ラカンの精神分析 (講談社現代新書)

なぜラカンなのか

 女は存在しない、なんてさらっと言えたらカッコイイかな? と思って……というのはウソです。
 ガタリを読む時にラカンはかなり重要になってくる気がしたからです。ガタリはフーコーと問題意識を共有しているように見えて、フーコー大好き人間(というかポストモダン大好き人間)にとっては是非とも抑えておきたい人物なので。
 あと僕自身、精神分析をヒントに小説を読んだり書いたりすることがある。夢とか幼少期の体験とか登場させるのはそこに理由があるので、ラカンは読んでおきたい人物の一人です。
 っていうかラカンよりユングの方が胡散臭く見えてしまうのは僕だけ? 集合的無意識とかかなり怪しく見えてちゃうんだけどなぁ。

ラカンの生きた時代

 フロイトの発表した精神分析が、さまざまな派閥を作った時代だと言います。フロイト以後の精神分析で重要な位置付けを占めているのがメラニー・クライン*1の「自我の発達における象徴形成の重要性」(一九三○年)だと言います。
 クラインは子ども専門の精神分析を開拓したのですが、「糞便が子供、金銭、あるいは反抗的な性格へと、象徴的に転換されてゆく」と主張しています。
 メラニー・クラインは遊びを通して、子供の精神分析を行ないました。例えば、
 〔患者の〕ディックが汽車のおもちゃで遊びながら、「駅はママです」と言う。すると子供はそれに答えるかのようにドアにはさまれた空間に入りこんで、「暗い」と言う。そこでクラインは、「ママの中は暗い」と言う。子供が洗面器に興味を示すと、クラインは洗面器の凹みはやはりママの中だと言う。
 そして、「次から次へと多くの「内部」に関係を持ってゆき、解釈はそれらを貫く〔母親の胎内という〕共通の意味を確認してゆく」のです。僕は精神分析の素人なので解りませんが、恣意的な感じがします。
 フロイトとクライン、二人はこのように心の中の象徴活動の起源を探っています。
1.精神分析の共通の理解として心はイメージのつながりで成り立っていて、それは自由な連想によって分析することができる。
2.フロイトはそれらのイメージの根底にあるの性欲だと考えた。
 例えばバイブルとバイブを混同してヒワイな想像をしてしまったり、生きたいという言葉に性的な意味を想像してしまったりするのは、当たり前なんですね。
 フロイトは神経症の退行(赤ちゃん返り)の原因として読むこともできるのですが、クラインは象徴の流れを汲み取ります。つまり、洗面器=凹んでいる=母親の胎内という風な連想していったものを読み取るのです。
 ちなみにこの人はラカンの講演会(セミネール)で頻出することからも解るようにラカンにとって重要な人でもあります。
 このことを本にしたものが、一九三二年にクラインが出した『子供の精神分析』です。『ラカンの精神分析』ではこの一九三二年を境に精神分析が大きく変わった、と言います。いくつか、政治的な事情も絡んでくるのですが、
1.ナチスの台頭
 多くのドイツ系の〔精神〕分析家がアメリカに亡命する。ラカンの教育分析を引き受けていたレーヴェンシュタインもその一人である。
2.ラカンが症例エメの学位論文を発表した年
 ラカンはエメという患者を分析しています。エメはパラノイアの患者で、作家を目指していました。エメは女優Zと文学者P.B.と結託して、自分のことを小説に書いているとか、Zはエメの子供を殺そうとしているとかいう妄想を抱いて、Zに切りかかります。
 その時の診察に当たっていたのがラカンでした。エメの妄想の根源は初めての子が死んだことにさかのぼります。姉との妊娠が重なり、エメは自分の子供を盗んだのではないかと妄想を抱くようになります。そして女という共通点を持つ、女優に姉を重ねます。
 この他にも重要なポイントがあり、理想化された自己を表していることが読み取れます。姉も女優もエメの理想だったのです。
 エメがこの傷害事件を起こしたときを境に、急激にパラノイアは回復していきます。
 このことについて、エメの心の中では自分自身を罰したこと(だって女優=エメですからね)が原因だとラカンは推察し、「自罰パラノイア」と名付けています。
 そしてエメに紹介される症例が、後の鏡像段階の大元となるのです。

鏡像段階

 鏡像段階とは鏡を見ることで自分を認識することです。生まれたばかりの赤ん坊は、自分の手が自分の手であるということ、自分の足が自分の足だということを認識できていないそうです。
 つまり、赤ちゃんにとっては自分の足なのに他人の足のような気がするのです。それが、鏡を見ることで統一された自分のイメージとして視覚的に捉えられると言います。
 ラカンはこれを内面的なイメージとして考えています。
 自己の内面の不統一性という事態を、隠された参照項として必要としていることになる。ただしこの不統一性の参照項は、内面的なものでありまた本性上視覚的なものではないから、通常は隠されたままにとどまる。それが視覚的水準に映し出されるのは、視覚的統一像の否定の形、すなわち解体の幻像の形である。
 つまり、私の中にはいろいろな「私」がいるわけです。執筆したい「私」もいれば、サボりたい「私」もいる。そういう色んな「私」を取りまとめてくれるツールが内面的な鏡なのです。

自分ってなんだろう

 一方で他人がいて初めて「私」を認識できるということも事実です。他人との違いによって「私」は形作られていくんです。
 他者が鏡の役割を果たすようになり、鏡像自己は他者によって担われることとなる。(中略)この向け換えの結果、鏡像自己の統一性が有している価値はそのまま他者によって疎外されてしまう。すなわち、自己に帰属するはずの価値は他者によって掠め取られてしまうことになる。統一体としての「私」は他者の中へと吸収されてそこの中でしか存在できなくなる。
 これは「あなたって●●だよね」という言葉がそのまま、自分の性格形成に及ぼすことではありません。
 前述したように、自分を見つけるには他人と触れ合うしかないのですが、そうすると「自分らしさ」を決定する要因が自分ではなく相手に依存してしまうというおかしな事態が起きてしまうのです。僕も経験があるのですが、自分を決定づけている要因って何なんだろうって考えたことがありませんか? 
 この問題の「答え」の一つとして挙げることができるのが、自分以外の人間によってアイデンティティは決まるというものです。例えば、フランス現代思想好きの僕は当然、フランス現代思想嫌いな人との対比によって生まれます。デリダ好きの僕は、ドゥルーズ好きの人との対比によって生まれます。推理小説好きの僕は、恋愛小説が好きな人との対比によって生まれます。という風に、絶えず、誰かとの対比によって生まれるのです。白という色を際立たせるには黒だったり、赤だったりを配置するのと同じです*2
 でもこれっておかしくね? とも思います。自分のアイデンティティは他人によってしか決定できないのであれば、それは「本当の自分」ではないような*3。
 先ほどのエメの症例で言えば、Zを「鏡」に彼女は自分を見ていました。本来、賞賛されるべきは「私」であり、Zは自分の賞賛を掠めとっていると考えていたのです。パラノイアは「自分は○○である」などと思い込むことであり、それはそう思われたい、という認知の欲望です。
 つまり自分はZのように思われたいとエメは感じていたんですね。しかし、現実は自分はZではなく、当然ながらエメの賞賛は自分の賞賛ではありません。ここに嫉妬と羨望が入り交じった気持ちがあります。
 このことは多かれ少なかれ、自分を誰かに投影して同一化することは誰でもあることだと思います。例えば某47人のアイドルグループなど、総選挙の投票権を買うために必死です。これは、鏡像としてアイドルグループを見ていると解釈できます。

象徴界

 ラカンは無意識を言葉の結び付きだと考えていました。自由連想法から得られる言葉が網の目のように結びついていると考えたのです。
 その言葉、つまり記号や意味(シニフィアンとシニフィエ)の結び付きでできた世界を象徴界と読びました。そして象徴界の中でも特権的な役割を果たしているのが大文字の他者です。
 大文字の他者とは自分を客観的に見る他者のことです。例えば、自分とこの人は同僚だ、とかいう関係性を示す場です。この人は恋人、この人は女友達、この人は後輩、という情報とその場合に取る態度が書かれたリストです。例えば恋人にはキスをしていいけど女友達にはダメだとか。
 それで、精神分裂病はこの「大文字の他者」の機能が壊れてしまって起こる病気だと考えました。つまり、この人は「どこか恋人とは違う」というのを思い過ごしなどですませてしまうのですが、精神分裂病の人は「どこか恋人と違う」→「宇宙人だ」→「地球は宇宙人に侵略されている」という考えに至るのです。
 精神分裂病の人は意味を過剰に求める病気です。あるいは意味の体系が変わる病気だといってもいいかもしれません。例えば4階で止まったから誰か死ぬ、とかね。
 そしてその意味の体系を司っているのが大文字の他者です。普通の精神医学、つまり遺伝とか、ドーパミンの具合とかを人間のハードウェアの分析に例えるなら、精神分析はソフトウェア(自我)の分析だと思うんですよね。
 精神分析って言うと反証可能性の観点から科学ではない、価値のないものだという人が多いんですけどね。

っていうか……

 NHKで新型うつの特集を組んでて、「要するに前エディプス期が大人になってもまだ続いてる」とか、だから「大文字の他者を作らせる」とかいう解釈をしてる時点でもういろんな意味で末期のような気がしなくもない。



*1 ちなみに数学で「クラインの壺」という言葉があるが、そのクラインとは別人である。位相幾何学のクラインの方はフェリックス・クライン。どうせならメラニー・クラインのツボとか言ってくれれば、座布団一枚あげたのにw
*2 モンドリアンの絵はそうした色彩の差異によって生み出されている。
*3 「本当の自分」なんて書くと斎藤環から笑われそうだ。合わせて読みたい


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