革命か反抗か―カミュ=サルトル論争 (新潮文庫)

反抗的人間

 有名らしいので読んでみました。『現代(Les Temps modernes)』カミュの『反抗的人間』の書評をめぐり、フランシス・ジャンソンと対立します。
 フランソワ・ジャンソン曰く『反抗的人間』は失敗した偉大な書物である、と結論を出します。しかし、その矛先はなぜか当時編集長だったサルトルに向かいます。カミュはサルトルが書かせたと思い込んでいたのでしょう。
 それで、サルトルはアルベール・カミュには悪意があると指摘します。確かにサルトルの弁通り、カミュには悪意が垣間見られますが……カミュとサルトルはこれを気に絶縁します。
 いわゆるカミュ=サルトル論争というらしいですね。

『反抗的人間』を読んでいないので

 まず始めに断っておきますが、僕は『反抗的人間』を読んでいません。調べてみたらどうやらカミュ全集にしか収められていないみたいです。これは一部のオタクしか読まなくてもいい本なのでしょうか(笑)。
 調べうる範囲で調べてみたところ、反抗的人間は「L'homme revolte」というタイトルです*1。それで、hommeはホモ・サピエンス、ホモ・ファーベル、ホモ・ルーデンスなどから推察するに、「人間」という意です*2。さて、このrevolteが含むニュアンスですが、義和団の乱とかの翻訳にrevolteなどが当てられています*3。
 でもなぜかサルトルは手に入りやすいんですよね。最近でも『嘔吐』が光文社古典新訳文庫から出版されたし。彼の主張や行動は軸がぶれているのに。
 サルトルはメルロ=ポンティの弟子が書いた論文の序文を勝手に削除して掲載した事実*4から踏まえると、「カミュ、確かにお前の書き方には悪意を感じる。でもサルトルに言われたかねーよ」でした。

フランシス・ジャンソン

 『反抗的人間』は文学的に「完全にと言っていいくらいに成功している」とフランシス・ジャンソンは言います。
 まず全体的に考察してみよう。厳密に文学的な見地からすれば、本書は完全にと言っていいくらいに成功しているので、この点から見て異口同音の賞賛を得たことは驚くにあたらない。だが、この点、すでに誤解にみちていたのではないかどうか確かではない。アンドレ・ビイ氏は「感受性、繊細、節度、形式美などによる深く共鳴させる力と賞讃し、エミール・アンリオ氏はこの評論の「思想の高邁さも(中略)美しい」と考えている
が、このような讃辞は(中略)手放しに喜べるものかどうかは疑わしい。
 つまり、「讃辞を送ってるけど、誤解してるんじゃねーの? 確かに文学的には美しいとは思うけどさ」という内容です。
 ここでいう「文学的」とは思想的な話ではなく、恐らくは修辞学的、つまり比喩の巧みさなどではないかと思います。
 そして、彼の言い分は、『反抗的人間』において指摘している問題は「統一のないところに統一を求め(中略)偽の統一」しか問題にしていない。そして他にも形式にこだわるあまり、内容が疎かになることを「形式的狂気」とカミュは呼んでいるのですが、ジャンソンは、
「スタイル化が誇張され、露骨になると、作品は完全な憂愁になってしまう。作品が得ようとする対立は、具体的なものとは無縁なものになる」〔とカミュは『反抗的人間』の中で述べている〕。「反抗」を冷静に「測る」カミュは、ややこれに近いと思わざるを得ないのではないか。全巻を通じて、(中略)彼自身が非難している「形式的狂気」をまざまざと思い起こさせる。
と述べています。カミュは形式にこだわりすぎるな、と言ってるにもかかわらず、それを形式的にこだわった文章で書いている、というのがジャンソンの主張です。返ってきたブーメラン*5というヤツです。
 一旦まとめますと、ジャンソンの意見としては、「文章は美しいけど、思想は余り褒められたものではない」という論点の一つです。
 カミュの小説『ペスト』における問題も指摘しています。
 〔『ペスト』には〕「人間の条件」という題をつけることもできたのに違いない。なぜなら真の舞台は、この町ではなく全世界であり、真の人物は(中略)全人類であり、病気ではなくて、絶対的「悪」が、意識の全存在の上にのしかかっているのだ。
 そしてここにも「スタイル」の問題が取り上げられています。「カミュは記録作家として(中略)客観的で、冷淡な調子をもって断然不条理主義ふうな、スタイル化の方法を採用した」が「彼ら〔人間〕の生活の実態を知ろうと思えば、(中略)人間の中におりて外界で暮らさなければならない」。
 人間の生活を知るには人間に入らなければいけない、とジャンソンは言います。民俗学も原住民と一緒に生活を送る調査手法*6を僕は思い浮かべました。
 ジャンソンいわく『異邦人』のムルソーと、『ペスト』のリウー医師の違いはそこにあるのだと言います。『異邦人』のムルソーはあくまでも彼の問題に主眼を置いているのに対し、『ペスト』のリウーは人類全体の不条理を問題にしているのです。
 ここでジャンソンへの反論なのですが、
1.『シーシュポスの神話』*7においてカミュにおける不条理とは「川に飛び込んだのは、濡れたくなかったから」だという矛盾に満ちた人間(全体)の行動を指し示しています。したがって彼が矛盾だらけの行動をとったとしてももなんら驚かない。
2.作品と作家は「一旦」切り離して考えた方がいい。これは時代を考えると仕方がありませんが、現代の文芸批評*8では作品と作家は切り離す、という考え方が主流になっています*8。
 カミュの政治的立場も問題にしています。これは補足が必要なのですが、当時、フランスは共産主義につくか資本主義につくかで真っ二つに分かれていました*9。つまり我々の考える政治や歴史観よりも当時のフランスのそれらは深刻なものだったのです。
 僕なんかは政治・歴史観とは関係なく、面白いものは面白いというスタンスです。したがって、小林多喜二も三島由紀夫も大江健三郎*10の「小説」は好きですが、当時のフランスはあらゆるものが政治と関係づけられて論じられてきました。そして、サルトルは明らかにチェ・ゲバラと対談するなど、共産主義、社会主義だったのです。
 カミュの歴史観は「あるがままの歴史を除外する」「奇妙な歴史観」だとジャンソンはいいます。

カミュ側の反論

 カミュはここで、あろうことかジャンソンではなく、サルトルに食って掛かります。なんでこんな文章を載せたんだ。おかしいじゃないのか、と。
 まさに不条理をカミュ自身が身を持って著した形となったのですが、食って掛かられた方は溜まったものではありません。確かに編集者は著者に対して書き直したり、掲載を取りやめたりする権利があります。
 しかし、サルトルの返事は要約すると「そんなことはジャンソンに言ってくれ。俺の知ったこっちゃない」。それで、「俺の知ったこっちゃない」を延々と論証していくのです。
 その一方でメルロ=ポンティに対しては前書きの削除の理由をこのように説明しています。雑誌自体が右か左か決めないと、雑誌そのものの存続が危ぶまれる。明らかに右寄りの前書き(つまりマルクス主義の問題点を掲げるような前書き)だったので削除した、と*11。

遠慮無く言わせてもらえば

 サルトルの対応も一つのやり方でしょう。しかし、僕なら「あぁ、ジャンソン君に聞いておく。まぁ文学的な価値を認められたんだからいいじゃん」みたいな返事を書いてカミュをとりあえずなだめておきますね。
 サルトルはその辺りの能力が皆無のような……? メルロ=ポンティの一件にしたって、事前報告すれば回避できた問題だと僕は思います。
 僕含めクリエーターは我の強い人ばかりですから、その辺りを上手くマネジメントできる方が編集長になるべきなんですけどね。サルトルは軸がぶれているクセに我が強いので、いろんな人*12と対立したんだと思いますけどね。
 

*1 コトバンク《反抗的人間》の検索結果より。
*2 ということはホモ(BL)は人間の本質だったんだよ!
*3 glosbe.comより引用。ちなみにハインラインの『月は無慈悲な夜の女王(The Moon Is a Harsh Mistress)』の翻訳にはRevolte sur la Lune(月での反抗)が当てられていて、ハインラインの詩的なタイトルが台なしになっている。
*4 サルトル、メルロ=ポンティ『サルトル/メルロ=ポンティ往復書簡』(みすず書房)にそのやり取りが掲載されている。
*5 民主党が得意とする遊び
*6 マリノフスキーやレヴィ=ストロースなどが上げられる。
*7 アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』(新潮社)
*8 ロラン・バルト『テクストの快楽』が発表されたのは1972年である。これ以前の作品については作家の思想を写す鏡だと思われてきた。
*9 村上隆夫『メルロ=ポンティ』(清水書院)
*10 エッセイ『ヒロシマ・ノート』ではダブル・スタンダードで嫌いだが、大江健三郎を否定する理由には成りえない。
*11 サルトル、メルロ=ポンティ『サルトル/メルロ=ポンティ往復書簡』(みすず書房)
*12 その点、レヴィ=ストロースはすごく大人の対応ができている。


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