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経緯と内容
中国哲学『荘子』の解説書として借りました。内容は第一部では荘子という書物の成り立ち、変遷から、従来の議論を概説しています。中国国内や英仏の議論で、ドゥルーズやデリダ、スピノザなんかも登場しています。特にドゥルーズは中島さんによると荘子と親和性が高いとのことでした。また参考文献もしっかりしていて、広がりのある「解説書」でした。
荘子成立
中国の古典は編纂の歴史をたどっています。例えば列子などは複数の著者が作り上げたと言われています*1。漢代には史記で「荘周〔荘子〕の著書「十余万言」と書かれている」とされていますが、これは「たくさんの言葉」程度の意味ではないかと思うのです。五十二編の言葉が「たくさん」になるかどうかは疑問が残りますが、岩波の文庫から言ったら列子が上下巻、老子が一巻、論語が一巻、大学・中庸が合わせて一巻ということを考えると四分冊は群を抜いて多い*2。つまり、荘子はたくさんの本を書いていたことが岩波文庫の巻数からも窺えるのです。
とは言え、その性格や内容からしてみても、複数の著者が継ぎ接ぎして書き記したことは間違いないと思います。例えば、最終章「天下篇」は哲学史的な知見を盛り込むなど、明らかに独立した要素が強いですし。
荀子の場合
『荀子』は荘子を評してこう述べています。「荘子は天に蔽われて人を知らず」*3、つまり天のことしか考えてなくて人のことは扱いきれていない、と言っているのです。この点は荘子自身も解っていたようで、無用の用について述べられてる一文で、「今、子の言は大にして無用、衆の同に去つる所なり(あなたの話は大きすぎて使い道がないから、人々にそっぽを向かれるのですね(逍遙遊篇)」と書かれています。これは一種の自虐的なユーモアとも受け取れます。
もちろん、中国において天と人との関係は切っても切れないものです。儒家の代表、孟子は天と人とを繋ぎ直し、また荀子も「人」の独自領域を考えました。僕は中国哲学に明るくないのでなんとも言えませんが、ちょうどキリストがエホバの神から人を切り離したことと類似している気がしました*4。
荘子は「天」と「人」との関係をどのように考えていたんでしょうか? 楊国栄という人は『荘子の思想世界』においては他の物と「人」を区別し、人が自然の事物よりも上だと言いたのです。これは人間が自然と同じ「物」であるという道教をはじめとするアニミズムの考え方と一線を画しています。
しかし「大沢焚くとも熱らしむる能わず、河漢沍るとも寒からしむる能わず、疾雷の山を破り飄風の海を振かすとも驚かしむる能わず(大きな沢地の草むらが燃え上がっても、熱がらすことはできず、黄河や漢江の水が凍っても寒がらすことはできず、激しい雷が山をくだき、つむじ風が海をゆり動かしても、驚かすことはできない」(斉物論篇)とあるように荘子の理想像はあくまでも天、つまり自然と一体化した人です。
この辺りの行だけ読むとなんか超人めいた人物のように感じますが、「人と天は一なり」(山木篇)というように自然との一体が道教の最終目的だと考えれば理解も進むのではと思います。
儒教の場合
儒家は道徳を積んで天と一体化するとされていますが*5、荘子は「人の天」と「天の天」という二つに分類しています。人の天とは道徳法則のことで、荘子はこれを退けてるんです。天の天とは自然界の法則のことで、天空、地面、月日などについてです。これらは人間がいくら努力してもどうなることではありませんよね。例えば重力は人間がいくら努力しても変わりませんし(もちろんSF的な反重力装置があれば別ですけど)、月日の明るさも変えられません。また人の生死、老いなどもいくら頑張っても変わりません。道教の場合はこういった死の不安と向き合うための宗教だと僕は思っています。
郭象──最初の注釈者
郭象は『荘子』の最初の注釈者です。王弼や何晏は荘子を〈無〉の思想として捉え、これは現代における『荘子』解釈の基本ともなっているのですが、郭象は〈無〉を〈有〉から切り離したと中島さんは解説しています。しかし、荘子は天下篇で「常無有を以てし、これ主とするに太一を以てし(拙訳:変わらないこと・無いこと・あることについて考え、その根本原因である太一について考え)」とあるように独立した思想というよりはむしろ「常」「無」「有」が一まとまりというような印象を受けます。
しかし郭象はここで「無から物を生じさせることはできない」という考えを持ち出すのです。これはパルメニデス、ルクレティウスなどの西洋哲学独自の考えだと思っていたのですが、調べてみるとインド哲学の『ウパニシャッド』
にも見られるそうです*6。「どうやって無から有が生じえようか。まったくそうではなく、愛児よ、太初、(中略)有のみであった。唯一で第二のものはなかった」*7とあります。
しかしここで極めて素朴な疑問が湧きます。ものが発生する前の状態、つまり〈有〉以前の状態はどうであったのか? 郭象はこの疑問に自然発生的に生まれる、と苦しまぎれの答えを出しています。少なくとも僕は納得しません。世界の始まり、つまり〈私〉の始まりと僕は読み変えてしまうのですが*8、自然発生的に、つまり偶然的に生まれるとは信じられないんですよね。〈私〉は必ず存在する、それだけは疑えない。そしてそんな必然的にあるものが偶然性に頼ってるとは考えにくいんです*9
仏教と道教
さて、このブログで再三、言及していますが仏教と道教は「いかに生の苦しみから逃れられるか」という問題意識を共有しています。例えば髑髏と会話する場面ですが、荘子が旅の途中で道端に転がっていた髑髏を枕にして寝ているとその髑髏が夢に現れて荘子は聞きます。「吾れ司命をして、復た形を生じ、子の骨肉肌膚を為り、(中略)子、これを欲するかと(拙訳:司命〔の神〕に頼んで、生き返りたい?)」。髑髏は「復た人間の労を為さんや(拙訳:また人間〔の苦労〕をするの?」と答えます。この「為さんや」は言うまでもなく反語であり、「したくない」という強い意志表示なのです。
仏教の基本概念として生老病死など人生は苦しみに満ちているという世界観があります。そして解脱と呼ばれる苦しみからの解放を目指しているのです。