有沢翔治の読書日記

 同人小説家、有沢翔治のブログ。  いいものを書くためにはいいものを、幅広く。

【こんな小説を書いてます】

二人であることの問い

 双子の姉、亜衣の様子がおかしい。何かあったのではないかと真衣から萌は相談を受ける。やがて亜衣の部屋からバタフライナイフを買った痕跡が見つかり……。亜衣は何を考えているのか?

川北稔『砂糖の世界史』(岩波書店)

砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書)

概要

 砂糖は昔、薬として使用されていた。その砂糖はいかに甘味料として世界中へと広まったのか。大英帝国の紅茶、フランスのコーヒー、スペインのチョコレートにも欠かせない存在となっている。プランテーションと奴隷制との関係は? 身近なものの歴史を紐解けば、世界史が見えてくる。

岩波ジュニア新書

 岩波ジュニア新書は中高生向けをターゲットにして、平易な文体で書かれています。しかし大人が読んでも遜色のない内容。岩波〈ジュニア〉新書という名前にこだわらず、騙されたと思って読んでみてください。
 それから児童文学の岩波少年文庫。こちらも大人が読んでも充分楽しめます。

砂糖は薬だった

貿易屋珈琲店 純黒糖粉末 500g さて、砂糖がイスラム経由でヨーロッパに入ってくるまでは、蜂蜜が使われていました。イギリス最古の文学、ベオウルフにもミードという蜂蜜酒が登場しています*1。
 一方、イスラムは砂糖が早くから知られていました。しかし甘味料ではなく薬として使われてきたのです。例えばイブン・スィーナーの著作には「砂糖こそ万能薬である」と記されています。これはカロリーが補給できるので、全くの無根拠でもありません。
 このような実用的、栄養的な面もさることながら高価で、純白だったからだと言います。高価であればあるほど効果があると思いたいものですが、白さは現在よりも赤茶けた色だったのではないかと思います。言うまでもなく、サトウキビからそのまま採れたときは黒砂糖です。 
 これを生成すると、白砂糖(上白糖、グラニュー糖)ができるのですが、精製が粗いと現在ほど真っ白になりません*2。白さは精錬技術に依存するのです。恐らく当時のヨーロッパ人から見たら白かったには違いありませんが、今ほど白くはなかったのではないでしょうか。
 上述の動画でいえば、遠心分離機までは人力で可能ですが、真空で煮詰める工程はトリチェリの発見やゲーリケの実験を待たなければいけません。
 さて、砂糖とともにイスラムの医学も入ってきます。このような背景からヨーロッパでも当初は砂糖が薬として処方されていました。著名な神学者、トマス・アクィナスは『神学大全』で「断食の時に砂糖をなめてもいいか」という問いに対して、砂糖は食品でないので構わない、という回答を出しています。
 また、大変高価であったので、富と権威の象徴となっていきました。貴族たちは大掛かりな砂糖菓子を作るようになりました。このような砂糖の使い方はイスラムに由来しています。例えば「一一世紀のエジプトのスルタンは七万キログラムの砂糖を使って、祭壇に砂糖で実物大の樹木をつくっていたという報告もあります」。
 もしかしたら「ヘンゼルとグレーテル」の家が砂糖菓子である理由も、子供の好物だからだけではなく、富の象徴だったのかもしれません。

奴隷と砂糖

 さて、砂糖がヨーロッパで普及したのには、南米やハイチで奴隷を使ってプランテーションを行なっていたことが挙げられます。プランテーションとは大型農場と訳されがちですが、実際には精製工場も含んでいました。プランテーションとは言うまでもなくプラントの名詞形なのですが、日本語でも石油プラント、石油化学プラントなどという場合に油田だけでなく精製施設も含みます。同じように「砂糖プラント」はサトウキビ畑だけでなく、サトウキビ畑から白砂糖を生成する一連の施設までを指しています。
 この砂糖プランテーションは、西アフリカに武器を売りつけ、その武器で西アフリカからアメリカ大陸に攻め込み、そこでプランテーションを行った結果です。世界史の授業でお馴染み、三角貿易ですね。
 ところで、この奴隷と砂糖の結びつきはイスラムでも行われていました。

飲み物と砂糖

 さて、砂糖と飲み物は切っても切れない結びつきですが、これは18世紀を待たなければいけません。砂糖はもちろん紅茶・コーヒー・チョコレートは最初、高級品だったのです。

紅茶と砂糖

 紅茶は緑茶の茶葉を発行させて作り、その生産地は中国でした。つまり、東洋との貿易でヨーロッパにもたらされたのです。茶は初め、健忘症の薬として使われていました。また、今でこそ紅茶はイギリス文化というイメージがありますが、初めはポルトガルから。いち早く日本や中国に進出していたことが影響しています。
 ちなみに健忘症の薬というのもまったくの無根拠で言っているのではありません。紅茶にはリラックス効果がありますので軽いストレス性の健忘症や頭痛なら効果的でしょうし、風邪を引いた時に飲めば喉の痛みが緩和されます。カテキンが消毒してくれるのかもしれません。
 一七世紀の中頃までは高価で、紅茶の茶葉一○○グラムが職人の日給、何十倍もしていました。またこのころ、海外貿易を通じて莫大な富を得る人が出てきます。
 さて、紅茶と砂糖、両方とも高価だったので、貴族階級は彼らに富を誇示すべく紅茶に砂糖を入れ始めます。皮肉なことに、このことが原因で貴族の富は間接的に商人へ流れていきました。
 もう一つ砂糖と紅茶の出会いで特筆すべきことがあります。それはキャサリン妃とチャールズの結婚です。キャサリン妃はポルトガル王室の出身でもちろん政略結婚なのですが、インドのボンベイを持参金として持ってきました。一六六○年のこと。
 おまけにポルトガルは先述したように、アジアと貿易しており、茶の文化がありました。このようにイギリスの上流階級で紅茶の習慣が広まっていったのです。
 そうなると、当然、上流階級の真似をしたがります。これが十七世紀後半。一七世紀末にはコーヒーハウスがあちこちで誕生しました。コーヒーハウスでは紅茶、チョコレートなども出しています。コーヒーハウスでは身分関係なく政治、文学、科学などが話題になりました。その結果、コーヒーハウスからは政党や王立協会の前進が誕生しますし、ジョナサン・スウィフトやダニエル・デフォーなどの小説が誕生していきます。
 それまではシェイクスピアなどの演劇、ミルトンなどの詩が中心でしたが、ヨーロッパで小説というジャンルが発展していくことになるのです。
 また十九世紀には労働者階級も紅茶を飲み始めますが、上流階級の模倣よりはカフェインで頭をすっきりさせたいという実用的な目的が強かったようです。

コーヒーと砂糖

 コーヒーハウスが庶民の間に広まるにつれて、段々と派閥のようなものができはじめした。同じ価値観の人同士が集まるようになり、「クラブ」という会員制のコミュニティを形成していきます。イギリスでは紅茶が飲まれるようになりましたが、この原因について、下記の通りに分析しています。
・イギリスの植民地では、コーヒー豆が採れなかった。
・コーヒーは家庭で飲むには面倒だった
 ところでアメリカはコーヒー文化ですが、この背景は紅茶などの生活用品を輸入する際にイギリスが税金を掛けたことにあります。紅茶だけではありません。今日の消費税のように、ほとんどすべての商品に税金が掛けられたのです。
 それまでアメリカ人も本土の真似をして、紅茶を飲んでいました。しかし、紅茶に高い税金が掛かると、紅茶からコーヒーに切り替たのです。
 ボストン・ティーパーティーはこれを象徴していると言えましょう。

チョコレートと砂糖

 さて、カカオ99%を食べたことがあるでしょうか。僕はバレンタインのときに後輩からもらいました。あのようにチョコレートは本来、苦いのですが、砂糖を大量に入れて味を調整しているのです。最初はこのチョコレートも砂糖や紅茶と同じように薬として用いられていました。
 チョコレートは南米のアステカ王国で飲まれていましたので、スペインから広まりました。スペインのコルテスはアステカ帝国を滅ぼしたのです。 

砂糖の代用品

 さて、砂糖は莫大な富を産むことが解ると、列強諸国はプランテーションの土地を求めて乗り出しました。砂糖の代用品としては昔から楓のメープルシュガー、竹糖などが用いられていましたが、川北稔が注目しているのは、砂糖大根と化学調味料です。

砂糖大根

 砂糖大根は甜菜、ビーツとも呼ばれ、日本でも北海道などで栽培されています。南に植民地を持たなかったプロイセンはかつて、この砂糖大根を栽培していました。一時期は政府の補助もあり七五%の砂糖が砂糖大根から作っていたのですが、簡単には行きません。政府の補助がなければ採算が取れなかったのです。

化学甘味料

 やがてサッカリンなどの化学甘味料が作られるようになりました。このサッカリンですが、発癌性があると疑われ、一時は使用中止になりました。現在では、外装に使用を表示してあれば使用を許可されています。

*1 『ベオウルフ』(岩波書店)
*2 三温糖は後から加熱して色を付けている(Wikipedia「三温糖」)



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室生犀星『或る少女の死 他二篇』(岩波書店)

或る少女の死まで 他二篇 (岩波文庫)

あらすじ

 詩人、小説家として有名な室生犀星。すでに詩人としてデビューしていた彼は散文の可能性を模索し始める。その第一歩として書いたのが、自伝的小説の三作品だった。
 十三歳までを描く「幼年時代」。十七歳までを描く「性に目覚める頃」、上京後を描く「或る少女の死まで」。

自己療養

 第一印象は自己療養のために書いたんだろうな、という感想。自伝小説はともすれば、格好をつけたくなります。少なくともあえて醜い面をさらけ出そうとは思いません。しかし室生犀星は自分の醜い面を描いているのです。
学校へは行っていても、みんなが馬鹿のように見えた。「あいつは私のような仕事をしていない。信仰をしらない」とみんなとは特別な世界にもっと別様な空気を吸っているもののように思っていた。先生を尊敬する心には元よりなっていなかった。
 「先生を尊敬する心には元よりなっていな」い理由は、単に反抗心だけではありません。室生犀星の目から見て、理不尽な居残りなどがあったので、それも原因でしょう。また腹違いの姉と仲が良いのですが、「もう姉さんなんぞはいても居なくても、また愛して呉れなくてもいいとさえ思っていた」とあるように彼女へ拗ねて八つ当たりすることもありました。
 これも幼稚な側面であり、できれば人に知られたくないでしょう。もちろん当時の文学が自分の醜い面をさらけ出す風潮にあったことも要因の一つでしょう*1。しかし、それ以上に、室生犀星の孤独を癒やすために描いたのだと思います。

父と母

 室生犀星の家族関係は少し複雑で、産みの母と育ての母がいます。犀星自身は産みの母を慕っており、実家が近くにあることから、毎日、産みの母の家へ遊びに行きます。そして実の母も犀星に厳しく注意はするものの、最終的には菓子を与えていました。
 一方、「(前略)此家へ来たら此処の家のものですよ。そんなにしげしげ実家へゆくと世間の人が変に思いますからね」とあるように、育ての母は快く思っていません。つまり産みの母からも家という観点で拒絶され、育ての母からも心の面で打ち解けないでいます。そのようなもとで、義姉を母親のように慕うのは当然だと言えましょう。
 姉と一しょの布団に入って寝るのであった。姉はいろいろな話をした。医王山の話や堀武三郎などという、加賀藩の河師などの話をした。
 性的な場面は全くなく、まるで幼い子供が母親のストーリーテリングを聞いているかのようです。
 実家の父親は序盤に少しだけ語られますが、九歳のころ、死亡します。「総てがなくなっていた」「何も彼もなくなっていた」とあるように喪失感が襲います。つまり序盤から回想にかけて、父親は描かれていないのです。
 彼の家庭は〈父権不在〉で、子供の倫理的な禁止を与える権力者はいません。子供に倫理観を植え付ける父親*2の役割は教師によって行なわれているのです。寺の住職へ養子に行くのですが、子供に甘いので、母親のイメージを持ちました。

近代と前近代

 また明治時代は西洋から科学が流入し、国を挙げて近代化が進められています。しかし価値観は一斉に変わるはずもありません。前近代的な発想と近代的な発想が入り混じっていました。例えば寺へ養子に入った犀星はおみくじで縁談を決める人を見て下記のような感想を抱きます。
 私はいつもあの「おくじ」一本によって人間の運命が決定される馬鹿馬鹿しさと、それを信じずにはいられない母親のかたよった心を気の毒に思っていた。
 これは近代の考えですが、もう一方で犀星は占いをしてもらってもいます。
「東京へ送った書き物がのるか(中略)見てください」と。
 言うまでもなく占いの結果と文学賞の当落とは関係ありません。もちろん、犀星自身が不安だったのもあるでしょうが、明治時代が近代的な思考と前近代的な思考が入り混じっているのだと解釈しました。
 またふじ子と動物園に行ったとき、「巨大な動物との対照上、時代錯誤的な、文明と野蛮とでもいうような感じを起こさせるのである(強調は有沢による)」と感想を抱いています。この文明と野蛮も近代と前近代を表しているとも言えるのではないでしょうか?
 

*1 例えば田山花袋の「蒲団」などが挙げられる(田山花袋「蒲団」田山花袋『蒲団・一兵卒』岩波書店)。
*2 欧米の精神分析をそのまま日本に応用していいのかは疑問の余地が残る。


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高木彬光『恐怖の蜜月』(角川書店)

恐怖の蜜月 (角川文庫)

あらすじ

 大前田英策は私立探偵で腕っぷしも強い。そして何より鋭いのは直感。
 ある日、高校時代の友人、小野はるみが困っているから助けて欲しいと秘書から相談を受ける。はるみは結婚しているのだが、蜜月旅行(ハネムーン)の最中に夫がストーカー被害に遭っているようだと訴えた。そしてはるみが拳銃で撃たれ……、夫は女遊びが激しかったらしい。そのことを考えると過去の女だろうか。それとも……? 表題作「恐怖の蜜月」を含む七編収録。

大前田英策

 高木彬光は、典型的な名探偵、神津恭介、正義感溢れる弁護士、百谷泉一郎、安楽椅子探偵、墨野隴人など魅力的な探偵を産み出してきました。他には霧島三郎も。

体力派

 しかし、ほとんどが神津恭介を筆頭に頭脳的な人が多いという印象。しかし、大前田英策は下記のように豪傑。
 あっと拳銃を落してよろめいた男の内懐へめがけて、一人の黒い影が飛びこんで来た。と思う間に、眼にもとまらぬ鮮やかな投げわざがかかった。男の体は宙に大きな円弧を描いて地上へ蛙のように叩きつけられていた。
 この描写は恐らくハードボイルド小説の影響を受けているのではないでしょうか。
 しかし、短編推理小説なので仕方がないのかもしれませんが、論理的かではなく、偶然によるものが多い。もっとも、これは高木彬光も割り切っていたようです。
「どこが違うと言われても、僕にはうまく説明できない。また今のところはそういう仮設を証明するだけの証拠もない。僕の直感から得られた解答を話してみたところで、君はまだ神がかりが始まったなと笑うだろう」
 と話しています。
 もちろん、ある種の開き直りとも解釈できるのですが、新しい探偵像を模索していると解しました。それというのも「安楽椅子によりかかってパイプをふかし、神様のような推論をもてあそぶのは、決して僕の畑ではない」とやんわり一部、従来の探偵像を否定しているのです。

ミッキー・スピレイン

 さて、ハードボイルドにも色々な考え方があります。例えば、フィリップ・マーロウ*1、ロス・マクドナルド*2は災難に遭っても信念を貫いたり、依頼人の仕事を不平一つ言わず全うしたりします。
 しかし、ミッキー・スピレインは女性関係を中心に描いており、やや、煽情的*3。そして、「裸婦と鍵束」、「殺人阿呆宮」などを読むと、少しエロティックなのです。例えば「裸婦と鍵束」では下着姿の女性がマンションから飛び出し、大前田に助けを求めます。また「殺人阿呆宮」では全裸のパーティーをしている中、殺人が起こります。
 そのパーティーで殺人予告があり、大前田はボディガードとして任務に当たっていたのです。

短編推理小説の構成

 さて、大衆娯楽的な短編小説は冒頭でいかに読者の心を掴むかが大切。この七編はどれも魅力的な謎から幕を開けています。例えば、「犯罪蒐集狂」は冒頭の一行からそれは始まっています。
 ──また、あの人。
 池田和子は眉をひそめた。
 午後六時、閉店をあと三十分に控えた一番忙しい時刻、それを一分一秒違えずに、またこの男は彼女の前へ姿をあらわしたのだ。
 「また、あの人」という言葉はたった六文字ですが、実に多くのことを表現しています。例えば発信者には(1)変に思っている人がいること(2)そして少なくとも二度、見かけていることが挙げられるでしょう。読者は「あの人」がどんな行動をしているのか気になります。
 そして独白した池田和子は快く思っていないことが次の段落で明らかになるのです。その理由は次の段落で明らかになるのですが、理由が語られません。そしてその理由こそが「犯罪蒐集狂」を貫く大きな謎になっているのです。
 中には「浮気な死神」など物語の構成上、冒頭一行から引き込むのは難しいものもあります。苦肉の策として
 それほど手間もかかるまいと思って、英策はふたたび椅子に腰をおろした。この偶然ともいえるような選択が、彼に一つの殺人事件に直面する機会を与えるようになろうとは、さすがに神ならぬ身の知る由とてもなかったが……
 と地の文で挟んでいます。どうして苦肉の策かと感じたかというと、「それほど手間もかかるまいと思って、英策はふたたび椅子に腰をおろした」ここで〈語り手〉は現在の視点から居間を見ているという、割と具体的な情報が盛り込まれています。しかし、後半部「この偶然ともいえるような選択が、彼に一つの殺人事件に直面する機会を与えるようになろうとは、さすがに神ならぬ身の知る由とてもなかったが……」は未来の視点から過去を振り返っている上、〈語り手〉の具体的な居場所が語られていません。つまり非常に映像として浮かびにくいのです。

社会

 さて、社会と推理小説は大きく関わっています。もちろん「お前の番だ!」などでは経済の話が登場しています。
 神武景気というのは、どうも日本人の健忘症か、それとも誇張癖かの産物だろうね。もちろん言葉としては面白いが、そんな比較が出来るもんじゃない。例えば、明治以後に話をかぎったとしても、大正の世界大戦当時の景気はこんなものじゃあなったはずだよ。
 高木彬光は『白昼の死角』*4などで大規模な詐欺事件を取り扱うなど、社会へ関心を寄せていました。
 もちろんそのような文章でも社会情勢は窺えるのですが、「殺人阿呆宮」では都市の匿名性が現れています。この「殺人阿呆宮」では仮面をつけて男女が裸で踊るのですが、言うまでもなく互いの素性は解りません。しかも最初から終盤まで。だからこそ殺人犯は誰かという問題が意味をなすのです
 そしてこれは近代都市社会においても同じことが言えます。職場などでは家庭でどう過ごしているか互い解らない場合がほとんどでしょう。また家庭では職場の姿が見えません。
 このように仮面は都市の匿名性を現しているとも解釈できるのです。

*1 レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房)
*2 ロス・マクドナルド『さむけ』(早川書房)
*3 ミッキー・スピレイン『裁くのは俺だ』(早川書房)
*4 高木彬光『白昼の死角』(角川書店)



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河本敏浩『名ばかり大学生』(光文社)

名ばかり大学生 日本型教育制度の終焉 (光文社新書)

概要

 大学生の学力が低下している。具体的には中学レベルの問題すら解けない。ゆとり教育が原因だと巷間、囁かれているが本当にそうなのか。
 日本では世界でも珍しい大学制度を取っている。それはたった一度の学力テストで入学可能で、簡単に卒業ができるという点である。しかもその学力テストの問題が一部、中学入試にも出ているのだ。つまり優等生と劣等生の篩分が早々からされている。
 そればかりではない。経済力も学びを大きく左右している。

結論ありき

 まず初めに断っておかなければなりません。それは僕自身、河本さんの主張は賛同できるんです。しかし、論の進め方や学力テストの実施方法が意図的なものだと言う感じが拭えませんでした。
 例えば、数学は基礎問題より応用問題の比重が多すぎるのではないか。この数学の難易度なら現代文や英文で長文読解の問題を出さなければ、公平性が保てないのでは? また3つの試験を同時に配布し、受験者が配分したと言っています。しかし、別々の時間に配布し、同じ時間に試験管側が調整すれば時間不足などの問題は起きなかったのでは、と思います。杜撰なんですね。
 そして、このテスト結果を中心に以降の本論が展開されているため、砂の楼閣であるかのような印象を受けました。
 もちろんAO入試などは問題視されるべきですし、すぐに入ったらほぼ自動的に卒業できるようなシステムも問題です。そして採点は国家資格以外、教員に一任されているのでさじ加減一つというのも問題です。これは学力低下以外にもアカデミック・ハラスメントの温床にもなっています。

学力はテストで図れるか

 そもそもの問題としてテストで「学力」は図れるのでしょうか。これは河本さんだけでなく、教育の前提になる問題です。
 たとえば、計算のケアレスミスだろうと、全く解らないのとでは理解の度合いが違うでしょう。極論、マークシートで一個ずれていただけなのに全問不正解になることは皆さん経験があると思います。定期テストは人間が採点してくれるので、(もしかしたら)温情的な措置として通知表に加算されるかもしれませんが、大学入試は機械的に採点されます。
 これも学習意欲を奪う一因となっているのではないでしょうか。

勉強しないのか、勉強できないのか

 もちろん、勉強できないから勉強しなくなる構図はある程度、あっています。しかし、それは高校生まで。仮にも大学受験を受けている以上、それなりに学力はあるように思います。

救うべき人、落とすべき人

 経済的な事情などがあるなら、救うべきですが、単に「勉強しない」だけなら遠慮なく落第させていいかと思います。ここの点は著者に同意していますが、この二つは明確に区分できるものではありません。
 大学などに限らず勉強したいのにできない、これは何としてでも助けるべきです。昨今なら学習障碍、発達障碍児童の問題とも密接に絡んでくるでしょう。果たして知的障害者と同等の教育でいいのかなどとも絡んできそうです。

学習意欲を高めるには

 これは僕の経験論なのですが、創作活動に本気で取り組めばゆっくりですが着実に学習意欲は高まります。たとえば本気で小説をいいものに仕上げようと思えば、語彙の知識はもちろん、教養が要求されます。例えば小説を読まなくては小説を書くことができません。僕は趣味で小説を書いているので、小説を引き合いに出しましたが、スマホのゲームでも同じこと。
 例えば、スマホのサウンドノベルならjokerScriptなどで動作させているのですが、これはタグを打ち込まなければいけません。マニュアルは日本語で書かれていますが、その時点で文章読解力がなければ次には進めないのです。
 また当然ながら、コンピューターの知識も要求されます。たとえばjokerScriptの音楽はoggなどですが、拡張子という概念を知らなければ話になりません。
 それから著作権の知識も求められます。もちろん全て自前で行なうのなら話は別ですが、現実はそう甘くありません。公開寸前で著作権違反が発覚し、公開できなかったという話も耳にしたことがあります。
 スマホのゲームだけではありません。コップ、歯ブラシ、鉛筆、服など、身の回りには「創作」物で溢れていますし、駅に行けばポスターなどが貼ってあります。そしてこれらのデザインセンス、どのような経路でここにあるのかを考えることが自発的な学習の第一歩です。
 そしてこれらの制作に目を向けさせるには「どうやって作ってるんだろうね」「ここに来るまでどんな人が関わっているんだろうね」などと尋ねれば好奇心が湧くかもしれません。

SNSと学び

 さて、ツイッターなどのSNSと学びとは縁遠いように思うでしょう。しかし有効活用すれば、意外にも学習効果を高めることができます。以下は僕が実際に行なっている活用事例です。
 まずアウトプット効果。インプットと同じくらいアウトプットが重要なのは言うまでもありませんが、SNSはアウトプットの道具になります。特にツイッターなら140字と短く、勉強の初めには最適ではないでしょうか。他には今日の目標を宣言すれば、フォロワーの目もありますし、義務感に駆られる人もいるようです。
 他には大学院生などに質問したり、オンラインで勉強会を開いたりもできます。近いところなら、ご自宅に集まり、遠い場所ならLINEやスカイプなどで集まることもできます。



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パーシー・ビッシュ・シェリー『シェリー詩集』(新潮社)

シェリー詩集 (新潮文庫)

概要

 パーシー・ビッシュ・シェリーはロマン主義の詩人である。感情を肯定し、自然を賛美するとともに、「イングランドの人びとへ」などの社会問題を扱った詩も多く残している。本書は時系列順に配列し、さらに文学と倫理の関係について論じた詩論、「詩の擁護」をも併録している。

ロマン主義

 さて、イギリス文学史によれば、ロマン主義は自然をキーワードだと言います。そもそもnatureは「生まれたまま」という意味です。<生まれつき>理性が備わっていると見るか、それとも<生まれつき>情動が備わっていると見るか、の違いにすぎません。

Nature

 また、18世紀のイギリスでは<Natural Gardens>が流行しました*1。中でも詩人の1720年代、アレクサンダー・ポープは自分の庭園を自然風にしています。また初期のロマン派の詩人、ワーズワースも重要な人物。
 彼にとって<自然>とは、もはや少年の目を喜ばせた緑の葉のそよぎとか、澄んだ小川のせせらぎとかいうような表面的な美にとどまっていなかった。それは宇宙と人間とに備わる「生まれながらに」備わる創造的な力でなくてはならない。
 例えば物理法則、もっと言えば神の法則を感じるような創造力だったのです*2。そしてワーズワースはこの自然観を体得するのに、想像力が必要不可欠だと考えました。

想像力

 さて、パーシー・ビッシュ・シェリーもこの流れを組んで、想像力の重要性を説いています。詩論『詩の擁護』で下記のように述べています。
詩は、ひろく言えば、「想像力」の表現であると定義できよう。しかも詩は起源を、人間と同じくしているのである。
 人間は外と内から奏でる楽器だとしています。つまり琴を風が奏でても、それが内面化し、記憶として呼び覚まされるうちに、メロディーとして調整されていくのです。風鈴も素晴らしいですし、もっと言えば、無音すらも音楽として解釈されるのです*3。
 さらにシェリーは太古に思いを馳せながら下記の通り述べています。
太古、人びとは踊り歌い、かつ自然の事物を模倣したが、このような行為において、他のあらゆる行為と同じく、ある種のリズムと秩序を守っていた。そして、(中略)、類似した秩序を舞踊の動きや、歌のメロディー、ことばの言い回し、あるいはつぎつぎと続く自然の事物を模倣するさいに、守ってきたからである。
 ここにおいてもnatureが「生まれながら」という意味で使われていることが解るでしょう。つまり一人の人間(a man)が<生まれたままに>ではなく、人間の存在(human being)が生まれたままに、という意味です。
 太古への思いはそのまま自然への畏敬につながります。例えば、「モン・ブラン」という詩はモン・ブランの雄大な自然を題材にしていますし、「ひばりによせて」では、ひばりの囀りを賛美しています。
 めざめても 眠っていても
   おまえは 死について
 わたしらが人間が夢みるよりも 真実な深いものを
   考えているにちがいない
さもなければ どうして こんな清澄なうた声が流れようか。
 人間よりも真実に近いと考えています。もちろん生態学的に自然のまま、という理由も考えられましょう。しかし、人間が持っている知恵は小手先で、小鳥の持っている知恵のほうが真実に近い、とも考えられるのです。

恋愛詩

 さて、「アジオーラ」という詩も小鳥が出てきます。これは恋人が「アッジオーラの声が聞こえる」と言うのを聞くのですが、〈語り手〉は男の名前だと勘違いしているんです。しかし小鳥*4のことだと解り、アジオーラが好きになったという内容。おそらくメアリーと書いているので、〈語り手〉はシェリー本人だと解釈するのが妥当だと思います。
 アジオーラは技巧的な詩ではありませんが、「しおれたすみれに」では第一連、第二連ですみれのことを描写しています。
わたしは泣く──が 涙はそれをよみがえらさない!
  わたしは溜息をつく──が それはもう わたしにささやかない
言葉もなく ただ耐えしのぶ 花のいのちは
  わたしの運命でもあろうか
 しかし、最後は自分の心を比喩的に言い表していると言えましょう。もちろん今となったら陳腐だと言えますが、昔の詩を鑑賞するときには時代を差し引かなければいけません。つまりパーシー・ビッシュ・シェリーが使った当初は目新しくても、彼に触発され色んな人が使っているうちに段々とありふれた表現になっていった……とも考えられるのです。

社会

 さてパーシー・ビッシュ・シェリーは<自然>の他にも、社会にも関心を抱いていました。例えば「イングランドの人びとに」などの詩は典型的でしょう。この詩のハイライトは第五連から第六連の下記の下りです。
君たちがまく種子を 刈りとるのは他のやつらだ
君たちが探し出す富を 手にするのは他のやつらだ
君たちが織る服を 着るのはほかのやつらだ
君たちが鍛える武器を 使うのはほかのやつらだ

種子をまけ──だが、暴君に刈らせるな
富を探し出せ──だが、ぺてん師の手にわたすな
服を織れ──だが、のらくろどもに着せるな。
武器を鍛えろ──自分たちを守るためなら
 労働者の富が地主や貴族に搾取されていました*5。したがって他の奴らというのは、地主や貴族のことです。
 ここにおいてもnature(生まれたまま)の概念が生きてくるように思います。シェリーはジャン・ジャック・ルソーに度々言及していますが、ルソーは『人間不平等起源論』*6において下記のように述べています。
 自然が法に服従させられた時期を指し示すこと、いかなる奇蹟の連鎖によって、強者が弱者に奉仕し、人民が現実の幸福と引き換えに想像上の安息を購うことに決心したのかを説明することである。
 おそらく、シェリーにとっては自然だけでなく、権利、感情もすべてnature(生まれたまま)と結びついていたのではないでしょうか。

*1 川崎寿彦『イギリス文学史』(成美堂)
*2 11世紀から14世紀までのスコラ哲学では、自然を観察することで神の意図を窺えると考えていた(Wikipedia「自然」)。
*3 Wikipedia「4分33秒
*4 「The Aziola」と付いているので、おそらく小鳥の種類だろう。しかしAziolaで検索しても出てこない。
*5 貧富の格差についてはシェリーの一世代後の作家、ディケンズも『オリヴァー・ツイスト』などで取り扱っている(チャールズ・ディケンズ『オリヴァー・ツイスト』新潮社)
*6 ジャン=ジャック・ルソー『人間不平等起源論』(岩波書店)



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宮沢賢治『童話集 風の又三郎 他十八篇』(岩波書店)

童話集 風の又三郎 他十八篇 (岩波文庫)

あらすじ

 ある日、小さな学校に転校生がやってくる。高田三郎というが、彼が行くところにはいつも風がついてまわった。いつしか「風の又三郎」と呼ぶようになっていく……
 東北の民話を題材に、あるいは架空の国、イーハトーブを舞台にした独特の童話を集めた十九選。

ファンタジー

 宮沢賢治は独特の世界観で知られています。この軸となるのが、法華経と農業です。

仏教思想

 童話なので、もちろん動物が言葉を話す等もするのですが、宮沢賢治の作品は時に死生観*1まで踏み込んでおり、魅力は「童話」の枠に収りません。
ああ、おれはお前の毛皮と、胆のほかになんにもいらない。それも町へ持って行ってもひどく高く売れるというのではないし、ほんとうに気の毒だけれどもやっぱりしかたない。
 このように猟師の小十郎は熊へ同情を寄せているのです。もちろん、殺生は忌避すべきという倫理観も描かれています。しかし、綺麗事ばかり描かれているのではなく、小十郎も猟師である以上は生計を立てなければいけません。しかも生活に困窮しているさまが窺えるでしょう。つまり他の動物を犠牲にして、猟師が生活していることが描かれているのです。猟師ばかりではありません。人間は皆、他の動植物から命をもらっていきているのです。これに価値判断を下せば倫理になりますが、宮沢賢治はこの事実のみを描いています。
 ここで「注文の多い料理店」*2と比べてみましょう。猟師が山の中で料理店を見つけて、最終的に災難に遭います。確かに「注文の多い料理店」も猟師が主役ですが、「注文の多い料理店」は娯楽としての狩り、つまり無駄な殺生をしていることが冒頭から描かれているのです。
 この宮沢賢治の思想は仏教にあるのは言うまでもありません。

ファンタジー

 宗教性と深く結びついているからか、あるいは童話だからか、ファンタジーの作品が多いです。例えば、「カエルのゴム靴」「猫の事務所」などは動物が話し、あからさまにファンタジーだと解るのですが、「風の又三郎」は作品のみからだと現実ともファンタジーともつきません。
 高田三郎は外国人のような様相で、異様な服装だと描写されています。そして確かに、登場する場面は風を操っているようにも見えます。
その時風がざあっと吹いて来て、土手の草はざわざわと波になり、運動場のまん中でさあっと靄があがり、それが玄関の前まで行くと、きりきりとまわって小さなつむじ風となって、黄いろな風は瓶をさかさまにしたような形になって屋根より高くのぼりました。
 しかし、その一方で因果関係までは述べられておらず、人間かもしれないとも解釈できるのです。再び転校したので、また物語の筋だけを追っていけば、現実的な結末とも言えましょう。

詩的であること

 僕は小学生時代から宮沢賢治を読んできました。もちろん宗教的背景など解るはずもなく、ただひたすら筋書きを楽しんでいたにすぎません。中には「どんぐりと山猫」*3、「よだかの星」*4など、ストーリーだけで楽しめるものもありました。
 しかし、「やまなし」などはどう見てもストーリーがありません。むしろ「クラムボンはかぷかぷわらったよ」という音の響きが面白かったですね。

擬音語と擬態語

 さて、「やまなし」のクラムポンに限らず、宮沢賢治は独特の擬音語・擬態語を使います。例えば、風の又三郎の冒頭は「どっどど どどうど どどうど どどう」という擬音で始まります。この後に「青いかりんを吹きとばせ」という文言があるので、風の擬音だと解ります。
 擬音語は常套句だと陳腐になりがちですが、斬新な擬音語だと効果的に発揮すると言えましょう。

地方性

 宮沢賢治は地方色豊かな童話を作りました。地方の民話と方言が挙げられますが、これは政府の意向に反するものでした。明治政府は方言よりも標準語を推し進めていたのです。

地方の民話

 「風の又三郎」も風を人格化した又三郎という伝承があって、それがもととなっていると、谷川徹三は述べています*5。また「ざしき童子のはなし」も東北の伝承がもととなっています。
 東北の伝承を集めた『遠野物語』一七話*6には座敷わらしについて記されています。

 旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二三ばかりの童子なり。おりおり人に姿を見することあり。
 これらの伝承をもとに宮沢賢治は童話を書いきました。このメリットは下記の通りです。
1.作者の作りやすさ
2.読者の親しみやすさ
3.記録性
 もちろん記録性なら創作より、『遠野物語』のようにできるだけ忠実に書き写したほうが優れているでしょう。子供たちに読み聞かせを行なったとありますので、読者の親しみやすさを優先させたのだと推測されます。

方言

 また、宮沢賢治は方言を多用して童話を書きました。例えば「風の又三郎」は「残ったらば掃除してすけろ」などと方言をそのまま音写しているので、東北出身者以外は極めて読みにくいものとなっています。
 しかしこの地方色こそが宮沢賢治の特徴であり、また魅力の一つだと言えます。東北出身者は懐かしさから、またそれ以外の人は珍しさから手に取ると言えましょう。

*1 この最高傑作が『銀河鉄道の夜』である(宮沢賢治『童話集 銀河鉄道の夜 他十四篇』岩波書店、所収)。なお、青空文庫でも読める。
*2 宮沢賢治「注文の多い料理店」(宮沢賢治『童話集 銀河鉄道の夜 他十四篇』岩波書店』岩波書店)なお、青空文庫でも読める。
*3 宮沢賢治「どんぐりと山猫」(宮沢賢治『童話集 銀河鉄道の夜 他十四篇』岩波書店』岩波書店)なお、青空文庫でも読める。
*4 宮沢賢治「よだかの星」(青空文庫)
*5 谷川徹三「解説」(宮沢賢治『童話集 風の又三郎 他十八篇』岩波書店)
*6 柳田国男「遠野物語」(柳田国男『遠野物語・山の人生』岩波書店)


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イブン・ザイヌッディーン『イスラーム法理論序説』(岩波書店)

イスラーム法理論序説 (イスラーム古典叢書)

イスラーム法とは

 ヨーロッパ、あるいはそれに倣った国々では、憲法を人間が制定し、必要に応じて修正を加えます。しかし、厳格なイスラム教の国ではコーランなどを解釈し、国を治めているのです。コーランは神が定めたものであり、文言は変えることができません。これに対して人間が定める法律を世俗法といいます。今やほとんどの国が世俗法とイスラム法の混合で統治されていますが、イブン・ザイヌッディーンの時代はイスラム法のみで統治されていました。
 また少なくとも日本では法律というと、遺産相続、刑事事件、あるいは冠婚葬祭など日常生活と縁遠い存在。しかし、イスラム法は禁酒、豚肉の禁止など、食生活に至るまで書かれています。

イスラム法について

 イスラム法について具体的に見ていきましょう。

イスラム法の法源

 世俗法は人が刑法、民法などを定め、裁判を進めていきます。このように裁判の法的根拠を法源といいますが、イスラム法ではコーランの他にも三つの法源があります。
(1)スンナ……マホメットやその弟子の言動、慣習。これはマホメットの言行録、ハディースに記載されている。
(2)イジュマー……コーランやハディースに関しての合意。イブン・ザイヌッディーン以前は軽視されていました。
(3)理性もしくは類推……シーア派の場合、コーランやハディースに関する論理的な解釈。スンナ派の場合、コーランやハディースの内容から類推した解釈。例えば「ワインを飲むな」という文言があったら「ウィスキー」などのアルコールも禁止されるはずであると類推して解釈すること。
 ただ類推解釈はどこに注目するかで大きく変わってきます。例えば、アルコールに注目すれば、ウィスキーは禁止されるでしょう。しかし、ブドウという点に注目すると葡萄ジュースも禁止、葡萄も食べてはいけない、という結論にもなりかねません。
 そして、これらの宗教法をシャリーア(Shari'a)といい、その知識をフィクフ(fiqf)といいます。
 もちろん、世俗法とは異なり、コーランもハディースも体系的に述べられていません。それ故、言語の意味論、文献批判についてもイブン・ザイヌッディーンは触れています。

五つの段階

 イスラーム法では人間の行為を義務、推奨、許可、忌避、禁止の五段階に分けています。さらにこの規範が有効か無効かが大きな焦点となります。例えば豚肉の脂も禁止されるのですが、意図的に破った場合と過失とでは同じとは言いがたいでしょう。
 刑罰もコーランをもとに決められるハッド(Ḥudūd)*1があります。例えばインドネシアは酒の販売も禁止されているのですが、これを破ったとして鞭打ちの刑に処された事例*2がありました。
 またこの他には同害報復のキサース*3がありますが、被害者は賠償金か同害報復かを選ぶことができます*4。
 さらに義務の礼拝を怠った場合も、足を骨折していた等であれば無効となるかもしれません。
 イブン・ザイヌッディーンは十六世紀の法学者ですが、宗教の法典に基づいて裁いていたのはイスラム教だけではありません。同時代で見れば、キリスト教でも宗教裁判が行なわれていたのです。

シーア派とスンナ派

 さて、法解釈に類推を用いるか理性を用いるか以外にもスンナ派とシーア派では法解釈に差異が見られます。そもそもシーア派とスンナ派は、マホメットの後継者をどこから選ぶかが大きな違い。マホメットの死後、親族がイスラム教の「教皇」になり、これを正統カリフ時代と呼びます。しかし、正統カリフも第四代のアリーで途絶えてしまいました。
 シーア派はあくまでも、カリフをアリーの親族から選出すべきだと主張したのに対し*5、弟子たちから選出すべきだと主張したのがスンナ派*6。
 イスラム法解釈で言えば、コーランの独自解釈をスンナ派*7では禁止し、先人*8の教えを無条件に受け入れています*9。したがって、スンナ派では立法者*10が存在しないことになります。

文献学

 コーランを解釈しなければならないので、意味とは何か、基本意と転意では基本意を重視すべきだという主張は解ります。しかし、伝承の信頼性といった一見、法解釈とは全く無関係の事柄が描かれています。この理由は、マホメットの伝承も法源に含まれているからです。
 しかし、「(預言者またはイマームから伝えられる)伝承(ḥadīth、khabar)は確定的な伝承mutawātirと不確定な伝承(āḥād)に分けられる」とあるように、この伝承は玉石混淆だったようです。したがって伝承の確からしさという問題が持ち上がってくるのです。
 ここから察するに、イスラームの最終目標はマホメット一行の生活を体現することにあったのではないでしょうか。


*1 Wikipedia「ハッド刑
*2 Wikipedia「キサース
*3 「酒販売の女性キリスト教徒に公開むち打ち刑 インドネシア」. (AFPBB News.)
*4 Wikipedia「ディーヤ
*5 Wikipedia「シーア派
*6 Wikipedia「スンナ派
*7 イジュディハード(ijtihād)。なお、この項目は英辞郎「ijtihad」の項目も参考にした(英辞郎「ijtihad」)
*8 イマーム(imām)
*9 また、このような行為をタクリード(taqlīd)、このような人をムッカリド(muqallid)と言う。
*10 ムジュタヒド(mujtahid)。



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高見順『詩集 死の淵より』(講談社)

詩集死の淵より (講談社文庫)

概要

 明治に生まれ、世界大戦を生き抜いた作家、高見順。彼は晩年、食道がんにかかった。術前・術後を中心として病床に伏しているときにも、なお、詩作を続けている。病気と健康について、生と死について誠実に対峙する姿が読み取れる。
 食道がんになる前の作品や、一時は収録を見送った作品も収録。

死を見つめて

 高見順は食道がんの手術を終えて、詩集の冒頭で下記のように述べています。
 詩なら書ける──と言うと、詩はラクのようだが、ほんとは詩のほうが気力を要する。しかし、時間の持続がすくなくてすむのがありがたい。
 確かに文章が少ない分、集中しなければなりませんが、その分、短時間で校正できます。
 そして、これは単に気力の問題だけでなく、見つめたくないものを見つめる、という作業の精神的負担にも大きく関わっているのかもしれません。事実、現実逃避の詩ではなく、死にゆく自分を見つめているのです。

死者の爪

 それは冒頭の「死者の爪」という詩からも明らかです。
 つめたい煉瓦の上に/蔦がのびる/夜の底に/時間が重くつもり/死者の爪がのびる。
 病魔を「死者の爪」に喩えていますね。また、レンガと蔦の取り合わせは、旧館が長年使われていないことを示すときの典型的な道具立て。不気味さを第一行、第二行目で醸しています。そしてこの不気味さの正体は死者の爪だと最後に解るのです。
 そればかりではありません。音読してみると解るのですが、「つ」の韻で冷たい印象を与えるのです。「つつつ」「つーー」などとと連続して発音すれば解りますが、氷の上を滑る効果音、誰かが去っていく時の効果音として使えるように思います。例えば「つーっと氷の上を滑る」、「つつつ、と氷の上を滑る」「つつつ、と人が去ってゆく」など。
 つという音は物理的な温度ならず、人間的にも冷たいという印象があるのです。僕も理論的には解りますし、納得もしますが、感覚的なものではありません。どんな音がどんな印象を持つか感覚的に解れば、詩人としての素質があるのでしょう。

三階の窓

 「三階の窓」という詩は「カラス」が視覚的に死を連想させますね。「真黒な鳥はびくともしない/不吉な鳥はふえる一方だ」などの文章からは、言及されているように、不吉さが描かれています。そして三階に住むという「従軍カメラマン」も死のイメージが付きまといますね。
「死は(中略)はじまりなのだ/なにかがはじまるのである」という一文からは、本人の死後、預かりしらぬところで起こることがあるだろうというある種の期待が窺えます。例えば、高見順の「死の淵より」に触発されて詩を作るかもしれませんし、感想文をブログに書くかもしれません。しかしそれは高見順の預かり知らぬことですので「なにか」と漠然としか表現できないのだと思いました。
 死に対する肯定的な見方は、「不思議なサーカス」でも「自殺の楽しみが残されている/どういうふうに自殺したらいいか/あれこれ考える楽しみ」と書かれています。

「青春の健在」「電車の窓の外は」

 しかし、手術直前の詩「青春の健在」「電車の窓の外は」では、生への執着心がなく潔さすら感じます。
私は病院へガンの手術を受けに行くのだ
こうした朝 君たちに会えたことはうれしい
見知らぬ君たちだが
君たちが元気なのがとてもうれしい
 ほとんどの人は自分がいずれ死ぬと解っていながら、目を反らしています。しかしガンなど、自分の生命が有限だと自覚したとき、生の尊さを自覚するのかもしれません。
 そのような目で見ると「電車の窓の外は」の冒頭、「電車の窓の外は/光りにみち/喜びにみち/いきいきといきづいている」という一文は実際の風景であるとともに心象風景であるとも言えましょう。このように生を諦めているかのように表面上は読み取れます。しかしら「いき」という言葉は「息」「生き」などにもつながり、生きたいという潜在意識が現れていたのかもしれません。
 その証拠に、あとから「死の恐怖が心に迫ってきた」とあります。

「小石」

 僕が一番好きな詩は、「小石」。高見順は稚拙と評していますが、闘病生活の心境をわずか五行で書き表しているのです。
 蹴らないでくれ/眠らせてほしい/もうここで/ただひたすら/眠らせてくれ
 もちろん形式上は石の独白という体裁を取っていますが、これが疲れ切った高見順の心を表しているのでしょう。
 しかも小石に自己投影をしていることから卑下していると推測できます。


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ヨハン・ヴォルガンフ・ゲーテ『ゲーテ詩集』(新潮社)

ゲーテ詩集 (新潮文庫)

概要

 『若きウェルテルの悩み』、『ファウスト』などで知られるゲーテ。彼は小説家ばかりではなく、優れた詩人でもあった。いくつかの作曲家がゲーテの詩に音楽をつけていることからも明らかであろう。
 この詩集はゲーテの詩を年代順に配列したものである。

音楽との関わり合い

 ゲーテと音楽はとりわけ深い関係にあります。『野ばら』にはゲーテの詩に、シューベルトとウェルナーがそれぞれ音楽をつけています。歌の場合、とりわけ難しいのが意味と音数の兼ね合いですが、近藤朔風の翻訳は「わらべは見たり、野なかの薔薇」という具合に見事に両立しています。
 ちなみに僕はウェルナーのほうがゆったりとしていて好きです。シューベルトの音楽は跳ねるようなリズムは子供の溌剌さを現していると言えるかもしれません。
 さて、『魔王』も馴染み深い曲。中学校で一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。「お父さん、お父さん」という繰り返し出てくるので印象に残っています。ちなみに恥ずかしながら、『魔王』はモーツァルトだと勘違いしておりました。どうやら『魔笛』と混同していたようです。

詩とは何だろう

 詩とはそもそも何でしょうか。適当に段落分けをすれば詩になるわけではありません。そもそも段落分けは脚韻を見やすくするためにあります。
 たとえば、『魔王』の原詩は、下記の通りです*1。
Wer reitet so spat durch Nacht und Wind?
Es ist der Vater mit seinem Kind;
Er hat den Knaben wohl in dem Arm,
Er fast ihn sicher, er halt ihn warm.
 見手の通りWindとKind、Armとwarmで音が揃っていますね。翻訳もこれに合わせて段落分けをしているので、中途半端に改行しているように見えるのです。しかし、音韻などは翻訳にすると、失われてしまいます。
 それでは訳詞だけを読んでいても無意味なのでしょうか。そのように考える研究者もいますが、僕はそう思いません。そのように考えていては楽しみが失せてしまいます。

詩とは異化である

 詩は異化作用であると、現代の文芸批評では考えられています。異化作用とは何かというと、日常化の風景に溶け込んでしまったものを再認し、日常を再発見するための技法です。

「野ばら

 例えば「野ばら」の一部を、高橋健二は次のように訳しています。
小バラは言った「私は刺します、
いつもわたしを忘れぬように。
めったに折られぬ私です」
(中略)
けれども手折ったわらべ
野に咲く小バラ。
小バラは防ぎしたけれど、
泣き声、ため息、かいもなく、
折られてしまった、是非もなく、
小バラよ、小バラ、赤い小バラ
子供の視点に立てば話しているように感じることもあるでしょう。この詩は「童」の視点だから「小バラは言った」などという表現が成り立つのではないかという解釈も当然成り立ちます。
 しかし、もしかしたら花は話すかもしれない、花が話したら面白いのに、と想像するだけで、日常の再発見につながります。
 また『魔王』でも同じことが言えます。診療を終えたのでしょう。父親が病気の子供を馬に乗せて、屋敷に戻るところを描いているのですが、子供は魔王の影に怯えます。「父上よ、父上よ、聞きたまわずや?/魔王のささやき誘うを」。しかし「枯葉に風のさわげるなり」と父親は一蹴します。最終の連までは高熱や恐怖から幻覚を見てるのかと思いますが、最後の連で「からくも屋敷に着きけるが、/腕の中のいとし子は死にてありき」と締めくくられています。
 どこまでも現実的に解釈するなら、病死でしょう。しかし、もしかしたら魔王が連れ去ったのかもしれない、という解釈の余地も残しつつ、この物語詩は終わります。これも野ばらと同じで、魔王が現実の世界に登場することはありません。しかし、魔王がもしかしたらいるかもしれない、と思わせることで、日常を違った角度から眺められるのです。そして擬人化等の比喩が、これを可能にしています。「魔王」では病魔、死そのものを魔王に喩えているという解釈が成り立ち、現実的な解釈とも齟齬は生じません。しかし日常生活とまったく切り離すと、絵空事になります。その結果、空疎な作品になりかねません。

「野ばら」の構成

 さて、色を軸にもう少し野ばらの構成を見てみましょう。第一連には「あかい小バラ」と出てきて、これが何回もリフレインしています。
 次に「私は刺します」という一文。これは言うまでもなくバラの棘ですが、血の赤を連想させます。最後に「手折ったわらべ」と書いてありますが、この一文からの連想は童の血だけでありません。小バラを擬人化していることで、もしかしたら小バラも血を流しているかもしれないと思わせるのです。もちろん小バラは「泣き声」を上げており、血は痛みの象徴とも解釈できます。
 他にも草原の緑とバラの赤が補色となっており、際立っていることも指摘できるでしょう。

超自然的なものへの畏敬

 「魔王」では特に超自然的なものへの畏敬が窺えます。これはほぼ生涯にわたって書き続けた詩劇「ファウスト」や自然科学の論文も書いていることからも解るように*2、自然はゲーテの関心だったと解ります。

「人間性の限界」

 この主題は、「いかなる人間も/神々と/力を競うべからず。/もし人、高く伸び上がりて、/頭もて星に触れなば、/おぼつかなき足は/踏みしむることなく/雲と風に/もてあそばる」とあるように「人間性の限界」にも見て取れます。
 ここで神々と表現されていますが、複数になっているので、キリスト教の神ではありません。確かに第一連では「聖なる父」と「幼な児のごとき/恐れ」とあり、父と子からはキリスト教の神を連想します。
 しかし、「雷鳴とどろく雲の中より/恵みのいなづまを/大地にまきたまえば」からは、雷と雨が関係づけられており、ゲルマン神話の神、トールであると示唆されています。トールは雷、天候、農耕も司っており*3、人間が制御できない存在。
 そして神々(=自然)を「永遠の大河」に喩え、人間を「波にもたげられては、/また飲みこまれ、/沈みはてゆく」卑小な存在だと書いているのです。

「神性」

 では人間は自然の猛威に打ちひしがれるしかないのでしょうか。その答えは「神性」という詩に描かれています。「人間性の問題」は神々(=自然)と人間との違いが描かれていましたが、「神性」では動物と人間との違いが描かれています。「人間は気高くあれ、情けぶかくやさしくあれ!」と。
 そして、「太陽は/善をも悪をも照らし、/罪人にもこの上ない善人にも、/同様に光り輝く」ように、自然は誰彼構わず恵みを与えます。一方で「人間だけが、善人に報い、/癒し救うことができ(中略)また全ての惑いさまよえる者を/結びつけ、役立たせる」ことができるのです。

*1 Germanstories「Erlkonig/ The Erl King
*2 ゲーテ『ゲーテ 形態学論集 植物篇』(筑摩書房)など、
*3 Wikipedia「トール



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村上春樹『1Q84』(新潮社)

1Q84 BOOK 1

あらすじ

 一九八四年。小説家志望の川奈天吾は、編集者の小松にある話を持ち掛けられる。発想だけ群を抜いた新人賞の応募作があったが、その作品は助詞の使い方など、文章の基本的な構造に欠陥を抱えていた。そこで川奈に原稿の書き直しを頼み、出版。印税で一山当てようというのだ。結局、小説の魅力に取りつかれ、小松の案を飲むことに。小説の名は「空気さなぎ」。
 一方で、暗殺者の青豆の人生も大きく変わろうとしていた。高速の非常階段を降りたときから、警官の装備が変わっていたのである。もし、変更されたのならニュースで取り上げられるはずだが……。少しずつ違和を覚え始めたが、決定的な光景を目の当たりにした。月が二つ出ていたのである。この世界を、青豆は「1Q84」と名付ける。

物語の基本構造

 まず物語の基本的な構造について触れておきます。基本的に偶数の章は天吾、奇数の章は青豆の視点で語られます。Book3からは牛河の視点が入ってくるのですが、Book2までは忠実にこの原則を守っています。そして、『空気さなぎ』の物語そっくりの世界に青豆と天吾は迷い込むのです。
 それから、昏睡状態のときに父親の手が小刻みに震えていたことをクミが証言しています。このことから天吾の父親が青豆たちのもとに訪れたと示唆しており、昏睡しているときの世界と言う解釈も成り立ちます。しかし、もしこの解釈に従うなら、父親の死とともに、世界が消滅していないと不自然でしょう。
 したがって生霊となって、青豆たちのアパートへ集金に来たのだと解釈しました。

if

 さて、村上春樹の文章は曖昧な語り口が特徴的。例えば、ノルウェイの森には下記の文章があります*1。
 直子は僕に背中を向けて眠っていた。あるいは彼女は一睡もせずに起きていたのかもしれない。起きているにせよ、眠っているにせよ(後略)
 もちろんこのような文体はすでに見たように、『1Q84』以外の作品にも見られます。

不確実さ

 しかし『1Q84』ではこの不確定性こそが物語の重要なポイントとなっています。村上春樹はロイター通信の取材に下記の通り、答えています*2。
最初はジョージ・オーウェルが近未来小説として書いた『1984年』があった。僕はそれとは逆に、近過去小説として、過去こうあったかもしれない姿ということで書きたいと思った。
 実際、「過去こうあったかもしれない」という姿は随所に散見されます。例えば、十歳の少女、つばさが新興宗教の教祖に強姦されるのですが「青豆がつばさの中に見出したのは、自分自身のそうであったかもしれない姿だった」とあります。青豆もまた親子ともに「証人会」の信者だったのです。また証人会に入っていなかった自分を子供時代は想像していました。
 したがって小学生時代は異分子として無視されて、理科の時間に天吾は青豆に声を掛けるのですが下記のように回想しています。
 学校の廊下で彼女〔=青豆〕に声をかけなかったことを今更ながら悔やんだ。もし声をかけていたらおれの人生は今あるものとは違ったものになっていたかもしれない。
『ノルウェイの森』とは異なり、過去の不確実さが人生にまで影響を及ぼしていると言えるでしょう。
 また青豆は三十歳の天吾を空想していますが、これも仮定の話。この意味において、過去の不確実さに関係しています。

記憶

 このように過去をテーマにしていますが、記憶と言い換えても差し支えありません。実際、記憶の曖昧さに言及している場所があります。
 あれはいつのことだったっけ、と青豆は思った。しかし、時間は記憶の中でからまりあい、もつれた糸のようになっている。真っ直ぐな軸が失われ、前後左右が乱れている。(中略)思い出せるはずのことがなぜか思い出せない。
 1Q84 BOOK 2 このような「記憶」の主題は、プルーストの『失われた時を求めて』を青豆が読んでいることからも言えるでしょう。なぜなら『失われた時を求めて』もまた記憶を主題として描かれているからです。
 そして個人の記憶だけでなく、「僕らの記憶は、個人的な記憶と、集合的な記憶を合わせて作り上げられている」と歴史にも言及しています。また、青豆の友人で、自身もレイプ被害者である中野は下記の通り言っています。
「〔レイプは〕歴史上の大量虐殺と同じだよ。(中略)やった方は適当な理屈をつけて行為を合理化できるし、忘れてもしまえる。見たくないものから目を背けることもできる。でもやられた方は忘れない」
 大虐殺とレイプとの結びつきは単にイメージの結びつきだけにとどまりません。南京大虐殺をRape of Nanking*3と言いますが、この言葉からも大虐殺とレイプとの結び付きがあると言えましょう。
 主題の一つが歴史だと考えると、なぜフィクションではなく平家物語を引用したのか意味を見出せるでしょう。

作り変えられる歴史

 さて、『1Q84』がジョージ・オーウェル『一九八四年』を意識して書いたことはタイトルから察しがつくでしょう。実際、深田絵理子の育ての親、戎野はジョージ・オーウェル『一九八四年』に言及して、天吾に下記の通り語っています。
 ジョージ・オーウェルは『一九八四年』の中に、(中略)ビッグ・ブラザーという独裁者を登場させた。
 これが確認した限りで唯一の直接的な言及になります。
 しかし、オーウェル『一九八四年』を彷彿とさせる箇所は早い段階で見られます。『一九八四年』は真理省という役所があり*4、そこで主人公は歴史を捏造しているのですが、『1Q84』にも「記憶の捏造」という言葉が出てきます。
 ただのフェイクの記憶なのだろうか。すべては彼の意識が後日、何らかの目的なり企みを持って、勝手に拵え上げたものなのだろうか? 記憶の捏造──(後略)
 もちろん『一九八四年』は国家の歴史であり、『1Q84』は個人の記憶なのですが、両者とも「何らかの目的なり企みを持って、勝手に拵え上げたものなの」かもしれないという問いは共通しています。
 また、架空の作家を作るという点でも、歴史をささやかとは言っても作り変えている、と言えましょう。

新興宗教

 村上春樹は地下鉄サリン事件の関係者たちに取材して、ルポルタージュを書いています*5。また、ロイターへの取材で下記の通り語っています*6。
「一体どういうふうに生きればいいのか、何を価値、軸として生きていけばいいのか、当然そういう疑問が出てくるが、今、特にこれという軸がない。カルトというものはそういう人たちをどんどん引き付けてゆくことになると思う。僕らができることは、それとは違う軸を提供することである」
 実際、『1Q84』では「人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような美しく、心地良いお話なんだ。だからこそ宗教は成立する」とあるように宗教について言及しています。そして新興宗教を信じる理由について老婦人に下記の通り語らせています。
世間の大多数の人々は真実を信じるのではなく、真実であってもらいたいと望んでいることを進んで信じるからです。そういう人々は、両目をいくらしっかり大きく開けていたところで、実はなにひとつ見てはいません。そのような人々を相手に詐欺を働くのは、赤子の手をひねるようなものです。
 1Q84 BOOK 3 これらのことを踏まえると、リトル・ピープルの謎に関して一つの解釈が成り立ちます。ビッグ・ブラザーに代わってリトル・ピープルが台頭してきた、と戎野は述べています。つまりリトル・ピープルは「心地良いお話」を信じる人と言えるでしょう。
 そして、これは現代では別の形で世界各地に現れているのです。



*1 村上春樹『ノルウェイの森(上)』(講談社)
*2 再送:インタビュー:村上春樹、 「1Q84」で描くポスト冷戦の世界(ロイター通信)
*3 Weblio「南京大虐殺
*4 ジョージ・オーウェル『一九八四年』(早川書房)
*5 村上春樹『アンダーグラウンド』(講談社)
*6 再送:インタビュー:村上春樹、 「1Q84」で描くポスト冷戦の世界(ロイター通信)



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