ニーチェ入門 (ちくま新書)

クリスマスのシーズンに

 本来は十二月二十四日に読もうと思っていたのです。ニーチェはこの本にもあるようにキリスト教の本質を浮き彫りにしました。しかも竹田青嗣さんの入門書は解りやすい。もちろんよくも悪くも、ですけどね。
 この人のテクストは現代思想の潮流の一人としてニーチェを扱おうとしています。なので後半はドゥルーズなどの話もちらほらと出てきます。
 クリスマスシーズン*1ということで僕のこのレビューではニーチェのキリスト教読解を中心に取り上げようと思います。

ニーチェの生涯

 竹田青嗣氏が書いているエピソードの中で面白いものを紹介しています。ザロメとの恋愛で、
ニーチェとの片思いという感が強いが、ザロメがあいまいな態度をとったためにニーチェの望みを空しく引き延ばしたというのが実情のようだ。そこへニーチェの友人であるパウル・レーを加えて、三人の関係は相当やっかいなものになり、そこにザロメを嫌っているニーチェの妹エリザベートもからんで事態はもつれにもつれ(中略)る。
 とあります。さらにwikipedia「フリードリヒ・ニーチェ」の項目を見てみると、
レーも同じころザロメに結婚を申し入れて同様に振られている。その後も続いたニーチェとレーとザロメの三角関係は1882年から翌年にかけての冬をもって破綻するが、これにはザロメに嫉妬してニーチェ・レー・ザロメの三角関係を不道徳なものとみなしたエリーザベトが、ニーチェとザロメの仲を引き裂くために密かに企てた策略も一役買っている。
 つまり「お兄ちゃんがあんな悪女と付き合ってるのはゆるせない」とか「お兄ちゃんは私のものよ」とか怒ったエリザベートが、仲を引き裂くために画策するわけでです。
 だから三次元には手を出すなとあれほど(ry

道徳の系譜

 そもそもあらゆる知識は道徳に位置付けられる、とニーチェ*2は考えています。デカルトからカントの認識論の問題は認識の原理それ自体が問題なのではなく、この世の矛盾、理不尽さを上手く解釈しようとする弱さからきている、と考えています。
 哲学において「認識」とは、つまり「現実の打ち消し」というモチーフを隠している。それは、生が本来孕んでいる「無秩序と矛盾」を直視しないで、つねに世界を整理されたものと見ようとする一種の“弱さ”からきているのである、と。
 つまり理不尽なことの原因を他人に押しつけて、理不尽なものを理不尽なものとして受け入れない、という姿勢に哲学は起源を持つのだといいます。
 そして本当に強い人とはどんな状況にあっても理不尽な事柄を理不尽な事柄として受け入れる人間だとニーチェは言います。例えば、カフカの『変身』、ある朝、
不安な夢から目を覚ますと、グレーゴル・ザムザは、自分がベッドのなかで馬鹿でかい虫に変わっているのに気がついた。甲羅みたいに固い背中をして、あおむけに寝ている。頭をちょっともちあげてみると、アーチ状の段々になった、ドームのような茶色の腹が見える。その腹のてっぺんには毛布が、ずり落ちそうになりながら、なんとかひっかかっている。図体のわりにはみじめなほど細い、たくさんの脚が、目の前でむなしくわなわなと揺れている。(カフカ『変身』光文社)
 これこそニーチェの言うところの「強い人」のように思います。よく言われることなのですが、このザムザは別に嘆くことも驚くこともしないで淡々と自分の描写について綴っています*3。つまり恋人がいなくても、むしろそれを自虐ネタにしながらツイッターで「リア充爆発しろ」とか某巨大掲示板でvipスレを立ててる方の方がよほど強いのです。
 さて、本書に目を持けてみると、マルクス主義崩壊後、ニーチェのリバイバルが行なわれたといいます。それは、マルクス主義が認識と倫理を強く結びつけ、「誰もがその思想に同調し、それが示す目標実現のために行為しなくてはならな」かったんです。
 これは窮屈な世の中です。僕は何らかの形で社会活動をしていきたいのですが*4、「働かなくてもいいじゃない」という人を理解したい。無視じゃなくて理解、です。ともかくここにも書いてあるように資本主義なり労働しなくてはいけない、といった一つの価値感に支配されるとそれからはみ出た人が苦しむのです。現に十二月二十四日を目の前にして、中途半端なオタク*5たちは焦ってると思うんです。
 要するに「知」や「認識」が何らかの仕方で絶対化されるとs、それは「権力」を支える道具となりうる。ニーチェはキリスト教に対してそのような「正しさ=真理」の危険性を指摘した(後略)
とあります。これは例えばノーベルが平和利用のために作ったダイナマイトが戦争に利用されたり、アインシュタインの原子理論が核爆弾に利用されました。知識と権力は切り離すべきものです。むしろ権力が正しく運用されているのか監視する役割を負っている、とも思ってます*6。 

「よい」とは?

 ともあれ、『道徳の系譜』において大切なのは「よい」という言葉の持つ意味にあります。例えばお年寄りや身体の不自由な方に席を譲るのはいいことです。そしてこれは自己犠牲の精神に基づいている、と一般には考えられています。
 ところがニーチェはこの価値感に疑問を投げかけています。ドイツ語のグートの語源は「高貴」であるといいます。
 つまりまず「高い者」が、自分自身に属するさまざまな力の特性を「よい」と詠んだ。そして逆にこのような力を持たないこと、それが「わるい(シュレヒト)」と呼ばれた。これこそ「よい・わるい」という価値の本来的な起源である……。
 (中略)自分たちは「力」を持っている、快楽を生み出す力、創造し、工夫する力、困難を切り抜ける力(中略)等々を。この場合の「自分たちは力を持っている」という自己肯定的な感情にこそ、「よい」という言葉の本質がある。
 これこそが竹田青嗣の解釈するニーチェの礎石である、と言います。
 しかし万国困った人を助けるという価値感はどこの文化でも普遍的に見られます。ニーチェはこの思想がキリスト教においては歪だといいます。
 なぜなら、キリスト教の「隣人愛」の思想は、共同体が自然の形で持っている「自分の仲間たちを助けよ」というモラルのありようを超えて、たとえそれが異人であってもすべからく「他人たち」を助けよという新しいモラルを意味する。(中略)つまりそれは、キリスト教独自の極端な「禁欲主義」を作り出すことになるのだ。
 「異人であってもすべからく助けよ」(キリッ)だってお(AA略)。それがキリスト教徒にできてればもっと平和になってると思うんですけどねwww。
 『道徳の系譜』で述べられている、貴族的評価様式とは自己肯定の力であるのに対し、僧侶的評価様式とは「まず「敵(強い者)は悪い」という否定的評価を初めに置き(中略)「だからわれわれ(弱い者)は善い」という肯定の評価を作る」と述べています。そしてこれはニーチェにとって重要な概念「ルサンチマン」ということにつながってくるのです。
 この構図は至る所で見られる論理なのです。自分たちの上手くいかないことを他人のせいにしたり*9。

『悲劇の誕生』

 ニーチェの処女作ともいえる『悲劇の誕生』ではディオニュソス的なものが語られています。ディオニソス的なものとは「陶酔」「狂乱」などであり、ワーグナーの音楽*7にそれを見出し、絶賛しています。つまり、今まで重視されていた秩序、理性で形づくられたアポロン的なものよりも欲望、狂乱に価値を置いたのです。確かに『ワルキューレの騎行』は後半部、何かに取り憑かれたかのように似たメロディが繰り返されています。
 ここで、ニーチェはギリシャ悲劇に登場する悲劇の概念を再検討しています。ギリシャ悲劇の本質は「人間のさまざまな努力にもかかわらず、それを超えた大きな力がこの世には存在するのでは」なく、
むしろ人間はその欲望する本性によってさまざまな矛盾を生み出してしまう存在だが、それにもかかわらずこの矛盾を引き受けつつなお生きようと欲する。ここに人間存在の本質がある。そういう考え方のうちに「悲劇」の概念の核心がある。
 ここに当時転倒していたショーペンハウアーの考えが現われてくるのです。ショーペンハウアーは仏教に強い影響を受け、人生は苦しみに溢れているということを基本理念としました。
 ショーペンハウアーは生の苦悩から脱却させる一つの方法ですが*8、ニーチェにとって芸術とは「苦悩に満ちた生それ自体を励ますものと見なされている」のです。つまりうんたんうんたんとカスタネットを叩いている某アニメで癒され、「励まされた」らそれは立派な芸術なのです。
 ちなみに僕にとって芸術とは、現実の悩みを解決する道具なのであり、自分がいかに既存の価値感にとらわれているか、そしてその価値感とどう折り合っていくかを提示するものだと思ってます。例えばヘンリー・ミラーの『セールスマンの死』という戯曲があります。これはお金を稼ぐ人が有能という価値感さえ捨てれば息子と和解できますが、価値感を捨てられないために和解できない物語なんです。似たような問題に苦しむ人の助けになれば、という視点なんですよ、僕にとっての文学は。

認識と実在──まとめ

 現代思想へいたる道として、実在と認識の逆転があげられます。普通はあるモノがあってそれを認識していると考えています。だから「ない」ものを「ある」と言ったら精神分裂病とか幻肢*10とか疑われるのです。
 しかし精神分裂病の患者にしてみたら、幻聴は間違いなくある、のであり、思考は誰かに盗まれているのです。脳の異常とかそんなのかんけぇねぇ! 聞こえるものは聞こえるの!
 つまり認識の仕方があって初めてそれがある、といえるのです。もっというなら認識(ここでは前述したように価値感と結びついています)において絶対的な尺度はなく、あるのはただ解釈のみ、ということになります。
 要するに、〈二次元が嫁でもいいじゃないか〉。幼女に萌えたっていいじゃないか、いや僕は萌えないけど。
 

*1 今年のクリスマスは中止になりました。
*2 正確にはドゥルーズによるニーチェ解釈『ニーチェと哲学』参照のこと。
*3 他にもヘミングウェイの『日はまた昇る』やチャンドラーを基点とするハードボイルド小説、アゴタ・クリストフの『悪童日記』など悲惨な状況にもかかわらず、嘆かないでちゃんと生きる強さを持った生き方をする人をいいます。
*4 別に労働とは限らない。僕にとって働くとはお金を得ることよりも人生勉強の意味合いが強いので。
*5 完全なオタクは二次元の嫁がいるから問題はない。
*6 例えば昨今の石原都知事のマンガ規制は科学的根拠がないどころかむしろ過度な規制は性犯罪を増加させた。イギリスやスウェーデンの実例参照。
*7 『ワルキューレの騎行』を聴くとどうもアパッチが……。
*8 恐らく仏教で言うところの解脱をイメージしてるのでは?
*9 例えば石原慎太郎の「青少年の健全な育成に関する条例」などもその一例。一応原文へのリンク。
*10 幻肢についての文献はデカルトの『哲学原理』にも載っている。しかし、なんといっても現象学の観点からのメルロ=ポンティ『知覚の現象学』と脳医学の観点からのラマチャンドランの『脳の中の幽霊』で広く知られるようになった。

書誌情報
著者:竹田青嗣
タイトル:ニーチェ入門
出版者:筑摩書房
分類:人文科科
分類:哲学
件名:ニーチェ
国籍:日本