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晩年の思想 (岩波文庫 青 902-4)

概要

 位相幾何学の開拓者であり、『科学の価値』、『科学と仮説』、『科学の方法』など科学思想も残してきたポアンカレ。その作者が晩年に残した、随想集……ですが、どちらかというと科学史、数学史という側面が大きいかもしれません。
 位相幾何学はもちろん、集合論、熱力学、統計力学、そして科学者の倫理についてなど語っていますが、『晩年の思想』というタイトルの割にポアンカレ独自の観点が余り見られないような気がしました。

位相幾何学

 ポアンカレは位相幾何学で大きな功績を残しました。我々が普通習うのは、平面幾何学で、これはユークリッド以来、ずっと「信じられて」きました。しかしガウスは平行線が交わると仮定しても矛盾しない論理体系が生まれることを証明しました。例えば地球は球面なので、この理屈で行けば平行線は交わることもあります。
 しかし位相幾何学はこれらの幾何学とは全く違います。
 二個の図形がもう一方からもう一方に連続的な変形によって移ることができれば何時でも同値である。この変形も連続性にさえ抵触しなければ、その他はどんな法則でもかまわない。
 ゴムひも、針金、粘土……なんでもいいのですが、曲がる紐を思い浮かべてください。切断、接合を行なわずに変形できれば同じ形だと見なすのです。例えば、○、△、□、◇これらはみんな切断や接合を行なわなくても、変形できますので同じ形と見なします。
 一方、例えば(こういう例えをしていいのか迷いますが、他に適切な例が浮かばなかったので)、Lと○は一回、○を切らなければL字にはならないので、位相幾何学的に見ても違う形なのです。従ってOとCはよく似ていますけど、位相幾何学的に言えば違う形です。端的に言えばどこがどのように「つながり」を持っているのか調べることによって成立していると言えるのです。
 もっとも、これはポアンカレというよりはオイラーの研究に近い気がしますけど*1。

集合論

 さてポアンカレの時代は数学の集合論が台頭しますが*2、これは既存の数学が矛盾をきたしてきたためでした。例えば無限という概念について、整数、分数、小数の個数を果たして同じ「無限」にしていいのか、という疑問が生じます。
 そうした中、カントールは濃度という概念を導入するのです。そして彼は集合論を開拓していきますが、当然、いろいろな矛盾が出てきます。

ラッセルのパラドックス

 ラッセルのパラドックスとは「自分自身を要素として定義してしまうと矛盾をきたす」というものです。例えば「フランス語百語以下の文章で定義し得ない最小整数は何か。先づこの数は存在するか」という風にポアンカレは辞書の例を採っています。
 別に日本語でもいいんですけど、「フランス語百語以下の言葉での定義集」という辞書があったとします。国語辞典みたいなものですが、その語数が限られている辞典です。
 さて、その場合、辞書の収録語は当然、有限個です。中には定義されない言葉もあるでしょう
 一方、この「フランス語百語以下の言葉での定義集」というタイトルを付けるとなると百語以下という定義に違反するそうです。この文章、僕もよく飲み込めていないのですが、おそらくは「自分自身を引用していないような本全てを一覧にした(引用した)本Xを作ることを考える。このときXはXを引用するのか?」*3という問題だと思われます。
 もし引用しない場合、「全ての本を一覧にする」という方針に違反します。一方、引用する場合、「自分自身を引用していない本」というタイトルに違反します。つまりどちらにも違反してしまう、というわけです。
 この原因をポアンカレは「その含む対象の定義のうちに自分自身の概念が入り込んでいるような集合を打えたから」だといいます。つまり、「全ての本を一覧にする」という方針にそもそも無理が合ったのです。

熱力学

 熱は何によって生み出されるんでしょう? 19世紀の自然科学者、カルノーはまだ熱素という考え方が一般的だった時代に早くも熱力学第二法則を導いているのです*4。これには様々な言い方があるのですが、クラウジウスの言い方「低温の熱源から高温の熱源に正の熱を移す際に、他に何の変化もおこさないようにすることはできない」*5が解りやすいので、これを採用します。まだ解りにくいですが、物を冷やすには必ず何かの形でエネルギーを与えなければいけない、という法則です。
 原文は、「熱の動力は、それをとりだすために使われる作業物質にはよらない。その量は、熱素が最終的に移行しあう二つの物体の温度だけで決まる」というもので、熱素という言葉が使われています。しかし熱素をエネルギーに読み替えれば、そのまま熱力学の第二法則になります。
 また、このころ、クラウジウスやケルヴィンなどが登場。熱力学が盛んな時期でもあったのですが、気体が分子による運動だというボルツマンの主張は1877年の段階ではまだ受け入れられておらず*6、1905年、アインシュタインがブラウン運動を研究したによりようやく一応の決着を見せます*7。
 しかし、原子は目に見えないから存在しないというマッハの批判は1913年まで続きます*8。ポアンカレが『晩年の思想』を書いたのが1912年ですからほぼ同時期まで原子論反対派と原子論肯定派がいたことになります。しかも原子の乱雑さを統計的に・確率論的に処理するという方法をポアンカレは紹介しています。マッハによる原子論批判はすでに時代遅れになっていたのです。

科学と倫理

 さて、倫理と科学、倫理の統合という章は科学史とは離れた随筆になっています。ポアンカレは「誰だったかよく覚えていないがある有名な論者」が言った「科学は天の光を消そうとしている」という「科学者のしたいままにさせておけば間もなく倫理はなくなってしまうだろう」という危惧*9に対してこう答えています。
 科学的倫理というものは存在し得ない、しかし倫理に反する科学というものもやはり存在し得ない。(中略)
 若し三段論法の前提が二つが二つとも直接法なら、結論は同じく直接法である。結論が命令法に置かれるためには前提のうち少くとも一つが命令法でなくてはならないからである。所で、科学の原理や幾何学の公準は直接法であって、それ以外ではあり得ない。
 我々の「これを為せ、或いはそれを行うな」という行動規範は命令法です。人を殺すな、とかね。ところがこの命令法は当然ながら、論理や事実をいくら積み重ねても、どこかで命令法をはさまない限り、命令法には成り得ないとポアンカレは考えています。
 しかし今はどうなんでしょうか。善を行う時の脳神経の電気信号を調べて、この電気信号が走れば「善」だと認識するという研究はできそうな気がしますけど。あるいは実験心理学的なアプローチもあるでしょうね。
 もちろんだからといって善を行えという命令にはなりませんが、科学がどこまで口を挟めるのか線を引いてます。つまり科学万能主義という立場ではないのです。
 科学の倫理について「広い意味に解して、それを理解しそれを愛好する師に教えられれば徳育に於いて甚だ有用な甚だ重要な役割を演ずることが出来る」一方「これのみに役割を与えて他を排斥しようと欲することは誤りであろう」と結論づけています。

*1 オイラーはどういう時に一筆書きが成立するか、という研究をしている。これも「つながり」に注目した点において位相幾何学の嚆矢といえるものかもしれない。
*2 Wikipedia「カントール
*3 高校数学の美しい物語
*4 Wikipedia「ニコラ・レオナール・サディ・カルノー
*5 Wikipedia「熱力学第二法則
*6 Wikipedia「気体分子運動論
*7 同上
*8 同上
*9 おそらくジョン・キーツかゲーテであろう。


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