ラカンの思想―現代フランス思想入門 (叢書・ウニベルシタス)

概要

 精神科医で自罰パラノイア、精神分裂病などの多くの講演(セミネール)を行なったジャック・ラカン。彼は聴講していた多くの哲学者に影響を与えた。ヘーゲル研究家、ジャン・イポリットなど。また現代思想の旗手、ジャック・デリダなども『エクリチュールと差異』という論文を書き、ラカンの「手紙」という概念について反論を試みている。
 本作では、コジェーヴの講義などがラカンの思想形成にどう影響していったのかを探る。

現代フランス思想入門

 現代フランス思想というサブタイトルですし、ミケル・ボルク=ヤコブセンも「専門知識も持たずフランス現代思想の論争を余り知らない一般人向けである」と書かれていて、図書館から借りてきたのですが、これは一般向けではないでしょう、と。

アレクサンドル・コジェーヴ

 さて、ジャック・ラカンはコジェーヴの講義を聴講しています*1。コジェーヴは寡作ながらも、ヘーゲル解釈に関してフランス現代思想に多大な影響を与えました。ジャック・ラカンのみならず、ジョルジュ・バタイユ、ロジェ・カイヨワ、メルロ=ポンティ、アンドレ・ブルトンなどがいました。

自罰パラノイアについて

 エメというパラノイア患者が女優Zに切りかかるという事件についての論考で、ラカンは精神科医としてのキャリアをスタートさせます。エメは文学者になろうと、原稿を出版者に持ち込みます。しかし次々と不採用。女優Zが出版社と結託して、出版を阻止しようと言う妄想を抱くようになります。
 このようにして女優Zに切りかかるのですが、この傷害事件の後、彼女の妄想は劇的に改善していきます*2。

ラカンの分析

 これは「エメ自ら自身がそうありたいと思っていた人物であ」り、ラカンは下記のように語っています。
その迫害者は有名で、(中略)贅沢な暮らしをしている女性の典型である。そうした生活や計略をまた彼女がそのせいにしている堕落を激しく非難しているとすれば、強調せねばならないのは、患者の態度のアンビヴァレンスである。なぜなら、後に見るように、小説家になって贅沢な生活をし世間に影響を及ぼしたいと、彼女もまた望んでいるからである
 一言でいえば嫉妬なのですが、エメの嫉妬を分析すると、「自分自身がそうありたいと思うもの」です。つまり、自分がそうありたいと思っている人物を傷つけているので、ある種の自罰感情ともいえるのです*2。これをラカンは自罰パラノイアと名づけました。
 ラカンはフロイトの精神分析を下敷きにしていますので、この分析もフロイトを引きついでいます。フロイトは『ナルシシズム入門』*3において、「自我理想」という概念を現していますが、ラカンはこれを社会的理想と解しているのです。

自我理想

 フロイトは『ナルシシズム入門』で自分がその「自我理想」と一緒になりたいという、「エロティック」な感情を見出しているのですが、ラカンは──より厳密に言えばミケル・ボルク=ヤコブソンのラカン解釈によれば──社会性をともなった気持ちです。

ヘーゲルの「フロイト的」解釈

 冒頭にも書きましたが、ラカンはコジェーヴの講義に参加していました。そこではヘーゲルの『精神現象学』について勉強していましたが、ラカンはそのことを精神分析の延長線として解釈したのです。

ヘーゲルの考える欲望

 ヘーゲルは欲望という概念を「精神現象学」*4において用いています。ヘーゲルは動物的欲望と、人間的欲望に分けて考えました。動物は物を食べたら、対象は消えてなくなり欲望は消滅します。これに対し人間的欲望は自己意識と言って自分に向かうものもあります。当然のことながら、愛されたいという欲望は「愛さている自分が欲しい」という欲望です。

対象a

 のちにラカンは対象aという概念を展開するのですが、これ「小文字の他者」とも呼ばれ、「失われた対象」です。例えば、ラカンが例示しているものの一つに、乳房が挙げられます。例えば母親は赤ん坊におっぱいを与えますが、いつも授乳しているわけにもいきませんし、いつかは乳離れしなくてはいけません。
 このように居心地がいい状態から、居心地の悪い状態に移行していくのですが、居心地がいい状態は当然、自分に全ての関心が向いている状態です。乳房だけじゃなく愛情という抽象的、象徴的なものも例外ではありません。

コジェーヴとの関係

 この対象aという考えは、幼児期の精神分析研究家、ドナルド・ウィニコットの考えを下敷きに作られています。しかし、コジェーヴの影響もあるのでは、と思いました。現に、ミケル・ボルク=ヤコブセンはこう指摘しています。
 欲望の対象は想像的なものではないのと同様に、現実的なもの(reel)でもない(中略)。それは決定的に失われたものとしでしかあり得ない。このことはラカンがコジェーヴを基盤にして捉え直す欲望のていぎそのものからも帰結することだ。
 もちろん「動物的欲望」で言えば赤ちゃんはおっぱいを吸えば満足するのですが、「人間的欲望」で言えば赤ちゃんは自分に乳房、つまり愛情を与えて欲しい、声を掛けて欲しい……。そういったものが対象aを形成していくのです。

自我について

 リビドーは性欲と混同されることが多いですが、名誉、お金などの女性を引きつけるもの全てを言います。より厳密に言えば、リビドーが変換されて名誉欲、金銭欲になってくるのです。このようにいうと様々な型がリビドーと関係づけられていると思われるかもしれません。
 しかしラカンは全て自己意識に向いているという立場で考えています。したがって弁証法的発展である、と述べています。ラカンには鏡像段階という概念もあります。「他人は自分の鏡」とはよく言ったもので、この概念は内面は自分から見られるものではなく、他人を通じてのみ自分を見ることができるのです。
 一方、ヘーゲルは反省という概念を通して、体と心の関係について考えようとしました。経験を反省することは誰でもあるのですが、「自分でもよく解らない」ことをしてしまったということがあると思います。この感覚は反省によって生み出されている、とヘーゲルは考えているのです。
 「反省」という言葉自体、まずもって、鏡、つまりそ、その出発点に光を差し戻しあるいは向きを返る(re-frecture)この魅惑的な表面について言われるべきではないのか。
 ラカンは下敷きとしてヘーゲルの「反省」という概念を使っているのではないかと、ミケル・ボルク=ヤコブセンは指摘しています。

ハイデガーの現存在

 しかしコジェーヴの考えている自己意識とは自己に関する意識ではなくハイデガーの現存在ではないかと指摘しています。ヘーゲルは自己意識を「自己に関する意識」という意味で用いているのですが、「コジェーヴがここで「自己意識」と読んでいるもの(中略)とは実際には、自己(un soi)に関する意識とは別のものであ」り、「ハイデガーの現存在の「自己性」に遠くない脱立」だと述べています
 現存在というとこ難しくなりますが、要するに<今、ある>ということです。そもそも現存在のもとのda-sein自体、ドイツ語では日常会話で使われている言葉です。現存在を考えようと思った動機として、序文に普段、何気なく使っているが、どういう意味なのか改めて検討することにしたと書いてあります*5。
 ハイデガーに共感を示すかのように、後のラカンはハイデガーに言及するようになるのです。



*1 なお、この講演に使われた教科書は翻訳されている(アレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル「精神現象学」読解入門』(国文社)
*2 ジャック・ラカン『二人であることの病い』(講談社)、新宮一成『ラカンの精神分析』。
*3 ジグムント・フロイト『エロス論集』(ちくま書房)
*4 ヘーゲル『世界の大思想12 精神現象学』(河出書房)
*5 ハイデガー『存在と時間(一)』(岩波書店)




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