それでも人生にイエスと言う

生きる意味について

 人生に意味はあるのでしょうか。この問いこそ、哲学の実存主義に関わる大きなテーマであり、現代でも悩む人が多いのではないでしょうか。例えば、尾崎豊の「17歳の地図」でも「何のために生さてるのか解らなくなるよ」というフレーズが出てきます。
 フランクルの『それでも人生にイエスと言う』は生きる意味についての示唆を与えてくれます。しかし生きる意味についての明確な答えは提示されていません。それどころか読者一人一人が自分で考えるように求めているのです。

フランクルについて

 僕は基本的にどんな人が言ったかよりも書いてある内容を重視します。もし真実なら誰が言っても変わらないと考えているからです。また過度に内容と作者を結びつけすぎると偏見や固定観念から正しく読み解けない場合もあります。しかし『それでも人生にイエスと言う』は著者の生涯と思想内容が密接に関わって、著者の経歴を紹介しなければいけません。
 ユダヤ人精神科医、フランクルはナチスドイツによりテレージエンシュタット強制収容所へ収容されます*1。この収容所はユダヤ人の中でも比較的緩やかなほうだったのですが*2、のちにアウシュビッツ強制収容所へと移送されます。アウシュビッツは絶滅収容所の一種で、ユダヤ人を殺すために作られた収容所です。
 もちろん一般労働者として。強制収容所はもちろん衣食住が保障されていないどころか、労働力にならないと判断したらガス室で殺されてしまいます。
 そんな極限状態でも囚人たちの中には生き抜いた人もいるのです。フランクルも生存者の一人で、三回に渡る講演録をまとめたものです。

思想的背景

 ナチスと関わった哲学者と共通しているのは皮肉です。ニーチェは妹が勝手に編纂して、ナチスに献上しただけなのでまだ救いがありますが……。

ニーチェ

 『それでも人生にイエスと言う』というタイトルは冒頭に掲げられている歌かと思いきや、ニーチェが出典とのこと。フランクルがニーチェを読んでいたことは、『それでも人生にイエスと言う』で言及している点から見ても間違いないようです。
 ニーチェもまた、「神は死んだ」という言葉で端的に言い表されているように既存の価値観は形骸化したものと捉えました*3。そして既存の価値観に縛られず、自分の価値観で行動するようになるだろうと予見したのです。
 価値観を人生の意味と読み替えれば、フランクルの思想に酷似しますよね。

ハイデガー

 さらに皮肉なことですが*4、ハイデガーの思想とも似た部分があります。フランクルは下記のように述べています。
 私たちは死ぬ存在です(中略)。こうした事実だけのおかげで、そもそも、何かをやってみようと思ったり、(中略)。死とは、そういったことをするように強いるものなのです。
 ハイデガーもまた自分が死ぬという自覚を持てば、生を直視できると考えました。人間(ダス・マン)は自分の死をぼんやりとしか見ていません。日常の些事に埋没させ、死と真剣に向き合おうとしない人。そんな人たちのことをダス・マンといい、頽廃しているとしてハイデガーは非難したのです*5。

生きる意味について

 僕たちは普段、生きる意味はあるのか、という設問を立てがちです。しかし、フランクルはその問いそのものが間違っているのだと指摘します。
人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければいけない存在なのです。
 つまり、我々は人生や世界に意味を問うのではなく、意味を積極的に見出し、答えなければならないのだといいます。フランクルたちは強制収容所で明日、「選別」されガス室に送られるかもしれない状況でした。こんな状況なら自殺を考えるのも自然で、実際、多くのユダヤ人が高圧電流の流れる鉄条網に飛び込んで自殺しようとしたそうです。
 しかしフランクルは科学者と商人の自殺を思いとどまらせることに成功しています。収容所から出られたら何をしたいですか、という問いかけによって。科学者は研究を続けたい、商人は娘に会いたいという希望が湧いて出たのです*6。
 人生に対する見方を一八○度変える、とフランクルは述べています。あるいは天動説と地動説になぞらえてコペルニクス的転回とも。この主張は一見「何のために生きてるんだろう」という問いではなく、人生の意味を進んで考える存在だというものです。

体験価値

 ところでフランクルは何に意味を見出すかを三つに分類しています。その一つが体験価値。素晴らしい音楽を、『それでも人生にイエスと言う』では例示しています。他にも『夜と霧』*7ではアウシュビッツで一日の仕事を終えて、夕日の美しさに感動するというエピソードが取り上げられています。
 ある夕べ、(中略)突然、仲間がとびこんで、疲れていようが寒かろうが、とにかく点呼場に出てこい、と急きたてた。太陽が沈んでいくさまを見過ごさせまいという。ただそれだけのために。
 この夕日、この音楽、この絵画を聞くために生まれてきたのだ、という体験は生きる糧となります。
 別に芸術や自然を鑑賞するだけが体験価値ではありません。恋愛や親孝行など、愛を経験することも立派な体験価値なのです。

創造価値

 何か芸術作品を創り出す意欲が生きる糧となるケース。解説によれば、フランクルはゲーテの『ファウスト』を引き合いに出して、説明している本があるそうです*8。
 つい先日、歴史秘話ヒストリアで葛飾北斎の一生が取り上げられていました*9。六十歳で脳梗塞を患うなど、苦難に満ちた人生でした。しかし北斎はバイタリティに溢れ、八十四歳で江戸から絵の依頼を受けに小布施まで行っています。

態度価値

 しかしアウシュビッツ強制収容では、創造価値はもちろん体験価値も極めて限定的でした。自由に音楽も聞けなければ、絵を見ることもできません。
 そんなときでも生きる希望を捨てなかったのは、態度価値です。フランクルは態度価値について下記の通りに語っています。
 自分の可能性が制約されているということが、どうしようもない運命であり、避けられず逃れられない事実であっても、その事実にどう適用し、その事実に対してどうふるまうか(中略)に生きる意味を見出すことができるのです。
 例えば交通事故で半身不随になっても、生きる目標がはっきりしていれば絶望しないのです。現にフランクルは壊死で片脚をなくした法律家を引き合いに出しています。
 でもフランクルの実例は時代柄、おおげさであまり実感が湧かないかもしれません。そんな時は、小さな目標を掲げてみて下さい。もちろん目標は高いに越したことはないのですが、太宰治の「葉」という小説にこんなくだりがあります。
死のうと思っていた。 今年の正月、よそから着物一反もらった。 お年玉としてである。着物の布地は麻であった。 鼠色の細かい縞目が織り込まれていた。これは夏に着る着物であろう。 夏まで生きていようと思った。
 この程度でいいのだと僕は思っています。

何かを生み出すこと

 フランクルは「人生はそれ自体意味があるわけですから、どんな状況でも人生にイエスと言う意味があ」るのだ主張します。クリエーターは、どんなにネガティブなことでも貪欲に吸収します。実体験で得た感情こそが生の体験であり、創作に一番使いやすいのは言うまでもありません。しかしここで一つの逆説が発生します。つまり多くの場合、創作のために体験しようとするのではなく(もちろんそういう場合もありますが)、体験をもとに考えてきたことを創作として打ち出すのです。私小説やエッセイに限らず、フィクションについても。
 ところで誰もが自分の物語を作りたいと、僕は思っています。作るという意味ですが、実際に書かなくても、内面に留めておいても構いません。その根拠となっているのがナラティブセラピー*10です。
 フランクルはフロイトの意見に反発していますし、確かに快感原則では上手く行かないように見えます。しかし自分の物語を作ることは快感をもたらします*11。
 ところで僕は創作活動を、しかも物語を書いているのでよく分かるのですが、まずどんな結末にするかを考えます。もっともこれは僕が推理小説という特殊な分野を書いていることも影響しているのかもしれませんが。
 結末が見えないと、必ず途中で創作意欲を失います。人生という物語の結末をどう描くか、ということにも関わってくるかと僕は思いました。

*1 Wikipedia「ヴィクトール・フランクル
*2 Wikipedia「テレージエンシュタット
*3 フリードリヒ・ニーチェ『悦ばしき知識』(筑摩書房)
*4 ハイデガーはナチスドイツへ積極的に加担した(Wikipedia「マルティン・ハイデガー」)。
*5 Wikipedia「ダス・マン
*6 ヴィクトール・フランクル『夜と霧』(みすず書房)
*7 同文献
*8 山田邦夫「解説 フランクルの実存思想」(ヴィクトール・フランクル『それでも人生にイエスと言う>』春秋社)
*9 NHK『歴史秘話ヒストリア』(2017年9月17日20時放送)
*10 Wikipedia「ナラティブ・セラピー
*11 「Twitterで「自分語り」をしたくなる理由──脳が喜びを感じるから」(ITmedia 2012年05月10日付 2017年9月17日閲覧)


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