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日本人の阿闍世コンプレックス (中公文庫 M 167-2)

小此木啓吾

 まずは全体の話から。小此木啓吾は日本人の精神分析家です。河合隼雄がユングを日本に広めたのなら、小此木啓吾はフロイトを日本に広めました。実際、彼の師匠である小沢平作は実際にフロイトへ「罪悪感の二種」という論文を提出していますので、フロイトの孫弟子に当たります。
 さて、古沢は「罪悪感の二種」で日本人のアイデンティティ、すなわち初めは父から処罰を受ける<から>悪いことはしてはいけない──これはフロイトにも見られることなのですが──から本当に悪いことをしてしまったという罪悪感に変わると指摘しています。なお、これはカントの仮言命法、定言命法などとつながってくるのですが、フロイトはこの論文に対してあまり好評価は下していません。
 日本人の小沢と欧米人のフロイトでは基本的なところで考えが食い違っていたんでしょうね。

母への恨み

 仏教では古くから生老病死というように、この世は苦難に満ち溢れていて、生きることそのものが苦しみであるという世界観です*1。例えば愛する人と別れたり(愛別離苦)、嫌いな人と話さなきゃいけなくなったり(怨憎会苦)、感情に振り回されたり(五蘊盛苦)、欲しがっているものが手に入らなかったり(求不得苦)といった苦しみです*2。
 つまり、「どうして生まれてきたんだろう」は問いは好奇心というよりむしろ、肉迫した生そのものへの悩みなのです。そしてこの悩みは「どうして産んだんだろう?」という母への恨みになると古澤−小此木は指摘しています。幼児期は母と子は一体であるため、母親を独占しています。土居健郎は一体感を母へ求めることを甘え、と言っています*3。

成長するに連れ……

 ところが成長するに連れ、あるいは乳房から離れたその瞬間から*3、それが幻想であると解るのです。
 母への一体感が幻想であったという幻滅とともに、はげしい怨みがわく。自分が生きるため、夫への愛のためには子どもさえも棄てたり殺しかねない母。それが母の正体だったのか。
 これはインド神話*5に出てくる阿闍世王(あじゃせ)を下敷きにしているのですが、阿闍世王は仙人の生まれ変わりです。しかしそれは母親、韋提希(いだいけ)が子供欲しさの余り、殺した仙人でした。
 仙人は生前、韋提希にこう告げていました。「私が死んだら、お主の身体に入って生まれ変わろうぞ」。しかし、夫との愛が薄れていくことに不安を感じ、韋提希は仙人を殺します。その呪いで阿闍世は重い病気になってしまうのです。
 つまり、阿闍世は母親の身勝手な行動で自分に呪いを受けることとなる。しかし漢訳*6では
爾時王舍大城有一太子。名阿闍世。隨順調達惡友之教。收執父王頻婆娑羅。幽閉置於七重室内。制諸群臣一不得
 拙訳:そのとき、王舎大城〔というところ〕に一人の王子がいた。名を阿闍世といった。悪友にそそのかされ、父親である頻婆娑羅〔王〕を幽閉し、七つの鍵を掛け、家臣たちの誰も近づけなかった。
 となっており、父親にも攻撃性が向いています。なお漢文はあまり得意ではないので、誤訳などがあるかもしれません。

母系社会

 ともあれ、このようなことをしているにもかかわらず、阿闍世の母親、韋提希は献身に阿闍世を看病しています。そして阿闍世は心から悔い、母親と和解するのです。
 「わが国社会のこの種の心的な社会構造は、実はその合理主義的意識の深層において(中略)阿闍世コンプレックスのゆるし合いを基本的な規則原理としている」とあるように、このような母子の許し合いこそ日本文化の根本にあると小此木は古澤の文献を援用して、指摘しています。
 例えば中年婦人がハイジャック犯のその後の人生を心配しています。小此木はこの心理と韋提希を重ねているのです。母親の役割は「許す」ことにあると小此木含め多くの心理学者は考えています*7。母系社会の日本で母親の存在は大きいです。
 それは近代においても同じこと。例えば、母親の口から語られる父親像は、相当に日本では強い影響を持っています。
 「パパにきいてみて、もしいいとおっしゃったら……」「パパに言いつけて叱ってもらいます」「さあ、パパはなんとおっしゃるかしら……」。そして、母親は、夫の帰宅後、二人きりで、ある時は子どもたちの代弁者として(中略)またある時は、懸命に子どもたちの悪行を説明する。
 これは父親そのものよりもむしろ母親から語られる父親のイメージ(あくまでもイメージ)で全く違ってくるのです。
 「父親欠損の母子家庭を〔小此木啓吾が〕研究してみて印象的だったのは、父親がないという現実は同じでも、(中略)決定的なのは母親が父親のことをどう伝えているかである」とあるように場合によっては父親が不在でもこのような父親のイメージを作ることが、重要だと言います。この辺は凡庸な育児論に陥ってしまって、どうも好きになれなかった箇所ではあるのですが。
 でも僕の経験から見てもなんだかんだで父親像の影響は大きいです。ちなみにこれって肉親じゃなくても、父親としての役割、たとえば兄とか特定の先輩、会社の社長、上司などでも代用が聞くと思います。根拠は日本的マゾヒズムにあります。

日本的マゾヒズム

 社畜という言葉がありますが、これは日本的マゾヒズムと強く結びついてるといえるでしょう。阿闍世コンプレックスに代表されるような母親との一体感など、日本人は一体感を重視しています。
 そしてこの一体感には負の側面があります。それが日本的マゾヒズムです。冒頭で古沢の論文を引いて、二種類の罪悪感──処罰の恐怖心/本当の懺悔する気持ち──があると言いました。そして日本人は懺悔する気持ちを感じやすく、あらゆる局面でそれを背負い込むのです。
 自分はこれだけ親に迷惑を掛けてきたんだ、孝行しなくちゃという発想ならまだ健全なのですが、これを学校、会社に持ち込むと、自分は新人のときに迷惑をかけてきたのだ、恩返しをしなきゃいけない、という心の働きがあるといいます。
 どうして日本人はこのような心理になるのでしょう? 二つ原因があると僕は思っています。

1)儒教の影響:

 儒教は親子間の倫理を国家の倫理まで拡張して説いています。その根底にあるのは忠と孝にです。主君に対して忠誠を尽くし、いたわらなければいけない。そのかわりに領地を法的根拠で守る。これは鎌倉から叫ばれてきたことなのですが「私」という概念が入り込む余地はありません。
 私を主張しようものならKYとして白い目で見られます。これが鎌倉から、現代へと続く流れです。鎌倉時代以降、武士は何かあったら鎌倉に駆けつけ、その代わり所領地を保証する……。この構図は鎌倉が会社に、所領地が給料に変わっただけなのです。

2)昔話の影響:

歴史的背景で少しは納得して頂いたかもしれません。しかし学校で儒教のことを教えてもらわなかったという反論もあるでしょう。つまり歴史とわたしは完全に分断されて、何の関係もない、と。
 しかし昔話を見てみると儒教的な作品が見てとれるのです。典型的なのは桃太郎。桃太郎は父と母の恩返しのために鬼退治に行くのですが、桃太郎の父母は村落共同体のために彼を鬼退治に行かせます。
 また出会った動物たちはきび団子を与えられ、桃太郎の鬼征伐隊へ帰属していきます。つまり桃太郎というテクストは本人の意志たちの意志とは関係なく負い目、つまり自発的罪悪感を感じさせられ、最終的に村落共同体に帰属することとなるのです。
 日本におけるもっともすぐれた指導者、管理者、教師はこの種の自発的罪悪感を部下や学生に起こさせ、彼らが自分から上司や先生の思惑通りに動き、気がねから逸脱行動ができなくなってしまうような無言の支配力を獲得した人物のことである。
 その上、自分のこうむった被害については愚痴も不平も言わず、周りは自然と罪悪感を抱くのです。
 これはちょうど社畜を作り出す土壌と似てると思うんですけどね……。日本人は団結力が強く、それで高度経済成長を成し遂げたことも事実です。しかしその反面、「公私混同」どころか公私一体となってしまうのです。

*1 西洋の「不条理」についての共通点も見られる。例えばカフカの『変身』では突然、毒虫になったザムザを家族総出で追い出そうとする。しかし西洋の不条理はあくまでも理屈に合わないことであり、一貫した論理整合性をもたないことである。
*2 仏教哲学の問題意識はこれら四苦八苦をいかに受け入れるかである。
*3 土居健郎『甘えの構造』(弘文堂)。なお、甘えというとネガティブな文脈で捉えがちだが、『甘えの構造』は決して日本文化の特徴として「甘え」を分析している
*4 ジャック・ラカンによると、乳児が乳房から離れたその瞬間から万能感が消え、言葉の世界(泣き声、笑い声など)へと放り込まれるのである(斎藤環『生き延びるためのラカン』およびWikipedia「現実界・象徴界・想像界」)。
*5 仏教はインド神話を母胎としていて、後に数々の仏典に引用されることとなる。例えば親鸞の『教行信証』など。
*6 中村元、紀野一義、早島鏡正[訳]「観無量寿経」(中村元、紀野一義、早島鏡正[訳]『浄土三部経』岩波書店)。なお、漢文読解の練習のため、訳文を見ずに独自で翻訳を試みた。
*7 ユング『元型論』(紀伊國屋書店)など。