理性・真理・歴史―内在的実在論の展開 (叢書・ウニベルシタス)

概要

 これまでの哲学はどのような考えで真偽を判定してきたのだろうか。主に分析哲学の流れを辿りながら、哲学の諸問題を解き明かしていく。序盤では有名な水槽の脳の思考実験が出てくる。そして、指示とは何かという問題、内在主義/外在主義のそれぞれの議論の整理などをしていく。
 科学、論理学、哲学の、そして知性のありかたを問い直す。

分析哲学とは

 分析哲学とは哲学の方法の一つで、現代の主流です*1。数学的なアプローチをしていくことで、確実に真偽を判定していこうという試み。ここで一つ断って置かなければいけないのは、数学の問題は単なる計算技法の習得でありません。それどころか数学の方法を身につければ問題を解決するのに役立ちます。「偶数は全て4の倍数である」この命題と浮気の証拠探しは同じロジックが適用できます。「偶数は全て4の倍数である」ということを否定するなら、6、10、12……などを反証を一つ挙げればいいですよね。
 試しに一問。恋人が異性と二人で笑いながら話していたとします。さて、この現場を見ただけで、浮気していると決めつけていいのでしょうか。
 答えはNO。兄弟かもしれません。数学とは一見、何の関係もないように思うかもしれませんが、必要条件、十分条件の話と関わってくるのです。もちろん「誰だって浮気を疑うに決まってるでしょ。みんなもそう思ってたし」と言うのは(感情的な問題はともかく)、「偽」です。少なくとも「私は浮気を疑い、わたしの友達AさんとBさんとCさんはどれも浮気だと言っていた」が「真」。ここで注意して欲しいのは、言っていたということ。他者の内面は証明できないのですから、言っていたという他はないのです。
 もしかしたら内面では「兄かもしれない」と思っていたとしてもその場の雰囲気や力関係などで、同意しているだけのかもしれません。そしてそれは第三者からでは区別できません。
 これを極端な例にしたのが、チューリングテスト*2。よく、ツイッターで会話ができるbotがありますが、精巧にできていて人間と見分けがつかなかったら、それは人間と会話しているとみなしていいのではないか、と。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』*3というSF小説ではこの問題を取り上げています。
 このように考えていけば、哲学の問題は大袈裟にしただけで現実の問題と密接に関わっていることが解りますよね。そして厳密に考えていって、どこまでがグレーゾーンとして線引をしなければいけないのか考えるための学問だと僕は思っています。

水槽の脳

 数学的思考が現実と結びついていると解っていただけたところで本題。
 水槽の脳は有名な思考実験です。培養液に脳だけを入れて、科学者が幻覚をコンピュータが見せています。その状況でその脳が「培養液に浸かっている」という言説を言ったら、それは真だと判定可能でしょうか。
 それは日常生活において、僕たちが「培養液に浸かっている脳だ」と言うのと(表面的には)全く変わりません。明らかに間違いですが、デカルトのような懐疑主義的な世界観を示しているわけではありません*4。もしそのようなSF的な状況に置かれたら、真であるにも関わらず真だとは言えない理由について考えているんです*5。
 そしてその理由については、下記のように書かれています。
その可能世界の人々は、われわれが考えることや言うことができるどの語も、考えることや「言う」ことができるにもかかわらず、われわれが指示できるものを指示することができない(と私は主張する)のだ。彼らは、自分が水槽の中の脳であるとも考えたり言ったりできない(「われわれは水槽の中の脳である」と考えることによってさえもできない)のだ。
 例えば、僕たちは「目の前には本がある」「我が家は猫を二匹買っている」という命題は真偽が判定可能です。他にも先に上げた「恋人が異性と二人で歩いていました」云々もそうですね。
 そしてこれは本、猫というものが物理的な実態を持っている。いわば指示可能なものだからです。こうした物の名前を知ることで心の中では自由に思い浮かべて真偽判定することができるのです。めでたしめでたし……とはならない、とパトナムは批判します。
 そしてその例としてあげられているのが水槽の脳。水槽の脳で重要なのは僕たちが「培養液に浸かっている脳だ」という言葉の意味が解るにもかかわらず、そして情景を想像することができるにも関わらず、真偽判定ができない点にあります。

外在主義、内在主義

 外在主義と内在主義についての区別は多分、小説に置き換えたほうがわかりやすいのではないかと思います。つまり、外在主義は三人称複数視点、内在主義は一人称視点です(ただしこの場合は培養液の脳が視点人物になります)。
 内在主義に立てば、水槽の脳はすぐに斥けられます。さて視点人物は「私は培養液につけられた脳で、現実世界として認知していてもそれは幻である」という地の文があった場合、違和感がありますよね。だって、私がその事実を知る術はないんですから。つまり、内在主義とは知覚が主体の中にあるという立場。ちなみに僕は内在主義に大きく賛同しています。
 視覚障害者にとって、赤という色は認知し得えませんので、その人にとっては「赤」などの観念は存在しないのです。
 外在主義は、全知の神を仮定する立場。つまり、「彼女は培養液につけられた脳で、現実世界として認知していてもそれは幻である」。これなら別に違和感はありませんよね。
 内在主義を取るか、外在主義を取るかと言う問題は古くからあり、プラトン−アリストテレスにまで遡ります*6。そしてこの流れがデカルト、ライプニッツを経て、カント『純粋理性批判』*7で一回、統合されるという流れです。

フーコー

 この本を分析哲学だけの歴史を扱っていたのだと思っていたら、フランス現代思想についても書かれていて好感が持てました。もっとも全面的に評価しているわけではなく「知の考古学」については皮肉めいた注釈がつけられてますが、大筋として相対主義の批判です。
 フランス現代思想の特徴はパトナムが指摘するように「深遠な精神的および道徳的な洞察とみなすものの下には、権力志向、経済的利害、そして自己本位の幻想」がみられることです。つまり、理性、道徳の源泉はには権力欲・金銭欲・自己顕示欲だったのです。つまりは非合理的なもの。
 パトナムはフーコーの主張を「われわれの今現在抱いている信念が合理的でないのは〈王権神授説〉への中世的な信念と同様なのだ、ということである」とまとめています。
 〈王権神授説〉は今でこそ否定されていますが、古代から中世にかけては信じられてきました。それは愚かだからではありません。合理的だったのです。

フランス現代思想

 ユダヤ人たちがモーセを受け入れたのは「現実の宗教的、文化的、国家的な必要を満たしたからで」、文化が違えば同じ「合理性」と言う言葉で示すものも違うのです。レヴィ=ストロースも確かに相対主義を主張してきましたが、フランス現代思想の悩ましいところはヨーロッパの歴史的の中でも「理性」の定義が変化していること。
 どうしてパトナムはフーコーの主張を検討したのでしょう。原注にはラカン、アルチュセールの名前も記され、フランス現代思想を読んでいたことが解ります。フーコーとパトナムの最終目標が似ていたからに他なりません。パトナムは『理性・真理・歴史』を通して二元論的な考えを否定しています。そして相対主義か客観主義かもその一つです。
 かつて「人間は万物の尺度である」*8とプロタゴラスは述べていました。プラトン(ソクラテス)はプロタゴラスの友人を抱き込んでまで、説得しようとするのですが*9、これには相応の理由がありました。プラトンの問題意識は政治運営。 舌先三寸で丸め込むソフィストたちに対して論戦を挑んていったのです(ソクラテスが言ったように、プラトンは書いていますが、実質プラトンの主張です)。実際、古代ギリシャでは衆愚政治に陥ってしまいました*10。
 パトナムはプロタゴラスに言及して、「雪が白い」も主観的なものとするなら「私は雪が白い、と思う」どころか「私は、私は、私は、私は、……雪は白いと思う、と思う、と思う、と思う」とエンドレスに続くので無意味な分だと指摘しています
 しかしながら、プロタゴラス批判は相対主義を許すと衆愚政治に陥ってしまうことを危惧していたのではないでしょうか。

デューイ

 デューイは真理を「人々にとってより好ましく信じられるもの」だと考える道具主義の提唱者で、アメリカ人の価値観を言い表していると言えます。例えば「コンピューターはいまや切っても切れないからプログラミングを勉強する」という判断を「真」だということにしましょうという話。
 これはコンピュータの普及率、システムエンジニアの年収などを調べれば客観的な指標を割り出すことができます。それでは次の事例はどうでしょうか。
 「ユダヤ人は金融界を握っていて、われわれドイツ人が苦しいのは彼らのせいである。ゆえに彼らを追い出すべきである」。合理化されたナチ党員と、パトナム自身が名付けた事例は、道具主義の観点に従えば(少なくともドイツ人にしてみれば)「人々にとってより好ましく信じられるもの」ですので、真になってしまうのです!
 ではどうしてこのような混乱が起きてしまうのでしょうか。「がっかりさせるような単純な二分法」だとした上で手段と目的を混同してしまっているのだ、と指摘しています。


*1 Wikipedia「分析哲学
*2 Wikipedia「チューリング・テスト」。なおチューリングは思考実験として考えていたが、近年では実際に行なわれている(AFP通信「露スパコンに「知性」、史上初のチューリングテスト合格」)。
*3 フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(東京創元社) 
*4 デカルト『省察』では神の存在証明をするために用いている(ルネ・デカルト「省察」『世界の大思想〈7〉方法序説/省察/哲学の原理』河出書房新社)
*5 戸田山和久『知識の哲学』(産業図書)
*6 プラトン「国家」(『世界の大思想〈1〉 国家/ソクラテスの弁明/クリトン」河出書房新車)およびアリストテレス「デ・アニマ<霊魂について>」(『世界の大思想〈2〉 ニコマコス倫理学/デ・アニマ(霊魂について)/詩学』河出書房新社)
*7 イマヌエル・カント『世界の大思想〈10〉純粋理性批判
*8 プラトン『プロタゴラス』(岩波書店)
*9 プラトン『テアイテトス』(岩波書店)
*10 Wikipedia「衆愚政治」。
*11 Wikipedia「ジョン・デューイ
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