
要約
論理展開としてはそもそも知性とはなにか、観念とはなにか、観念は生まれた状態は全くの白紙であり、観念の取得は経験によってのみ可能となる、ということが語られます。そして次に、観念の記号である言語に注目し、なぜ誤解を生むのかという点について語られます。そしてそれらの認識をもとに真理へとたどる道筋を探っていきます本書は『人間悟性論』とも訳されていて、哲学史にイギリス経験論や認識論という新たな地平を切り開きました。
知性について
これを考える前に、そもそも知性ってなんだろうかということを考えています。「およそ人間を人間以外のものから感知できる存在者の上に置いて、あらゆる点でそれらの存在者よりもすぐれさせ、支配させるものは知性である」と述べているように当時の知識人の多くが考えるように、知性や理性があることを人間の条件としてあげています。それで、自分自身の知性について一回考えてみようと言ったんです。ロックは次の3つの方式を採用しています。1,自分に意識するものの起源の探求
2,知性のもつ確実さの探求
3.臆見、つまり独断や偏見はどこから来るのかの探求
経験論
ジョン・ロックはフランシス・ベーコンやヒューム、バークリーなどとともにイギリス経験論の祖とされています。実際、ロックはタブラ・ラサという概念を提示しています。タブラ・ラサ
第一巻第二章のタイトルからも明らかなように、「心に生得の原理はない」と断言します。従来の考えだと人間の心には生まれながらにして知性をえる力がある、という説が主流でした。しかしロックはこれに異を唱えました。
当時最高の推論モデルとされていた数学さえも、「全人類があまねく同意するような原理」ではない、といいます。
第一、子どもたちや白痴はこれらの〔有沢注:数学の公準という〕原理をいささかも認知しないし、考えない。そして、認知されなく考えられないということは、いっさいの生得真理についてぜひ必ず伴わなければいけない普遍的同意をまったくなくすものである。つまりもし、誰もが生まれながらに知性を得ているとしたら子どもたちは数学の公準を理解しているはず。でも実際はそうじゃないので、生まれながらに等しく備わっているものなのではなく、むしろ全ての知性は経験に由来するものなのではないかといいます。
ロックの主張する知性を取得する手順は
いろいろな感官が個々の観念を取り入れて、それまで空いていた室〔すなわち心〕へと備えつける。そして心は観念のあるものにだんだんとなじむので観念は記憶に宿り、これに名まえがつけられる。その後さらに進んで、心は観念を抽象し、一般名の使用をだんだん学ぶ。とあります。例えばリンゴをかじって甘酸っぱい味だという観念が備えつけられます。そして、これが記憶としてやどり、「甘酸っぱい」という言葉になります。
例えば7まで数えられる子どもは3+4という観念を知らないから同意しえません。また、「リンゴは火ではない」という当たり前の命題も「同じものがあってあらぬことはできない」ということに同意することは時間がかかるといいます。なぜならより「包括的で抽象的」だからだと言います。

そして道徳原理も生得的なものではないと指摘します*1。全ての人が一致する道徳なんてない、といいます。これはロックの生きた激動の時代とも関ってくるんですが、アナーキーな共和党と王政復権を求めるチャールズ二世との激突が激しかった時代でした。
また例えば「嘘はついていけない」という命題を守ろうとすると、強盗が金のありかを要求したときも嘘はつけないことになります。逆に国民全体の拒む道徳規則がいくつかあります。つまり、
心は言ってみれば(中略)白紙で、観念はすこしもないと想定しよう。どのようにして心は観念を備えるようになるか。(中略)これに対して、私は一語で経験からと答える。この経験に私たちのいっさいの知識は根底をもち、この経験からいっさいの知識は究極的に由来する。ロックの言いたかったことはこれに尽きると思います。
単純観念と複雑観念、一般観念
ロックの『人間知性論』には観念という言葉が頻繁に出てきます。ロック自身、「このことばは、およそ人間が考えるとき知性の対象であるものを表わすのにもっとも役だつと私の考える名辞なので、私は心象、思念、形象の意味するいっさいを、いいかえると、思考にさいして心がたずさわることのできるいっさいを、表現する」と書いています。
ではどのように観念を得るのでしょうか。「私たちは黄や白や(中略)すべて可感的性質と呼ばれるものについて私たちのもつ観念を得る」とあります。可感的性質とは五感を通じてもたらされるものであり、ロックは「観念の大部分はこの大きな源泉はまったく感官に依存し、感官によって知性にもたらされる」と指摘しています*2。
ここで大切になってくるのが、単純観念と複雑観念です。単純観念とは、「氷の冷たさと硬さ」、「ゆりの匂いと白さ」のように「別個な心的観念」です。
人間がそれらの単純観念についてもつ明晰判明な知覚ほど、その人にとってわかりきったものはあるはずがない。この単純観念は、それぞれ、それ自身には複合されず、したがって、この観念に含まれるのは、心で一つの現象態ないしは想念だけで、この観念をいろいろちがった諸観念に区別することはできないのである。この意味は、例えば氷に触ったときに「冷たい」という感覚と「固い」という感覚は別のものとして記憶されます。この単純観念は知性によって、「くり返し・比較し・合一する力をも」ちます。この働きによって組み合わさった観念が複合観念です。
そして抽象化されて、一般観念が作られます。例えば「冷たい」と言う観念は氷も冷たいし、雪も冷たいし、アイスクリームも冷たいし……という具合に、です。
しかし匂いとか、色とかは二次観念に過ぎないといいます。ロックは固性(solidity)と呼ぶ観念が第一観念です。これは奥行きだとか、角度だとかいう情報のことです*3。
言語論
しかし名前をもつ単純観念はわずかです*4。なぜなら「大部分は名まえを欠いてい」て、たとえば「ばらの匂いとすみれの匂いは、どちらもいい匂いだが、絶対確実に大変別個な観念で」す*5。第三巻では言語論が語られます。「神は人間を社交的な被造物であるように意図し」たと神と言葉の関係が語られて居ます。 さて、人はなぜ議論が噛み合わないのか、という問題についてこう語っています。
誰も自分自身のもつ観念よりどんな事物にも、ことばを標印として直接に当てはめることはできないのである。もし当てはめれば、ことばを自分自身の想念としながら、しかも、他の観念に当てはめているのであって、これは、ことばを自分の観念の記号としながらも同時に記号としないことであり、けっきょく、なんの意味表示をもたないことということだろう。ことばは有意的記号なのだから、自分の知らない事物に設定した有意的記号であるはずがない。たとえば、リンゴということばについて語ったとしましょう。
自分のイメージしている「りんご」と相手がイメージしている「りんご」とは必ずしも一致しているとは限らないわけです*6。例えば、子どもにとっての「金」という言葉と溶接工にとっての「金」という言葉はかなり意味が違いますよね。

では、なぜ人間は抽出して一般観念とするんでしょうか。しかも本質的なところを抽出化するのしょう? 金というもの銀というもの、鉄というものはみんな金属として扱われています。ロックは「人々の知識の進歩と伝達をいっそう容易かつ即座にするため」と語っています。つまり、梱包して相手に送った方が効率的だという考えなんです。
*1 このあたりはロックだけじゃなくカントにまで議論をひきずってしまうのですが。カントは定言命法という概念を提示して、倫理の経験的要素を批判した。(『」及び「実践理性批判」参照)
*2 デカルトはロックと一八〇度違ったアプローチの仕方です。デカルトは『方法序説』において、方法的懐疑を唱えています。方法的懐疑とはもっとも確実なものを得るために知覚を疑っています。
*3 バークリーの『視覚新論』においてもこの奥行きとか角度は重要視されている。
*4 この辺りはラカンと絡めてみてもおもしろいかも……? ラカンは、現実の世界(現実界)を反映した象徴的な世界(象徴界)が無意識の中にできていると考えました。
*5 ライプニッツがこれに対して『人間知性新論』を書いている。
*6 ウィトゲンシュタイン『哲学探究』参照のこと。
書誌情報
著者:ジョン・ロック
著者:ロック
タイトル:人間知性論
別タイトル:人間悟性論
分類:人文科学
分類:哲学
分類:イギリス経験論
国籍:イギリス
著者:ジョン・ロック
著者:ロック
タイトル:人間知性論
別タイトル:人間悟性論
分類:人文科学
分類:哲学
分類:イギリス経験論
国籍:イギリス