要約
サブカルチャー論(ゲーム、2ちゃんねる、ラノベなどのオタク文化)批評を代表する二人の対談。二人の考えの違いがよく現れています。批評の公共性、知識人の責任などを論点に議論を交わす。すべてがサブカルチュアになる
東浩紀は一世代前の批評家、大塚英志に「一種のエミュレート」として語る。デリダ論でもそうだったんだけど、背景となる知識や大前提がなくても、ある題材が与えられれば、その内部で整合的に話がつながるように読み方を捏造するというか、そういう感覚がある。確かに彼の『動物化するポストモダン』を読むと、ボードリヤールなどの概念を「エミュレート」してきているような感覚である。つまりその本の中で完結してしまっているのです。
しかしこれは果たして東浩紀だけの問題なんでしょうか。笠井潔も小森健太朗も、あるいは西田幾多郎もエミュレートしている感じがするんですよね。それこそコピーこそがオリジナルになっているという逆説を大塚が『「オタク」の精神史』で指摘しています。
抽象論ばかりでもいけませんので、例えば仏教やキリスト教などを考えてみます。あるいは明治維新があんなに早くできたのは、東の指摘するエミュレートの才能が日本人にあったからだと思うんですよね。
ただゼロアカ道場とか見てると、みんな自分の説をヘーゲルだとかで権威づけ──東の言葉を借りればエミュレーションしてるしてるだけの印象があります。これはすごい危険なことだと思うんですよ。言葉だけが浮遊してて自分でも何がなんだか解らない上にシロウトさんは東浩紀の、あるいはそこに登場する哲学者の権威、知名度でしか判断できない状態になってしまうと思うので。
「僕の一〇才下の世代はずたずたになってしまう」と述べていますが、変に補強したせいで、まるでソーカルが指摘したのと全く同じ状況が起きてるわけです。一回、特にサブカルチュアなんかは作り手がサブカルチュア以外のものを読まなきゃいけない。僕の実感としてはサブカルチュアとハイカルチュアの区別なんかは等価とかは思いながらも、心のどこかではクラシック音楽や純文学をハイカルチュア、マンガやゲームなどはサブカルチュアという意識が働いています。
その証拠として、それこそデリダではありませんが、言葉が分かれていること自体、もうサブカルチュア/ハイカルチュアのすみ分けがなされているような気がします。そりゃまあ僕だって基本的には赤川次郎もドストエフスキーも同じノリで語ってますけど。それは観点の違いによるものであってハイカルチュア/サブカルチュアの構造が未だに強く残ってるような気がします。
覇気がない東と苛立つ大塚
なんか覇気がないんですよね。東に。『動物化するポストモダン』やエヴァ論の古典となった『郵便的不安たち』なんかは「エミュレート」してやろうという覇気は感じられました。またデリダの「つまづきの石」を探る試みである『郵便論的、存在論的』は難解でしたが、おもしろく読めました。しかし自分でなんとか新分野を開拓しようという意志が感じられないというか、自分の新しいテーマが見つからない、という印象を受けました。いや、案外早く新分野が開拓できたから、もうその必要はなくなったという印象を受けます。
責任
社会的責任とデリダ的責任に分けてみようと思います。社会的責任は損害賠償なり謝罪なりの話。デリダ的責任というのは、道義的責任とはまた違うんです。一つの行動を起こしたのなら、それに関わった全ての人々の言葉。よく、僕なんかでもそうなんですけど、無自覚に人を傷つけてしまいます。冗談半分で言ったのに相手を傷つけてしまうことは学生時代はありましたし、今でもあるかもしれません。例えば悪意なく「貧乏臭いことしやがって」*1と言ったとします。それで数日後、それを根に持った彼が何か軽いイタズラを仕掛けたとします。この場合、社会的責任はありません。そして道義的責任もおそらくはお互い様ということになります。しかしデリダ的責任は間違いなく「貧乏臭いこと……」と言った方にあります。これが発端でイタズラが発生したのですからね。
なんでこんなことを言うかと言えば、責任についてお互いの認識が食い違っているような気がするのです。しかも東浩紀は責任をどう果たしていくのかと詰め寄られたら……まぁ仕方ないのかもしれませんが社会的な責任を連想してますよね。デリダ的な責任ではなく。あんた、デリダで博士号もらってるんだから、責任についてもっと自覚的にならなきゃいけないよ、と思うんですけどねぇ。
議論は平行線
さて、この二人の責任論や公民論は平行線をたどります。やっぱりこのあたりが大げさに言えばモダニスト大塚とポストモダニスト東の考え方の根本的な差異です。つまり大塚は、国を動かすのは国民であるというスタンスの元に話が展開していきます。リオタールの指摘した「大きな物語」を信じているのです。統一的な価値観と言っていいかもしれません。しかし、ポストモダニズム(フランス現代思想)はそれが崩壊して、「小さな物語」が林立しているのです。だから繰り返すように「技術論的な側面」を追及し、いかに再分配のシステムを構築していくかが鍵になるだろうと予見しているのです。じゃあ批評の意味ないよね? と挑発する大塚に「ええ、ありませんよ」と開き直るあずまん。そしてこう言います。批評はもう公的なものではなく私的なものになってしまったと。そしてそれは情報があふれる社会の中では仕方のないことである、と。
大塚によればそれを先導していくのが知識人や批評家ではないのか、と言います。ここがポストモダンの東と知識人の「神話」を信じている大塚の違いだと思うんですよね。
*1 たぶん男同士ならこの程度のことは日常会話でしょう。
書誌情報
著者:大塚英志
著者:東浩紀
タイトル:リアルのゆくえ
出版者:講談社
分類:社会科学
分類:サブカルチュア
国籍:日本
著者:大塚英志
著者:東浩紀
タイトル:リアルのゆくえ
出版者:講談社
分類:社会科学
分類:サブカルチュア
国籍:日本