外套・鼻 (岩波文庫)

はじめに

 この「外套」はドストエフスキーが絶賛している文学の一つ。「われわれはゴーゴリの外套から飛び出した」と言っているくらいの褒めっぷりです。
 短編なので、電車の中で気軽に読めてしまいました。ゴーゴリの「外套」とか岩波文庫*1を持っていると、それだけで何かインテリを気取ってるようで、普段はもっと、推理小説とかを電車の中で読むようにしているのですが、あいにくこれしか持ってなかったので仕方ない(笑)

外套のあらすじ

 外套のあらすじ。給料は安いけど文字さえ書いてれば幸せというアカーキエウィッチの外套はもうすでにボロボロだった。もう継ぎが当てられないことを知って、新調を決意するが……というもの。
 最初は何も起きず、ただアカーキエウィッチが外套を新調して終わりなのかなーと思いました。が、まさか最後で幽霊になるなんて思ってもみない展開でした。
 さて冒頭でも語られていますが、アカーキイ・アカーキエウィッチという「いささか奇妙なわざとらしいものに思われるかもしれない」とあります。これはロシアの名前の付け方が原因です。ロシアのミドルネームは父親の名前にウィッチ(ビッチ)をつけます*2。つまり、名前・父親の名前の変化・姓(これも男か女かで変わる)という風になるのです。例えばドストエフスキーのフルネームはピョートル・ミハエロビッチ・ドストエフスキーですが父親の名前はミハエルだと分かります。
 で、なんでこれが問題になってくるかといえば、アカーキイ・アカーキエウィッチという名前が匿名性を持った名前、任意の名前だと解釈できるからなのです。アカーキイの子供のアカーキイという意味ですから、この名付け親が名前なんてどうでもいい、と思っていたのです。
 しかもこのアカーキイには以下の経緯で命名されたというエピソードがあります。
 暦の別の個所をめくった。するとまたもや三つの名前が出た。トリフィーリイに、ドゥーラに、ワラハーシイというのである。「まあ、これこそ天罰だわ!」と、あの婆さんは言ったものだ。(中略)「ああ、もうわかりました!」と婆さんは言った。「これが、この子の運命なんでしょうよ。そんなくらいなら、いっそのこと、この子の父親の名前を取ってつけたほうがましですわ。父親はアカーキイでしたから、息子もやはりアカーキイにしておきましょう。
 つまり、本当にアトランダムで名前は決められており、しかも父親と同じ名前になってしまうのです。これは少なくともアカーキイという名前は記号的だと読み解けます。だって何でもよかったのですから!
 また、「ある省のある局に……しかし何局とはっきり言わないほうがいいだろう」という出だしはこの舞台が交換可能であるということを意味しています。つまり匿名の舞台です。
 アカーキイは平凡な下級役人であり、職務上で言ったら交換可能な人物です。文字を書くことなら、アカーキイ以外でもできますよね。
 しかし、この小説で「外套」だけが交換不可能な存在として途中まで描かれています。
彼らはそれをまともに【外套】とは呼ばないで、【半纏】と呼んでいた。実際それは一種変てこなものであった。他の部分の補布に使われるので襟は年ごとにだんだん小さくなっていった。しかもその仕事が、裁縫師の技倆のほどを現わしたものでなかったため、じつにぶざまな見苦しいものになっていた。さて、事のしだいを確かめると、アカーキイ・アカーキエウィッチは、外套をペトローヴィッチのところへもってゆかねばならぬと考えた。それはどこかの四階の裏ばしごを上がったところに住んでいる仕立屋で、(中略)繕い仕事をかなり巧くやっていた。
 つまり外套を〈交換〉しなくても、補布を当てれば使える、ということなのです。これは外套の交換不可能性を意味します。しかもアカーキイは〈この外套〉にこだわりを持っています。他の外套ではダメなのです。
 しかし、仕立屋、ペドローヴィッチは「もう補布は無理だ」と言って外套の新調を勧めます。ここで今までの描写だと唯一で、交換不能、つまり価値のある〈アカーキイの外套〉が今度はただのガラクタに落ちてしまう瞬間です。
 アカーキイにとって交換不可能だと思われていた、特権的な外套*3が実は何の価値もないみすぼらしい外套だったのです。
 しかしそれも交換されてしまうのです。これは交換不可能な存在が交換可能な存在になってしまうのですから、この物語において一大事です。

鼻のあらすじ

 ある日、下級役人のコワーリョフが理髪店で髭を剃っていると、間違って鼻も削がれしまいます。そして鼻は独りでに歩き出し……。
 紹介文には幻想的、とありますが、むしろドタバタコメディみたいな印象を受けました。
 この物語は従属しているはずの鼻が勝手に動き出して本人を困らせる、という話です。この文章を書いているときにちらっと頭をよぎったのがユングの影の概念。
 あれは本来、「なるかもしれなかった自分」を思い描いて、今の自分と比べてしまう、というものです。その「なるかもしれなかった自分」がユングの言う「影」です。
 そしてこの影は普段は本人に従属していますが、精神病になると勝手に暴走して本人を困らせると考えたのです。もっと痩せてたらなぁ、という願望はもっと痩せている自分を想像してのことでしょう。そして、これが願望のレベルで留まってたらいいのですが、影(痩せているはずの自分)が暴走すると精神的に苦しくなったりしてしまう、とユング心理学では考えるのです*4。
 しかし、もっと自由になりたいというコワーリョフの心理描写などは見られません。役人だからもっと自由になりたいと思っているかもしれませんが。
 さて、そういった解釈を踏まえると「鼻がもげ、自由に歩き出す」という設定はどういう意味としてとらえることができるのでしょうか。僕は素朴に主客転倒の話しかな、と。
 「鼻」を主客転倒の話と捉えた場合に、「外套」の新しい読みが生まれてきます。つまり、「外套」−「アカーキイ」という関係は「外套」が「アカーキイ」に使われる立場です。しかし、事実は逆で、「アカーキイ」が「外套」に使われているように僕には思えるんですがねぇ。
 

*1 トゥーサンとかミラン・クンデラとかの知名度になると遠慮なく電車の中で読める。リョサも岩波じゃなければ読める。っていうか、ドグラ・マグラは絶対誤解される表紙だと思う(笑)
*2 これは男の場合である。女の場合はノワを付けるので、ビッチという女性名になることはない。
*3 それはこの小説のタイトルからも言える。
*4 河合隼雄『影の現象学』(講談社)及び、河合隼雄『コンプレックス』(岩波書店)参照のこと。