

謎解き

 『ボーン・スプレマシー』はジェイソン・ボーンが自らの謎を解く、という点で謎解きと言えましょう。確かに『ボーン・アルティメイタム』などでも同じことは言えますが*2、『ボーン・スプレマシー』では自分の過去と自覚的に向き合っています。
 自らの罪を自ら探し出しているのです。そして遺族を探し出し、最終的に謝罪を行ないます。「愛するものを失ったとき、その真実を知りたくなる」とあるように冒頭のマリーの死は重要な意味を持っています。 
 そして、ジェイソン・ボーンもまたこの言葉通りに真実を知るのです。

*1 ヨーゼフ・ブロイアー、ジグムント・フロイト『ヒステリー研究(下)』(筑摩書房)
*2 『ボーン・アルティメイタム』でも自分の秘密を探るが、自分の「罪」と向き合うことはしていない(ポール・グリーングラス[監督]『ボーン・アルティメイタム』(ユニバーサル・ピクチャーズ)。



コメントする

名前
 
  絵文字
 
 

ポール・グリーングラス[監督]『ボーン・アルティメイタム』(ユニバーサル映画)

ボーン・アルティメイタム [DVD]

あらすじ

 記憶喪失の元CIA諜報員、ジェイソン・ボーン。彼は自分の本名を知ることになる。そして秘密の訓練計画を通じて、暗殺者に仕立て上げられたとも。その計画の全容を知るため、ロンドンでジャーナリストのサイモン・ロスに接触を図った。
 しかしサイモン・ロスはCIAに射殺され……。

マフィアのほうが

 恐らくですがCIAのロンドン支部はありません。アメリカは世界各地で諜報活動を行なっていますが、「ロンドン支部」という大々的な建物は実在しないでしょう。
 つまり現実にないと推測できるものを、あることにするには作品世界で描くにはそれなりの説明が必要です。フィクションだから何でもありではありません。あまりに絵空事だと嘘くささが目立ってしまうのです。大きな建物を写さないか、小さなアパートの一室にすればいいだけ。
 もし、どうしても大きな建物を写したいのなら、国際的なマフィアにすれば、話の筋を変えずにリアリティも出せます。
 それに子供ならともかくいい大人が簡単に洗脳されるものでしょうか? これは物語全体の問題だと捉えるかもしれませんが、銃撃、カーチェイスなどを短くして、洗脳の描写を長くすれば解決します。アメリカのアクション映画はカーチェイス、銃撃戦ばかりです。そしてジェイソン・アルティメイタムも基本的にそれを踏襲していました。
 また「決着を付ける」と言っていたわりに、続編ありきのラストです。人気作なので、続編を作って儲けたいという映画会社の魂胆が透けて見えました。

CIAと戦う

 さて、カーチェイス、銃撃戦という点だけ見ればどれも似たり寄ったり。しかし、ジェイソン・ボーンシリーズの特徴として、CIAが敵ということが挙げられます。アメリカ映画は外国が敵、アメリカが味方の勧善懲悪が多いのですが*1、CIAが敵に回るという筋書きは珍しいと思いました*2。

フランケンシュタイン

 さて、もう一つの軸として、自分探しが挙げられます。このテーマは「ボーン・スプレマシー」*3のほうが色濃いのですが、ボーンが計画責任者、ハーシュ博士に復讐を遂げるという筋は『フランケンシュタイン』*4を思い起こさせました。
 『フランケンシュタイン』の怪物とジェイソン・ボーンの共通点は下記の通りです。
・科学によって生み出された。
・完全に悪は登場しない。『フランケンシュタイン』の怪物は女の子を助けて、ジェイソン・ボーンもウォンボシの暗殺を躊躇った過去がある*5。しかも両者は子供が関係している。
・フランケンシュタイン博士は名誉欲に、クレイマー長官は金銭欲に動かされている*6。


*1  ジョン・ファヴロー[監督]『アイアンマン』(ソニー・ピクチャーズエンタテインメント)、テイラー・ハックフォード[監督]『ブルーフ・オブ・ライフ』(ワーナー・ホーム・ビデオ)など。
*2 CIAが敵に回るハリウッド映画は『RED』が挙げられる(ロベルト・シュヴェンケ[監督]『RED』ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社)
*3 『ボーン・スプレマシー』では夢から過去を糸口を掴む。この発想はフロイトの影響が強いだろう(ポール・グリーングラス[監督]『ボーン・スプレマシー』ユニバーサル・ピクチャーズ)。
*4 メアリ・シェリー『フランケンシュタイン』(東京創元社)
*5 ダグ・リーマン[監督]『ボーン・アイデンティティ』(ユニバーサル・ピクチャーズ)
*6 ポール・グリーングラス[監督]『ボーン・スプレマシー』(ユニバーサル・ピクチャーズ)



コメントする

名前
 
  絵文字
 
 

ガザーリー『哲学者の自己矛盾』(平凡社)

中庸の神学: 中世イスラームの神学・哲学・神秘主義 (東洋文庫)

概要

 当時、ギリシアの論理学などがイスラム社会に入っていた。それにつれ、合理的にコーランを解釈しようとする知識人が現れてくる。例えば医師で自然哲学者のイブン・スィーナー。
 後にスンニ派を形作るガザーリー。『哲学者の自己矛盾』では当時の唯物論者たちの矛盾点を明らかにしている。

日本人とイスラム教

 イランなどの中東情勢が話題になって、シーア派、スンニ派くらいは耳にすることも多いでしょう。しかし、イスラム教の派閥だというくらいで深くは知らないのではと思います。
 かくいう僕もそのような認識でした。しかし、イスラム教を舞台にした同人小説の依頼を受けて、読んでみたのです。

僕の宗教観

 まずこのような本の感想を書く前に、僕の宗教観について語っておかなければなりません。幼稚園はカトリック、高校は浄土宗でしたが、僕自身は無神論者です。死んだら灰にになりますし、意識そのものがなくなります。復活も輪廻転生も信じていません。
 しいて言えば理神論になるのでしょうが、人格神は存在しないと思っています。
 しかし、宗教そのものに嫌悪感は全くありません。むしろ細かな教義の差や宗教対立の背景に興味があります。学問としての宗教、文化としての宗教、歴史としての宗教には強い興味があるのです。

ヨーロッパ人とアル=ガザーリー

 さて、ヨーロッパとイスラムといえば犬猿の仲。またヨーロッパは進んでいて、イスラムの国々は遅れているというイメージがあるかもしれません。しかし、少なくとも十三世紀以前はイスラムのほうが自然科学が進んでいたのです*1。
 そして皮肉なことに、アリストテレス、プラトンなどの哲学、ピタゴラス、ユークリッドなどの数学は一旦、アラビアを介してヨーロッパに逆輸入されました*2。その際にアラビアの哲学者も一緒に伝わったのです。
 ガザーリーは詳しく書くとアル=ガザーリー*3なので、「アルガゼル」とラテン語風に訛りました。他にもイブン=スィーナーがアヴィケンナとして伝わります。以下は混乱を避けるためにアラビア語の呼称で統一。

ガザーリーとギリシャ哲学

 さて、ガザーリーにせよ、イブン=スィーナーにせよ、古代ギリシアの哲学から大きな影響を受けています。その理由については「預言者ムハンマドの死ととも啓示が断たれた後では、どのようにそれ〔有沢注:倫理を〕死るのかなどについて議論されるようになる」*4と解説されているように、論理的に説得しなければなりません。
 そしてギリシャ哲学こそ議論に相応しかったのです。例えばプラトンの『テアイテトス』*5などは非常に論理的な議論が組み立てられています。

アリストテレス

 アリストテレスは『オルガノン』*6などで論理学について考察しています。三段論法については『哲学者の自己矛盾』などでも使用されていますが、これはアリストテレスの影響です*7。
 またすべての物には原因がある、という風に考えていけば、自ずから原因の原因があるのではないかと考えるでしょう。
 万物の根源という考えは、タレスなどにもさかのぼります。アリストテレスは『形而上学』*8で、今までの説を総括し、四元素説を唱えていました。また、すべての原因を仮定して、それを第一原因と名付けています。
 そしてこの第一原因が運動をもたらして世界は形作られている、というのがアリストテレスは考えました*9。

プロティノス

 さて、この第一原因という考えですが、プロティノスは一者からの流出しているのではないかと考えます*10。
かしこのもの、それは、始原であり、そこからじかにこの世界のすべてのものは生じ、今ある姿をとるのである。たしかに始原の原因を探求してはいけないというのは正しい忠告である。特に、目的と同一であるような、完全な始原の場合には、始めでもあり、終わりでもある、この始原は、実に、同時に宇宙全体なのであり、欠けるところがないものである。
 アリストテレスはあくまでも全ての根源として、論理的に説明しようとしていました。しかしプロティノスは論理的な説明に加え、人格神として第一原因を仮定しています。また「あるいは善と根源的美とを同一視すべきである」*11とあるように、真善美についても考察しています。
 そして、これがガザーリーに受け継がれていくのです。
神は変化を超えた高みにあり、運動は変化だからである。しかし、神は善の流出のために運動を選ばれた。神以外のものがそれを利用できるものであるが、神には運動は何の苦にもならず、何の疲れももたらすものではないからである。
 このように『哲学者の自己矛盾』で述べていますが、アリストテレスの運動論、プロティノスの一者から影響を受けていることは間違いありません。

スンニ派

 さて、『哲学者の自己矛盾』を読む限りにおいて、ガザーリーは既存の哲学へ苦言を呈しているだけに留まっていると思うでしょう。実際、ガザーリー自身も『哲学者の自己矛盾』の中でそのように述べています。
 しかし、スーフィズムに接近し、後にスンニ派を立て直しています*11。このことからも解るように、ガザーリーは単に批判屋で終わりませんでした。



*1 矢島祐利 『アラビア科学の話』(岩波書店)
*2 B・C・ヴィッカリー『歴史のなかの科学コミュニケーション』(勁草書房)
*3 アル=ガザーリーのアルは定冠詞で、アルジャジーラなどと同じ意味を持つ。
*4 中村廣治郎「解説」(ガザーリー『哲学者の自己矛盾』平凡社)
*5 プラトン『テアイテトス』(岩波書店)
*6 アリストテレス『トピカ』(京都大学学術出版会)
*7 Wikipedia「三段論法
*8 アリストテレス『形而上学(上)』(岩波書店)
*9 アリストテレス『自然学』(岩波書店)
*10 プロティノス『美について』(講談社)
*11 Wikipedia「ガザーリー



コメントする

名前
 
  絵文字
 
 

チャールズ・チャップリン[監督]『独裁者』(ユナイテッド・アーティスツ)

独裁者 The Great Dictator [Blu-ray]

あらすじ

 時は第一次大戦のトメニア。二等兵だったユダヤ人の床屋は、シュルツと重要書類を手に飛行機へ乗り込んだ。しかし燃料が切れて墜落する。書類を届けようとしたときには、トメニアはすでに降伏していた。やがてシュルツは出世し、突撃隊長に抜擢される。
 一方、ユダヤ人の床屋は墜落事故で20年間、記憶を失っていた。その20年で、トメニアは激変。ヒンケルが独裁者として君臨。しかし、この政変をユダヤ人の床屋はまだ知らない。しかもヒンクスとユダヤ人の床屋は偶然にもそっくりだった……。

ヒトラーへの批判

 『独裁者』はヒトラーへの諷刺、批判を込めて作られました。ナチスの鉤十字と、ヒンクスの旗が酷似していることからも解りますね。 そしてチャップリンの主張は、最後の演説に集約されています。
 ユダヤ人も黒人も白人も お互いに助け合わなくてはならない。他人の幸せを願い、憎みあってはならない(中略)
 自由で希望に満ちた世界を作ろう。民主主義の名のもとに団結しようではないか。新しい世界のために立ち上がろう。雇用や福祉が充実した社会を作ろう。
 独裁者たちも同じ約束をした。だが口先だけで約束を守らなかった
 約束を果たすために立ち上がろう。世界を解放し、国境をなくし、貧困や憎しみを消し去るのだ。良心のために立ち上がろう。
 このように民主主義の重要性を訴えて、『独裁者』は幕を閉じます。Wikipediaによりますと「当時のアメリカはヒトラーが巻き起こした第二次世界大戦とはいまだ無縁であり、平和を享受していたが、この映画はそんなアメリカの世相からかけ離れた内容だった」*1とあります。
 しかしチャップリンは民主主義の重要性を訴えていますが、ヒトラーはクーデターなどで独裁者になったのではありません。選挙で当選*2。
選挙では「ヒンデンブルクに敬意を、ヒトラーに投票を」をスローガンにし、膨大な量のビラをまき、数百万枚のポスター、財界からの支援で購入した飛行機を使った遊説や当時はまだ新しいメディアだったラジオなどで国民に鮮烈なイメージを残した。
いわば合法的に独裁者へなりました。もちろん、ヒトラーの行ないは擁護しませんが、どのような背景がヒトラーのような独裁者を生み出したのかを真剣に考えなければいけません。英仏の戦争賠償*3や、世界恐慌*4なども原因でしょう。
 またチャップリンはユダヤ人ではありませんが*5、黄金狂時代ではゴールドラッシュを風刺しており、社会現象に対して関心があったと解ります。

喜劇の方法

 さて、どのような高邁な思想でも、観客が見なければいけません。民主主義である以上は知識人だけでなく、大衆を相手にしなければ意味がないのです。そこでチャップリンは喜劇という方法を選択したのでしょう。
 喜劇的な演出は、大砲の弾を間違って自国に打ち込むなど枚挙にいとまがありません。

シェイクスピアの喜劇

 さて、シェイクスピアは喜劇でほとんど毎回と言っていいほど、勘違いを扱っています。例えば、『十二夜』*6のオッシーノとヴァイオラ、『間違いの喜劇』*7のアンティフォラス兄弟など。
 『独裁者』も勘違いから巻き起こる喜劇。この発想はシェイクスピアの影響を受けているのではないでしょうか。

ベルクソンの『笑い』

 ベルクソンは喜劇論の『笑い』*8において、次のように述べています。「人間のからだの態度、身振り、そして運動は単なる機械を思わせる程度に正比例して笑いを誘うものである」と。例えばハンガリー舞曲に寸分違わず、髭をそる場面がこの例に当てはまりますね。また『独裁者』では床屋とヒンクスの取り違えが置きますが、ベルクソンは類似性についても下記の言及をしています。
完全な類似のあるところには、我々は生けるものの背後に働いている機械的なものがありはせぬかと首をかしげる。あんまり酷似している二つの顔に対面したときの諸君の印象を分析したまえ。(中略)何か工業的製作の作業工程を念頭に浮べていられるのを御覧になるだろう。生をこうして機械の方向に撓め曲げることが、ここ〔パスカルの言う〕では笑いの本当の原因である。
 ベルクソンの論述には賛同できない部分もありますが、少なくともチャップリンの『独裁者』において、この論考が当てはまります。ヒンクスがユダヤ人の床屋そっくりいうばかりではありません。
 機械として見るということは感情移入の排除であり、それゆえ、突撃隊がフライパンで叩かれても、ヒンクスがパイを投げられてもある種の安心感を持って笑いに変えられるのです。もし、突撃隊へ感情移入させた後、フライパンで叩いたらハンナに好ましくない感情が湧くでしょう。

ドリフターズの喜劇

 さて、ドリフターズの喜劇と独裁者の場面はいくつか共通しています。
 例えば『独裁者』ではハンナがフライパンで突撃隊の頭を叩きますが、ドリフターズでは金盥が落ちてきます。ヒンクスがネクタイを引っぱられ、跳ねて顔に当たる場面は、ゴムパッチンなどの原型と見て間違いないでしょう。またパイを投げて、顔に当たる場面もあります。
 ドリフターズは少なくともチャップリンの独裁者からこれらの方法を習得したのでしょう。しかし、ドリフターズは方法としての喜劇から喜劇の方法へと変化させてしまったのです。


*1 Wikipedia「独裁者(映画)
*2 Wikipedia「アドルフ・ヒトラー」。
*3 Wikipedia「レンテンマルク
*4 Wikipedia「世界恐慌
*5 Wikipedia「チャールズ・チャップリン
*6 ウィリアム・シェイクスピア『十二夜』(白水社)
*7 ウィリアム・シェイクスピア『間違いの喜劇』(白水社)
*8 アンリ・ベルクソン『笑い』(岩波書店)。なお人間を機械として扱うのはむしろ『モダンタイムス』に当てはまる。


コメントする

名前
 
  絵文字
 
 

井筒俊彦『イスラーム文化』(岩波書店)

イスラーム文化―その根柢にあるもの (1981年)

概要

 オイルショックの際、井筒俊彦はビジネスマンに向けて講演しており、その書き起こしである。しかし、今日の中東情勢を考えると、ますます『イスラーム文化』の価値は失われていないと言えるだろう。
 さて、イスラム文化はコーランに基づいているのは言うまでもない。コーランは預言者ムハンマドがアラーの啓示を聞いて、書き留めたものであるが、他にムハンマドの言行録、ハーディスという聖典もある。
 コーランとハーディスをどのように解釈するかで、シーア派、スンニ派、スーフィズムに大きく分かれた。

ムハンマド

 ムハンマドについては井筒俊彦が『マホメット』*1に書いているのでこちらも参考になります。

ムハンマド以前

 ムハンマド以前は砂漠に遊牧民がいました。彼ら、ベドウィンは保守的な部族社会であり、血統を大事にしていました。
 それゆえ、部族間の衝突が跡を絶ちませんでした。どの部族が優れているのか戦いに明け暮れていたのです。その上、復讐を義務としていました。
 誰か人が殺されたのに、復讐がなされない場合には死者の頭の上から一羽の鳥が飛び出てくるものと信じられていた。この鳥は(中略)不気味な声で鳴き続け、復讐が遂げられるまでは姿を消さないという。
 このような価値観でベドウィンたちは生きていたのです。

ムハンマドの出現

 一方、ムハンマドはメッカに生まれますが、ここは様々な文化が交わるところ。
 海上貿易で古来有名な南アラビアをはじめ、ビザンチン帝国支配下のシリア、それにイラン系なササン王朝支配下のイラクと緊密な商業関係にある国際貿易の中心地であり、特に南アラビアのイェメンとシリアとの間にあって東西貿易の中継地として重要な役割を果たしていたところであります。
 つまりイスラム教は商業的な影響を色濃く反映しているのだ、と井筒俊彦は指摘しています。実際、コーランには「背信行為の繰り返しが、不正な商売で稼ぎためる悪銭に譬えられて」いるように、商いの比喩が多く見られます。
 キリスト教では神と信者は父子関係ですが、コーランではアラーを相手に商取引をしているのだといえましょう。
 ベドウィンに関してムハンマドは不信感を抱いていました。その証拠にコーランでは、ベドウィンに対して警告をしています。
 ムハンマドはメッカで布教を始めますが、初めは過激ではありませんでした*2。したがって商人たちもムハンマドの布教に寛容だったのですが、段々と過激になっていきます。
 井筒俊彦は『マホメット』の中で下記の通りに記しています。
 マホメットの妥協的政策とは関わりなく(中略)、彼の宗教は時が経つに連れ、(中略)純セム的な唯一人格教の峻厳な性格を取り始めた。ユダヤ教やキリスト教でも分るように一切の妥協を断乎として拒絶する激烈なものだ
 この結果、メッカを捨ててメディナへ逃れるのですが、そこはユダヤ人の金融街。ユダヤ人と言えばシェイクスピアの『ヴェニスの商人』*3、ドストエフスキー『罪と罰』*4で高利貸しとして描かれていますが、実際、ムハンマドの頃からユダヤ人の多くは金融業者に就いていました。
 ユダヤ教はエホバの啓示によって、教典がまとめられています。したがってメッカでは教典などと言えば異端視されていましたが、メディナの人にとっては違和感がありませんでした。
 またコーランの性質も変わっていきます。メッカでは信じないと死後に地獄へ落ちる、と終末論的な性格だったのですが、メディナでは現世利益を説くようになっていきました*5。

単なる砂漠の宗教ではない

 さらにムハンマドの死後は、「古代オリエント文明の領域に広がっていきます」とあります。これはバビロニア王国などに広まったと考えても辻褄が合いません。恐らく、サラセン帝国のことをさしているのではないでしょうか。サラセン帝国なら北アフリカから果てはスペインの一部まで広大な領土を収め、下記の文章とも整合性が取れます。
 アラビアに生まれたイスラームが突然、まず第一に、ギリシア文化の栄える豊穣な地中海世界の真ん中に飛び込んでいく。後期ギリシア、いわゆるヘレニズムの世界です。明るく知性的な古典ギリアの精神的遺産は勿論のこと、(中略)新プラトン主義など、いわゆる秘教的(中略)な潮流がドっと流入してまいりまして、イスラーム文化の地中海的性格というべきものがそこで形成されます
このように考えていくと、一口にイスラム教と言っても単に砂漠の宗教と言えないとお解りになるでしょう。さまざまに異なる伝統が入り乱れているのです。
 現に服装一つとっても、イランとアラブ首長国連邦とマレーシアの服装ではかなり違います。例えばマレーシアのヒジャブ*6はスカーフのみですが、アラブ首長国連邦のアバヤ*7は顔まですっぽり覆います。もちろん気候や文化などでその土地土地で再解釈された結果でしょう。
 つまり文化的に多様な人をコーランとハディースによって統一していたのです。コーランの解釈学を中心に発展したと言っても過言ではありません。
 もちろん、聖典の解釈だけで言えば、他の宗教にも当てはまります。例えばヒンドゥー教の場合、リグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダの四つの聖典、仏教なら、様々な仏典があります。しかしイスラム教は原則的に聖典はコーランのみ。
 『コーラン』はアラーの言葉だけをそのまま直接に記録した聖典として完全に単層的です。そういう単一構成の書物がさまざまの方向に向って解釈されまして、それがイスラーム文化を生んでいく、そこに大きな特徴があります。
 さて基本的にコーランを解釈することで一つの文化を形成したので、大きな違いはないだろうと思うかもしれません。ところが、都合のいいように解釈したがるもの。それがアラーという絶対的な権威のもと行われていくのです。
 もっともこれはムハンマド自身も予想していたことで、彼の言行録、ハディースには分裂するだろうと予言*8されていました。

イスラム法

 さて宗教といえば、特に日本人は冠婚葬祭などの特別な場面でしか、馴染みがありません。日本はハレとケの文化であり、厳格に日常と非日常を区別しています。ハロウィーンやクリスマス、バレンタイン、誕生日、入学式、卒業式に至るまで、非日常(=ハレ)が関係しているのです。そして日常生活(=ケ)に戻っていく。宗教と日常をそのように切り分けているのです。
 一方のイスラームは日本と正反対。宗教が日常生活にしっかりと根づいているのです。ハラールなどはその典型。しかもイスラム法にまできっちりと明記されているのです。しかもその典拠となるのが『コーラン』! 
 日本では建前上、政教分離を行なっていますが、イスラームでは簡単に行なえないことが解るのではないでしょうか

倫理的な神

 イスラームにおいて、アラーは全知全能であるばかりではなく、常に最善を尽くします*9。イスラームに帰依すると、アラーと契約を結ぶことになります。
 アラーは人間に対して慈悲を掛け、人間は『コーラン』を遵守する、という契約です。
 人間はもとより、あらゆる被造物に慈悲を掛けることは、いわば神の義務であります。一見、人間の目に悪と見えることももっと大きな神の見地からすれば、実は善である。
 そんなバカなことがあるか、と思うかもしれません。僕はイスラム教はもちろん、全ての神は人間が作らなければいけなかったのだと考えています。その点、無神論に極めて近いのですが、倫理的な神を仮定すれば、少なくとも生きる意味を問うのに役立ちます。
 これはユダヤ人の精神科医、フランクルとも通じるところがないでしょうか。講演でフランクルは下記の通り述べています*9。
人生はそれ自体意味があるわけですから、どんな状況でも人生にイエスと言う意味があります。そればかりか、どんな状況でも人生にイエスということができるのです。
 例えば病気などになったとしましょう。それ自体はもちろん悲しいことですが、そこに意味を見出せば、落ち込まないで済むのではないでしょうか。例えば、体験記を書いて、同病の患者を励ましたい等の。

ムハンマドとの契約

 さてアラーとの契約を結ぶことになりますが、その代理人はムハンマドです。それだけではなく、同じイスラム教徒とも契約を結ぶことになります。兄弟姉妹として、同胞として。
 このような共同体をアラビア語でウンマーといいます。初めこそイスラームは個人の生き方を問うていましたが、このように社会的に制度化されていきました。

寛容なイスラム教徒

 原則的にイスラームは他の宗教に寛容です。イエス・キリストはイーサーという名で、モーセはムーサーという名で、預言者として載っているのです。しかも預言を民族に報せるという共通点を持っています。
 したがってあまり大々的に宗教行事を行わなければ、容認されていたのです。
 要するにイスラーム共同体というものは、単にイスラーム教徒だけでできている共同体ではなくて、イスラーム教徒がいちばん上に立ち、その下に複数の宗教共同体を含みながら、一つの統一体として機能する大きな「啓典の民」の多層的構造体なのであります。
 コーランに強制的に改宗させてはならないという文言があります。論理的に説得するのが理想ですが、政府は積極的に改宗を進めていたわけではありません。
 イスラーム教徒以外は人頭税という税金を支払わなければなりませんでした。つまり、改宗すると資金源が減るのです。
 このイスラーム教徒の政策は実に合理的、現実的だと感じます。反乱も防止でき、なおかつ軍資金も調達できるのですから。またサラセン帝国の傘下に入れば、財産の保護が約束されていました。

シーア派とスンニ派とスーフィズム

 シーア派とスンニ派は中東情勢が報じられるとき、耳にすると思います。
 これはコーランをどのように解釈するかで決まります。井筒俊彦はシーア派の中でもイランの国教、十二イマーム派に絞って解説しています。

シーア派

 シーア派の特徴として、コーランの字面だけを解釈するのではなく、その内面的な意味にまで一歩踏み込んで解釈しています。
 表面的な意味を内面化しつつ、それを原初のイデーにまで引き戻すということであります。例えば(中略)預言者ムハンマドのまわりに起ったいろいろな事件が具体的に記述されております。戦争とか、和解とか、ムハンマドの家庭に起った私的事件とか。(中略)内的解釈の結果、そこに立ち現れてくる根源的イメージの世界、それこそが(中略)純粋に精神的な聖なる世界だと解釈できるのです。
 字面こそ難しいですが、これは僕たちが文学作品を鑑賞する時のスタイルとある意味で似ています。作者について調べ、そこから主張を考えていく、という鑑賞の仕方ですね。
 そしてそのように解釈してもなお、普遍的、根源的な理念が想像できたら、それこそがアッラーの神託だと考えるのです。
 つまりシーア派はどうしても聖俗を区別せざるを得ません。加えて政治の世界はいくらコーランが典拠になってるといっても世俗の場だと解釈します。
 しかし、これは日常と神聖を区別し、イスラームの大原則、一元論と真っ向から対立します。

スンニ派

 これに対してスンニ派は大原則を忠実に守ります。つまり現世の実情もアッラーの言いたいことだと考え、コーランを典拠にしている以上は政治も神聖な場所だと解釈しているのです。
 したがって今、理想郷でないのは人間の怠慢であり、人間の努力で理想の社会が作れると解釈します。シーア派は理想を内面に求めていますが、スンニ派は社会に理想を求めていると言えるでしょう。

スーフィズム

 シーア派とスンニ派以外にももう一つスーフィズムという宗派があります。スーフィズムの特徴はは神秘主義的と徹底的な現世否定。神と我がいる以上、二元論になります。それゆえ、忘我や無我に至るべく苦行を詰みます。
 イスラームのスーフィズムに限らず、苦行はどこの宗派でも見られます。例えば神道でも滝に打たれますよね。
 実はある苦痛が一定の閾値を超えると、自分を守るためにエンドルフィンを出すのです*10。このエンドルフィンは脳内麻薬であり、苦痛を緩和し、幸福感をもたらしてくれます。
 ただあくまでも自分を守るためですので(宗教的な解釈はともかく)、生物学的にはお勧めしません。

*1 井筒俊彦『マホメット』(講談社)
*2 同上
*3 ウィリアム・シェイクスピア『ヴェニスの商人』(白水社)
*4 ドストエフスキー『罪と罰(上)』(新潮社)
*5 井筒俊彦『マホメット』(講談社)
*6 Wikipedia「ヒジャブ
*7 Wikipedia「アバヤ
*8 預言は神託であるが、予言は未来予測にすぎない。
*9 ヴィクトール・フランクル『それでも人生にイエスという』(春秋社)
*10 Wikipedia「苦行



コメントする

名前
 
  絵文字
 
 

ラウル・ペック[監督]『マルクス・エンゲルス』(カルチュア・パブリッシャーズ)

マルクス・エンゲルス(字幕版)

あらすじ

 1840年代のヨーロッパでは格差社会が広がっていた。そのような現状を変えるべく、二人のドイツ人が立ち上がる。一人はライン新聞の記者、カール・マルクス。彼は過激な主張で当時のドイツ政府から目を付けられていた。
 もう一人は紡績工場の御曹司、フリードリヒ・エンゲルス。二人は協力し、やがて一冊の本を書く。『共産党宣言』。

詰め込みすぎ

 僕は二人の思想に関心があり、見に行ったのですが、詰め込みすぎです。マルクスの恋愛、ラブシーン、出産、エンゲルスとの出会い、そして唐突な『共産党宣言』。二人の生い立ちを知っている人が見なければ内容は解りませんが、二人の知っていれば見なくてもいい、という矛盾を孕んでいるのです。もっと的を絞らないと、どこに注目すればいいか解りません。
 原題は‎Le jeune Karl Marx、つまり「若きカール・マルクス」という意味です。つまり、エンゲルスのことは一言も触れられていません。エンゲルス視点の場面をすべてマルクスに割けば、焦点が絞られるのではないでしょうか。いっそのこと『共産党宣言』の執筆から完成までを描いたほうがよかったかもしれません。
 また、マルクスの思想に影響を与えた哲学者の名前がちらほら出てきます。バウアー、フォイエルバッハ、ヘーゲル、アダム・スミス、リカード……。しかし話の筋と関わってくるのは、プルードンだけです。したがってプルードンの名前だけでいいのではないでしょうか。

ローリング・ストーン

 最後にローリング・ストーンが流れるのですが、意図は解ります。マルクスの時代だけでなく、現代にも通じる、と言いたかったのでしょう。しかし、『資本論』はエンゲルスが引き継ぐが、今なお、完成していない、という字幕だけで充分伝わります。
 1840年から突如、現代になるので違和感があるのです。しかもしばらくして再び劇中の音楽が流れ始めます。あのままローリング・ストーンで終わればまだ解りますが、挿入の方法が中途半端なため、より一層異質さが際立ちました。



コメントする

名前
 
  絵文字
 
 

ソン・ガンホ[監督]『タクシー運転手』(ショーボックス)

タクシー運転手 約束は海を越えて [DVD]

あらすじ

 時代は70年代の韓国。ソウルのタクシー運転手、キム・マンソプはデモ隊を運転の邪魔だとしか考えていなかった。そんなある日、羽振りのいい話を大衆食堂で聞きつける。ドイツ人記者、ピーターを光州にまで運べば10万ウォン支払うと言うのだ。初めは大金目当てだったが、光州で見たのは軍隊が無抵抗の市民に向けて発砲する姿だった。
 次第にキムの価値観も変わり、政治に関心を持ち始める……。

注意点が一つ

 パッケージの爽やかな笑顔を見て、心温まる映画だと思うでしょう。それは間違いではありませんが、生々しい死体の描写があります。特に病院の場面では実際の映像を使っています。
 僕は平気ですが、死体の描写が苦手ならご鑑賞を控えてくださいませ。

政治的背景

 『タクシー運転手』は実際の事件を描いています。しかも、映画だけから内容も必要最低限の情報は読み取ることができるようになっています。これは多分にソン・ガンホ監督が『タクシー運転手』撮影の動機にも関わってきます。
 「光州事件はあれほど大きな悲劇だったにも関わらず、40年近く経った今、韓国の若い人たちの多くは、何が起こったのかあまり深くは知らない状況です」
 と語っており*1、できるだけ『タクシー運転手』の中で状況を描かなければいけなかったのです。

政治から離れて

 さてこのように『タクシー運転手』は政治的な色彩が強い映画。しかしだからと言って毛嫌いするのはもったいない*2。
 政治的な文脈から切り離して鑑賞すると、下記の四点に注目できます。

映像表現

 さて、まず映像表現に注目しましょう。『タクシー運転手』では実際の映像が後半部、時折挟み込まれます。この表現効果は事実であると強調し、それゆえリアリティを生むのです。
 映画以外にも、サウンドノベルの背景などでも応用できそうですね! 事実、『MMR』というマンガはイラストと写真を組み合わせて描かれています。

コメディ

 コメディとしての側面に注目しましょう。まず何が喜劇性を生み出すかというと予想や常識との落差です。例えば、マンソプが大家に10万ウォンを貸して欲しい、というシーンですが、大家に用途を尋ねられます。観客は滞納分が10万ウォンだと知っていますので、大家の息子に借りるという突飛なマンソプの発想が面白く感じます。
 「大家にそれ〔滞納分の借金〕を頼むか?」と断られますが、これは大家の息子の言葉であると同時に、観客の言葉でもあります。漫才で言えばツッコミに当たります。
 また、マンソプは中途半端に英語ができるので、英語と韓国語混じりでピーターに話しかけています。字幕では「この車にトゥギャザーで乗る。オーケー?」と書かれていたと記憶しています。

サスペンス

 この物語は緊迫感もあります。それは通訳の大学生、ジェシクが軍人に捕まる辺り。どうせマンソプ側の人間なんだから、最後はギタリストになる夢を叶えるんだろうと思っていました。
 またカーチェイスなどもあり、映画後半部は緊迫感があります。

成長物語

 『タクシー運転手』はマンソプの成長物語として鑑賞することもできます。そしてマンソプがデモの大学生を見たときの反応が伏線として機能していることが解ります。マンソプが政治に無関心だと強調するように描かれていますが、これがかえって読者には結末を予想させるのです。
 実際、結末では娘の独立もあるのでしょうが、儲けよりも大事なことを見出しています。

*1 リアルサウンド映画『「韓国の若い人たちの多くは、光州事件を深くは知らない」 『タクシー運転手』監督インタビュー



コメントする

名前
 
  絵文字
 
 
記事検索
最新コメント
有沢翔治について

同人で文章を書いています。

  ゲーム

・ある家族の肖像(有償依頼)2017年コミティア

白い焔

怪奇探索少年隊

天地争像伝奇

ましろいろ

こころのかけら

  戯曲

『めぐる季節の中で』企業依頼

ハシを直す(有償依頼)

視線を感じて

 メール:holmes_jijo@hotmail.com

 twitter:@shoji_arisawa

※詳しい自己紹介はこちらで。

最新記事