存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

帯には恋愛小説とあるものの

 いわゆるハーレークインロマンスみたいな恋愛小説ではありません。冒頭からしてニーチェとかパルメニデスとか出てきている時点でそれは解ると思いますけど。
 時代はプラハの春。チェコにまでソ連の影響を受けていた時代です。ミラン・クンデラはチェコ共産党の批判を行ないました。これに触発されて、プラハでは学生がデモを行ないます。党はこれを警察隊で鎮圧……。そういった混乱の中で書かれた恋愛小説なので、決して手をとりあって強く行きていきましょう、という脳ミソにお花畑が咲いてるような小説ではありません。

あらすじ

 テレザは外科医、トマーシュに恋に落ちる。しかし、トマーシュはドンファンで複数の女性と関係を持っていた。
 トマーシュはある日、新聞に投稿したソフォクレスの『エディプス』を巡って、警察から取り調べを受ける。掲載内容が共産党を批判するものだったことがその理由です。しかしあれは、編集者によってかなり縮められたと言った。
 警官に名前を尋ねられるが、編集者を密告するような気がしてわざと違う人物像を答える。しかしそれが原因で別の編集者に容疑が向いてしまう。
 とまぁこんな感じですが、現代文学のご多分に漏れず断片的に語られているので、訳がわかりません。というか現代文学はわけの分からなさが一種のステータスになっている気がして、そこが納得いかない点です*1。

タイトルの意味

 「存在の耐えられない軽さ」のタイトルの由来になっているのは、トマーシュの「一度は数のうちに入らない」という言葉です。「一度だけおこることは、一度もおこらなかったようなものだ。人がただ一つの人生を生きうるとすれば、それはまったく生きなかったようなものなのである」ということが述べられています。
 よく一度だけの人生、と言われます。その一回だけの人生は意味はあるのだろうか、というものが主題です。
比べるものがないのであるから、どちらの判断がいいのかを証明するいかなる可能性も存在しない。人間というものはあらゆることをいきなり、しかも準備なしに生きるのである。それはまるで俳優がなんらの稽古もなしにするようなものである。
あの時、ああすればよかったな、とか後悔することが誰でもあると思いますが、もう元には戻れません。人生で明確な因果関係をつかめないまま終わることはよくあります。むしろ偶然の連続である、とすらミラン・クンデラは考えているようです。例えば「七年前にたまたま脳の難しい病気が見つかって、そのため急いで診断するためプラハのトマーシュの病院の外科部長が呼ばれた。(中略)テレザはたまたま勤務時間中で、たまたまトマーシュが座ったテーブルの係であった」という風にトマーシュとテレザとが出会うのに「六つの偶然が必要で」した。安っぽいロマンスなら運命と片付けてしまうところなのですが、クンデラはあくまでも偶然だと主張しています。
 また人生は再現できないから、結局、本当はなにが正しかったか判断できない。このテーマは
 生徒は誰でも、物理の時間にある学問上の仮説が正しいかどうかを確かめるために実験をすることが可能である。しかし、人間はただ一つの人生を生きるのであるから、仮説を確かめるいかなる可能性も持た(中略)ないのである。
という部分にも出てきます。

反共産主義の作家として

 なぜ、ミラン・クンデラはこれほどまでに偶然、再現にこだわるのでしょうか? その理由はこれが恋愛小説の形をとりながらもチェコ現代史を語った小説だからです。なぜ、これほどまでに運命を否定するのでしょうか? それは多分、先述のように共産主義の影響があると思います。
 「マルクス主義」はやがて、資本主義の次の段階は共産主義になるのは必然だと予言しました*2。しかし、トマーシュとテレザが出会う場面で偶然性を強調していることからも解るように、世の中はすべて偶然である、と言っています*3。
 ミラン・クンデラは反共産主義の作家らしいので、「マルクス主義者」の史的唯物論の考え方に異を唱えたとも解釈できます。「らしい」というのは
小説「存在の耐えられない軽さ」や「冗談」などで知られ、ノーベル文学賞候補にも名前が挙がるパリ在住のチェコ人作家ミラン・クンデラ氏(79)が青年時代、共産政権下のチェコスロバキアで西側のスパイを警察に通報していたとの指摘が明るみに出て波紋が広がっている。(共同通信2008年10月2日)
という事実があるからです。もっとも、作者と作品は切り離して考えた方がいいのですが。
 人間や歴史の存在は耐えられなく軽いものである、という意味が込められた『存在の耐えられない軽さ』。このタイトルに示されるように、一貫したニヒリズムとペシミズムが覗えます。
 それは最終章「カレーニンの微笑」で、テレザの飼い犬カレーニンが安楽死させられる場面からも覗えます。
 犬と人間と比べて有利な点は多くないが、でも一つだけ注目に値することがある。安楽死が犬の場合、法律で禁止されていないことである。動物は慈悲に満ちた死の権利を持っている。
 このことからは人間には「慈悲に満ちた死の権利」すらないということです。
 つまり死ぬ、つまり自らの存在を消す権利すら人間は与えられていないのです。
ソフォクレス論
 トマーシュが新聞に寄稿したソフォクレス論で彼自身が強調しているところに、「目を潰す」ことの意味があります。『オイディプス』は殺害した男が実は実の父親だと知って、自らの目を潰します。このエピソードはミラン・クンデラ自身、無知とはいえ自分の行ないは自分でケジメをつけているという解釈で用いられています。
 そこからそれに比べて政治家含む有権者は、自分のケジメは自分でつけられないことをトマーシュは嘆いていることを示唆しています。
 しかし僕は目を潰すことの比喩として、見えないようにしてしまうのではないかと解釈しました。共産主義に関わらず、見られたくなかったら見えなくする方法が取られます。
 そして、見えなくなった結果、本人は「痛み」を伴うことが多々あります。その比喩として「目を潰す」というオイディプスのエピソードが引用されているのでは?

*1 その点で円城塔は文学的な企みは分かるんですが、形骸化する感じがします。またトゥーサンの『浴室』もしかり。
*2 マルクス自身は当時の資本主義の限界を予想しただけである。つまり生産力の増大は価格競争に陥って、何かの新たな経済体制を産み出さなきゃいけない、ということ。付加価値を付けることで他者との差別化を図っている点で既にマルクスの予想は当たっていたと思う。
*3  また科学界でも偶然性が取り上げられた時期でした。例えばジャック・モノーの『偶然と必然』(1970年、フランス)や、アインシュタインとボーアの論争、またジョン・ケージらによる偶然性の音楽もすでに取り上げられていました。

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書誌情報
著者:ミラン・クンデラ
タイトル:存在の耐えられない軽さ
国籍:チェコ