有沢翔治のlivedoorブログ

 同人小説家、有沢翔治のブログ。  いいものを書くためにはいいものを、幅広く。

【こんな小説を書いてます】

二人であることの問い

 双子の姉、亜衣の様子がおかしい。何かあったのではないかと真衣から萌は相談を受ける。やがて亜衣の部屋からバタフライナイフを買った痕跡が見つかり……。亜衣は何を考えているのか?

同人音楽『幻想の大地』を企画・ディレクションしました

 同人音楽『幻想の大地』を企画・ディレクションしました! 歌詞の内容は僕の小説、『カミの世界』に沿っています。


 僕は今回、完全に裏方です。もともとツイッターで自分の小説にテーマソングを付けて流しているのを見かけて、「あ、面白そう!」と思ったのがきっかけ。
 それで以前、「視線を感じて」でお世話になったシンガーソングライター、天宮耀子さんにコンタクトを取りました。すぐにご快諾いただき、イラストレーターまでご紹介いただきました。

僕が関わったところ

 今回、ディレクターとして僕は以下の点に関わりました。

資料配布

 今回、『カミの世界』に添っています。したがって世界観を共有するために文芸同人誌『TEN』を関係者に配布いたしました。
 また、資料は同人誌だけにとどまりません。イラストレーターの美和子さんにロケットの写真を送りました。

イラスト・音楽の修正指示

 意外と知られていないことなのかもしれませんが、星は宇宙空間で瞬きません。最初は星が瞬いていたので、その理由を含めて説明。この辺り僕の方法なんですけど、ご納得した上で修正していただきたいので。
 人によっては理屈っぽく聞こえるかもしれません(笑)

歌詞の表記を打ち合わせ

 今回、天宮さんに作詞していただいたのですが、歌詞の内容について入朱しました。
1.日本語の誤用について
 僕は自分の作品でもそうなのですが、言葉に自信がなかったら必ず複数の辞書で調べています。最近はインターネットで大辞泉、大辞林が引けるようになって便利になりましたね。
 ちなみに僕の部屋には、『国語辞典』(三省堂)、『学習新国語辞典』(講談社)が置いてあります。以前は大辞泉も置いてありましたが、インターネットで引けるようになってからは捨てました。他にも漢和辞典や古語辞典が置いてあります。
2.事実確認
 第三校では「はじめに(中略)言(ことば)はいつでも カミと共に在る」だったのですが「初めに」という表記を希望しました。
 理由ですが、これは手持ちの「新約聖書名言集」を見ると、「初めに言ありき」と書かれていました。幸いにも天宮さんは全訳の「新約聖書」を持ってましたので、ご確認いただけることに。「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共に在った」と書かれていたそうです。
3.表記の慣例
 たとえば、「十年間、学校で国語を教えてきた」という時に、「教えて来た」とは書きません。その理屈で行くと「戻ってきた」という表現が慣例だと思うでしょう。しかし、「戻って来た」という言葉と「教えて来た」という言葉には違いがあります。
 「教えて来た」は単に継続の意味合いしか持っていないのですが、「戻って来た」は動詞本来の意味が強いですよね。このようなときに、文化庁の「公文書における漢字使用等について」では漢字で表記すると書かれています。

最後に

 いかがでしたか? このようにその場の勢いで立てようとも、また立場が違えども、このように文字一つとっても疎かにしていません。言葉に「かわり(代わり/変わり)」はないのですから。


エイブ・ローゼンタール『38人の沈黙する目撃者』(青土社)

38人の沈黙する目撃者 キティ・ジェノヴィーズ事件の真相

要約

 1964年3月13日夜9時の集合住宅でキティ・ジェノヴィーズが強姦の末、殺害された。弱冠二十八。この事件は全米に影響を及ぼした。その被害者の若さだけではなく、また二度に渡って刺すという残虐な手口だけではない。集合住宅の住人、ほとんど全員が彼女の悲鳴を無視していたのだ。
 マスコミは都会の人が冷淡だからと報じたが、果たしてそうなのか。我々の心にも巣食っていないだろうか?
 後に心理学者、ラタネとダーリーの興味を惹き、傍観者効果を提唱するにいたった実在の事件。

序文

 このルポルタージュは長い序文が付されています。賛否両論あるでしょうが、僕は肯定的に受け止めています。なぜならエイブ・ローゼンタールの問題意識がはっきり書かれているからです。
 迫害を受けて叫び声を上げている人のことを考えて欲しい。(中略)あなたは、彼らの上げる叫び声を聞いている。しかし、彼らの姿は見えない。
  確かにキティ・ジェノヴィーズ事件は多くの反響を呼び、投書が多く寄せられたと書いてあります。しかし、「カルカッタやニューデリーの街路で、施しのために足を止めることをしない人はどの位いただろうか」と貧民問題に関しても無関心な姿勢だったのではと思います。また「いったい叫びからどのくらい遠ければあの三十八人の目撃者を憎むように、自分自身を憎まなくても許されるのだろうか」と、この問題意識は半ば懺悔のように聞こえます。カルカッタやニューデリーに駐在経験がありますので、彼もまた傍観者の一人だったのでしょう。
 もちろん規模が違いますし、確かに色々な要素が絡み合う以上は解決が容易ではありません。しかし、無関心でいいのだろうかと問うているのです。
 僕がローゼンタールを、そして『38人の沈黙する目撃者』を評価する理由は、彼が自省をしてたどりついたという点です。他人を批判するは簡単ですが、自分の醜い面を見つめるのは本当に勇気がいります。

アパシー

 アパシー(apathy)とは無感情という意味です。この言葉は心情を表す接尾語(-pathy)*1に否定を表すaがついたものです*2。政治的に、社会的に無関心な状態を指しています。

アパシーの原因

 『38人の沈黙する目撃者』では詳述されていません。「話す必要などありません、出ていって下さい」とことごとく取材を拒否されているからです。しかし、この「取材拒否」という事実こそ心理状態を直に反映しているように感じました。
 数人へのインタビューがかろうじて成功しているのですがのですが男性はこう答えています。「かかわりあいになりたくなかったんだ」と。それには当時、どのように警察が通報を受けたらどのように対応するかが関わっているのです。
 当時のニューヨーク警察では、通報者に住所と名前を聞いていました。もちろんあとで確認を取るためなのですが、目撃者にしてみたら煩わしさを感じていのです。
 そしてもう一つ、煩わしさとともに浮き彫りになったのが、警察への不信感、怠慢でした。例えば投書がありました。
 警察を呼ぶだって? 冗談言うな。奴らの仕事振りをみたら、あんたはきっと笑い死にする(中略)警察に名前を聞かれるなんて真っ平だ。
 不信感を露わにする投書が他にもいくつか新聞社に送られてきたのですが、この不信感の一端は警察側にも問題がありました。
 「そこ〔規定通りに警邏しているところ〕にあったら幸運だよ。いつも警官が近くにいるとは限らない」と警官本人へのインタビューで明らかになるのです。好意的に解釈すれば、人員不足、ひねくれた解釈をするなら怠け癖があったのかもしれません。
 さて、インタビューを拒否した理由は単に、話したくないだけでしょうか。思い出したくないように僕も感じました。僕「も」というのは、ローゼンタールはキティ・ジェノヴィーゼ事件を解決する方法の一つとして「オースティン通りの人々のように『すべてを忘れる』こと」が──皮肉と苛立ちを込めて──提示されているからです。

匿名性

 さて通報しなかったのは都市の匿名性とも深く関わってきます。もし38人の名前が全員出るとなったら、もちろん通報していたでしょう。匿名であること。それは責任の所在を隠蔽することでもあります。
 神学者の投書には脱人間化したのだろうとコメントに書かれていましたが、こう締めくくられていました。「私の言葉を引用しないでくれ。私を巻き込まないでくれ」。引用すると責任の所在がはっきりしてしまいます。
 実名を出して巻き込まれるくらいなら、黙っておいたほうが得策である。指摘すべき点とはこの「責任逃れ」です。

文学作品との関係

 警察不信が主に述べられていますが、これ事実は文学作品、特に推理小説にも現れているように思います。例えばハードボイルド小説で有名なレイモンド・チャンドラーは下記のように語っています*3。
 ハードボイルド小説の情緒的基盤は、あきらかに、殺人は発覚し、正義がおこなわれるということを信じない点にある。
 また、警察とマフィアが癒着している、というマッギヴァーンの『悪徳警官』*4もアメリカ人です。

ジョン・ダンの詩との関係

 このルポルタージュの最後はこう締めくくられています。

 人間は「孤立した島」に対しても鐘は鳴り響いており、各人が「窓を閉めよ(放っておけ)と囁く」目撃者に対して恐れを抱かなければならないことを、認識することである。
 ジョン・ダンは、「人は孤島にあらず」という詩を書いています。そしてその詩の中で、「人は孤島にあらず/ただ一つ屹立する島にあらず/人は皆、大陸の一部/全体の一部/一塊の土塊が海に洗われて流されれば/ヨーロッパ大陸は縮小する」と詠んでいます。ジョン・ダンはヨーロッパ大陸を思い描いていたことがこの詩から読み取れるのですが、ローゼンタールはもちろんアメリカ大陸を思い描いています。
 そういった些細な違いはあれど、「孤島にあらず」という詩句からは人は社会の構成員として生きていくのだと訴えています。だから、一人でも欠けたら「ヨーロッパ大陸が縮小する〔ように社会も縮小する〕」と比喩的に述べているのです。
 そしてジョン・ダンの詩はこう締めくくられています。
 弔鐘を聞いても
 人を遣わして問うことなかれ
 あの鐘は誰がために鳴るのかと

 その鐘は汝のために鳴るなれば
 この詩句は言うまでもなく、ローゼンタールの「鐘は鳴り響いており」に対応しています。つまりジョン・ダンの詩を間接的に引用しすることで、キティ・ジェノヴィーズも社会の構成員だったことを示しながら、「弔鐘」を撞いているのです。

 

*1 他にpathyを接尾語とする言葉には意味のsympathy(共感・同情)がある。これは「ともに」という意味のsym-と心情を表すpathyから構成される言葉である。
*2 wikipedia「アパシー」参照。
*3 レイモンド・チャンドラー「序」(レイモンド・チャンドラー『赤い風』東京創元社)。しかし、ヒラリー・ウォー、エド・マクベインなどの作家は警察による正義が行なわれると信じていたのかもしれない。
*4 マッギヴァーン『悪徳警官』(東京創元社)




ウィリアム・ワーズワス『対訳 ワーズワス詩集』(岩波書店)

対訳 ワーズワス詩集―イギリス詩人選〈3〉 (岩波文庫)

ロマン派詩人

 コールリッジと並んで、イギリスのロマン派を代表する詩人ですね。他にもバイロンやパーシー・シェリーなどがいますが、パーシー・シェリーたちは第二世代に分類されます*1。自然を賛美し、理性よりも感情に重きを置いているという点で両世代たちは同じなのですが、政治的な態度が違います。ワーズワスたちは哲学的思索にふけり、保守的な政治観に変わっていきます。
 ワーズワスはフランスに旅行するのですが、途中で資金難になります。旅費を得ようとフランスから、ロンドンに向かう直前にフランスで「9月の大虐殺」*2が起こります。革命反対派を逮捕し、名ばかりの裁判で死刑にしたという事件なのですが、これを機にワーズワスは政治観を保守路線に切り替えます。
、パーシー・シェリーたちの政治思想は改革だったのです。革命を主導し、民主主義を推し進めたい。そんなパーシー・シェリーの思想は「ソネット──「知識」を積んだ気球に」*3によく現れています。現にパーシー・シェリーはワーズワスに失望して、「真理も自由も捨てたあなたは僕を悲しませる」と詩に残しています*4。
 さてワーズワスとコールリッジの『抒情歌謡集』からロマン主義は始まったのですが、ワーズワースは故郷、湖水地方の自然を詩に詠んでいます。例えば『茨』という詩ですが、「しょっちゅう荒れる冬の風/肌指す痛さは鎌みたい」と厳しい冬景色を詩に詠んでいます。イメージが湧かないので調べてみたら、冬のコッカマスはこんな風景みたいです。寒そう!

詩とは想像力である

 詩とは何なのでしょう? ワーズワスにとって詩とは「With tranquil restoration(有沢訳:静かに思い出すこと)」*5であり、想像力と定義されるとしています*6。しかし、この定義に僕は満足していません。なぜなら、「静かに思い出した」ものであれば、素人の日記も詩になってしまうからです。例えば「静かに追想している」のであれば、「今日、ダーリンとデートに行った」という一文もこの定義なら詩に含まれてしまうのです。
 もちろんその解釈で納得するなら話は別ですが、少なくとも僕は納得しません。確かにワーズワスの詩には少年時代を回想したものが多く、その意味でワーズワスが詩をどのように考えていたか考える上で、「静かに回想すること」は興味深いのですが。

異化

 さて、シクロフスキーは詩を異化作用*7だと定義しています。例えば僕たちは「岩」と聞くと、すぐに「堅い」という言葉を連想しがちです。しかし、よく考えれば世間一般でそう言われているだけであって、自分の認識ではありません。
 では自分にとって岩はどういう存在なのでしょう? そういったことを考えると詩における比喩、レトリックは〈自分〉にとっての「岩」を表現する方法と言えましょう。ワーズワスにとって岩は老人と結びついているようで、「決意と自立」の第IX連から第X連に掛けて下記の詩句が見られます。
  IX
ときおり巨岩が横たわっていることがある。
剝きだしの山の頂上に。
それは見る者すべてにとっての驚異
いかにして頂上に至ったのか、そしていずこから
かくして、岩は感覚を賦与されたかに見える。
這い出してきた海の動物、岩棚か
砂地で憩い、日に浴す生き物であるかのように。
  X
それこそが老人の姿、全くの生でも死でもなく、
全くの眠りでもない、老齢の極地、(後略)
 老人は蛭を取って生活をしていることが第XV連で明らかになるのですが、それゆえに手は節くれだっていると推察できます。しかも「これまでに耐えた数知れぬ苦難」とあるように、決して楽な暮らしではないと解ります。
 節くれだった手や艱難辛苦に満ちた人生。岩のごつごつした表面とイメージが重なりませんか? 

Wonder

 上の詩句でワーズワスは巨石を驚異と表現しているのですが、原文を見るとWonderとなっています。この単語は驚きとともに賛嘆*8の意味も含まれているのですが、ワーズワスは老人と巨岩を重ねています。
 老人の人生や人間の長寿に関して「驚異」を感じているのではないでしょうか?

茨The Thorn

 タイトルを見ると、Theがついていることからも解るように、特定の木について語っています。さてこの詩ですが、前半は荒野に吹きすさぶ茨の木を描写しています。その描写が「茨が一本立っている、ああ古くっちゃ、ほんとに言えたものじゃない、あれでも若いときあったとさ、あんなに古くてくすんだ木、高さは二歳の子供の背丈。(中略)ありゃ瘤こぶで節だらけ」とあります。おまけに第II連では茨の木を岩石にたとえています。
 脚注には「1798年、(中略)散歩中に嵐に会い、一本の茨に心打たれた」とあり、この茨の木のイメージが恐らく、「決意と自立」に引き継がれていったのではないかと思うのです。

子供と母親

 さて茨の木は後半部、池に佇む母子の描写になります。この母親は過酷な運命をたどって荒地にまでたどりつくのですが、荒地の寒々とした光景は母親の心象風景とも解釈できます。
 また大地は色々な植物を咲かせ、母親と同一視されてきました*9。また「二歳の子供の背丈」とあるように第I連からは老人のイメージだけではなく、子供をも想起させています。茨が荒野に生える風景と母親が子供を抱く光景は重なり合うように思うのです。

nature

 ワーズワスは詩がを通して荒野を描いたのですが、自然に関してはどのように見ていたのでしょう。「嬰児に祝福あれ」では「嬰児を外界と結ぶ/自然の引力としての絆」があります。これに「比喩的に自然と人との間に成立する絆」という注釈が振られていて、母親と子供のような関係だという解釈がなされています。
 ところで引力と書くと物理学用語のような印象を与えかねません。Natureには「自然」の他にも「生まれながらに内在する性質・特徴」*10といった意味があります。僕は幼児を引き合いに出していることから、この意味に解釈しました。

force

 物理学用語で言えばもう一つ。「ルーシー詩篇」では妹のルーシーを追悼していますが、no forceという単語に対し「ニュートン物理学の用語」だと注釈がされています。
 しかし、死体にも物理的な力は働いているので、この解釈には非常に違和感を覚えます。forceには法的拘束力や意志の力、暴力による強要などの意味もあります*11。死体の場合には、これらの意味に取ったほうがしっくり来るのではないでしょうか。
 死んでしまえば、法的拘束力などもなくなりますからね。

spots of time

 ワーズワスは「幼少時の回想から受ける霊魂不滅の啓示」など、子供時代を回想して詩を書いています。それは彼が詩の精神を子供のような想像力に求めていたからにほかなりません。Spot of Timeも子供時代の回想を読んでいます。
 いわば原体験とも呼ぶべき、ワーズワスの心象風景。ワーズワスは十歳の頃、山に遊びへ行って絞首台の跡地を見るのですが、その数日後に父親が死亡。自分に下った天罰なのではないかと思い悩んでいたそうです。
 導入部は人生の岐路に立たされると、いつも父親の死を思い出すという内容です。そして下記の詩句で具体的な追憶にいたります。
 「人生のさまざまの行路で/知性がすべてを支配し/外的感覚は、知性の命令に従順な僕にすぎない」。一口に知性と言っても英語ではIntelligence、Understanding(理解する)、reason(因果関係を把握する力)など、さまざまな言葉があります。どれだろうと思って原文を見ました。
 「We have had deepest feeling that the mind is lord and master(拙訳:気がかりな深い感情が領主のように支配してきて……)」でした。なにが気にかかっているのでしょう。散歩中は使用人からはぐれ、絞首刑の跡地にたどりつきます。
 「わたしは連れからはぐれ、恐れから/馬を下り、険しい岩がちの荒野のなかを/馬を牽き、躓き躓きしながらやっと/たどりついた谷底は、かつて縛り首となった/殺人者が鉄鎖につながれ曝されたところ」とあるように恐怖心が支配しています。またこの「深い感情」は現在完了が使われていることからも解るようにずっと抱いています。
 僕はこのことから、成長して詩を書いている現在もなお、深い感情を抱いているのではないかと解釈しました。その感情とは恐らく父親の死だったのではないでしょうか。



*1 川崎寿彦『イギリス文学史』(成美堂)
*2 wikipedia「九月虐殺
*3 アルヴィ宮本なほ子「解説」(パーシー・シェリー『対訳 シェリー詩集』岩波書店)
*4 パーシー・シェリー「ワーズワスへ」(パーシー・シェリー『対訳 シェリー詩集』岩波書店)およびアルヴィ宮本なほ子「訳注」参照。
*5 山内久明「ティンターン修道院上流数マイルの地」訳注
*6 山内久明「解説」(『対訳 ワーズワス詩集』)。なお、ここでは「静かに」の意味を誰の目も気にしないことと解釈した。
*7 wikipedia「異化
*8 Oxford English Dictionary「wonder」の項目には、「A feeling of amazement and, caused by something beautiful(拙訳:美しいものを見たときに引き起こされる驚きと賛美の気持ち)」とある
*9  wikipedia「地母神」および「嬰児に祝福あれ」の脚注参照。
*10 Oxford English Dictionary「nature」の項目。また人間の認識について論じたヒュームの著作「人間本性論」の原題は「 A Treatise of Human Nature」である。
*11 Oxford English Dictionary「force」の項目。



ユルゲン・ハーバーマス『イデオロギーとしての技術と科学』(平凡社)

イデオロギーとしての技術と科学 (平凡社ライブラリー)

ユルゲン・ハーバマスについて

 ユルゲン・ハーバーマスは現代思想の文脈で知りました。学生時代から二十五歳くらいまでフランス現代思想を中心に読んでいたんです。フランス現代思想について調べていくうちにドイツ現代思想やイタリア現代思想というものもあると知り、ドイツ現代思想にも興味が湧いたのです。
 ドイツ現代思想もヘーゲルとマルクスの読解を中心に話が進みます*2。例えば、マルクーゼは「イデオロギーとしての技術と科学」でも取り上げられているのですが、彼もまたマルクスの研究者でした*3。「イデオロギーとしての技術と科学」はマルクーゼの古希を記念して書かれていて、ハーバマスもまたヘーゲルとマルクスからの影響が強いと窺い知ることができます。
 ハーバマスは後期になるとコミュニケーション論を中心に論じるのですが*4、『イデオロギーとしての技術と科学』では近現代の政治システムがいかに「科学」を取り込んでいったかが記されています。

Wissenshaft

 科学という訳語からは自然科学をイメージしがちです。もちろんハーバマスは自然科学も視野に入れているのですが、原文のWissenshaftは「体系化された知識」という意味で用いられることもあります*5。
 したがって経済学・政治学・法学・哲学など全ての知識も含んでいます。現に『イデオロギーとしての技術と科学』収録中の論文ではマルクス経済学、哲学などにも言及しています。

ヘーゲルと労働

 例えば「労働と相互行為」ではヘーゲル哲学の自己意識に触れています。個人の意識がどのような過程で国家に向かうかを考えました。
 しかしヘーゲルの弁証法では空疎な絵空事に終わってしまう、とマルクスは考えました。彼は『経済学・哲学草稿』*6において下記の通り、述べています。
 彼〔ヘーゲル〕は、たんに抽象的、論理的、思弁的な表現にすぎなかったが、歴史の運動にたいする表現を見つけだしたのであった。だがこの歴史はまだ(中略)現実的な歴史ではなく、ただやっと人間の産出行為、発生史であるにすぎない。
 ヘーゲルとマルクス、二人の歴史観がどう違うか捉える意味でもヘーゲルを参照してるのかもしれません。
 言語といえば、コミュニケーションの道具だと思われがちですが、ヘーゲルによれば、「自然にむかいあって事物に名前を与える孤独な個人の使用、という意味しかもってい」ません。
 例えば、リンゴ、ミカン……。この段階ではまだ社会化されておらず、その意味で「精神は(中略)動物的である」とハーバマスは評しています。では、どんな場面で社会化するのでしょうか。それが「労働」です。ヘーゲルは『精神現象学』*7において、単に賃金の獲得だけではなく、他者から承認という観点から労働を見ました。この承認という概念は信用、と言い換えてもいいかもしれません。

承認

 例えば、僕は同人ゲームでシナリオを書いています。「怪奇探索少年隊」の原稿を速く書き終え、しかもそこそこ面白かったからこそ、「白い焔」で声が掛かったんです*8。またこれは僕がシナリオを受けるときにも言えます。たまに作品を完成させていないのに、次回作の原稿を頼まれるのですが、断固として拒否します。僕がそのサークルを信用(=承認)していないからです。
 これはもちろん趣味での話ですが、仕事では信用がよりシビアに反映されます。では他者から信用されるためには? という話になってきます。それは自分をある程度捨てるだとヘーゲルは言います。
 ここでもまた同人サークルを例にとって恐縮なのですが、僕は他人から頼まれると読書時間を削ってでも仕上げます。時間的な制約だけではありません。内容にも当然、制約が設けられます。例えば僕は本格推理小説が好きなのですが、恋愛ものを書いて欲しいと言われたら推理要素をある程度抑えなければなりません。
 またこれは労働だけではなく、人間関係全てにおいても言えます。例えばチャンネル争いなどがそうですね。見たいテレビ番組があっても、一台しかなければ誰かが我慢しなければなりません。

承認から国家へ

 個人的な問題だけではなく、企業の問題でも同じことが言えます。本来なら利益だけを追い求めて、顧客を省みないと客は離れていきます。自分の欲望から労働へ、労働から地域社会へ、地域社会から国家へ……、こんな風に他者との出会いが連鎖していって国家が形作られる、とヘーゲル考えたのでした。
 またこの楽観的な見方はカントにおいても言えます。カントは『純粋理性批判』から『永遠の平和のために』にいたる一連の著作において、理性が世界国家を作ると論証しています。
 ヘーゲルもカントも理性を信じていました。それはフランス革命で自由を手にして、理性が独裁を終わらせると信じていたのでしょう。特にナポレオンがイエーナに入場するとヘーゲルは、「世界精神が馬に乗って通る」とまで表現しています*9。

ハーバーマスの批判

 しかしヘーゲルやカントの思い描いていたとおりにはなりませんでした。理性の権化である「科学(Wissenshaft)」がもてはやされているにも関わらず。
 その理由をハーバマスは端的にこう書いています。
科学技術の進歩とともに制度化された生産力の増大は、歴史的類のない速度で進んでいる。体制秩序はそこに自己正当化の絶好の根拠をみいだす。
 つまり科学技術も政治的なイデオロギーに吸収され、利用されるようになったと考えました。例えば原発の問題は、原発の是非も含めて政治的な問題が絡んできます。経済発展の問題はもちろん、核防衛の問題とも。
 石破茂は『SAPIO』で下記の発言をしています*10。
 「核の基礎研究から始めれば、実際に核を持つまで5年や10年かかる。しかし、原発の技術があることで、数か月から1年といった比較的短期間で核を持ち うる。加えて我が国は世界有数のロケット技術を持っている。この2つを組み合わせれば、かなり短い期間で効果的な核保有を現実化できる」
 原発の問題は僕が出した例なのですが、ハーバーマスはこのように16世紀では純粋な好奇心を満たすために用いられた科学が今や政治的に利用されていると指摘しているのです。

マックス・ウェーバー

 ハーバーマスはマックス・ウェーバーも批判しています。マックス・ウェーバーは近代の特徴を〈合理化〉という目的から読み解いたとあります。マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』*11で資本主義の根源を禁欲と合理化に求めています。
 フレデリック・テイラーなどは合理的に労働者を管理するかを考え、その方法を科学的管理法*12と名付けました。ここにも代表されるように、科学と合理的精神は資本主義で息づいているのです。
 しかし、ハーバーマスはこの合理化をもう一つの意味で捉えます。それは、精神分析の言う合理化です。この発想はフランクフルト学派の特徴的で、ホルクハイマーの演説から影響を受けています。その結果、マルクーゼなど多くの哲学者たちがマルクスとフロイトの融合を図りました*13。

知の細分化

 ハーバマスは市民が政治に参加できなくなった理由をこう分析しています。過度に細分化されて、門外漢が口出しできなくなっているのではないかと。
 科学の内部では確かに公共世界が維持されているので、専門雑誌や会議などで情報を交換している。だが、異常な難局があらたなコミュニケーションの形式を強要することでもないかぎり、科学と公共世界の、まして政治の世界との公共性は期待できない。研究の分化がすすんだ最近の百年間において、専門雑誌の数は一五年ごとに二倍の増大を示している。
 確かにJournal(専門雑誌)を定期購読すれば、情報は得られます。しかし、最先端の研究は門外漢が読んでも解りません。例えば、重力波の研究などは物理の大学院生以上のレベルではないと読めないのです。また確かに、物理学者がエリオットの詩*14やウィリアム・フォークナー以降の小説*15を読んでも一回で理解することは難しいでしょう。
 僕はこの意見には余り賛同できません。理由は3つ。

学際性

 最近、科学では学際的な見地が求められています。村上陽一郎は『科学者とは何か』の中で、IRBという評価委員会を例示しています。「IRBというのは研究者の属する研究機関に設けられるべきもので」、「計画書を審査し、(中略)研究遂行の認可を与え」*16ます。IRBには下記の特徴が挙げられています。
 IRBのメンバーのなかには、必ずある程度以上の比率で同業者ではない人々が含まれていなければならない、というところにこの制度最大のポイントがあるからである。例えば分子生物学研究の機関があるとして、そのIRBのメンバーのなかには、分子生物学以外の、物理学者や、哲学者や、あるいは聖職者などが含まれていることが要求されているのである。
 つまり門外漢以外にも説明する必要が出てきたのです。
 学際性という見地からもう一つ言うなら、文学研究の中にも数学的・科学的な知識が必要となる分野があります。具体的には、ある作家の前期と後期の語彙がどう変遷していったかを調べたいとき。これには統計学の知識が必要です。
 また、古文書研究では紙の成分による年代推定や筆跡鑑定なども必要となってきます。この研究は科学的な教養がなければいけません。

SNSの存在

 犯罪行為を自慢する人がいたりと、僕はSNSに関しては一時期、悲観的でした。一時期、facebookがアラブの春でもてはやされましたが、怪しげな投資話ばかりがグループに書き込まれています。好奇心も手伝って試しに会ってみたら、某MLMに勧誘されました。まぁ、そんなことだろうと思ってましたけど。
 もちろん現役の物理学者に話を聞いたり、読書会に参加したりといろいろ知見を広げられるのですが、全体としては否定的な印象でした。しかし、僕の中でその印象は変わりつつあります。アムウェイの勧誘マニュアルを公開したり、WELQの問題を検証したり*18……いろいろSNSでウソを暴き立ててくれています*19

好奇心

 素人が一足飛びに科学の最先端を知ることは難しいです。しかし、啓蒙書などを読めばそれなりに知識は身に付くと思います。もちろん科学者ほどではないにせよ。そして知識を身に着けるためには生き生きとした好奇心が欠かせません。
 ハーバマスは下記のように指摘します。
実践的な目標は排除され、それとともに民主的な意志形成をおこなおうとするときにのみ可能となるような、規範の是非にかんする議論も排除される。技術的な問題の解決は公開の討論を必要としないのだ。公開の討論はむしろ、国家活動の課題が技術的なものに終始するというシステムの限界条件を、問題としてうかびあがらせるおそれがある。国家の干渉を旨とするあたらしい政治は、それゆえ、国民大衆の脱政治化を要求する。
 それならば、システムの限界条件を見てみたいと僕は思うのです。正義感でも何でもなく、純粋な好奇心として。
 その先に希望が待っているか絶望が待っているかは解りませんが。


*1 もっともドイツ現代思想だけではなく、フランス現代思想にもヘーゲルの影響が見られる。アレクサンドル・コジェーヴが哲学の講義でヘーゲルを取り扱い、その影響が大きい。なお、この講義にはフランス現代思想にはジャック・ラカンなどが参加していた(wikipedia「アレクサンドル・コジェーヴ」)
*2 wikipedia「ドイツ現代思想」およびwikipedia「フランクフルト学派」参照
*3 wikipedia「ヘルベルト・マルクーゼ」参照。
*4 岩崎稔「解説」(ユルゲン・ハーバマス『イデオロギーとしての技術と科学』平凡社)、また後期の『コミュニケーション的行為の理論』も参照のこと。なお、未読。
*5 はてなキーワード「Wissenshaft」参照。この辺り、フーコーがいう「エピステーメー」と近いかもしれない。
*6 カール・マルクス『経済学・哲学草稿』(岩波書店)
*7 ヘーゲル『世界の大思想〈12〉精神現象学』(河出書房)
*8 球児さんからのメールより。
*9 wikipedia「ヘーゲル
*10 『SAPIO』2011年10月5日号
*11 マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波書店)
*12 wikipedia「科学的管理法
*13 wikipedia「フランクフルト学派」参照
*14 エリオット『荒地』では唐突に語り手の交替が起こる。
*15 『響きと怒り』では時系列が錯綜していて、この手法がバルガス=リョサなどに受け継がれている。
*16 村上陽一郎『科学者とは何か』(新潮社)
*17 アムウェイ勧誘のマニュアルが流出したぞ!勧誘されてもこれで断れるね!(VipperTrendy)
*18 DeNaのウェルク(welq)のSEO対策を調べ。どうしてグーグル先生は騙されたか?



パーシー・ビッシュ・シェリー『対訳 シェリー詩集』(岩波書店)

対訳 シェリー詩集――イギリス詩人選9 (岩波文庫)

詩とは

 詩とはそもそもなんでしょうか? 韻文も確かに重要な要素ですし、パーシー・ビッシュ・シェリーも押韻のために語順を変えています。しかし、ホイットマンなどの自由詩では押韻は無視されています。
 比喩表現も要素として説明されることがありますが、あくまでも一つの手段であって目的ではありません。詩とは見たままにとらわれず、心に浮かんだ印象をそのまま描くことです。
 例えば、『シェリー詩集』の中にはモンブランという詩が収められているのですが、切り立った岩肌を「unsculptured image」と表現しています。sculptureは彫刻という意味なので、それに否定語のunが着くことで「彫刻ではない像」と直訳できます。当たり前の言い換えだと思うかもしれませんが、彫刻というと人間が作ったものというイメージがつきまといます。しかしその直後に「image(像)」を使うということは〈誰か〉の創造物だと見ているのだと推察できます。
 シェリーはもちろん、rock(岩)やcliff(崖)という言葉を使うことも考えたでしょう。しかし、 モンブランの切り立った崖を見て、人間はなく神の彫刻だ考えたのです。
 実際、この詩は他にも「目も眩むような峡谷よ! あなたを凝視めていると/崇高で奇妙な没我状態に入ったように/(中略)思えるけれど、その自分自身の、生身の精神は、受動的に(中略)辛抱強く交流しようとしている」とあるようにモンブランに畏怖の念を抱きながらも、その自然から〈何か〉を感じざるを得ない……、そんな心理が描かれています。

ロマン主義

 さて、文学史の観点から見れば、バイロン、キーツ、ワーズワースなどと並んでパーシー・シェリーはロマン主義の作家です。ロマン主義の特徴は、「みずみずしい自然に目を向け」*2たことが一般的に言われています。また古代ギリシャ文学に着想を得て、憧憬が感じられます。
 例えばパーシー・ビッシュ・シェリーは『鎖を解かれたプロメテウス』という詩劇を書いています。また西風に捧げるオード(Ode to the West Wind)という詩を書いていますが、このオードという詩は古代ギリシャの形式です。
 また、モンブランではプラトンの用語が出くるのですが、解説によればプラトンを熱心に読んでいたとあります
。確かにルネサンス以降は古代ギリシャの文化が見直されたのですが、詩作の語彙として、あるいは物語の筋書きとして使われる程度でした*2。

ギリシャへの憧憬

 しかし、少なくともパーシー・シェリーと精神な理想として古代ギリシャを見ていました*3。そのことは「理想美へ捧げる賛歌」に現れています。Hymmは賛歌という意味なのですが「キリスト教以外の神(中略)讃える場合にも転用される」とあります。
 それではどこの神でしょうか? その手がかりとなるのは「目には見えない<力>の畏き影が」という一文です。原文はawful shadowで現されていますが、このshadowはプラトンの『国家』に出てくる比喩です。
 プラトンの著作はソクラテスの言行録なのですが、彼は洞窟に縛られた人を想像するように促します。そして後ろで人が動物の切り絵を動かしている姿を。つまり、影だけ見えて、本当の姿は見えないのです。ソクラテスは、この比喩を通して、我々が影だけしか見ることができない、と説いています*4。
 この影と実体ですが、古くはシェイクスピアのソネットにもイメージは織り込まれてきました。シェイクスピアのソネット55番は次の文言が出てきます*5。。
君の実体は何なのだろう、君は一体何で出来ているのだ。
(中略)春は君の美しい姿の影のようなもの。
パーシー・ビッシュ・シェリーもこの比喩を借りて、「畏き影」と表現しています。実際、我々は現象を観察や実験によってのみしか解き明かせません。現代でもそうなのですから、シェリーの時代にはなおのこと。
 このように彼は古代ギリシャ文化から影響を受けていて、プラトンの『饗宴』も英訳しているのですが、この憧憬はシェリーだけではありません。キーツは「ギリシャの壺へのオード」を書いていますし、バイロンはギリシャ独立戦争に志願します。

パーシー・シェリーの政治観

 パーシー・シェリーの政治観を表す詩が三編収められています。最初に収められた「ソネット──『知識』を積んだ気球に」は民主主義を乗せた気球が、世を明るく照らすことを願った詩です*6。ロマン主義は理性偏重を批判したとよく言われますし、キーツは科学に対して「詩情を破壊してしまった」と嘆いています。
 しかしパーシー・シェリーの詩にはむしろ理性に肯定的な趣があります。例えば、『アトラスの魔女』という詩では、「それからあの神秘的な星の一つに/地球と火星の間に隠れる星たちの一つになった」という一文があります。この記述ですが、発見されて間もない星を描いたものです。
 また、代表作の一つ「西風へのオード」は気象学的に正しいことが解っています*7

後代への影響

 彼は生前から売れていましたが、没後のメアリ・シェリーがパーシー・シェリーの詩集を熱心に作ります。そんなメアリ・シェリーのために叙情詩を詠んでいます。
「アッズィオーラがないているのが聞こえない?
 きっと近くにいると思うわ」
  メアリが言った、宵闇の中、ふたりで
座っていた時、まだ星が瞬く前、まだ蝋燭が灯る前
  そして、僕は思った。
このアッズィオーラを繰り言ばかりの女かと
それで訪ねた「アッズィオーラって誰だい?」
舞い上がる気持ちがした、人間ではないと知って。
恐れ憎むべき僕自身に下手に似たものではないんだ!
  そしてメアリは僕の魂の有様を見抜き、
笑って言った──「不安にならないで
  小さな柔毛のふくろうよ」

悲しいアッズィオーラ! 夕暮れにしばしば
  君のうたが聞こえた。
 なんとも微笑ましい詩ですね。パーシー・シェリーは「アッズィオーラ」をメアリの浮気相手だと思うんです。それで、メアリが「柔毛のふくろう」だというと語り手、つまりパーシー・シェリーは安心します。ところでどうして「悲しい(Sad)」と言っているのでしょうか。メアリの愛を受け取れないからだと僕は解釈しました。
 こんな詩を詠むんならさぞ愛妻家だと思うかもしれません。しかし、メアリ・シェリーは浮気相手だったのです。しかも前の奥さん、ハリエットが妊娠中に浮気したという。

作家の悪夢

 メアリ・シェリーと言えばそうです、あのフランケンシュタインの作者です。実はこの小説はメアリ・シェリーの処女作。
 それなのに、パーシー・シェリーよりも有名になってしまいました。初めて書いたのにプロの作家よりも売れてしまったのです。アイザック・アシモフは「作家の悪夢」*8と評していますが、少なくとも詩人や小説家たちの間ではよく知られています。
 例えばロバート・ブラウニングは「ああ、シェリーにじかにお会いになったのですか、/彼は立ち止まってあなたに話しかけたのですか?」*9という詩を詠んでいますし、また夏目漱石も『行人』でシェリーの「ひばりに」を翻訳しています。


*1 川崎寿彦『イギリス文学史』(成美堂)
*2 例えばダンテ『神曲』にはアリストテレスなどの名前が出てくるが、結局はキリスト教の世界を描いているにすぎない。
*3 アルヴィ宮本なほ子「解説」(パーシー・ビッシュ・シェリー『シェリー詩集』岩波書店)
*4 プラトン「国家」(『世界の大思想〈1〉 国家/ソクラテスの弁明/クリトン』(河出書房)、および、wikipedia「洞窟の比喩
*5 ウィリアム・シェイクスピア『シェイクスピア詩集』岩波書店
*6 アルヴィ宮本なほ子「解説」(パーシー・ビッシュ・シェリー『シェリー詩集』岩波書店)
*7 同上
*8 wikipedia「作家の悪夢
*9 ロバート・ブラウニング「思い出」(『ブラウニング詩集』岩波文庫より)



ジョルジョ・アガンベン『開かれ』(平凡社)

開かれ―人間と動物 (平凡社ライブラリー)

人間とは何か

 人間とは何か。これも哲学でずっと論じられてきたのですが、その一つに「動物ではない」という定義の仕方があります。ハイデガーも「人間は世界に向かって開かれているが、動物は世界が閉じている」と言っています。『開かれ』というタイトルは、ハイデガーのこの発言に由来しているのですが、イタリアの政治哲学者、ジョルジョ・アガンベンの疑問はそもそも動物とは何なのかという疑問です。
 素朴に考えれば幼稚園児にも解りそうな疑問なんですが、例えば奴隷は昔、人間扱いされていませんでした。彼らは人間ではなく、「動物」として扱われていたのです。これは昔に限った話ではありません。例えばイラク戦争ではアブグレイブ刑務所において捕虜が虐待されてきました*1。虐待した米兵はまさに囚人を動物としてしか見ていなかったのです。
 別の『アウシュヴィッツの残りのもの』*2という著作で、アガンベンはアウシュヴィッツを題材に論考を進めています。ご存知、アウシュヴィッツの中ではユダヤ人の大量虐殺が行なわれました。つまりナチスにとって、ユダヤ人は動物以下の存在だったのです。
 ここまで書けば解るでしょうが、人間か動物かの概念の境界はそれほどしっかりとしたものではありません。アガンベンの言うように「動物と人間の分節化の帰結であり、そこでもまたこの操作の二項のうち一方が駆けられている」のです。

何が生き物?

 もちろん、この議論は何が生きもので、何が生きものではないのか、という問題にも密接に絡んできます。アガンベンも『開かれ』では「生」とはどういう状態なのかアリストテレスを参照しています。
 アリストテレスは『魂について』で生き物の定義を成長したり逆に枯れたりする「栄養の能力」と定義してるのですが、アガンベンは生を定義付けていないと結論づけています。
 その基本原理とは、「何であるか」についてのあらゆる問いを「あるものが別のものに属するのは何に拠っているのか」という問いとして再定式化することになる。ある存在が生きているのはなぜかと問うことは生きるということがいかなる根拠に拠ってこの存在に属しているのかを探求することを意味する
 つまり「栄養の能力」という観点から生を分類したにすぎないのだ、とアガンベンは言っているのです。
 今も分類、という考えは残っていますが、十八世紀の外科医、ビシャはこう考えました。人間の身体にはと二つの動物が同居していると。つまり内蔵、血管などの反復を繰り返すだけの「生物」と意識を持つ「生物」です。この二つを分離するために麻酔を開発し、近代医学の基礎を作ったのですが、ちょうど近代国家は折しも生政治に舵を切り始めます。

生政治とは

 生政治とは近代的な統治システムで、ミシェル・フーコーが提唱しました。近代以前ではルールに従わなければ追放殺害、という方法で共同体から追い出してきました。しかし、近代では刑務所で更生させますよね。
 刑務所では看守が全ての受刑者を監視できるように設計されています*3。この設計は学校、病院にも用いられているのですが、国家が積極的に生に関与していくのです*4。
 アガンベンはこの生政治、生権力と言った概念を使って、議論を展開していきます。アガンベンが挙げているのは「今日もなお、臨床上の死の法的な定義をめぐる議論」つまり、脳死の問題です*5。そして近代政治と近代医学は通常の認識だと、全く異なりますが、この二つをあえて併置させています。『開かれ』ではアリストテレスのカール・フォン・リンネの話題も登場します。リンネは植物学者なのですが、植物を体系的に分類しました。
 しかし、この分類という発想に挑むため*6、あえて異なる二つのテーマを並べているように僕は感じました。

カール・シュミットの例外状態

 さて、アガンベンはフーコーの影響も見られますが、政治学者のカール・シュミットの影響を受けています。カール・シュミットは『政治神学』の中で、「主権者とは、例外状態に関して決断を下す者である」*7と書いています。
 つまり、シュミットの解釈に従えば、国家はテロリズムなどの非常事態に際し、国民の権利を制限しなければなりません。例えば原子力災害対策特別措置法が発動されれば住民は避難しなければなりません。憲法で居住移転の自由が保障されているにも関わらず。つまり原子力事故という非常事態だから、国家の安全を最優先に考えるんです。
 このような非常事態でなくても例外状態は起こりうるのではないかとアガンベンは考えたのです。例えば容疑者が逮捕されても、服役中には制約があります。受刑者の人権は法律上で保護されていても、制限されているという事実には変わらないのです。
 また逮捕されると取調中を受けますが、身体は取調室に拘束されます。これも平時なのに例外状態が発生してると言えましょう。つまり、シュミットは時間が例外だと考えていたのに対し、アガンベンは人が例外だと考えていたのです

例外条件とイジメ

 以上を踏まえ、剥き出しの生を僕の言葉で再解釈するとこうなります。ある共同体から人としての承認を受けていない状態なのだと。通常、「ある共同体」とは国家なのですが、国家という枠で捉えなくともいいと僕は思いました。
 例えばイジメ。学級という共同体を考えたときに、被害者が人間として扱われていない状態です。ただしイジメの場合、承認を与えるのは国家ではなく、リーダー格の人物だという点で大きく違ってくるのですが。

*1 wikipedia「アブグレイブ刑務所における捕虜虐待
*2 ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残り物』(月曜社)
*3 ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(新潮社)。
*4 それどころか、誰かに見られているかもしれないという架空の目を作り出すことで、効率的に支配できるようになった。
*5 小松美彦『』(青土社)、通読せずアガンベンとフーコーの記述のみ参照。
*6 他にもフェリックス・ガタリとジル・ドゥルーズが「分類」というアリストテレス以来の発想に挑んでいる(フェリックス・ガタリ、ジル・ドゥルーズ『
千のプラトー』河出書房新社)
*7 wikipedia「例外状態」、およびwikipedia「ジョルジョ・アガンベン



エミリー・ディキンソン『対訳 ディキンソン詩集』(岩波書店)

対訳 ディキンソン詩集―アメリカ詩人選〈3〉 (岩波文庫)

詩とは何か

 詩とは何か。それこそ詩人の数だけ答えがありますが、既存の見方から脱することだと僕は思います。つまり世間一般は別として、自分の捉え方を表現するのです。そしてその表現技法として比喩が挙げられます*1。
 具体例を挙げると、蜘蛛や蛇は<普通>、忌み嫌われますよね。でもエミリー・ディキンソンは、「蜘蛛は銀の玉をかかえる」という詩でそんな嫌われ者の蜘蛛にこそ価値を見出しているのです。
 というのも、この詩は「蜘蛛は銀の玉をかかえる」という冒頭から始まります。
蜘蛛は銀の玉をかかえる。
目に見えぬ手に──
そして一人軽やかに踊りながら
真珠の糸を──くり出す──

彼は無から無へと往復する──
稼ぎにならぬ商売に従事して──
わたしたちの壁掛けを自分のものへと取りかえる──
あっという間に──
 もしディキンソンが蜘蛛に好意的な感情を抱いていなかったら、銀の玉という表現は出てこなかったのではないでしょうか。しかも原文を見てみるとa Silver ballと先頭が大文字になっています。つまりおそらく固有名詞、もしくは特別な意味を持たせたかったと推測できます。
 この銀の玉に対して、亀井俊介さんは「ただ詩人が想像するだけだ」と解説していますが、銀の玉とは蜘蛛の巣に引っかかった露だと僕は解釈しました。

詩人とは何か

 そしてこの詩はディキンソンの詩人論になっていると、亀井俊介さんは訳注で指摘しています*2。「彼女は人の嫌う蜘蛛などもよく取り上げ、しばしばこれを芸術家にたとえた」と。
 アフリカ神話にはアナンシ*3という神がいるのですが、知恵の神は蜘蛛の姿として描かれています。しかし今では蜘蛛も蛇も見かけると、顔を顰めますよね。
 ディキンソンがアフリカ神話のことを知っていたかは解りません。また壁掛け(tapestry)という言葉を見ると、ギリシャ神話のアラクネを念頭に置いているようにも思います。
 優れた織工であるアラクネは、タペストリーでゼウスの不倫を告発します。それに激怒したのはゼウスではなくアテナでした。アテナは織工の神でもあり、アラクネの腕前に嫉妬していたのです。アテナはアラクネを醜い蜘蛛に変え、おまけにトリカブトで毒殺するという話です*4。
 いや、アテナ、それ逆恨みだろ、と密かに思いましたが、このディキンソンの詩に照らし合わせて読むと、芸術家は身を呈しても真実を伝えなくてはいけないという使命感が感じられます。この詩だけでは感じられないのですが、この詩人論は他の詩にも読み込まれています。
 例を挙げると「ありきたりの草花から/すばらしい香水を抽出する人」*に詩人を喩えていますし、「詩人はランプに火をともすだけ──」という詩では真実をランプに喩えています。中でも、「真実をそっくり語りなさい、しかし斜めに語りなさい──」という詩に最も率直に現れていると思います。
真実をそっくり語りなさい、しかし斜めに語りなさい──
成功はまわり道にあります
わたしたちのひ弱な喜びには明るすぎます。
真実の持つ思考な驚きは(後略)
 この二つの詩も含め、ディキンソンの詩にはストイックさが見てとれます。彼女は生涯、無名だったのですが、ただひたすら自分の信じる表現、テーマと向き合っているようにも見て取れます。
 そしてそれゆえに、「詩人はランプに火をともすだけ──」という詩には孤独さを感じます。

死と向き合う

 さて、いずれは自分が死ぬことを向き合っていることからも孤独さを感じました。普段、僕らは自分の死を意識することがありません。それどころか縁起でもない、と忌避しているのです。
 しかしディキンソンは詩の中で自分の死を扱っています。「わたしは葬式を感じた、頭のなかに」も率直に現れているのですが、「わたしは「死」のために止まれなかったので」という詩が率直に死生観を現しています。

幼少期の回想

 僕の祖母は生前、認知症に罹っていたのですが、たびたび女学校時代に意識が戻っていたようです。
 死の直前になると意識が昔に戻ってしまうようですが、このディキンソンの詩も少女時代の思い出が挟まれています。
 第一連で死が「やさしく」迎えにくるのですが、第二連では下記に示す通り、幼少期を回想しています。
わたしたちは学校を過ぎた、子供たちが
休み時間で遊んでいた──輪になって──
目を見張っている穀物の畠を過ぎた──
沈んでいく太陽を過ぎた
 沈んでいく太陽というくだりから、これから夜になるのは言うまでもありませんが、暗い夜は死を暗示させます。
 「彼女はあやなす色の箒で掃く──」の夕方の暮れなずむ様子を童心に帰ってユーモラスに描写しています。しかし、最後の「それから私もいなくなる(come away)」からは単なる童心の詩だけではなく、〈私〉の死をも連想させます。
 なぜなら主体である〈私〉がawayになるというのは主体が消滅していくように感じたからです。ちょうど風景画の中から人物が消えていくかのように、〈私〉が消えていく。しかし〈私〉の視点を通してしてしか物事は語れません。だから私がいなくなる、というのは日常生活において違和感があるのです。
 もし日常の言葉なら「わたしは立ち去った(I left)」とするのが自然でしょうが、夕陽を死の比喩として用いているのだとすればこの「私がいなくなる」という表現も納得が行きませんか?



*1 例えばボルヘスは『詩という仕事について』という講演でも詩と比喩の結びつきについて言及している(ボルヘス『詩という仕事について』岩波書店)
*2 亀井俊介訳注。
*3 wikipedia「アナンシ
*4 wikipedia「アラクネ



エクセルでの日付について

 エクセルは仕事でももちろん、同人の出納帳作成に便利ですよね。
 例えば同人誌を作るのに、過去、どんなものにいくら使ったのかを記録しておくと、二回目の発刊時に便利です。
 さて、そんな便利なエクセルですが、こんな経験はありませんか?
・2016年12月25日が42,728などと表示されている。あるいは
・明治33年1月1日と表示されている。
 一番大事なことも含めて書かれているブログは意外と少なかったので、解説しておきますね。

シリアル値という概念について

 エクセルでは日付を連続した数字として扱っています。
1900年1月1日(日)  1
1900年1月2日(月)  2
1900年1月3日(火)  3
1900年1月4日(水)  4
1900年1月5日(木)  5
1900年1月6日(金)  6
1900年1月7日(土)  7  
1900年1月8日(日)……8
 つまり2016年12月25日が1900年1月1日から数えて、42,728日目に当たるという意味になります。
 これを直すには、「セルの書式設定」の「表示形式」を日付に切り替えれば良いんです
 参考サイト:Excel(エクセル)基本講座:Excel(エクセル)基本講座:日付の表示形式
 ここで疑問が湧いてくる。どうしてシリアル値なんて面倒なことするのか、と。

シリアル値を使う理由

 人間が勝手に面倒だと思っているだけの話です。パソコンにとっては下記のメリットがあります。
(1)シリアル値から曜日のデータも計算可能

 シリアル値を7で割った余りを計算すれば曜日も簡単に。
 1900年1月1日は日曜日ですので当然、月、火、水、木、金、土と続きます。つまり下記の通りになります。
1900年1月1日(日)  1
1900年1月2日(月)  2
1900年1月3日(火)  3
1900年1月4日(水)  4
1900年1月5日(木)  5
1900年1月6日(金)  6
1900年1月7日(土)  7  
1900年1月8日(日)……8
 8÷7=1 余り 1
 ですよね。つまりシリアル値を7で割った余りを計算した結果と曜日の関係を示すと下記になります。
1  日
2  月
3  火
4  水
5  木
6  金
0  土

 このようにシリアル値を使えば、曜日の計算もできるのです。
(2)シリアル値で時刻を表現できる

 たぶん同人では使うことはありませんが、実は時刻もシリアル値を小数で現すことで表現されています。
 例えば、
0.5  昼12時
0.25 朝6時
0.125 深夜3時
 24時まであるのですが、それを1として表しています。そこで下記の関係式が成り立ちます。

(エクセルのシリアル値)×24=(人間の時計)
例えば
  シリアル値 人間の時計
24 1     24時
24 0.5     12時
24 0.25    6時

まとめ

 こういったエクセルでの知識ももちろん大事なのですが、たぶん好奇心が一番、人間にとっては一番必要だと僕は信じています。そして自分の世界がいかに狭かったのか、僕は毎回思い知らされます。
 なんで2016年12月25日が42,728などと表示されるのか、エクセルがどう日付を表しているか、この小説は何を表現しているのか、社会はどう動いているのか、そしてあの人は何を考えているんだろうか、そしてこの先には究極の問いが待っています。
 自分とは一体何なのか、という根源的な問いが。



有川浩『ヒア・カムズ・ザ・サン』(新潮社)

ヒア・カムズ・ザ・サン

有川浩について

 有川浩に初挑戦してみました。図書館戦争はアニメ化もされ、読書メーターでも話題になっているので興味をそそられたのです。調べてみると、もともとは『塩の街』で電撃文庫からデビューしたようですね。つまりはライトノベルからの出発ということに。
 他にも『植物図鑑』『レインツリーの国』などが人気。『空飛ぶ広報室』は直木賞候補にも上がっています*1。

あらすじ

 『ヒア・カムズ・ザ・サン』には2つの中編小説が収録されています。なお、新潮文庫からも出ていますので、ご購入の際は文庫版のほうが良いかもしれませんね。

ヒア・カムズ・ザ・サン

 編集社に勤める古川真也は、ものに触れると持ち主の記憶を読み取れる。その能力のおかげで気遣いもできていると評価が高かったが、その一方で卑怯なマネをしているとも思っていた。
 人一倍まっすぐに生きる同僚の大場カオルの性格が羨ましかったが、ある卑屈な口癖だけは気に入らなかった。「どうせあたしは一生懸命やるしかないのよ、それしか能がないんだから」。
 そんな彼女の父親、白石晴男はアメリカで脚本家をしている。二十年ぶりに家族に会うため帰国することになったが、そのついでに真也たちの雑誌取材を受けることになった。カオルは複雑な思いだったが、輪をかけるかように編集長の安藤が真也へあることを告げる……。

ヒア・カムズ・ザ・サンParallel

 『ヒア・カムズ・ザ・サン』と人物設定は一緒です。カオルと真也は交際3年目を迎え、結婚を意識し始めていた。
 母親から死んだと聞かされていたカオルの父親が実は生きていたことを知る。挨拶も兼ねて会う予定だったが、カオルは担当雑誌のトラブルから急遽これなくなる。晴男には虚言癖があり、それがもとで家族から信頼されなくなっていた。
 カオルは頑なに和解を拒否し続けるが……。

感想

 確かに物語として面白く、飽きさせない工夫が垣間見られます。
 例えば、真也の職業は冒頭に出ていますし、封筒に触れることで特殊能力を上手に仄めかしています。その上、真也と池内、それから大場との人間関係を描いています。
 打ち合わせを一件終えて古川真也が編集部に戻ると、机の上に郵便物が一つ届いていた。A4サイズの封筒だ。
 これで古川真也が出版社に勤めていること、現在、オフィスに入ったことなどが解ります。そして一件打ち合わせを任されていることから、少なくとも新人ではないということも解ります。
 僕がいつも迷うのが冒頭部です。どういう人間で、どういう性格で、どんな人間関係かを自然な形で盛り込まなけいけません。加えて『ヒア・カムズ・ザ・サン』は超能力が出てきます。そのことも織り交ぜながら描くとなると第一章ではかなりの情報量を提示する必要があります。
 ただ二つ欲を言えば、下記の点が不満でした。
1.具体的な容姿が描かれてない。真也はなんとなく神経質で細身、池内は短髪というイメージで窺えましたが、僕が勝手に想像しているだけ。もちろん、全てを描くことなど不可能ですが、容姿が解らないと不親切な気がするんです。
2.麻井辰夫が以降の物語で出てこないこと。フルネームで書いて、しかも猫にまつわる逸話まで書いているので、物語の上で何らかの役割を果たす人物だと僕は考えて読んだんですけどねぇ。ちょっと肩透かしを食らってしまいました。

登場人物について

 僕の作品はいつも登場人物が似たり寄ったりになってしまうのが悩みです。
・冒頭部で登場人物の関係・性格を描いている
・口調で書き分けている。
 とりわけ重要な鍵となるのが、口調。僕が翻訳ものが好きなのも、登場人物が似たり寄ったりになる一つの原因かなぁと思いました。
 そんな思いもあって、有川浩を読んでみたんです。

記憶をめぐる表現

 さて、この小説では他者の記憶を描いています。中でも僕が注目したのは「ヒア・カムズ・ザ・サンParallel」で恋人に触れた場面。浮気の記憶を読み取ってしまうんです。そのときの表現。
 嬉しいありがとうずっとほしかったのでもごめんね高いのに。(中略)冷たくして距離取ってるんだけどなかなか察してくれなくて二ヶ月も前から自然消滅狙ってるんだけど鈍くて最悪だよね古川くんて。
 もちろん有川浩は意図的に句点を省いています。明らかにジョイス、プルーストが開拓した「意識の流れ」*2と呼ばれる表現技法。人間の意識は絶え間なく続くもので、句読点の省略でそれを表現しているのです。

過去へ

 通常、行数が進むにつれ物語の時間も進んでいきます。『ヒア・カムズ・ザ・サン』も確かに章の中では、行数を追うに従って、物語が進んでいくのですが、第一章は編集者時代、第二章は少年時代という物語構成となっています。
 また、同じ社会人でも「その〔父親との〕対面に真也が立ち会うことになった事情は、数週間前の編集会議にまで遡る」とあるように麻井から郵便を受け取ったときよりも前に時間が設定されています。物語の流れとしては編集会議は麻井が郵便を受け取った後でも構わないはずでしょう。
 たぶん、物語がカオルの過去をめぐる物語だからなのではと思うんですよね。

現実について

 さて、僕はウィリアム・フォークナーなどを参照しつつ、時間軸について解釈をしてきました。もう一つフォークナーの技法が参考になる場面があります。ウィリアム・フォークナーは『響きと怒り』*3では知的障害者を、短編「あの夕陽」*4では子供を視点に書いていますが、そのために「何が本当に起きていたのか」読者が補わなければいけません。
 「ヒア・カムズ・ザ・サンParallel」での「それでも──お父さんが嘘をつくわけがない。わたしに嘘をつくわけがない」という心理描写。もちろん「ひたむきに信じる気持ち」を表しているのですが、そればかりではなく、子供にとっての現実は必ずしも大人にとっての現実とは限らないということです。
 このことは「名前が出ていないけど、脚本に参加した」と最後まで言い張る晴男と同じことが言えるのでは? つまり晴男にとっての現実は脚本に参加していて、カオルと真也にとっての現実は「晴男が嘘をついている」ということなのではないでしょうか。
 「あなたは嘘をついていないんですよね」
 プチモンカードを一枚も持っていなかったら、カードを持っているという嘘はつけない。
 この人はそういう人なのだ。
 「……『百億の星よりも』は、本当に脚本会議には参加したんだ」
 また「バイトぐらいの収入しか得られない」と言っているように、脚本家というのもあながち嘘ではありません。つまり少しは脚本を書いて収入を得ているのです。
 プチモンカードの例えを晴男の脚本に照らし合わせると、「脚本を一本も書いていなかったら、大ヒット作を書いているという嘘はつけない」という意味なのは言うまでもありません。それなら「『百億の星よりも』は、本当に脚本会議には参加した」という可能性もあります。
 確かに嘘をついたことは認めていますし、紛れもない事実です。しかし。どの部分に関して嘘を言っていたかまでは語られていません。

Here comes the Sum

 タイトルは「日がまた昇ってきた」という意味ですが、ビートルズにHere comes the Sumという曲があります。
 その一節には「it's been a long cold lonely winter(有沢訳:長くて孤独な冬が続いている)」「I feel that ice is slowly melting.(中略)it seems like years since it's been clear(有沢訳:雪解けの感じがする。溶け切ってから何年も経ったような感覚だ)」というフレーズがあるんです。
 もちろんビートルズは雪解けの歌を歌っているのですが、この有川浩の『ヒア・カムズ・ザ・サン』と照らし合わせると、カオルが晴男に抱く複雑な感情と重ね合わせることができるのです。

 

*1 wikipedia「有川浩」より
*2 Wikipedia「意識の流れ」、ウィリアム・フォークナーは『響きと怒り』の第二部において、句読点を使わずに回想シーンを書いている(ウィリアム・フォークナー『響きと怒り(上)』岩波書店)。
*3 ウィリアム・フォークナー『響きと怒り(上)』(岩波書店)
*4 ウィリアム・フォークナー「あの夕陽」(ウィリアム・フォークナー『フォークナー短編集』新潮社)



フリードリヒ・ヘルダーリン『ヒュペーリオン』(筑摩書房)

ヒュペーリオン ギリシアの隠者 (ちくま文庫)

フリードリヒ・ヘルダーリンについて

 ドイツの作家で、詩人。ヒュペーリオンにも現れていますが、汎神論的な思想の持ち主でした。汎神論とは哲学者、スピノザに代表されるように、自然こそが神だと考える立場です。ヘルダーリンはスピノザを熱心に読んでいたので*1、その影響もあるかもしれませんね。
 生前はあまり評価されず、統合失調症を患ってしまいます。シュレーゲルなどロマン主義の作家は評価されていたのですが、それきり。ゲーテからは酷評されますが、19世紀に入ると、ゲオルゲなどから支持を受け注目されることになります。
 そしてその後、ハイデガーやニーチェに評価され、ドイツ文学に大きな役割を担います。とりわけハイデガーは『ヘルダーリンの試作の解明』という論文を書いていますし、ニーチェは『ヒュペーリオン』を青年時代に愛読していたことが知られています。
 また日本では『ヒュペーリオン』に影響され、三島由紀夫が『潮騒』を描いています。

ヒュペーリオンについて

 原題はHyperion oder Der Eremit in Griechenland。ところどころ大文字なのはドイツ語は名詞を大文字にするという決まりがあるからです。その他の単語についても辞書で調べてみました。
・oderは「または」(英語のor)
・Eremitは「世捨て人」
・Griechenlandは「ギリシャ」という意味なのですが、たぶん、2格(属格)のenがついて「ギリシャの土地」という意味になるのではないかと思います*2。
 つまりギリシャの隠者という意味になるのです。他にも岩波では「世捨人」という翻訳がなされています。

あらすじ

 時は18世紀。ギリシャはトルコに占領されていました。ヒュペーリオンはトルコからギリシャを解放するために立ち上がります。そんな彼にも恋人が。名前をディオティマと言います。彼女は古代ギリシャの美しさを現していました。
 いったんはギリシャ独立のためにディオティマが制止するのも聞かず、戦線に参加します。しかし、民衆が暴走して失望。ヒュペーリオンは彼女の元へ戻ろうとしますが、ディオティマは絶望して、この世を去っていたのです。
 虻蜂取らずに終わり、山に引きこもるのでした。

感想

 さてこの『ヒュペーリオン』を現代の視点から物語として見た場合、2つの不満があります。

ストーリーが解りにくい

 書簡体小説なのですが、いつの手紙なのか書いていないので時系列が解りにくいんです。手紙の内容から推察するしかありません。
 また主題も大自然から、ギリシャの独立へ話が移るため、唐突な印象を僕は持ちました。何より唐突だったのは、アラルバンの過去。伏線ってありましたっけ?

ベラルミンが物語で重要な役割を果たしていない

 ほとんどの手紙はベラルミンに充てられているのですが、このベラルミンは登場しません。……ベラルミンって結局、誰? と最後まで消化不良になってしまうのです。
 もちろん、これは現代の尺度を18世紀ドイツに当てはめているに過ぎませんし、解釈次第ではヒュペーリオンの精神的な成長を描いているようにも見えます。しかし僕はストーリーよりも思想を語っているように思うのです。

ヘルダーリンの思想

 ヘルダーリンは自然こそが神だという考えです。そしてその汎神論は下記の文章によく現れています。
 いっさいとひとつであること。これこそは神の生、これこそは人間の生だ。
 生けとし生けるものとひとつであること、至福の忘我のうちに自然のいっさいのなかへ帰ってゆくこと、これこそは思想の喜びの頂点、聖なる山頂、永遠の安らぎの場なのだ。
 そしてこの後にも「生けとし生けるものとひとつであること」という文言が繰り返されています。「生けとし生けるもの」とは「この世に生きている全てのもの」という意味ですし、「自然のいっさいの中へ帰ってゆくこと」という文言からも自然との一体化が理想であると窺えましょう。

古代ギリシャ

 この物語において、ギリシャはオスマン・トルコに支配されていますが、実際にオスマン・トルコの支配下でした。
1715年にはコリントス、ナフプリオ、ナヴァリノ 、コロン、モトンなどペロポネソス半島に残っていたヴェネツィア領も占領され、ここにイオニア諸島を除くギリシャ全土がオスマン帝国領となった*3
 詩人、バイロンはギリシャ独立戦争に参加し、命を落とすのですが*4、ヘルダーリンも古代ギリシャの復権を夢見ていたのでしょうか。確かに古代ギリシャを題材にして、『エムペードクレス』を書いていますし、古代ギリシャを題材にして詩も書いています。
 しかし僕はそうは思いません。むしろ栄枯盛衰という歴史の流れとして諦めの念を抱いていたように感じます。その理由としては下記の3点が挙げられます。
1.「古代の石の廃墟でたけだけしく弔歌をうたうジャッカルの叫びが、ぼくの夢想を破るではないか」という一文で使われている廃墟や弔歌という表現
2.民衆が暴徒と化して、ヒュペーリオンは革命を断念するという筋書き。もし、本当にギリシャの復権を信じていたのなら、革命の成功で小説を終わらせるはずである。
3.ディオティマの死。彼女は古代ギリシャを象徴しており、ディオティマの死を通して、古代ギリシャの滅亡を暗示している。
 以上の理由からヘルダーリンが古代ギリシャの栄華を取り戻そうとは考えていないことが明らかとなります。

憧れの地

 ギリシャは当時のヨーロッパにとって異質な存在でした。トルコに占領されていたからばかりではありません。文化的に見ても、ギリシャ・ローマ文化は直接的に引き継がれておらず、一回、アラビア世界を経由してヨーロッパに伝わりました*5。
 ヨーロッパ人はトルコより西の世界に対してある種の憧れを抱いていたのですが*6、この憧れがギリシャに対してもあったと推測されます。実際、ヨーロッパ人はルネサンス期にこぞって、ギリシャや古代ローマの文献を探していました。

ドイツに対する苛立ち

 もう一つ、ヒュペーリオンは後半部においてドイツに対する苛立ちを語っています。 おそらく、「あまりにも思想内容を気にすることがいることを、また、あまりにも安易に受け取る人がいることを、わたしは恐れる」という一文も、無闇な攻撃を避けるための文言だったのでしょう。
 きついことばだが、あえて言おう。真実なのだから。ドイツ人ほど支離滅裂な人間はいない。職人はいる。だが人間がいない。思想家はいる。だが人間がいない。聖職者はいる。だが人間はいない。
 ここで繰り返されている「人間」とは一体何なのでしょうか。もちろん文字通りの人間ではなく、近代的な市民だと思います。当時のドイツは、小国同士が同盟を結んでいました。政治体制も君主制で、まだまだ、前近代的。
 支離滅裂、「五体が切り刻まれて散らば」っているようだという表現はこの事実を現しているのではないでしょうか。一。隣ではフランス革命が勃発。ナポレオンの影響があったかどうかは解りませんが、ヘルダーリンはフランス革命に興味を持っていたそうです*7。おそらく隣国が自由を手に入れているのに、このままでは「ドイツ」はどうなってしまうのか、という危機感があったのでしょう。

 


*1 wikipedia「ヘルダーリン
*2 大阪大学言語文化研究科「ドイツ語講座(初級文法編)第4回
*3 wikipedia「トルコクラティア」より引用。なお、「ギリシャ独立戦争」も合わせて参照。
*4 阿部知二「解説」(『バイロン詩集』新潮社)、およびwikipedia「ジョージ・ゴードン・バイロン
*5 B・C・ヴィッカリー『歴史のなかの科学コミュニケーション』、矢島祐利『アラビア科学の話』(岩波書店)など。
*6 wikipedia「オリエンタリズム」。
*7 青木誠之「解説」ヘルダーリン『ヒュペーリオン』筑摩書房



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